晩冬――思い出デートのこと

「えー、では、当クラスの壮行会への提出案は演劇ということで、異議はありませんか?」
 返ってきたのは沈黙だけという冷たい反応に冷や汗をかきながら、暫定クラス担任の講師は「ではそういうことで……」などと言いながら退出した。
 みっともねぇの、とこっそり呟く。そういう冷たい感想を抱くのはよくない、相手が傷つくとわかっていても、ついついスィアスと比べてしまう。
 スィアスは実際、優秀な教官だった。知識や技術のみならず、指導力も高かった。厳しかったけれども、生徒たちの行動には寛容で、けれど締めるところは締める毅然としたところがあって。
 そういう生徒たちの顔色を窺わないのに優しいところは、アリーゼのみならず生徒たちからも人気があった。スィアスは本当に、優秀な教官だったのだ。
 ナップは頭を振った。考えるの、やめよう――スィアス教官はもういないのだから。もう二度と彼に教わることはできないのだから。
 窓の外を見た。暖かい日の光が地面に降り注いでいる。もうすぐ春なのだ。
 ナップたち四人は最高学年にまで飛び級できることがほぼ内定していた。軍学校の不祥事を解決したということもいい方向に働いているのだろう。あとは試験で変な点を取らなければいい。
 また一歩先生のところへ戻れる日が近づいているというのに。なぜかナップの心は晴れず、心浮き立つ春はまだ遠かった。

「―――ナップ」
「え?」
 うわずったような声をかけられて、ナップは振り向き、笑顔になった。そこに立っていたのはアーガン・モルイード――今年の春からずっと親しくさせてもらっている先輩だったからだ。
「なんだ、アーガン先輩。どしたの? なんか用?」
「ナップ……あのな、あの……」
 あのあの、と何度も口ごもり、それから顔を真っ赤にして、きっと凄まじい形相でこちらを睨むように見つめ怒鳴った。
「次の休日、街の公園噴水前で待ってるから!」
「は?」
「じゃ、じゃあっ!」
 その気になれば渋い響きを帯びる低い声を裏返らせてアーガンは叫び、それから真っ赤になった顔を押さえてだっと走り去った。
「……なにあれ?」
 隣にいたウィルたちに訊ねると、ウィルたちは揃って肩をすくめた。
「デートに誘ってるつもりなんじゃないのか」
「え……えぇ!? なんでだよっ!? 俺まだ返事してないぜ!?」
「居場所はわかってるんだから断りたければ断ればいいじゃないの。……まぁ、あの人なりに勇気を振り絞ったんだと思うといくぶん哀れではあるけどね」
「哀れって……」
「……もうすぐ卒業、だから。アーガン先輩、思い出を作りたかったんじゃないかな」
「え……」
 ナップは、小さく口を開けた。
 そうだ――春が近づいているということは、最高学年の先輩たちが卒業する時が近づいているということなのだ。
 気づかなかった。わからなかった。先輩たちのことを忘れていたわけじゃないのに、自分の思いに浸りきって周りが見えていなかった。
 ナップは思わず、ぎゅっと胸のところで手を握り締めた。先輩たちも――もう、二度と会えなくなっちゃうんだ。

「ナーップv」
「うわっ!」
 するりと抱きつかれてナップは半ば反射的にばたばたと暴れた。抱きついた人間がくすくす笑いながらするりと離れるのを確認してから、ナップは深く息をついて相手を睨む。
「ジーク先輩……なんか用?」
 アーガンと同様、親しくしている最高学年の先輩ジーク。天使のような見た目に反し、すぐ自分をからかってくる遊び人だ。
 ジークはその整いすぎるほど整った顔に優雅な笑みを浮かべ、言った。
「ナップ、次の休日、デートしようぜ」
「は?」
 ナップは思わず顔をしかめる。
「……ジーク先輩、また俺のことからかってんの?」
「心外だな。どうしてそう思うんだい?」
「だってジーク先輩ここ半年ぐらいそーいうこと言い出さなかったじゃん。俺にちょっかいかけんの飽きたんじゃないかって思ってたんだけど」
「あらら……俺って信用されてないなー」
 苦笑するジークを、ナップはじーっと見つめる。ジークの真意が知りたかった。別にジークを信用していないわけではないが、油断ならない人だとは思っているのだ。
 ジークは苦笑を深くして、困ったように肩をすくめた。
「本当に単なるデートの誘いだよ。卒業前の思い出作りってやつ。君が嫌なら無理強いはできないけど、できればつきあってくれると嬉しいな」
「…………」
 ジークの言葉に、ナップの胸はずきりと疼いた。ジークにはこの一年、世話もかけられたがこちらからも世話をかけた。――その人が卒業してしまうというのに、なにもあげられないのは寂しい。
「……いい、けど。でも、別の日になんねぇ? 次の休日って、アーガン先輩からもデートに誘われてるんだけど」
「げ。マジ? まっさか俺があいつに後れを取るとはなー……」
 しばしジークは唸りつつ考え、やがてにこっと笑って(そういう風に笑うとジークは本当にきれいな顔立ちをしていることがよくわかる)うなずいた。
「いいよ、どうせアーガンのデートだったら陽の落ちる前にお別れする健全デートだろ? 俺はできればそのあとの時間をもらいたいな。一日歩き回ったくらいで疲れるほどやわじゃないだろ?」
「……! 言っとくけどっ、やらしいこととかはしないからな!」
 ナップが真剣な顔でそう言うと、ジークはぷっと吹き出した。
「ぷはっ、なにもそんな真剣に言わなくてもいいのに。ほんっとに、経験積んでんだか積んでないんだか」
「ばっ、馬鹿にすんなよ!」
「してないしてない。……で、時間としてはいいの? やらしーことしなかったら」
「……いい、けど」
 そうぼそぼそと答えると、ジークはにっと笑い、すっ、と手からなにやら品のいいカードをナップの手の中に滑り込ませた。
「……なに、これ?」
「約束のしるし。君が俺のことをこれを見るたびに思い出すようにね」
「なっ、なに言って……」
「じゃあ、約束だからな。アーガンとのデートが終わった頃、君を連れ去りに現れるよ」
「あのなーっ!」
「あはは、じゃ、そういうことで」
 ジークは笑顔で手を振って、鼻歌を歌いながら去っていく。ナップは、なんだかひどく胸を騒がせながら、その後姿を見送った。
 カードを見る。どこかのレストランかなにかの記念カードのように見えた。すらすらと、ジークならではの達筆で文章が書いてある。
『海に舞う風』年間食事券
 確かパスティスで一番有名なレストランだ。困惑しながら視線を下ろしていくと、その下の文章も目に入る。
可愛いナップへ、愛をこめて
「…………」
 ナップは困惑と羞恥に顔をしかめながら、ため息をついた。あの人って、ホントにわからない。

 アーガンはいつ待ち合わせか言わなかったので、時間をユーリに聞いてきてもらって(自分で聞きにいくのはきっと先輩が恥ずかしがるだろうとナップなりに気を遣ったのだ)。
 ナップはまだ昼まで一刻半はある時間に、公園噴水前に向かった。
 待ち合わせの時間よりちょっと早いくらいの時機だったのだが、アーガンはすでに来ていた。直立不動で顔を赤くしながら、おそらくは洗濯したての制服を着て待っている。
 ナップを見て破顔し、後ろ手にしていた手を大きく振った。
「ナップーっ!」
「……ども……」
 その嬉しくてしょうがありません、という顔にナップは赤くなった。本当に、どうしてこうも俺を可愛がろうとするんだろう。
 アーガンの前に立ち、頭を下げる。
「すいません、お待たせしちゃって」
「いやっ、ぜんぜん待ってないよっ! こ……これ、受け取ってくれっ!」
 ばさっ! と音を立ててでかい蘭の花束を差し出す。最初は薔薇で今回は蘭か、と苦笑した。どっちもきれいではあるが持って歩くには邪魔だ。
 だがもちろんそんなことは言わず、ナップは素直に受け取ってまた頭を下げた。
「ありがとうございます」
「い……いやっ! その、あの。……少し、歩こうか」
「はい」
 しゃちほこばってすたすた歩くアーガンの後ろから、とことことその背中を追う。しばらく黙ってそのまま歩き、アーガンが歩調を緩める様子がないので言った。
「アーガン先輩、もう少しゆっくり歩きませんか?」
「え!? ご、ごめんっ、速かったかいっ!?」
「いえ、このくらいでしたら普通についていけますけど。これ、デートなんでしょう? だったらもう少しのんびり歩きましょうよ。話とかもしたいですし」
「え……」
 アーガンは一瞬絶句し、それからカーッと顔を赤くしておずおずと口を開く。
「あの……あのさ、ナップ……君は、これを、デートだと思って……いやごめんなんでもないっ、どうでもいいよねっ!」
 必死に首を振るアーガンにナップは苦笑する。……この人、ほんっとーに、不器用だよなぁ。
「俺はデートだと思ってますよ」
「……ナップ……」
 今にも泣きそうなアーガンにまた苦笑する。ちょっと考えてから、手を差し出した。
「……え?」
「手、繋ぎます? せっかくですから」
「え……でも、ナップ……恥ずかしくないのかい……?」
「別にいいですよ。アーガン先輩が喜んでくれるなら」
「…………っ………!」
 アーガンは涙ぐんだ瞳をぎゅっとつむり、必死に泣くのを堪えていますという顔で笑った。
「ありがとう、ナップ! その、えっと……喜んで!」
「はい」
 ナップは小さく笑って手を差し出す。アーガンはおそるおそる手を握ってくる。アーガンの手はナップのそれより、倍近いのではないかと思うほど大きかった。
 先生とどっちが大きいかな、とちらりと思って、すぐに打ち消す。今は先生のこと考えるの、やめよう。
 先生には悪いけど。アーガン先輩にはいろいろ世話になったし、せめて思い出作りくらいしてもいいよなって思うから。

 授業のこと、進路のこと。いろんなことを話しながら街を歩く。
「え、じゃあ先輩は陸戦隊の方に進むんですか」
 ナップは驚いて聞き返した。兵段都市ファルチカにある軍学校と異なり、パスティス軍学校に在籍する生徒は基本的に海戦隊に進むのが普通だ。授業にも海戦隊要の技術を磨くものがいくつもある。
 アーガンは照れたように頭をかきながら言う。
「うん、まぁ。お世話になった先輩が陸戦隊にいてさ、いろいろ教えてくれた先生も陸戦隊出身で。コネがあったこともあって、来ないかって誘われてるんだよね」
「え、勧誘受けてるんですか? すごいじゃないですか!」
「はは、まぁ勧誘って言っても下積みからだけどね。俺、あんまり要領がよくないから、当分下っ端だろうなー」
「いいじゃないですか、どこだって下積みの経験積んだ方がちゃんと身になりますって。無駄な経験なんてありませんよ」
「うん……ありがとう」
 アーガンはひどくしみじみした口調で、ゆっくりと言った。
「ナップ、君は、本当に優しいね」
「……そういう、わけじゃ」
 ぼそぼそと言って買ってもらったクレープにかぶりつく。なんだかむしょうに恥ずかしい。
 かぶりついた拍子にはみ出たキャラメルを舐めていると、アーガンがごくりと唾を飲み込んだ。
「? どうかしました?」
「え! いやっ、なんでもないんだなんでもっ! ナップ、アイス食べるかいっ!?」
「いや……今クレープ食べてるとこですし」
「あっ! あはははっ、そうだよなっ!?」
「……先輩?」
 そんな話をしながら歩いていると、曲がり角を曲がった時にどんっと人にぶつかった。
「てっ……すみません、気がつかないで」
「いや、こっちも話しながら歩いてたから……って、アーガン? と……マルティーニ?」
「へっ? クセード……と」
「……キュアル? どうしたんだこんなところで」
「決まってんじゃん。俺のハニーと、おっデェトー」
 言って恥ずかしそうに目を伏せるクセードに抱きつくキュアル――クセードの(擬似)兄であり恋人でもある先輩に、ナップは恥ずかしくなって目を逸らす。いったん別れてまたくっついたせいか、この人の愛情表現は相当に強烈らしいとクセードが言っていた(顔を赤らめながら)。
「そーいうお前らはなに? 買い物かなんか?」
「……俺たちは――」
「デートだよ」
 割り込むように口にしたナップに、キュアルとクセード、そしてアーガンも目を見開いた。
「……マジ? お前確か学外に恋人いるんじゃなかったっけ」
「いるけど。……今日は特別。アーガン先輩、卒業しちゃうから」
「ふーん……なるほど、思い出デートね……」
 キュアルは少し考えていたが、すぐににっと笑った。
「アーガンー? ちょーっとそこの店でジュース買ってきな、金出してやるから」
「え? ……って、めちゃくちゃ混んでるじゃないか! なんで俺が」
「文句言うな。っつかマルティーニも飲みたいよな、そこの店のジュース」
「へ?」
「飲みたいよな?」
 睨まれ凄まれて、ナップは気圧されながらうなずく。
「う……うん、まぁ……」
「よし、決まり! ほーれ行ってこーい」
「……まぁ、いいけど……ナップ、待っててくれよ、すぐ戻ってくるから」
 言って列の最後尾に並ぶアーガンを見送ると、キュアルはにっこり笑ってナップを振り向いた。
「さーてマルティーニくん、お兄さんと話しよーかー」
「……いいけど。なんの話? 先輩たちもデートだったんじゃないの」
 たぶん自分に話があるのだろうと思っていたからナップは驚かなかったが、不思議ではあった。この人がクセードとのデートを中断してでも自分と話したいことってなんだろう?
「ま、ちょっとくらいならな。俺らここんとこ毎週デートしてるし」
「……そうなの?」
 クセードの方を向くと、クセードは照れくさそうな顔をしてうなずく。
「ああ。キュアル先輩が、こんな風に気軽に遊びに行けるのも最後だろうから、いっぱい思い出を作っておこうって言ってくれて」
「ふーん……」
「セックスは毎日毛が擦り切れるまでしてるけどなー。クセードったら毎日してるのに『俺に、いっぱい先輩の跡を刻んでください……』とか言って俺にすがりついてくんだもん、もー燃えるしかねぇっつーの」
「先輩ッ!」
 顔を真っ赤にして叫ぶクセードに優しい笑顔でキスをして、キュアルは顔を赤くしている(他人のいちゃついてるところなんてそう何度も見ているわけじゃない)ナップに向き直った。
「で、もーぶっちゃけ聞いとくけどさ。お前アーガンとはなんでもないんだな? 本当にただの思い出デート? あいつもそのこと承知してるの?」
「……承知してるかどうかはわかんないけど、俺としてはそのつもりだよ。思い出だってアピールするようなことは何度も言ってるし」
「バッカ、それだけじゃ駄目だ。デートしてる最中はそれでいいけどな、最後にはきっぱり『先輩とはつきあえません』って言って振れ。傷つけるんじゃないかとか余計な心配すんなよ、あいつ曖昧に終わらせたら絶対期待持つぞ、そっちの方がずっと傷つけることになんだからな」
「え……う、うん……」
 戸惑いながらもうなずくナップに、クセードが苦笑しながら言う(キュアルと一緒の時のクセードは、本当に表情が柔らかい)。
「口は悪いが、先輩はお前とアーガン先輩のことを心配してるんだ。どちらも俺たちにとっては他人じゃないからな」
「え……」
「バカ、なに言ってんだ」
「そうなの? キュアル先輩」
 向き直ると、キュアルは顔をしかめて、それからふっと息を吐いてうなずいた。
「まーな。アーガンは一応友達だし。……それに、お前には世話になったから」
「……キュアル先輩」
「もーこんな機会ねーと思うから言っとくけど。お前にはすっげー感謝してる。クセードと一緒に生きる勇気もらって。クセードとあのまま別れてたら俺一生べそべそしながら生きてくことになってたと思う。ありがとな、マジで」
「……うん」
「だから、まぁ、お前にもちゃんと好きな人とくっついてほしいわけ。アーガンにも無駄に傷ついてほしくねーしな。思い出をやるのは悪いこっちゃねーだろうけど、好きの嫌いのってのは単純に理屈で割り切れるこっちゃねーから」
「そうだね……」
「お待たせ、ナップ! ……ほら、キュアル」
「うっわーロコツー。やだねー恋人でもねーくせに亭主面丸出しで」
「うるさいっ!」

 クセードたちと別れてからも、一緒に街を歩いて、食事をして、劇場で芝居を見て。陽が沈む頃になって、アーガンが「そろそろ帰ろうか」と言い出した。
「あ、ごめんなさい先輩、俺、このあとちょっと用があるんで……」
 少し後ろめたい気分になりながら言うと、アーガンは少し寂しそうな顔をしたが、すぐ笑ってうなずいた。
「そうか、わかった。じゃあ、ここでお別れだな」
「はい……」
「……今日は、つき合わせちゃって悪かったね。俺と一緒で退屈じゃなかったかい」
「いえ、芝居もけっこう面白かったし。先輩のこといろいろ聞けて、楽しかったです」
 ナップが笑顔で言うと、アーガンはふいに瞳を潤ませた。
「……ナップ」
「……はい?」
 ぐいっ、とアーガンはふいにナップを引っ張る。不意を衝かれてナップはアーガンの腕の中に引き込まれた。
「君が俺のことを好きじゃないのはわかってる。でも、俺は、俺は君のことが好きだ。初めて見た時からずっと好きだった。一度でいいから君とこうして二人きりで街を歩いてみたかった。恋人同士じゃなくても――ただの義理でも、かまわないから」
「……先輩」
「君にとっては迷惑なことだよな、わかってる。君には恋人がいるんだもんな。でも、でも俺は、俺は、君が好きで、好きで好きでたまらなくて、毎日君のことばかり考えて――」
「先輩!」
 がすっ、とアーガンの脛に蹴りを入れてナップは腕の中から抜け出た。ナップだって順調に背は伸びているし筋力だって強くなっているのだ。
 しゃがみこんで涙目でこちらを見上げるアーガンに、ナップは小さく息を吸い込んだ。なんだろう、胸が痛い。寂しいんだろうか、苦しいんだろうか。たまらなくずきずきする胸を押さえて、ナップは言った。
「俺、アーガン先輩の気持ち迷惑じゃない。アーガン先輩、いい人だし……最初はちょっと困った人だなって思ってたけど、今では好きだよ。――先輩として、だけど」
「……ナップ」
「俺、好きな人がいる。誰よりも好きな人がいる。だから、先輩のこと好きだけど、こういう風にデートするのは、これで終わりにしてほしい。――今度先輩と会った時、笑って話がしたいから」
「………ナップ………」
「……それじゃ。今日はありがとう、先輩。楽しかった」
 なんだかひどく切ない気分で背を向けようとした時――また、アーガンに引き寄せられた。
「せんぱ……」
「ごめん、ありがとう、ナップ。……大好きだ。これから一生、ずっと好きだ」
 思いきり抱きしめられて、ぐいっとかがまれ――唇に、キスをされた。
「…………!」
「ごめんな、ナップ。本当にありがとう。これから道で会っても無視してくれていいから。――それじゃ!」
 なんだか泣きそうなんじゃないかと思える声でアーガンは叫ぶように言い、走り去った。ナップはその背中をぼんやりと見つめる。
「――怒ってないの?」
 背中からかけられた声に、ナップは小さく首を振る。
「怒ってるよ。――でも、なんか……怒る時機、逃しちゃったっていうか」
「へぇ?」
 いつものうさんくさい笑顔を浮かべつつ正面に回りこんできたジークに、ナップはとつとつと語った。
「アーガン先輩の気持ちもわかるんだよ。俺だって、好きな人に相手にされなかったらすごく苦しいと思うから。だからっていきなりキスしていいってわけじゃないけど――あの人はきっと、俺に嫌われても俺にキスしたかったんだなって思うと、なんか……胸が……」
「まったく、お人よしだな。予想以上にアーガンに押されちゃって。こりゃアーガンと同じ日にデートしたのは間違いだったかな」
 でもこの日しか空いてなかったしな、などと半ば独り言のように言うジークを、ナップは睨んだ。
「まるで俺を口説きたいみたいなこと言うなよ。そーいうつもりなら俺帰るぞ」
「アーガンにはキスされてくれたのに? 俺だけなんにもなしってひいきじゃないのー」
「ひいきって……あんたなぁ」
 ジークはにっこり笑って、ずっと持ってきていた(そして今日一日でだいぶしおれてきている)蘭の花束を奪い取った。
「なんにもしないさ、本当に。ただ思い出がほしいだけ」
「……なら、いいけど。どこ行くの?」
「カードに書いてあっただろ? あそこで食事するだけ。最終学年への飛び級を控えたナップに、門限破りさせるわけにもいかないだろ?」
「……まぁ、そのくらいなら……」
「本当なら酔わせて朝までベッドの中で乱痴気騒ぎってのも教えてやりたかったんだけどな」
「……帰るぞ」
「冗談だって」
 そんなことを話しながら、ナップはジークと連れ立って街を歩いた。

 ジークと二人きりで時間をすごすのはほぼ初めてだったが、さすが遊び慣れてるだけのことはあるな、とナップは思った。エスコートも話のうまさも堂に入っていて、そつがない。大切にされてる感じを与えるのに男のプライドを刺激するような扱い方は上手に避ける。本当に器用な人だな、と感心しそうなほどだった。
『海に舞う風』の一番いい席で、囁くように話しながら食事をする。
「テーブルマナーがちゃんと身についてるな。さすがマルティーニ家のご令息」
「別にそういうわけじゃ……いや、そうかもな。ウチそこらへんのしつけ厳しかったし。テーブルマナーにも教師がいたくらいだから」
「うわ、さすがぁ。お金のある家は違うね」
「……ジーク先輩の家は、違うの?」
 首を傾げて訊ねる。ジークもテーブルマナーは完璧なのに。
 ジークはわずかに苦笑した。
「俺の家ってさ、元は帝国立国時代からの真聖皇帝の側近だったんだ。まぁ、いいお家だったわけ」
「……うん」
「でも俺の爺さんの代で不祥事起こしてさー。まぁ、汚職事件? ――無色に軍の情報流して小金稼いでたんだよ」
「…………!」
「だからまぁ、親父は軍ではずーっと干されててさー。それほど能力が高かったわけでもないし。だから俺にはすんげー期待かけてたの。能力を磨け出世しろって、自分は飢えても俺には優秀な家庭教師つけていいもん食わせてくれたよ」
「…………」
「でも俺その期待がずっと重荷でねー。逃げ出したくてしょうがなかった。でも逃げ出すほどの根性もなくてさ、いい子してたわけ。だから軍学校に入って親父の目がなくなってからは弾けたなー。軍学校は俺に与えられた最後の猶予期間だと思ってたから、飛び級の話もゆっくり勉強したいからって断って遊びまわってたよ。俺要領いいからそれでもそこそこいい成績取れたし。――そんな自分が心のどこかで嫌いだった。でも、今は……それでいいかなって思ってるよ」
「……なんで?」
 ジークはにっこりと、たまらなく優雅な笑顔でこちらを見て言った。
「君に会えたから」
「……っ!」
 盛大に咳き込みかけて、慌てて横を向いて小さな咳払いを繰り返してごまかす。ジークは微笑みながら言葉を連ねた。
「君に会えたこの一年は、本当に楽しかったよ。この俺がさんざん振り回されて、自分も振り回して。自分が嫌いとかそんなこと考える余裕もないくらい毎日が楽しかった」
「…………」
「好きな人に誇れる自分になるために、って必死に頑張る君を見て、俺も少しこのままじゃいけないな、と思うようになってきたんだよ。親父のためじゃなく、家のためじゃなく、自分のために頑張ってみようって」
「…………」
「ナップ。ありがとう。俺は君のことが大好きだよ」
「…………」
 ナップは仏頂面でスープをすすった。顔が赤くなっているのが自分でもわかる。本当にこの人は――どうしてこうも油断ならないんだろう。うっかり感動しかけてしまったじゃないか。
 それからもジークはふいに口説くような文句を発したりしながら、けれど基本的には楽しい話題を提供し続けた。

「さ、帰ろうか。それともせっかくだから夜景でも見ていく?」
「……帰る。門限近いもん」
「あらら、残念」
 舌を出すジークに、ナップはため息をついた。本当にこの人、どこまで本気なんだろう。
「じゃ、手を繋いで一緒に帰ろうか」
「……いい。一人で帰る」
「なんで?」
「……アーガン先輩が俺たち一緒に帰ってくるの見たら、傷つくじゃん」
「……へぇ。ナップも成長したなー。他人の気持ちを思いやれるようになってるじゃんかー」
「なんだよその言い草……」
「他意はないって。――じゃあ、そこの角まで手を繋いで歩こう」
「……うん」
 ナップは素直にうなずき、ジークと手を繋いでゆっくり歩く。ジークの手はアーガンほど大きくはないけれど、手触りがよくて温かかった。
 別れる角がやってきた。ジークはくるりとこちらを向き、にっこりと微笑みかける。
「それじゃあな、ナップ」
「……うん。今日はありがと。楽しかった」
「それは光栄の至り」
 くすり、と笑って、ジークはごく自然な動きで身をかがめ――
 ナップの唇に、キスをした。
「じゃあな、ナップ。――俺も楽しかったよ!」
 珍しく叫ぶように言って駆け去るジーク――
 その後姿を呆然と見送り、姿が見えなくなってからナップは思わず叫んだ。
「なにすんだよ、バカーっ!」

 さまざまな感情にふらふらしながら、ナップは寮に帰ってきた。門限ギリギリに寮監に報告をして、廊下を歩く――
 と、ふらついていたせいか曲がり角でまた人とぶつかった。
「あ、ごめんなさい……」
「……ん? ナップ・マルティーニ……」
「あ……ダムセン先輩」
 以前自分に弟にならないかと言ってきた先輩だ。
「すいません、ぼーっとしてて……」
「いや。……アーガンとジークとのデートが、そんなに強烈だったのか?」
「……知ってたの?」
「まぁな。……楽しかったか?」
「うん、まぁ……」
「そうか。ならいい」
 ナップはいくぶん意外に思ってダムセンを見上げた。ダムセンはいつも通りの仏頂面でこちらを見下ろしている。
「……心配してくれてたの?」
「……まぁな」
「……マジで?」
「何度も聞くな。……それほど変な話でもないだろう、後輩の心配をするのは」
 相変わらずの仏頂面――けれどその視線は優しい。戸惑いながらナップは答えた。
「そうだけど……ダムセン先輩って、役に立たないことには興味ないのかなって思ってたから……」
「まぁ……な」
 ダムセンは苦笑し、それからぽんぽんと軽く、優しくナップの頭を叩いた。
「だが、お前には俺は、いろいろと感謝しているからな」
「……へ?」
「俺は無駄なことは嫌いだった。有益でない人間と関わるのも嫌いだった。だが――君は、俺のその常識を打ち壊してくれた」
「え……」
「相手に振り回される楽しさというのもあるのだと、無駄だけれども楽しいつきあいというのもあるのだと君は俺に教えてくれたからな。俺は君を見てきた中で、確かにそう思わされたんだ」
「…………」
「だから、君と別れるのは、少し寂しいと感じている。――よければ、君が卒業したあと、軍大学にも見学にきてくれ」
 そう言って去っていくダムセン――
 ナップはなんだかたまらない思いでその背中を見つめた。――軍学校に入ってから、初めてのちゃんとした別れが訪れようとしているのだと、心臓の底で感じていた。

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