最終年・7――舞踏会のこと

「おお、よく似合うぞ、ナップ。本当に大きくなったな、そういう服がずいぶんと似合うようになった」
「……うん。ありがとう」
 ナップは重い気持ちのまま、父に小さく礼を言った。確かに、父にここまでのことをさせたのだから礼ぐらい言わなければ悪いだろう。
 今自分が着ている礼服は帝都でも最高級の店で、それこそ一般庶民の年収以上の代金を払ってあつらえたものだが(しかもカフスやらなにやらに宝石やプラチナが下品にならないようにあしらってある)、その代金はすべて父もち。軍学校の学生なのだから制服でいいのでは、と言ったのだが、マルティーニ家の嫡子の社交界へのお目見えですのにそのようなことでは! とサローネがうるさかったし、父に「立派に成長した息子に、手をかけるぐらいのことはさせてくれ」と微笑まれては受け容れるしかない。
 そのくらいの金は父にとっては実際はした金だろうからまだしも、こんなパーティーにわざわざ多忙な父が時間を割いてくれるというのだ。その時間があれば商会の人間を数百人単位で養えるほどの金を稼ぐ取引ができる父が。自分の入学式にも顔を出さなかったほど忙しい父が、わざわざ。さすがにナップとしても、申し訳ないという気分になりもする。
 たとえそれが、ナップにはまったく嬉しくないことだったとしても。

「舞踏会?」
 夏季休暇も終わりに近づいたある日。校長に呼び出されたナップたちは、聞かされた話に声を揃えて驚いた。
「そう、舞踏会だ。君たちに対する褒美、といったところだな」
「褒美、ですか?」
「その通り。先日君たちが怪盗を捕まえたことに対する、な」
「はぁ……」
「実は、我がウルゴーラ軍学校の生徒が帝都を騒がす怪盗を捕まえた、ということが社交界でも話題になっていてな。しかも君たちはいずれも帝国でも名家といわれる家の令嬢令息だ。これはひとつ、宴を開いて彼らをねぎらうべきではないか、という話が持ち上がった」
「はぁ」
「なので、君たちには一週間後……夏季休暇終了日の前日だな、に開かれる舞踏会に参加してもらいたい。君たちのお家の方々も、すでにご了承済みの話だ。舞踏会には君たちのご家族もやってこられる、舞踏会に際しての世話をしていただくといい。君たち自身にとっても、これはいい話だろう。舞踏会には上級軍人や高位執政官が何人も訪れる、彼らとよしみを通じておくのは君たちの将来に大きな助けになるはずだ」
 そう言われて校長室を出たのち、ナップはふぅ、と息をつく。
「舞踏会かぁ……なんか妙なとこで妙な話になったなー」
 怪盗を捕まえるのは、もちろん犯罪者を捕まえたいという気持ちもあったが、基本は学生同士の遊びの延長だったというのに。それに大人が出てくるというのは、正直しらけるし面倒くさい、という気分が否めない。
 それに、なにより。
「親父と会うのかー……気が重いなー」
「同感。褒美というより罰則よね」
 ベルフラウもうなずく。彼女の両親が、ガスタロッシ家の傍系で、当主に必死に媚を売る、一族内で少しでも自身の地位を向上させることしか頭にない人々だというのはすでに聞いている。
「そもそも、舞踏会が褒美だというのもどうかと思うよ。縁故というのは利用もできるけれど、下手をすれば強いしがらみにもなるんだから結ぶには慎重にならなくてはならないのに。舞踏会で押し寄せる人々を一瞬ですべて判定するなど不可能なんだから、どうしたって邪魔な相手も出てくるだろうし」
 ウィルも忌々しげだ。ウィルが両親と兄に対し、強い隔意を持っているのはこの場にいる全員、よーく知っていることだ。
「うん……私も、お父さんやお母さんに会うのは気が進まないけど。……舞踏会は、ちょっと、嬉しいな」
 アリーゼが少し困ったように微笑みながら言った言葉に、思わず三人そろって不意を衝かれた顔になった。アリーゼも両親については『自分のことを理解してくれる気がない』と悲しげな顔で非難していたというのに、それでも微笑むことができるとは。
「……アリーゼ、そんなに舞踏会とか好きなのか?」
「え? う……うん。だって、素敵じゃない? 男の人も女の人も、みんなめいっぱいおめかしして、きれいに飾られた舞踏場で踊るなんて。物語みたい、って思うもの」
「そういうもんかなぁ……」
「いつもながら女心がわかってないわね、ナップは」
 偉そうに胸を逸らしながらベルフラウに言われ、むっと唇を尖らせる。そりゃ、自分が女心をよくわかっていると言うつもりはないが。
「なんだよ、じゃあベルだったらアリーゼの気持ちわかるのかよ?」
「まぁね。私だって女だもの、好きな男の子と一緒に踊れたら楽しいんじゃないかな、って思う気持ちはわかるつもりよ?」
「えっ……」
 悪戯っぽく顔をのぞきこまれ、思わず顔を赤らめる。いや、それは確かにベルフラウは女だし、そういう気持ちはわかって当然かもしれないけれども、好きな男の子ってこの場合それは、自分になる、のではないか。
 赤くなってなんとか返す言葉を探すナップに、ベルフラウはふふんと笑ってこちらに背中を向けてみせた。
「実際、ここまで正式な命令となれば従わないわけにはいかないんだから、せいぜい楽しんだ方が得策でしょ。私たちの女ぶりを見せつけてあげるから覚悟しなさい。あなたたちも、ちゃんと正装して私たちをエスコートしてよね?」
 そう言ってくるり、とこちらを振り向いてこちらを見上げてくる――となればナップには、苦笑して「へいへい、せいぜい頑張らせてもらいますよ」と答えるくらいしかできなかった。ナップに想う相手がいることを知りながら、それでもこちらにまっすぐに好意を向けてくる、まさにいい女≠ニ言いたくなるような相手に、同情だのいこじな拒絶だのを返すのは、あまりに品が下ると思ったので。

 けど、舞踏会に行くのはしょうがないから納得はしたけど、やっぱりこういうのは気が重いなー、とナップは馬車の中でため息をついた。
 マルティーニ家が社交界用に用意している豪奢な馬車。そのふかふかのクッションに父と並んで座りながら、ナップは窓の外を眺める。
 馬車に乗ってからというもの、自分と父の間には重い沈黙が降りていた。馬車に乗るまでは鷹揚な笑顔を浮かべ、堂々と構えながらも、サローネや御者たちのような周りの人々に細かく指示を出したり和やかに会話したりしていた父は、馬車に入って自分と二人きりになるや仏頂面になって黙り込んでしまっている。
 自分としても、正直父と仲良くお話、なんてことはできる自信がなかったのでちょうどよかったが。
 別に父が嫌い、というのではない。少しは世の中を知ったから、父がどれだけすごい人間かというのはわかるつもりだ。
 帝国有数の豪商。次々に大きな取引を成功させる才覚と、部下のみならず取引相手に対しても気遣いを見せる懐の深さを併せ持つ男。彼の商才の生み出す経済効果は計り知れない、まさに帝国の経済面を背負って立つ人間の一人。
 けれど、どうしても思ってしまうのだ。『それでも俺はこういう人間にはなりたくないな』と。
 父のすごさを知りつつも、どうしたって思い出してしまう。広い屋敷の中で、サローネや家庭教師の厳しい教育を受けながら、なんにも面白いと思えることがないままでただ一人過ごしていた日々のことを。
『誰も自分を見てくれる人がいない』。そう、ずっと、胸が張り裂けそうなくらい思いながら生きていたあの頃。
 どんなにひどいいたずらをしても、どれだけ贅沢な食事を与えられても、自分は満たされなかった。寂しくて寂しくてしょうがなかった。自分を見てほしい、誰かに仕事でなく、義務でなく、ナップがナップだというただそれだけの理由で自分と向き合ってほしい。その頃は言葉にはできなかったけれど、たぶん自分はそんな風に思っていた。
 けれどそれはあの環境では与えられるものじゃなかった。学校には『マルティーニ家の令息が庶民と机を並べて勉強など』という理由で通わせてくれず、毎日勉強でスケジュールがぎっしりで、周りには父親に雇われた家庭教師やメイドや使用人たちしかいない、そんな毎日では。
 今は、先生と出会い、想い合うことを教えられて満たされて、友達もできて、自分の人生を肯定することができているけれど――それでもやっぱり、どうしても思ってしまう。『親父みたいな大人になりたくない』『自分の子供にあんな寂しい想いをさせる親になりたくない』と。父の環境から考えれば、やむをえないことだったのだろうとは思うけれど、それでも。
「ナップ」
 唐突に声をかけられて、ナップは物思いから覚めた。思わず心身を緊張させながら、のろのろと父の方を向いて答える。
「なに」
「最近、学校の方はどうだ」
「どう、って?」
「楽しいか?」
「うん……楽しいけど」
「けど?」
「……楽しいよ」
「そうか……」
 そう言って無言で視線を逸らす父を、思わず怪訝そうな目で見てしまう。なにが言いたかったんだ、この人。
 それからはなにも言葉を交わさないまま、馬車は舞踏会場の帝国商工会議所に着いた。ここは帝都の商業ギルドの持つ会議所のひとつで、主に身内で晩餐会等を開く時に使われる場所なのだそうだ。つまり迎賓館などと比べるとぐっと格が落ちるわけだが、実際ほとんど身内だけしか来ない予定なのだからそれでも充分すぎるほどだろう。
 馬車の扉が開かれるのに、ほっと息をつくような気分でさっさと先に降りる。一応父が降りるのに難渋していたら手を貸すつもりで待っていたが、父もわっとばかりに駆け寄ってきた小者に手を借りてさっさと降りた。
 小者に舞踏会場へと案内される。ここへ来たのは初めてだったが、おそらく普段とは比べ物にならないほど飾りつけられているのだろう。いくつもの燭台が輝き、中央の大きなシャンデリアの中に備えつけられたロレイラルの明かりが周囲を明るく照らす。テーブルの上には金やら銀やらの器が並べられ、何十人もの着飾った男女が光を眩しいほどに跳ね返していた。
「……友達のとこ、行ってきてもいい?」
「ああ、行ってきなさい。私は私で、話をしておく人がいるから」
 許可を得た、とほっとして歩き出す。話をする人がいるというのは嘘ではないようで、父はたちまち何人もの人に囲まれていた。もしかしたらここで商売の話でもするつもりだったのかな、とぐっと気が楽になり、さっさと父から離れてきょろきょろと周囲を見渡す。
 と、肩を叩かれる。
「ナップ」
「わ! ……って、ウィルじゃん。お前気配消して近づくなよなー」
「別に消してるわけじゃないよ、足音を殺して歩くには常に練習を繰り返さなきゃいけないと教わったのを実践してるだけさ」
 涼しい顔で言うウィルは、当然だが舞踏会用にそれなりにめかしこんできていた。礼服の形自体は自分とそう変わらないが、カフスの細工やら刺繍やら、細かいところが自分のものより落ち着いた、品のいいものに変わっている。こちらの方がはるかにウィルには似合っているだろう。
「お前そういうカッコ似合うなー。俺さぁ、親父に着せられたはいいんだけどさ、鏡見てうわって思ったよ。もー似合わねーこと似合わねーこと。なんかすっげーガキっぽくなっちまってさ」
「いいんじゃないか? 君らしくて。いまさら格好をつけたところですぐ地金が出るんだから、そんなみっともないことをするよりずっといいよ」
「んっだとっ、お前ちょっと似合うと思って人のことぼろくそ言いやがってー」
「君が似合わないとは言っていないよ。……その服は、君に似合ってる」
「え、そ、そう、か?」
「まぁ、女性陣のいい添え物になるんじゃないか」
「添え物かよ!」
「舞踏会の主役は女性なんだから別にいいだろう? ……ほら、噂をすれば」
 え、とウィルが指し示した方向を向き、ナップは思わず目を見開いた。そこに立っているのはベルフラウとアリーゼだ。が、いつものベルフラウとアリーゼでは、まったくなかった。
 ベルフラウはその蜂蜜色の髪を結い上げ、真珠の髪飾りで彩っていた。肩をむき出しにした真紅のドレスを身にまとい、首には大きなルビーをあしらったネックレス。指先には指輪、耳にはピアス。
 ドレスの彩色や形は派手派手しいと言っていいほどのものだし、あちこちをごてごてと飾りつけていて、ナップの趣味には合わないはずなのに、なぜだろう、なにかこう、見ていると背筋がむずむずするというか、目がいってしまうというか、無理に言葉にするなら、艶かしい、と言いたくなるようなものを感じてしまった。
 アリーゼは紅茶色の髪を後ろに流し、ルビーの髪飾りで飾っている。ベルフラウとは対照的に、肌の露出の少ない紫のドレス。釣鐘型に大きく広がったスカートをきゅっと腰の辺りで締め、胸の辺りでまた大きく膨らんでいる。アリーゼってこんな胸大きかったのか、と一瞬そんなことを思ってしまった。
 それこそ物語の中に出てきそうな、可愛らしいお姫さまのドレス。こちらはこちらで目が惹きつけられるというか、可愛いな、と思いつつどきどきと胸を高鳴らせてしまうものがある。
 思わず無言でじっと見つめていると、ベルフラウにじろりと睨まれ(でも耳の辺りは赤い)、アリーゼに泣きそうな顔をされ、それでようやくはっと我に返って、言いかけて恥ずかしさのあまりためらうということを繰り返してから(だってこんなの今までのナップの人生からすればありえないの極致だ)、覚悟を決めて言った。
「……と、その。えっとな……その。……二人とも、似合ってるぜ。すっげー、可愛い」
 頬と耳と頭を熱くして、たぶんつま先まで真っ赤になりながらそう言うと、ベルフラウとアリーゼはそれぞれぱっと顔を赤くし、ほっとしたように見合わせてから、それぞれのやり方で偉そうにうなずいた。
「言うのが遅い。まぁ、ナップだったらしょうがないわね、本当に気が利かない人だから」
「仕方ないから、許してあげる。でも、これで減点一だからね」
「……お前ら、えっらそーだなー。なんだよその態度のでかさ」
「顔を真っ赤にして目を逸らしながら偉そうなことを言っても、説得力がないぞ、ナップ」
「………っウィルっ! お前なぁっ、そーいうことをこーいう時に……ていうかおいっ、ベルもアリーゼもなんでウィルにはなんにもなしなんだよっ」
「あら、ウィルはもうとっくのとうに私たちのところに来て『すごく似合ってるよ』『きれいだよ』って言ってくれたもの。遅れてやってきた上舞踏会で女の方から探させる誰かさんとは、比べ物にならないでしょう?」
「げ、マジかよ。いつものことだけど、なんだよそのそつのなさ」
「それが僕の取り柄だからね。満座の注目の中でみっともない姿を晒すのは、僕の趣味じゃないし」
「……満座の注目?」
「気づいてないのかい? 君は殺気以外には鈍感だな。周囲の人々が僕たちの一挙一動をうかがっているのに気づかないのかい」
「え……」
 言われてそれとなく周囲を見回してみて、気がついた。確かに周囲の人々から、自分たちに向けて様子をうかがうような視線が浴びせられてきている。
「僕たちはそれぞれかなりに有力な家の出身だし、自分たちで言うのもなんだけれど優秀だ。そして軍学校在学中に社交界の話題になるようなことをしてのけてわざわざ舞踏会まで開かせてしまうんだから、それは近寄ってくる奴も足を引っ張ろうと隙をうかがう奴もうじゃうじゃいるだろうさ」
「そっか……そりゃそーかもなー。けど、やっぱなんかそういうのは好きになれねーよ。なんか卑怯っていうか、ズルいっていうか、辛気くさいっていうか」
「好きになる必要もないんじゃない? そういう奴らは適当にあしらっておけばいいのよ。そういうしょうもない陣取り合戦が好きな人たちなんだから、放っておきなさい」
「……ま、それもそっか。ベル、なんか実感こもってんな」
「まぁ、親がそういう人たちだからね……と」
 しずしずとこちらに近寄ってきた小者たちに、顔を見合わせ苦笑する。どうやらお勤めの時間がやってきたようだ。
 小者の先導で、人々が集まっているところに連れてこられる。そこにはすでに自分たちの両親たちがやってきていた。
 仲間たちの親を見るのは初めてだったが、それぞれ聞いていた話とさして変わらない人々に見えた。いかにも旧時代の貴族然としたベルフラウの親、大きく太って利権的なことしか頭になさそうなアリーゼの親。
 そして、口元に微笑みをたたえた、高級官僚を絵に描いたような穏やかな風貌のウィルの父親と、兄であろう凛々しい青年。
 目が合うとそれぞれ(いろんなものの篭もった)笑顔を向けてきたので、軽く会釈しておいた。めいめい親の前に連れてこられ、背筋を伸ばす。
 す、と自分たちの後ろから一人の男が前に出る。ウィルから聞かされた話によると、どうやらヴィズール家の人間らしい。この舞踏会はそもそも真聖皇帝の傍流といわれるヴィズール家のお声がかりで行われたというのだから当然といえば当然なのだが、ナップとしてはついマルジョレーヌの影を感じて少しばかり嫌な気分になってしまう。
「ご来場のみなさま、しばしお耳を拝借させてくださいませ。こちらに居並ぶ少年少女たちは、いずれも劣らぬ名家の出、しかも軍学校に在籍する身でありながら帝都を騒がす怪盗を退治したと、真聖皇帝からもご賞賛を賜った身であることはみなさんご承知のことと存じます……」
 それからもえんえん続くややこしい修辞やら儀礼やらに満ちた言葉を、ぴんと背筋を伸ばしながらもため息をつきたいような気分でナップは聞いた。別に、こういうことをされたくて怪盗を捕まえたわけじゃないんだけどな。
 ただ、自分たちはそれが面白かったからやってみただけだ。そして大きく言えば、世のため人のためにもなると思ったから。業突く張りの金持ちしか狙われないというのであまり義務感は感じなかったけれども。
 自分たちが好きで、楽しいからやったことを、こういう風に勝手に他人に評価され、褒められたり貶められたりするのは、なんだか、ひどく嬉しくない。
「……では、この帝国の未来を担う少年少女たちにダンスのリードをとってもらうこととしましょう!」
 声が途切れたのにはっとして、慌てて一歩を踏み出す。最初に自分たちがダンスをさせられることは知っていたので、一応それなりに練習はしておいた。最初はナップがベルフラウと、ウィルがアリーゼと。一曲踊ったら交代してまた踊り、それでお勤めは終わり。
 のはずだった、のだが。
「アリーゼ?」
「え、なに、ベル?」
「じゃんけんしましょ。じゃんけん、ほいっ」
「え、え?」
 言われて、おそらくは反射的に突き出した手の形はチョキ。ベルフラウはパーだった。ベルフラウは小さくため息をついてから、にっこり笑ってすいと動く。
「なら、アリーゼが先にナップと踊るということで」
「え……え!?」
「は!? って、ちょっと待てよベ」
「さ、いきましょうウィル。ミスしたら承知しないわよ?」
「誰に言っているんだい。お相手願えますか、レディ?」
「喜んで」
 軽く微笑みを交わし、ウィルとベルフラウは揃って舞踏場へと出ていってしまう。周囲からは矢のように好奇の視線が飛んでくる。そしてアリーゼは、今にも泣きそうな顔をして自分とベルフラウたちを見つめている。
「……ったく」
 軽く頭をかいて(から髪がきれいに整えられていることを思い出した)、息をつき。にっと笑顔を浮かべて、アリーゼに手を差し出す。
「お相手願えますか、お姫さま」
「……っ……」
 アリーゼは本当に泣き出してしまうんじゃないかと思うほど潤んだ瞳で、眉の辺りを歪めてこちらを見たが、やがておそるおそる、という感じにこちらに手を差し出してくる。思わずほっ、と笑って、アリーゼの手を取って舞踏場へと進み出た。
 ………プワァ――――ン。
 ゆったりと始まる音楽。舞踏会の始まりを告げる三拍子の音楽だ。手首を立てて手を組んで、向かい合って左腕は耳の高さに、右腕をアリーゼの背中に添え、自然に一歩を踏み出した。
 ゆったりとした音楽に乗せ、波のように、うねるようにステップを踏む。三歩、六歩、九歩。三歩、六歩、九歩。ガキの頃にみっちり叩き込まれたし、この一週間の間に特訓したのだ、それなりに様になっているはず。
 ガキの頃死ぬほど嫌だったダンスの練習がこんなとこで役立つなんて、やっぱ勉強ってのはなんでもやっとくもんだな、としみじみしつつちらりとアリーゼの顔をのぞきこむと、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ているのに気づき思わず慌てた。
「アリーゼ……どうした?」
「……ううん。なんでも、ないの」
「……俺が聞いちゃ、まずいことか?」
「ううん……うん……ううん……ううん、やっぱり言えない。言えっこない。絶対に言っちゃいけないことなの」
 ダンスのステップを踏みながら、小さな声で囁き交わす。アリーゼがなにを考えているかはわからなかったが、その潤んではいるが真剣な瞳は絶対に嘘じゃない、とナップには感じ取れた。
「アリーゼ……あのさ。お前が考えたことや、決めたことをどうこう言う気はないけどさ」
「…………」
「俺も、俺たちも、どんなことになっても絶対お前の味方だからな。それは、忘れんなよ」
「っ………」
「俺たち全員、お前のこと、すごくすごく大切だからな」
 じっ、と瞳をのぞきこんでそう言うと、アリーゼは今にも涙がこぼれそうなほど瞳を潤ませて、笑ってみせた。
「なに、言ってるの――ばか、ね」
 その笑顔は可愛かったけれど、ひどく切ないもののようにナップには思えたので、こちらまで胸がぎゅうっとして、きゅ、とアリーゼの体を抱き寄せる手に力が入ってしまった。
 一曲が終わり、相手が変わる。今度はベルフラウとのダンスだ。同様に手を握り(悔しいが、少しドキドキした)、体を抱き寄せ(これも)、平行に立って、さっきと同じワルツを踊る。
 踊りながら顔を近づけ、小さな声で囁く。
「おい、ベル。予定と違うじゃんか、なんだよ突然勝手なことしやがって」
「あら、公平じゃない。あらかじめ決めてしまうよりずっといいでしょう?」
 涼しい顔で言いながらも、見事なステップで身をひるがえす。その時にふわりと薫った、香水と混じったベルフラウの匂いに、一瞬頭の芯がくらりとして、一瞬後そのこと自体がひどく恥ずかしくなって顔を赤くしてしまった。
「公平、って……お前だって納得してたくせに」
「してないわよ。アリーゼだったら納得した顔するまで容赦しないと思っただけ。本当なら私だってちゃんと、正々堂々と勝負したいって思ったんだけど、アリーゼはそういうの嫌がるだろうなって思って」
「……アリーゼにとって、それだけお前の存在がでかいってことだろ」
「まぁね――でも、その口ぶりだと気づいてた? ちょっと意外」
「……気づいてねーよ」
「とぼける気?」
「そうじゃない――俺は、相手が真正面からそうだ、って言わない限り、勝手にそういうことだって呑み込んで行動しないって決めてるんだよ」
「……応えられないから?」
「…………」
 ナップはその問いに、無言で答えることしかできなかった。
 だって、どう答えればいいんだろう。自分は先生が好きで、大好きで、ただ一人の人と決めていて――けれどお前たちもすごく好きで、大切で、時々ドキドキしたりときめいちゃったりしちゃって、いつか別れることがあったとしてもずっと繋がっていたいと思う、なんて都合のいい気持ちをぶつけても、三人とも答えようがないってわかってるのに。
「ずるい男」
「って!」
 ピンヒールでぎゅぅ、とつま先を踏まれ、思わず小さく声を上げる。のやろ、と思いつつもこちらとしては黙って小さくなるしかないのだが、ベルフラウの顔はなぜか微笑んでいた。
「……ベル。怒ってねぇの」
「あら、怒ってほしいのかしら?」
「そうじゃ、ねぇけど。普通は怒るんじゃねぇかな、って」
「おあいにく。私はそんな簡単な女じゃないの」
 軽く笑ってきゅぅ、と指先をつねる。む、と唇を尖らせながらもそれを受けていると、指と指がまるで絡めあっているような形になった。正直うわぁ、と赤くなるほど恥ずかしかったのだが、振り解くのも申し訳ない気がしたので――
 いや、そうではない。正直なところを言えば、振り解きたくなかった。舞踏会で、一緒に踊って、相手は自分のことを好きな子で、自分も好きだと思える子で。そういう相手の絡めてきた指を、振り解きたいと思わなかった。……好きな人に申し訳ない、とは思ったけれど。
 三歩、六歩、九歩。体を密着させながらステップを踏む。ベルフラウの体温と、香りを感じながらくり返し、くり返し。――頭がくらくらした。
「……ねぇ、ナップ」
「……ん?」
 密やかな声に、密やかに答える。むしろ大きな声を出すことができなかった。緊張で声が喉に張りつく。なんだか自分がひどくいけないことをしている気がして。
「お願いがあるんだけど」
「……どんな?」
「覚えていてほしいの」
「なにを?」
「……いつか。もっと時間が経って。私たちが一緒に生きることになったとしても。別れ別れになったとしても」
 かかと、つま先、つま先、かかと。高らかに流れる音楽の中で、何度も何度も。目の前に大切な女の子の顔を見つめながら。
「覚えていてほしいの。私のこと。アリーゼのこと、ウィルのこと……私たちが一緒に学んだ、一緒に戦った時のことを。私たちは確かに、同じ時間を過ごしたんだって」
 じっ、とこちらを見つめるベルフラウの眼差し。潤んだような、どこか切なげな、狂おしげとすら言えそうな、そのさまざまな揺らぎを内包した。
 頭がぐらぐらしそうな感覚を覚えながら、ナップは必死にそれを見つめ返し、かすれた声でようやく答えた。
「忘れるわけ、ないだろ」
「約束よ。きっとよ」
 その笑顔――
 ナップは自分の顔がすい、とベルフラウに近づこうとするのに気づいた。気づいた瞬間、音楽が止まる。ベルフラウは美しい挙措でナップから離れ、軽く礼をしてみせる。
 ほとんど反射的に礼を返しながら、ナップは呆然としつつベルフラウを見つめた。今、俺、なにしようとしたんだろう。
 けれどベルフラウはそれに答えを出すよりも早く、くすっと悪戯っぽく笑って、人の向こうに姿を消してしまった。
「…………」
「好きな子に別れを告げられた男のような風情だね」
「わ!」
 言われて仰天しながら振り向いて、さらに驚いてぱかっと口を開けた。声からも口ぶりからも、そこにいたのはウィルだとばかり思っていたのだが、そこに立っていたのはウィルよりかなり年かさな黒髪の青年と、黒髪の中年男だ。
 この顔には、覚えがある。
「……ウィルの、お父さんと、お兄さん、ですよね」
「おや、覚えていてくれたのか。嬉しいよ、ありがとう」
 微笑みながらそんなことを言ってみせるその表情。ウィルなら決して浮かべない表情だ、と思った。優しく柔らかく穏やかで人当たりのいい、そんな顔をこんなに自然に浮かべることは、ウィルにはきっとできない。
「しかし、モテるんだな、君は。女の子二人ともから熱い視線を送られるとは。相手にされていない我が息子が不憫でならないよ」
「え、いや、ウィルは下級生の女の子とかによくラブレターもらってたりとかしますよ。同級生とか、下級生の中でも年齢が上の子とかにもきゃあきゃあ言われてたりするし」
「つまり、親しい間柄の人間にはあまりモテていないと?」
「え!? いや、そういうわけじゃ……たまたま親しい人間があいつに今惚れてないだけで」
「ほほう。ということはこれから好きになる可能性もあるというんだね?」
 問われて一瞬考えた。人を好きになるというのは、自分にとっては本当に大切で、そしてその分重いことだ。少なくとも相手がこちらを向いてくれないからはいそうですかと次に行けるわけがない。
 だが、未来。長い、長い時間が経ったあとなら。
「ある、と思います。他の人間に強い想いを持っていても……お互いが好きなのも、確かに本当なんだから」
「ほう……」
 その言葉に、なぜかウィルの父と兄は深くうなずき、にっこり笑ってナップの手を握った。
「ありがとう。君は本当にウィルのことを大切に思ってくれているのだね」
「これからもあの子と仲良くしてやってくれないか。意地っ張りで素直じゃないけれど、本当は寂しがり屋の優しいいい子なんだ」
「え……はい。あいつが意地っ張りだけど優しいのは知ってるし、俺はずっと友達でいたいって思ってます、けど」
 なんでこの人たちがいきなりこんなこと、と困惑するナップに、なぜか二人は「そうか……」と微笑んで、ナップの手を両手で握り『頼んだぞ』とでもいうように振ってみせる。
 と、そこに舞踏会場の向こうから、ずかずかとウィルが歩み寄ってくるのが見えた。
「兄さん! 父さん!」
「おや、ウィル」
「――こんなところでなにを話しているんですか。あなた方には他に話すべき相手がいくらでもいるでしょう」
 底に秘めた熱情を無理やり押さえつけて、冷徹な表情を浮かべてこちらを見やるウィル。そのいかにもウィルらしい表情に、ウィルの父と兄は微笑んで答えた。
「お前の親友ほど、私たちにとって重要な相手はいないさ」
「お前は私たちの大切な息子、あるいは大切な弟なのだからな、ウィル」
「……っ、そういう繰り言で時間を無駄にしないでください。彼をなにに利用するつもりですか、場合によっては僕も容赦しませんよ」
「ひどいな、ウィル。弟の友達に弟をこれからもよろしくと頼むのは、そんなにおかしなことかい?」
「お前の学校でのことをいろいろ聞きたいと思っても、別におかしなことではないだろうに」
「白々しいことを言わないでくれませんか。あなた方が僕に純粋に興味を持つなど、天地がひっくり返ってもありえないことです」
「やれやれ、さんざんな言われようだなぁ。お前は僕たちのことがそんなに嫌いなのかい?」
「っ……」
 穏やかな笑顔の兄と父に対し、苛烈なまでの敵意と警戒心を込めた顔で対峙していたウィルは、その兄の一言に一瞬瞳を揺らした。そしてその一瞬後には奥歯を噛み、ぎっと二人を睨み、ぐっとナップの手をつかんで頭を下げる。
「無意味な質問をしないでください。彼と話があるので、失礼します」
「そうか、どうぞごゆっくり」
「ナップくん、また話をしような」
「え、はい……」
 言われながらも素直に引っ張られて歩く。ウィルは奥歯を噛み締め、苛立ちと憤りをあらわにしていたが、顔色はむしろ青かった。
 父親と兄が見えなくなってからウィルは立ち止まり、小さく、呟くように言う。
「駄目な奴だ、と思うだろう」
「なにが?」
「……兄に対する劣等感を、父親に対する苦手意識をまるで乗り越えられていない、弱い人間だと」
「なんでだよ」
「今のを見ただろう。普段の顔が嘘みたいに乱れて……情けない。みっともないったらありゃしない。怠りなく勉強や鍛錬を積み重ね、いろんな経験も積んで……少しは成長できたと、思っていたのに……こんな」
「成長したから、即失敗しないってわけじゃないだろ」
「…………」
「何度も失敗して、どうにかこうにか学んで、それでもうまくいかない時はうまくいかない。そういうもんじゃん。お前だって本当はわかってるくせに」
「…………でも」
「でも?」
「……今度は、うまくいかせたかったんだ」
 小さな呟き。下手をすると聞き取れないのじゃと思うほどの。
 兄に対する根深い対抗心、父親に対する不信感と苦手意識、それを乗り越えたいという強烈な克己心、情熱、決意。
 そしてたぶん、初めて兄と父親に会う自分たちの前できちんとした対応をしたいという、格好をつけたい気持ち。
 そんななんやかやがなんとなくわかって、ナップは小さく微笑んだ。こういうのはたぶんウィルにしてみればすさまじく腹の立つことなんだろうなと思うのだが、こいつのこういうところ可愛いなぁとか、好きだなぁとか、そういうことを思ってしまったのだ。
「そっか」
 そうとだけ言って、ナップはきゅっとウィルの手を握りなおした。きちんと手と手が組み合わさるように。手と手がちゃんと繋がれるように。
 弾かれるようにこちらを見るウィルに、ナップはにっ、と悪戯っぽく笑ってやる。手はきちんと繋いだままで。
 ウィルは戸惑ったようにナップを見て、繋がれた手を見下ろして、もう一度ナップを見て、それから顔を赤らめ、にこっと恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑い――
 バァンッ!
「全員手を後ろ頭で組んで床に膝をつけェっ!」
 そんな叫び声に、ナップと一緒に目を丸くした。

 会場を襲撃した奴らは(全員黒づくめだった)、会場にいる五十人を超える人間を一まとめにして床に膝をつかせ、銃を持った奴らを見張りにつけた。向こうが主張するには、自分たちは帝国に囚われた旧王国の要人を解放するための人質であり、大人しくしていれば命は取らないが、帝国側がこちらの要求を拒否する場合はその限りではない、らしい。
 外で護衛していたはずの人間は全員やられてしまったのか眠らされたのか、とりあえずは反応がない。黒づくめたちは舞踏会場の扉をすべて閉め、テーブルなどで中から防壁を張り、完全に立てこもる態勢だ。
「やれやれ……帝都の治安は案外悪くなっているらしいな。こうもやすやすと工作員たちの侵入を許すとは」
 他の人々と同様に膝をつきながらそう嘆息してみせるウィルに、ナップはむ、と眉を寄せる。工作員。確かに、言っていることはいかにもそんな感じだけれど。
「……本当に、あいつら、そうなのかな」
「……そう、とは?」
「もしかしたらだけど……あいつら、無色なんじゃないかと思うんだ」
 きゅっ、とウィルが眉をひそめる気配。声を上げたりしないのはさすがだが、ウィルの緊張度が一気に跳ね上がったのが伝わってきた。
 それはそうだろう、旧王国の工作員は少なくとも貴人とされる人々をむやみに傷つける真似はしないが、無色の派閥は理屈の通じない奴らの集まりだ。貴人に対する攻撃はむしろ積極的に行うし、人をむやみに傷つけてはいけないというような最低限の禁忌すら存在しない。それを自分はよく知っている。
 小声で、視線を交わさないままに囁き交わす。
「根拠は」
「あの黒づくめたちの動きと服装。俺、以前に無色の派閥とそれに雇われてる紅き手袋≠フ連中とやりあったことがあるんだけど」
「……どういう経験をしているんだという質問は状況が落ち着いてからにしておくよ」
「質問じゃなくて詰問だろそれ。とにかくそいつらとあいつらは似すぎてる。それに、旧王国の工作員がどういう連中か詳しく知ってるわけじゃねーけどさ、普通ならこういう風に堂々と人質取りはしねぇんじゃねぇの、敵対国とはいえでかい国の看板背負ってる奴らがさ」
「確かにね……となると、なんとか相手を排除しないと、いつ暴発されるかもしれないわけだけど」
 ゆっくりと、ごくさりげなく視線を巡らせる。銃を持ってるのが五人、武器を見えるところには持っていないのが四人。それぞれがバラバラな位置に立ち、こちらを取り囲んで相互に視線を交わしている。
「一気に倒すのは無理、だな……人質いるのが痛いな。こん中にいる戦闘要員だけじゃ、どうしたって手が足りねぇぞ」
「確かに。しかもこちらには武器も、召喚石もない……こういうのを八方ふさがりと言うのかな」
「いや、俺は一個だけど召喚石持ってるぜ。いつも持ち歩いてる奴」
「相棒のあの子のかい? ……でも、それでも一撃で全員を効果範囲に捉えるのは無理だろう」
「そうだな……と、なるとここは、外にいる奴らに頑張ってもらうしかねーんだけど」
 揃って耳を澄ます。どこの出入り口もぴったりと閉め、防壁を張った向こうから、確かに人のざわめきが感じ取れた。
「一応、動いてはいるみたいだな。憲兵隊のこの手の奴らに対する対処法覚えてるか、ウィル」
「当然だろう。とりあえず交渉を長引かせて、できるなら犯人を特定し、相手の要求を聞きだし、小さな要求を呑んでやったりしながら犯人を落ち着かせ、かつこちらに有利なように誘導する。差し入れた水や食料に睡眠薬を仕込めればなおいい。あとは犯人の疲労がたまって注意力が散漫になったのを見計らい、交渉役が隙を見つけた瞬間に閃光やら睡眠ガスを生み出す召喚術等を使いつつ突入、犯人を倒す、あるいは確保」
「だよな……と、なると、こっちとしちゃとりあえずそれの邪魔をしないように、黙ってるにこしたことはねーんだけど……」
「できるなら、外に情報を伝えるぐらいのことはしたいものだね。そうでなくては未来の帝国軍人として、あまりに情けない」
「だな……」
 またさりげなく視線を動かす。窓も扉もふさがれ、視界はまったく外と通じていない。海戦隊用の信号も使いようがない。アールを召喚できれば転移させることはできるだろうが、どう考えても目立ちすぎる。あと思いつくのは……
 と、唐突に人質の中の一人が立ち上がった。知らない顔だ。だが二人は一気に緊張を高めた。場合によっては飛び出さなくてはならないことになるかもしれない。
「ちょっと、あなた方! いい加減にしてくださる、私今日はこのあと別のパーティに出席する用がありますの! あなた方につきあっている暇はありませんのよ!」
 うわぁ、と思わず内心で顔を押さえる。この状況でそんなことを言うほど馬鹿な奴がいようとは。
 怒鳴られた男はうるさげにその女を見て、がづん、と銃床で顔を殴りつけた。ぎゃっ、と喚いてその女は鼻血を噴き出したが、それでもめげずにぎゃんぎゃんと喚きたてる。
「あ、あなたのような下賤な人間が、私のような高貴な人間に……! 死刑よ、死刑ですわ、ヴィズール家の人間に手を出して真聖皇帝が黙っていると思って」
 ヴィズール家。
 一瞬、ナップは目を見開いた。頭の中で思考が回転する。いやまさか、でもそんなことは、ただの空想や妄想の類だ――でも、ひどく背筋が冷えて、体のどこかがそれに確かな真実味を感じている――
 その一瞬の弛緩の間に、すいと別の人影がそいつに近づいた。
「うるさい女だな。殺すか」
 言ってごく自然な仕草で背中に手をやった、かと思うと細く長い剣を抜いた。それをなんの気負いもなしに振りかぶる。女の表情が引きつった。掛け値なしに。まったく予想もしていなかった、という顔で。
 それを一瞬で認識したと思ったら、足が先に駆けていた。
「っ……!」
「……お」
 つ、とナップの掌から血の雫が垂れて落ちた。
 その男は驚いた顔でこちらを見ている。それはそうだ、ナップもまさか自分がこんなことをするなんて、というかできるなんて思ってもいなかった。
 以前一度だけキュウマに見せてもらった技、真剣白羽取り。スバルと面白がって練習したりもしたが、結局一度もできたことはなかった。それから確かに自分の戦闘技術は上がったと思っているが、まさか。ナップの位置からでは女を庇うことも男を倒すこともしにくい、と反射的に思って勢いでやってしまったことなのだが。
 だが、その驚きとすくむような気持ちを気合でねじ伏せてナップは男を見た。戦いはなんといっても気合が勝負だ。相手に気持ちで負けていたら勝てっこない。どんな勝負だって勝つ気で戦わないと勝てるわけがないのだ。
 と、まじまじとこちらを見ていた剣を振るった男――覆面をしていたが、その目尻の皺から中年の男だというのはわかった――が、その驚きに開いていた口の形を変えた。ゆっくりと、だがはっきりと。
 その男は、にぃっと、笑ったのだ。
 ざわっ、と背筋になにかが走りぬける。ばっと剣をもぎ放して大きく間合いを取った。今の、感覚は。
 にぃっと笑みを浮かべた男は、実に楽しげに大きく腕を広げてみせた。楽しげに、嬉しげに。
「おーどろいたねぇ! まさかなぁ! まさか俺の剣を素手で受け止める奴がいるとはなぁ! まぁそれだけなら万が一億が一の偶然ってこともあったろうが、俺の殺気を受け止めて即座に戦闘態勢に入れるなんてなぁ! いや驚いた、本当に驚いた。しかもそれがこんなガキなんて、本当に――嬉しい、ねぇえ」
 くっくっと笑い声を立てながら、ますます嬉しげに口の端を吊り上げてみせる。ナップの背筋には、これまでの人生で最大級の警戒警報が鳴り響いていた。やばい、やばいやばいやばいやばい、こいつはやばい。こいつ、オルドレイクやウィゼル級のやばさを感じる。
「こんなガキがいるなんて本当、世界はまだまだ捨てたもんじゃない! ……ああ、そうか、お前、ナップ・マルティーニ≠セよなぁ?」
「……そうだよ」
「うんうんそうだろうなぁそりゃそうだ。そんな素人目にも俺と渡り合えるかも、なんてことを思えるようなガキがごろごろしてるはずないもんなぁ」
「俺のことを、知ってるのか」
「ああ知ってるとも、第一候補。俺らが最終目的を達成するための道具のひとつ――けど、なぁ。まいったなぁ、まいったぞ。こんなガキを道具に使うなんてもったいねぇよ。ここまで見事に仕上がったんだ、きっちり壊れるまで遊んでやらなきゃなぁ」
 くっくっくっ、と笑いながら男はこちらに近づいてくる。他の男が「おい、まずいぞ」「落ち着け」などと言いつつ近づいてくるが、男は意にも介さない。
「そうだなぁ、とりあえずまずは死合ってみるか。俺に勝てばこいつら全員を解放する! っつったらお前も死ぬ気で戦うだろぉ?」
「おい! いい加減にしろ、なにを考えて」
 ずばっ。
 きゃーっ、と甲高い悲鳴、そして何人もの人が倒れる音。そしてむせるような血の匂い。
 肩に手をかけてきた仲間の男を一刀のもとに斬り捨てて、噴き出した返り血を顔に浴びておきながら、男はひどく楽しげにこちらに向き直った。
「どうだ、ナップ・マルティーニ? 楽しそうだと思わないかよぉ?」
 ナップは一瞬目を閉じた。血の匂いを感じる。三年前の戦いの時、何度もかいだ匂いを強烈に感じる。
 そしてゆっくりと目を開く。あの時は怖くて怖くてしょうがなかった、けど先生がいたから立ち向かえた。
 今は先生はいない、けど―――
 そして、ふっ、と息を吐き男を睨み据える。そう、気合で負けてちゃ、勝てる勝負も勝てない。
「あんたの、名前は?」
「……はぁ?」
「あんたの名前。それを教えてくれたらその勝負、受けてやるよ。敵の名前も知らないんじゃ気合も入らないからな」
 その言葉に目を一瞬ぱちくりとさせてから、にぃっとますます嬉しげに男は笑った。
「いいねぇ、実にいい。そうでなくちゃ。俺と『勝負』をしようなんてなぁ……くっくくく、たまらんねぇ」
 くすくす笑いながら遠巻きに自分たちを取り囲む男たちの視線の中で、倒れてひくひくとうごめいている男の背中から剣を取り出し、ぽいっとこちらに放り投げ、言った。
「俺の名前はシヴェタ。別の名前が聞きたいんなら、俺に勝ってみな」
 ナップは相手を警戒しながらその剣を拾い、軽く振るってみる。ナップの好みからするとやや軽いが、悪くはない剣だ。充分実戦に耐える、妙な細工もしてある気配はない。
 よし、と小さく息を吸ってから、シヴェタに向かって剣を構えた。
「……くふふん」
 妙な笑い声を立てて、シヴェタも剣を構える。予想通り、微塵も隙のない構えで。
 す、すす、と双方静かに足を動かす。まっすぐ間合いを詰めようとする自分に、シヴェタが微妙に間合いを外してくるので、それをさらに詰めようとして外される、そのくり返し。
 シヴェタの剣の構え方は、仲間内でいうならスカーレルに似ていた。隙を狙い後ろから斬りかかる暗殺者の剣技。スカーレルは剣よりは短剣を好んでいたが(威力的にもそちらの方が強いことも多かったのだ)。
 おそらくは横斬りの剣使い。つまり、相手と間合いを微妙に外した相手が剣を振るう外からの攻撃が得意技だろう。返し技を得意とするナップとは相性の悪い相手だ。
 スカーレルが自分に稽古をつけてくれることはほとんどなかったが、先生は対処法をきっちり教えてくれたし、実戦ではそういう相手とは何度も戦った。要は相手の懐に一気に飛び込んで斬りつけ、相手の攻撃は返すことを考えずにきちんと受ける。それができれば、勝てる相手ならば絶対に勝てる。
(――いくぞ)
 す、とわずかに息を吸い込む。足に力を入れる。相手が間合いを外そうとするその半歩先へ、ナップは素早く踏み込んだ。
 シヴェタが目を見開く。当然だ、自分にこの半歩を踏み込める動きの速さがあることはきっちり隠してたんだ。だからどんなに間合いを外すのがうまかろうと、この一撃は回避できない!
「秘剣、斬絶月!」
 だんっ! と踏み込み剣を振るう。いつもと同じ、全身の力と魔力を、呼吸と体の流れを使い、体中で燃やして一振りに込める!
 しゃりんっ! と剣の軌道が月弧を描いた。ずばぁっ! と相手の体を深々と斬り裂き、どぷっとばかりに血を噴き出させる。
 とった、と思ったその一瞬、目の前をなにか雪のようなものがちらついた、ような気がした。そして
「っ!?」
 ずばしゅっ!
 激痛。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い! と体中が全力で訴える。当然だ、体中に何重にも斬り傷刻み傷をつけられて血を噴き出させられているんだから。つまり、さっきの雪のようなものは、剣のひらめきとその反射光で。
「が……ぐ、ぅ、ぁ……!」
「いいねぇ、いいねぇ。斬絶月を使えると聞いちゃあいたが、帝国軍の三秘剣のひとつを本気で使えるたぁなぁ。さっきの一撃は本気で喰らっちまったし。……けど、ざーんねーん」
 体から血を吹き出させながらも、シヴェタはゆらり、と剣を揺らめかせる。は、と必死に一撃を見切って受けるが、ナップの剣の軌跡に絡みつくように踊るシヴェタの剣は、ナップの剣の間をぬってナップの体を捉える。
「ぐぅ、っ!」
「俺はさぁ、軍にいた頃にいろいろ薬とか使われてさぁ、もう痛み感じなくなっちまってるから、斬られても痛いとかねぇんだよなぁ、ぜんぜん。だからまぁ、喰らったは喰らったけど単なる痛手のひとつでしかねぇっつーか。そ、れ、に」
 ひゅひゅん。また揺らめくシヴェタの剣を受け、必死に返そうとするが微妙に間合いを外されてかなわず、その間合いの外から体を斬り裂かれる。だめだ、なにをやってる、しっかりしろ、そう自分を叱咤しようとするが、頭がぐらぐらくらくらして果たせない。
「三秘剣には相性ってのがあってなぁ。月は雪に弱い、雪は華に弱い、華は月に弱いっつぅんだけどよぉ。お前の使う斬絶月はわかりやすい、相手が見切れないほどの速さでくり出される必殺の一撃ってやつだ。要は力で使うぶん回すだけの剣技。俺の使う雪からすりゃいいカモさ」
 雪?
 一瞬目を瞬かせてしまった自分の視界に、また雪が舞う。はっ、と大きく跳び退ろうとするが、その体に添うようにシヴェタの腕と剣が追ってきてひらめく――
 ずびしゅっ。
「が………ぁ」
 ナップはよろよろと膝をついた。誰かの悲鳴が遠くに聞こえる。痛い、体中が痛い、そして体中が鉄のように重い。
「横斬りの秘剣、閃舞絶雪。いかなる攻撃も、舞い閃く雪のように吸い込み、相手を間合いに捕らえて切り刻む。純粋な技術によって会得できる、間を支配する剣さ。すげえ、イイだろう? お前が何度月を消そうと、俺の雪はそれを呑みこんで舞うのさ」
 楽しげに言うシヴェタを、必死に睨み据え、剣を杖にして立ち上がろうとする。駄目だ、冗談じゃない、こんなところで負けてられるか。こんなところで負けるために、自分は軍学校で訓練してきたわけじゃないんだ。
「まだっ……まだぁっ!」
 は、は、は、と荒く息をつきながら、奥歯を割れそうなほど噛み締めてぶんっ、と剣をシヴェタに向ける。シヴェタはひどく嬉しげに笑った。
「いいねぇ、すばらしい。たまんねぇよ、すげぇいい。そんなちっこい体でどばどば血ぃ流しながらまだ壊れないって、なんて頑丈さだ。こりゃあなんとしても、殺さずに持ち帰って遊んでやらなけりゃ――」
『悪いが、級友の教え子にそんな不健康な遊びを教えさせるわけにはいかんな』
「!?」
 どこからか声が響いた、と思うやぼふっと視界を煙が覆った。何人もの人間が叫び、何人もの人間が走る。シヴェタが剣を振るう音がした、と思うやキィン、と鋭い鋼の音がして、シヴェタの剣を誰かが受けたのだ、とわかった。
 と、ふわぁ、と柔らかい紫の光が輝き、ナップの体に降り注ぐ。傷が少しずつ塞がれていった。聖母プラーマの癒しの光だ。アリーゼか、と思ったが違う、アリーゼほど強力じゃない。これは、以前、どこかで。
「……まったく、そんな小さな体で無茶をするな」
 煙が薄れていく。ナップの目の前を、誰かの背中がふさいでいる。力強さはあるのに、どこか細い背中。女性だ。帝国軍陸戦隊の制服。いつか見たのと同じ、自分が嫉妬し、少しだけれど憧れた――
 と、そこまでぼんやり考えてようやくナップは気づき、叫んだ。
「―――アズリアっ!?」

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