テドン〜グリーンオーブ――2
 ―――暗黒。
 見渡す限り、認識できる限り、どこまでも続く灯りひとつない無明。真闇と呼ぶにふさわしい暗闇が、セオの周囲を取り巻いている。音も虫の声ひとつ聞こえないこともあり、足が大地を踏みしめる感覚すら怪しくなりそうなほどだ。
 どれだけ感覚の糸を伸ばしても、人どころか生あるものの気配がなにひとつしない。虚無に包まれたような感覚。神経が、精神が、歪み、狂い、捻れていくのが分かる。一寸先になにがあるかもわからない闇に、セオの心身が侵食されていく――
 ――そんな中、セオは一歩≠踏み出した。

「しっかしまぁ、でっかくなったねぇ。あたしが死んだ後、いったいなに食ってたってんだい。あんたのご面相じゃ飼ってくれるような相手も見つからなかろうと思ってたけど、よっぽど奇特な金持ちにもらわれてったんだねぇ」
 くっくと笑い声を立てるその女性を、ラグはじっと睨む。というより、なにか言ってやろうと口を開けてはなにも言うことの思いつかないまま口を閉じる、ということを繰り返していたので、結果的に睨むような形になってしまっただけではあるのだが。
 ただ、今の自分が、この女性と――生みの母と対峙して、喜びに泣き叫び歓喜の念を持って抱擁する、なんてことをする気にまるでなれないというのも、また確かなことではあったのだ。
 そんな自分を笑顔で見つめながら、その女性は指の間の煙管から紫煙をくゆらせ、肩をすくめてみせる。
「薄情なこったねぇ、あの世から戻ってきた自分の母親に、感謝の言葉のひとつもなしかい? ま、そんだけでかくなったなら、母親なんぞうざったいだけだってのはわかってるけどさ」
「…………」
「正直、あたしもあんたが自分の息子だ、なんていう実感薄いしね。顔も体も、どっちかっていうと、これまで相手してきた客連中の中にも一山いくらでいそうな感じだしさ。あんたにとっても、あたしはもうとっくに死んでる上に、顔も体もこれまで買った中にも山ほどいる程度の女でしかないんだろうねぇ」
「…………」
「ま、そうならそうで、あたしもかまやしないよ。あたしの息子だかどうだかわからないどこかの誰かさん、せいぜいお達者で、とお愛想言ってお別れするだけさ」
 そう言ってふっ、と煙を宙に吹き出し、その女性はくるりと背を向ける。ラグの心中に、期せずして狼狽が溢れた。
 この女性と別れ別れになったからといってどうだというのだ、と吐き捨てる部分もラグの中には確かに存在した。だがそれでもラグの心の大部分は『行ってしまう、このままお別れになってしまう、どうしようどうしよう』と、いい年をした男がなにをそんなにとたしなめる理性など無視して周章狼狽し、震え、混乱し――
「俺の、母さんは、もうあなたじゃないから!」
 ――自分でも思ってもみなかった言葉となって、口から溢れ出た。

 その少年がロンに向ける視線は、ひどく乾いていた。愛憎いずれも感じられない。いやむしろ、感情というものが見受けられない。生まれてこの方感情など持ったことがないかのような、冷淡で平坦な眼差し。
 けれどロンは、この少年の激情に揺れた声を知っている。切望に濡れた瞳を知っている。この少年は、ごく普通の少年ならば当たり前にそうであるように、大切なものが今にも失われそうな時、目の前にいる大人に助けてくれろと泣き叫ぶことさえできていたのだ。
 ―――そして、自分がそれを断ち切った。この少年から心を奪ったのも、命を失わせたのも、間違いなくロンがこの手で為したことなのだ。
 それを、ロンは覚えている。
「あんた、まだ、生きてるんだ」
 少年は繰り返す。感情による潤みなど、微塵も感じ取れない声で。
 恨みもなく、呪わしさもない、ただひたすらに冷たい無感動さだけがある視線。潰れた虫を見下ろす時多くの人間が浮かべるような、屠殺場の豚に見せるよりなお冷淡な面持ち。
 それを見上げ、ロンはしばしの沈黙ののち、端的に訊ねた。
「君は、俺を殺しに来たのか?」

 落ちている。どこまでも。
 フォルデは、暗闇の中をひたすらに、ありえないほど長い時間落下し続けていた。この場所がどこか、なんでこれほど長い時間落下し続けてどこかにたどり着かないのか、そういう状況判断の手がかりになるものもまるでないまま、唐突に、ひたすらに、ずっと。
 どれほど長い時間落ち続けているのか、フォルデには判別がつかなかった。レウほどではないにしろ自身の体内時計にはそれなりに信頼を置いていたが、この暗黒の中をひたすらにどこまでも、風を切る感覚すらないまま落ち続けるという行為は、フォルデの感覚の多くを鈍らせ、麻痺させている――それ以前に、幽霊≠フわけのわからない力で感覚を奪われているのかもしれなかったが。
 ひたすらに、どこまでも、えんえんと、黒闇の中を落ち続ける無明――
 ――その間中、フォルデはずっと呟き続けていた。声にもならぬ、自分の耳にすら届かぬ声で。全世界に向けて叩きつける宣言を。
「―――負けてたまるか、負けてたまるか、負けてたまるか、負けてたまるか、負けて、たまるか………!」

 レウは自身の目の前に立つ、二十代前半から半ば、ひょっとしたら十代かもしれないというくらい若々しい女性と対峙しながら、必死に考えていた。
『どうしよう………』
 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。なにをどうしたいのか、なにかをどうにかする必要があるのかもわからないままそんな言葉だけが頭の中をぐるぐる回る。
 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。どうしようどうしようどうしよう。どうしよう――
 本当にそれだけしか考えられなかった。普段ならさして考えることなく、というより基本的になにも考えることのないまま反射的に決められる自分の行動方針を、レウは決定しかねていた。いやむしろ、『なにか行動するか否か』という段階以前の場所で立ち止まっていた。レウは本当に、生まれてこの方悩んだことなんて、セオと出会う前のわずかな煩悶を除けばほとんどなかったのに、今はなにをどうすればいいのかさっぱりわからないくらい困惑しきっていたのだ。
 自分の母親だという女性を、前にして。
 目の前の女性は、穏やかな微笑みを浮かべながらじっと自分を見下ろしている。背後に背負う蛍火の群れが、時にその顔を照らし、時に陰を作る。それになぜかひどく心を騒がせながらも、レウは一言も言葉を口にすることができなかった。
 長い沈黙のあと、その女性は、小さく、けれど確かな哀しみを湛えて、『笑う』という表情とは程遠い形に笑みを作った。
「やっぱり、許せない?」
「………?」
「あなたにとって、私はあなたを一人ぼっちにしたまま、勝手に死んだ女ですものね。恨むのも許せないと思うのも当たり前のことだわ」
「っ!」
「でも、これだけは信じてほしいの。私は」
「違うっ!」
 なにかを考えるより前に口から飛び出た叫びに、その女性は目を見開いたまま固まった。だがそれを気に留める様子もなく、口から衝動のままに感情が溢れ出る。
「あなたのこと、俺、全然知んないけど、会ったことないけど、なんて言えばいいのかわかんないし俺が会いたかったかどうかだって全然わかんないけど! でも、俺は、あなたのこと、許せないとか嫌いだとか思ったことなんて、全然、一回も、ないよっ! 俺、あなたに育ててもらったわけじゃないし、ムオルで産んだままにされたのとか、嫌だなって思わないわけじゃないけど、でもっ……」
 一瞬逡巡が言葉を奪うも、結局勢いのまま、感情のまま、できる限り想いそのままを言葉にして投げかける。
「あなたは、俺を、産んでくれたんだから。あなたがいなかったら、俺は生まれてくることもできなかったんだから」
 そう言ってから、やっぱり他に言い方あったんじゃないかなどうしよう俺間違ってないかな、と不安に心がうろうろするも、せめて真正面から向き合うべく顔を上げてきっとその女性を見つめた。本当に、どうすればいいのかさっぱりわからないけど、でも、なにもせず、なにも言わずにこの人と別れるというのは、絶対しちゃいけないことだと思ったから。
 その女性は、少し呆然としたようにレウを見つめ――それから、ぽろっ、と涙をこぼした。
「! あっあのっ、俺、なんか嫌なこと言っちゃった……?」
「いいえ……違うの、違う。そうじゃないの。ただ……嬉しくて……」
 涙を手で拭いながら、それでも懸命にその女性は笑顔を作る。
「嬉しくて、そして、ちょっとだけ切ないの。あなたみたいないい子を、自分の手で育てられなかったのが……」
「…………」
 なんと言っていいのかわからず、レウは沈黙して口をぱくぱくさせた。手もおろおろとどうしていいのかわからないまま宙をさまよう。そんなレウに、その女性は泣き笑いの表情を顔に浮かべたまま、一気に間合いを詰めてレウに抱きついた。
「!」
「会いたかったわ、レウ……私の、誰より可愛い、大切な息子……」

 一歩を踏み出すごとに、心身が削られていくのがわかった。
 闇の中を、自分が今地面を踏みしめているかどうかもわからないほど暗い黒闇の中を、一歩ずつ前へ前へと進む。だが、その歩みが、一歩ごとに遅くなっていくのをセオは自覚していた。
 おそらくは幽霊たち――この世の理にまつろわぬ者たちの作意によって、セオと仲間たちは断絶させられた。魔力をどれだけ精緻に探っても、気配を全神経を振り絞り探っても、感じ取れるのは静謐な虚無ばかり。はっきり感じ取れるのはセオ自身の鼓動だけだ。この世の果てまで進んでも、存在するのは自分一人。それが否応なく体で実感できてしまう、断絶と孤独。
 相手は幽霊、真の意味でこの世の理を無視できる者だ、と知っていた以上、この類のことが起きる可能性は覚悟していた。だが、それでも、精神と肉体に与えられる負荷を無視できるわけではないし、全力で抑えようとしても心が仲間たちの現状を思い乱れるのも避けられない。おそらくは、幽霊たちはセオの心身に直接介入し、恐怖や苦痛に対する耐久力を無視させているのだろう。どれだけ苦痛に慣れていても、恐怖に耐える術を学んでいても、幽霊はその理を無視することができるのだ。それこそ生まれたての赤子の感じるがごとき圧力を心魂に直接与え、心を押しひしがんとしている――と考えるのが妥当と思われた。
 けれど、セオのすべきことは変わらない。選択肢はない。セオに残された道は、この闇黒の中を一人、少しでも奥へと進み、『新たな生誕』を成し遂げる他にない。
 死した者たちがいかなることを思うのか、セオにもはっきりわかっているわけではない。けれど、セオにも想像することくらいはできる。死してなおこの世界に留まり続ける者たちの想い、心地、切望。『生』というものに対する、渇望――あるいは憧憬か、懐旧か。
 形はそれぞれ違えども、もはや手に入らないものに対し、それぞれに想いを馳せずにはいられぬだろう、ということくらいは、セオにも考えることはできるのだ。

「………はぁ?」
 その女性は、ラグの生みの母親は、こちらを振り向いて、深く眉根を寄せた顔を突き出してきた。腰に手を当て、胸を反らし、いかにも気の強い女らしい、立て板に水の口調でラグに言葉を次々叩きつける。
「なんだいそりゃあ。どういう意味だい? あんたがどんなに嫌がろうと、あたしがあんたの母親だってのは変わらないことじゃないかい。だってのになんだいその言い草は。そりゃああんたが自分を産んでくれって頼んだわけじゃないにしろ、こっちだって別にあんたって子を産みたいって頼んだわけじゃないんだ、偉そうに上から文句をつけられる筋合いはないよ」
「い、いや……」
「『いや』じゃないよ。ちょっと言われたくらいで取り消すなら最初っから口を閉じときなってんだ。だいたいね、あたしゃもともとガキは嫌いなんだ。そりゃあ孕んじまったのはこっちのしくじりだから文句を言う気はないけどね、それでも別に好きであんたを孕んだわけでも産んだわけでもないんだ。あんたをあそこまで育てる義理があったってわけでもないんだよ。だってのに偉そうにああだこうだ言われる筋合いはないね」
 つけつけと罵言を叩きつけてくるその女性に、さすがにラグの眉間にも皺が寄る。思わずこちらも胸を張り、冷たい視線でその女性を見下ろしきっぱり言い捨てた。
「子供を『好きで産んだわけじゃない』なんていう女に、母親の資格はない」
「はっ、男の分際で偉そうに抜かすんじゃないよ。男は勝手に女を孕ませて捨てられてもね、孕む方は自分の身体にでっかいもんが生っちまうんだ、否応なく人生が子供に巻き込まれちまうんだよ。商売道具の中に勝手に居座られるってだけでも大弱りなのに、つわりだなんだって体のあちこちの調子は狂いっぱなしになるわ、産んだら産んだでぎゃんぎゃんやかましく泣き喚く上に乳はやらなきゃならないわ、面倒なんてもんじゃないんだよ。それをあの年まで育ててやったんだ、感謝しろたぁ言わないがぐだぐだ文句をつけられる筋合いもないね!」
「っ……母親っていうのは、そんなことを正気で言える女がなれるもんじゃない。子供を愛し、慈しみ、育て上げることを喜び、その歓びを子供にありったけ伝えられる、そういう人間じゃなきゃ母親になる資格なんてないんだ」
「はぁ? 気っ色悪いね、なに勘違いしたこと抜かしてんだい。資格だなんだって、そもそもこっちゃ好きで母親になったわけじゃないって言ったばかりだろうが。資格がなきゃあ本当に母親になれないってんならそりゃ結構なこったろうよ、あたしはちぃとも母親になんてなりたくなかったんだからね。だけどちっとのしくじりや度忘れでガキってもんは簡単にできちまうんだ、できちまって堕ろすこともできないってんなら母親になるしかないだろう。世の中の母親ってぇのはそんな女が大半だろうさ、そうでないのはよっぽど恵まれたお育ちの、子供を産み育てるのが女の幸せだなんぞと勘違いしてるお嬢さんだけだ」
「ふざけるな……この世の中にいるのは、そんな女ばかりじゃない。中には本当に、誰より母親になるのがふさわしい、誰もから母親として望まれる、そんな女性もいるんだ」
「はぁぁ? なんだいあんたその気色悪い言い草――」
 顔をしかめて言いかけて、なにかに気がついたように目を瞬かせてから、その女性はいかにもうんざりした、忌々しげな顔で言い捨ててくる。
「あーあー、つまりそういうことかい。ったく、曲がりなりにもあたしの息子だってのに、気っ色悪い。うざったいったらないね」
「……俺の本当の母親になってくれたわけでもないあなたに、偉そうな口を叩かれる覚えはない」
「こんなもん、母親だなんだってぇのとは別の話さ。要するに、だ、あんたはあたしが死んだ後、別の『母親』に育てられたんだろう?」
「…………」
「その『母親』に、愛し、慈しみ、育て上げることを喜びうんぬんってのを、それこそ舐め可愛がるみたいにやられたわけだろう? それであんたはすっかりそいつにいかれちまったわけだ。『本当の母親』だなんて台詞を素面で抜かせるぐらいに」
「いかれる、だって……? 俺とあの人とのことをなにも知らないくせに、下衆な言いがかりをつけないでくれ」
「はっ、言いがかりもなにも、見たまんまじゃないかい。本当に、気色悪いったらないねぇ。曲がりなりにも娼婦の息子が、そこまででかくなったくせして、いまだに『お母さん、お母さん』って育ての親の後をついて回ってるわけかい? 馬鹿じゃないのかね、年を考えな。むさ苦しい顔してるくせして、いいとこの坊ちゃん、それもどうしようもない甘えっ子みたいに母親に媚売って」
「っ……あなたに、そんなことを言われる筋合いはない! 言っただろう、あなたはもう俺の母親じゃないって! そんな人に、俺とヒュダ母さんのことを、上の立場からああだこうだと……!」
「ふん、腹を立てるってこたぁ自分でも気づいちゃいるんだろう。自分がいい年こいて母親に気色悪くへばりつく甘ったれだってさ。よくまぁ自分で嫌にならないもんだ、それとも母親に甘えられるのが嬉しくて見ないふりをしちまえるのかね? どっちにしてもうざったいことこの上ないね」
「っ……あなたは―――!」
 ぎっ、と腹の底から湧き上がる怒りをありったけ込めて睨むと、その女性も強い苛立ちと腹立ちを込めてラグを睨み返す。お互いの姿だけが浮き上がる暗闇の中で、ラグとその女性は殺意にも似た激しい感情を込めて睨み合った。

「…………」
 その少年は、答えずじっとロンを見下ろす。変わらぬ無表情のまま、静かで熱のない視線をぶつけてくる。
 暗闇の中しばしそのまま視線を交わし、ロンはいまだに芯がぐらつく体を無理やり動かして、ゆっくり首を振った。
「もし、そうだとしても。俺は君に殺されてやるつもりはない。死力を賭して、抵抗させてもらう」
「―――へぇ」
 まるで熱を込めぬまま、少年はそう答える。だが、言葉として返されたのはそれだけなのに、ロンの心身にかかる圧力は、ぐっと重みを増した。
 体が重い。心が揺れる。自分の持つ命の力が、一瞬ごとに壊され奪われていくのを感じる。自分の魂が、死≠ノ近づけられているのだと、否応なく理解させられた。
 だが、それでもロンは少年を見上げ言い放つ。
「俺にとっては、君よりも自分と、仲間たちの方が大事だ。自分と仲間のために、生きていたいし生きていなければならない。少なくとも俺がいなくなれば仲間たちの生存確率がぐっと下がるのは間違いないだろう。だから、俺は君が俺を殺したいと思っても、それを諾々と受け容れるつもりはない」
「……ふぅん」
 そのまるで関心のなさそうな答えに反し、力が奪われていく勢いはさらに増した。体が震え、血の気が引くのを感じる。心臓が早鐘のように鼓動し、体中の神経が冷えていくのが分かる。これまでに何度も経験した、体と頭が死に近づいていく感覚、命が削り取られていく感覚だ。
 この少年が実際のところ、自分をどう思っているのかはわからない。心底憎んでいるのかもしれないし、本当にどうでもいいと思っているのかもしれない。貧民街に育った、世のお題目を心底正しいと思い込めるほど人生に余裕があったとは思えない少年が、命を懸けて母親を護ろうとしていたのに水を差したのだ、好意の類が存在することはありえなかろうとは思うが。
 だが、それでも、ロンは少年を見上げ、真っ向から問うた。
「その上で、君に訊ねる。なにか、俺にしてほしいことはないか」
「…………」
 少年は、答えない。だが、その眉根がわずかに寄った。
 ロンはともすれば力が抜け震えそうになる声を張り、言葉を続ける。――この少年と再会した時から、いや本当ならば彼が生きている時に会った時から、言ってやりたかった本音を。
「俺は別に子供好きというわけじゃないが、君のように気骨のある、自身の力で誰かを救おうと全力を尽くしている少年に、助けの手を差し伸べようともしないほど根性曲がりでもない。曲がりなりにも俺も他人の世話になってこの年まで生き延びてきた大人だ、これまで助けられてきた分の恩返し、くらいのことならば目の前で困窮している子供に返してやろうという気概はある」
「…………」
 少年の眼差しはあくまで冷淡で感情が感じられなかったが、それでもロンは声を張る。憎まれようが、呪われようが、これは言わなければならないことだし、言いたかったことでもあるのだ。
「俺は君と最初に会った時、それができなかった。君を助けるだけの力がなく、甲斐性がなく、余裕もなかった。今現在も、君を本当に助けるだけの力を持っているわけじゃない。――だが、それでも、君に問いたい。君のために、俺がなにかできることはないか。俺にしてほしいことはないか」
「…………」
「俺の中の優先順位ははっきりしている。君の気持ちと俺の気持ち、どちらが俺にとって大切かといえば俺の方だ。君の命と俺の命を比べれば俺の方が大切だし、俺の仲間たちと君を比べればあらゆる意味で仲間たちの方が重い、俺にとってはな。だから君に殺されるわけにはいかないし、俺の命を君にやるわけにもいかん。だが、それでも、俺は君を助けたい。できるだけのことを君にしてやりたい。この年になるまで何人もの人間に助けられて生き延びておきながら、君を助けることができなかった大人としてな」
「…………」
「再度問う。なにか、俺にしてほしいことはないか」
 重圧にひしがれ地面に倒されたまま少年を見上げ、ロンはそう告げる――

 落ちている。どこまでも、どこまでもどこまでも落ちている。
 もうどれだけの時間落ち続けているのか、フォルデには計りきれなくなっていた。普通の世界で落ちたならば、世界で一番高い山の高さからだろうと、とうに地面に打ちつけられるだろうほどの時間が経っているだろうことくらいはわかっていたが。
 無明の中を、一寸先も見えぬ虚空の中を、ただひたすらに落ち続ける。数えきれないほどの自失と虚無の時間を繰り返しながら。
 ただひたすらに落ちる。延々と延々と落ちる。行く先も終末も見えぬ黒闇の中の墜落が、いつまでもいつまでも続く。
 ――それでも、フォルデは全身全霊を振り絞り、幾度も幾度も口からこぼれる感情を詠じた。
「負けてたまるか……負けてたまるか……負けてたまるか……負けてたまるか……」
 いつ終わるとも知れぬ、どころかいつ始まったかもわからなくなるほどの、長い永い暗闇の中の墜下。その間フォルデは、死力を尽くして自らの落ちる先を睨み据え、喉が嗄れるほど何度も自身の意思を唱え続ける。永遠と思わせるほどの時間虚無の中を落ちる、身を震わせ魂を削る感覚を、必死に真正面から見据えて振り払う。
 それが自分だからだ。フォルデ≠ニいう名を持つ自分自身に、フォルデ自身が許した在り方だからだ。ひたすらに続く墜下という状況がどれだけ苦しかろうと、永劫の暗黒という世界がどれだけ重かろうと、それに負けるつもりなどさらさらない。
 ――そうでない自分など、フォルデは死んでも許しはしないのだ。
「なんで?」
「!?」
 フォルデの眼前に、唐突に人影が現れた――かと思うと、体の落下が止まる。宙に浮いたままその人影と目を合わせる格好となったフォルデは、数瞬呆然としてから思わず絶句する。
 その人影は、自分のように見えたからだ。いや、正確に言うなら、かつての自分自身のように見える子供だったからだ。盗賊ギルドに育てられていた頃、盗賊としての修行を始めたばかりの、五、六歳にしか見えない自分自身。――そのように見える子供が、宙に浮きながら膝を抱え込んで、フォルデと真っ向から視線を合わせていた。

「ね、レウ、あなたの好きな食べ物は何かしら? 嫌いなものは? 趣味とかはあるのかしら? お友達はいた? 今はもう一人で眠れているのかしら? あなたが赤ん坊のころは、私に抱かれながらじゃないと泣いて泣いて、私の方まで眠れないくらいだったのよ」
「え、と……あの」
「ああ、ごめんなさいね、ぶしつけに聞いてばっかりで。でも、一緒にいてあげることができなかった十年間のあなたのことを、少しでも知りたくて……あなたになにもしてあげられなかった母親のくせに、なにを言っているのかと思われるかもしれないけれど……」
「べ、別に、そんなつもりじゃ」
「ああ、ありがとう……あなたは本当に優しい子に育ってくれたのね、私はまるでその役に立てなかったけれど……嬉しいわ……うぅっ」
「あ、えと、その………」
 涙ぐみながらも笑顔を作り、矢継ぎ早に言葉を投げかけてくるその女性――自分の母親に、レウは内心『まいったな……』と困惑していた。なんというか、心底嬉しげであると同時に切なげで悲しげなこの女性に、どう応えればいいのかわからない。
 この女性が母親であることは理解できるし、彼女がほとんど自分を育てられなかった後悔を少しでも取り返そうと尽力しているのもわかる。ただ、その想いが自分にとってはどうにもずれているとしか思えないのだ。
 レウにしてみれば、それは子供の頃、ムオルで育てられていた時代には、寂しい思いもしたし苦しみや悲しみを心に抱くこともしばしばあった。けれど、それはもうレウにとっては昔の話なのだ。今はもうセオに助けられて、セオたちと一緒に楽しく旅をしているのだから、そんな嫌な思い出もまるで気にならなくなっている。
 それを気にして謝られても困るし、今自分が幸せなことに感涙にむせばれても戸惑ってしまう。今セオたちと楽しく旅をしていることに、後ろめたいような気持ちが混入してくるのも嫌だし、自分ではない人間にやたらと喜ばれるのも(自分の気持ちを勝手に解釈されるようで)居心地が悪いのだ。
 かといってこの人を傷つけたり嫌な思いをさせたいとは思わない。けれど正直な気持ちを伝えないのも嫌で、どうすればいいのか心底困り果ててしまっていたのだ。
 そんなレウの気持ちを察したのか、レウの母親は言葉の勢いを減じ、切なげに笑ってみせた。その笑顔から立ち上る悲しみに慌て、レウがなにかをなんとか言おうとするも、切なげな笑顔のまま首を振る。
「ごめんなさいね、レウ。私はあなたにとっては、ただあなたを産んだというだけの女でしかないのに、調子に乗ってしまって」
「ちっ……」
 違う、と言いかけて口ごもる。そう言ってしまえば身も蓋もないが、レウにとって正直な感情を端的に述べれば、そうなってしまうこともまた確かな事実だったのだ。
 レウの母親はそんなレウを悲しげな笑顔で見やり、ゆるやかに首を振って告げた。
「私はもう、死んだ人間よ。だから、あなたの邪魔だけにはなりたくないの。私の存在が、あなたにとって自由な羽ばたきを妨げる桎梏になるのなら……」
 すっ、とひそやかな動きで腕が伸びる。生命力を感じさせない、静かで淡々とした動きだ。
「――私は、あなたの中から、私の存在を奪い去る」
「え……」
「あなたの記憶から、私の存在を消し去るの。……今の私なら、それができるから」
「――――!」

 闇の中を一歩進むごとに、気力と体力が大きく削られていく。心臓が痛みを伴うほどに早鐘を打ち、呼吸は苦しく、手足は重く一歩歩みを進めるたびに激痛が走り、頭の中ではしじゅう割れ鐘が鳴るような痛みと疼きが走り思考を妨げる。
 それでも少しでも早く、少しでも先へと歩を進めた。この状況を打破する――仲間たちとまた出会う方法を、セオはそれ以外に思いつけなかったからだ。
 この世の理の上に在らざる幽霊≠スちの行為とその対抗策を、能力――どんなことができ今なにをしているか、という観点から読み解くことはできない。相手はなにができても不思議ではなく、どんな想いを抱いているのかも知りようがない存在だからだ。
 ただ、死した人≠ニいう大雑把なくくりで考えるならば、これまで文献や伝聞で見聞きした情報の集積から、一応の対応策は打ち出せる。咥えてここが森の神ケリオロの聖地であること。穢れなきその最奥に踏み込むためには、人は一度死して生まれ直さねばならないという伝承。さらに加えるならば、グリーンオーブが幽霊たちに取り囲まれながらもいまだ場所を移されていないこと。それらを考え合わせると、セオの思いつく対策はひとつだった。
 即ち、一度死ぬこと。
 正確に言うならば、生から死、死から生へと流転すること。それを幽霊たちに実感させること。それはひいては、死者に変化=\―『ここにしがみついていなくてもいいのだ』と教えることだった。
 これが必ずしも正解だとはセオは思っていない。死者になったことがない以上死者がいかなる感じ方をするのか推し量ることはできないし、そもそもこの地の幽霊たちが他の幽霊たちと同じ感じ方をする保証などもまるでない。
 ただ、これまでにセオが見聞きした幽霊の昇天にまつわる話において、セオに感じ取れたすべてに共通する必要十分条件は、『幽霊の執着の開放』だった。これは『神にすらその存在理由がわからない』幽霊も含むのか否か、はっきりしたことは言えないのだが、それでもあらゆる幽霊譚の解決方法が、『ここにいなければならない』と強く場所や時間にしがみつく幽霊たちの執着を、解放することなのは間違いない。
 テドンに住まう大量の幽霊たちの存在理由が、本当に現世への執着なのかどうかはわからない。ただ、セオに思いつく対処方法が、幽霊たちに『流転』、『変化』を『実感』させることくらいしかなかったのだ。
 そしてそれは、少なくともここテドンにおいては、聖地へ巡礼すること。ケリオロの聖地が元来有する生まれ変わりの信仰に添い、命ある者が、生の力と存在感を持つ者が、幽霊たちが繰り返していると思われる死と生誕の道を通ることだと思った。そうして幽霊たちに、命を、生の重みを伝え、本来命が流れゆく形を実感させて、自分たちの現世にしがみつこうとする気持ちを薄れさせることしか思いつかなかったのだ。
 その結果、セオ自身の命が本当に奪われてしまう可能性も、むろん考慮はしているが。
 それでも、前に進む。少しでも早く、着実に。自分が今できることは、仲間たちの役に立てることは、それだけなのだから。
 ――と。
 一瞬、意識が空白に奪われる。思ってもみなかった、突然の衝撃に心身が揺れる。
 どこまでも続く暗闇の中で、ぽつんと明かりのついた、小さな小屋が目に入ったのだ。いや、小屋というか、正確に言うならそれは、鉄格子と厚い石壁に閉ざされた、牢屋の形をしていて――その中に一人たたずんでいた人影と、目が合った。
 鉄格子を前にしゃがみ込んでいたその男性は(少なくともセオには男性に見えた)、セオと視線が合うと、驚愕に目を見開く。それから、いかにも感極まった、と言いたげな、安堵と歓喜と感動に満ち満ちた顔で瞳から涙をこぼしつつ、微笑む。
「ああ――よかった。私はずっと、あなたを、待っていました」

「ヒュダ母さんがどんな母親かも知らないで、偉そうなことを抜かすな。あの人は本当に、自分の利害なんて度外視してあっちこっちから子供を集めて、全員幸せに育てる、それこそ聖母みたいな人なんだ」
「あー気色悪い、本っ当に気色悪ぃったらないねぇ。こんなおっさんが自分の息子とか、呆れ果てるったらないよ。育ての母とはいえ自分の母親に、聖母? 気色悪さで反吐が出そうだ。曲がりなりにもまっとうに母親やってる女なんだったら、息子に聖母なんて思われて嬉しいわけがないってこともわかんないのかい」
 一瞬返す言葉に困る。ヒュダはいつ家に行っても笑顔で出迎えて歓迎してくれる――だが、自分が全力を振るってヒュダに尽くすことを、好ましく思っているわけではないのは確かだからだ。
「ほれ見な。あんたも心当たりがあるんだろう? だってのにそれに見ないふりして、育てのとはいえ母親相手に心酔して首っ丈になって。そんなおっさんを気色悪いと言わずになんて言うのさ? 一応八つまで育てたのはあたしだってのに、やれやれまったく、虚しくなってくるったら」
「っ、もう俺と関係のない人間に、そこまで言われる筋合いはないって言ってるだろう!」
「はっ、関係? そんなもん否応なくできちまってるってこともわかんないのかい。あんたがどれだけ今の母親を慕ってようがね、あたしがあんたを産んで、八つまで育てたってのは、いまさらどうしようもないこったろうに。それともなにかい? 今目の前にいるあたしを殺して、あたしから生まれたことも育てられたことも、みぃんな見ないふりをしてみるかい?」
「……っ、だけど、どう生きるかは選べる! どんな不本意な親から生まれたって、どう育つか、どう生きるかは子供が選ぶことができるんだ! 俺はヒュダ母さんの子だ、それ以外他になにもいらない! 他人から見て気色悪かろうが咎められようが、俺が選んだ人生を変える気はこれっぽっちもないっ!」
 息を荒げてそう言い切る――や、その女性はふっ、と煙管から煙を吐いて、くるりと背を向けた。
「あっそ。それならあたしも帰らせてもらうだけさ。こっちだってそもそも別に会いたかったわけでもないんだ。そもそも最初に帰りかけた時に、そのままに見送りゃあよかったものを、うざったく絡んできやがって」
「っ……」
「じゃあね、見知らぬお兄さん。店に来る時があったら贔屓にしておくれ」
「っ………!」
 ラグはぐっ、と唇を噛む。なんでだ、なんでこうなるんだ。ラグだって、別に喧嘩したかったわけじゃない。自分を産んでくれた母親に、感謝していないわけでも決してない。
 ただ、どうすればいいかわからなかったのだ。誰よりも大切な母親がいてくれる今になって、自分を産んで、八歳まで育ててくれた母親が出てくるなんて。
 ヒュダ母さんだったなら、こういう時、ごくあっさりと笑顔で相手を抱きしめることができるのだろう。『育ての母親と産みの母親、どっちも大好きでなにか悪いことがあるの?』なんて言って。それに反論する言葉をラグは持たないけれど、それでも、ラグはこの女性を、産みの母親として心の底からの感謝を込めて抱擁することはできない。
 ヒュダ母さんに、真っ当な育てられ方をした今から考えて、自分がどれだけ歪んだ育てられ方をしたか。さして質が高いわけでもない娼館で、娼婦がうっかり生んでしまった子供。娼婦たちには面白半分に可愛がられて玩具にされ、無理やり乳を含まされた。なにがなんだかわけもわからないうちに童貞は十にもならないうちに奪われていた。自分の母親は、そんな行為を止めもせず、手間が省けると一人で眠り込み、寝台に入ろうとでもすれば蹴り落とすような女だった。機嫌が悪い時は、酔いに任せて殴りつけられることだってしょっちゅうだったのだ。
 優しくされたことなんて一度としてなかった。愛されていると感じたことなんてなかった、それどころか愛なんて言葉も概念すらもその頃の自分は知らなかったのだ。ヒュダ母さんにたっぷりの愛情を込めて育てられるまでは。そんな相手を、ラグは、子供の頃ですら愛しているなどと一度も思ったことはない。
 だけど―――だけど………
「……なんだってんだい。この手は」
 背を向けて足早に歩み去ろうとするその女性の手を握り、引き止める。女性はこちらを見ようともせず、冷たい声でラグの肌を刺した。
「………引き止めてる、だけだ」
「はぁ? あんたに引き止められる筋合いなんてどこにあんのさ。あたしが母親じゃないってさんざん喚いておいて、掌返そうってのかい? 都合がいいにもほどがあるじゃないか」
「そうだ。その通りだ。それはわかってる……」
 自分だってあれだけ言い合いをして、その感情が治まってもいないのに、この女性の手を握るのは相当な精神力を振り絞る必要があったのだ。この女性が嫌がるのは当然だろうし、ラグだってこの手を振りほどいて、どこへでも勝手に行けと憎まれ口を叩きたい感情は、今この時もふつふつと湧き上がっている。
 でも。だけど。
 一度深呼吸をして、気を抜けば口ごもり黙り込んでしまいそうになるのを必死に奮い立たせ、舌と唇に無理やり力を入れて、その女性の背中に言葉を投げかける。たとえ自身の感情が、この女性を怒鳴りつけ追い払いたいと喚き立てていても。
「………あなたには、恩がある」
「はぁ? あれだけあたしに言いたい放題抜かしておきながら?」
「ああ、それも俺の本心だ、撤回する気はない。あなたに育てられてよかったなんて、俺は冗談でも言えやしないんだ。ただ……だけど………あなたは………」
 舌がもつれる。言葉が滞る。けれどそれでも、できる限りはっきり言い放つ。曲がりなりにもこの年まで生きてきて――そして『母親』だけにとどまらず人の縁にも恵まれてきたのだ、この尻込みする心は、自分の単純な怠惰と怯懦だとわからないわけにはいかなかった。
「俺を………産んで、くれて………一応でも、面倒でも、仕方なくでも、俺を、育てて、くれて………それは、心から感謝するってわけにはいかなくても、恩ではある、と思うし………」
「……ぐだぐだべちゃべちゃうざったいね、言いたいことがあるんなら一言ではっきりお言いよ」
「――あなたは、盗賊が襲ってきた時に、俺を助けてくれた。自分の命を、捨ててまで」
 その言葉を無理やり絞り出すと、あとの言葉はつるつると滑るような勢いで口から転び出た。
「だから、あなたは、俺にとっては、母親と心の底から呼ぶことはできなくとも、命の恩人ではあるんだ。それに感謝しないなんてそれこそ母さんに怒られるし、ヒュダ母さんに育ててもらったのにそれもできないほど狭量な男だなんて間違っても言えないからな。だからあなたに言われたこと自体は許していなくても、礼の言葉くらいは言っておくのが筋だろうし。俺だって心の中にまったくあなたに感謝する気持ちがないというと嘘になるしな。一応仇討ちくらいのことはしなかったわけじゃないし、それに」
「なんだって?」
 その女性は、ラグに手を握られ、それでもこちらを向かず背を向けたままの姿勢で、鋭くラグの言い訳じみた長広舌を遮った。反射的に口ごもってしまったラグに、その女性は鋭さの変わらない声で、一言ずつ叩きつけるように問うてくる。
「なにを、したんだって? あんたは」
「………仇討ち。あなたを殺した盗賊を、探し出して殺した。俺が十六の時に」
「…………」
「………言っとくが、別にあなたのためじゃない。単純に……俺が、苦しかったからだ。あなたが殺される時の光景を、箪笥の奥から見せられた光景を……俺に押しつけた奴がのうのうと生きている、と思うとたまらなく苦痛だったからだ。それだけだ」
「…………」
「俺を人殺し、と罵りたいならそれはそれでかまわない。実際に、俺は人殺しなんだからな。ただ、自分のために殺された人がいるなんて嫌だ、なんて言うんだったらそれは見当違いだと言わせてもらうぞ。俺はただ」
「………っ、っ………」
 その女性が、小刻みに体を震わせていることに気づいたのは、そこまで言いかけてからだった。
 ラグは驚きと困惑に目をそばだてる。注意して見ればはっきり見て取れるほどの震え。掌に触れた肌から伝わってくる熱。この女性の上げるか細い呻き声。三十路まで男をやっていれば嫌でもわかる。この女性は、今、必死に堪えようとしている涙を堪えられずにいるのだ。
「…………、………」
「っ………、………なに、黙りこくってんだい。言うことがないなら、とっとと手をお放しよ、あんたみたいなごつい男に手加減なしで握られちゃ商売道具に傷がつくだろうが」
「……女性の体に、傷をつけないための力加減もできないほど、未熟な戦士じゃない」
「うるさいね、いいからお放しったら。隣にいるだけで邪魔くさいようなデカブツにわしづかみにされるほど安い身体じゃないんだよ」
「別に、高くもないだろう。アッサラームでだって、別に、高い店に勤めてたわけじゃないんだから」
「うるさいねぇっ……」
「もう、いい。なにも言わなくて」
「っ……」
「いいから。……俺も、なにも言わないから」
「っ………、―――」
 その女性は、ラグに背を向けたまま、必死に堪え体を震わせながらも、何度も何度もしゃくりあげるような声を立てる。ラグも、女性をつかむ手が震えるのを、懸命に堪えなければならなかった。
 この女性のことは、自分は大切でもなんでもない。ヒュダはもちろんのこと、仲間たちに引き換える気なんて起こりすらしない。この女性だってラグのことは少しも大切ではなかったのだろう。お互い愛おしむことも、労わり護ることもまるでしてこなかった相手だ。
 ――けれど、自分はこの人のことを忘れない。どうしたって、忘れることはできないのだ。
 母親とはもう呼べない相手でも。顔を合わせれば喧嘩腰になってしまう相手でも。
 自分にとって、この人は、そういう存在なのだろう。たぶん、この人にとっての自分も。ぐっと喉の奥が熱くなるのを、無理やり押し込めながら、ラグの心は勝手にそう腑に落ちたのだ。
 それと同時に、どこからか、ふわりと暖かい光が差した。

「―――………」
 少年の、わずかに眉根を寄せながらロンを見下ろす眼が、ふと伏せられた。それでも少年から目を逸らさないロンから、わずかに視線を外す。無表情のまま。自身すら凍らせる無関心に満ちた顔のまま。――その瞳から、小さな滴が落ちた。
「…………」
 ロンは思わず目を見開く。予想外の反応だったし、感情だった。顔の表情をまるで崩さないまま、それでもなおわずかに涙をこぼす、こんな反応は考えていなかったのだ。
 それでも、少年は涙を止めない。ほとほととこぼれ落ちる涙をこぼれるままに、ぽつり、と小さく言葉を漏らす。
「―――なんにもなかった、人生だった」
「…………」
「俺の人生には、最初から最後まで、なんにもなかった。なにかをしてくれる誰かなんて、俺には覚えがない。物心ついた時にはもう母さんと二人きりで、それで、母さんはその頃からもう病気だった」
「…………」
「母さんから聞かされたのは、恨み言ばかりだった。俺を育てるために母さんはこんな風になったんだって。病を負って、苦しんで、自分の幸せを追い求めることもできなくなったって。全部お前を産んだせいだって」
「…………」
「人生で出会ったどんな人も、似たようなもんだった。街の鼻つまみ者たちの集まりのスラムの一因。『まっとうな』人間たちからは石を投げられたし、同じスラムの人間たちも気分次第でこっちを殴りつけ、持ち物を奪う、そういう連中だった。助けてくれる人なんて、どこにも、誰もいなかったんだ」
「…………」
「俺の、人生の終わりも、そうだった。魔族に利用されて、覚悟していたつもりだったけれど生きる権利さえ奪われて、勇者の仲間にすら助けてもらえないで、俺は、殺された。本当に、なんにもない人生だったんだ。母さんを助けようと頑張ったのだって、俺には俺に言葉を、罵り言葉でさえ向けてくれる人が他にいなかったからってだけで。母さん以外に、俺に『生きている必要がある』って思わせてくれる相手がいなかっただけで。母さんが好きなわけでもなければ、守りたいわけでもなかった。『母さんを守るため』っていう言い訳がなけりゃ、俺は生きようとすることもできなかっただけなんだ」
「…………」
「だから、母さんが今生きていても死んでいても、また会いたいなんて少しも思わなかった。―――だけど……」
 少年はのろのろと顔を上げる。震える舌を懸命に動かし、ロンに言葉を伝えてくる。伝えたいと――想いを知ってほしいと願う、その行為そのものがおそらく、この少年にとってはその短い生涯でただ一度だったのだろう。
「あんたは……俺の命を奪ったあんたは、俺に、『すまん』って、謝ってくれたから。俺を、少しでも……大切に、してくれたから。その後も、ずっとずっと俺のことを、気にしてくれたから。すまなかったって、申し訳なかったって、何度も悪夢を見るくらいに悔やんでくれたから。俺を、そんな風に気にしてくれる人なんて、俺の人生にはあんたしかいなかったから」
「………君は………」
「だから、俺には会いたい人なんて、あんたしかいなかったんだ。俺を殺したあんたしか。そして、あんたは……俺に殺されそうになってるのがはっきりわかってるのに、なにかしてほしいことはないかって、聞いてくれた。俺に、なにか、してやりたいって。俺に、与えたいって。俺を、ちょっとでも大切にしたいって、思って、くれたんだ………」
 ロンは全身の力を振り絞って、冷たい地面から跳ね起きた。今だ体にのしかかる重みを無視して、少年に駆け寄り、両腕を伸ばす。少年の体には肉の重みがなく、ロンの腕を霧のようにすり抜けたが、それでもロンは少年を抱きしめた。氷のように冷たく在りながら、形なくそこに在るかなきかも定かでない少年の体を。
 少年の瞳からこぼれる涙が量を増す。ぽろぽろ涙をこぼしながら、少年はロンを見上げ、掠れた涙声で強請った。
「もし、また生まれてくることがあったら……俺は、あんたの子供に生まれたい」
「ぜひともそうしてほしいところではあるが、それはできん。俺は子供が作れない体なんだ。だから、どうしたって君を俺の子として生まれさせてやることはできん」
「っ……」
「だから、俺はその代わりに、これからの人生で出会う子供すべてに優しくすることにしよう。困ったことがあれば手を貸し、苦難に陥っていれば救い上げよう。求めているものがあるのなら、俺のできる限りで与えよう。その中に、また生まれてきた君がいると思うから」
「ああ……」
 少年は呻き、その冷たく重みのない腕を、おずおずとロンの体に回した。ロンもそっと少年を抱きしめ直す。少年はぼろぼろ涙をこぼしながら、安堵しきった声で小さく漏らした。
「あんたって……本当に、優しい、人だ」
「君が優しくされてしかるべき人間だと思うからさ」
「………あり、がとう」
 か細い感謝の声を最後に、少年の体はふわりと宙に溶けた。
 そして同時に、どこからかふわりと柔らかい光が差した。

「なんで、そんなに、がんばるの?」
 五、六歳という、ほとんど幼児にしか見えない年頃の自分は、膝を抱え込み、茫洋とした目つきでそう、漏らすように呟く。フォルデはなんだこりゃ、なんだってこんな、と頭の中を大混乱に陥らせ――それと同時にどうにも抑えきれないほどむかっ腹が立ち、ぎっと目の前の幼児を睨みつけた。
「阿呆かてめぇは。頑張るもクソもねぇだろうが。自分じゃどうにもしようがねぇ相手に負けたくねぇなら、死に物狂いにならなきゃどうしようもねぇだろうがよ」
「だから、なんで、死に物狂いになんてなるの?」
「同じことを何度も言わせんじゃ――」
「がんばらなくたって、負けるだけなんでしょ。だったら、いいじゃない。負けちゃえば」
「っ………」
 ぎりぃっ、と音が立つほど奥歯を噛み締める。覚えている。こんなことを考えている奴らは、それこそいくらでもいた。
 なにをすればいいのか、どう生きればいいのか、そもそも生きなければならない理由も見つけられなくて、ただ周囲に言われるままに、流されるままに生きている奴ら。だから当然死に物狂いになることもまるでなくて、努力することも、自分にとっての障害と戦うこともしてこなかった奴ら。どうすればそんなことができるのか、ということさえ想像もできなかったのだと思う。
 つまるところ、生きる≠ニいうことがどういうことか、さっぱり理解できていなかったのだ。
「――てめぇは、負けてもいいってのかよ」
「うん。負けたって、だれかに怒られるわけじゃないんでしょ? だったら、負けた方が、ずっと楽だよ。勝ったら、周りに、目をつけられるかもしれないし。めんどうくさい、だけじゃない?」
 淡々と力の抜けた声でそう喋る、かつての自分をフォルデは睨みつけながら考える。自分は、いつこんな心境から抜け出して、今の自分になれたのか。
 負けること、退くこと、相手が自分より上だと認めてしまうことがなにより嫌で、命懸けて魂懸けて逆らわずにはいられない自分。そのためにならどれだけ汗と血を流し、苦痛にのたうち回ってもかまわないと言い切れる自分。他の奴はどうだか知らないが、少なくとも今の自分はそんな自分が嫌いじゃない。
 だから、今目の前にいる過去の自分は、気に入らないことこの上ないのだ。『負けてもいい』と言えてしまう自分。『面倒くさい』などという理由で戦うことを放棄できてしまう自分。そんな自分は、今の自分にとっては腹立ちと苛立ちの対象にしかならない。
 膝を抱え込んだまま、ぼんやりとした顔で視線を投げかける幼い頃の自分。それに睨むような視線を返しながら、フォルデは考える。今、目の前のこのクソガキになにを言ってやるのが一番効果的か。
 なんでいきなりガキの頃の自分が出てきたのかは知らないが、どうあれこのガキは気に入らない。根性を叩き直してやらなければ気が済まない。だがなにを言えば、その考えの甘さ、足りなさをうまく指摘できるか、その無気力な心を奮い立たせられるか、すぐには思いつかなかった。
 こいつが幼児期の自分だとしても、こういう奴の反応はだいたいどいつも同じだ。なにもかもが面倒で、やる気がなく、努力を強制されれば逆らいはしないままに誤魔化して、適当に楽に生きる以外のことなど考えようとすらしない。そんな奴に自分がなにを言っても、それこそ糠に釘だろう。自分は口がうまいわけでも、いいことを言えるような頭を持ち合わせているわけでもないのだから。
 だから、自分がこの頃から変わることができたきっかけを、なんとか思い出そうと唸っていたのだが――思い出せない。物心がついた時には、自分は今の自分だったという気がする。
 ただ目の前にいる無気力で根性なしのクソガキが、過去の自分であるという記憶もはっきりしているように思う。それがいつ、なにがあって変わったのか、思いつかないし思い出せない。
 忌々しく思いながら、目の前のクソガキが向けてくる茫洋とした視線に、殺気すら籠めた視線を返す――
 と、目の前の幼児は、少し居心地悪そうに身じろぎした。
「なんで、怒ってるの……」
「は? 決まってんだろうが。てめぇがまともに生きる根性も持とうとしやがらねぇからムカついてんだよ」
「だって……あんたは、俺と、ぜんぜん関係ない、相手のはずなのに……」
「なに抜かして……」
 と怒鳴りつけかけて、向こうにとっては目の前にいる男が十年以上先の未来の自分だ、などとは想像もつかないだろうと途中で止め、なんと言えばいいのか、しばし唸りながら考える。この根性なしのクソガキに、どう言えば自分の中の溢れ出しそうな怒りが伝わるのか。
 ぐっ、と殺気すら籠めて睨みながら、フォルデは懸命に考える。ロンをはじめとした仲間たちに、自分はものを考える頭がまるでないような扱いを受けている(ように思わせられる)時があるが、当然ながらこの年で考えることがまるでできないほど脳味噌がないわけではない。単にぐだぐだと考えてばかりいては機を逃すと知っているだけだ。
 だが、目の前のこの子供に伝えるべきことを伝えるには、必死に考えないことにはどうにもならない。なにかないか。最上の方策。最良の手段。この子供に世の中ってのはそこまで甘くないのだと叩き込んでやれる一番の方法――
 と、幼い頃の自分が、のろのろと身を退いた。こちらからそろそろと視線を逸らし、フォルデから遠ざかろうとし始める。
「……? なんだお前。なにしてんだ?」
「だ、だって……あんた、俺のこと、すごい顔で、睨むから……」
「…………」
 つまり、怖くなったわけか。ただ自分が睨んできただけで。フォルデは苛立ちが増すのを感じ、睨みつける視線を強くしたが、ふと気づき、内心で手を打った。それなら、そういう方向でやればいいのじゃないか。
「そうだな。俺はお前に腹が立ってる。それこそ、殺したってかまわねぇってくらいにな」
「ひっ……」
 びくっと震えて後ずさる子供に、フォルデはずいっと顔を突き出し言ってやる。
「今殺されそうになってるって時に、お前は言うのかよ。『負けてもいいじゃないか』ってよ」
「だ、って……それは、話が、ちがうし……」
「誰にでも負けてもいいっていうのは、そういうこったろうが。相手がどんな迷惑で理不尽な真似しても、抵抗できねぇってことだ」
「う……」
「そんな奴ばっかりじゃねぇと思うか? だがな、確かに全員が全員そうじゃあねぇだろうが、世の中にゃあ相手がちょろいと思えばがんがん押して、ぶったくれるだけぶったくろうとする奴はお前の思ってるよりずっと多いんだよ。戦って、勝たなけりゃ自分の取り分を守ることだってできやしねぇ」
「で、でも……戦ったら、目を、つけられちゃうじゃないか。目をつけられて、よってたかって袋叩きにされて、そうしたらどうしたって好き勝手にうばわれちゃうだろ」
「だから? いつか誰かを敵に回すのを怖がって、今奪おうとしてくる奴らの言うことをへぇへぇ聞くってか?」
「うぅ……」
「俺は、そんなのはごめんだ」
 殺気すら籠めてそう言い放って、妙に気分がすっきりした。言うべきことを言ったという心持。そうか、自分は単に、自分はどうなのか、ってことを言いたかっただけなのか、と我がことながらその単純さに内心思わず苦笑する――だが、それが自分なのだ、ともどこかで確かな満足と共に考えていた。
「俺は気に入らねぇ奴の言うことを聞くのも、そいつに頭を下げるのもごめんこうむる。だから戦う、そんだけだ。俺に気に入らねぇことをさせようとする奴ら全員と。そのためなら死に物狂いにだってなんだってなるさ、戦わなけりゃ一方的に奪われるのが目に見えてんだからな」
「で……でも、それ、すごく大変なんじゃないの? つかれたり、苦しかったりしないの」
「疲れようが苦しかろうが、気に入らねぇ奴に俺のもんを奪われるよりマシだ。それが腹の足しにもなんねぇもんだろうが知ったことか。俺ぁクソどもになんぞ俺のもんをひとっかけらもやる気はねぇんだよ」
「そう、なんだ………」
 子供はほぅ、となぜかひどく感慨深げな息をつく。とたん、その輪郭がふわりと緩んで、宙に消える。
 その時、突然気がついた。この子供は、昔の自分でもなんでもない。知らない子供だ。それをなぜか自分は、自分の子供時代だと思い込んでいたのだと。
 それに仰天し、混乱し、闇の中宙に浮いたまま驚き慌てていると、ふいにふわりと、どこからか静かな光が差した。

「――嫌だっ!」
 レウはきっと自身の母親を睨みつけ、大声で怒鳴っていた。彼女が驚きに目を見開き体を震わせるのを気遣う余裕もなく、自身の感情のままに声を張り上げる。
「なんでそうなるんだよ! 俺、あなたが嫌いだなんて一言も言ってないだろっ!?」
「だ、だけど……あなたが私に気を使って、自分の人生を謳歌できないのなら、私のできることは全部やらないと……」
「だからって俺は、あなたを忘れたいなんて一回も思ったことないっ! いや、そりゃ、あなたのこと俺全然知らないけどさっ!」
 きっぱり言うとレウの母親は明らかに傷ついた、という悲しげな顔をしたが、それでも意気を阻喪することなく言い切った。
「俺は、あなたに会えたこと忘れたくないよ! 俺を産んでくれた人と会えるなんて、せっかく普通ならありえないことが起きたのにさ! それをあっさり忘れちゃうなんてもったいなさすぎんじゃん!」
「も、もったいない……」
 なにやら愕然としているレウの母親に、レウはきっぱりうなずく。
「そうだよ。もったいないじゃん。こんなすごいこと普通ないのにさ。そりゃ、会えたからってなんか面白いこと話せるわけでもないけど」
「そ、そう、ね……」
「せっかくっ……会えたのに。……会えるなんて思ったことなかったのに、せっかく会えたのに」
 弾けかけた感情を抑えようと、うつむいて拳を握り締める。レウの母親がうろたえ慌ておろおろしている気配を感じ取るも、レウはしばらく顔を上げなかった。
 だって、本当にもったいないと思うのだ。普通なら絶対にありえない出会い。自分の人生に存在するはずのない時間。もう死んでいるとわかっている母親と、一時でも出会い話ができた。
 まぁ、だからといってその話が面白くなるかとか、他になにか面白いことができるかというのはまた別問題ではあるのだが、それでも、レウはこの時間を忘れたくない。
 レウにとって、『母親』というのは最初から存在しなかったもので、どんなものだろうと興味を抱くことはあっても、切実に求めることはしなかった。けれど、それでも――
「死んだ人の中で、あなただけは……会いたいって、俺が死んだ後でも、生まれ変わった後でも……一度だけでも、会いたいって思う人だったんだ。会って、なんで俺を産もうと思ったのかとか、どんな気持ちで俺を産んだのかとか、聞いてみたいって……だから、こんな、わけのわからない状況でも、会えたことを忘れたり、したくない」
「レ、ウ………」
「あなたは? あなたは忘れたいの? 俺と、会えたこと。きっともう、こんなこと二度とないと思うのに、俺と会えたこと、なかったことにしたい?」
「そんなわけっ……」
 うぅっ、とむせび泣きのような呻き声を上げて、その女性は駆け寄り、レウを抱きしめた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、レウ! 私は、本当は……母親になっていい人間じゃ、なかったの……! たった一人であなたを産んだのは、あなた以外に、これから産む自分の子供以外に、もう私にはなにも残されていなかったからなのよ……!」
「え……」
「私は、街から街へと旅をする浮かれ女だった。帰る故郷も、大元になる一族も生まれた時から一度も見たことのない、もう血の薄まりきったメイロデンノグサの末裔。言葉ももう故郷にいた人々とはまるで違う、そのことさえ私は母からの伝聞でしか知らない。その母もとうに死んで……私にはもう、一緒にいてくれる人は、家族は誰もいなくなっていた」
「…………」
「あなたを孕んだのは偶然だった。愛した人との子供が欲しいから励んで授かったっていうわけじゃ、全然なかった。それなのに、私、あなたを無理にも産もうとしたの。自分の子供なら、家族になってくれる。私を愛して、私と一緒にいてくれる人を新しく創れる。そのためだったら、片親のいない、貧乏な暮らしになることがわかりきってる中で、私みたいな女を母として生まれてくるあなたの苦しみなんて、見ないふりができてしまったのよ」
「……、………」
 結婚してないのに子供作ったのか、そこらへんどうやったのかわかんないな、と内心思ったものの、さすがに口を挟む気になれずレウは黙って母親の話を聞く。母親はぽろぽろと涙をこぼしながら、むせび泣きそうになるのを堪えながら訴えた。
「でも、それでも、私はあなたが欲しかった。私の味方、私の家族。私と一緒にいてくれる人。――あなたの家族になりたい、なんて考えなんて、まるで浮かびもしなかった。私は母親なのに。子供を愛して、護るのが仕事となるはずだったのに」
「…………」
「だけど、天が私を許さなかったのか、私はあなたを産んで力尽きた。お産があんなに苦しく、命を削るものだなんて思ってもいなくて。本当に、私は、嫌になるくらい子供で、未熟だったのよ……」
「…………」
「でも……そんなあなたが、立派に育ってくれた。勇者になって……勇者の先輩に見出されて、魔王征伐の旅に出るなんて、思ってもいなかったことになって……でも、あなたは幸せそうだった。毎日が本当に楽しそうだった。私はあなたになにもしてあげられなかったのに……私を見捨てないで、忘れたくないって言ってくれる、そんないい子に育ってくれた。私は、本当に……申し訳なくて申し訳なくて泣きたいけれど、それでもあなたが、なにもしてあげられなかった、産み捨てにしてしまったあなたが、幸せになってくれて、本当に、嬉しくて………」
 涙声で言ってから、目元を拭って、その女性は無理に笑顔を作る。レウの知らない顔、知らない姿で。――けれど、この人はたぶん自分の母親で、この人がいなければ自分は生きることができなかった。まるで知らない人なのに、ただ一人死んだ後に会いたいと思った人なのだ。
「ありがとう、レウ。私はもうあなたには会えないけれど……どうか、これから先も、幸せにね。あなたの進む先に、精霊の導きがあるよう祈っているわ」
「ぁ……」
 レウの母親の姿が、あっという間に消えていく。輪郭が空気に溶け、姿が色を失い、そこには最初からまるでなにもなかったかのように薄れていく。
 どうしようと焦る暇もない突然の消失に、レウは思わず、「母さん!」と叫んだ。最後にその女性、レウの母親の口元が、震えながらも微笑みの形を作って、そのまま空に掻き消える。
 数瞬、レウは状況をどう受け止めればいいかもわからないまま呆然とする。そこにふわりと、どこからか穏やかな光が差した。

「――あなたは?」
 じ、と視線を合わせてセオが問うと、その人は微笑みを崩さぬまま、うんうんと何度もうなずいてみせた。
「私は、グリーンオーブの守護者。……といっても、もとはと言えばケリオロ神殿の宝物庫の管理人に過ぎない人間でした。それが魔王襲来の際に命を落とし、幽霊となり……そして、このグリーンオーブが世界を救うための必需品のひとつであり、魔物たちには断じて触れさせてはならぬものだと、神の啓示を受けたのです」
「……あなたに直接、神が啓示を下したんですか?」
「いいえ、どうやら私は、グリーンオーブを護るべく神々から遣わされていた守護者と、同化してしまったようなのです。おそらくはケリオロの眷属たる神獣だったのでしょう。死して幽霊となり、まだ死の恐怖から脱せずうろたえ慌てている時に、神獣は私を食べました」
「食べ……?」
「ええ、食べました。この地に遣わされていた神獣は、霊体を噛み破る牙を備えておりましたので。私は神獣に噛み裂かれ、飲み下され――どういうわけか、神獣の体を乗っ取り、元の人の姿を取って復活したのです」
「そう……なん、ですか」
 通常なら考えられない話だ。神獣と呼ばれるほどの獣ならば、内包する力も通常の生物ではありえないほどの段階に至っているはず。それをあっさり内部から乗っ取った。神々からすれば、『幽霊』たちを警戒するに足る、というよりは否も応もなく警戒せずにはいられない事件だっただろう。
「はい。そしてその時より、私の心には始終神の声が響き渡るようになりました。神々は幽霊という不確定要素によって、グリーンオーブに変質が起こることを恐れていらっしゃいました。それがゆえに、私は他の幽霊たちに宝物庫に近寄らぬよう願いつつ、結界を張ってグリーンオーブと共にその中に籠ることとなったのです」
「幽、霊の方々と、意志疎通が、できるんですね」
「はい……幽霊たちの中には、いまだ自身が死んでいることを理解せぬ者も多いのですが、それでもグリーンオーブを護れという神からの啓示があったという事実を知り、多くの幽霊たちが見回りに精を出してくれるようになりました。……その結果、ケリオロ神殿への参拝の道が霊的に強化され、道を歩むだけで擬似的な死と新たなる生誕を体感できるようになり、村に住む幽霊たちの多くが死と再生を繰り返して、記憶も想いもいくぶん漂白されるようになってしまいましたが……」
「…………」
「けれど、私にとってはむしろありがたいことでした。グリーンオーブは神々の認めた、世界を救う者のみに手渡されるべきもの。ここに来るまでの道で死≠ノ近づき、死≠ノ親しみ、命を削られていく恐怖に耐えきることもできぬものに、グリーンオーブを手にする資格はありません」
「…………」
「そしてさらに、死≠ニ生誕≠フ間にある道は、半ばこの世に在らざるものとなりました。その道を通る者の多くは、自分の思う死≠ニそこにまつわる執着に――すでに死した近しい人に、死したことを知りながらまた会いたいと願う人に巡り会うこととなるのです。死した人に執着を持っていないのであれば、死した者の中で執着を抱きうる相手――『もう一人の自分』、『釦の掛け違えでこうなっていたかもしれなかった』とその人が思う人間に出会います。多くは、それを過去の自分と誤認して」
「…………」
「死≠ニ生誕≠フ恐怖に耐えることができても、その思い出に足を止めてしまう者も少なくありませんでした。出会う相手が、真にこの世に呼び出された死した者の魂なのか、自らの心の中で勝手に合点されてしまう幻なのかは、わかりませぬが。……死したのち魂がどこに行くのか、生まれる者の魂はどこから来るのか、それは神々にとってすらいまだ解き明かされぬ謎でありますゆえに」
「…………」
「長話をご容赦ください。私にとっては、少なくとも現世においては最後となる会話なのです。この地の謎と呼ばれるであろうものの因果を、少しでも勇者さまにお伝えしたく思いまして」
「……あなたは、グリーンオーブを渡せば、自分は消滅するとお思いになっているのですね」
「ええ。そしておそらくはテドンの幽霊たちも解放されるでしょう。魔王バラモスに殺されたこの地の人々の魂は、神々のご慈悲を賜ることでしかしかるべき場所に向かうことはかないますまい。あなたがなされようとした、幽霊たちの穏やかな昇天の達成です」
「…………」
「それでは……受け取っていただけますな。結界を開かれた勇者である、あなたにしかお渡しできぬ宝物。虚空を渡る不死鳥ラーミア復活の鍵のひとつ。グリーンオーブにございます」
 その人はそう言ってひざまずき、セオに向けて懐から取り出した緑色の宝珠を掲げる。細工や明度からしても、これまでに得てきたオーブと同様の宝物、グリーンオーブであることはまず間違いがないだろう。
 その人を閉じ込めていた牢獄の鍵がかしゃりと音を立てて開き、扉が軋みながら誰に触れられることもなく道を開ける。それでもオーブを掲げたままのその人に、この牢獄の扉は結界の封印の最後のひとつなのだろう、と乱暴ながらも見当をつける。
 セオは小さく息をつき、一歩前に踏み出してから膝をついて、ひざまずくその人の上に立たないようにしながら、「それでは、受け取らせていただきます」と静かに告げてオーブを受け取った。
 その人は、にっこりとさも嬉しげに、感慨深げに笑ってそれを見つめる。この人にとっての宿願、存在を懸けても成し遂げたいことは、間違いなくこれだったのだと、セオは理解する。
 そして、そこにふわりと、どこからか密やかな光が差した。

『……………!』
「あ……あれっ!? え、なに、どーいう……あれぇ!?」
「……つまり、これはあれか。ガルナの試し≠ニ同じようなことになったわけか」
「そういう、ことだろうな……なんというか……まぁ、全員無事でよかった、って言えばいいのかな……」
「………っつか、さっきまで夜で、幽霊どもがそこらじゅうを歩いてたってのに、なんでいきなり朝になってんだよ。わけわかんねぇったらねぇぜ……」
 気がつけば陽のさんさんと降り注ぐ中、並び立っていた仲間たちと顔を見合わせる。実際にどれほど時間が経っているかはまだわからないが、セオの体感時間でならば、暗闇の中参拝の道を歩いていた時からさして時が経った気はしないのに、テドンの村は眩しい陽の光に包まれ――廃墟へと姿を変えていた。壁には蔦が這い、ほとんどの家屋は打ち崩され、そこら中に人の骨が転がっている、魔物に襲撃され滅びた姿のまま時を経た集落だ。
 セオは自身の手の中のグリーンオーブを見つめ直し、考える。グリーンオーブの守護者の告げた言葉、そしてセオが見たもの、感じたもの。それらを思い出しながら、懸命に。
「つかよ……お前ら、さっきまでなに見てた?」
「……つまり、お前もさっきまで奇妙なものを見ていた、ということでいいんだな?」
「ああ……まぁな。なんか、最初は暗闇の中を、なんかえんえん落ち続けてて。それがいきなり止まったと思ったら、俺のガキの頃……みてぇに、最初は見えた奴が出てきて、話しかけてきてよ」
「最初は見えた、か。途中であれこれ姿を変えでもしたのか?」
「いや……なんつーか、消えた後に突然、こいつは俺じゃない、ってわかったっつーか。消える前までなんでか『こいつは俺だ』って思い込んでたっつーか……」
「へー、フォルデはそーなんだ。俺はなんか、母さんが出てきたけど」
「………母さん?」
「うん、俺を産む時に死んだ母さん。顔も名前も知らないんだけど、なんでか母さんだってわかったんだよな。なんていうか、変な感じだった。会えたのはよかったって思うけど」
「……そうかよ」
「………あー、レウ………」
「ラグ兄とロンはどんなの見たの? セオにーちゃんは?」
「あー、っと……な」
「………そうだな。それは……」
「なに口ごもってんだよー。なんか言いにくいことでもあんの?」
「いや……別に、大したことじゃない。俺の、二十年以上前にもう死んだ……産みの母親が出てきたってだけだ」
「俺は―――そうだな。サマンオサで出会った、死んだのをこの目で見た子供が出てきた」
「そうなんだ……な、それじゃセオにーちゃんは?」
「レウ……ごめん。その前に、少し、別の話をしても、いいかな」
「え? うん。いいけど?」
 セオは仲間たち全員の顔を見回す。まだ考えは完全にはまとまっていない、だが少なくとも今、この地を離れるのが得策でないことはわかる。
「――みなさん。申し訳、ないんですけど。また夜まで、テドンに留まっていて、いいでしょうか」
「は? なんでだよ。お前が持ってんの、その……グリーンオーブってやつだろ? ここに来た目的は果たしたんじゃねーのかよ」
「はい。だからこそ、なんです。ここで確かめなくては、ならないことと――考えなくてはならないことが、あるので」

「……ふん。少なくとも、守護者だなんだと抜かしてやがったっつぅ奴の考えは大外れだな。神どもとつるんでやがる奴に似つかわしい頭のあったかさだぜ」
 そう忌々しげに吐き捨てた、フォルデの視線の先。陽が落ち、天に輝くのが月明かりと星明かりのみとなった時刻の、テドンの村内には、昨日同様人が満ちていた。いくつも焚かれた篝火が照らす中、穏やかな表情で言葉を交わしながら行き交う数えきれないほどの人々――幽霊たち。
 その様子は昨日、自分たちがグリーンオーブを手に入れる前といささかの変わりもなく、彼らにとってグリーンオーブが人の手に渡るか否か、ということと何故ここに存在しうるか、ということにはいかほどの関わりもない、ということは否応なく知れた。神々の存在とも、神々が許しを与えるかどうかということとも、まるで関係なく今ここで道を歩く人々はここに在るのだと。
 グリーンオーブの守護者が今どうしているかということは気になるが、少なくともセオは今それを確かめるつもりはなかった。グリーンオーブの守護者が言っていたが、ケリオロ神殿への参拝の道は死≠ノ近づく道であることはおそらく間違っていない。今の自分はサイモンの魂を呼び起こす過程で、大きく死≠ノ近づいてしまった身だ。少なくとも魔王と相対する前にこれ以上死≠ノ近づくことは危険が大きい。
 その必要があるのならともかく、自分のわがままで命を投げ捨てるわけにはいかなかったし、なにより今のセオでは、この幽霊たちをどうすれば開放することができるのか、その手立てがまるで思いつかないのだから。
 神殿への参拝の道を通ることは、確かに生から死への流転の道をたどることに近しかったと思う。セオ自身の肉体が実感を持ってそう主張している。だが、死から生への流転を越えられるほど、今のセオはこの世界の常識を逸脱できていない。そもそも最初からわかっていたことではあったのだが、いかに数多の幽霊たちが通っていようとも、一本の道を歩くだけですべての幽霊たちに実感を伝えられるほど注目されていると思うのは、あまりに自意識過剰が過ぎる。
 それを承知の上で昨日はああするしかなかったとはいえ、今の自分ではテドンの幽霊たちを解放するには力不足であるということも、昨日の経験からよくわかったのだ。方策もなく当ても自信もない状態で、冒さなくてもよい危険を冒すほど、セオは思い上がってはいなかった。自分には、少なくとも『セオ・レイリンバートル』というこの自分自身にしかできないことがある、と考える人々がいるということも知っていたのだから。
「ま、幽霊たちが相変わらず闊歩してくれいて、助かったというのも確かだな。テドンの幽霊たちの只中ならば、神々の目が届かないというのはおそらく間違いのないことだし。今俺がSatori-System≠ニ接続することができないこともあるが、魔力や呪文を使ってどれだけ細密に探っても、今俺たちに注意を向けられているという気がしない」
「はい」
 セオはこっくりとうなずく。それこそが、セオが夜になるまでなにも言わずに、仲間たちをテドンに引き留めた理由だった。グリーンオーブの守護者の言っていた、心に『始終神の声が響き渡る』という言葉に奇妙なものを感じ、考えたのだ。自身を喰らった神獣を乗っ取った幽霊に、神々の側から接触があるとは思えない。ならばその神の声というのは、なぜ存在することができているのか、神々にすら定かならぬ、この世の理の上に非ざる幽霊の常識を超えたな力をもって、守護者と自らを任じた幽霊が一方的に聞き知ったものではないのか。つまり逆に考えれば、テドンの幽霊たちの存在は、神々の自分たちに対する監視の目を外させる、攪乱の役目を果たしてくれるのではないか、と。
 これを話すことができたのも陽が暮れて幽霊たちが道に溢れ出してからだったが、仲間たちはセオのその考えに納得をしてくれた。――神々に知られたくない話をする、格好の機会だということに。
「それで? 話ってのはなんだよ。ま、尋常な話じゃねぇってのはわかってっけどよ」
「なんかすっごい大切な話なんだよね?」
「俺たちがその話の相手に相応かはとにかく。できる限り頑張って聞かせてもらうから、どうぞ話してくれていいよ」
「………はい」
 セオは再度うなずいて、一瞬自分の組み立てた考えを再確認する。抜けがないか、矛盾がないか、思い違いをしていないか。
 その確認を経た上で口を開く。これは、たぶん自分たちにとって、これまでの旅にも、これからの旅にも大きく関わってくる話なのだ。
「あくまで、俺の推測として、聞いていただけるでしょうか。神々が、俺たちをどう動かすつもりでいるかについて、ある仮説を思いついたんです」
「………なんだと?」

『システム=c……?』
「はい。神々が俺たちを動かそうとする、意図の根本には、それがあるんじゃないか、と思うんです」
 自分が見たもの――結界の中のグリーンオーブの守護者と称する者との会話を詳しく話したのち、セオが告げた言葉に、仲間たちは困惑の表情を浮かべた。
 それも当然だろう、と内心うなずく。この仮説は、見聞きした情報から推論に推論を重ねた当てにならないことこの上ない話でしかないのだ。
 ただ、この仮説に基づいて神々の思考を追考してみると、これまでの推論で生じた矛盾や疑問がきれいに解消されることを考えると、少なくとも仲間たちの意見は聞くべきだと思った。ことによると、神々の策謀への対抗策ともなりうる、とセオには思えたのだ。
「いや、つーかそのしすてむ? ってなんだよ。どっから出てきたんだ、聞いたことねぇぞそんな言葉」
「いや、あるぞ。サマンオサで、サヴァンが神々の成り立ちを説明する時にちらっと出た。まぁちらっと出ただけで誰もまともに聞き咎めなかったから、お前が忘れているのも無理はないが」
「ぬぐっ……」
「うー、俺もあんま覚えてない……セオにーちゃんに聞き直して書いてあんのに。なんかそんな言葉あったような気もすんだけど……」
「俺も正直、覚えてないな……つまり、そのくらいさらっと紛れ込まされた言葉なわけか」
「まぁな。ただ、エリサリがそれを話題にするのを遮らなかったところをみると、少なくとも俺たちに秘しておかねばならないほどのことではない、と俺は考えていたんだが」
 ロンの言葉に、大きくうなずく。セオも同じように考えていたからだ。
「はい。俺も、そう思います。少なくとも、神々にとっては、俺たちに知られても、知られなくてもどちらでもいい、話であることは間違いない、って。ただ、俺はそれは、『知られたところでどうにもできない』と思うほど、神々にとってシステム≠ェ絶対である証左かもしれない、とも考えられる、と思うんです」
「……どういうことだい?」
「サマンオサで、サヴァンさんは、こう言っていました。『システム=\―そう呼ばれる存在が、すべてを創り出し、今この時も世界を保ち続けている』『神という者はみな、そういうものなんだ。システム≠ノ神としての、世界の管理者としての権限を与えられた存在』って。システム≠チていうものが、具体的にこの世界でどう存在しているかはとにかく、神々にとってシステム≠ニいうのがこの上なく、重要性の高い代物であることは、間違いない、と考えられます」
「それは……そう、だよな、うん」
「それに加えて、俺は先ほどお話した、グリーンオーブの守護者の言葉を考え合わせると、ある仮説が立てられる、って思ったんです」
「仮説?」
「はい。――神々は、あらゆる行いをシステム≠ノ従って行っている、と」
『…………』
 セオの言葉に、ラグは眉を寄せ、ロンはぴくりと目蓋を動かし、フォルデはがりがりと頭を掻いた。レウは一人きょとんと首を傾げて、「それってどーいうこと?」と聞いてくる。
「え、えっと、ね。これまでに、何度か話題に出た、よね? 神々の作戦には、奇妙なほどに、隙がある、って。こちらをうまく操ろうとしているそぶりを見せるのに、そのやり方があまりに不徹底で、まともにこちらを操ろうとしているとは、思えない、って」
「……単純に自分たちの言うことならなんでも通って当然、っつーあったかい脳味噌してるっつー可能性だってあんだろ」
「その可能性も、もちろん、あります。ただ、サドンデスさんを、そして勇者を、あれだけ警戒して、自分たちから遠ざけようとしているのに、そんな相手に対しても、自分たちの権威が無条件に通用する、と考えているというのは、思考としておかしい、矛盾している、と俺は考えました。神々は、世界中から、『世界を保ち続けるという職務を未来永劫続けられるか否か』、それのみを基準として選出される、とサヴァンさんは、言っていましたよね? それなのに神々すべてがその矛盾を、自分たちの命の危機に直結しかねないのに無視できてしまうほどおかしな思考回路を有している、というのは確率的に、極めて低い、と思うんです」
「む……」
「これまでは、その矛盾を説明できる、妥当な理由が見つかりませんでした。ただ、こう考えるとそれに説明がつけられる、と思うんです。――世界のすべては、システムによって運行されている。この先の未来もすべてシステムによって定められている。ゆえに、どれだけ世界の中の存在が予定外のことを成そうとも、最終的にはすべてはシステムに定められた結果に終わる、と」
『………はぁっ!?』
 驚きと、それ以上に困惑を表情に乗せて仲間たちが声を上げる。その反応も当然だろうとうなずきながらも、セオは言葉を続ける。
「まず、疑問に思ったのは、グリーンオーブの守護者と会うことが、できたのが俺一人、ということです。みなさんは、守護者の言葉通り……もう亡くなった、ご自身と縁深い方と、会われていたんですよね?」
「……ああ」
「俺は知らねぇガキだったけどな……なんでか昔の自分だって思い込んでたけど」
「それについても、守護者の言葉と整合していることは、確かです。ただ、俺が気になったのは、『なぜ俺だけがグリーンオーブの守護者に会うことになったのか』ということなんです」
「は……? どーいうこったよ」
「守護者の言葉に嘘がないのなら、俺だけが守護者と会うことになった理由が、どうにも不鮮明であるように思うんです。なぜ俺だけが、このパーティの中で特別扱いされたのか。この世の理の上に非ざる幽霊たちに。勇者であることを理由にするならば、レウも一緒でないのはおかしいですし、単純に無作為に選ばれたのだとしたら、守護者の言動に違和感がある。少なくとも守護者が、俺だけを特別扱いしていたのは確実です」
「……それで?」
「参拝の道は、幽霊の存在によってこの世ならざる世界に、陥っていたのは間違いのない事実です。そんな場所を通り抜けて俺が守護者と会えたのは、たまたまという可能性ももちろんありますが、俺とみなさんが見たものの違いから考えて、最初から別枠扱いだった可能性の方がやや高い、と俺は思いました。では、それはなぜかって、いろいろ考えて、みたんですけど……」
「―――ああ」
「俺に思いついたのは、俺が『オルテガの息子』である、ということなんです」
『はっ?』
 仲間たちがぽかんと不意を討たれた表情で声を揃えるのに、セオは一瞬思わず目を伏せた。こんな言い草は仲間たちにとっては、無礼かつ一方的な話に違いない。ただ、それは疑いなく、これまで見てきた事物を矛盾なく説明できるひとつの見解ではある、とセオには思えたのも確かなのだ。
「以前、ロンさんがオルテガについて、賢者の力で調べた時に、奇妙な結果が出ましたよね。『オルテガ』という存在には、厳重な防壁が張り巡らされている、って」
「あ、ああ、そういや……」
「え、もしかして……それで?」
「はい。俺だけ≠特別扱いする理由というのは、それぐらいしか思いつかなかったんです。それは同時に、オルテガという、既に死んだはずの人間に対して強固な防護を施す理由にも関わってくるのではないか、と。というか、そういう理由でもなければ、オルテガが特別扱いされる理由が、思い当たらなかったんです」
「え? なんで? だってオルテガのおじさんってすっげー強ぇし、格好よかったのに」
「この世界に、勇者は一人じゃない。オルテガの時代にも他に何人もいたし、今現在も複数いることは、俺たち自身が見てきている。なにより、レウ。君という俺たちと一緒にレベルを上げている、身も心も本当に強い勇者がいるのに、テドンはそれを無視して、俺だけを選んだ。これはつまり、選出の基準が勇者だとか、強いとか、そういうことではない、という傍証になる、と思ったんだ」
「んんん……うーん……」
「オルテガと、俺が特別扱いされるのは、勇者だからでも、強いからでもない。そして、少なくともオルテガは神々にとって、もう死んだ勇者のはずなのに、他の誰より、特別扱いされる理由を有している。それはなぜか、と俺は考えて……少なくとも、今俺たちが得ている、情報で考えつくのは、『神々の重んじている、ないし神々よりも上位に存在する誰かがオルテガを重んじているから』ということくらいだったんです」
『…………』
「そして、それを愚直に適用した場合、テドンの幽霊たち、神々の創りし世の理の上にない存在が、俺を特別視する理由が、俺がオルテガの息子であるためならば……その『神々よりも上位の存在』は、神々の世界の理を超えた者すらも重んじざるをえない存在ということになる。――俺がこれまで見聞きしてきた情報を使用して、その存在を定義するならば、神々を、そしてこの世界の根本を創生せし存在――システム≠ニ呼ばれる代物ぐらいしか思いつかなかったんです」
『…………』
「もちろん、これは仮説です。あくまで、こうして言葉を当てはめていけば、矛盾がなくなるというだけの。ただ、この仮説を基に思考を敷衍していけば、神々が俺に対して打つ手の微妙さには、説明がつけられます。そして、それに向けた対抗策も」
「……とりあえず、話してみてくれるかい」
「はい。システム≠ェオルテガと俺を重んじる――というか、システム≠ノは感情も意志もないということでしたから、その目的――世界を保とうとすることに重要な役割を持つ、ということになるんでしょうけれど。その理由を、明白な根拠と共に例示することは、今の俺にはできません。言えるのは、ただの仮説です。けれど、システム≠フ目的意識にブレがないとすると……サヴァンさんの言葉通りの存在と解釈するならば、そうならざるをえないんですけど……普通に考えれば、魔王への対抗策として重要である、とするのが尋常な思考だと思うんです」
「魔王? ……どこからそんな考えが出てきたのか、ぜひ聞かせてもらいたいな」
「エリサリさんは、こう言っていたんですよね? 『魔王というものは本来ありえない力を持った魔族』、『通常在りえざる能力、存在すべからざる力を持ち、世界の律を歪める者』って。サヴァンさんは、システム≠ェ、神々の選出基準としているのは『世界を保ち続けるという職務を未来永劫続けられるか否か』と言っていました。そして、神々は現在魔王を放置する方針でいるとも」
「……それが?」
「サヴァンさんの言葉によると、それは『この世界を護っている結界は、この世界に生きているすべての生きとし生けるものが、時にはある程度不幸になっていてくれないと効力が落ちる性質を持っている』ため、ということのようでした。本来、神々が対処すべき異端、それすら放置する理由がそれなのだと。サマンオサの偽王と同様に、魔王も放置しているだけなのだと」
「だっから、それがどうしたよ。神どもの脳味噌が腐れきってるっつー話でしかねぇだろうが」
「というか、それについてはサドンデスの依頼の時に話し合っただろう? 意図が見えない、なにか隠していることがある、って」
「はい。でも、改めて思い出して、考え直してみて、気づいたことが、あって。――サヴァンさんは、サマンオサの偽王に対しては、こう言ったんです。『調整しながら』放置しているって」
「は……?」
「魔王に対しては、『調整』もなにもつけずに、ただ『放置』しているって言っただけでした。もちろんそれは、ただの言葉の上でのことで、実際には違いは、ないのかもしれません――けれど、サヴァンさんはあの時、できる限り正確に言葉を使っている、と俺には思えました。神々が他に行ったことに対しては、『なんのために』『どうやって』『なにをしている』のか、話してくれた。それを思い返すと、もしかしたら? という疑問が湧いてきたんです。もしかすると、魔王に対しては、本当になにもせずに放置しているのかもしれない、って」
『…………』
 仲間たちの表情が少しずつ厳しくなっていくのがわかる。緊張で心臓が冷たくなるのを感じるが、それでもできる限り正確に、わかりやすく伝えようと言葉を紡ぐ。
「魔王のことは、世界を混沌から守る結界のための一手段として、挙げられただけです。ただ、それでも、サマンオサの偽王に対して調整を行っていたのに、魔王に対して調整を行わないのは、不自然です。それを改めて考え直してみて、思ったんです。システム≠ェ、神々に、『魔王に対しては手出し無用』と示したのかもしれない、と」
「は……?」
「システム≠ニいう代物の在りようが、まだわかっているわけじゃないんですけど。ただ、意志も感情もなく、世界を創り出し保とうとする機構であるという話からすると、ある程度の想像はできます。少なくとも、神々はある程度そこから情報を引き出すことはできると思うんです。それが命令という形か、神々自身の意思に従い供されるものかは、まだはっきりとは言えませんが。けれど、おそらく、神々の行為に対して、あれこれ文句をつける存在ではない。そうでなければ神竜の反乱や、神竜の力を利用するための策謀を掣肘しないのは奇妙です。神々の世界を揺るがしかねない、ひいては世界の運営に支障をきたしかねない行為なのに」
「それは、そうだろう……ね」
「ただ、こうは言えると思うんです。通常時の世界の運営は、システム≠ヘ関わることなく、神々の裁量に委ねられている。でも、システム≠ェ重要視する、絶対視する物事に関しては、神々も同様に絶対視する。……もちろん、ただの仮説、ですけれど」
「つまり……こういうことかい? そのシステム≠ニやらは、魔王とそれに関わる事柄……勇者オルテガとかを、重要視している。だから神々は、それにはできる限り触れないでいようとしている」
「いや……もしかして……セオ、君はこう言いたいのか? 魔王と勇者オルテガは、この世界の根幹にかかわる存在だ、と」
『は………?』
 ロンの言葉に他の仲間たちはぽかんとするが、セオは大きくうなずいた。
「はい。俺は、そう思うんです。ことによっては、それこそこの世界がそのために作られたのかもしれない、というほどに」
『はぁぁぁ!?』
 仰天した声が上がる。ラグもフォルデもレウも、それぞれわけがわからないという顔で反論してきた。
「いやいやいや、それはいくらなんでも……! そりゃ魔王は世界を滅ぼしかねない存在なのかもしれないけど!」
「だからってそのためにって……ねぇだろ、んな阿呆な……労力の無駄にもほどがあるだろうがよ! どっからんな話に……」
「え、それって、もしかして、世界ってセオにーちゃんのためにできたってこと? え?」
 混乱をあらわにする仲間たちに、セオはできる限り冷静に、ひとつひとつ説明していく。
「もちろん、これはただの仮説で、根拠はなにもありません。ただ、この考えを進めていくと矛盾がなくなる、というだけです。たとえば、神々とサドンデスさんの依頼が、ああも安穏としていたことですけど。サドンデスさんにとっては、以前の結論通り、試金石――俺たちと同時に、神々の反応を窺うためのものであるがゆえ、ということになるでしょう。そして神々については、そもそも俺たちが魔王を倒すまではサドンデスさんに対処することはない、と『知っていた』ため、と考えられます」
『は?』
「システム≠ヘこの世の理の上にない、幽霊たちすらも動かせる存在。つまりそれは、勇者にその力を授けるという天であり、そしてこの世界を――その未来を、予測しうる存在ではないか、と推測できるんです」
『は―――!?』
「完全な未来予知が可能なのかどうかは、わかりません。少なくとも、神々が自由にその情報を、引き出せるわけではない。そうでなければ神竜の反乱等々の、天界の乱れは起きるはずがない。ただ、極めて重要な情報――この世界の根幹に関わるもの、すなわち魔王や勇者オルテガについては、その未来予知は完全なものである、と神々は考えているはずです」
「な、なんでっ? なんでそうなるの?」
「そうであるならば、俺たちに手出しをしてこない理由がわかるんだ。『勇者オルテガの息子が魔王と戦う』こと、これが神々にとっての確定事項であるならば、神々はその件に方がつくまで世界、ひいては自分たちの安全は確保された、と考えると思う。システム≠ノよる情報はおそらく断片的なものだと思うけれど、たぶん俺たちと魔王の決着については明確だから、そうはっきり確信が持てるんじゃないかな、って」
『…………』
「それは逆に言うと、魔王との決着がつくまで俺たちに過剰な手出しをすることはできない、ってことにもなります。システム≠ノよる情報が断片的だと思うのは、そこからなんです。一から十までわかるわけじゃない、でも最終的な、ないしいくつかのエピソードはわかっている。だから神々は、俺たちにある程度干渉し、エピソードが終わったあとの俺たちをなんとか動かせるような布石を打とうとはしているけれど、その行動を完全に縛ることはしようとしない」
『…………』
「サドンデスさんは、そのことをある程度は知っているけれど、おそらく完全な情報は得ていない。だから神々に対抗するように、俺たちにあんな依頼をしてきたんだと、思います。神々の反応から、少しでも情報を引き出すために」
『…………』
「ただし、重要視されるのは『セオ・レイリンバートル』ではなく、『勇者オルテガの息子』なはずです。俺の持つ属性が重要なのであって、重要視されるのが俺本人だとは、神々にも確証はなかった。だからこそ、俺たちに対する監視の目として派遣する人材についても、旅の初期には手控えというか、こちらに歩み寄りができる人材を選んでいたんです。その働きに遊びを持たせて、どう転んでも行動の修正が容易に可能な、まだ任に着いて間もない異端審問官を」
「いや待てよお前、オルテガの息子ってお前しか――」
 言いかけたフォルデに、じっと想いを込めて視線を投げかける。フォルデは数瞬怪訝な顔をしたが、すぐにはっと気づいて口に手を当てた。――そう、自分たちはすでにその件、『勇者オルテガの息子』が自分以外にも存在する可能性については論議しているのだ。
 ただ、セオは、レウにとっては一方的なおせっかいかもしれないと理解してはいても、それを今レウには告げたくはなかった。フォルデに感謝を込めて目礼したのち、話を続ける。
「つまり、神々は、魔王との決着が着くまでは俺たちに具体的な手出しはどう転んでもできない、と思うんです。ジパングで、ヤマタノオロチを倒す時に、安全圏から呪文を放つような邪魔――俺たち自身の意思で撤退させるための負荷をかけることはできるけれど、殺すこと、蘇生が不可能なまでに殺し尽くすこと、旅をこれ以上続けさせられなくすることは、たぶんできない。本当に俺がシステム≠フ重要視する『勇者オルテガの息子』かどうかはわからない、けれどそうでないという確証もない以上『魔王と戦う』まではどうこうすることはできない。――ただし」
『……ただし?』
「『魔王と戦う』という絶対的なエピソードが終わったあと、俺をどう扱うかに関しては、おそらくシステム≠ヘ言及していない。だからこそ、俺を排除しようという神も、利用してサドンデスさんを倒させようとする神もいるんだと、思います。魔王との戦いの過程で、勇者の力によって鍛え上げられた存在を、神々が放っておくというのは、これまでに見聞きした神々の思考から考えてまず、ありえません。神々は、魔王との決着を着けた俺たちを、どうにかしようと策謀を巡らせている、と考えるのが妥当、だと思います」
『…………』
「そして、神々が手段を選ばず俺たちを従えようとするならば、こちらが逆らうのは、とても難しくなります。単純な戦闘力で言うなら、たぶん天界全体を相手取っても、俺たちが勝つ可能性の方が高いです。だからこそ、サドンデスさんに対処する手段として、目をつけられたわけですから。世界を直接的に改変する、という神々の力を使っても、俺たちに直接的に影響を与えることは、たぶんできません。だからこそ勇者は神々に警戒されているわけですし、サヴァンさんの言っていた、俺たちとの直接的な会見を避けているということからも、ほぼ確実にそう言えます。……ただし、向こうは組織であり、豊富な人材を有しています。人質をはじめとした、俺たちの護ろうとしている存在を利用して俺たちを従えようとするならば、打てる手はいくらでも、あるんです」
「クソどもが……っ」
「……これまでの向こうの反応からして、向こうの全員がその手を使うことをよしとするわけではなくとも、その人たちがよしとする連中の行動を完全に抑えられるわけじゃないのも、ほぼ確実だろうしな」
「はい。だから、俺たちがそれに対抗できる手段は、限られています。手段を選ぶならば、ほぼひとつだけと言ってもいい、と思うんです」
「……ほう?」
 仲間たち全員の顔を見ながら、セオは端的に告げた。
「復活させたラーミアに乗って天界に乗り込み、力ずくで神々を脅して勇者魔法で契約を結ばせる、ことじゃないか、と」
『………はい?』
「なるほど……力業で強行突破か」
 それぞれの表情でぽかんとする仲間たちの中、納得の面持ちでうなずくロンに、とりあえず最初にうなずきを返す。
「はい。それが一番、問題を起こさない方法じゃないかな、と……」
「いやいや待った。それ以前にいろいろ問題があると思うんだが」
「はい。おかしな点がありましたら、どんどん指摘してください」
「いや、っつかよ。ラーミアに乗って天界に行くって……行けんのか? そもそも」
「確言は、できません。信頼できる、神話をはじめとした資料を比較検討してみた場合、ラーミアが、滅びゆく精霊界からこの世界まで、界を渡ったことは、ほぼ確実な事実ですが、だからといって、神々が警戒の上にも警戒し、何重にも結界を張っているであろう、天界の本丸に気軽に乗り込めるか、ということは、まったくの別問題、ですから。最後の鍵も、渡してきたのが神々の側に立つ存在である以上、神々にとって不都合があれば、いつでもその機能を停止させられる、と考えた方がむしろ、自然です」
「じゃあなんでんな前提で……」
「ただ――俺は、道≠フ通り方は、ある程度、コツが呑み込めた、と思うんです」
「は?」
「このテドンの、生から死へ、死から生へと流転する道≠、曲がりなりにも、通常の世界より死≠ノ近しい状態で、最後まで通り抜けたこと。この世に在りえざる道≠過ぎ行きたこと。グリーンオーブの守護者の、『死と生にまつわる魂の流転については神々の職分ではない』という言が正しければ、それは、神々の力を超えた道行であるはずです。つまり、その要領を正しく用いて、この世に在らざる道≠通り抜ければ、神々の力による結界は用をなさなくなる、という可能性がある理屈になります」
「い、いや……確かに、理屈の上ではそうなるかもしれないけど」
「そう理屈通りにいくかぁ……? 甘い見込みで突貫なんざ、命奪ってくれっつってるようなもんだぞ」
「はい。ですから、ラーミアを復活させたのち、ラーミアと交渉して、何度も実験を行う必要がある、と思うんです。それが成功すれば、この作戦には取り組む価値が出てくる、と。実験の結果が思わしくなければ、また他の作戦を考えなくてはなりませんけど……実際に実験に取り組むまでには、まだ時間がありますから、いくつかの予備案は出せる、と思います」
「………ふむ」
『…………』
 仲間たちはしばし沈黙し、それぞれに思案の表情を見せた。その中で真っ先に、レウが笑顔でうんとうなずく。
「うんっ、なんかよくわかんないとこもあるけど、わかった! セオにーちゃん、俺も頑張るよ!」
「あ……え、と、ありが……」
「おい待てやテメェ、よくわかってもねーくせにほいほい話に乗んな」
「え、でも大事なとこはちゃんとわかったもん。細かいとこは後でセオにーちゃんに聞くけどさ、よーするにとりあえず頑張ってラーミアを復活させていろいろ試してみようってことだろ?」
「ま、まぁ……そう、ではあるけどな」
「だったら俺にもできることいっぱいあるもん! セオにーちゃんと一緒に頑張れるんだったら、それが一番いーし!」
「てっめぇ、なぁ……勢いで好き勝手なこと抜かしやがって……」
「……ま、俺も今回の経験で、なにも学ばなかったわけではないしな。少しは役に立てることもあるかもしれん。セオの作戦がどれだけ図に当たるかはわからんが、基本方針には賛成だし、とりあえず試してみんと実際のところはなにもわからんのだしな」
「まぁ……確かにな。神どもみてーなクソッタレどもに言うこと聞かせるにゃ、一発かまさなけりゃどーにもなんねーだろーし、こいつが自分から言い出したからにはそれなりの自信があんだろーし。ラーミアを復活させるっつー目処も立ってんだし、基本的にゃ文句つけるような話でもねぇけど、よ」
「―――セオ。君の命に悪影響が及ぶようなことは、ないのかい?」
 真剣な面持ちで訊ねてきたラグに、フォルデも小さくうなずいてセオに鋭い視線をぶつける。ロンとレウのこちらを見つめる視線にも、セオに向けた心配が読み取れて、心臓に染み渡るような幸福感に、刹那の間痺れた。
 それから、仲間たちに正面から視線を返し、うなずく。
「はい。『この世に在らざる道=xというのは、死≠ノ近いものだけではない、と思うんです。ラーミアと対面してからでなければ、はっきりしたことは言えませんが、天界の結界はおそらく、神々の力で、何重にも『認識できない』『通過できない』という法則を、創り出すことで張ったもの。これも理屈の上で、のことになりますが、法則を超える、勇者の力に基づけば、越えられないものではない、ということになります。道≠ノ気づき、通り抜けるための、目と足は、危険な道≠通るためにしか、使えないというわけではない、はずですから」
「……わかった。なら、俺たちも全力を尽くそう。できるだけ早くオーブを全て集めて、ラーミアを復活させ、天界に乗り込む」
「へっ、上等じゃねぇか。叩きのめしてぇ相手にもうすぐ手が届きそうな時に、手間と時間以外に問題がねぇってんなら、そりゃあ全力でとっととやることやっつけちまう以外の選択肢なんざねぇよな」
「うんっ! 俺もいっしょーけんめー頑張るっ!」
「ま、ラーミアが素直に言うことを聞いてくれるかとか、サドンデスからも逃げ回れるほどの天界の結界に気づくことが本当にできるのかとか、不安点は山ほどあるが、実際にやってみなけりゃそこらへんはどうともわからんからな。では、セオ。次の目的地は決まったな?」
「はい」
 セオはこっくりとうなずいて、幽霊たちの行き交う道の脇で、仲間たちに決意を込めて言葉を告げる。
「次に俺たちが向かう目的地は、ネクロゴンド――魔王が五年前に滅ぼした王国があった場所です」

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