最終年・5――学園祭のこと

 とんてんかんてん、とんてんかんてん。
 方々で昔ながらの大工仕事の音が響く校舎。放課後とはいえ、普段のウルゴーラ軍学校ならありえない速さで走り回る生徒たち。
 教師や講師の姿はほとんどない。たぶんあえて見せないようにしてるんだろうな、とナップは思った。子供のお祭に大人がでしゃばってはしらけるということを理解しているのだろう。ウルゴーラの教師陣は、そこらへんをわりとわかっている人が多かった。生徒たちの親に対する気遣いやらもあるにせよ。
 ともあれ角材やら板やらの資材がいくつも廊下を通り抜け、塗料や接着剤が踊り、生徒たちの立てる大工仕事の音やら、合唱部やら吹奏楽部やら(ウルゴーラ軍学校には課外部活動というものがあるのだ。それが将来に結びつくことも多いそうだが。たとえばこれらの部活なら軍楽隊に所属するとか)の和声やら、さらには大音量の罵声やら怒声やら歓声やらが響く校舎の中を、ナップは歩きながら寄ってくる生徒たちに対応していた。
「ナップくん! 入場門用の塗料足りなくなったんだけど!? どーしたってあと三缶はいる!」
「三缶か……なら、フェッジャの店でなら余った予算で買えんだろ。言うまでもないとは思うけど領収書忘れないで、きっちり会計に報告してくれよな」
「マルティーニ会長候補! 二年三組ですけど、劇の練習の途中で主役が突然倒れちゃって……!」
「すぐ養護教諭呼んでこい! 二年ならもー応急処置は習ってんだろ、知識活用しろ! 顔色青い時は足を、顔色赤い時は頭高くすんだぞっ」
「ナップ会長候補っ、四年の一組と二組が喧嘩をっ」
「はぁ!? またかよあいつら! ちょっと待ってろ、今すぐ行くっ」
 目が回りそうなほど忙しいやり取りの山。校舎を走り回り、あっちこっちに首を突っ込み、せわしく懸命に仕事をする。
 まさかこんなに忙しくなるとは思ってなかった、という気もしないではないけれども、ともかくとりあえず。
 もうすぐ、学園祭なのだ。

「今回の議題は、『第二十五回ウルゴーラ軍学校学園祭について』です」
 ライナーがくい、と眼鏡を押し上げながら冷たい声で言う。いつも通りに、その表情には愛想の欠片もない。
 でも普通に会議しようとしてるだけ進歩だよな、とナップは苦笑する。以前はなにかにつけて独断専行しようとしていたのだから。何度もやりあって、会議の大切さというものがわかってきたらしい。
 学園祭というものの存在をナップが知ったのはウルゴーラに来てしばらく経ってからだった。そんなものがある軍学校はこのウルゴーラだけらしいが(少なくともパスティスにはなかった)、軍人の資格さえ得られればいいという奴らが作り出した祭とはいえ、生徒たち自身が運営する祭というのは面白そうで、ナップは楽しみにしていたのだ。
「周知の通り学園祭においては基本的に学園祭実行委員会が生徒側の最高権限を持ちます。なので生徒会としては主に実行委員会と学校側との交渉の折衝に当たるわけですが、まず手元の資料を見てください。双方の主張のズレがまとめてあります」
 言われて各自資料に目を落とす。そしてほとんどの人間がすぐに顔をしかめた。
「なんだこれは……予算案がほとんど三分の二にされてるぞ」
「大音量の音楽を流すことも軽食の販売も禁止? ろくな催しもできないじゃないの」
「でも実行委員会の主張にも問題が多いよ。衛生法にまるで配慮がされていないし、そもそも学園祭の理念を理解していない催しが多すぎる。今帝都で人気の芸人を呼びつけて芸をさせるなんて、生徒の祭だっていうのに本末転倒じゃないか」
「ふん、愚かな。帝都の人間も質が落ちたものだ、やはり真に帝都の軍学校にふさわしいのは我らのような歴史と伝統ある名家の者たちだけですね、マルジョレーヌさま」
「そんなことしか言えないようでしたら退席を命じますよ」
「なにっ」
 議長席から冷たく言ったライナーをラザールが睨むと、ライナーは冷たく告げた。
「ここは会議です。あなたの演説を聞く場所じゃない。内容が鼻持ちならないということはともかくとしても、会議を進めるのに役に立つことを言う気のない人間は不要です」
「き、貴様のような田舎の賤民にそんな偉そうなことを言われる筋合いは」
「もう一度言います、会議の役に立つことを言う気がないなら退席を命じます。我々はくだらない喧嘩をするために集まったわけではない」
「っ……」
 ラザールは顔を真っ赤にしながらも黙り込む。言うじゃんかライナー、とナップは内心にやりと笑った。以前は自分から喧嘩を吹っかけていた人間の言う台詞ではないが、喧嘩をせずにすむようになったと思うと素直に嬉しい。
「……では、これら主張のズレを、どのようにしてすり合わせるか、ということですけれど」
「あ、その前にいっこ」
 手を挙げると、ライナーは一瞬わずかに顔をしかめたが(嫌われてんなー、と内心苦笑した)、すぐに胸をそびやかしナップを指す。
「どうぞ、ナップくん」
「あのさ、俺思うんだけどさ、生徒会の中から順番に、実行委員会の会議に人出したらどーかな? 各学校から一人ずつぐらいでさ」
『……は?』
「実行委員会の会議をそのつど修正する、っていうこと?」
「んー、それもなくはないんだけど……なんつーかな。生徒会の仕事って学校側との折衝だろ? それってさ、実行委員会側から見たら、生徒なのに学校に……おもねるっつーか、媚びてるみたいに考える奴もいると思うんだよ」
「それは……言われてみれば、確かに」
「だからさ、そーいう行き違いがないよーにさ。ただ議案を修正してるだけじゃなくて俺たちも学園祭を成功させたいって思ってるんだぜって実行委員会側に思わせて、同時に議案のそれはまずいっていうのを指摘できるようにしたらいいと思うんだよ。どーかな」
 あの島での戦いの時、帝国軍が自分たちを裏切り者と呼んだこと。それをナップは連想してしまったのだ。あんなぶつかり合い、何度も経験したいものじゃない。
『…………』
 それぞれが考えるように眉間に皺を寄せる中で、ベルフラウがしかめた顔をナップに向けて問い詰めるように言う。
「ちょっと待って。それならそれでいいけど、なんで一人ずつなの? 全員で行った方が意思疎通に齟齬がなくなるじゃない」
「んー、なんつーかさ、全員で行くと向こうが萎縮しちまうかもって思ったんだよ。向こうと腹割った関係作るにはさ、ある程度向こうに調子に乗ってもらった方がいいだろ? 向こうに言いたいこと言ってもらわねーとさ」
「それは……そうかもしれないけど、でもね」
「大丈夫、ベル」
 きっ、と頭を上げてアリーゼが真剣な顔で言う。
「私、大丈夫だから」
 あ、とナップは思わず口を開けていた。そうか、アリーゼ、まだ知らない奴と話すの苦手なのか。自分の前では全然そんな素振り見せなかったのに。ベルフラウにそういうところを見せているのをさすが親友だなと感心すればいいのか水臭いなと思えばいいのかわからない。
 でも、アリーゼのその真剣な、真正面からこちらを見る顔は、素直にきれいだなと思った。
「……では、ナップくんの提案について検討を行いたいと思います。まずこの案について賛成の人間は挙手を……」

 結果から言うと、ナップの提案は図に当たった。というか、当たりすぎた。
 これまで(個々人としてはともかく)生徒会は他の生徒たちからは遠い存在のように思われていたらしく、実行委員会と会議を重ね、意見を交換しているうちに、すっかり委員会からは仲間扱いされるようになって。ついでだからと実行委員会に受け継がれているらしい催しを成功させるやり方などを勉強させてもらっているうちに、じゃあせっかくだから使い走りになってみるかと委員長から言われ。
 面白そうだということでナップを含む生徒会のうち半分以上が時間のある時にだけ実行委員会の使い走りとして働くことになり。さらにそれが報道部によって掲示板新聞に掲示され、他の生徒会役員たちもあとに引けなくなり手伝いに参加することになり。
 予定としては仕事のなくなる学園祭準備期間に、雑用係としてこうして走り回ることになったのだった。
「とりあえず見回りは終わったからー、生徒会室戻って情報聞いてー……」
 校舎の隅で指折り数えていると、ナップの腹がふいにぐぅ、と鳴った。
「……飯食ってからにするか」
 ナップは食堂へと向かった。今日は学園祭まで残すところあと一週間となった休日、忙しさも半端なものではない。なにかと仕事が入るのでウィルたちとも昼食の約束はしていなかった。とりあえず一人で腹ごしらえといこう。
 食堂に入って食券で食事を注文する。良家の子息が集まるとはいえ、食堂の食事は味以上に量と早さと栄養価が重視されている。そうでなければ授業で腹の減った生徒たちを満足させることはできないからだ(良家の子息だろうがなんだろうがなんだろうが腹の減り方はだいたい一緒だ)。
 なのであらかじめ準備してある定食からささっと食事のトレイが渡される。味もとりあえずひどくまずいということはないので、ナップはそれを持って席に着いた。
「……それは、仲はいいわよ。何年も一緒に学校生活送ってるんだもの。あなただって同じ学校の人たちとは仲がいいでしょう?」
「それはそうだが、お前たちの仲のよさはちょっと珍しいと思ってな。普通同じ学校にいるくらいであそこまでべたべたはしないだろ」
 ナップは思わず耳をそばだてた。この声、ベルフラウとエーランド? 席に着いた時はいなかったと思ったのに、どこにいるんだろうと周囲を見回す。
「べ……べたべたなんてしてないわよ!」
「いや、してるぞ。毎日一緒に飯を食ってるし、しじゅう一緒にお喋りしてるし。ああもしょっちゅう一緒にいる相手なんて、家族ぐらいしかいないぞ普通は」
「あ、ああ……そういうことね。……家族というか……まぁ、近いところはあるかもしれないわね。なんていうか……私たちとナップは仲間≠ネのよ」
 くるり、と後ろを向いて、ようやく気付いた。ベルフラウたちは自分の真後ろ、柱の向こうにいるらしい。視界に入っていなかったし、音響のせいもあり気付かなかった。声をかけよう、と立ち上がり――
「俺はナップ一人を特別扱いなんてしてないぞ。なんだ、惚れてるのかベルフラウ?」
「………っ」
 耳に入り込んできた言葉に固まった。
「…………」
 ベルフラウは沈黙している。エーランドのばかやろーなんて話題振るんだよ! とナップは固まりながら歯噛みする。冗談のつもりだったのだろう、慌てたようにエーランドは喋りだした。
「あ、いや別に無理に聞こうとかいうんじゃないぞ。ただ、なんていうかあれだ、仲良きことは美しきかなというか、お前らがくっつくならそれはそれでけっこうなことだなぁと」
「……いいわよ。そんなに慌てなくても」
 ベルフラウのわずかに苦笑し、それからきっぱりと言う言葉が耳に届いた。
「私、ナップに振られてるの。もう半年以上も前にね」
「そ……そう、なのか」
「でも、まだ好きよ」
「っ……」
 ぐ、とナップは固まったまま息をつめた。
「ずっと、ずっと好きよ。ずっと……」
「………っ」
 気付いてないわけじゃ、なかった。そうだ、自分は確かにベルフラウが自分をまだ好きなことに気付いていた。
 でも普通に接していればいつか友達に戻れると思ったし、なによりもうベルフラウと疎遠になるのは嫌だった。ベルフラウが大切だから、ベルフラウの痛みに忘れた振りをしてでも一緒にいたかったのだ。それがベルフラウの望みでもある、一番傷の少ない方法ではないかもしれないけど、一番両方に幸せなやり方だと思ったのだ。
 だけど、自分はもしかしたら、忘れた振り≠ナはなく本当に忘れてしまっていたのかもしれない。少なくとも日常レベルでは思い出さないようになっていた。
 悔しくて、ぎゅ、と拳を握り締める。俺、もっとしっかりしなくっちゃ。
「おやおや、ガスタロッシ家のご令嬢が気弱いことをおっしゃるものだ」
「!」
 ナップは思わず目を見開く。これはジュスタンの声だ。ウルゴーラ軍学校の生徒会役員、マルジョレーヌの取り巻きの一人。
「……なにかご用? あなただって暇ではないと思うのだけど?」
「確かに、まったくもって暇ではない。まったく、あの商家の小僧のせいで余計な手間を取らされていますよ」
「くだらない悪口しか言うことができないのなら消えなさい。あなたのような人と話す気分じゃないの」
「ならばナップ・マルティーニのような小僧と話す気分ではある、と? ふ、まぁ確かに悪い縁談ではないでしょうな。帝国でも有数の商家であるマルティーニ家との縁を結ぶことはガスタロッシ家としても嬉しいことでしょうし? 婿養子として迎えるなら多額の持参金も期待できますしね」
「…………」
「なにもナップ・マルティーニの心をつかむ必要はない。ガスタロッシ家の力を用いればマルティーニ家に働きかけて婿入りさせることくらいたやすいでしょう。気になさることはない、貴人がときおり変わったものを食することは別に珍しいことでも」
「消えなさい」
 背筋がぞっとするほど、冷厳とした声が響いた。
「な……」
「あなた風情に私の気持ちをどうこう言われる筋合いはないわ」
「ふ……ふん! ガスタロッシ家のご令嬢ともあろうお方が言うお言葉とも思えませんな! 我らのような名門の人間に対して」
「もう一度言うわ。――消えなさい」
 ナップにまで伝わってくる強烈な殺気。ベルフラウが以前よりさらに腕を上げていることがわかる気迫に、ジュスタンは小さく舌打ちし、席を立ったようだった。
 が、数歩歩いてから、ベルフラウたちの方を振り向く気配と共に嫌味たっぷりに言葉を投げつける。
「先ほどの言葉を訂正させていただきましょう。あなたは本当に自分に見合った人間を選ぶ目をお持ちのようだ。そう、あなたにふさわしい人の話を立ち聞きするような下衆をね」
「っ!」
 ふはははは、と耳障りな声を上げてジュスタンはその場を去っていく。気付かれてたのか! とナップは思わず顔から血の気を引かせた。
 だが、いまさら逃げるのは嫌だ。潔くないし格好悪いし、なによりベルフラウはきっと、きちんと自分に釈明してほしいと思うはずだ。
 なので覚悟を決めて立ち上がり、柱を回ってベルフラウたちのいるテーブルへと回り、思いきり頭を下げた。
「ごめん!」
「…………」
「言い訳でしかないってのはわかってるけど、わざとじゃないんだ。最初いるの気付かなくて、声かけようとしたら話が……その、俺が出てったら気まずくなるだろーなってとこにさしかかってて……だから声かけらんなかった。ごめん!」
「聞いてたの。私たちの話」
「うん、ごめん」
「どこから?」
「……俺たちの仲がいいとかどうとか、ってあたりから。ごめん」
 頭を下げ続けた姿勢のまま動かずにいると、ふいにくす、と笑い声がして、ぴん、と鼻の先を弾かれた。
「でっ!」
「私としてはいまさら聞かれて困ることはないわよ。もうあなたに気持ちは言ってるし? これで私をまた意識してもらえるなら万々歳ってね」
「……ベル」
「でも、あなたが私に悪いと思うなら、そうねえ。学園祭後の休日に一日私とデート、というので許してあげなくもないわよ?」
「う……」
 ナップは顔を赤らめた。ベルフラウと一緒に外出するのは初めてではない。二人きりで、ですら初めてではない。でもそれでもやはりデートと言われると気恥ずかしいし、先生に対する罪悪感は消えない。
 だがこの場合他に言いようはないので、顔を赤らめながらも「わかった……」とうなずいた。
 ベルフラウはにこっと笑い、くいくい、と手招きしてナップの頭を下げさせ、ぴしっ、ともう一度鼻の頭を弾く。
「いでっ!」
「なぁに、その口の利き方は? ベルフラウさまと一緒にお出かけできてこんなに幸せなことはありません一生の思い出にします、ぐらいのことは言えないの?」
「いでっ、いででっ、つねるなって! あーもうっ、ベルフラウさまと一緒にお出かけできてすっげー嬉しいですっ!」
「よろしい。ほら、あなたも昼食の途中なんでしょう。トレイ持ってきなさいよ、一緒に食べましょう」
 くすっ、と笑って手を振るベルフラウに、エーランドが思わずといったように漏らした。
「女って、強ぇ……」
 ナップは内心、女だから強いんじゃない、ベルフラウが強くなろうとしてるから強いんだ、と思ったが、それをベルフラウの前で言いたくはなかったので、にっと笑顔をベルフラウに返して昼食のトレイを取りに走った。
 それに実際、ベルフラウというまぁそのなんというか可愛いっていってやっても悪くはないかなぁ、と感じの女の子と一緒にお出かけできるというのは、すっげー嬉しいと言ってもそれほど違いはないかな、と思えることではあったし。先生に悪いかな、ともちょっとは思うけど。

 ベルフラウたちはまだ仕事があるというのでいったん別れて、ナップは生徒会室へと戻っていった。生徒会室は元倉庫とはいえ今はすっかり居心地よく改装されているので、学園祭の準備期間と当日は実行委員会の基地として機能する。
 階段を二段飛ばしで駆け上っていると、ふいに声が聞こえた。
「――本当はね、演劇とかちょっとやってみたかったな。パスティスにいた頃、先輩たちの壮行会でやったのよ。ナップくんやベルたちと一緒にね」
「へぇ、君は観劇の趣味でもあるのか? 軍学校の生徒にしては珍しい趣味だな」
 ナップは足を止めて耳を澄ませる。この声はアリーゼとライナーだ。どこから聞こえてくるんだろう?
「観劇っていうか、お話を作るのが趣味なの。昔から一人で書いてたりしたんだけど、ベルと会ってからちょっとずつ読んでもらったりもして」
「ふぅん……そちらの方がさらに珍しい趣味だよ。君らしいとも思うし、殺伐とした軍生活の中で詩情に潤いを求めるというのはわからなくもないけどね」
 どうやら二人は一階下の廊下にいるらしい。それで階段を下りていこうとしているようだ。ライナーも丸くなったよなー、と感心しつつもナップは声をかけようかかけまいかちょっと迷った。逆方向に進んでいるわけだし、話が弾んでいるみたいだし、邪魔しては悪いような気もする。
 と、その数秒の逡巡の間に、アリーゼが告げた。
「……私、軍には入らないつもりなの」
「!」
「え……!?」
 ナップは驚いて階段に取り付いた。階段の隙間から足を止めているアリーゼと、慌てたようなライナーの姿が見える。
「ぐ、軍に入らないって、どういうことだい。まさか作家になるというわけじゃないだろう? あれだけ召喚術でも学科試験でもいい成績を修めてるっていうのに」
「作家……あはは、考えたこともないわ、そんなこと。そりゃ、お話を書くのは好きだけど、あれはあくまで趣味だもの。私はね」
「誰やらのお嫁さん、とでも言いたいのかな?」
「っ」
「……君か」
 アリーゼが息を呑み、ライナーが吐き捨てる。隙間から姿が見えた。二人に話しかけているのは生徒会ウルゴーラ軍学校役員の一人ドミニクだ。
「まぁ君のような気の弱い少女が家の役に立つ方法はそれしかないだろうからねぇ。スーリエ家も最近は目覚しい人物が出ておらず落ち目のようだし。大方軍学校にも婿を探して入ってきたんだろう?」
「っ……」
「ほら、図星だ。お目当てはどなたかな? ナップ・マルティーニ? ウィル・アルダート? それとも他の誰かか? なんにせよせいぜいいい家の婿を選ぶことだ。スーリエ家のような名門と呼ばれてはいても小さな家は、そうでもしなければ生き残れないのだからな」
 ナップは頭がかぁっと熱くなるのを感じた。こいつ、許せない……!
「おい、てめ――」
「私は、そんなことで好きな人を決めたんじゃない」
 ひどく、決然とした口調だった。
「そもそも、私は好きな人を決めようと思って決めたんじゃない。好きっていう気持ちが突然落ちてきたの。その人には他に好きな人がいるし、他にもその人を好きな人もいる。私のことを振り向いてくれる見込みなんて全然ない。でも」
 いったん言葉を切り、きっとドミニクを睨みつけて言う。
「私はその人が好き。婿にしたいとかそういうのじゃなく、ただ好きなの。その気持ちをバカにすることは、誰にもさせない」
「……アリーゼくん」
 どこか怖々とした口調の言葉をライナーが漏らす。ナップも驚いていた。アリーゼに好きな人がいたということも驚きだったが、それをこんなにはっきりと告げるなんて。まだ人と接するのに気後れするらしいアリーゼなのに。
 本当に、その人のことが好きなんだ。思わず胸が、きゅっと疼いた。
「ふ、ふん……偉そうに。貴様のような女に――」
 体が先に動いていた。階段の隙間から一気に一階分飛び降りて、ドミニクの前に立つ。仰天するその顔に、しゃっと拳を突きつけて低く言った。
「失せろ」
「…………っ」
 ドミニクはぎっとこちらを睨んだものの、ほうほうのていで退散していった。ふん、と鼻を鳴らしてから振り返り、笑顔でアリーゼに声をかけようとして仰天する。アリーゼは、目に涙を溜めてぎっとこちらを睨んでいた。
「ア、アリーゼ? どうした、大丈夫か?」
「………聞いてたの?」
「え?」
「話……聞いてたの?」
「あ、ああ。アリーゼが話を作るのが好きとかいうあたりから、偶然」
「……っっナップくんの……バカーっ!」
 ぱしーん! と平手打ちを頬にくれて、アリーゼは後ろを向き駆け去っていく。なにがなんだかわからず呆然とするナップに、ライナーはふ、とため息をついてぽんとナップの肩を叩いた。
「まぁ、頑張れ」
 そう言われてもなにを頑張ればいいのかナップにもさっぱりわからないのだが。

 首を傾げながらも生徒会室まで戻ってきて、軽くノックをしようと手を伸ばし、中から話し声が聞こえるのに気付いた。
「……アルダート家の人間ともあろう者が、同性を追いかけていると、お父上に知れたらどんなことになるかな?」
「………っ」
 ラザールの声。そしてこの小さく息を呑んだような声は、ウィルの声だ。
 そう気付くが早いか、ナップは勢いよく扉を押し開けていた。
「おい!」
「な!」
「ナップ……!」
 中にいたのは予想通りラザールとウィルだけだった。ナップはずかずかとラザールの前に歩み寄り、ばん、とテーブルを叩いて怒鳴る。
「お前らって、最低だな! どいつもこいつも人のことにぐちぐち文句たれやがって、名家の人間ってのはそんなに人の周りを嗅ぎ回るのが好きなのかよ!」
 ラザールは一瞬気圧されたような顔をしたが、すぐにふんと偉そうに鼻を鳴らしてみせた。
「我々のような人間に商家のこせがれが偉そうに。我々とお前たちとはそもそも生まれが違うということがまだわからんか。そもそも我々は親切に忠告をしてやって」
「黙れよ馬鹿野郎、人の悪口言うことしかできないような奴は人として最低だ! 人の気持ち考えられないような奴がのさばってる家だって、どんなに昔功績を残した家だろうが最低だ! 家だ生まれだって自分がやったことでもないことで偉そうな顔するな、人の価値ってのはその人がどれだけの存在を幸せにできたかで決まるんだ、これ以上俺の親友たちをつつきまわるような真似したら、俺が絶対ぶん殴る!」
「………っ」
 ラザールはわずかにびくりとしてから、すぐにふん、とばかりに胸を反り返らせて部屋を出ていった。は、と小さく息を吐いてから、ナップはウィルの方を向く。
「大丈夫だったか、ウィル。変なこと言われなかったか?」
「『変なこと言われなかったか』じゃないだろう、この馬鹿!」
 突然飛んできた罵声に、ナップは驚いて目を瞬かせた。ウィルは顔を真っ赤にして凄まじい勢いで言い募る。
「彼のアルカデルト家はヴィズールの傍流とはいえ影響力を無視できないほどの勢力は持っている、彼が軍人事部に手を回したらどうする気だ! どれだけいい成績を取ったって閑職に配属されることだってありえるし、少なくとも出世に差し支えるのは間違いない! それを君は怒鳴りつけたあげく脅迫するなんて無思慮にもほどがある! 少しは君の立場を考えたらどうなんだ!」
 しばし呆気にとられていたが、すぐにナップはムカムカと腹が立ってきた。その衝動のままに、「だいたい君は」と言いかけたウィルに向け大声で怒鳴る。
「うるっさいな! 立場もなにもそうしたかったんだからしょうがないだろ!」
「こっ、子供か君は!? いい加減少しは成長しろと何度言ったらわかるんだ!」
「どんだけ成長しようが、俺は絶対にしたいって思ったことはする! 一時そういう気持ちになったからとかじゃなくて、心の底から俺はあいつ許せないって思ったんだ、それなら絶対にそれ貫き通す!」
 先生だって教えてくれた。自分の気持ちに嘘をついてもいいことはないって。どんなに周囲にするなって言われても、やりたいことやらなくちゃいけないことってのはあるんだ。
「な……だ、だからって、なにをしてもいいってことには」
「なにをしてもいいわけじゃなくても俺にはこれはしてもいい、しなくちゃならないことだ! 俺の親友の好きって気持ちを馬鹿にする奴は、誰だろうと絶対許さないっ!」
 ぎっ! とウィルを睨みつけてそう怒鳴ると、ウィルは顔を真っ赤にしてうなだれた。ナップはしばらく睨みつけ続けていたが、ウィルがいつまでもうつむき続けているので不安になって顔をのぞきこむ。
「ウィル……? 怒ったのか?」
「……ナップ」
 す、と腕が上がった。ナップの背中に回され、ぎゅ、と体を抱きしめる。わ、と仰天し、同時に顔が熱くなってくる。いやだって友達ならこのくらい普通だとは思うけど、自分のことをす、好きって思ってる親友が相手だと、なんかなんだか恥ずかしいというか照れくさいというか。
「君は、本当に……いつも、どこでもそういう奴なんだな。いつになっても……子供で、大人になりきれなくて、感情を制御しなくて」
「わ、悪かったな……」
「そうだよ、君のおかげでこっちはいつも、出会った時から振り回されて、感情を乱されて、毎日毎日へとへとになって」
「そ、そんなに?」
「でも――君は、僕を幸せにしてくれた」
 耳元で囁かれ、ぞく、と背筋になにか悪寒のようなものが走った。どきり、と心臓がなる。どどどどどと行進曲を奏でる。なんだかわからないけど、胸が苦しい。ウィルの声変わりを終えた低い声が、耳の中に入ってくる。
「君がいなければ、僕はきっと、どれだけ賢い行動を取っても幸せではいられなかった。誰かを好きになることさえきっとなかった。全部君が教えてくれたんだよ。全部、全部」
 うわあああぁぁぁ。なんだこれなんだこれ、なんでどきどきしてるんだ俺、だって俺には先生が。そんなことを頭の一部はパニックになりながら考えているが、体はいつの間にか勝手に動いて、腕は自然にウィルの背中へと回され、体はぴっとりとウィルの体へ密着し、心臓は猛烈な速度で脈打っている。ウィルの心臓も激しく鼓動を刻んでいるのが、密着した胸から伝わってきた。
「――ナップ」
「ウィ……ル」
 後頭部の辺りに右手が当てられた。左手がくい、とおとがいを持ち上げる。ウィルの赤い、ひどく緊張した顔がゆっくりこちらに近づいてくる――
「ナップ……ありがとう。――好きだ」
「ウィ……」
 あともうほんのわずかで、唇が触れる――
「もう、まったくみんな勝手なことばっかり言うんだから!」
「まぁ、誰かに文句を言えば収まると思っている奴らはどこにでもいるものさ」
「そんな奴らには軍人になる資格はないと思うがな。文句を言うなら言うでもう少しまとめてからにすればいいものを」
「あはは、まぁ愚痴らないでもう少し頑張り――」
 というところでお喋りしながら部屋に入ってきたベルフラウとアリーゼとエーランドとライナーと目が合った。
「………………!」
「…………………!!」
「……………………!!!」
「………ウィルくん。なにしてるの?」
「ウィル……抜け駆けしたわね?」
「………っあとせめて数秒遅れて入ってくれたならよかったものを……!」
 がっくりと肩を落とすウィルに我に返り、ナップは「うわあぁぁぁ!」と叫びながらウィルを突き飛ばした。
「おっと!」
「っつ!」
「あ、ご、ごめ……じゃなくてウィル! なにすんだよいきなりっ!」
「別にああいうことはいちいち許可を得てやるものじゃないだろう」
 ウィルは平然とした顔を装ってうそぶくが、その頬が真っ赤なことはごまかせない。
「得ろよ! 許可! お、お、俺にはっ……決まった、人が……」
「え……待て、ちょっと待ってくれ、あ、あの、君たちはその、恋人同士、なのか? 男同士で? え、え、えぇぇぇぇ、それは君たちは個室がもらえるのにわざわざ同室だと聞いているし異常なくらい仲はいいけど、え、ええぇぇぇぇ……」
「ち、違うよっ! 俺にはちゃんと恋人がいるんだから!」
「な……恋人がいるのに男とキスをしようとしてたのかお前!? そ、その年で……パスティス軍学校の風紀はどれだけ乱れてるんだ!」
「だ、だからキスしようとなんてしてないって!」
「嘘だ! どこからどう見てもしようとしてた!」
「する寸前だった!」
「……まぁ、流されそうな感じではあったわね」
「とりあえずぎりぎりで間に合ってよかったね、ベル」
「心の底から間に合わないでほしかった……」
「な、だから、そうじゃなくて、あの、だからっ……」
 かあっと顔が熱くなる。じわぁっと目が潤むのがわかる。顔が歪んで、必死に堪えても、ふえっと呻くような声が漏れて、全員あっ、やばっ、と大書してあるような顔になり。
「あの、ナッ」
「みんなの、ばかやろーっ! 三日は口利いてやらないからなーっ!」
 そう叫んで、涙をぼろぼろこぼしながらナップは逃げ出した。
「……仕事をしてればどうしたって口を利かなきゃならない時は出てくるだろうに……」
「突っ込むところが違うだろうエーランド。三日は口を利かないって、子供じゃないんだし……」
「絶交だーっ、じゃないところに私たちへの愛を感じるわね」
「そっちでも普通十五になった男の子が言うことじゃあんまりないけどね」
「……泣いてるナップも可愛い……あともうちょっとだったのに……」
「ウィルしつこい。それと色ボケないで」

 三日は口を利かない、と固く誓っていたナップだったが、仕事で口を利かなきゃならない時は何度もあるし、全員によってたかって謝られじゃれつかれくすぐられて、一日でその誓いは破られた。エーランドとライナーには(ついつい恥ずかしくてどもりがちだったものの)、自分にはちゃんと恋人がいること、ウィルはあくまで親友なこと、キスするつもりじゃなかったことなどを説明し、わかってもらった、と思う。
 ともあれ、無事一週間がたち。学園祭の日がやってきた。生徒会室は朝から書類と人と罵声にあふれている。
「客と生徒が喧嘩!? 今すぐ行くっ、場所どこだ!」
「一般のお客が食事に文句を? わかった、すぐ行く。とにかく低姿勢に、怒らせないようにしていてくれ」
「玄人が射的の景品を全部持っていった? あのねぇ、それに文句をつけるなら射的なんて出し物しないことね。景品は全部見せないようにって指示を出しておいたでしょう? 一応意見はしておいてあげるから泣き落としでもなんでもして説得しなさい」
「出し物で怪我!? 誰がですか、どこにどんな風にですか、今すぐ行きますから悪化させないようにしていてください!」
 目の回るような忙しさだったが、ナップとしては充実していた。こういう風にあちこち駆け回り、みんなでひとつのことを成功させようとするというのは思った以上に楽しいことだとわかった。きっと先生もこんな経験をしたんだと思うとますます楽しい。先生に誇れる体験にしようと全力を挙げた。
 それにウルゴーラの連中が(マルジョレーヌをのぞいて)部屋にいないというのも、気分がよかったし。
 どうせどこかでサボってるんだろうけどな、とナップは内心罵る。一週間前の一件からウルゴーラの連中に対する評価はだだ下がりだった。いい奴らだとは思っていなかったしいい加減殴ってやりたいとは思っていたけれども、あそこまで人としてしちゃいけないことがわかってない奴らだとは思っていなかったのだ。
「おーっ、やってるねーっ。みなさんお忙しそーでっ」
『ユーリ! クセード!』
 思わず自分たち四人の声が揃う。この日に来る予定になっていたから驚きはしないが、それでもやっぱり会えなかった友達に会えるというのは嬉しいことだ。ユーリたちは学校の公式の用で何度もこちらに来ているので、生徒会室は知っているし役員の何人かとは顔見知りなのだ。ウルゴーラの連中とはあっていなかったと思うが。
「あ、いーよいーよそのままで。単に様子見に来ただけだから。心配しなくても今日一日はずっとこっちにいる予定だからさ、仕事が終わったあとでも会えんでしょ?」
「それまでは、学園祭とやらを見物でもしている」
「え、でも……」
「案内してやったらどうだ」
「一人なら半刻やそこら抜けても変わらない。別にこちらとしてはかまわないぞ?」
「エーランド、ライナー……」
 思わず感謝の視線をそちらに送ってから、そろそろとマルジョレーヌの方に視線を向ける。ウルゴーラ軍学校生徒会役員でただ一人部屋に残って仕事をしている彼女は、にっこりと微笑んでうなずいた。
「もちろんかまいませんとも。遠くから来てくださったお友達なのですもの、ゆっくりご案内して差し上げてけっこうですわ」
「…………」
「すいません。……さて、じゃあナップ、案内してきてくれるかい?」
「え……俺? いいのか?」
「ええ。あなたの休憩時間、あと半刻あとでしょう? ついでに休憩入っちゃいなさい」
「仕事が終わったら会おうね、二人とも」
「りょーかいっ。さて、じゃーナップたん、思う存分俺らを案内してくれていーよん」
「お前なー、案内する気が失せるような言い方すんなよ。ま、するけどさ。……じゃ、悪いなみんな、行ってくる」
 そう言ってナップは生徒会室を出た。普段とはまるで違いにぎやかにさざめく校内を、歩きながら説明して回る。
「あっちが三年の軽食喫茶、向こうが四年の運動施設。その奥の講堂は……この時間だと有志の音楽演奏だな。今流行の歌を何曲か歌うらしいけど」
「へー、意外と俗な催しが多いんだねー」
「ああ、学園祭ってどういうことすんのかよくわかんなかったんだけどさ。最初は固い催しがほとんどだったんだけど、一般入場も可だから、どんなお客にも受けるようにっていうんでちょっとずつこうなっていったらしい」
「……確かに、にぎやかだな」
「ああ、普段とは人数が違うからなー。なんかこういう風にいっぱい人がいるとワクワクしてくるよな」
「うわー、ナップたん相変わらずおこちゃまー。カ・ワ・イ・イv」
「んっだとっ……え?」
 ナップは怒鳴りかけて、思わず足を止めて凝視した。ガラスを二枚隔てた向こう、反対側の廊下にいる男を。
「んー? ナップたんなに見てんのー……、っ」
「……知り合いか?」
「……うん」
 そこにいたのは、ラザールだった。だけど、ふだんのラザールではなかった。
 右手に子供の手を握っていた。まだ五歳かそこらの男の子だ。ラザールはゆっくりと歩きながら、今まで見たこともないような優しい顔で、ときおり男の子に話しかけ、ときおり周囲を見回しながら声を上げていた。たぶん親の名前を呼んでいるのだろう、男の子が一緒に周囲を見回すのが見えた。
 もうすぐで張り出し窓から姿が消える、というところで母親がやってきて、泣きながら男の子に抱きつき、ラザールにぺこぺこと頭を下げた。ラザールは控えめな笑みを浮かべて何度か首を振り、こちらも頭を下げた。
 男の子を抱き上げ、最後にもう一度頭を下げて母親は去っていこうとしたが、その時男の子がくるりとラザールの方を向き、小さく手を振った。それにラザールは微笑んで、小さく手を振り返す。
 それから男の子も母親もラザールに背を向け今度こそ去っていったが、ラザールはその背中をじっと見送っていた。狂おしいほどに切なげな、苦しげな表情で。
 そしてゆっくりと一、二度首を振り、きっと顔を上げ、いつもの偉そうな表情に戻ってその場を立ち去っていった。
「…………」
「……どうした? ナップ」
 ナップはくるり、と二人の友達の方に向き直り、「なんでもない」と笑ってまた歩き出した。

 学園祭は無事大成功を収めた。実行委員会の会長からも何度も礼を言われた。人手不足で悩んでいたところに、何人も人手が加わって相当に助かったらしい。学校側との折衝で時間が短縮できたのも大きかったそうだ。
 後夜祭も無事終わったあと、実行委員会も生徒会も生徒会室に戻って打ち上げを行った。予算の余りから打ち上げ用の金を残しておいたのだ。それなりの仕出し屋に頼んで、軽食と飲み物を運んでもらった。ついでだということでユーリとクセードも一緒だ。
 あちらこちらで乾杯が行われる中、ウルゴーラ軍学校の生徒会役員たちだけは自分たちだけで固まっていた。やはりろくに仕事もしていなかった者たちを仲間と認めることはできなかったらしい。それでも彼らは高慢に胸をそびやかし、いつも通りにマルジョレーヌに追従を行っていた。
 ナップはひとしきり乾杯を受けたのち、すっとそちらに近づいた。ウィルが「おい、ナップ……」と低く囁いたが、小さく「大丈夫だから」と囁き返して歩を進める。
 ウルゴーラの者たちの目にすっと警戒の色が宿った。マルジョレーヌを守るように立ちはだかる。その先頭の生徒――ラザールに、ナップは視線を合わせた。
 なぜか周囲が静まり返っている。こちらに視線が集中しているのを感じた。なんでだ、と思いつつもじっとラザールを見上げる。ラザールはいつも通りの鼻持ちならない傲慢な表情で、こちらを見下ろしている。
「ラザール」
「なんだ、賤民」
 じっと瞳を見つめてから、ナップはにこっ、と笑ってみせた。ラザールが目を見開いた仰天、という顔になったが、かまわずに告げる。
「今日、お疲れさん。よく頑張ったよな」
 それだけ言って背を向けて、他の仲間たちのところへ戻る。
 周囲はざわめき、ナップになんなんだと訊ねてくる者もいたが、ナップは彼らに適当に答えてやりながら考えていた。あいつの言ったことは許せない。ただ一度いいことをしたから信用するってわけでもない。
 だけどあいつも悪人∞嫌な奴≠ニいう言葉でだけ表される存在ではないのだと、過去を持ち人格を持ち人生を持って生きてきた人間なのだと感じたから。
 もうちょっと頑張ってみよう。もうちょっと気持ちを与え続けてみよう。お前と向き合いたいと言い続けてみよう。先生だったらきっと、ただ嫌いあい傷つけあうよりも、お互いに与えあう方がずっといいって言うと思うし。
 ま、とりあえず宣戦布告。そういう気持ちで振り返ってにやりと笑うと、ラザールはあからさまにうろたえた顔でそっぽを向いた。

ラザール=Bそうナップに名を呼ばれた人間は、誰もいなくなった生徒会室で一人たたずんでいた。
 うつむき、床を睨みつけ、ぎり、と拳を握り締める。唇を血が出るほど噛み締め、口の中だけでひたすらに何度も呟いた。
「嬉しくなんてない、嬉しくなんてない、嬉しくなんてない、嬉しくなんてない、嬉しくなんてない、嬉しくなんてない、嬉しくなんてない、嬉しくなんてない………」
 そうだ、嬉しくなんてない。嬉しいとか感じてはいけない。自分はそんなことを感じることは許されないのだから。
 自分はラザール・アルカデルト。自分の生まれを鼻にかけた高慢で傲慢な名家の一人息子。それでいい。それ以外の要素はあってはいけない。あってはいけないいけないいけないいけない。
「嬉しくなんて、ない………っ」
「ラザール」
 びくっ、とラザール≠ヘ体を引いた。いつの間にか目の前に、マルジョレーヌ・セスブロン=ヴィズール≠ェ立っている。気配なんてまるで感じなかったのに。
「マ、ルジョレーヌ、さま」
「ラザール」
「は、い」
「あなたの成すべきことを、忘れないようにしてくださいね」
 それだけ言ってマルジョレーヌ≠ヘこちらに背を向けた。静かな足音を立ててゆっくり遠ざかっていく。ラザール≠ヘ恐怖のあまり荒くなった呼吸を整えながら、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。
 そうだ、自分は成すべきことを、忘れてはいけない。まぶたの裏が暑くなるのを無視して、必死にそう言い聞かせた。

戻る   次へ
サモンナイト3 topへ