四日目〜手塚戦〜
「もうちょっと待ってくれ、って」
 早朝練習を終え、朝食の時間。リョーマも含めた三人で座った食堂の席で天野が言った言葉に、隼人は思わず目をむいた。
「……なんだよ、それ」
「だから、巴ちゃんがそう言ったんだよ。もうちょっと待ってほしいって。ちゃんと隼人くんたちと向き合う覚悟ができるまで待ってくれって。あと、心配かけてごめんって言ってた」
「…………」
 隼人は思わず唇を噛む。なんだそれ、まるでそれじゃあ。
「それじゃあ、巴は一人で悩むことに決めたってことみたいじゃねぇか」
「……そうだね」
「冗談じゃねぇぞ! あんな状態のあいつ放っとくなんてできるかっ、今すぐあいつんとこ行って」
「無理やりなにを考えているか聞き出すの?」
「っ……」
 天野は真剣な顔でこちらを見ている。珍しい天野の真剣な表情に、わずかに気圧された隼人に天野は続けた。
「そういう方法も確かにあるとは思う。でも、今の巴ちゃんを隼人くんが問い詰めるのは、かえって巴ちゃんを追い詰めることになるかもしれないって俺は思うんだ」
「っんでっ、だよっ」
「今巴ちゃんは、隼人くんたちと向き合うのを怖がってるから」
「なっ……」
「もちろん隼人くんたちを嫌いになったってわけじゃないと思う。ただ……なんていうか、当たってしまいそうな気分なんじゃないかな。巴ちゃんは今、必死に自力で問題を解決しようとしてるから」
「だったらその手伝いくらいできるだろっ。当たられたって俺は」
「当たる方が傷ついてることだって、あるんだよ」
「っ……」
「当り散らして傷つけて、そのこと自体がプライドや、心をめためたに傷つけることだってあるんだ」
 静かにそう言う天野の顔は静かだったが、声は経験者だけに許される重みに満ちていた。
「……っだ、けどっ!」
「もちろん、巴ちゃんが今苦しんでいることと隼人くんが今すごく心配してることは別の話だし、隼人くんが心配してなんとしてでも巴ちゃんの心配事を聞き出そうってするのも当然だと思う。でもさ。俺はそれを堪えて見守るのも……なんていうか、愛情だって思うんだよね」
「なっ、あいじょ、っておいっ!」
「別に茶化して言ってるんじゃないよ。見守るか問い詰めるか、選ぶのは隼人くんだけど。俺はどっちにするか、慎重に考えて決めてほしいっていうだけ。どっちにもメリットデメリットがあるから、お互いの気持ち考えて、慎重にね」
「…………」
 隼人は思わず黙り込む。隼人は細かいことをいちいち考えるのは苦手だ。考えるより行動のタイプだし、頭がそういいわけでもない。
 だから心も体もすぐさま巴のところに向かって悩みを聞きだしてやりたいと叫んでいるのに、天野の言葉で理性が心身にブレーキをかけてしまう。本当に巴のところに行っていいのか? 考える前に行動していいのか? 怖いような気持ちがあるのを感じ、隼人はぐ、と唇を噛む。
 そこに冷たい声が響いた。
「どうでもいいけど、お前そういうことばっか考えてる暇あるの」
「なっ!」
 ぎっと隼人は隣に座っていたリョーマを睨む。今日リョーマと練習は別々にやった。昨日のこいつの台詞を隼人はまだ許してはいない。天野が一緒に話すと言ったので一緒にいるだけで。
 それをまたこんな言い草をされては、隼人の頭には当然血が上る。
「そういうことばっかってなんだよ。従妹が調子悪いみたいなの気にしてなにが悪いってんだよ」
「自分の面倒見れない奴が言う台詞じゃないよね、それって」
「誰が自分の面倒見れてないってんだ!」
「見れてるっての?」
「たりめーだろーが!」
「今朝の練習であんな無様な姿見せといて、よく言えるよね」
「……っ」
 隼人は、一瞬絶句した。見てたのか、こいつ。
 確かに今朝の隼人の練習は褒められたものではなかった。巴のことが気になって、イライラして。自分一人で練習していたこともあって、正直ろくに身が入っていなかったと思う。
 だけど、そんなのはたまたまだ。ちょっとくらい大切の人間のことが気になったって、別に大したことじゃないっていうか、普通のはずだ。それのなにが悪いっていうんだ。
「そのくらい俺は今日の練習で倍にして取り返してみせらぁ! 巴は従妹だぞ、心配して何が悪いってんだ、一つ屋根の下に住んでる相手が調子崩してるってのに気にもかけねぇよーなレイコクヒジョー人間と一緒にすんじゃねぇ!」
「隼人くん、それは」
「騎一。……じゃあ聞くけど、俺たちはここになにしに来てるわけ」
「っ……そりゃ、テニスしに、に決まってるだろうけどよ」
「それでなんで他人のこと気にしてる暇があるわけ? まだまだ下手くそなくせに」
「ぁんだと、コラ!?」
 思わず立ち上がって胸倉をつかむ。周囲から視線が飛んでくるが、そんなものはどうでもよかった。こいつにそう言われるのは、こいつにだけは絶対我慢ならない。
「俺が下手ならテメェはなんだ! 俺に何度も負けてるくせしやがって!」
 ぐいっと顔を近づけてぎっと睨みつけたが、リョーマもきっといつもの腹の立つほど冷たい目でこちらを睨み返してくる。
「練習でだけでしょ。まともな試合じゃ一度も負けてないじゃん」
「ぐっ……」
「お前がその程度のテニスで満足するっていうならどうでもいいけど」
 口元にいついかなる時も隼人を思いきりムカつかせる無愛想な冷笑を浮かべながら、リョーマは冷たく言った。
「でも……俺はもっと上に行くよ」
「っ……ざけんな! だったら俺はそのもっと上を行ってやる!」
 ぎっ、とお互い睨み合い、天野が困った顔で見ているのを意識しつつもふんっと目を逸らしてお互いざっと踵を返した。朝食はもう食べ終わっていたので、トレイを持って背中を向け合いお互い離れた場所にトレイを返して別の出入り口から出ていく。
 ちくしょうちくしょう、くそったれ。ざけんなリョーマのボケ野郎。従妹の心配してなにが悪いってんだ、そりゃ練習に集中するのも大切だし、リョーマに負けるなんて死んでもごめんだけど。俺にとって巴はそういうんじゃなくて。そういうのよりもっと。もっと――
『お前が、巴を守ってやるんだぞ』
 ふいに思い出した昔言われた言葉に、隼人は足を止め、うつむいた。絶対に忘れない。忘れたくないんだ、あの時の気持ちを。

「あの……すんません、仁王さん、柳生さん」
 午前の練習が終わったあと、食堂へと向かう仁王と柳生を隼人は呼び止めた。
「おう? おんしは……」
「赤月隼人くん、ですね。赤月巴さんの……従兄であり、実質的には兄妹である方、でしたか」
「ええ……あの。ちょっと、お聞きしたいこと、あんですけど」
「ほう。聞きたいこと、のぉ?」
「なんでしょうか」
 二人とも素直に足を止めて話をする体勢になってくれている。それに少し安心して、隼人はきっと二人を見つめた。
「あの、練習中に、お二人なんか、巴と話してましたよね。なに話してたんスか」
『…………』
「なにを話してたか、と聞かれてものう」
「それを貴方に話す必要はないように思いますが。たとえ家族といえど、プライバシーはきちんと守るべきでは?」
「っ……そう、っスけど」
 隼人は唇を噛む。普段なら隼人だってこんなことは聞かない。そこまで巴の交友関係に口出しはしたくない。
 だが、今は。
「……俺はただ、巴が、お二人に、今悩んでることについてなにか、話してないかって思って」
「ほう?」
 うつむき加減に言った隼人に、仁王は面白がるような笑みを浮かべた。
「巴が悩んどる、のう? そがぁなことを俺たちにゆうていいかえ? ゆうておくが今現在、巴と俺たちは敵なんじゃが? もちろん、おんしもな」
「あっ」
 隼人は思わず血の気を引かせた。そうだ、しまった。そういうことは全然考えていなかった。そこにつけこまれたら巴が不利になるかもしれないじゃんか、なに言ってんだ俺! そうあからさまにうろたえる隼人を見て、柳生はため息をつき仁王はくっくと笑う。
「赤月くん、少々軽率に過ぎますね。同学年とはいえ兄という立場なのですし、なにより君は男子なのですから」
「まぁかまんろう柳生、別にこのくらい。俺たちがそればあ気を許されちゅうんだとも言えるやろが」
「そ、そーっスよね!」
「まぁ俺たちは別にそこまでおんしに気を許しちゃーせんし、この事実をどう利用するがも俺たちの自由なわけじゃが」
「うううう……」
 持ち上げたあと見事にへこまされ、隼人はがっくりとうなだれる。それからちくしょー負けるもんか、と顔を上げ、きっと仁王を睨んだ。
「そーっスけど! そーいうとこにつけこむのは、なんつーかほらアレっスよ、男としてっつーか人としてよくねーと思いません!? そりゃテニスは勝負なんスから勝つためにいろんなことするのは当然っスけど、そーいうやり方で勝ったって……なんつーか……楽しくないじゃないっスか!」
「ほう? 相手の心の弱いところを突くのが悪いっちゅうがか?」
「そ、それは」
「精神状態のテンションを高く保つのもテニスプレイヤーには必要な技術ろうが。相手が隙を見せればそこを突くのは勝負師として当然のやり方がやないがか? 楽しいだなんだといっちょったが、それをいうなら勝負をまっこと楽しめるのは全力で勝とうとする人間だけじゃろうが?」
「ううううううう……」
 隼人は言葉に詰まり顔を真っ赤にして歯軋りをする。どうしよう、反論ができない。このままでは本当に自分のせいで巴が負けてしまうことにもなりかねない。
 冗談じゃない、そんなのは嫌だ! しっかりしろちゃんとやれ俺! と隼人は自分に気合を入れて、きっと仁王を見上げた。
「だったら俺と勝負してください!」
「……は?」
「だ……から、まだテニス初めて一年にもならない巴程度の選手にそーいうことするとか、そーいうのは……プライドがないっつーことっスよ! だから俺と勝負して、俺がそのプライドを叩き直してやるって……ことですよ! そーいうせせこましいことを考えるような人には、俺は絶対負けないっス! 立海大の選手ともあろう人なら、まさか断ったりしませんよね!」
 よし、考え考え喋ってたから途切れ途切れになったけど、ちゃんと言えた! と満足してふぅっと息をつきながらきっと仁王を見つめると、仁王はしばしまじまじと隼人を見つめ、それから「ぶーっ」と思いきり吹き出した。
「はぁ!? ちょ……な、仁王さん、なんでそこで笑うんスか!」
「仁王くん。失礼ですよ」
「そーいう柳生さんも顔笑ってるし!」
「いや、これは失敬」
「くくっ……おんし、なかなか面白い奴じゃな。さすが巴の兄っちゅうだけのことはある」
「え、そーっスか? いやぁそれほどでも……って、巴のおまけみたいな言い方しないでくださいよー!」
「なんじゃ? おまん、俺に特別扱いしてもらいたいがか?」
「え、えと、その……つか、そーいう問題じゃないんスよ! 俺はなんつーか、巴の」
「心配せんでも巴の悩みにつけこむような真似は最初からする気なんぞないぜよ」
「え」
「仁王くんはただ君をからかっただけですよ。王者……今は元王者ですが、ともかく立海大の選手ともあろう者がそんな真似をしては真田くんに平手打ちを食らってしまいます」
「な……」
 ぽかんと口を開けてから、隼人はガー! と顔を真っ赤にして怒った。
「なんスかそれー! 俺はマジで心配したんスからね!? お二人が本気で巴の邪魔したらどーしようって」
「気に入っちゅう奴の邪魔をするほど俺は悪趣味がやないぜよ」
「なっ」
「おんしのことも気に入った」
「な……」
 にぃ、と笑いぬけぬけと言う仁王に一瞬顔を赤くして、それから隼人は猛烈に恥ずかしくなってまたガー! と怒鳴る。
「俺はそーいう話してんじゃないんスよ! ただ俺は」
「別に大したことを話しちょったわけやないぜよ」
「え?」
「阿呆なコーチが巴をいじめちょったんで、ちーと口出ししただけじゃ」
「あ……」
 質問に答えてくれたのだ、とぽかんと口を開ける。そんな隼人の頭を、仁王はくつくつ笑いながら横を通り過ぎ際にぽんぽんと叩いていく。
「おまん、しょうまっこと巴のことが大切なんじゃな。おまんとも機会があれば戦ってみたくなったが」
「……あ、ありがとうございます……」
 数秒ぽかんとしてから慌てて二人に頭を下げると、二人は軽く手を上げて食堂へと歩いていった。
 周りにはもうほとんど人が残っていない。自分も早く行かなければ。
 そう思い足早に歩を進めつつも、隼人はぼんやり思っていた。巴が大切だなんて、当たり前じゃないか。俺はあいつを、守ってやらなきゃならないんだから。

 誰にも言ったことはないが、自分の一番古い記憶の中には、京四郎と巴が一緒に出てくる。
 自分はまだよちよち歩きの子供で、子供用のラケットを振り回してボールを打とうと四苦八苦していて。それを横で京四郎が、巴を膝に抱きながら眺めて好き勝手に文句をつけている。
 自分は確か、巴はやらないのか、とかそういうことを訊ねたような気がする。それに巴は首を振って、なにか答えた――と思うのだがよく覚えていない。
 覚えているのは、京四郎が珍しくひどく優しく笑んで、こう言ったことだけだ。
『隼人。お前はちゃんと、巴の気持ちに応えてやれよ。お前が、巴を守ってやるんだぞ』
 その言葉に自分は、ひどく嬉しくなって「うん!」と大声で答えた。そんな記憶。
 それは最初の記憶にすぎない。それからもいろいろなことがあったし、巴と喧嘩したことだって一度や二度ではない。だが、隼人は物心ついた頃からずっと巴を守らなければならないと、そう思い続けてきた。テニスが強くなりたい、勝ちたいというのとはまた別方向の、同じくらい強い気持ちで。
 京四郎に何度もそう言い聞かされてきたせいか、京四郎に叩き込まれた男としての義侠心のせいか。それもあったろうが、それ以上に単純に、巴が大切だったからだろう。いつも一緒にいて、当然のように同じ空気を呼吸してきた存在。ずっと隣を歩いてきた従妹。それを大切だと思うのは、ごく当たり前のことだと思う。
 自分は、巴を守らなければならないのだ。あいつは自分にとって、最優先で守るべき対象なのだから。
 昼休み、巴の姿は見つからなかった。昼休みの間中ずっと探していたにもかかわらず。
 やっぱりこのままじゃ納得いかねぇ、と隼人は思ったのだ。いくら巴が話したくないって言ったって、放っておくわけにはいかない。だって自分にとって巴は最優先で守るべき相手なのだから。
 三時休みに探してもどこに姿を消したのか見当たらない。結局巴と話をする前に夕方練習が始まって終わり、もう練習試合のくじを引いている。
 くそ、と小さく舌打ちする。今は試合するような気分じゃないのに。
 さっさとやってさっさと終わらせよう。そう思ってくじを引き、対戦表を見る。
 そして、ざっと血の気が引いた。
 自分の対戦相手は手塚国光選手。自分たちの元部長だった、手塚先輩だったのだ。
「今日の対戦相手はお前か、赤月」
 いつもの厳格を絵に描いたような顔で手塚が自分に声をかける。隼人は慌ててばっと頭を下げた。
「ちゅーすっ! よろしくお願いしますっ!」
「ああ、よろしく頼む。俺のいない間にお前がどれだけ成長したのか、たっぷり見せてもらうとしよう」
 じ、とこちらを見つめる冷厳とした視線にぐ、と隼人は息を呑んだ。これは、駄目だ。勝つとか負けるとかいう以前に、思いきり気合を入れて全力でぶつからなければ青学の後輩として申し訳が立たない。
 それに、自分もテニスプレイヤーとして手塚に勝ちたい、という思いは強いのだ。全国最強ともいわれる手塚先輩。その人と全力で戦って、勝ちたい。
 早く終わらせなけりゃ、と心の一部でぴぃぴぃ喚く声に、隼人はぱぁん! と頬を両掌で叩いた。集中しろ! 俺はテニスをしにここに来てるんだから!

 試合が始まった。サーブはこちらからだ。すぅ、と軽く深呼吸してのっけから隼サーブで攻めた。ボールは手塚のコートに突き刺さり、そのまま芝の上を駆ける。
 手塚は着弾地点まで走り寄りはしたが、一球目は返さなかった。が、二球目からは動いた。
 コートをフレームが擦るぎりぎりですくい上げるようにリターンを放つ。当然ボールは甘くなり、隼人は勇んでスマッシュを打ったが、それはしょせんただのスマッシュだ。手塚にあっさり追いつかれ、見惚れるほど洗練されたフォームでボレーで返される。そのボールは、ぽとんとコートに落ちるやまったく跳ねずにしゅるるるる、と手塚のコートの方に回転した。
「……零式ドロップショット、かよ」
 隼人はぎゅっとラケットを握り締めた。手塚の力はまだまだこんなものではないというのはわかっている。
 だけど、負けてたまるか!
 再度の隼サーブ。またすくい上げるように返される。隼人はそれをゲイル・スマッシュで手塚の死角に打ち込んだ。
 はずが、ボールは隼人の狙った場所にはいかず、しゅるるるる、とまるで吸い込まれるように手塚の前、一番返しやすい位置に向かった。手塚はそれを完璧なストロークで返し、ライン際ぎりぎりに落とす。
「手塚ゾーンっ……」
 ぐっと奥歯を噛み締める。そのくらいの技が出てくることは、わかってたさ!
 全速で走って追いつき、思いきり回転をかけて逆サイドに打つ。だがそれも手塚の前に戻っていった。そして隼人の打った球を、回転もパワーも球威もすべて倍返しして返される。それを隼人は取ることができなかった。
「百錬自得の、極み……!」
 強い。隼人は拳を握り締めた。手塚はやはり、強い。他の奴らとは強さの桁が違う。どうしよう。どうすればいい。今の自分ではとても届かない。足元にも及んでいない。どうすれば。
 ぱぁん! と再び隼人は頬を叩いた。なにをごちゃごちゃ考えてんだ俺! 今は試合中だ、テニスの真っ最中なんだ! だったら考えてる暇なんてないだろう、全力でテニスをするしかない!
 俺は、早く巴のところへ行かなきゃならないんだから。
 ちらりと脳裏をよぎった思考を全力で無視して、隼人は冷静な顔でこちらを見つめる手塚を睨みつけた。

「お前がこの半年なにをやっていたのか、しっかりと見せてもらった」
 試合後の握手のあと手塚が静かに言った言葉に、隼人は耐えきれず頭を下げてから背を向け走り出した。逃げ出したのだ。とても耐えられなかったから。
 試合結果は4-6で隼人の負け。タイブレークどころか5ゲーム取ることすらできなかった。はっきり言ってお話にもならないレベル。全国制覇した青学の一年でありながら。手塚先輩たちに指導を受けた身でありながら。
「ちくしょう……!」
 誰もいない場所まで走ってきて、がしゃん! と音を立てて金網をつかむ。ぐにゅ、と針金が変形するほど全力で握り締めた。悔しいなんてレベルじゃない。自己嫌悪すら感じるほどの苛烈な怒りだった。
「ちくしょぉっ……なんで俺、あんなテニスしかできなかったんだよぉっ……!」
「他人のことなんて気にしてるからでしょ。下手なくせに」
「!」
 ぎっと振り向いて渾身の力を込め睨みつける。そこに立っていたのは、わかっていたことだが、リョーマだった。声だけじゃない、嫌でもわかる。こういう時に自分に声をかけてくる奴なんてこいつしかいない。
 そして、こいつには、死んでも弱いところなんて見せたくない。
「俺が誰のことを気にしてるってんだよっ……」
「誰って言わなくてもわかるでしょ」
「っ……」
 確かに、わかっていたことでは、あった。自分は頭のどこかで試合に臨んでさえ巴のことを気にしていた。そんな状態で勝てるわけはない。だけど。
「てめぇにそんなこと言われる筋合いはねぇっ!」
「…………」
 わずかにリョーマが眉をぴくりと動かす。そしてぎ、と今までよりさらに冷たく鋭い、絶対零度の氷のような目でこちらを睨んできた。
「ふーん。じゃあ誰だったら言ってもいいっていうわけ。巴だったら言ってもいいって?」
「……それはっ」
「ふざけないでくれる。巴だけがお前のテニスを知ってるって? じゃああんなひどいテニスしないでくれない。あんなみっともないテニスされたら嫌でも口出ししたくなるんだけど」
「………っ」
 悔しい。悔しい。そんな言葉じゃ表せないくらい悔しい。思いっきり怒鳴りつけてやりたい、なのに言葉が出てこない。リョーマの言葉が正しい、とどこかでそう思っているからだ。
 だけど嫌だ。こいつの前で黙って、言われっぱなしになって、負けるのは絶対に嫌なんだ。
 だって、こいつは、俺にとって。
「うるせぇっ! てめぇにんなこた言われたかねぇっ! てめぇが俺のなにを知ってるってんだ、いい加減なこと言うなっ!」
 答えの出ないまま、苛立ちのままに怒鳴りつけると、リョーマの顔が一瞬すぅっと固まった。
 それからばきっ、と音がするほど思いきり殴られた。
「っ……にしやがるこのボケ野郎っ!!」
 だっ! と地面を蹴ってリョーマに飛びかかり殴りかかる。がつっ、と音がするほど思いきり殴りつけた。ぐらっ、とリョーマはふらついたが、倒れはせずにぎっとこちらを睨みつけてまたがづっと殴りつけてくる。隼人もさらに殴り返した。
 ばぎっ、がしっ。相手を殴り、蹴り、頭突きをし。本気の力が入った喧嘩だった。スポーツ選手が喧嘩してどうする、と頭のどこかが言っていたが、体の方が止まってくれなかった。
 だってムカつく。腹が立つ。こいつが気に入らない。イラつく。こいつを殴り飛ばしてやりたい。
 だって俺は、こいつには絶対に負けたくない!
「バッカじゃないの! お前みたいな奴が、余計なことばっか考えてるからっ、あんなろくでもないテニスすることになるんだよ!」
「うるせぇうるせぇっ、だからてめぇにゃっ、言われたくないっ、つってんだよ!」
「笑わせないでくれる、だったら誰だったら言っても、いいってワケ! 俺以外の誰が、お前のさっきのテニスの、悪いとこ見抜けるっての!」
「知るかそんなの、俺はお前にだけは、あんなテニス見られたく、なかったんだよ!」
「だったら誰だったら、見ていいってんだよ、俺以外の、誰が! お前のテニス誰よりも知ってる俺以外の、どんなライバルだったら見られてもいいっていうんだ!」
「え」
「っ!」
 その言葉に問い返した瞬間、リョーマの顔は紅に染まった。リョーマとしては言うつもりのなかった言葉だとはその顔で知れたが、隼人はつい問いかけてしまう。
「リョーマ……ライバル、って」
「…………」
「お前、俺のこと、ライバルって」
 こいつがそう口に出して言うなんて、考えたことがなかったのに。そりゃいろいろあったし自分をまるで意識されてないとは思ってなかったが、お互いをちゃんと意識した瞬間からも金太郎とか幸村さんとか山ほど強い人と出会ったのに。
 俺を、ライバルと認めてくれたのか?
 リョーマは顔を赤らめながら(自分の拳で膨れ上がった頬はもともとだいぶ赤くはあったが)、きっと地面を睨んでいる。痺れを切らしもう一度問いかけようとした時に、ぼそっと言った。
「お前をライバルと認めてやるくらい物好きな奴なんて、俺くらいのもんでしょ」
「な、てめっ」
「褒めてやってるんだから喜んだら? ……一応、認めてやってるって、言わなきゃわかんないわけ」
「……そ、そうかよ」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
 二人揃って顔を赤らめながらそっぽを向いたりしてしまったりして。
 ああもうバカなにやってんだ俺、ときっとリョーマを睨むと、リョーマもきっと顔を真っ赤にしながらこちらを睨みつけてきたところだった。視線が合う。しばしその事実に固まってみたりしてから慌ててお互いそっぽをむいて、ああなにやってんだともう一度視線を合わせてまた逸らしてみたりして。なにやってんだ、バカか俺、と心の中で自分に蹴りを入れてみたりして。
 でも、そんな風に馬鹿みたいな時間があったので、隼人は、リョーマが本当に(こういうことを考えるのは死ぬほど照れくさいが)心配してくれたのだとわかった。
 このままじゃ、駄目だな、と思った。巴を心配するのが間違ってるとは思わないけれど、そのせいでテニスに集中できないようじゃ本末転倒だ。
 せっかくの手塚先輩との対戦だったのに。すっげーもったいないことしちまった。
 この借りはJr.選抜本戦で返す。そうこっそり誓って、隼人はじっとリョーマを見つめ言った。
「リョーマ。……ありがとな、心配してくれて」
「……別に。お前がこの程度だったら、今まで付き合ってきた時間丸損だからね。少しくらいは……まぁ……なんとかしてやってもいいかって思っただけだよ」
 ぷっ、と思わず吹き出す。こいつ、本っ気で素直じゃねーな。
「そーかよ」
「……まだまだだね」
「ぁんだと、コラ? まだまだなのは人をまともに心配もできねーリョーマだろ」
「なんでそうなるわけ? いくら大切な従妹だからってそっちの心配ばっかして自分のことも手につかなくなる隼人でしょ」
「なんだよ」
「なに」
 しばし睨み合って、それからちょっと笑う。
「殴って、ごめんな」
「別に。……お互い様でしょ」
 そんなことを言い合いながら一緒に宿舎の方に戻った。なんだかひどく気恥ずかしい気分で。
 だから、トレイを持って歩いている天野にどうしたのかと声をかけて、「巴ちゃんが倒れたから食事を届けに行くんだ」と答えられた時には二人揃って仰天した。

「オーイ、山ザルー? なに布団かぶっとんねん」
「ごめん金太郎くん、ちょっと放っておいてあげてよ。今隼人くん、一人で考えたいみたいだから」
「考えるぅ? 考えるてこいつがなに考えるゆーんや?」
「おい、遠山。人のことに口出しする暇があったら自分のことをだな」
「他人にちょっかいかける暇があったら練習したら? そっちのお前も。そうしないとまた騎一に負けるよ」
「なっ、なんだと貴様……!」
 隼人はぎゃあぎゃあ喚く周囲の雑音を完全にシャットアウトして考えていた。治療を受けたとはいえまだ痛むし腫れてもいる頬のことも無視して。巴のこと、そして自分のことを。
 気付かなかった。自分は、まるで気付かなかった。巴が倒れるほど思いつめていたこと、苦しんでいたこと。そしてそれを跡部たちに救われるほど彼らと親しかったことを。
 驚いた。動揺した。今まで巴に一番近いのは俺だと、当然のように思っていた。
 なのにそうじゃないのかもしれないと知り。もしかしたら巴にとって今一番必要なのは自分ではないのかもしれないと知り。
 今のままじゃ駄目だ、と自覚した。巴のことを気にして動揺するような俺が巴にぶつかってもあいつを守ることにはならない。
 ちゃんと、あいつに向き合えるように。しっかり考えなきゃならない。
 考えるのは苦手だが、隼人は本気でそう決めたのだ。

 その日も、夢は見なかった。
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