春――兄弟騒動のこと

「……話っていうのはなんですか、先輩」
 屋上へ続く扉の前で、ナップは訊ねた。
 新学期になってからまだ二週間と少ししか経っていないある日。授業が終わって、ウィルと一緒に寮へと向かう途中。校舎内でナップは六年の、ナップにしてみれば一面識もない先輩に声をかけられた。
 話があると緊張した面持ちで言ってくる先輩をいくぶん不審には思ったものの、曲がりなりにも先輩の話を完無視するわけにはいかない。喧嘩を売りそうな顔はしていないし、ということで心配そうなウィルを先に帰してナップは先輩につきあうことにしたのだ。
 ナップよりも頭二つ分近く大きい、ごつい体をした先輩は、顔をやや赤らめて、何度も咳払いをしながら、それでもナップの質問に答えた。
「うむ……その。そうだな、まずは質問させてもらえるか」
「はあ」
「ナップ・マルティーニ。君には……その、この学校に兄はいないのか」
「え?」
 ナップは戸惑った。なんでそんなこと聞くんだ?
 だが答えたくない類の質問でもないので、ナップは素直に答えた。
「いませんけど」
「ほ、本当か!?」
「ええと、はい」
 この学校にもなにも、生まれてこの方兄がいたという記憶はないのだが。
 だがその先輩は(まだ名前を名乗ってもらってもいない)赤い顔をさらに真っ赤にして、うんうんと嬉しそうになにかうなずいている。ナップは思わずちょっと首をかしげて先輩を見上げた。
「あの、先輩、それがどうか……」
「う」
 その先輩は一瞬硬直し、なぜかはあはあといくぶん息を荒げた。そして呼吸を乱したまま、ぐいっとナップに顔を近づける。
「マルティーニ……いや、ナップ!」
「は……はい」
 いきなり顔近づけんなよー、とナップは内心思った。びっくりするだろ。
 だがナップの心の言葉にもかまわず、先輩はしばし息を荒げつつナップの顔を見つめ、相手の顔が近いのでナップがきゅっと困惑げに目をそばめた瞬間、がばあっとナップに抱きついた。
「……………!!」
「頼む、ナップ」
 あまりにあまりのことに一瞬抵抗も忘れて硬直するナップの耳元で先輩が叫んだ。
「俺の弟になってくれ!」

「ただいまー……」
 沈んだ顔で部屋の扉を開けたナップを、ウィルはほとんど飛びつくようにして出迎えた。
「おかえり。……一応聞いておくけど、なにもされなかっただろうね?」
「………抱きつかれた」
「なんだって!?」
 ウィルの絶叫に、ナップは思わず一歩退いた。
「他には? 抱きつかれただけかい? 一人相手なら君に勝てる人間は校内にはいないと思うけど、まさか力に任せてもっと妙なことなんか……!」
「さ、されてないされてない! 抱きつかれただけだって、すぐ蹴り倒して逃げてきたから!」
「そう……それなら……よくないじゃないか! 全然よくないよ、いきなり抱きつくなんて痴漢のやることじゃないか、同性とはいえ下級生相手に!」
「いやでもさ、先輩もたぶん気分が盛り上がっちゃっただけじゃないかな、なんか弟になってくれとかわけわかんないこと言ってたし」
「弟!?」
 ウィルはなぜか目をむいた。さらに勢いを増してほとんどナップに掴みかからんばかりになりながら怒鳴る。
「それで!? 君はなんて返事したんだい!」
「いや別に……返事する前に抱きついてきたんで、蹴り倒して逃げてきちゃったから」
「そう………」
 ふう、と息をつくウィルに、ナップは思わずおずおずと訊ねた。
「あのさ。弟になってくれ……って、なんか特別な意味でもあんの?」
「特別? ……君の気にするようなことじゃないよ」
 ウィルはあからさまに不機嫌な顔になってそっぽを向いた。だがそんな態度ではなにかありますと言っているようなものだ。
「ウィルー。教えろよー。なんでそんな怒ってんだよー」
「怒ってなんかいない。……君には関係ないことなんだ」
「あるじゃん、関係。弟になってくれって言われたのは俺なんだからさ」
「…………」
 しまった、といったようにウィルは顔をぎゅっとしかめ口に手を当てた。
 明らかに自分の失敗を認めつつも、それでも口を開かずに顔をしかめているウィルに、ナップはしょうがねえなぁ、とため息をつくと後ろから抱きついた。
「!!? な、なにをっ!!」
「ウィルー。いい加減に意地張るのやめて教えないとー……こうだぞっ!」
「! あ、ぎゃ! や、あは、やめ、ぶはっ、やめないかっ、ぐふっやめばかもういやはははあっ!」
 後ろから脇腹メインにくすぐり攻撃。ウィルは脇腹がかなり弱い。
 のた打ち回ってひーひー言っているウィルにふいに視線を合わせて、真剣な瞳で見上げるようにとどめの一言。
「頼むよ、ウィル」
 こういう風に見上げるようにしてお願いするとなぜかウィルはナップの言うことを聞いてくれることが多い。今もうぐっとちょっと息を詰めるようにすると、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「わかった、わかったよ! 教えればいいんだろ!」
「やり」
 にっと笑って小さく勝利のガッツポーズを取るナップ。ウィルは顔を赤くしてぶつぶつ言いながらも、ナップの前に座り直して説明した。
「あのね。この学校には伝統的に……というほど大したものでもないんだけど、上級生が見初めた同性の下級生と兄弟の契りを交わす、という風習があるんだ」
「は? ……兄弟の契り?」
「もちろん本当に兄弟になろうってことではないよ。なんていうか……義兄弟というか。小説で武侠とかがやってるだろう、盃を交わすっていうやつ。あれの簡易版みたいな感じ……かな」
「義兄弟……?」
 確かに小説でそういうシーンを見たような気がしないでもないけど。ナップは小説をあんまり読まないということもあって今ひとつピンとこない。首を傾げつつ訊ねた。
「その兄弟っていうのになって、なにすんだよ? なんかするの?」
「だから、なにかをしようっていうのじゃないんだ。ただ、これから仲良くしようっていう宣言みたいなものっていうか。一緒に勉強したり訓練したり、寮の部屋でお喋りしたりするらしい」
「なーんだ」
 ナップは拍子抜けして笑った。
「それぐらいだったら別に大したことじゃないじゃん。そーいうことちゃんと説明して普通に話してくれたら蹴り倒したりしなかったのに」
「まさか、君、抱きつかれなかったら弟になってたとか言うんじゃないだろうな!?」
「うーん……そりゃ、相手によるけど……ただ仲良くするってだけなら別にわざわざ義兄弟にならなくてもって感じするけどな。第一、なんでオレと仲良くなりたいんだよ?」
「そりゃ……君が成績優秀だから、弟にすると自慢できるから、とかじゃないのか」
「ならなんで今になって言うんだよ? 下級生って言うなら去年なんか一番下だったのに」
「それは……」
 ナップとウィルはしばし顔を見合わせて考えこんだ。

「そりゃ、あなたが近寄りがたかったからよ」
 男子女子共用の寮の食堂で、決まってるでしょう? と言いたげにベルフラウは笑った。
「近寄りがたいって……去年オレそんなに近寄りがたかったか?」
「そうだよ。むしろナップは同学年の奴らにしょっちゅうつきまとわれていたじゃないか」
「だからよ。一年の取り巻きががっちり周りをガードしていたから、先輩方もちょっと遠慮しちゃったんでしょう」
「一年坊主相手に先輩がそんな遠慮とかするかな?」
「一年だけならまだしもナップは教官たちにもすごく可愛がられてたじゃない。授業以外の時間は教官と一緒にいることの方が多かったんでしょう? それじゃ先輩とはいえ手を出しにくいわ」
「それに……ナップくんは本当に、パスティス軍学校始まって以来の剣の天才だから。そんなすごい人を弟にできるような度胸のある人はなかなかいないと思う……兄や姉は下級生を教え導く存在なのに、追い越されちゃったりしたら立場がないもの」
 ベルフラウに小声で口添えするアリーゼに、ナップは唇を尖らせた。
「別にオレは天才ってわけじゃ……」
「それはともかく。追い越されるのが嫌なのに、なんで今になってナップを弟にしようなんてやつが現れるのか、その答えにはなってないよ」
 ウィルが素早く口の中に入っていたものを飲み下すと、やや詰問するような口調でアリーゼに言う。アリーゼは一瞬びくりとして隠れるように体をちぢこめたが、ベルフラウにぽんぽんと励ますように肩を叩かれ、気弱げな笑みを浮かべた。
 気弱なアリーゼに苛立ったのかお喋りが苦手な自分に腹を立てたのかは定かでないが、苦虫を噛み潰したような顔をしてミルクを飲み干すウィルに、ベルフラウが穏やかな口調で言う。
「ナップの立場がある程度定まってきたからよ」
「……どういうことだい」
「ナップが新任のガレッガ戦技教官に負けたって噂。四年の授業を受けることで二週間の間に明らかになったナップの戦技以外の教科の実力。私たちという存在との比較検討――そういうものを考え合わせて、ナップの兄をやるのが不可能じゃない、って考えたってことじゃないかしら?」
 なるほど、とウィルはうなずいたが、ナップは今ひとつピンとこなかった。スクランブルエッグを飲みこむと、フォークを振りかざして説明を求める。
「わっかんないなぁ。なんでオレをわざわざ弟? にしたいとか思うんだよ? オレを弟にしたからってそんなに得なことがあるわけでもないだろ?」
 その言葉に、ベルフラウとアリーゼは顔を見合わせて笑い交わすと、それぞれあっさり言った。
「見目よく明るく朗らかな下級生をそばにおいておきたいと思うのは人情でしょう」
「ナップくん、可愛いから」
『………は?』
 意図せず声を揃えてしまったナップとウィルを軽く笑って、ベルフラウたちは説明する。
「兄弟、あるいは姉妹の契りっていうのはね、優秀だから交わすっていうものじゃないのよ。下級生で可愛いな、一緒にいたいなって思う子ができた時に誘うものなの」
「人によって好みはいろいろだけど……好みに合って、しかも相性が合わなきゃダメなことだから。ちょっと恋人、とかに似てる感じかも……」
「恋人ぉっ!?」
「バカ、声が大きいわよ!」
 幸い早朝のことで、周囲にはまだほとんど人がいなかったので飛んでくる視線は数えるほどだったものの、ベルフラウに頭を叩かれナップは慌てて声を潜めた。だがそれでもとんでもない事実に高くなりがちな声は抑えようもない。
「なんだよそれ! 恋人って、じゃあ昨日の人はオレに恋人になってくれって言ったってことか!?」
「だから違うわよ! 恋人っていってもあくまで精神的なもので……」
「精神的だからいいってもんじゃないだろ! オレは絶対やだかんな、そんなの!」
「そんなの僕も初耳だぞ!? じゃあナップや僕に話しかけてきた奴は……いやそれ以前にベルフラウ! 君にもアリーゼにも姉がいるとか言ってなかったか……!?」
「いたわよ。私のお姉さまは去年卒業しちゃったけど」
「私のお姉さまは、今六年……」
 ぐわぁ〜ん。ナップの頭の中で銅鑼が打ち鳴らされ、一瞬気が遠くなった。
 ベルフラウとアリーゼに同性の恋人が……ってことは、あんなことやそんなこと、こんなことまでしちゃってるわけで……女同士の恋人だからもっと違うこととかもやっちゃってるわけだろうし……どうしよう、オレもう二人の顔まともに見られない……。
「ちょっと、ナップ! だから違うって言ってるでしょう!? なにショック受けてるのよ!」
「あのね、ナップくん……ナップくんは、自分よりちっちゃい子見て可愛いなって、思うことない?」
「え?」
 静かにそう言われてちょっと正気に戻って考えてみる。ちっちゃい子……というと、一番身近なのはスバルとかだろうか。
 確かにスバルが自分をニイちゃんニイちゃんと慕う姿は、なんとなく胸のところをほっこりさせるものはあった。
「んー……まあ、ある、かな」
「その子が下級生だったとして。無事学園生活を送れるよう助けてやりたいなとか、一緒にいたら楽しいだろうなとか、思わない?」
「んーと……そりゃ思わなくはないだろうけど。それが……?」
「あの、つまり……そういうのを制度化したのがこの学校の兄弟姉妹の契りなの。兄姉は弟妹を保護してなにかと面倒をみて、弟妹は兄姉を慕ってちょっとしたことでご恩返しをする。損とか得とかじゃなくて、お互いに愛情を注ぐことが喜びなの……」
「他の下級生を可愛がったりしちゃいけないってわけじゃないけど。生徒間での保護責任を兄姉は負ったりするの。本当の兄弟姉妹を、より積極的に仲良くしたような関係、っていうのかな。派閥作りの一貫でもあるから優秀な生徒はモテるけど、それよりも単純に一緒にいたい子を選ぶわね、普通は」
「うーん………」
 頭の中で懸命に整理する。スバルが下級生として入学してきたら、自分はやっぱりなにかにつけて面倒を見てやるだろうし、スバルも自分を頼ってくるだろう。スバルが困っていたら兄貴分として助けてやると思うし、絡まれていたら俺の弟分になにすんだ、と怒鳴りつけてやると思う。
 そういうものだとしたら理解できなくもないが――それを見ず知らずの下級生に対して行うというのは、やっぱりなんだか妙な制度だと思った。
「……まあいいや。一応わかった。やっぱり断っといてよかったかな。蹴り倒したのは悪かったけど」
「まあ、あなたがそれでいいならいいけどね」
「いやー、そー簡単にはいかないんじゃないかなっと」
 突然ナップの隣の席に腰を下ろした生徒に、ナップたちは思わず声を揃えた。
『ユーリ!』
 ユーリ・ヴァース――四年になった最初の学活で、ナップを学級委員に推薦した生徒だ。あれからしょっちゅうナップたちにつきまとい、なにかしらちょっかいをかけてくる。
 悪人だとは思わないが、他人をおちょくることに学生生活をかけているような奴なのでときおり始末に困る。アリーゼなどはかなりユーリを怖がっているようだった。
 にやにや笑いながらスープをすするユーリを、ベルフラウが睨んだ。
「どういうことよ」
「だっからさー。ナップ・マルティーニっていやあこの学校ではある種アイドルだっただろ?」
「ア……アイドル?」
「なーんだよ自覚してなかったのー? 成績優秀容姿可愛い、戦技の実力は折り紙つき! 将来の出世間違いなしの有望株なのに性格も謙虚でひたむき、ってんで教官の間ではモテまくりだったんだぜー。こっそり似顔絵とか出回ったりして」
「に、似顔絵……」
 そんなことがあったのか。知らなかった。確かに教官たちってみんな優しいなぁとは思ってたけど。
「ちなみにウィルっちは下級生の女子に憧れられてて、ベルちゃんは下級生男子と上級生女子に好かれてる。アリりんは同級生から上級生、男子女子共に人気があるよ」
「聞いてないわよ」
「というか妙なあだ名で呼ばないでくれっていつも言ってるだろう」
「ま、それはともかく。教官の間で人気があったナップたんを誰が落とすか、ってのは上級生の間ではそーとー詮議の的だったわけよ。昨年は牽制しあって誰も手を出せなかったけど、アーガン先輩が行動を起こしてかつ振られたとなると……これから荒れるぜ」
「たんをつけるなって……ていうか、アーガンってあの先輩? なんでユーリが名前知ってんだよ」
 第一あの先輩が声をかけてきた時にはユーリは近くには見当たらなかったはずだが。
「ん? 俺校内の有名人は全員頭に入ってんもん。なんでナップたんに申しこんだのがその人かわかったかっつーと、こっそり覗いたからv」
「覗くなよ!」
「アーガン……確か去年の戦技試験では高等部トップだった人じゃないか? 顔までは知らなかったけど」
「そ。今六年で弟を持ってない有名人ってけっこう多いんだよなー。だからきっとこれからナップたん大変よー? いろんな先輩に呼び出されちゃうこと間違いなし! 食われないよーに気をつけなきゃ!」
「んなわけねーだろ」
 苦笑するナップだったが、ふいに周囲がざわめき始めたのに気づき、顔を上げた。いつの間にかずいぶん人が多くなった食堂が、ざわめいている。
 そのざわめきの中心がどんどんとこちらに近づいてきて――ナップの目の前で止まった。
 反射的に(座っているので)相手の顔を見上げるナップ。相手は背の高いすらりとした、絶世のがつきそうな男前だ。その端正な容貌は、フレイズのような天使を連想させた。
 静かな微笑をたたえてこちらを見下ろす男(襟章は六年だった)に、ナップは困惑した。周囲のざわめきの中、先輩はにっこり笑って言う。
「君。ナップ・マルティーニ」
「はあ。なんですか?」
 先輩はより笑みを深くした。
「君、俺の弟になりなさい」
「―――はあ!?」
 周囲のざわめきが、どよめきになった。

「ジーウルク・エルフィデンクス。現在六年、十七歳。二代前から没落した過去の名家エルフィデンクス家の嫡子。座学実技共に成績優秀な万能型。その端麗な容姿を活かして生徒を男女共に食い荒らしているが、今のところ問題を起こしたことはなし。いつも下級生の取り巻きがいるけど一人に縛られるのが嫌だと弟を選んだことはない、六年の三大有名人の一人……ま、そんなとこかな」
 始業前の教室。ユーリのにやにや笑いながらの解説に、ナップははぁ、とため息をついた。
「そんな人がなんでオレに申しこむんだよ……」
「そりゃナップたんが可愛いからv」
「お前に可愛いなんて言われたくねぇ!」
「じゃ、誰に言われたいわけ?」
「そ、れは……お前には関係ないだろっ。ていうかさ、あの人なんか企んでそうな気がするんだよ。裏になんかありそうな」
「それはあるかもしれないわね。弟にならないか、とかなってくれ、じゃなくてなりなさい、だものね。命令形」
 ベルフラウが横でうなずく。ウィルもベルフラウもアリーゼも、ナップを気にしてすぐそばに座っていた。まあこの三人はなんだかんだでいつも一緒になるのだが。
「……で。どう返事するんだい?」
 ウィルが冷たい、だがわずかに低音部が震えた声で言う。
 あのあとジーウルクは「じゃ、放課後図書室で待ってるから」と言うとさっさと姿を消してしまったため、返事をする暇もなかったのだ。
 ウィルの言葉に、ナップは憤然として言った。
「断るに決まってんだろ。あんな受けるのが当然みたいに言われんの気に食わないし、第一オレは兄を作る気なんてないもん」
「………そうか」
「ってことは、図書館には行かないのね?」
「いや、図書館は行くよ。待ってたら悪いし……行ってきっぱり断ってやる」
「大丈夫……?」
「大丈夫に決まってるだろ。ちゃんと断ってくるよ」
「てゆーかさー、ナップたん。身の危険とかは感じないわけ? ぱくっと食べられちゃうかもしれない、とかさー」
「――いい加減にして、ユーリ。朝の教室で話すことじゃないでしょう? 第一ここには二人もレディがいるのよ」
「おっと、これは失礼」
 にやけながら手で口を塞ぐユーリを見ながら、ナップは内心笑った。
 そんなことあるわけないって。オレみたいな奴に手出そうなんてのが、そうそういるわけないじゃんか。

「―――ナップ!」
 昼休み、午後の戦技授業のためにクセード――戦技委員の同僚と訓練場で授業の準備をしていると、ふいにどこか切羽詰ったような声がかけられた。
 大きな体を揺らしてこちらに近づいてくる、あの姿は――ユーリの言っていた、アーガン先輩だ。
「なんですか、先輩」
 一応足を止めてそう言う。だが警戒は怠らない。こいつはどういうつもりか知らないがいきなり自分に抱きついてきたりした奴なのだから。
 アーガンは、顔を真っ赤にして、汗をだらだら流しながら、しどろもどろに言ってきた。
「あ、あの、昨日は、すまなかった。いきなり、ひどいことをして。それで、その、お詫びといったらなんなのだが、こ、これを……」
 と言いつつおそるおそる差し出されたのは、真紅の薔薇の花束だ。相当に大きい。昔父親に連れられて花農家に行った時の記憶からすると、これはかなり高級な品種だ。値段もかなり張ったはず。
 ――だがそんなものを同性の下級生に渡されても………第一今自分は授業の準備をしている途中で、両手が塞がってるんだけど。
 どうしよう、と困惑していると、クセードがひょいとナップの持っていた荷物を奪い、抱え上げた。
「お、おい、クセード!」
「先に行ってる」
 そう言って荷物の重さを気にした様子もなくすたすたと歩いていく。気を遣ってくれたんだろうな、と申し訳なく思った――となると、ここはなんとしてもこの先輩と話をつけなくてはならない。
 ナップはアーガンに向き直り、言った。
「アーガン先輩」
「お、俺の、名を……?」
「友達が教えてくれました」
「そうか」
 アーガンは嬉しさ半分、物悲しさ半分、という感じの笑みを浮かべた。ナップはその笑みに一瞬胸を突かれたような気分になったが、そんな気分になってる場合じゃないときっとアーガンを睨む。
「先輩、オレ、申し訳ないんですけど先輩の弟になるつもりはありませんから」
「………!!!」
 アーガンは擬音にするならがっびぃ―――ん、という感じの顔になった。ごつい顔とあいまって相当怖い。
 だが数瞬その顔で硬直すると、アーガンはしおしおとうなずく。あ、わかってくれたのかな、とほっとしかけたが、アーガンの次の言葉にひっくり返された。
「そうだな……そうだよな……嫌だよな、君みたいな可愛い子が俺みたいな不細工の弟なんて……」
「なん……ですかそりゃっ!」
 思わず飛び出た叫び声を聞いているのかいないのか、アーガンは暗雲背負ってますという暗い顔でぶつぶつと言う。
「わかってるんだ、俺なんか君にふさわしくないのは……君はパスティス軍学校始まって以来の剣の天才だし、座学も学年トップだったって聞くし、二年も飛び級してるし、なのにそんなにちっちゃくて可愛いし……だけどせめて、一度でいいからその瞳の中に映ってみたくて、君と手を繋いで並木道を散歩できたらっていう気持ちに勝てなくて、皇宮塔のてっぺんから飛び降りる気持ちで君に声をかけたんだけど、身の程知らずだったよな、すまない……」
「身の程知らずって……同じ生徒なんだから、そういう話じゃないでしょ」
「でも俺はバカだし間抜けだし頭悪いし戦技以外に取り得ないし友達少ないし君とは比べるのもおこがましいってくらい最低の奴で本当になんで俺なんかが君に話しかけちゃったのかって申し訳なくて申し訳なくて」
「だからそんなこと誰も言ってないでしょ!」
 この自虐っぷりなんでか覚えがあるぞ、と思いつつナップは声を上げる。
「オレは別に先輩が嫌いなんて一言も言ってないですよ」
「…………!! 本当か!?」
「ええ」
 言ってからふと、一応『好きとも言ってないけど』とつけるべきかと迷ったが、それより先にアーガンがぼっ、と顔を火のように赤く染めた。
「……せ、先輩?」
「ナ、ナップ、お、俺は、俺は……っ!」
 ぐぐぐぐっ、と顔を近づけてくるアーガン。ナップはどう反応するべきか一瞬迷い、とりあえず間合いを保とうととす、とアーガンの胸に手を押し付けた。
「………! ! ! う、うおおおぉぉぉぉ――――っ!!!」
 アーガンはぐい! とナップに花束を押しつけると、顔を真っ赤にしたまま彼方へ猛スピードでダッシュしていってしまった。残されたナップは、もう呆然とするしかない。
「………この花束、どうすんだよ………」

「あ、クセード」
 いつも通りに戦技の授業を終えて、更衣室から教室に帰る途中(戦技授業は学年共通なので、後片付けは他の組がやってくれる)。ナップはクセードを見つけ、ウィルたちと別れてクセードを追いかけた。クセードはいつも通りの無表情でナップを見る。
「今日はごめんな。お前一人に準備やらせちゃって」
「………いや」
「なんかさ、今オレいろんな人に、つっても二人だけど、弟になれとか言われててさ。オレは弟とかになる気ないのに、周りの奴らどうするのかとか聞いてきてさ。ちょっとうんざりしてんだ」
「………そうか」
 クセードはいつもこのように素っ気ない返事しかしないが、ナップはクセードと話すのは嫌いではなかった。素っ気ないなりにきちんとこちらの話を聞いてくれているのがわかるし、今のように周りにいろいろ口を出されている状態ではそういう素っ気なさがかえって心地いい。
 実際寮食堂での劇的な一幕から、ナップはいろんな人間に面白半分に弟になるのか否かを聞かれてきたのだ。最初はならない、ときちんと宣言してきたのだが、本当か本当かとしつこく聞いてくる奴らが多いのでしまいには想像に任せる、の一言でお引取り願った。
「クセードはさあ、この兄弟の契りってどう思う? オレ正直よくわかんないっていうか、変っていうか……クセード?」
「………………」
 クセードの顔を見て、ナップは一瞬絶句した。初めて会ってから今まで、といっても二週間程度だが、その間まったく無表情を崩さなかったクセードの顔が真っ赤になっている。
「ク、クセード……?」
「……すまん。その手の話は、俺にはしないでくれるか」
「う、うん、わかった……」
 怒ってるようではないんだけど、とナップは黙りながらも首をかしげた。照れてるのかな?
「ナップ・マルティーニ?」
 教室の近くで知らない声がかけられた。またなにか聞きたい奴が出てきたのかな、とうんざりしながら振り向くと、そこに立っていたのは眼鏡をかけた理知的な顔立ちの最上級生だった。
「なんですか」
「大して時間は取らせない。少しつきあってくれないか」
「……オレ、教室に帰らなきゃいけないんで」
 もう授業はないが、教科書やらなにやらは全部教室に置いてある。
 その返事に、その先輩は眼鏡を少し押し上げると、うなずいた。
「よろしい。ではここで話をしよう」
「はあ」
「提案がある。君、俺の弟にならないか」
「…………」
 またかよ。
「言っておくがこれは将来の派閥作りの一環だ。この一年の情報を調べてみて、君は将来必ず軍の中枢まで出世する人間だと俺は判断した。俺はこの学校を卒業すると軍大学の研究機関へ進む。その将来のために有能な軍人と閥を作っておくのも重要だと思った」
「……あのですね、オレは……」
「返事は来週まで待つ。ジーウルクやアーガンとの申し込みとも検討して、結論を出してくれ。それでは」
 言いたいことだけ言って名前も言わずさっさと去っていく先輩の後ろ姿を追おうかとも思ったが、なんだか脱力してきたのでやめた。どうしてこの学校の先輩たちって人の話聞かないんだろう?
「……大丈夫か?」
「まーねー……」
 クセードの問いに、ナップは力なく答えた。

 ダムセン・デオメール。六年十七歳。商家の出身。座学は高等部No.1の優等生。他人との交流を無価値だと感じているらしくめったに自分から他人に話しかけることがないが、実利的だと感じればたいていのことは進んでやる。
 ユーリからの情報は頭に入れたものの。だからといってなにがどうなるというものでもない。
 心配そうな友人たちに大丈夫だと笑って、図書館に向かってはいるが。実際なにが起ころうと大丈夫だろうとは思っているんだけど。
「面倒くさいなぁ……」
 思わず愚痴が口からこぼれ出る。あの人見るからに人の話聞かなそうだったし。
 まぁこれも貴重な経験と割り切るしかないか。いろんな経験を積むって、約束したもんな。
「ちょっと」
 ―――まさか、またか? と思ったものの、今度声をかけられたのは前からだ。前に自分と同年代か、一、二歳年上という感じの男子女子が十人近く集まってこちらを睨んでいる。
 襟章からすると最高でも自分と同学年。弟になれとか言われることはないだろうし、普通に話してよさそうだ。
 そう考えると一気に気が楽になり、笑顔すら浮かべて言ってしまった。
「なに?」
 相手方は一瞬気圧されたように一歩あとずさったが、それでも顔を見合わせると、きっとナップを睨んで言った。
「あなた、ナップ・マルティーニね?」
「そうだけど?」
「……どういうつもり?」
「は? なにが?」
 怪訝な顔をしてそう訊ねると、相手方の少年少女たちはいっせいに口を開いて騒ぎ立てた。
「ジークさまに兄弟の契りを申しこまれたっていうのに他の先輩に色目を使うなんてどういうつもり!?」
「それも戦技と座学、双方のトップを狙うなんて!」
「この節操なし! 泥棒猫!」
「大体あなた自分がジークさまにつりあうと本気で思ってるの!?」
「そうだそうだ、ちょっと可愛くて成績がよくて飛び級してるくらいで!」
「………はぁ?」
 なにが言いたいんだ、こいつら?
 困惑するナップにかまわず、目の前の男女の集団はどんどんと加熱していく。
「ジークさまはね、あたしたちの星なの! 天上におわすお方なの! あんたなんかとは位が違うのよ!」
「そんな方が兄弟の契りを申しこまれたっていうのに、すぐに返事しないどころか他の先輩と浮気するなんて、この恥知らず!」
「あんたみたいな奴、ジークさまにふさわしくないわ! この学校から出て行ってよ!」
 十人近い少年少女にぎゃあぎゃあ喚かれ、ナップはだんだん腹が立ってきた。ただでさえ弟関連のことでイライラしているというのに、こうもわけのわからないことで騒がれてはいい加減我慢の限界だ。
 ナップはつかつかと先頭にいた少女に近寄り、全力で拳を振りかぶる――そして硬直した相手の目の前に手のひらを突き出し、拳に当てた。パァンというより、バァン! という強烈な音が響き渡る。
 思わず静まり返る相手方を、ナップは歴戦の戦士も足を止める眼光で睨みつけ、静かに言った。
「で? お前ら結局なにが言いたいんだ。一言で言ってみろよ」
『………………』
 死闘を潜り抜けてきた戦士の迫力に、まだ戦場に近づいたこともない少年少女たちは硬直する。
「言えないんだったら、オレもう行くからな」
「ま、待って!」
 一人の少女が、やぶれかぶれの勇気を振り絞ってか一歩前に出た。
「なに?」
「お、お願い……だから……お願いだから、ジークさま取らないで……!」
「………ジークって誰?」
 ナップの問いに、なぜか相手方は全員目をむいた。
「し……っんじられないっ、ジーウルク・エルフィデンクスさまよっ、今朝あんたに弟になるようにおっしゃった!」
「ああ、あの人か……あんたたちあの人のなんなの?」
「そっ、れは……」
 口ごもる少年少女に、ナップはやれやれとため息をつく。
「もしかしてあんたら、あの人のとりまきってやつ? そんでオレが弟になれって言われたのが気に入らなくて、勝手にインネンつけにきたんだ?」
「…………っ」
「やめとけよそんなの。自分の価値下げるだけだぜ。あの人が好きなら、あの人に直接そばにいさせてくれって言えばいいじゃん」
「……そんなことっ……」
「そりゃ、なかなかそんなこと言えないけどさ……」
 ナップはふ、と息をついて宙を見た。――先生を思い出す。
 あの人への想い。あの人の想い。――お互い知らなかった長い時間。
「ちゃんと言わなきゃ、なにも始まらないだろ」
「………っ、なによ! あんたなんか、なんにもわかってないくせに!」
 そう叫ぶと、一人の女子がその場から駆け去った。そのあとを追うように他の少年少女も駆け去る。
 と、一人の男子生徒がその途中で大きな音を立てて転んだ。ナップは驚いて、その男子生徒に近寄る。
「大丈夫か? 立てるか?」
「……っ、お前には関係ないだろ!」
「いや、ていうかさ、目の前で転んだら普通聞くだろそのくらい」
 と言いつつしゃがみこんで視線を合わせる。そしてにっと笑ってやった。
「このくらいで立てないとか言わねえよな? 男なんだからさ。ていうか、女だって立つぞ。一人で立てるよな?」
「あ、当たり前、だろっ」
 なぜかその男子生徒は顔を赤くしつつ立ち上がる。ナップはん、とうなずいた。
「よっし、偉い偉い」
 軽くそう言うと図書室へ向かって歩き出す。
 ――その後ろ姿を男子生徒が熱い視線で見つめていたことには、ナップは気づかなかった。

「やあ、来たね」
「……どうも」
 にっこり笑いかけられて、ナップはなんだかげっそりしたが(美形なのは認めるがナップの好きな顔じゃない)一応先輩相手なので挨拶を返した。
 ジーウルクは図書室の閲覧室の一番奥まったところで、ペラペラと優雅に本の頁を繰っていたのだ。
「なんでこんな奥にいるんですか。最初どこにいるかわかんなかった」
「こっちの方が都合がいいだろう? ここはちょうどどこからも死角なんだよ。なにをしても大声を出しさえしなければ誰にも見られないですむ」
「へー……じゃなくて、先輩。言わなくちゃならないんですけど、オレ、先輩の弟には――」
「さ、こっちへおいで」
「は?」
 ジーウルクは椅子を大きく引いて、ぽんぽん、と膝の上を叩いてみせた。
「こっちって……膝の上?」
「もちろん。俺の膝の上に乗れば、小さな声でお話ができるだろ?」
「やですよ。なんでそんな」
「膝の上に乗ってくれないとお話してあげなーい」
「……あんたなぁ。いい加減にしないと怒るぞ」
 ナップは微笑みながら勝手なことを言うジーウルクを睨んで、小声だがきつい口調で言った。もはや敬語はかなぐり捨てている。
「あ、先輩に向かってその口調。先生に言いつけちゃおうかなっと」
「先輩だって思ってほしいなら先輩らしいことしろよ」
「先輩らしく後輩を可愛がってるつもりなんだけど?」
「うそつけ。あんたのはおもちゃにしてるっていうんだ。相手の気分とか無視するのは可愛がるなんて呼ばないって――」
 先生が、言ってたもん。
 その言葉に、ジーウルクはしばしまじまじとナップを見つめ、それからぶっと小さく吹き出した。
「いや、いいね。やっぱり君、いいよ。面白い。大人の理性と子供の可愛げって感じだ」
「はあ?」
「俺の目に狂いはなかった。君のそういうところを見込んで俺は弟にしようと思ったんだからね」
「別に見込まなくていいって……」
「そんなこと言うもんじゃないよ。俺はね、これまでずっと弟を作らなかった。正直、背負い込む面倒の方が多いと思ってたしね。……だけど君の噂を聞いて、君を見ていて、君と一緒なら残り一年、退屈せずに過ごせると思ったんだ。だからさっさと唾をつけようと思った」
「退屈せずにって……」
 とことん自分勝手なこと言う奴だなぁ、とため息をつくナップに、ジーウルクはすっと立ち上がって近寄った。なんだ、とナップが警戒するより速く、絶妙のタイミングと勢いでナップに抱きつく。
「ぎゃ!」
「色気のない叫び声だなぁ」
 くすくす笑いながら腕の中のナップの眉毛をつつっ、となぞる。
「もちろん、君の顔も体も可愛かったっていうのもあるけどね――この君の短い眉毛、子供っぽくて気に入ってるんだ」
『こん……のぉ!』
 ナップは唇を噛んだ。猛烈に腹が立った。オレはあんたのおもちゃじゃないんだ、そう簡単に抱きつかれてたまるか!
 腹に一撃食らわせてやろうと拳を握り締めた瞬間――
「――なにをしている」
 冷静を通り越して冷徹な声がかかった。
 どこかで聞いたことがある声だ、と思いながら声のした方を向く――そこにいたのはダムセンだった。最後に自分に兄弟の申し出をしてきた優等生眼鏡だ。
「なにをしている、と聞いている」
「お前には関係のないことだろう?」
 ナップより早くジーウルクが答えた。
「下級生を襲っている上級生が目の前にいる時に関係ないもへったくれもあるか」
「襲うなんて人聞きが悪いな。第一お前は目の前で人が殺されていたとしても俺には関係ない、の一言で済ます奴だと思っていたが?」
「それが関係のない人間ならな。だが、仮にも弟候補の人間となれば話は別だ」
「へえ、弟候補? いつからそうなったんだ。言っておくが彼に目をつけたのは俺の方が先だぞ」
「運動会じゃないんだ。早い方が偉いなんてルールはどこにもない」
 ダムセンとジーウルクはナップを挟み、お互い睨み合って冷たい言葉を投げつけあっている。――ナップの存在を無視して。
 怒鳴ってやろうかと息を吸い込んだ瞬間――
「ナップ!」
 がっしとごつい手で腕をつかまれた。
 もしかしてこのパターンは、と顔だけ振り向く――そこにいたのは予想通りアーガンだった。
「アーガン、振られたお前には口を出す資格はないぞ。ひっこんでいろ」
「お前たちには関係ない! 俺はこの子と話をしてるんだ! ナップ、君が俺の弟になりたくないというならそれでもいい。けどこいつらはダメだ! ジークは男女見境ない色魔だしダムセンは人の情なんて屁とも思ってない冷血人間なんだから! こんな奴らの弟になったら、君は絶対不幸になる!」
「聞き捨てならんことを言ったな、アーガン。貴様俺のことをそんな風に思っていたのか? 俺はつきあう価値のない人間にはそれ相応に対処しているだけだ」
「それを冷血って言うんじゃないのか? 言っとくが俺は色魔と呼ばれる覚えはないぞ。ただ可愛がってほしがってる子を可愛がっただけなんだからな」
「それを見境なしにやる奴を色魔と呼ぶんだよ。第一貴様が弟を持ったところでどうなるというんだ。自分の道の細さにいじけて逃げ出している奴が、他人になにをしてやれる?」
「………なんだと?」
「お前だって人になにかしてやれるような人間じゃないじゃないか、ダムセン。利害関係だけで人を動かせると思ったら大間違いだ。兄弟の契りっていうのは、心と心が通い合わなきゃやる意味なんてないんだぞ!」
「ほう、それならお前こそ予選落ちだな。一番最初に振られたのはお前じゃないのか?」
「なっ、なにをっ!」
「お前が俺より前にいるとでも思っているのか? お前にできることといったら算盤を弾くことだけのくせに。人間関係はそれだけじゃうまくいかないって教えてやっただろう? つまらない人ね、っていうあの台詞で、何度捨てられたか覚えてるか?」
「………貴様………」
「とにかくお前たちはナップにふさわしくないっ!」
「俺が一番に決まってるだろう?」
「貴様らに劣ってるとは正直少しも思えないな」
「お前らが」
「俺が」
「貴様らが」
「…………いっいっかっげっんっにっ、しろ――――――!!!」
 ナップの腹の底を震わす大声に、三人の最上級生はおそらくは反射的に硬直した。
 アーガンとジーウルクの手を振り払って、きっぱりと叫ぶ。
「あんたら全員、いい加減にしろよっ! 少しはちゃんと人の話を聞け! 自分の意見を言うのも大事だけど、相手の意見もちゃんと聞かなきゃ話にならないだろ!? あんたらそれでも最上級生かよ、いくら成績よくたって普通に生きてく上で大事なことが抜けてたらどうしようもないんだよ! そんな奴らを兄なんてオレは全然思えないぞっ!」
『…………』
「言っとくけど! オレは最初っから兄を持つ気なんてさらさらなかったんだからなっ! それを勝手に自分の都合押し付けるなよ! オレにはな、あんたらよりもずーっとずーっと頼りになってカッコよくて優しい『先生』がいてくれるんだからなっ! わかったかっ!」
『………………』
「返事はっ!」
『は、はいっ!』
「よろしい!」
 ふう、と息をつくと、なぜかぱちぱちぱちという拍手の音と歓声が響き渡った。驚いて見てみると、いつの間にか周囲に生徒たちが鈴なりになってこちらを見守っているではないか。
 修羅場を見物するつもりが気風のいい啖呵を見せられ、思わず拍手する観客たち。なんだかおかしくなってきて、ナップは笑いながら軽く手を振ってみた。
 ――歓声はより大きくなり、史書の怒鳴り声をもかき消し、図書室長の怒声が響き渡るまで続いた。

「……それでとりあえず一件落着、というわけ?」
 その夜、寮食堂。ベルフラウがからかうようにスプーンを持ち上げると、ナップは苦笑してうなずいた。
「なんとかな。さすがにもうあんなこと申しこんでくる奴いないだろ」
「でも、少しもったいない……あんなにたくさんの人から申しこんでもらったのに、ナップくん、本当にお兄さま作らないの?」
「作んないって。少なくともあんな奴らじゃ願い下げ」
「ふうん……じゃあ、どんな人だったらお兄さまにしてもいいと思う?」
「え? そうだな……」
 ナップはちょっと考えてみた。先生以外に教え導く人なんていらないけど、年上の特別な人、という意味で考えたら。
 いっそ先生とは全然正反対の人がいいな。クールで頭よくって。表面上はぜんぜん優しくなくてもいいけど、やっぱり本当は優しい人がいい。先生の意地の張り方はわかりにくいから、わかりやすい意地っ張りだったりすると面白いかも――
 そこまで考えて、ナップは笑った。
「え? なによ」
「なんでもないって。そーだな、ウィルみたいな奴が兄ちゃんだったら面白いかもな」
「なっ……!」
「あらあら、仲のよろしいこと」
 真っ赤になって思わず席を立ち、ナップを睨むウィルに、ベルフラウとアリーゼはくすくす笑った。
 と、ナップの前にふいに影が落ちた。見上げると、そこに立っているのは放課後自分に因縁をつけて逃げる時転んでいったあの下級生だ。
「あ」
「知り合い?」
「うん、まあ一応」
「ナップ先輩っ!」
「へ?」
 まだ先輩≠ニ呼ばれたことのなかったナップは、その真剣な声に気圧されて動きを止めた。
 そこにその後輩は必死な顔と口調で言い募った。
「先輩、僕、初めてだったんです。誰かに厳しくされて、そのあと認めてもらうの。うちの家は厳しくて、どんなに頑張っても認めてもらえなくて、だから優しいジークさまに惹かれました。でも、ジークさまの誰にでも与えられる優しさじゃなくて、他でもない僕が頑張ったのを認めてもらうっていうのは本当に初めてで、僕、嬉しくて……」
「……はあ」
「だから……その、下級生からこんなこと言うのは筋違いだってわかってるんですけど……」
 ばっと手を差し出して、叫ぶ。
「僕をナップ先輩の弟にしてくださいっ!」
『………………』
 いつのまに注目していたのか、思いきりどよめく生徒たち。ウィルは顔を真っ赤にしてナップを睨み、ベルフラウは笑い、アリーゼはじっと観察するような視線を向けてくる。
 ナップは――目の前が暗くなるのを感じていた。
 ――勘弁してくれ。

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