最終年・9――戦いのこと

「……っ……っつ」
「……目が、覚めたかい」
「ナップくん! ナップくん、大丈夫!?」
 ナップはゆっくりと目を開けた。頭ががんがんと軋み、ずきずきと引きつれるような感じが頭皮をひりひりと弄う。数瞬その感覚に耐えた後、これは頭を思いきり殴られた時の痛みだ、と思い出して一気に意識が覚醒した。
 ばっと周囲の様子をうかがう。周囲にいたのはウィルと、ベルフラウと、アリーゼ――つまり、いつもの仲間たちだ。全員後ろ手に縛られて、武器や召喚石も当然すべて取り上げられて、自分と同じように冷たい石畳の床の上に転がされている。明かりは扉のそばに吊り下げられている、古ぼけたランプひとつだけ。
 そうだ、自分たちは捕えられたのだ。誰に? 無色の派閥、に――
 とそこまで考えかけて、はっ、と身をすくませた。覚えている、勘違いやなにかじゃない、気を失わされる前に見た、あいつの姿は。
「………ユーリ、は?」
 低く問うと、ウィルたちは揃って暗い顔で首を振った。
「私たちを捕えたあと、すぐ姿を消してしまって……それからずっと姿を見せないわ」
「あのね、私たち、ずっと見てたんだけど……マルジョレーヌさんが現れて、驚いて……でもその時ナップくんは冷静だったでしょ? そこに、突然覆面をかぶってた人たちの中からユーリが現れて。あっという間に間合いを詰めて、ナップくんに声をかけて……ナップくんがユーリの方を向いて、一瞬隙ができて……そこに、マルジョレーヌさんが一気に踏み込んでナップくんの後頭部に一撃を喰らわせたの。それでナップくんが気絶して、そのあと黒ずくめたちに取り囲まれて武装解除して捕まるよう迫られて。……私たち、それに従ったの……」
「それから目隠しをされて縛られて、乗り物……たぶん馬車に乗せられて。しばらく移動させられて、目隠しを取られたらこの部屋だった。ここは窓もないし、扉から外ものぞけないから、時間も場所もわからなくて……」
 それぞれ悔しげだったり、沈んでいたりと浮かべる表情に違いはあるが、全員心の底に暗い影が落ちているのは聞かないでもわかった。
 ユーリ。ユーリ・ヴァース。四年に上がった時からずっとつきあってきた、パスティス軍学校の大事な友達。
 それがなぜ、あそこに。マルジョレーヌと一緒に。……無色の派閥の中に。
 全員頭の中でそんな言葉がぐるぐるしているのがわかった。ナップ自身、頭の中がぐるぐるしている。なんでユーリがあそこに、無色の連中と一緒に。ユーリはパスティス軍学校の、ごく普通の生徒で、なにより、俺たちの、友達で。
 これじゃ――これじゃまるで。イスラと同じ、いやそれよりもっとひどい、俺は、俺たちは、あいつを心の底から、友達だと、思って――
「はいはーい、みんなー。お腹空いてないかなー?」
 朗らかな声と共に部屋に入ってきた人影に、ナップたちは揃って身構えた。人影は気にした風もなく、ランプの横でこちらに向けてにっこり笑ってみせる。
「はろはろー、ナップたん、ウィルっち、ベルちゃん、アリりん。ご飯持ってきたよん、みんなで食べてv」
「……ユーリ」
 震える声で名前を呼ぶと、ユーリはにっこり笑って「はいはい?」と応える。その顔がなんというか、あまりにもいつも通りというか、自分たちの知っているユーリ≠フものと変わらなさすぎて、ナップは一瞬混乱した。もしかして自分たちの考えていたことはまるで間違いで、ユーリは無色とも紅き手袋≠ニもまるで関係なく、ただ自分たちと同じように囚われているのではないか、というように錯覚する。
 だが、ユーリはにっこり笑顔でそんな夢想を打ち砕いた。
「捕えてからそこそこ時間経ってるからね、しっかり食べてくんないと、まともに戦えないから。それじゃ実験、うまくいかないっしょ?」
 アリーゼが小さく息を呑む音が、他人事のように遠くに聞こえた。
「……実験って、なんだよ」
 自分の声も、ひどく乾いて聞こえる。それなのに、ユーリはいつも通りの軽いにやにや笑いを浮かべながらさらっと言ってのけた。
「そりゃ、高位悪魔の憑依召喚実験に決まってんじゃん。俺らの雇い主、ゼードント家の方々の目的のね」
「雇い……主?」
「ああ、知らない? 俺ら紅き手袋≠ヘ昔っから無色の派閥の召喚師さん方の雇用には最優先で応えるって決まってんだよ。今じゃ勢力的には、大陸中に根を張ってる俺らの方が明らかに上なんだけどさ、なんか上の方の幹部方しか知らない約定みたいなんがあるらしくって。だから俺らは無色の派閥の人たちの命令には基本的に絶対服従……」
「そういうことを聞いてるんじゃないっ!」
 声を嗄らして叫んでも、ユーリのにやにや笑いは崩れない。へらへらと笑みながら、するするとこちらの勢いを受け流してしまう。
「んー? じゃあどーいうこと聞いてんの?」
「なんでユーリがこんなとこにいるんだよっ! 無色の、誘拐犯の連中に混じって、こんなっ……!」
「ああ、そりゃ簡単。これが俺の仕事だから」
「……え」
 ユーリはいつもと――自分たちと一緒にパスティス軍学校で学んでいた頃と同じ、へらへらとうさんくさい笑みを浮かべながら、ごくごく平然とした口調で言ってのける。
「いやさー、実はさー、俺って言ってなかったけど、紅き手袋≠フ潜入諜報員でね? 俺らの間では草≠チて呼んでんだけど。普段は一般人に混じってフツーの生活してんだけど、その中でこっそり情報を集めてるっていう仕事してる奴なんだわ」
「…………」
 呆然と見つめる自分たちの視線にも、ユーリはたじろぎもしない。すらすらと、自分たちの想像したこともなかったようなことを言ってのける。
「俺の仕事はパスティス軍学校の生徒として学校に通い、軍学校の生徒の中から候補≠見つけ出すこと。高位悪魔の憑依召喚に耐えうるだけの心身と魔力の強さを持つ、ね。高位悪魔になると、そのくらいでないと器が耐えきれなくてまともにリィンバウムに顕現する前に破裂しちゃうらしいんだよねー。しかも悪魔ってのは清らかな魂を好む。それは心身もしかり。となると、少年少女ってくらいの年齢の、戦闘訓練を日常的に行っている奴らがいいってことになる。真面目な団体だとさらによし。となれば、帝国だったら軍学校だろ? で、俺はパスティスの担当だったわけ。ファルチカとかウルゴーラにも潜り込んでる奴いたけどさ。俺実は君らより、けっこう年齢いってんだぜ」
「そんな……なんで、高位悪魔の、憑依召喚なんて真似――」
「それは私が説明しよう」
 きぃ、と音を立てて扉が開き、新たな人影が二人入ってくる。その先頭に立っている方の顔を見た時、ナップたちは全員、仰天して叫んでいた。
『スィアス先生………!』
「その通り。諸君、久しぶりだな。きちんと勉強していたかね?」
 眼鏡の奥で微笑むその顔は、間違いなくスィアス・バウゼン教官のものだった。パスティス軍学校の召喚術担当の教師として自分たちを教えてくれていた――そして、禁術に手を出し、何人もの人間を私欲のために犠牲にした罪で捕えられた――自分たちが当局に突き出した、はずの。
 もはや唖然とするしかない自分たちに、ユーリがへらへらと説明する。
「やー、実はさー、俺らとスィアス先生って繋がってたんだよねー。無色って基本的には外から人入れないんだけどさ、俺がたまたまスィアス先生の研究内容――悪魔と同化することで魔力と寿命を延ばすっての知っちゃって。上の方に報告したら、俺らの上のさらに上の人、ゼードント家の主筋に当たるセルボルト家のご当主が興味持っちゃって、仲間に引き入れるように言われたわけよ。幸いうまい具合に君らに捕まえられてくれたんで、こっちが有利な条件で引き入れられたし。牢獄から人一人を脱出させてその痕跡をもみ消すことくらい、俺らにとっちゃどうってことないからね」
「――セルボルト家!?」
 ナップは半ば悲鳴のような声を上げた。セルボルト。覚えている、忘れようがない。それは、自分が、自分たちが以前出会った無色の派閥の一門。あの島を襲い、先生を、島のみんなを、アズリアの部下たちを傷つけ、殺した、あの黒眼鏡の男を当主に抱く奴ら――
「……やはり、あなたが、例の少年だったのですね」
 すい、と前に出て、感情の感じられない声で言ったもう一人の人影は、マルジョレーヌだった。軍学校の時とはまるで違う、黒装束に黒覆面。だが、髪を本当にただ邪魔にならないように、という形に編み上げたマルジョレーヌの姿に、その恰好はひどくしっくりと似合っていた。
「セルボルト家の大首領、オルドレイク・セルボルトさまと戦った茶髪の少年。忘れられた島の適格者≠ノつき従っていた者。オルドレイクさまの計画の一つを台無しにした者が、こんなところにいようとは思いませんでした」
「オルドレイク………。じゃあ……まさか、これは……あいつがやってることなのか? あいつが……オルドレイクが! また悪い計画を立てて、実行しようとしてるのか!?」
「悪い、というのは一方的な価値観だよ。彼はまさに天才だ。我らの――召喚師の力で世界を正しく創り変えようという大望を胸に抱き、それに向けて粉骨砕身の覚悟で邁進している」
 スィアスが楽しげに笑みながら言葉を挟んだ。前に戦った時と同じように、ちゃんとした先生だと思っていた頃と少しも変わらない笑顔で、信じられないことを言ってのける。
「彼は、現在いくつもの計画を並行して準備・進行させている。今回の要件もその一環だ。高位悪魔を生贄に憑依召喚する技術――それをさらに推し進めれば、魔王と呼ばれるほどの大悪魔をこの世に顕現させ、自由に操ることも可能になるはずだ。その考えのもとに、今回の実験を考案された。そして、私がその実験の監督役を仰せつかったわけさ」
「実験……? なんで、そんなものに、僕らが」
「ああ、それは簡単。俺が、君らを実験台の候補≠ニして、赤丸つきで推薦しといたから」
『――――!』
「苦労したんだぜぇ? いっくらウルゴーラ軍学校に通う生徒の中でも、指折りの名家の人間を少しずつ消して入れ替わってったとはいえさ。かーなり昔からちょっとずつ計画進めて、操りやすいように候補≠全部ウルゴーラに集めて、観察して、このマルジョレーヌさん――俺らの呼ぶ名前は鉄の乙女<fィアッカってーんだけど、の部下――だっけ? とにかくそいつの発案で、資金稼ぎ兼召喚術の実験のために帝都で働かせてた泥棒をうまく君らに捕まえさせて。その結果をうまく使って軍学校校長動かして、君らの両親集めて――ま、そこまでやれたのはどっちかっつーと僥倖だったけど」
「両親……? なんで、私たちの両親が、関係してくるの」
「簡単だよ。これから君たちは、全員揃って紅き手袋≠フ諸君に嬲り者にされる。それを君たちの両親に見物させるのだ。君たちが両親に複雑な感情を抱いているのは知っている。その前でぼろぼろになるまで嬲られる――その絶望と悲嘆は、悪魔の好むものだ。君たちのような気高い魂がそこまで堕とされる際の感情を喰らえるならば、相当な高位悪魔であろうとも君たちの体に憑依してくれるだろう」
『―――――!!』
 あまりの台詞に硬直する自分たちに、ユーリは涼しい顔でにっこりと笑ってみせた。
「とりあえず、状況説明はこんなとこだけど。まだなんか、わかんないとことかある?」
『…………』
「……なんで」
「ん?」
 顔をわずかに近づけてきたユーリに、胸倉をつかまんばかりの勢いで迫ってナップは怒鳴る。縛られているのでどうやっても胸倉なんてつかみようはなかったけれども。
「なんでこんなことしてんだよ、ユーリ!?」
「なんでって、まぁ、これが俺の仕事だからねぇ。初めての大きな仕事だから、せっかく草≠フ俺が計画実行の時まで随行するお許しもらえたわけだし」
「そういうこと言ってんじゃないっ!」
 声を嗄らして怒鳴る。はぁ、はぁと息が荒くなる。それでも、きっとユーリの顔を真正面から見つめて言った。
「お前、本気でこんなことやりたいと思ってんのか」
「……やりたいっていうか、仕事だからねぇ。任された仕事はきっちりやらないと」
「友達を――仲間を騙して、陥れることが仕事かよ!?」
 叫んだ。必死に。自分の声が、せめて少しでも届くようにと。
「ユーリ、もう一度聞く。お前本気でこんなことやりたいと思ってんのか」
「…………」
「俺はそうは思わない。確かにお前、いっつもへらへらしてうさんくさかったけど、お前と知り合ってから一緒に学校生活やってきて、楽しいことも苦しいことも一緒にやってきて、時々は俺たちに手を貸して助けてくれたお前が、全部嘘だなんて絶対信じない。お前は、俺たちの」
「友達で――仲間、だって?」
 ユーリはナップの言葉を途中で遮った。その顔には相変わらず笑みが浮かんでいる――だが、その表情には明らかに、嗜虐的な喜びが浮かんでいた。
「あんま笑わせないでくれる? 俺たち草≠ヘさぁ、どんなとこにも入り込むの。だからどんなとこでも、周りと友好的な関係を築けるよう訓練されてるの。そんな上っ面の関係に、いちいち思い入れて仕事しくじるような真似、諜報員失格だよ? つ・ま・り」
 楽しげに嗜虐的な笑みを浮かべつつ振った指を、びっとこちらに突きつける。
「君らが見てたのは俺の上っ面だけなんだよ。そんな分際であんま偉そうなこと言わないでくれる? 面白すぎてへそがお茶沸かしちゃうよ」
「………っ」
「さて。状況が理解できたのなら、食事をしてせいぜい戦いに備えたまえ。言っておくが、ここは我々の拠点の中でもかなり大きなもののひとつで、君たちの周囲は血風喰い<Vヴェタ殿をはじめ百人以上の構成員に囲まれている。脱出しようとしても、まったくの無駄だ」
「……っ……」
「君たちの立てた計画は、帝国内に潜り込ませた諜報員の働きにより事前に入手しているからな、こちらにとって都合のいいものに捏造させてもらった。そのくらい現在の帝国には無色の派閥と紅き手袋は深く根を張っている、ということだ。つまり、君たちに助けが来ることは絶対にない。まぁ、かつて生徒だった諸君を苦しめるのは本意ではないが、せいぜい深い絶望の中であがいてくれたまえ。それが悪魔を引き寄せるなによりの食事になる」
「……スィアス、先生っ……」
「――それでは。ああ、あらかじめ言っておきますが、ここからの脱出を試みても殺しはしませんので存分にあがいてください。そのたびにあなた方は自分たちの置かれた状況を再認識し、絶望に沈んでくださるでしょうから」
 そうマルジョレーヌが言い出した言葉を最後に、彼らは部屋を出て行った。

「………くそっ!」
 がづっ、とウィルが床を蹴った。後ろ手に縛られた状況では足ぐらいしか自由に動かせないからだろうが、それでもなにかに当たらなければ怒りと、忍び寄る絶望に対処できなかったのだろう。
「……ユーリくんが……あんな……あんなこと、言うなんて……」
「……現実から逃げてもしょうがないわ。あいつは、私たちを裏切った。いいえ、最初から仲間なんかじゃなかった。それだけのことよ」
 涙ぐみながら言うアリーゼに、ベルフラウが歯を食いしばりながら言葉をこぼす。二人とも必死にこの理不尽な状況に耐えているのだろう、表情は暗かった。
 ナップ自身、気分がどんどんと、死にそうなほど重くなっているのに気づいていた。ユーリが。スィアスだけでなく、ユーリまでが。信頼した人が、心をかけた相手が、友達だと仲間だと思っていた奴が、平然とした顔で自分たちを傷つける台詞を吐いてくる。それだけでも泣きたくなるような出来事なのに、このままでは、自分たちは、確実に、殺されるのだ。
 いいや、と首を振る。諦めちゃ駄目だ。最後まで絶対に諦めちゃ駄目だ。『信じなければどんな想いだってかないっこない』し、なにより――ここで諦めたら、もう二度と、先生に会えない。
 自分がここで死んだら、もう二度とあの島に戻れなかったら。先生はどれだけ傷ついて、苦しむだろう。それどころかまともに生きてすらいられなくなるかもしれない。そんなの――そんなの、絶対許すわけにはいかない。
 ぐ、と奥歯を噛んで、足で押して尻を擦って、仲間たちの方に近づく。視線で合図して、全員車座になり、顔をつき合わせた。
「……どうしたの、ナップくん」
「お前ら、この部屋がどこから監視されてるか、わかるか?」
 問いに、仲間たちは目を見開いた。ベルフラウがおそるおそる、というように訊ねてくる。
「監視されてる可能性は、低くはないとは思うけど……それ以前に……あなた、ここから脱出するつもりの?」
「ああ。当たり前だろ」
「周囲は敵に十重二十重に囲まれていて、武器も召喚石もない。助けが来る可能性だってほとんどないのよ?」
「そんなの、あいつらが自分が言ってただけだろ。それに、あいつらの言ってたことが本当でも」
 ぎっ、と真剣な顔で、睨みつけるように仲間たちの顔を見る。
「諦めたら、そこで終わりだ。死ぬ最後の瞬間まであがくんだ。そうでなけりゃ、俺たちがこれまで必死に頑張ってきた意味が、全部失われるんだぞ」
『…………』
 しばし息詰まるような沈黙があり、それからふっと空気が緩んだ。三人が、それぞれの表情で笑ったのだ。
「まったく……君ってやつは。本当に……歪みがないな」
 ウィルがどこか嬉しげに苦笑すれば。
「まぁ、そのくらいでなければ私の見込んだ甲斐がない、というものだけれどね」
 ベルフラウがすまして、でもどこか嬉しそうに言ってのけ。
「ナップくん……うん、そうだよね。頑張る……私、頑張る!」
 アリーゼが涙ぐみながらも、決死の覚悟を乗せた表情で言葉を吐く。
 仲間たちそれぞれの、自分に対する信頼と情にナップはにっと笑った。やっぱり、俺たちは仲間だ。大切な、絆を結んだ、仲間なんだ。
 ユーリはそうじゃなかったのかもしれないけど――などと転がる思考を押し留めて、うんとうなずいて気合を入れる。今は落ち込んでいる場合でもないし、そんな暇もない。
「みんな。俺、ひとつ隠してた手があるんだけど――」

 全員で扉側の部屋の隅、ぎりぎりにまで近寄って(どこから監視しているのかはわからないが、せめて扉からは自分たちのことをのぞけないようにしたかったのだ)、車座になって小さなスペースを中心にぎりぎりまで近寄る。少しでもこれから出るものを隠すためだ。
 周囲の気配を探って、誰もいるようには思えないのを確認してから、小さく呟く。
「出てこい、アール」
 ぱぁ、とごく小さな蒼い光が輝き、自分たちの囲んでいる中にぽんっ、とアールが出てくる。じっ、とこちらを見つめてくる久しぶりに会う相棒に、ナップは手を縛る縄を解いてもらいながらごくごく簡単に状況を伝えた。
「俺たち、捕まっちまってるんだ。武器も召喚石も奪われた。悪いんだけど、俺たちの武器や防具や召喚石を探して、持ってきてくれないか。――頼む」
「ピッ!」
 頭を下げるナップに、なにをいまさら気にするな、というようにアールはうなずいて、ぶぅん、と自分の体の周囲を蒼い光で囲んだ――と思うと、ふっと姿を消した。アールの特殊能力、短距離瞬間転移だ。壁も高低差も関係なく、一定の距離内ならばどこにでも転移できる。
「……あの子にまともに会うのはこれが二度目だけれど……本当に小さな召喚獣だな。大丈夫なのかい、あんな小さな子で。なにかあったら」
「心配すんな。あいつは攻撃だけなら俺と張るくらいには強い。そんじょそこらの奴が斬りかかったって、一撃でぶっ倒せるさ。機界の召喚獣だから、麻痺やなんかを引き起こす召喚術にも強いしな」
「あんな小さな体で……? あの子って、本当にすごいのね」
「俺の相棒だからな」
 小さな声で囁き交わしながら、ひたすらに待つ。あいつならたぶん、大丈夫だ。そんじょそこらの奴には絶対に負けない。それはナップにとっては、相棒に対する絶対的な信頼だった。
「……でも、本当にナップくん、召喚石をどこに隠してたの? 向こうもプロなんだから、身体検査はかなり厳密にやったはずなのに……」
 アリーゼの不思議そうな顔に、ナップは一瞬言葉に詰まる――が、できるだけさらっとごまかした。
「ま、俺は俺なりにいろんな経験を積んでるってことさ」
「なんだか怪しい台詞ね」
「まぁ、役に立っていることだし、詳しくは聞かないでおくけれど……」
 ウィルの言葉に、心底感謝の念を込めながらうなずく。――以前レックスから寝物語に聞いた、万一捕えられた時のために、召喚石を肛門の中に隠す(ナップの場合は肛門が傷つかないようにラトリクス特製の素材で召喚石を包んでいる)なんて真似、いくら役に立ってるっていったって正直に話せるわけがない。本当に、まさかそんなことはあるまいと思いながらも、ふと思い出してしまったからにはやっておかないと据わりが悪い、と(いくぶん性的な背徳感というか興奮のようなものを伴いつつ。冗談混じりとはいえ先生に聞いたということもあり)やっておいたことなのだから。
 ゆっくり数百数えるほどの時間が経って――ナップはは、と顔を上げた。
「どうしたんだい、ナップ」
「なんか……音が聞こえる」
「音?」
「たぶん、戦いの音だ――もしかしたら、あいつが」
「ピピーッ!」
 言葉を言い終わるよりも早く、ぶんっと空間が歪み、アールが姿を現す。その頭の上には、自分たちの武器や防具がしっかり全部乗っているのを見て、全員歓声を上げた。
「よしっ! 急ぐぞっ!」
「言われるまでも!」
 防具を協力しつつ大急ぎで着込み、武器を装備する。全員問題ない、と目を合わせて確認するや、「アール!」とナップは鋭く叫んだ。
「ピピッ!」
 がづん! と小さな拳での一撃が扉に入った、と思うや、自分たちを閉じこめていた扉は見事に吹っ飛んだ。自分でも扉を一刀両断することくらいはできる、アールは素手でそれとさして変わらない攻撃力を叩きだすことができるのだ、このくらいは当然。
 仲間たちに待て、と手で合図し、即座に姿勢を低くしながら部屋から飛び出す。予想通り扉の横から刃が二本自分の足を狙って振るわれたが、気配でそれを察知していたナップはうまく刃を飛び越して、ビリオン・デスを閃かせた。
「がっ!」
「ぐっ……」
 扉の脇に立っていた、おそらくは紅き手袋≠フ構成員たちは、脳天を大剣の平で叩かれて倒れた。周囲を素早く確認し、くいっと手招きすると、ウィルたちも揃って部屋の外に出てきた。
「どう逃げる?」
「とりあえず見つかる前に動くしかねーだろ。アール、お前、俺らの武器探してる時にここの構造とか調べたか?」
「ピピッ、ピッ!」
「くっそ、やっぱか……そりゃ移動して数個目の部屋で武器見つけたんだったら構造もなにもわかるわけねーよな……」
「……ナップくん、この子の言葉、わかるの?」
「そりゃ、無駄に三年一緒にいるわけじゃねーからな」
「三年って……君はいつからこの子と出会っていたんだい」
「だから三年前だって。一人でいる時とかによく召喚してたんだよ、ほいほい召喚してんのとか見たらウィルとか怒るだろ?」
 口早に言葉を交わしつつも、小走りになって素早く移動する。敵がどう出てくるのかはわからないが、少なくとも自分たちをそう簡単に逃がしてくれるつもりがないのは確かだ。
 人の気配を探りながらも、気配を殺すことよりも早く移動することを優先して動く。もう自分たちの行動が知られているのはアールが見つかっていることで明らかだし、自分たちは隠密行動の訓練などろくに受けていないのだから、下手に気配を殺そうとするよりもそちらの方がいい結果を生むはずだ。
 と、道の先に広い空間と、何人もの人間の気配を感じ、全員口をつぐみさっと壁に身を隠す。できるだけ音を立てないようにしながら、そろそろと道の先をのぞいた。
「………!」
 思わず息を呑む。そこは巨大な広間――というよりは、祭壇のようになっていた。中央に巨大な魔方陣、そのいくぶん低くなっている周りにいくつも並び立つ祭器。それらを何人もの召喚師――おそらくは無色の、が取り囲み、それをさらに紅き手袋≠フ暗殺者らしき人影が十重二十重に取り囲んでいる。
 その中に、マルジョレーヌと、ユーリと、スィアスと、血風喰い<Vヴェタと――自分たちの両親が混じっていた。
「あー、あー。っと、これでちゃんと聞こえるかなっと」
 ユーリが手元に置いてある機械のようなものをいじる。それがラトリクスで見た放送機材に似ている、と思ったのとほぼ同時に、広間中にわんわん響く大きな声がユーリの手元の機械から垂れ流され始めた。
『はいはーい、今どの辺に来てるのか知らないけど、ナップたんたち、聞いてるー? まっさか俺たちの身体検査でも見つからないよーなとこに召喚石持ってるなんて驚いちゃったよー。しかもあの召喚獣が転移の能力を持ってるなんてもービックリって感じ? ……けどさぁ、君たち、ちょーっと忘れてること、あるよねー?』
 にこにこと話しながら、ユーリはシャッと流れるような手つきで短刀を抜き、縛られて足元に転がっているナップの父の喉元に突きつける。
『いちおーこっち人質取ってるんだよー? 君らのご両親やおにーさんをねー。ま、君ら的には死んだ方がいい、って思ってる相手かもしんないけどー』
「―――!」
『だからこそ′Nたちは、絶対に彼らを見捨てられない』
 にこにことした笑顔のまま、ユーリはさらっと告げる。そして、その言葉は確かに自分たちの急所を突いた。
『君らが疎んじてる相手だからこそ、そんな血の繋がっている相手を見捨てることは、君らの誇りが許さない。見捨てちゃったら君らの心の中に、深く深く罪悪感が残っちゃうから。自分たちは、自ら望んで両親を、兄を見捨てたんじゃないかって思っちゃって』
「…………」
『そういうわけだから、百数える間に出てきてくれないかなー? 出てこなかったら、ありがちだけどそのあとは五十数えるごとに人質の指を順番に一本ずつ落としてくってことでー』
「――――! ――――!!」
 空気を伝わって、かすかにではあるが人の暴れる気配が感じられた。おそらくは縛られ猿ぐつわをされた人質たちが、恐怖のあまりじたばたと動いているのだろう。
 それはそうだろう、自分だってそんな状況に陥ったら恐怖を感じる。人間としてごく当たり前の反応だ。
 だが心のどこかが『無様だ』と思ってしまうのは避けられなかった。あんなに偉ぶっていた人たちが、いかにも大物という顔をしていた父親が、刃を突きつけられて上っ面を取り繕う余裕もなくのたうつあの姿。それこそ獣かなにかのようで、醜さを感じずにはいられない。
 けれど。だからこそ。
 ナップは仲間たちと顔を見合わせた。みんな顔は暗かったが、それでも全員同じ決意を胸に抱いているのは言葉にせずともわかる。
 みんなで小さくうなずいて、ナップたちはすっ、と一歩を踏み出した。
「ユーリ! 俺たちは、ここだ!」
 叫ぶや広間中の人間の視線が一気に自分たちに集中する。ユーリはいつものにやにや笑いを浮かべたままで、マルジョレーヌは感情の感じられない無表情で、スィアスは嬉しげに、シヴェタは楽しげに、そして自分たちの両親たちは――それぞれの表情で恐怖に震えながら、自分たちを見てわずかに安堵の表情を浮かべた。
「やー、やーっぱそっちにいたかー♪ ご両親たちを人質に取られたら出てこざるをえないってのも読み通りだねっ」
「勘違いしないでくれる、ユーリ。私たちは近い将来軍人になる人間よ。それが民間人を見捨てるなんて、許されるはずがないでしょう」
「その通り。彼らにどんな感情を抱いているかは問題じゃない。助けられる命があるなら全力で命を懸けるのが軍人というものの本義だ。それに私情を挟むほど、僕たちは愚かじゃないさ」
 ベルフラウとウィルがきっとユーリを睨んで告げる。さらにアリーゼも一歩を踏み出して前を見据え宣言した。
「それに……私は、将来医者を志してる人間だもの。救える命を見捨てるなんてことは、絶対にしないわ」
 ナップとウィルは揃って目を見開いた。そんな話、初耳だ。
 だがベルフラウはすでに知っていたのだろう、ふんと高飛車な顔で鼻を鳴らしてみせる。
「それで? 出てきた次はなにをしろ、と? 武器を捨ててあなたたちにまた捕まれとでもいうのかしら」
「ざーんねん、それは外れー。っていうか、目的からいうならそっちのが楽なんだろーと思うんだけどさー」
「こんな機会に、そんなもったいねぇ真似するわけねぇだろぉ?」
 シヴェタがさも嬉しげに言って、剣を抜いた。ぬらりとした輝きを放つその細長い剣の肌を、ぺろりとひどくうまそうに舐めてみせる。
「言っただろぉ、ナップ・マルティーニ? 本気で遊んでやるってよぉ。俺とまともに渡り合えるかも、と一瞬でも思わせてくれる奴なんてそうそう会えやしねぇんだ、だったらここは血ぃ吐いてぶっ倒れさすまで遊んでやるのが筋だろぉ?」
「……っ……」
「って、この人が言うからさー。ぶっちゃけこの人命令に造反することしょっちゅうだから、上の方からも睨まれてんだけど、あんまり腕がいいんで殺すに殺せないんだよねー。だったらできるだけ機嫌取っとくのが上策かなーって。ま、嬲るって点じゃこの人と戦わせるのも人質で言うこと聞かせて痛めつけるのも同じだろ、っていう風に決まったわけ」
 ひゅんっ。シヴェタの手元の剣が、ナップにすら完全には捉えられない速度で舞った。しゅばばばっ、と四方八方から斬りつけ、ユーリの体に傷を負わせる。
「っ、ユーリっ!」
「うるせぇ黙ってろ若造、てめぇなんぞが俺の行動にああだこうだ文句をつけてんじゃねぇ、次は首落とすぞ」
「……わっほー、おっかねー。はいはいわかりました、黙ってますよっと」
「ハッ。……降りてこいよ、ナップ・マルティーニ。体中血達磨になってぶっ倒れるまで、遊ぼうぜぇ?」
 にいぃ、とぞっとするほど嬉しげに唇の両端を吊り上げるシヴェタに、ナップは一瞬す、と息を吸い込んでから答えを発した。

「ナップ……」
「ナップくん……」
 それぞれ不安と心配を込めてこちらを見つめてくる仲間たちに、ナップはにっ、と笑ってみせた。
「心配すんなって。俺はちっとくらい傷負わされたって死なねぇよ、頑丈にできてんだから。しっかり勝って、うまいことこっから逃げ出すきっかけくらい作ってきてやるよ」
「……私たちのことは気にしなくていいわ。あなたは自分が生き残ることをまず考えなさい。あなたの強さは知ってる、けど……相手は普通の相手とは桁が違うわ」
「……ああ。そうだな……」
 ベルフラウの言葉に小さく苦笑して、ナップはシヴェタの方に向き直った。祭壇の前に作られた大きな空間。その周りを無色の召喚師や暗殺者たちが取り巻いており、人質たちはその円の外、ナップたちとは反対側で何人もの暗殺者たちに見張られている。正直、アールを送還させられたこの状況で、無理やり助け出すのは難しいとしか思えなかった。
 だが、今はそんなことを気にしている余裕は、はっきり言って微塵もない。空間の向こう側、自分と対峙する場所に、シヴェタが剣を抜いて構えていたからだ。
 シヴェタの構えは、帝国軍の剣術を基とするものではあるが、その基とするものもかなり珍しい部類に属する流れではあった。トライドラの制式剣術と似てはいるが、根本的なところで様相を異にするものだ。
 トライドラに端を発する流派はほとんどが横切りの流派だが、それは基本的な戦闘思考が少しずつ相手の体力を削ぎ取っていくことを目的とするものだからだ。守りを固め、相手の体力を少しずつ削ぎ、攻勢を持ちこたえて敵を打ち負かすという展開を理想とするもの。
 シヴェタの流派はそれとは百八十度異なり、『相手を間合いの外から反撃を許さず斬り倒す』という展開を最上のものとする流れだった。どちらかといえばサムライの剣技に近い。さらに言うならば暗殺者の技にも似ていた。暗殺者とサムライの技を足して二で割り、そこに帝国剣術のいい部分を抜粋して加えた、というのが一番近いたとえになるだろうか。
 なんにせよ――あいつは、シヴェタは、強い。そして振るう技はナップの剣技とはかなり相性が悪い。それは、認めざるをえない事実だった。
 シヴェタは剣を一見無造作に、だが微塵の隙もなく下方に開くという異形の形に構えて、にやにやとこちらを見ている。こちらに仕掛けさせようというつもりなのだろう。そこに罠が潜んでいることはどう考えても明らかだ――だが、ナップはさして迷うこともなく、その誘いに乗った。
 戦いの駆け引きでは、かつて最前線で戦っていた軍人であり、それからもずっと人を斬り続けてきたシヴェタにかなうはずがない。ならば、自分にできるのはただひとつ――体に叩き込まれた剣の技を、全速全力で振るうこと、そしてそれができるような場≠、思考力を振り絞って創り出すこと!
 だんっ、と床を蹴りシヴェタの武器の間合いに入り込む。シヴェタがにやぁ、と笑みを浮かべ、ひゅおんっ、と剣を振るう。以前受けた時と同じように、きらきらと刃の光が雪のようにきらめく――が、今度は前のように斬り裂かれはしなかった。
 かしぃん! と音を立ててシヴェタの剣を跳ね上げる。シヴェタが目を見開き、さらに剣を振るうが、それも横へと受け流した。
 右。下。左上。左。右下。左下。右上。それこそ四方八方から舞い落ちてくるシヴェタの剣を、ナップはすべて跳ね飛ばしていく。遠心力を使って振り回す剛の剣で。シヴェタに『いいカモ』と言われた剣で。
 おそらくは驚きに目をみはっているシヴェタに、にやり、と笑って言ってやる。
「俺があんたの剣筋何回見たと思ってんだよ。防ぐくらいなら目ぇつぶってたってできるぜ」
 ――というのは、真っ赤な嘘だ。
 今のは相手の攻撃を防ぐことに専念して、しかも弾き飛ばすことを念頭に置いて剣を振るった結果にすぎない。剣筋を感じることに精神を集中させ、大きく剣を振るえば、体から大きく離れた場所で剣を弾くことぐらいはできる。
 が、それを攻撃に繋げることはできない。それくらいはシヴェタも当然すぐに見抜くだろう。問題は、そこからだ。
 シヴェタはにやぁ、とひどく楽しげに笑い、ひゅんひゅんひゅん、と剣を閃かせた。自分の周囲に鋭い刃を舞わせながら、楽しげに言ってくる。
「はっははぁ、なーるほどねぇ。つーまりお前は、俺に接近戦を誘ってるわけだ。遠くからちまちまやってたって勝負はつかねぇよ、っつって。ま、わりかし初歩の誘いの手だわな」
 やっぱり見抜かれたか、とナップは内心顔をしかめる。一撃離脱を繰り返されてはナップにまず勝ち目はない、だが接近戦なら、こちらの剣で捉えられる間合いなら。そう考えての挑発だったが、それが見抜かれるだろうことは最初から予想していた。
 だが、それでも。
「けど、事実だぜ」
「……へぇ?」
「間合いぎりぎりでこっちの間合いの外から放ってくる攻撃は、軌道が限定されるから捌きやすい。そんな剣なら俺はほぼ間違いなく防げる。そりゃ、ちまちまと一撃離脱で体力を削ってくって方法もあるけど――そんなつまんない方法で勝っても、あんたは面白くないだろ。それじゃ勝って当たり前なんだから」
「……ふぅん? ってぇことは、お前さんは、接近戦なら自分が勝つ可能性がある――とでもいうわけか?」
 顔に笑顔を張りつかせたまま言われた言葉に、ナップははっきりうなずいた。
「接近戦での斬り合いなら、六四で俺が勝つ、と思ってる」
「……ふゥん――」
 びゃっ! きしぃん!
 一呼吸もしない間にナップの間近に入り込み、顔面めがけて振るわれた剣を、ナップはぎりぎりで受け流した。顔面の負傷はまずい、噴き出した血が目に入ったら剣がまともに振るえなくなる。
 ひゅおっ! きぃん! びゃうっ! かしぃん! 顔へ、腕へ、腰へ、脚へ。戦う者には致命となる攻撃をシヴェタは次々繰り出し、ナップはそのすべてを、本当にぎりぎりのかろうじて、という段階で受け流す。
 シヴェタは顔に笑みを張りつかせながら、息もつかせぬ勢いで剣を振るう。その四方八方から襲いくる剣舞に、ナップは防戦一方にならざるをえなかった。
 ――だが、シヴェタは笑顔を作ってはいるものの、挑発的な言葉を投げかけるどころか、笑みを張りつかせた形から動かしもしない。
 わかっているのだろう。全力でナップを攻撃しても、ナップを攻めきれないことに。そしてナップが、攻撃の機会をうかがっていることに。
 かしゅぃん! きぁいん! と自分の体につくぎりぎりで刃を軋ませながら、ナップは機会を待っていた。シヴェタを捉えられる一瞬の隙、攻撃できる機会を。
 この間合いまで入り込んでしまった以上、シヴェタはここから抜け出ることはできない。無理やり抜け出ようとすればそれが隙になる。その一瞬を逃すほど、自分は間抜けではない。
 必死にシヴェタの剣を受け流しながら、ひたすらに待つ。シヴェタの剣をすり抜けて打ち込める間=A相手に攻撃を届かせることができる一瞬を。
 しゅぃん、きぃん、じゃりん、かぃん、しゃんっ、じゃっ、ぎりぃん、しゅぉんっ。一瞬でも受け損なえば瞬時にズタズタにされるだろう怒涛の剣戟を、脳が熱くなるほど精神を集中させてぎりぎりで受け、捌き、流す。えんえんと、それこそ数時間にも感じられるほど長い怒涛の数瞬。
 ――と、その剣戟に、ふっと隙ができた。
 なにがどうとか考える暇もなかった。その一瞬に全身の力を一瞬に込め、愛剣の一撃へと変換する。ずんっと踏み込んで、大剣をシヴェタの首へ向け振るう――
 と思ったその瞬間銀の光が閃き、体中に激痛が走って血が噴き出した。
「ぐ……!」
 それでも勢いを殺さず振るった剣は、かろうじてシヴェタの肩口を捉えたが、シヴェタにはさして痛手になっていないようだった。すうっと体を退かせて間合いを開け、またすいと近づいて銀光を閃かせる。ナップは必死にシヴェタを捉えようと剣を振るうが、受け流す手も見えないほど巧みにかわされた、かと思うやまた激痛。
「く……ぁ、く、ぅ……」
 ずぎんずぎんずぎん、と体中が叫ぶのに耐えながらぎっとシヴェタを睨む。シヴェタはくくっ、と、今度ははっきりと余裕を持った笑い声を立てた。
「まー、なーかなか頑張ったよなぁ、ナップ・マルティーニ? けどなぁ、これじゃー駄目だね、駄目も駄目、まるっきり駄目だ。俺にゃぁとてもとても届かねぇ」
 にやにやと笑みを浮かべながら、シヴェタは詠うように言ってみせる。ひゅぉん、と軽く剣が振るわれるのを、ナップは全身の力を振り絞って受け流す。その様を楽しむように、シヴェタは次々と剣を振るった。
「挑発して、俺を剣の間合いに捉えるってやり口はまぁ悪くねぇ。悪くはねぇが、甘いねぇ。甘い甘い、大甘だ。言っただろぉ? 俺は帝国軍にいた頃体を弄られてたせいで、痛みなんてもんまともに感じなくなっちまってるって。つ・ま・り、攻撃するなら一撃で仕留めなきゃ反撃がくるわけよ。そっちの痛手の方が、普通に考えて圧倒的にでかいだろぉ? し・か・も、俺が放つ攻撃は当然秘剣・閃舞絶雪=Bそんなもんを喰らった後の攻撃なんて、まともなもんになるわきゃねぇだろぉ? お前には痛みってもんがあんだからよぉ。しかもその攻撃が秘剣でもねぇとか、間抜けすぎんにもほどがあるぜぇ?」
 ひゅん、ひゅん、ひゅおん。喋りながら振るわれる剣を、ナップは必死に後退しながら受け流す。遊び半分であろうとも、受け損なえば致命になるであろう箇所を狙った一撃だ。必死に受け、かわし、下がるしかナップにできることはなかった。
「おいおい、どーしたぁ? がっかりさせねぇでくれよぉ。せっかく、わざわざ、この俺が、お前を遊び相手に使ってやろうってんだぜぇ? もっとマシに抵抗してくんねーとぉ、こ・ろ・し・ちゃ・う――ぜぇっ!」
 言いながらシヴェタはだんっとこちらに向けて踏み込み、剣を振るう――
 ―――捉えた!
 ざがぎゃりぃっ! じゅばっ、ずばっ!
「………な………?」
 シヴェタは呆然、を絵に描いたような顔でこちらを見た――と思うや、ずだん、とその場に不恰好に倒れた。斬絶月で肩口から大きく斬り裂いたあと、返す刀で手足の腱を断ち割ったのだから当然だ。
 周囲の人影たちが大きくどよめくが、ナップはそれに注意を払う暇もなくシヴェタを睨んでいた。こいつなら手足が使えなくなっても、口だけで剣を振るってくるなんて真似をしかねない。
 だが、見たところ、シヴェタの表情にはそんな余裕などまるでなかった。大きく斬り裂かれた肩口からだらだらと血を流し、動かなくなった手足をぴくぴく痙攣させながら、呆然を絵に描いたような表情でこちらを見ている。
「な、ぜ……」
 状況がさっぱりわからない人間の、まだまともに善後策を考えることもできていない、『あっけにとられた』という言葉そのままの表情でぽかんとそう呟くシヴェタに、ナップはふん、と鼻を鳴らして肩をすくめた。勝ち誇る、というよりは、見下すように。
「言っただろ。接近戦なら俺が勝つ、って」
 六四で、という言葉を抜かしているが、これは当然意図的なものだ。ナップとしては、シヴェタに思いきり格上の相手に叩きのめされた、という感情を味わってほしかったのだ。こいつにはどうしたってかなわない、と。二度とこちらに戦いをしかけてくるようなことがないように。
 ――なにせ、ナップとしてはもう一度やったら勝てる気がまるっきりしないのだから。
 ナップが考えたシヴェタへの対抗策、というか自分が勝てる一番可能性の高い戦術は、『相手を挑発し、間合いを無造作に詰められた瞬間を狙っての詰められた動きに対する返し技』だった。それならば斬絶月が一番高い効果を発揮できる。というか、それ以外では相手の秘剣に呑み込まれてしまうだろうと思ったのだ。少なくとも、間合いの外からちまちまと攻撃されているような状況では、こちらはどうやっても攻撃をうまく当てられない。
 斬絶月を十全の威力で発揮できさえすれば、相手を行動不能に追い込める自信はそれなりにあった。斬絶月は相手にもっとも強い打撃を与える秘剣、まともに当てられれば体の真芯を揺らして体の動きが鈍る。一瞬程度ならば、体をろくに動かなくさせることも可能だろう。
 痛みが感じられない、というのもこの場合はむしろ好都合だ。体から血が流れ出たことによる体の不具合も、衝撃による体の麻痺も感じ取れないはず。まずなんとか相手に一撃を加え、体の動きが鈍ってきたところに斬絶月を当てる。それができれば、衝撃で相手が一瞬動けなくなった隙に、返す刀で手足の腱を断ち割ることもできるだろう。
 そんな見込み程度の、作戦とも呼べない作戦だったが、かろうじてぎりぎりでうまくいった。相手がうまく挑発に乗ってきてくれたこと、こちらが完全装備で防御力も攻撃力も舞踏会の時とは比べ物にならないこと、それを向こうが知らないこと、あの島で先生とカイルに『いくら血が流れ体に傷を負っていても動きに影響を与えない戦い方』を教わっていたこと――どれが欠けていてもこうもうまくはいかなかっただろうが、それでも――今回は、うまくいった。
 慎重にシヴェタと間合いを測りながら、周囲の様子を探る。この勝負で勝ったからといって、自分たちが勝ったというわけではない。自分たちは、人質も含めて、全員生きてここを抜け出なければならないのだから。
 黒装束の紅き手袋≠フ連中は動揺してどよめいている。無色の派閥の召喚師たちも同じ。だがスィアスはこんな戦いなど座興にもならないのだろう、笑みを崩していない。マルジョレーヌも変わらぬ無表情のままだ。こいつらの囲みから脱出するには、どこを突破すれば――
 ――と、考えた瞬間、ばたり、と暗殺者の一人が倒れた。
 え、と思う間もなく、ばたばたばたっ、とそれを追うようにしてどんどんと人間が倒れていく。暗殺者も、召喚師も、スィアスも。マルジョレーヌは倒れはしなかったが、それでもぐらりとよろめいて頭を押さえている。
 なんだ、なにが起きた――と考えるより早く、目の端で見慣れた茶髪がひらめいた。黒装束の覆面部分を脱いだその男は、もう一年半も前から数えきれないほど見ているそいつは、じっとこちらを見て、くいっと手招きをして、通路の奥に消える。
 あれこれ考える暇はなかった。ウィルたちのかけてきた癒しの召喚術を受けながら、素早く人質に駆け寄り、手足を縛る縄を断って、見慣れた姿が――ユーリが消えた通路の奥を指差し叫ぶ。
「あっちだ! 走るぞっ!」

「……なに、やったんだよ、お前?」
 誰もいない通路を走りながら、自分より少し先を走るユーリに小さく訊ねると、走る足音や風切り音に紛れそうな小さな声で返事が返ってきた。
「毒を、使った」
「毒? って、どんな」
「俺は、草≠セから、作戦行動時は、雑用を任される。食事の支度も、俺が任されていた。だから、その食事の中に、麻痺性の毒を、混ぜた」
「……よく、あんなに、うまい時機に、しかもみんな一度に……」
「効き始めたのが、シヴェタとの戦いのあとになったのは、偶然だ。俺は、お前が、シヴェタに勝つとは思っていなかったから。本来ならもう少し早い時間に――というか、お前たちがまだ捕えられている時に効き始める予定だった。まさか、自力で脱出してくるとは思わなかったからな」
「……最初から、助けてくれるつもり、だったわけ?」
「……別に。ただ、俺の専門分野は毒作りだからな。それも、機界の技術を駆使したものだから、効果の正確さは折り紙つき。だから、食べた奴らを、だいたい同じ時間に倒れるように仕向けることは、できた。できたから、やってみた。上の奴らに、いちいちでかい顔で命令されるのにも、飽きてきてたからな。それだけさ」
「……へへっ」
 ナップは思わず笑んで、少し足を速めて軽くユーリの肩を小突いた。さっきから、自分たちに見せていたものとはまるで違う仏頂面と無愛想な口調を崩さないユーリ。自分の見ていた姿とは違うユーリ。
 それでも、こいつは、自分たちを助けてくれたのだ。間違いなく、紅き手袋≠フ一員だというのに。たぶん、こいつにとっては、組織を裏切ることは死を意味することなんだろうに。自分たちを、命懸けで助けてくれたのだ。
 ――嘘じゃなかった。こいつは、演技をしてたかもしれないけど、それでも、俺たちに向けてくれた気持ちは、本物だった。
 自分たちが確かだと思っていたものは、本当に確かなものだったのだ。それが、たまらなく、嬉しい。
「じゃれ合っている場合じゃないぞ、ナップ! 人質たちが、遅れてる!」
「ユーリ! 毒を盛った奴らの回復に要する時間は算定できてるの!?」
「俺たちは、毒物対策のため、どんな大部隊でも食事は小部隊ごとに分けて摂る。あそこに集まっていた奴らには運よく全員盛ることができたが、当番の関係上毒を盛れなかった部隊が存在する。そいつらが事態に気づいて、全員解毒するまではどんなに早くとも千数えるほどはかかる。そいつらがこっちに追いついてくるにはさらに数百だ。――が、俺たちの向ってる出口には数は少ないとはいえ見張りはいるし、少人数を解毒してこちらを追ってこようとするならどんなに長くとも千はいらない。つまり、余裕はほとんどない、な」
 ちっ、と揃って小さく舌打ちする。ナップたち五人ならば相手が動く前に脱出することができただろうが、人質たちは揃って最近ろくに身体を動かしたこともないような中年以降(ウィルの兄をのぞき)の連中ばかりだ。追いつかれる前に逃げ出せるかどうかは五分五分――いや、六分四分でも怪しい。
「……俺が背負うか?」
「最大戦力の君を疲労させるなんて、愚策もいいところだ。しかも人数が多すぎるし、そもそも体格に差がありすぎて、背負うのは難しいよ。……ほら! みなさん、急いでください! ここで遅れるのは、命を捨てるのと同義ですよ!」
『……っ……』
 人質だった七人は必死に足を動かそうとするが、全員息がかなり上がっていて、その歩みはひどく遅かった。当たり前か、とナップはこっそり唇を噛む。この人たちは従軍経験どころかまともに訓練を受けたこともないのだ、階段を上がったり下がったりしながら距離にすればもう半里近くは走っている、この年代の人たちには厳しすぎる課題だろう。
 だが、ここはなんとか頑張ってもらわなければ――と対策を考えながら走っていると、ふいに、七人のうちの一人が足を止めた。――ナップの父親だ。
「!? なにやってるんだよ、走れって!」
 ナップの叱咤に、父は息を荒げながらもゆっくりと首を振り、言った。
「ナップ。……我々を、ここに置いていきなさい」
『!?』
 思わず目をみはるナップたちに、父は落ち着いた顔で、堂々とした素振りで言ってのける。
「今の君たちには、我々は足手まといにしかならないだろう。我々を置いていけば、君たちはまず間違いなく奴らから逃れることができるのだろう? そんな状況下で、我々が命を惜しんで君たちに命を失わせるようなことをしては、それこそ親失格のそしりを免れまい」
 ナップを真正面から見据え、真剣な、真摯な表情で訴えてくる父を、ナップはじっと見返す。そこに、ウィルの父親と兄も小さくうなずきをかわして続けた。
「そうだな。我々の余生のために、年若い君たちの命を危険にさらすことなど、あってはならないことだ」
「護るべき相手を、自分たちの命のために使うなんてことをするほど、僕たちは恥を捨てていないつもりだ。……ウィル。早く、行きなさい」
「……っ、あなた、たちはっ……」
 ウィルがぐっと唇を噛み、拳を握りしめる。怒りとも嘆きともつかない感情で顔を真っ赤にし、じっと自分を見つめてくる視線を避けるように顔をうつむかせる。
 ベルフラウとアリーゼの両親は、そんな三人に同調すべきなのかどうか決心がつかないようでおろおろと周囲を見回していた。ベルフラウは冷然と、アリーゼは端然とそれを見つめる。
 ナップは、そんな自分たちを無表情で見つめるユーリを見て、ベルフラウとアリーゼを見て、心の底から湧き上がる感情を抑えかねているウィルを見て、それから自分とウィルの親たちを見て、は、と息をつき怒鳴った。
「カッコつけてんじゃねぇっ!!!」
『っ!』
 軍事教練で肺も呼吸法も鍛え上げられた自分の大喝に、両親たちは全員びくっ! と震えて固まった。
「俺らがガキだからなのか自分の子供だからなのかは知らねぇけどな、こんな状況下でいちいちカッコつけてんじゃねぇよ! 俺らは軍人としての訓練を受けてる、少なくともあんたたちよりはこの手のことに関して経験を積んでる。だからあんたらに指示も出すし、あんたらを助けようともするんだ。第一、俺らは誘拐されたあんたらを助けるために作戦立案して無色の奴らにおびき出されてやったんだぞ。この状況下であんたら見捨てたら、それこそ立つ瀬がねぇだろうがっ!」
「っ……し、しかし! 私たちは君たちの親で、君たちはまだ年若い少年少女だ! そんな若い命をあだおろそかに散らせるような真似、断じてできようはずが」
「それを言うなら、子供が親を見捨てるような真似こそほいほいできるわけがねぇだろうが! なにより、死ぬ気で走れば逃げられるかもしれないって状況下でぐだぐだカッコつけてんじゃねぇよ、馬鹿かあんたら!? カッコつけたいんだったらな、自分たちの生きる場所で、得意分野でやることやって、思う存分カッコつけやがれ!」
『っ……』
「……そういうことです。我々はあなた方より緊急時の経験を積んでいる。だから今どうすべきかということを、あなた方よりしっかり理解している」
 ウィルがきっと顔を上げ、頬を紅潮させて堂々と言い放つ。
「我々があなた方の得意分野ではあなた方の言うことを聞くべきなように、あなた方も我々の得意分野では素直に我々の言うことを聞いてください。今すべきことは、一人前の大人だなどという無意味な虚栄心を満たすことでも、疲れた言い訳をすることでもなく、我々の指示通りに必死に身体を動かすことなんです。わかったら――駆け足っ!」
『は、はいっ!』
 ウィルの一喝に、弾かれたように自分たちの両親たちは走り出す。それを先導すべく前へと駆け出しながら、ナップはぽん、とウィルの背中を叩いてにっと笑いかけた。
 ウィルも、にっと笑い返してくる。その表情は、不敵で、カッコよく、そしてやるべきことをやれたという喜びに満ちていて――つまり、すごく男の顔をしていて、ナップはこんな時なのに、体の底から湧き上がる嬉しさに身震いした。

「……見張りがいる」
 ようやく閉じこめられていた建物を出られそうだという頃、ユーリが低く呟いた言葉に、こちらも低く返す。
「何人」
「紅き手袋≠フ構成員が一人、傭兵が二人。だが、全員呼子を持っている。気づかれれば仲間を呼ばれて、他の奴らがいっせいに集まってくるだろう」
「……細かい作戦考えてる暇はねぇよな。ここは強行突破の一手だろ。ウィル、傭兵の片方セイレーヌで眠らせてくれ。ユーリはもう片方を黙らせてくれ。俺は暗殺者を沈める。ベルとアリーゼは人質の方、頼む」
『了解』
 それぞれ短く返してくるのにうなずき、素早く配置に着く。こういう時どういう場所に位置を取るのが最適かというのは、軍学校の戦術の授業でさんざん習った。
「1、2……3!」
 合図とともに全速で飛び出して間合いを詰める。暗殺者がはっとこちらの気配に気づき、呼子を吹こうとするより早くナップの大剣はその脳天に一撃を加えていた。
 ウィルも機を合わせて傭兵の一人を眠らせ、ユーリもその目立つ動きを囮にして後ろから残りの一人を襲い気絶させる。よし! と仲間たちに笑顔を向けてから、人質たちを呼び寄せようと手を上げる――
 が、その動きは途中で止まった。自分の表情が固まっているのがわかる。
 さっきまでなにもなかった、誰もいなかった場所にざざざざざ、と暗殺者たちが次々現れていく。それだけではない、無色の召喚師たちもだ。建物の出口にわらわらと、さっきまでなんの気配も感じられなかった奴らが姿を現していく。
「な……これ、は」
「無色の派閥、ゼードント家に伝わる秘術のひとつ、多数隠行結界――姿を消すというのではなく、気配を感じられなくする程度の力しかないものだが、君たちには有効に働いたようだな」
 す、と前に進み出てきたのはスィアスだ。今までと同じ、楽しげな笑みを浮かべながら得々と説明する。
「そもそもこの遺跡にはあちらこちらに抜け道が配置されていたのだよ。そこの君は下っ端ゆえに知らされていなかったのだろうがね。そして、そのあちらこちらに召喚師たちが喚んだ召喚獣たちの物見を配備している。我々が倒れているのを他の部署のものたちが発見してから、麻痺を解除する召喚術を全員に順繰りに唱えても、充分に先回りが可能だったわけさ」
 は、とスィアスたちの後ろを見る。そこには確かに抜け穴のようなものがいくつも並んでいた。ここまでの大人数が隠れていたのならば、なんらかの気配ぐらいは察することができただろうが、隠行術なんてものを使われては反応のしようがない。
「……武器を捨てていただきましょうか。無駄な勝負を望んだシヴェタは今行動不能になっています。やろうと思えば、あなた方を捕えるのみならず、人質を一寸刻みに殺していく、というようなこともたやすくできる状況です」
「……っ」
 スィアスの隣に進み出たマルジョレーヌが淡々と告げる。その言葉になにか言い返そうとしたが、まともな反論が思い浮かばない。敵の数はこちらの戦力の優に十倍以上、しかもどいつもそれなりの手練れ。足手まといのいる状況でこれを突破するのはまず不可能だ。
「あなた方が素直に我々の命令に従うというのならば、人質を解放できる可能性もありますが?」
 そんな言葉が信じられるわけがない。自分がマルジョレーヌの立場だったならば、自分たちの顔を見て、いろいろと余計なことを知らされた人質を生かしておくような真似は絶対にしない。
 だが、この状況下で人質を無事に解放できる策が他にあるのか。向こうの言い分を受け容れて交渉する他に。まともに戦っても勝ち目はない。自分たちだけならまだしも、このまま突破しようとしたら人質は絶対に助からない。かといって後背を簡単に突かれかねない状況で防衛戦なんて無茶もいいところだ。
 だけど、それなら、どうしたら。
 仲間たちがそれぞれ唇を噛み、必死に思考を回転させている気配が伝わってくる。だがそれでもやはりそう簡単にこの状況を打開できる策など考えつくはずがない。
 どうしよう、どうすればいいんだろう。ナップはおろおろして泣きそうになる表情を、必死に奥歯を噛みしめて引き締める――が、それでも心が周章狼狽するのを防ぐことはできない。
 俺は、頑張ってきたつもりだったのに。どんな状況でも負けないように、努力してきたつもりだったのに。
 それでも、駄目なのか。俺じゃ足りないのか。俺たちの力じゃ届かないのか。
 悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。――怖い。嫌だ。逃げ出したい。そんな気持ちなんて感じたくないけど、怖くて誰かに助けてほしいなんて、俺は今考えてる。
 ぐっと大剣の柄を握りしめる。嫌だよ。こんなの嫌だよ。俺に力を、嫌な状況に負けないだけの力をくれよ。――先生っ………!!
 と、ナップははっ、と顔を上げた。
「え……ぁ」
「……どうした、ナップ」
「いや……その」
 なんだろう、今なにか、呼ばれた、ような気がした。
 どこからだろう、と考えてびくっと体を震わせる。それは股間――いいや正確には、肛門の中に入っているサモナイト石からのような気がしたのだ。
 なに考えてんだ俺はこんな時に、と泣きそうな気分で自分を叱咤する。けれど、それでもその誰かに呼ばれているような気分は抜けない。肛門の中から、かつて何度も穿たれた場所から、伝わってくるのだ。喚べと。自分を、喚べと。
 ナップはごくり、と唾を飲み込んだ。こんな状況で、こんなことを考えるなんて、もしかしたらすごく馬鹿みたいなことなのかもしれないけど。だけど。
 伝わってくる、あの感触。愛する人に抱かれた時の、愛された時のあの感触。恥ずかしくてたまらないけれど、幸せと感じさせてくれた感触の記憶がよみがえる。
 ナップは、震える唇で、一瞬深く息を吸い込み、そして腹の底から叫んだ。
「出てきてよっ、アール……せんせぇ――――っ!!!」
 叫ぶと同時に、カッ! と蒼い閃光が目の前の空間にほとばしった。
 いつも開く召喚の門とは違う、明らかにいびつで不安定な空間の亀裂。そこからそれでもしっかりとした足取りで、時空の揺らぎを無理やりに安定させながら、人影が出てくる。あの人が。何度も夢に見て、何度も愛し合った、赤毛で、どこか情けない雰囲気の、それでも誰より大好きな、自分の――
「先生っ………!!」
 たまらない想いで叫ぶと、先生――レックスはにこっ、といつもと同じ優しい微笑みを返してくれた。それからすっと突然のことに驚きどよめく敵たちに向き直り、すっと剣を掲げ呪文を唱え始める。
「我、我が友の結びし盟約により、霊界の最も高き洞より聖なる七天使を望む……」
 スィアスがはっ、とした顔になった。ナップも思わず驚く。まさか、これは。
「鎧を纏う天治めし竜よ、我その力を望みしことを、盟約と術によりて、四界に宣言す――」
 スィアスが「詠唱を止めろ!」と叫んで、暗殺者たちを走らせる。だが、それはもはや手遅れだった。レックスは静かに、悠々と、だが圧倒的な力をもって詠唱を完了する。
「汝の施す断罪の無限牢を、今ここに示すべし!」
 ぎゅおうぉうおぅぉぅおうんっ!!!
 呪文を言い切ると同時にレックスの前の空間が大きく――いや、巨大な、とすらいっていい規模で歪んでいく。世界に穿たれた狭い穴。それを世界を隔てる壁の向こうから、指先ですら人間の背丈より大きい、蒼銀の金属で鎧われた巨人の手が、ぐぐぐぐぐぅ、と広げる。
 一瞬の間をおいてから、時空の穴は爆発的に広がり、ぐぬぬぬぅ、と召喚獣――聖鎧竜をこの世界に現出させた。聖鎧竜はその両手を大きく広げ、ぐうぅ、と暗殺者たちを囲むようにして、魔力を一気に高め空間を歪め、収束させ――
「打ち砕け、聖鎧竜スヴェルグ!」
 レックスの叫びと同時に、かつて島で戦っていた時に見た霊属性最強の召喚獣は、魔力を解き放った。遺跡の出入り口――つまり、狭いところに固まっていた暗殺者たちは、その圧倒的な魔力の奔流の直撃を受け、次々ばたばたと倒れていく。
「先生っ……」
 声をかけかけたナップに、レックスはちらりと顔を向け、にこっと笑って、目配せをした。ナップはその仕草に、はっと我に返る。
 そうだ――まだ戦いは、終わっていない。
「……あなたは、誰ですか」
 低く、どこか掠れた声で問うマルジョレーヌ。それにレックスは、穏やかな中に、確かな決意を秘めた表情で応えた。
「君たちが、傷つけようとしている子の教師だよ」
 そう言って、す、と剣を構える。
「だから――この子たちを、君たちの好きなようにさせるわけにはいかない」
 いつも見ていたものと同じ、どっしりとして力強い、この人と一緒にいれば大丈夫だと、体の底の方から確信させてくれるその構え。以前と変わらない、懐かしいその姿――だからこそナップは、レックスの後ろから、ちょこちょこと大きな袋を持って歩み寄ってきたアールの姿と、それが意味するところに気づいた。
「アール……!」
 小さく呼んで、素早く大切な相棒のところへと駆け寄る。と同時に、ぽんぽんぽん、と軽く仲間たちの肩を叩いて注意を引いた。
 あっけにとられていた仲間たちは、はっと自分の方を見て、何事か言おうと(たぶん、レックスのことについて聞こうと)するが、ナップはその機先を制して袋の中から取り出したものを差し出した。
「ほら。これ、装備してくれ」
「!? これは……」
「ベルにはアルジュナの弓、アリーゼには怨王の錫杖。ウィルにも怨王の錫杖と、それからソウルブレイカーも。あと全員に厚手のコートだ」
「こ、これをいったい、どうしろと……」
「装備するに決まってるだろ。今着けてるのより絶対強い装備だからな。ベル、これシシコマのサモナイト石、打撃を与える力を強化する憑依召喚術が使える。アリーゼにはパラ・ダリオ。ウィルにはテテな。こいつで壁作りつつ、後方から援護してくれ。回復用の魔力とっとくの、忘れんなよ」
「……まさか、ここで無色の連中を全部倒す気かい!?」
 驚愕の表情になって放つウィルの叫び声に、ナップはにやりと笑って答えた。
「ああ。先生がいれば――それが、できる」
「な……」
「俺とアールは後方から来る奴を倒す。みんなはここで人質護りながら俺と先生、両方を援護してくれ。こっちには回復用の道具山ほどあるから、先生の方の回復重点的にな。けど先生には裏技もあるし、いざという時の魔力をとっとくの、忘れんなよ。じゃ……いくぜ、アール!」
「ピピッピー!」
 声をかけて、走り出す。思った通り、後方からわらわらと暗殺者たちが近寄ってくるのが見えた。
 ナップは通路の中央に陣取りながら、呪文を唱える。使い慣れたエレキメデスの、打撃を強化する憑依召喚術だ。麻痺を与えるより、自分の魔力ではこう使った方が効率がいい。
 次々襲いくる暗殺者たちを、アールと二人で壁になって、一人一人確実に倒していく。幸い暗殺者たちのほとんどは、オルドレイク配下の奴らより格段に能力が落ちている、体に傷はほとんど残らない。
 おまけに後ろからはある程度傷を負うごとに癒しの召喚術が飛んでくるのだ、これでは負ける方が難しいというものだ。
 なにより――後ろには、先生がいてくれる。
 先生が自分の背中を護ってくれている。自分も先生の背中を護ることができている。その安心感、その高揚感。あの島での戦いの時に味わったものよりもずっと強い、先生に助けられ、こちらも助けることができているという関係への誇りのような気持ち。
 そうだ――自分は。この三年間、必死に頑張ってきたのは。その努力と熱意の始まりは。
 後方で魔力がすさまじい勢いで高まるのを感じる。蒼い輝きがほとばしるのが背中からでもわかる。凛とした声での喚びかけが、この空間に響き渡る。
「我が手に来たれ――果てしなき蒼、ウィスタリアスよ!!!」
 その声を震えるほどの喜びとともに聞きながら、ナップは暗殺者たちの最後の一人を打ち倒した。

「先生っ!」
 ナップはレックスに駆け寄った。周囲には動くものがなにひとつなくなり、けれども誰も命を失ってはいない。抜剣し、髪は白く長くなり耳のようなものが頭にできてはいるけれども、やはりいつもと変わらない笑顔で、レックスは駆け寄ってくるナップを抱きしめた。
「よかった……ナップ。無事だったんだね」
「うんっ! 先生、来てくれるなんて思わなかった! ほんとに……ほんとにありがとうっ!」
「当たり前だろう? 俺はナップの、その……先生、なんだから。……まぁ、今回はどっちかっていうとアールの手柄って言った方がいい気がするけどね」
「え?」
「君、少し前にアールを喚んだだろう? そしてひどく不穏な状況に追い込まれてから送還した。それをアールが心配してね、俺に知らせに来てくれたんだ。俺もどうすればいいか本気で焦って、考えたんだけど……召喚術というのは、エルゴから続く共界線に働きかけて、相手を喚ぶものだ、って島で教えてもらっただろう。だから、剣の力を使って共界線を少しいじって、俺をアールの持ち物≠チていう分類にすれば、俺も一緒に召喚されることができるんじゃないか、って思ったんだ」
「え……えぇ!? そんなことできるの!?」
「かなりの荒業だったけどね。召喚されたら、いったん抜剣状態は解除されちゃったし。……とにかく……無事で、よかった」
「うん……」
 ぎゅっ、と自分を抱きしめるレックスを、ナップもぎゅっと抱きしめ返す。時間的にはそう久しぶりということもないはずなのに、なんだかひどく懐かしい気がした。自分の一番心が安らげる場所に戻ってきた、そんな気分になれた。
 そんな風にしばらく自分を抱きしめたのち、レックスはぽんぽんとナップの頭を叩いて、言う。
「それじゃ……ナップ。俺たちは、戻らなくちゃいけない」
「え……」
「無理に共界線をいじったからね。島に戻って、その後始末をしなくっちゃ……名残惜しいけど、俺とアールを、送還してくれるかい?」
「……うん……」
 自分がわずかにうつむくと、レックスは優しく自分の頭を撫でて、言ってくれる。
「……また、すぐに会えるよ」
「……うん。また、すぐに会えるよな」
 レックスの大きな掌を引っ張り、少し頬ずりする。レックスが驚いたように身を震わせるが、すぐに柔らかく微笑んで自分の頬を撫でてくれる。ナップはその手をぎゅっと握って、また少し別れることになる、レックスの感触を心と体に刻み込んだ。
 ふと、レックスが自分たちを少し離れた場所から見守っているウィルたちに気づき、微笑みかけた。
「君たちは……聞いているよ。ナップの、親友のみんなだよね」
「え……」
「あ……はい。そう、ですけれど」
「いつもナップと仲良くしてくれて、本当にありがとう。今回もナップと一緒に頑張ってくれたんだよね? ナップの先生として、すごく嬉しいよ。援護も本当に助かった。今は急いで戻らなくちゃならないんだけど、やっぱりちゃんとお礼をしたいから……長期休暇の時にでも、よかったらナップと一緒に俺たちのいる島に遊びに来てくれないかな? 歓迎するよ」
「本当に……歓迎、してくださるつもりがあるんですか」
 ウィルがきっ、とレックスを睨みつけ、自分を奮い立たせるような勢いで言ったが、レックスはそれをあっさり笑って受け流した。
「もちろん。ナップの親友を、俺たちが歓迎しないわけがないだろう?」
『…………』
「……それじゃあ、ナップ」
「……うん。先生、アール……元いた場所に、戻って。……またな」
「うん、また……」
 応える言葉がまともに響くか響かないか、という瞬間に、ナップの握っていた指先がふっと軽くなる。レックスとアールがこの空間から消えたのだと、視覚と同時に体の感覚で理解した。
 ナップは不覚にも一瞬瞳が潤みかかったが、ぐっと奥歯を食いしばり、まだレックスの体温の残る手をぎゅっと握って、胸に当てた。
 ――この体温に恥じないように。先生が俺に刻んでくれた教えに、応えられるように。
 しばし目を閉じて、以前にも一人で行ったことのある誓いを反芻し、それからぱっと目を見開いてウィルたちの方へと振り向いた。
「よっし、それじゃ狼煙上げて軍の人たちに居場所知らせながら、気絶してる奴ら全員縛り上げるとしようぜ! ま、全員数日はまともに歩けねーだろうけどさ!」
「……ナップ」
「ん?」
 小さな声で自分の名を呼んだウィルに笑顔を向けると、ウィルはじっとその笑顔を見つめ返してから、小さく苦笑して、うなずいた。
「そうだな。……僕たち自身がやると決めたことなんだから、最後までちゃんとやろう」
「ああ!」

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