三日目〜季楽戦〜
「……うぁー、空が青いぜ」
 隼人は空を見上げて唸った。まだ早朝だというのにさんさんと照りつける陽の光は、今日は暑くなりそうだと否が応でも知らせてくる。
「ちょっと。人のこと叩き起こしといてなにその態度。練習しないんなら帰ったら?」
「うるっせーなボケリョーマっ、言われなくても練習するっての!」
 そうだ、今はJr.選抜に来ているのだ、練習をしなくてはならない。余所見をしている暇なんてない。
 一晩明けても巴のことを考えるとついつい今なにをやっているのかまた誰かにちょっかいかけられていないかともやもやしてしまうが、今はそんなことを考えている暇はない。気持ちをすきっと切り替えよう。幸い目の前にはもやもやのぶつけどころになる最高の爪とぎ板があるのだし。
「行くぞっ、リョーマっ。先にミスった方がジュース一本おごりな!」
「……上等」
 隼人はよしっとうなずき、ひょいとボールを上げて強烈なサーブを打った。

「いやー、おごらせて飲むジュースはうめぇなー! まさに勝利の美酒って感じだぜ、わっはっは」
「……調子に乗ってると練習で失敗するよ。自主トレがうまくいってもちゃんとした練習で下手打ったらどうしようもないんじゃない?」
「へっへー、負け惜しみは見苦しいぜ、リョーマ?」
「……にゃろう」
 ぎろりと睨みつけてくるリョーマに隼人はにやりと笑ってジュースをぐびりとやる。炭酸ではなく隼人好みの100%濃縮還元果汁だ(ちなみにオレンジ)。リョーマに勝つのは何度味わってもいい気分だった。もちろん勝つのはいつだって誰にだって嬉しいが、ことに。
 二人並んで食堂へ向かう途中、天野が手を上げて近寄ってきた。
「おはよう、隼人くん、リョーマくん。早朝練習どうだった?」
「おうっ、充実してたぜー。お前の方はどうだった、桃ちゃん部長と練習してたんだろ?」
「うん、俺の方もそれなりに。っていうか俺の欠点はやっぱりはっきりしてるんだよね。パワーでガンガン押されたらどうしても打ち負けちゃう。リョーマくんほどの圧倒的な技も隼人くんみたいなすごいパワーもないからね」
「別にいいんじゃないの。お前ダブルスプレイヤーだし」
「そーそー、いっくら技があったってリョーマみてーに人に合わせることができねーんじゃ意味ねーって!」
「隼人みたいにパワーがあっても普通の人じゃついていけない神経の持ち主よりはマシだと思うけど」
「ぁんだと、コラ!?」
「あはは……まぁ、ダブルスプレイヤーだからってシングルスが弱いようじゃ話にならないからね。この合宿で、それを少しでも改善できたらいいって思ってる」
「そっか。頑張れよ」
「うん……」
 などと軽くお喋りをしつつ、食堂に入る。食堂はいつも通りに人で溢れていた。

 食後の休憩でもしようと隼人は宿舎の外に出た。本当にいい天気だ。ここは木陰なので、陽の光がちょうどいい具合に遮られて地面を適度に温めている。陽の光がぬくもるポカポカ陽気。おまけに満腹。なんだか眠くなってきて、ちょっとだけ休むか、とごろんと芝生に寝転ぶ。
「…………」
「なにボケーっとしてんの?」
「どわぁっ!」
 突然目の前に顔を突き出されて、隼人は仰天した。別にリョーマが隣にいたのを忘れていたわけではないが、いきなり自分の前に顔を出してくるとは思わなかった。テニス関連で気になることがある時以外はこちらから話しかけないとなにも話しかけてこない奴が(話しかければ必要以上に反応を返してくるのだが)。
「びっ、びっくりさせんじゃねぇよっ!」
「びっくりするほどのことでもないでしょ。そんなに頭の中までボケッとさせてたわけ?」
「なっ、ボケッとしてたんじゃねぇよ、もう春だなーって思ってたの!」
「へぇー、俺はてっきりお腹いっぱいで眠いとか考えてるのかと思ったよ」
「ちっ、違ぇよ、春を満喫してんだよ!」
 図星を突かれて怒鳴るとリョーマはふっと笑った。いつものちょっと口の端を吊り上げる、おっそろしく嫌味でムカつく笑みだ。
「お前って本当に考えてること全部が顔に出るね。わかり易すぎ」
「ざけんな、てめぇが怒らせるから怒りが顔に出るんだよ!」
「まぁまぁ。越前、あんまりからかうんじゃないよ。気持ちはわかるけど、ね。反応を見るのが楽しいから」
「あっ、不二先輩! ちゅーすっ!」
 慌てて立ち上がり頭を下げる隼人を、声をかけてきた不二は笑顔で制した。
「隼人、そんなにかしこまらなくていいよ。他のうるさい二年三年はいないんだから誰も頭を下げろとか強要したりしないし」
「いえっ、不二先輩はマジ尊敬できる先輩っスから、礼儀はちゃんとしないと! おらリョーマってめぇもしゃんとしやがれ!」
「お前うるさい。言われなくても挨拶ぐらいするよ。……ちわす」
「ちゃんと頭下げろ馬鹿リョーマっ」
「お前みたいに頭下げてれば礼儀にかなってると思うような奴に馬鹿とか言われたくないんだけど?」
「ぁんだと、コラ!?」
「フフ、まぁまぁ二人とも落ち着いて。……天野は一緒じゃないの?」
「え? ああ、あいつはなんか食事終わったら速攻コート行っちまいましたよ。なんか少しでも練習したいとかで。飯食ったあとはちゃんと食休み取らねーと駄目だっつったんですけどねー」
「ふぅん……なるほどね」
「へ、なにがなるほどなんスか」
「いや、別に。なんでもないよ」
「そーなんスか……? あっ、そーだ不二先輩さっき俺のこと馬鹿にしたでしょ! ひでぇっスよ!」
「フフ、ごめんごめん、そんなつもりじゃなかったんだよ。ただ、隼人は面白い奴だよねってことを言いたかっただけ」
「へ……そ、そっスか?」
「なに照れてんの。別に褒められてないよ」
「うっせぇなボケリョーマっ、てめぇには言ってねぇ! ……あっ! モンシロチョウだ」
 白い蝶がひらひらと軽く隼人たちの目の前を通り過ぎる。不二の目がきらりと輝いた。
「あ、本当だね。春だって感じがするな、写真に収めたいね」
「ああ、不二先輩写真が趣味ですもんね。俺は……カルピンが見たら大喜びで飛びつきそうだな、くらいにしか思えねーですけど」
 くすり、とリョーマが笑い声をこぼした。リョーマにしては相当に珍しい優しい笑みだ。
「……たぶんね。前にチョウ、追いかけてたし」
「カルピン、寂しがったりしてねぇかな?」
「親父も母さんもいるし、大丈夫でしょ。第一猫はあんまり構われすぎてもよくないんだよ。向こうから寄ってきた時にちょっと遊んでやればいいんだ」
「ふーん。……それってなんか、リョーマそっくりだな?」
 にやり、と笑ってやるとリョーマはあからさまにムッとしてこちらを睨みつけてきた。
「お前に動物そっくりとか言われたくないんだけど? 東京に来て一年経ってもまだ行動が野生動物なくせして」
「んっだと、人間として最低限度の礼儀もなってねぇてめぇに言われたくねーよ!」
「……やる気? 山ザル」
「上等だっ、この猫娘男版!」
 ぷっ、くすくす、と笑い声が聞こえて隼人ははっと腕を下ろし、赤くなった。そうだ、不二先輩がいたんだった。
「本当に君たちは仲がいいね。僕としても嬉しいよ」
「……は? なんで不二先輩が嬉しいんスか?」
「それは秘密。さて、いつまでもここにいても仕方ないし、そろそろ僕は行こうかな」
「あ、俺らも行きます! もーすぐ午前の練習が始まるし」
「人の行動まで勝手に決めないでくれる?」
「んっだよ、じゃー練習に遅刻してもいいっつーのかよ馬鹿リョーマっ」
「誰もそんなこと言ってないでしょ。頭単純すぎ。サルだからしょうがないんだろうけど」
「ぁんだと、コラ!? 猫より団体行動できねー奴にんなこと言われたかねーっつの! おまけに猫より十倍可愛げねーし」
「……やる気?」
「上等だっ、コテンパンにしてやら!」
 ぎゃあぎゃあ喚きあいながら、それでも足はしっかり練習場へと向かっていった。
『今日も練習頑張るぞ!』
 そうぐっと拳を握り締める隼人の頭からは、よけいなことはすっきりと消えていた。巴のことも、頭をぐちゃぐちゃにかき回す恋愛沙汰のことも。

 昼休み。昼食を終えてリョーマと食休みを取っていると、通りがかったサブコーチに呼ばれた。
「……なんスか?」
「飲み物が切れたんだが、街でスポーツドリンクの粉を買ってきてくれないか。これが代金とどれをどのくらい買うかのメモ。今後は届けてもらうんだが、それは夕方以降になるからな、それまでの分を」
「はぁ、わかりました」
 なんでわざわざ選手に買いに行かせんだろ、と首を傾げつつも、根が体育会系で立場が上の人には基本的に服従する隼人はこっくりとうなずいた。
「じゃ、行くかリョーマ」
「なんで俺が」
「てめぇも一緒に頼まれてんだろーがっ! サボる気か、手塚先輩にチクっぞ!」
 などとぎゃあぎゃあ喚きながら宿舎の外に向かう。宿舎から街は案外近く、徒歩でも五分もかからないのだと聞いていた。地図を見たので行き方はしっかり頭に入っている。
 リョーマと蹴りを交し合いながら宿舎を出ようとしたその時、前方に十数人の人の群れが見えた。青学の二年の先輩たちと天野、不動峰の神尾と伊武、氷帝の鳳に立海の切原、六角の葵と天根、ルドルフの裕太に四天宝寺の金太郎と藤堂――
 そして巴がわいわい騒ぎながら歩いている。
「ん? あ、はやくーん、リョーマくーん!」
 手を振られ、隼人は一瞬どきりとしたが、すぐに笑って手を振り返した。うし、いつも通りに笑えてる、とちょっとほっとする。ある程度時間を置いて少しは冷静になれたらしい。
「おう! なにやってんだよ、こんなとこで」
「うん、あのね。なんかみんなサブコーチから買い物頼まれたんだって。行く場所同じだし、せっかくだから一緒に行こうかってことになって」
「お前も頼まれたわけ?」
「うーんと、私は最初伊武さんに一緒に行かないかって誘われたから、それで行き会ったみんなをついでに誘って」
 ついででこれだけ誘うのかよ、と少し面白くなかったが、いやいやんなこと気にするのはよくねぇって決めただろうが、と首を振り、にっと笑顔を作って言った。
「お、じゃあ一緒に行くか。いいっスよね、みなさん?」
「おう、来いや。ここまで人が増えたんだ、いまさら一人二人加わってもなんも変わんねぇよ」
「……まー、いーけど。……ていうかそもそもなんでこんなに人がいるわけ? 狙ってることあからさますぎ……」
「別にいーけどよ、てめぇの分はてめぇで持てよ? 他のやつらもな」
「言われなくてもそうします」
「よっし、んじゃ行きますか! とっとと行ってとっとと帰ってこねーと!」
「なんでお前が仕切るわけ?」
「うっせーなっ、別に仕切ってねーだろボケリョーマっ」
「式を仕切るのは親近者。……プッ」
「あはは……じゃあ、みんなで買出しにレッツゴー!」

「結構な荷物になったっスね〜」
「だな。こんなに大勢で行く意味あるのかとか思ったけど、荷物多くて驚いた」
「……このくらいで音ぇ上げてんじゃねぇぞ」
「べっ、別に持てねぇなんて一言も言ってねーだろ!」
「まぁまぁ、裕太さん。海堂先輩も、気合入れにしたって無理にそんなぶっきらぼうな言い方しない方がいいですよ?」
「……無理なんざしてねぇ」
「あ……」
 巴がふいに声を上げた。
「どうした、巴?」
「いえ、あの、あそこの喫茶店可愛いなーって。ちょっと寄っていきたいなって思ったんですけど……荷物あるし、無理ですかね……」
「……別に、いいんじゃない? 少しくらい」
「お! コシマエええこというやん! なーなー休んでこうや〜、ワイ腹減ってもーた」
「そうだね、巴さんがそうしたいなら……少しくらいいいんじゃないかな」
 隼人としてはとっとと戻って練習したかったのだが、巴や天野を置いていくわけにもいかないし一人だけで帰るのはちょっと寂しいものがある。なので特に逆らわず全員でぞろぞろと喫茶店に入った。
「喫茶店でジャージっていうのは、ちょっと恥ずかしいですね……」
 店で一番大きなテーブルの真ん中の席に座っている巴が恥ずかしそうに身じろぎをして言うと、鳳がにっこりと笑って返す。
「じゃあ、今度はちゃんとした服を着て来ようか」
「そうですね、一緒に来ましょう!」
 ちょっとカチンときていやいやいかんいかんそれではいかん、と首を振っているとリョーマが冷たい口調で言った。
「別にどっちでもいいんじゃない。赤月は、なに着ても変わらないでしょ?」
「どういう意味よ?」
「別に」
「むう〜」
 じとっとした目でリョーマを睨む巴。そこに巴から相当に遠い席になっている葵が声を上げた。
「でもさっ。巴さんの私服姿っていうのも見てみたいよね! 普段どんな服着てるの?」
「え、私服ですか? そうですねー、普通にジャンパースカートとかワンピースとか。動きやすい格好が多いですね。Tシャツとジーンズみたいな格好もよくしますよ」
「へぇ、やっぱ女の子って感じだな。そういや、お前趣味ってなんかあんの?」
「趣味ですか? えーと、那美ちゃんにアロマテラピー教えてもらってから、少しかじったりしてますけど……あとは料理とか……うーん、一番打ち込んでるのがテニスなんで、他のことにあんまり時間使わないですねー。勉強とか身だしなみとかも整えるともういっぱいいっぱいで」
「あはは、巴さんらしいね。巴さんって料理も好きなの?」
「ええ、まぁ、そんなに上手でもないですけど……あー、なんかみんな、私のことばっか聞いてません? 私にも質問させてくださいよー」
「質問、昵懇、謹厳実直。なにか聞きたいことがあるのか、言ってみろ」
 楽しげに話す巴たちを横目で見つつジュースをすすっていた隼人は、そうですねぇーと首を傾げてから言い放った巴の一言に思わず噴いた。
「みなさんの好みのタイプって、どんな女の子ですか?」
「はあ?」
「ゴフッ! ゲホッ、ゴホッ!」
「ゴホッ、ゴホッ!」
「ゲフッ、ゴホッ!」
 海堂と神尾、それから藤堂が同じように噴いた。
「わっ、みなさん、急に咳き込んでどうしたんですか? はやくんまで」
「巴、お前なぁ……」
「テメェのせいだろ! なに聞きやがるんだ急に!」
「だって……気になるじゃないですか、そういうのって。あ! そんなに慌てるってことはもしかして……先輩も神尾さんも、さては気になる人でもいるんじゃないですか?」
「なっ……別にそういうわけじゃ」
「フシュウウウ!」
「わ、海堂先輩、落ち着いてくださいっ!」
「まぁ……確かに、急にんなこと聞かれてもなぁ」
「え、なんで? ボクは全然かまわないよ! ボクはねー、可愛い子! 目がぱっちりして手、髪がさらっと長くってプロポーションもきれいな子がいいな! 具体的に言うと、巴さんみたいな子、ボクすっごくタイプだよ!」
「え……」
「おいコラッ、勝手なこと言ってんじゃねぇぞ一年の分際で! 第一なぁ、そういう誰が好みとかそういうことは、胸にこっそり秘めておくもんで……」
「おー、なーなー健坊、あれが負け惜しみっちゅーやつなん?」
「俺に聞くな!」
「なんだとてめぇ!」
「まぁまぁ、神尾さん。金太郎くんも、ね? 悪気がないのはわかってるけど自分の言ったことが相手にどう受け取られるか考えないと駄目だよ」
「えー、考えてんでワイー。ワイかて今んとこ好みの女はサル女やし」
「え!?」
「遠山! なに言ってるんだお前はっ、なにも考えてないくせにっ」
「せやし考えてるてー」
「俺は、俺のダジャレに笑ってくれる子がいい」
 天根がぼそりと言った言葉に、巴はくるりとそちらの方を向き目を輝かせる。
「え、それって、ダジャレを言ったときは、いつも笑わなきゃいけないんですか?」
「いつも、ドイツも、フランスも。……うーん。イマイチ」
「あは、あはは……」
「あー、俺は元気があって、明るいヤツだな。そんで、一緒に騒いで楽しいヤツ。気が強いヤツもタイプかな」
 桃城もしっかり自己主張している。
「へぇ〜」
「うーん、俺は、一言で言うのは難しいけど……俺のことを信じてくれる、浮気しない子ならそれでいいかな」
 鳳の言葉に、巴はうんうんとうなずいた。
「なるほど……」
「……なに? もしかして俺も好みのタイプが君だって言うとか思ってる? 君って実際相当図々しいよね。……ったく、なんでこんなところで全員並んで手差し出さなきゃいけないわけ。バッカじゃないの?」
「もー、伊武さん、誰もそんなこと言ってないじゃないですか! なにもそんなにボヤかなくても……そーだ、伊武さんの好みのタイプってどんな子なんですか?」
「カワイイ子」
「ずいぶんとまたストレートな。えーと、他には……?」
「外国人かな」
「へぇ……さすが伊武さん、珍しい答えですね。不二さんは?」
「へっ、俺っ!? ……タイプとか、そんなのねぇよ。こうだから好きとか、嫌いとか……よくわかんねぇしよ。きっと、好きになったヤツがタイプってことなんだろうな。……って、なに言わせんだよ、こっ恥ずかしいな!」
「す、すみません。えへへ〜。切原さんは?」
「ん? そーだな、明るい子がいいな、やっぱ。一緒にいて楽しい子じゃねーと」
「そうなんですか〜。そっちの……健坊くんは?」
「お、お前にまで健坊呼ばわりされる筋合いはないっ! 姓で呼べ姓で! 藤堂と!」
「あ、うんわかった、藤堂くんね。じゃあ、藤堂くんの好みのタイプは? 教えてくれる?」
「……そんなもの……今の俺にはテニスがすべてなんだ! 女がどうとかいう余裕はない!」
 昨日はうなじがどうとか言ってたくせに。
「ふんふん、なるほどね〜。その気持ちはちょっとわかるかな。きーくんは?」
「え、俺も? 俺は……」
「さーそろそろ行きますか! でねぇと遅刻しちまいますよ!」
「赤月、急がないと練習の支度間に合わないんじゃないの?」
「あ、そうだね!」
 隼人とリョーマが立ち上がると、続いて巴も立ち上がる。それを追うように他の男子たちも立ち上がった。
 自分たちが立ったのについてきてくれたのはほっとしたし、そんなことを考えている場合ではないというのもわかっているつもりだったが、やっぱり面白くないのは変わらない。巴が自分たちに好みのタイプを聞くのを最後に回したのも(聞かれたら答えに窮することはわかっていたが)相当に面白くなかった。
 でも今はそんなことを考えてる場合じゃない。練習に集中! と藤堂のやつカッコつけやがって、とか伊武さん外国人って……という考えは振り捨てて気持ちを切り替えた。

 厳しい練習を終え、今日の練習試合。相手は季楽靖幸という選手だった。どういう選手だったかはよく覚えていないのだが、初日に日吉と組んで巴(と跡部のペア)と戦って負けていた選手だ。
「……キミ、赤月巴の兄弟かなんか?」
 のぺっとした顔の奥に確かな闘志を燃やしてこちらを睨む季楽に、隼人はにやりと笑ってみせた。
「従兄っス。言っときますけど俺、巴より相当強いんで」
「……だから?」
「俺で仇討とうとか考えるの、やめといた方がいいっスよ」
 季楽の爬虫類じみたどんよりとした目がぎらりと光った。
「ふぅん……生意気さもおんなじか。だったら遠慮はいらなそうだね」
「こっちも遠慮はしないんで。よろしくお願いします」
 審判の声で、試合は始まった。
 そして6-2で隼人の勝利に終わった。
「次は……次こそは、絶対お前を倒してやる!」
 ふるふる震えながらこちらを睨む季楽に「楽しみにしてるっス」とにやりと笑い、隼人は他の選手の試合を見るべく歩き出した。隼人の試合は即行で始まって即行で終わったため、まだ試合を始めていない選手も多かったりする。
 と、観覧席にリョーマを認め、隼人は無言でその隣に並んだ。視線の先には巴、そして亜久津、コートの反対側には鳥取と樺地がいる。これは巴に対する気持ちがなくても見ておきたい試合だ。
 その前に、と一応隼人は訊ねた。
「おい、リョーマ。勝ったか、お前?」
「当然。お前は?」
「勝ったに決まってんだろ。こんなとこで負けるほど気ぃ抜けてねーよ」
「ふーん。ま、当然だね」
 言い合いながら並んでコートを見つめる。以前巴と鳥取は公式戦でもぶつかりあったが、鳥取の故障のせいでちゃんとした試合にはならなかった。巴としても気合が入っているだろう。
「赤月、サービスプレイ!」
 審判の声に従って、巴がサーブを放った。ビシュッ! と音が立つほどの高速サーブがコートのライン際ぎりぎりを走り抜けた。
 巴の必殺技のひとつ、ニンジャ・サーブだ。南次郎から教わったその強烈なサーブは、そんじょそこらの選手では捉えることもできない。
「巴の奴、初っ端から飛ばしてんな」
「相手が相手だからね」
 隼人はこいつがそんなことを言うなんて珍しいな、と思いつつも「まぁな」とうなずいた。実際この二人は合宿でも最強クラスの二人だ。息もぴったり、パートナーが亜久津というの吉と出るか凶と出るかわからないが、相当に苦戦することは間違いがない。巴も気合が入って当然というところだろう。
 再度のニンジャ・サーブ。だが今度は鳥取がその身軽なフットワークを駆使してラケットに捉え、驚くほど巧みなボールコントロールで大きく球を天に舞わせた。
 巴と亜久津の頭上を通り過ぎ、ラインぴったりの場所に着地して回転し跳ねないで留まる。鳥取の必殺技、スカイハイ・スライスだ。相変わらずの技の冴えに隼人は思わず息を呑んだ。
「向こうも相当気合入ってんな……」
「ま、そりゃそうじゃない? あっちだって、絶対勝ちたいって思ってるだろうし」
「そりゃそうだな……」
 隼人はうなずく。もし自分が鳥取だったら、死ぬ気で勝ちに食らいつくだろう試合だからだ。

「……ん?」
 苛烈な打ち合いを繰り返して、4-4、巴のサーブ。隼人は思わず目を見開いた。
「なに?」
「巴の動き……なんか、変じゃねぇか?」
 そう言うとリョーマと天野(試合を終えて途中から見に来た)は眉をひそめた。
「どのへんが?」
「どのへんがって……全体的に、なんか変だろ」
「うーん、俺にはいつも通りに見えるけど……どんな風に変なの?」
「なんか、あいつらしくねぇっていうか、気持ち悪いっていうか……」
 隼人はもにゃもにゃと言葉を濁す。自分でもはっきりここが変だと言えるほどわかっているわけではないのだ。
 ただ、なにか。あのプレイは、あのテニスは、巴らしくない。
 ラインぎりぎりに放たれた鳥取のショットを凄まじい勢いで追いつき返す。気合が入っているのはわかる、だがあれは巴のやり方ではない。巴のテニスというのは、あいつのやり方というのは、もっと、もっと。
 ばしぃっ、と強烈なサーブ。それを樺地がその豪腕をもって強烈な力でリターンする。それをさらに巴は広い、体中の力を使って厳しいところに返す。
 初めて一年とは思えない巧みな技。こちらまで圧倒しそうな鮮烈な気迫。だけどあれは、なにか違う。普段のあいつのプレイとは、なにかが、確実に。
 抜き身の刀を振り回すような、殺気さえ感じさせる勢いで巴は次々ショットを放つ。確かにうまい。必死にボールを拾うその勢い、ボールを返す巧みさ、それらはすでに一流の選手のものだ。
 それはわかる、確かに今のあいつのテニスはかなり強い、それはわかる。でも、あいつは、巴は今、なんだかひどく。
 苦しそうだ。
 そう気付いた時には、巴は5-7で樺地・鳥取ペアに負けを喫していた。

「おい、巴! 巴! 待てよ!」
 試合後の握手を終えるやいなや走り出す巴に、隼人はダッシュで追いつき腕をつかんだ。巴がきっとこちらを睨みつけてくる。
「なに! 放してよ!」
「なにって、お前……」
 隼人は逡巡した。言っていいのだろうか? 言っては巴を傷つけてしまうのではないか?
 だが巴は隼人のそんな迷いなど無視して全力で暴れる。当然隼人の方がはるかに力が強いので抑え込むことはできただろうが、女を力で抑え込むのも気が引けて腕を握ったまま巴に叫んだ。
「落ち着けよ! 俺は別に、ただお前が……」
「……私が、なに?」
「お前が……さっき、妙にお前らしくなかったから、それで……」
 心配で、と言う前に隼人は巴に怒鳴られた。凄まじい形相で。
「わかってるよそんなこと!」
「わ、わかってるってな、お前」
「わかってるよ、そんなのわかってる。わかってる……わかってるのに! 隼人の、バカーっ!」
 げしっ! と隼人の腹を蹴って、巴は走り去る。隼人は強烈な蹴りに思わずげほげほと咳き込みながら、困惑して巴の後姿を見やった。
「……隼人って、なんだよ。あのやろ……」

 その夜は他の奴らと騒ぐ気にもなれず、隼人は早々に風呂に入って早々に部屋に戻った。敷かれた布団の上で、ごろごろと転がり考える。
 巴の奴、どうしたんだろう。なんであんなプレイをしたんだろう。なんであんなに怒ったんだ?
 わからない。わからないけど、放っておけない。明日にでも、ちゃんと話をしなくっちゃ。
「どうしたの、隼人くん?」
「……騎一」
 天野が上からひょいと隼人の顔をのぞきこんでくる。いつも通りの優しい笑顔。なんとはなしに、ほっとする。
「巴ちゃんとなにかあったの? 相談くらいになら、乗ってあげられるけど?」
「うん……」
 柔らかい口調でそう言われ、隼人は思わず話してしまっていた。巴のプレイを見ていてどう思ったか、巴と話してなにを言われたか。
 天野は最後まで適度に相槌を打ちつつ話を聞き、真剣な顔で言った。
「巴ちゃんも、今日の試合は自分のプレイらしくなかったって言ってるんだね?」
「うん。だからあいつと話しなきゃって思ってんだけど」
「そうか……」
 天野は少し考えるように首を傾げ、それから言う。
「あのさ、隼人くん。隼人くんの前に、俺が巴ちゃんと話してもいいかな?」
「へ?」
 隼人は思わず目を見開いた。天野が、なんで? 巴とそれなりに仲がいいのは知ってるが、あくまでそれなりで、普通で、一歩踏み込んだ付き合いなんてしてなかったはずなのに?
 疑問が顔に出たのか、天野は小さく苦笑した。
「俺もさ、なんていうか、壁にぶつかったことがあるから。少しはアドバイスできるかもって思うんだ。それに、今の俺の状況にも、巴ちゃんと似たところ、あるし」
「………そうなのか?」
 全然知らなかったし、気付きもしなかったのだが。
「まぁね。だから俺としても巴ちゃんと話してみたいっていうのはあるんだ。それに、隼人くん自身も今ちょっと混乱してるでしょ? 考えを整理する時間必要じゃないかなって思うんだけど、どう?」
「うー……」
 言われてみると確かにそうかもしれない、と思う。天野だったらたぶんうまく巴から内心を聞き出してくれるだろう。
「わかった。頼むぜ、騎一」
「うん、任しといて」
 にこっと笑う天野と拳を打ち付けあう。こういう時の天野は頼りになる。こいつと友達でよかった、と思う瞬間だ。
「……どうでもいいけど。お前、他人のこと気にしてる余裕とか、あるの?」
 ぼそりと隣に寝転んでいたリョーマに言われ、隼人は思わずカッとしてリョーマを睨んだ。
「んっだと、なに言ってんだテメェ」
「文字通り。お前だって監督推薦枠、言ってみれば補欠扱いの選手でしょ。それが他人のこととか気にしてる余裕あるのかって言ってるの」
「んだ、そりゃ! 言っとくけど俺は実力でも他の奴らに劣るなんて思ってねぇぞ!」
「劣らない、ぐらいでいいわけ?」
「……は?」
「他人に劣らないぐらいで満足しちゃうわけ、お前って」
「な―――」
 隼人は一瞬絶句し、それから頭に一気に血を上らせた。
「んっだとテメェ……!」
「二人とも、落ち着いて!」
「お前らな、寝る前に騒ぐんじゃ」
「わーわーケンカ? ケンカしちゃうの?」
 がっと布団の上に立ち上がる。リョーマも立ち上がる。お互いに胸倉をつかもうと手を伸ばし―――
「んっごごごごごごががぁー」
 凄まじく強烈ないびきに見事にタイミングを外されてこけた。
 いびきの主は金太郎。今日は大人しいと思ったらまだ電気を消していないのに即行で寝ていたらしい。
 なんとなく気の抜けた顔を見合わせていると、天野がぽんぽんと手を叩いて笑った。
「じゃあ、みんな。寝ようか」
「……おう」
「……いいけど」
「……クソ、お前のそういうところが一番腹が立つ!」
「はーい、みんなおやすみー」
 全員布団に入って電気を消す。眠れるかな、とちらりと思ったが目を閉じるとすぐに睡魔はやってきた。我ながら健康な体だ。
 その日は、夢は見なかった。

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