最終年・8――誘拐のこと

「久しぶりだな、ナップ。よもやこんなところで会おうとは思ってもいなかったぞ」
 アズリアは苦く笑いつつ、ずい、とシヴェタに向かい一歩を踏み出す。島で見たものとは違う制服。今のナップには、それは帝国陸戦隊のものだと知れた。
「そしてお前ともこんなところで会おうとは思ってもいなかった。ヨルク・ヴァルケ。刃鬼<ルクよ」
 シヴェタをまっすぐ見据えつつ低く告げる言葉に、ナップは思わず目を瞠る。
「アズリア、こいつのこと、知って……?」
「ああ。私たちより少し上の軍関係者なら忘れられない名前だ。私は父の仕事の関係でたまたま知ったんだがな。――ファルチカ軍学校を優秀な成績で卒業し、陸戦隊に配属され、旧王国との戦の最前線で長い間戦いぬき、一度は英雄とすら呼ばれた男。何百何千という敵を斬り倒し、自らの体には傷一つつけず、帝国軍に何十という勝利をもたらした男。その頃は刃神≠ニ呼ばれていたそうだな」
「……つまんないことを覚えてんなぁ……若い女のくせして」
「少なくとも軍関係者にはつまらないことではないだろう。その後血に狂ったお前が味方の隊全員を斬り殺して軍を出奔し、その後も犯罪行為を繰り返した、今では百万バーム近い賞金首という軍の汚点であるということも含めて、な」
「ふぅん」
 シヴェタは顔ににやけた笑みを張りつかせたまま、すい、と動いた。間合いを取っているのだ、とナップには知れる。踏み込んでもアズリアは届かず、シヴェタの刃は届く絶妙の間合い。それを取れるよう絶えず図りながらすい、すいと足を運んでいる。
 だがアズリアもそれに負けてはいなかった。その間合いをあえて破ろうとはしなかったが、そのわずか半歩ほど先にじりりと歩を進める。シヴェタがどう移動しようと、一見無造作に、だがある一点からは慎重に。シヴェタの取る間合いを微妙に壊しつつ、まっすぐにシヴェタを向け剣を構えて語りだす。
「刃鬼<ルク。いや、今は紅き手袋≠フ二つ名持ち、血風喰い<Vヴェタと言うべきか。お前たち紅き手袋≠ェ無色に依頼されて動いていることはわかっている。だが、お前たちは今、なにを目的として雇われている? ただの無色の破壊活動にしてはやり口があまりにぬるすぎる、なにか裏の目的があるはずだ。それはなんだ?」
「さーぁねーぇ。それって今この状況で聞くことかぁ? きっちり捕らえてからの尋問でもないのに、んなことぺらぺら喋る奴ぁ俺たちの仲間にはいねーよ」
 道化た顔を作って言ってみせるシヴェタに、アズリアはふ、とわずかに笑んで肩をすくめた。
「もっともだ――では、お前の言う通りきっちり捕らえてから体に聞くとしよう」
 言ってだんっ、とアズリアは一気に踏み込んだ。その鋭さに、ナップは思わず息を呑む。動きの速さ自体は自分の方が上だったが、その一瞬の踏み込みの鋭さにかけては、何度仕合ってもかなわなかった。
 シヴェタはすぅっ、とまさに天才的と言いたくなるほどの技量で間合いを取ったが、アズリアは委細かまわず自分の剣の間合いにまで踏み込む。にや、とシヴェタの口元が笑み、刃がゆら、と閃いたのを見た、と思うやナップは叫んでいた。
「アズリ―――!!」
 だが叫び終わるより早く、きぃんっ! という軋るような音と同時に火花が散っていた。剣と剣がぶつかって散ったのだ、という認識とほぼ同時に、見るだに激しい剣戟が交わされる。
「へっへぇ! やるねぇ、お嬢ちゃん! 年のわりにゃあそこそこ使えるじゃねぇか!」
「ふん」
 シヴェタの軽口にかまわず、アズリアは剣閃を放つ。シヴェタはそのことごとくを見事に間合いを取りつつ受け流す。達人同士の殺し合い。ナップはごくりと息を呑みつつそれを見守ったが、やがて目を瞠った。
 これは、もしかして。アズリアが、押している?
「先ほど面白いことを言っていたな、ヨルク・ヴァルケ」
「んー、俺そんなに面白いこと言ってたかなぁ!?」
「三秘剣の相性とやらについて、だ」
 アズリアは低く、唸るように喋りつつも、その剣はまさに神速の閃きだ。引き手が見えないほどの剣閃を、それこそ機界の機械兵士が放つ機関銃のように放ちまくる。
「月は雪に弱い、雪は華に弱い、華は月に弱い。それは秘剣の技そのものについてのみならず、剣技の在りよう自体の相性についても言えることでもある。一撃で敵を倒す剛剣は技術を極めた者には受け流され、だがその技術を極めた剣も速さを極めた剣には手数で負ける。本来、剣技というのはそう単純に分けられるものではないが――」
 ずだんっ、と一気に懐まで踏み込みながら、必殺の突きを一瞬のうちに目で追えぬほど撃ち放つ――!
「少なくともお前の剣は、私にとっては遅すぎる!」
「――ちっ!」
 シヴェタは大きく舌打ちし、その突きを受け流して大きく間合いを取った。受けきれなかった一撃が肩をかすったが、それにもかまわず跳び退り、やれやれ、とでも言いたげに手を上げてみせる。
「あーったく、野暮なことしてくれるよなぁ帝国軍ってのはよぉ。俺がせっかくめったにないくらいできのいいおもちゃ見つけて喜んでるってのに、横から入ってきてあーだこーだと」
「言ったはずだ。この子をお前のおもちゃにはさせん」
「はー、ったく、っとに面白くねぇお嬢ちゃんだ。帝国軍ってのはいっつもそうだよなぁ、がっちがちの石頭ばっかでよぉ。だから――」
 ぽろり、とシヴェタが懐からなにか小さな黒い玉を床にこぼした。は、とアズリアが目を瞠るが、それ以上の反応を返すより早く、黒い玉はぼふんっと音を立てて爆発し、四方八方に虹色の煙を吐き出し始める。
「自分らがそんなこと話してられるほど有利じゃねぇってことあっさり忘れちまえるんだよなぁ!」
「貴様……っ、逃げる気か!」
「ああ、逃げるよ。合図はもうもらった。目的は果たした。長居は無用だ、さっさと退散させてもらうさ」
 おそらくはアズリアたちが使っていたのだろう、さっきまで周囲を満たしていた煙幕とは煙の濃度からして違う不気味な色をした煙幕は、たちまちのうちに部屋中に広がって空気を汚染した。その煙は目に入るや目に激痛を与えぼろぼろ涙をこぼさせ、口に入ればげほげほと咳込ませて呼吸を困難にするという代物で、ナップもアズリアも、げほげほ咳込んでまともに前を見ることもできなくなる。
「ぐ、ぇっほ、待て……っ!」
「誰が待つかよ」
 言ってシヴェタはさっさと煙の向こうに姿を消す。かと思うや、楽しげな声で言ってきた。
「ナップ・マルティーニ? お前は俺とまた会うことになる。その時は本気で、体中から血ぃ噴き出して達磨みてぇになるまでたっぷり死ぬほど遊んでやっから、楽しみにしとけよなぁぁ……」
 煙の中だというのに明瞭で、楽しげですらあるその声は、わんわんと部屋の中に響きながら、芝居の幕を引く時のように、徐々に掠れて消えていった。

「遅くなったが……久しぶりだな、ナップ」
「うん……アズリアも」
 大混乱に陥った現場を統制していたアズリアとちゃんと話をする事が出来たのは、ナップが傷の手当てを受けてからになった。
 本来ならアリーゼが癒しの聖霊を召喚してくれればそれで終わったはずなのだが、なにせここはパーティ会場だったのだ、ある意味武装するより物騒とされている召喚石などを持ってこれるわけがない。傷だらけのナップは衛生兵に担架で医務室に運びこまれ、薬と医術で治療を受けることになったのだった。
「あのあと……どうなったんだ? 誰か、被害とか出てないよな? あそこに俺の友達いたんだけど……」
「……とりあえず、身体に被害を与えられた者はお前だけだ、ナップ」
「そっか。よかった……」
 ほっとして息をつくと、アズリアは厳しい顔をして言ってきた。
「どこもよくはないだろう。お前は自分がどれだけひどい怪我をしたと思っている? 手当てが遅れていたら出血多量で死んでいたかもしれないほどの怪我だったのだぞ?」
「え……そんなに?」
「自覚がなかったのか! まったく、そんな悪いところばかり師に似てどうする! こんなことを知ったらあいつが……いや、友達がいると言っていたが、その友達もお前が死ぬようなことがあったらどれだけ悲しむと思っているんだ!」
「う……」
 厳しい怒りの表情で説教するアズリアに、ナップは返す言葉がない。自分としてはシヴェタと勝負に持ち込めた時点で、正直『いける』と思ってしまったのだ。剣と剣の勝負なら自分にまず負けはない、ならばそれをきっかけにして無色の連中を全員捕まえられるだろうと。
 だが、それは勘違いだった。甘々の大甘だった。自分がまだまだ未熟者であるということを、頭ではわかっていたつもりでいてもどこかで忘れていたのだ。周囲に本当の達人である敵≠ェいない、という環境に長く置かれていたせいで。
 いや、それも結局は言い訳にすぎない。つまりは自分が、ナップが愚かだった。結局のところ、それだけなのだ。
「ごめんなさい……」
 心の底からしゅんとしてうつむくナップに、アズリアは咳払いをして、「まぁ、わかれば、よろしい」などと呟いてから、改まった口調になった。
「ナップ。私は突入隊を率いた責任者として、君に話を聞かなければならない。長い話になると思うが、体調は大丈夫か」
「うん、大丈夫。なんでも聞いてくれよ」
「そうか。ではまず、中の状況から詳しく聞きたいのだが……」
 ヴィズール家主宰のパーティがどういう推移をたどってあの連中に支配されたか、あの連中がお互い話していたことなどを詳しく聞き取り、アズリアはふぅ、と小さく息をついた。
「やはりそうか……どうやら、無色の派閥がまた帝都で動き始めているようだな」
「……やっぱりあいつら、無色……っていうか、紅き手袋≠ネのか?」
「ああ。最初はただの勘のようなものだったが、今では確信している。刃鬼<ルクがいたのだからな」
「刃鬼<ルク……」
「かつては刃神≠ニ呼ばれていたそうだがな。もう二十年は前のことになるが、刃神≠ニ呼ばれ英雄の名をほしいままにしていた陸戦隊第三遊撃隊隊長ヨルク・ヴァルケは、六ヶ月の国境警備任務を課された際、旧王国とのささいな小競り合いの際に暴走した」
「暴走……って?」
「血に狂ったのだ。もとよりヨルクは民間人を護るためではなく、人を殺すために軍人をやっていると言われるほど血を好む性質を持っていたのはよく知られていた。それが、長い間血に飢えさせられた末にわずかしか血を――敵兵の死を与えられずに暴走したのだろうと、ただ一人の生き残り……敵との戦いの際に気絶し難を逃れた兵からは報告されている」
「……あいつ、どんなことしたんだ?」
「軽く一戦し、お互いの戦力を観察する役目を果たしたのち出された退却命令に、ヨルクは反抗して敵兵を全員斬り殺した。そののち陣地に戻った際上官に詰問され、その上官、及び自分の隊の部下たちを含めた戦場に出てきた人間すべてを斬り殺し、軍を出奔したのだ。それからも何度も殺人と強奪を繰り返し、今では百万バーム近い賞金額を懸けられたもはや伝説級の賞金首になっている」
「隊の、全員……? それって、一体何人いたんだ」
「敵兵を含めても百人強といったところだったらしいが、それでもたった一人で一隊の、それも曲がりなりにも最前線兵たちの集まったど真ん中から全員を皆殺しにしていくということが、どれほど人間離れした業かということは、いまさら説明するまでもあるまい?」
「うん……」
 自分も敵の質によってはできなくはないだろうが、普通に考えるなら途中で力尽きる。体力、技術、身体能力のみならず、戦術感覚と召喚術の能力もおそろしく優れていたと考えるべきだろう。
 そして、部下を殺しても動揺もしないという、殺戮者としての精神も。
「奴が紅き手袋≠ナ二つ名を持つほどの暗殺者になっている、という情報は帝国軍も数年前からすでに得ていた。極秘級の情報で、私も父の関係でたまたま知ったにすぎないのだがな」
「二つ名、って?」
「ああ、紅き手袋≠ヘ優秀な能力を持つ構成員にその性質を現した二つ名をつけて讃えるという習慣があるそうだ。あの島でも、取り残された暗殺者の隊長格の娘には茨の君≠ニいう二つ名がつけられていただろう?」
「ああ……あの人。……シヴェタの二つ名は血風喰い≠セったよな」
「ああ。敵も味方も関係なく、ただ斬ること、血を見ることを好む奴らしい二つ名だな。君の話を聞く限り、その性質は改まっていないらしい。……被害者の君に言うことではないが、今回は君以外の民間人に被害が出なかったのが不幸中の幸いだな」
 ふ、と息をつくアズリアに、ナップは思わず頬を膨らませる。
「民間人、って。俺、軍学校の学生だぜ? もう最上級生だってのに」
 アズリアはそんなナップに目を瞬かせてから、ぷっと吹き出した。
「君がその年齢からは考えられないほど腕が立つのは知っているが、軍学校の最上級生だというなら軍の常識も知っているべきだな。どれだけ腕が立とうとも、軍では基本的に軍人、ないし執政官級の地位のある文官以外は民間人扱いだ。まれに特殊顧問員のように外部から人員を招くこともあるが、それには能力と共にそれなりの実績が要求される。ましてや君のような少年では、さすがにな」
「それは……わかってるけどさ」
 自分なりに自分の腕に恃むところのあるナップは、半人前扱いはやはり面白くない。
 ちぇっ、と軽く唇を鳴らしてから、あ、と気づいてアズリアに訊ねた。
「そうだ、アズリア。なんでアズリアがこんな憲兵みたいなことしてるんだ? アズリアは確か……」
「ああ、今の私は聖王国国境の警備部隊に所属している。主に退役間近の兵が集まった、いわゆる閑職だな」
 う、とナップは口ごもった。聖王国と帝国は同盟関係にあり、二国間の国境が戦場になることはまずないと考えられている。レヴィノス家の総領娘であるアズリアがそんな国境を護るという閑職に追いやられたのは、あの島での出来事をすべて自分の責任で片付けてくれたせいに他ならない。
「……ごめん」
「なにを謝る? 私は今の仕事を恥じてはいないぞ。どんな仕事であろうと、国を、民を護るための仕事であるならば、私は誇りを持って務めを果たすつもりだ」
「うん……。そうだよ、な。えとさ、とにかく、聖王国との国境にいるはずのアズリアが、なんで帝都にいるんだ?」
「定期報告を持っていくよう命じられただけだ。私の上司としては、おそらく私に里帰りをさせるつもりだったのだろうな……私が若い女だということで、里心がついているのではないかと無駄に案じてくださる方が多いんだ」
「へぇ……え、じゃあなんで突入隊を指揮したりしてるんだ?」
「むろん、本来なら私にそんな権限はない。今回私はたまたまお前たちのためのパーティが開かれるということを聞き、少し話ができるかと立ち寄ったのだが……そこでいきなりこの事件が起きてな。当然警備隊がやってきたのだが、なにせ帝国でも名だたる名家の方々の関わる話だ、責任を取るのを嫌がって、まともに相手と交渉もせず消極策ばかりを取っているものだから、我慢ができず……」
「……もしかして、無理やり指揮権奪い取ったのか?」
「レヴィノス家の名を振りかざして、な。感心できることでないのはわかっているし、父上にはまたお叱りを受けることになるだろうが……少なくとも、君の命が危険にさらされるのを座して待っているよりはよほどましだと思ったのさ」
「………アズリア」
 ナップはしばしぽかんと口を開けた。まさかアズリアがそこまで自分を大切に思ってくれているとは思わなかったのだ。アズリアと自分とは、あくまで先生を通した間柄だったし、どちらかといえばお互い相手に嫉妬し合っているようなところがあったのに、なぜそこまで。
 疑問と驚きの視線を受けて、アズリアはふっと笑った。
「私は大人で、君はまだ子供だ。それだけで私は君の命を護る義務がある。その上私は軍人だ」
「そ、それとこれとは関係ないだろ」
「大ありだ。人としても軍人としても、私は君が死ぬのを防がねばならない。……それに、君は奴の生徒だし、個人的にも好ましい人間だと思っているしな」
「え……」
「なんだ、私が君を好ましいと思っていてはおかしいのか? 大人に交じって命懸けで戦う勇気と、もっと強くなろうという向上心を持つ少年を、嫌いになる方が難しいだろう」
「け、けど、アズリアは……」
 先生のことが好きなんじゃないのか――とは、さすがに聞けずに口ごもるナップを、アズリアは口の端に笑みを乗せながらぽんぽんと優しく叩く。
「私のことは気にするな。君はまだ、前だけを見て走っていればいい」
「……子供扱い、すんなよ……」
 優しい微笑みと、一瞬ふわりと薫った香りに、アズリアが大人の女性なのだということを改めて思い出してしまい、ナップの顔が赤くなった。こんな風な大人の女性なんて、めったに会わないから、なんだか妙に、照れくさい……。
 と、ばぁん、と医務室の扉が開いた。
「アズリア殿っ!」
 中に飛び込んできたのは中年の、ちょび髭を生やしたいかにも木っ端警備兵、という感じの男だったが、アズリアは丁寧に応えた。
「どうかなさいましたか、フェルマン殿」
「こ、こ……これは、あなたの責任ですぞっ! せ、せ、責任はあなたが取ると、あなたは確かにそうおっしゃったのですからなっ!」
「……何があったのですか」
 男はごくりと唾を飲み込んでから、明らかに我を失った声で叫んだ。
「パーティの主賓である、マルティーニ家と、アルダート家と、ガスタロッシ家と、スーリエ家の方々がっ……行方不明になられているのですぞっ!」
「――なんだって!?」
 悲鳴のような声を上げてしまったのは、ナップの方だと男がこちらを見る視線で知れた。

 行方不明になったのは、ナップの父親、ウィルの父と兄、ベルフラウの両親、アリーゼの両親。このパーティを開くきっかけになった四人の生徒の保護者であり、このパーティにやってきた人々だった。
 彼らはそれぞれ警備隊に事情聴取を受けたのち、それぞれ自宅――というか、帝都での住まいに引き上げた(彼らほどの名家ならば、帝国内の主要な都市ならば別宅をいくつも持っていて当たり前なのだ)。ただ一人、マルティーニ氏だけは息子の回復を待ち施設内で待機していたが。
 ウィルたちはそれぞれナップの回復を待ちたいと言っていたのだが、目を覚ましたらすぐに知らせるからと警備兵たち(及び、両親たち)によってたかって説得され渋々両親たちと共に家に戻った。
 なのに、彼らはなにも異常がもたらされることなく、彼らの保護者たちが唐突に姿を消したのだ。誰に声をかけることも、書置きを残すこともなく。
 それぞれの家の者たちは、混乱に陥りながらも警備隊に連絡した。だが、帝都の警備隊たちはみな困惑せざるをえなかった。どこをどう調べても、消えた人々が自分の意思で姿を消したようにしか思えない証拠が次々出てきたからだ。
 だが各家の者たちはみな彼らが自分から姿を消すことなどありえないと主張しているし、それを裏付けるようにこれからの予定を書いた手帳やら近々ある記念日になにをするか使用人に命じていたことやらのような証拠が次々浮かんでくる。
 だがかといって外から誘拐犯が入った形跡はまるでなく、捜査陣は混乱し困惑し、ほんの少し前まで行われていたパーティに目をつけ、そこでなにかを起こしたのではないかと責任を追求してきたらしい(自分たちが責任を逃れるために)。
 だが、ナップにはそんなことはどうでもいいことだった。やってきた木っ端警備兵につかみかからんばかりの勢いで、質問を次々投げつける。
「それで、ウィルはどうしてるんだ? ベルは? アリーゼは? 自分から出て行ったっていうけど、間違いないのか? パーティになにかがあったっていう具体的な根拠は? その人たちの足取りはどこまで追えてる?」
「なっ、なんだお前はっ、突然、子供がっ」
「落ち着け、ナップ。……だが、彼の言い分はもっともなものだと私にも思えるな。彼らの失踪が事件性のあるものだという根拠は? そして、その原因が先刻のパーティにあると断言できる理由があるのか?」
 アズリアに冷たく、鋭い視線で睨まれ、警備兵は一瞬固まったが、すぐに必死に胸を張って言ってくる。
「要請状が来ているのです!」
「……要請状? なんの」
「失踪した方々の身代金を、その子息の方々に持ってこいという要請状です!」
「――なんだと!?」
 アズリアはさっと顔を厳しくし、男の差し出した写しらしい手紙を奪い取って読み始める。ナップも素早くその後ろに回りこみ、背伸びして手紙を覗き込んだ。
『――明日、夕刻の鐘が鳴る頃、マルティーニ家、アルダート家、ガスタロッシ家、スーリエ家、それぞれの家の子息にそれぞれの保護者の身代金を持たせて以下の場所に来させよ。なお、それ以外の人間がこの場所に近寄った場合、こちらの手にある者の命は保障しな――』
 ナップは最後まで読みきらず、愕然とした勢いのままに男の胸倉をつかみ上げた。
「ウィルたちは!? この手紙、読んでるのか!?」
「ぐ、ぐっ……この、手紙はっ……それぞれの、家の、方にも、送られてきたのでっ……全員、現在、当局にて保護をっ……」
 そこまで聞いたら体の方が先に動いた。自分が寝巻きを着せられたままだということも意識せず、全速力で走り出す。
 後ろで「ナップ!」とアズリアが叫んだのは聞こえていたが、それでも、ナップはなにより先に友達のところへ行きたかったのだ。

「ウィル! ベル! アリーゼ! 大丈夫かっ!」
 ばん! と扉を押し開けて叫ぶと、中にいた者全員からの視線がナップに集中し、それからふっと苦笑するような気配が部屋を満たした。
「ナップ。……やっぱり、来たのね」
 ベルフラウが苦笑しながら言うと、アリーゼも困ったように微笑みながら続ける。
「私たちのことばっかり気にしちゃって……本当にナップくんってば、しょうがないなぁ」
「時々目の前のことしか見えなくなるからな、君は。とりあえず、自分のことを省みた方がいいんじゃないか、いろんな意味で」
 部屋の中の最後の一人、ウィルがぶっきらぼうに言い、手元のカップをくいと傾けて乾すと(中身は紅茶だった。どうやら三人でお茶にしていたらしい)、空いていた椅子を示した。
「座ったらどうだい? 傷がきちんと治っているならだけど」
「え、うん、傷はもう全部治ってるけど……」
 ナップはうなずいて、おずおずと席に着き、アリーゼが淹れてくれたお茶を口に運ぶ。熱いお茶できゅっと胃の底が引き締まり、ようやく全員の顔を見回す余裕が生まれる。
 とりあえず、全員さほど取り乱してはいないようだった。ナップとしては全員強い衝撃を受けて、落ち込んでいるのではと慌てて駆けつけたのだが。
「なに、私たち全員、落ち込んで立ち直れない状態だとでも思った?」
「え! べ、別にそこまでは思ってないけどさ。……驚いてるんじゃないかとは、思った」
 窺うように周囲を見回しながらそう言うと、ウィルたちはそれぞれ苦笑する。
「まぁ……驚きはしたけどね。正直向こうがどういうつもりなのかも、つかみかねている部分があるし」
「要人を誘拐して身代金をよこせ、というのも怪しいしね。普通の犯罪者ならともかく、無色のやることとしてはそぐわないわ」
「え、もうそのこと……」
「僕が話した。二人ともその可能性は高い、と言っていたよ。僕たちの保護者が自主的にとしか思えない形で失踪したのも、おそらくは古い霊界の召喚術を使ったのだろうとアリーゼが教えてくれたしね」
「え……そうなのか?」
「うん……帝国ではもうそんな召喚術があったってことさえ忘れかけられてる術だけどね。生き物の精神に強く働きかけて、相手の行動をある程度自由に操れるよう暗示をかける妖霊を召喚する術があるの。無色なら、もしかしたらその召喚術を使えるかもしれないから……」
「そっか、それで……。……で、お前らさ、その要請状の要請……受けるのか?」
 おずおずと訊ねると、ウィルもベルフラウもアリーゼも、おのおの似たような(けれど微妙に違う)苦笑を浮かべた。
「当局は私たちにそうしてほしいみたいよ? なにせ人質が全員、下手を打って死なせてしまえば真聖皇帝からのお叱りさえ受けてしまうような人たちですものね。それぞれ名家の人間であるのみならず、帝国有数の豪商と名執政官、末席とはいえガスタロッシ家の人間とかつて戦場で皇帝を救った家の当主ですもの」
「もちろん、まだ学生である人間にそんなことをあからさまに口に出しはしないけどね。僕たちがそうしたい、と強く言えば断らないんじゃないかな」
「…………」
「ナップくんは? どうするの?」
「え、俺? 俺はもちろん受けるけどさ。どう考えたって、これ俺たちに狙いをつけた罠だし」
 ナップが反射的につるっと答えた言葉に、ベルフラウはくすりと笑い声を立てる。
「やっぱりあなたもわかってたのね?」
「え、ってことは……お前らも?」
 友人たちはそれぞれあるいは澄まして、あるいはにやりと、あるいは少し面白がるように笑んだ。
「あなたとあの妙な男の会話を聞いていればそのくらいはわかるわ。無色の連中はどういう理由かわからないけれど、あなたに目をつけて、手に入れようとしていた。そこに今回の要請状とくれば、向こうが私たち四人を狙っているんじゃないか、って結論に達するのも容易よ」
「もちろん、ただの想像かもしれないけど……無色にとって、私たちがどんな利用価値があるのかってこともさっぱりわからないし。でも、もしそうだったらって考えると……この要請状は、違う意味を帯びてくると思うの」
「そうだな……」
「誘拐された人々は僕たちへの餌として誘拐された可能性が高い。となれば僕らが手に入れば始末しようとするのが道理だ。となれば、僕らのすべきことは……」
「さらわれた人々を助けて」
「無色の連中を根こそぎ蹴散らし」
「今後の安全と対応に必要な情報の入手を図る、ってことになる、よな」
 ナップが思わずにやり、と笑みを浮かべると、ウィルたちもにやりと笑みを返してくる。お互いの意思が口にせずとも通じ合っている、心地よい快感が心を満たした。
 改めて思えた。彼らは仲間≠ネのだ。これまでの三年間、長い時間を共に過ごし、さまざまな困難を一緒に乗り越え、絆と呼んでいいものを結びあった。
 そんな相手が、自分に語りかけている。一緒にやろうと。考えていることは同じでしょうと。やらなきゃならないことはもう決まっているはずと。
 三人とも、一番大切な友達で、仲間だ。そんな相手がそばにいてくれることに、ナップは身が震えるような喜びを覚えた。
「よっし、じゃー計画立てようぜ。向こうがどんだけ勢力いるのかわかんないからな、やっぱできるだけいっぱい兵隊を動かさないとだよな」
「それができれば一番いいけど……できるの? 普通に考えて警備隊は私たちみたいな子供の言うことは聞いてくれないと思うわよ?」
「うん、普通ならそうだけど、今回突入隊を指揮してた奴が俺の知り合いなんだ。そいつにうまい作戦提案したらその通りに兵隊動かしてくれると思う、実際普通の警備隊連中はこの事件から責任逃れしたがってたみたいだからさ」
「君にそんな人脈があったとはな……で、具体的な作戦についてだけど」
「まずは、向こうがこっちをどう動かそうとしてくるか、だよね。人質と身代金の交換っていうのが基本的な筋になるんだろうから――」
 それからしばらくナップたちは話し合い、きっちり作戦を立案したのちアズリアに話を持ちかけて説得し、最終的にはナップたちが作戦を立てたということは秘密にしておく、という条件で警備隊を動かすことを請け負ってもらったのだった。

 作戦をアズリアと話し合ったのち、ナップたちはそのまま商工会議所で休んだ。商業ギルドの働きかけで捜査本部がここに置かれているためだ(どうやら捜査に役立ったという誉れをもってナップの父たちに働きかけようという腹があるようだ、とアズリアが教えてくれた)。
 当然ながらナップとウィル、ベルフラウとアリーゼで一部屋ずつ。作戦までに少しでも体力を蓄えておくべく、ナップたちはすぐにベッドに入った。
「…………」
「…………」
 目を閉じて相手の呼吸を聞きながら眠気が訪れるのを待つ。だが、ウィルの息はいっこうに緩やかになる気配がなかった。そのせいか、ナップも妙に目が冴えてしまっている。
 そういえば、こんな風に改めて決戦前夜、というようなものを味わったことはなかったな、と回想した。先生と一緒にいた頃は、最初は右も左もわからないなりに先生を一心に信じてついていけばよくて、無色の連中が出てきた頃は恐怖と戦いながら日々を過ごすのに必死で、終盤は……先生の気持ちばかり、先生がなにを考えているのか、自分のことをどう思っているのか、そんなことばかり気になって――
「ナップ」
「っえ?」
 急に声をかけられ、妙な声を出してしまう。ウィルは少し間をおいてから、気遣うような声をかけてきた。
「すまない。起こしてしまったかな」
「いや、起きてたよ……どうか、したのか?」
「いや……大したことじゃ、ないんだけど」
 ウィルの声は小さく、掠れていた。なんだろう、と思いながらウィルが話し出すのを待つ。ウィルがわざわざ話しかけてきたということは、きっと大事な話に違いないからだ。
 ウィルはまたしばらく間を空けてから、小さな声でゆっくりと話し出した。
「ナップ。君は……父君のことを、どう思ってるんだい」
「え……親父のこと?」
 思ってもいなかった問いにナップはわずかに目を見開いた。ウィルと家族のことを話したことはほとんどないと言っていい。最初にウィルが父と兄へどれだけ強い隔意を抱いているかを教えられたから、お互いその辺りには触れないでおこうと暗黙の了解ができていたのだ。
 それに、ナップにしても、父親のことは話して楽しい話というわけではない。
 戸惑いと共に視線を動かし、向こう側を向いているウィルの後頭部を見つめる。ウィルは向こう側を向いたまま微動だにしていないが、その姿にどこか侵しがたいものを感じ、ナップは困惑しつつも口を開いた。
「なんていうか……あんまり関わりあいたくない人、かな」
 一瞬絶句するような気配が伝わってきた。
「関わりあいたくない……それは、どういう意味で?」
「うーん、なんていうか……昔はさ、けっこう恨みに思ってたんだよ。俺のことほとんど放りっぱなしで、いっつも仕事ばっかで。たまに声をかけてくれたと思ったら外での仕事っつーか、大人の集まる公的な行事ばっかでさ。ちっとも俺のこと見てくれない、親なのにひどい、ってどっかで思ってたと思う。……ばあやとか、周りの奴らがよってたかって親父がどんなにすごいか頑張ってるか力説するから、口に出したりはできなかったけどさ」
「ふぅん……」
「んで……先生と、会ってさ。自分のことを大切に思って、辛い時に助けに来てくれる人ってのを見つけてさ。ちょっとは親父のこと冷静に見つめられるようになって。親父なりに俺のこと大切に思ってくれてたんだろうなとか、本当に仕事とかいろいろ頑張ってる人なんだな、とかいうことがわかってきて」
「……うん」
「で、改めてちゃんと仲良くしよう、って思って何度か会ったんだけど……それで思ったんだ。この人と俺は、あんまり一緒にいない方がいいな、って」
「それは……なぜだい」
「ん……なんていうかさ、それぞれ見てるものが違うっていうか……価値観、っつーの? そういうのが全然合わないんだよ。たとえば崖崩れが起きて、向こう側の街との連絡が取れなくなった時、俺はまずその街の人の安全の確認をしようって思うけど、親父はまず向こう側の街に水や食糧を売りつける算段を考えるんだ」
「……そういう人、なのかい?」
「うん。なに見ても商売に結びつけて、少しでも金儲けしようって考える人なんだよな。……それは別に悪いことじゃない、っていうのは一応わかってはいるよ。金を儲ければ商会の何千人って人間の生活の保障に繋がるわけだし、そういう風に活発に商売をすること自体が経済界を刺激して、帝国の発展に繋がっていくんだってこともわかってるし。帝国って、そういう風にして発展してきたわけだし」
「それは、そうだね」
「うん……そういう風にさ、どんなことでも金儲けに結び付けて考えられるっていうのは一種の才能なんだよ。おまけに親父はうまく計画を立てる頭もあるし、行動力もあるし、いざって時には体を張る度胸もある。だから、尊敬すべき人間だ、っていうのはわかってるんだ」
「……それでも、一緒にいたくはない?」
 ベッドの中で、ナップは小さくうなずいた。
「俺は、困ってる人がいたら助けたいって思うし、大切な人たちの命を護ることを最優先にして行動したい。一緒にいるんだったら、そういう根本的なとこが俺と一緒な人がいいって思うんだ。そうでないとしじゅう衝突してなきゃならなくなるし……それに」
「それに?」
「……俺は、親父の屋敷にいて、ずっと寂しかった。誰か自分のことを見てくれる人にそばにいてほしいってずっと思ってた。一緒にいるんなら、そういう気持ちをわかってくれるっていうか……一人だと寂しかったり、誰かにそばにいてほしいって思ったりするんだ、ってことを大切なことだって思ってくれる人がいいんだ。傷ついたり泣いたりするのって弱い心って言っちまえばそれまでだけどさ、そういう人に優しくしてあげたいって気持ちを、なんていうか……尊いって思ってくれる人がいいんだよ。この世には利益とかより大切な気持ちとかもあるんだって、当たり前みたいに思ってくれる人がさ。俺の親父は、そうじゃないから」
「……そう、か」
「うん。……なんで、そんなことを?」
 ナップの問いに、ウィルは最初沈黙で答えた。だがその沈黙の中に抑えてはいるが強い感情を感じ、ナップの方も沈黙したまましばし待つ。
 数百数えるほどの間をおいてから、ウィルは小さく口にした。
「……怖く、ないか?」
「え……なにが?」
「助けるのを、躊躇してしまわないかって……怖くないか?」
「ウィ――」
 ナップは思わず身を起こしてウィルをまじまじ見つめるが、ウィルはこちらに背中を向けたままどんどん早口になりながらまくしたてる。
「僕たちは僕たちの保護者を助けるために作戦を立てた。その気持ちに嘘はない。だけど、それは、少なくとも僕は、助ける相手が僕らの保護者だから、っていうわけじゃない。言ってしまうなら誰でもよかった。もっと言うなら誰かを助けるための作戦である必要さえなくて、ただ君たちと困難を乗り越えるという楽しみを味わえる作戦でありさえすればよかったんだ」
「……ウィル……」
「君は、父君のことを、あまり関わりあいたくない人だ、と言ったね。僕はもっとひどい。心の中で、僕は父と兄を、家族を何回も殺した。いなくなれと思ったし、この手で殺してやりたいとも思った。……あの人たちは、僕に対して愛情を向けてくれているにもかかわらず」
「ウィル――」
「わかってる。彼らは僕を大切に思ってくれている、それはわかってる。でも心の底で消えてくれって声がするんだ。これまでの人生で当然のように僕を兄の下に置いてきた人間、僕をずっとその影に入れてきた人間なんて、この世から跡形も泣く消え去ってしまえって」
「ウィル」
「だから、怖い。作戦に反するような馬鹿な真似をしたいとは思わない、でもいざその場に立って、体が動かなかったら? 父と兄を見捨てるように動いてしまったら? 混乱の中で、命を奪ってしまうようなことすらするかもしれない。そんなことしたくはない、そう理性は思っているけれど、心の中には確かにやってしまいたいという想いがある。だから、僕は怖い。君たちの信頼を裏切り、関係のない人々の命も危険に晒す可能性もあるというのに、頭のどこかが勝手に、父と兄をうまく殺すための計画を、練って――」
 ナップはもう耐えられなかったし、堪える気もなかった。ベッドから飛び降り、ほとんど飛びつくようにしてウィルの背中に抱きついた。
「!」
「ウィル」
 静かだが、できるだけ力強い声になるようにしながら名前を呼ぶ。体をぴったりとウィルの背中にくっつけて、ぎゅっとウィルの体を抱きこみながら。
「大丈夫だ。ウィル。お前は絶対、そんなことしない」
「……なんでそんなことが言えるんだい。僕の心の中が見通せるわけでもないくせに。僕が心の中でどれだけ汚いことを考えているか、君が知ったらきっと反吐を吐くよ。僕は本当に」
「うん、お前が心の中でどんなこと考えてるかはわからない。けど俺は、お前が俺たちの信頼を裏切るような奴じゃないっていうのは知ってる」
 ナップの腕の中で、ウィルがわずかに身を固くした。かまわずにぎゅっと体を抱き寄せながら、耳元に心を込めて囁く。
「これまでに何度一緒に戦ってきたと思ってるんだよ。友達になってからずっと、俺たち、一緒だっただろ。研修旅行の時も、スィアス先生の時も、生徒会の時も、学園祭の時も、盗賊胎児の時も。ずっと隣で、一緒に頑張ってきてくれただろ」
「っ……」
「この三年間、ずっと一緒にいたんだぜ。今のお前のことはきっと俺が誰よりも知ってる。だから、知ってるんだ。お前は絶対俺たちの信頼を裏切らない。そんなことする奴じゃない。それに、自分を愛してくれてる人をあっさり手にかけられるほど、冷たい奴でも絶対ないよ」
「………っ」
「……ウィル」
 それでも身を震わせて必死に自分の言葉を拒絶しようとするウィルに、ナップは胸の奥がぎゅうっと詰まるのを感じた。人の言葉を拒絶して、感情を拒絶して。他の人間を傷つけて。
 そこまでしてでも、ウィルは正しくあろうとしている。自分の醜さに人を巻き込まないように、自分の汚いところをむき出しにして、自分はこんな奴なんだからとっとと見捨ててくれと主張している。
 本当は、助けてほしいと、自分のことを好きになってほしいと悲鳴を上げているくせに。
 ぐいっとナップはウィルの体をひっくり返した。抵抗されたが、腕力は圧倒的にこちらが勝っている。
 きっとこちらを睨む潤んだ目元に、キスをした。
「…………っ!?」
 大きく目を見開くのにかまわず、目元に、額に、鼻にとキスを落とす。少しでもウィルに自分の気持ちが伝わればいいと祈りながら。
 愛しかった。不器用で、強がりで、それでも自分にできるありったけで友に誠実にあろうとしている。この優しい親友が。
 さらに頬にキスを落とそうとした時――ぐいっ、と体を引き寄せられた。
「……っん……っ!?」
「……っ、ふ」
 え、と思った時にはもう唇が合わさっていた。一瞬血の気が引き、これは浮気じゃないか、俺には先生がいるのに、先生以外の人とキスなんて、という言葉が頭の中を駆け回る。
 だが、一瞬おいてから、ナップは腕に力を込め、ウィルをぎゅっと抱き寄せた。ウィルの体がひどく震えていること、指先が溺れた人間のそれのように冷たいこと、伝わってくる鼓動が爆発しそうに早いのがよくわかったからだ。
 浮気したいわけじゃない、いやそんなこと絶対したくない。でも、この人生で初めてできた親友に、大切な大切な友達に、自分がやれるものがあるならやりたいと、差し伸べてきた震える手を取ってやりたいと、そう素直に思えてしまったのだ。
『――これは、大切な人≠ヨのキスだ』
 言い訳くさいのを承知で、そう心の中で主張する。ウィルへの感情を、愛しさやら友情やらこっそり感じたときめきやらそれへの後ろめたさやら、そんなもろもろを込めながら唇を押しつけた。
 唇を合わせていた時間は百数えるより短かったと思う。体を震わせながら、ゆっくりと、ウィルの方から唇を離した。
「……ごめん」
「なにがだよ」
「……君にとっては、困ることだろうに……」
「困らないよ。俺がしたいって思ったんだから、それでいい」
「……君の好きな人に、なんて言い訳するんだい」
「う、そ、それは、あれだけど……でも、それでも。大切な奴が助けてほしい時に、手を差し伸べられないなんて、俺は嫌だ」
 目を見てきっぱり言い放つと、ウィルは泣き笑いに笑って、もたれかかるようにナップを押し倒してきた。ナップも逆らわず、ベッドの上に倒れる。心臓のところに耳を当てられながら、頭を抱きかかえた。
「……少しは、ドキドキしてくれてると思っていいのかな」
「う……ん、まぁ」
「僕のこと、少しは好き?」
「すっげー好きだよ、決まってんだろ」
「でも一番じゃないんだよね」
「う……それは、なんていうか……でも好きだ」
「……うん」
「大好きだよ、ウィル。俺、お前のこと、すっげー大切だ」
「……うん。……ありがとう……」
 そんなことを囁き交わしてから、ウィルはナップの胸の中で少しだけ、声を立てて泣いた。

「……この地図が正しければ、約束の場所はここでいいはずだよな?」
「ええ、間違いないわ」
 帝都を出て、街道をしばらく進み、森の中へと逸れた中にある小さな広場。約束の時間である陽が落ちる前に、ナップたちは身代金を持ってその約束の場所を訪れた。
 身代金の三千万バームはあまりにかさばるので、輸送用の召喚獣を召喚した上で馬車を使わなくてはならなかったが、時間に遅れてはいない。だというのに周囲に人の気配は感じられない――
 と思うや、唐突に木陰から数人の人影が現れた。こんな近くに寄られるまで気づかないなんて、と思わず驚く。それだけ紅き手袋≠フ隠密能力が優れているということなのか、それともなにか反則技を使っているのか。
 とにかくそいつらに向かい、ウィルが一歩前に出て告げた。
「昨日から我々の親族をかどわかしている者だな?」
「…………」
 黒ずくめたちは答えない。
「言われた通り、身代金は持ってきた。だが、我々だけでは持ちきれなかったので、半分は馬車を降りた辺りに隠してある。――まずは人質の姿を見せてもらおうか」
 交渉役はウィル、と決めていた。この手の腹の探り合いには、やはりウィルが一番適任だ。
 ここまで言われても相手は答えない――が、中の一人が唐突に覆面を取った。
「……え」
「な……」
「あ……あなたは」
「……やはり、あなたは驚いていないのですね」
 向けられた確認の言葉に、ナップは小さくうなずく。
「なんとなく、そうじゃないか、って思ってたからな」
 そう、なんとなく予想はしていたのだ――それでも、紅き手袋≠フ黒ずくめの覆面の下から、マルジョレーヌの顔が現れた時にはさすがに心臓がどきりとしたが。
 マルジョレーヌ・セスブロン=ヴィズール。名家ヴィズール家の息女にしてウルゴーラ生徒会の実質的なトップ。本来ならばこんなところに存在するはずのない顔。
 だが、ナップは予想していた。根拠のある推理ではなかったが、彼女はそちら側≠ナはないかと心のどこかで考えていたのだ。
「……どういうことなのか、説明してもらおうか」
 ずいっ、と一歩を踏み出す――が、マルジョレーヌは表情を変えないまま、関係のないことを言った。
「警備隊は来ません」
「……は?」
「あなたたちの立てた計画は瓦解しました。こちらの命令に素直に従うことをお勧めします」
「な、に言って」
「いやー、ナップたん、ここは素直に従っといた方がいいよ? この人怒るとマジ怖ぇんだからこれが」
 え、と反射的に声のした方を向いて、ナップは驚愕に大きく目を見開いた。喉から絶叫がほとばしる――その寸前にがずっ、と後頭部に衝撃が走り、世界がぐらんぐらんと回り、暗く黒く染められていく。
 それでも、ナップは必死に手を伸ばした。寝ている場合ではないのだ。なんで、なんで、なんで。疑問符が頭の中を駆け回っている。
「ユ、ー……」
 ナップを驚愕させたその顔に伸ばされた手は、その人間――ナップたちのパスティス軍学校時代からの友人、ユーリ・ヴァースの手によって冷たく払われた。体中の力が抜け、膝が落ち、手が地面へと投げ出され――
 ――暗転。

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