四日目〜桑原・丸井戦〜
 ふぅ、と巴はため息をついた。早朝、自主練習の時間。巴は誰かを誘う気になれず、人のいないコートでサーブの練習をしていた。
 けれど何発打っても満足いくボールが打てない。
 別におかしなやり方はしていないはずだ。いつも通りにボールをトスして、いつも通りに全力で腕を振る。いつも通りにやっているはずだ。
 なのに体は思うように動かず、ボールも思い通りには動いてくれない。ライン際を狙えばアウト、あるいはネット。まともに入ったものもきっとこの合宿に来ている人間なら誰でもあっさり打ち返してしまうような打ち頃の球ばかりだ。
 なんで。なんでこんな風にしか動かないんだろう? 自分はもっと動けたはずだ。やれたはずだ。そう思っているのに。
 もう自分がどんな風にテニスをしていたかも思い出せなくなっている。自分のテニスって、どんなものだっただろう? どんな風に走り、どんな風にボールを打っていただろう。そういうことすらも。
「あぁ、もうっ! 私の馬鹿、馬鹿、馬鹿っ!」
 巴はぽかぽかと自分の頭を叩いた。ちょっと試合中に変なことを考えたくらいで、なんでこんなにあっさり乱れてしまうんだろう。どうして自分はこんなに弱いんだろう。隼人やリョーマだったらきっと、こんなことないのに。
「ホントに……バカだ……」
 隼人やリョーマと自分を比べたって、なんの意味もないのに。
「どうしてそう思うの?」
「きゃ!」
 不意にかけられた声に、巴は思わず飛び上がりかけた。おそるおそる振り向くと、そこには天野が立っている。
「ごめん、驚かせちゃった?」
「……きーくん」
 いつものようににこにこ笑顔でこちらを見つめる天野。巴は視線を合わせられなくて目を逸らした。こんな惨めな自分を見られるのは、相手が誰だろうと恥ずかしい。
「巴ちゃん、自主練しにきたんだよね。俺もなんだ。よかったら、ちょっと一緒にやらない? 一人より二人の方が効率いいでしょ」
「……うん」
 巴はうなずきながらもなんだかおかしいな、と思っていた。天野と自分はそれなりに仲はいいが、こういう風に二人きりで練習なんてことしたことなかったのに。いつもみんなと一緒の練習で、一対一で話したのなんか数えるほど。なのになんで急に?
 そんな訝る気持ちに気付いているのかいないのか、天野は巴の向かいのコートについて、手持ちのボールを取り出した。巴ににこにこと微笑みかける。
「とりあえず、軽くラリーからね。サーブこっちからでもいい?」
「うん……」
 ボールを数度跳ねさせてから軽くトスし、天野は緩いサーブを放ってきた。不調とはいえ、その程度のボールなら軽く返せる。だっと着弾地点に走ってびしっと全力でラケットを振り、振り抜いてからしまった、ラリーなのに全力で返したってしょうがないじゃないか、と気付いた。
 だが天野はその俊足でほとんどアウトボールのその球に、素早く追いついて精妙なタッチで緩くごく軽く打ち上げるようなショットを放つ。そのボールの勢いを巧みに殺す技に、巴は思わず唇を噛みながらも追いついて打ち返した。
 それからしばらくラリーが続く。巴がうまく打ち返せずに見当違いの方向に打ってしまっても、天野はしっかり追いついて打ち返してくれる。その事実に、安堵よりも強く嫉妬を覚えた。自分と違って、天野はしっかり着実に努力を積み重ねて技を磨いている。
 十分ほどラリーを続けて、天野はぽんっとボールをコートに跳ねさせて手でつかんだ。真剣だった顔をいつもの笑顔に変えて微笑みかけてくる。
「じゃ、この辺でちょっと休憩入れようか。喉渇いてきたでしょ? ドリンク作ってきたよ」
「ありがとう……」
 まともに天野の顔が見れない。こんな醜い、みっともない自分、誰かに見せたくはなかった。
 でもだからって逃げるわけにもいかないし、とベンチに座ってうじうじしながら差し出されたドリンクをちびちび飲んでいると、ふいに、ごく自然な口調で天野が言った。
「で、巴ちゃん、なにをそんなに悩んでるの?」
「っ!」
 思わずドリンクを噴き出しかける。思わず天野を凝視すると、天野は少し困ったように苦笑してみせた。
「隼人くんが言ってたから気付いたんだけどね。実際に打ってみて、ちょっとだけわかったかな。普段通りの、もしかしたらそれ以上のいいボールだったけど、ちょっと迷い……みたいなのが感じられたっていうか」
「…………」
「いや、迷ってるっていうのとはちょっと違うかもね。どうしたらいいのかわからない、みたいな。そんな途方に暮れた感じがしたんだけど、間違ってるかな?」
「……間違って、ないよ」
 巴はうつむいた。あっさりと見抜かれてしまった。自分の底の浅さに自嘲の笑みが漏れる。思いきり煩悶していたつもりだったのに、同じ一年にここまで簡単に見抜かれてしまうような程度の悩みだったということか。
「よかったら、話してみてくれない? 地面に掘った穴に叫んでるようなもんだと思ってさ。口に出してみたら考えを整理しやすくなるよ?」
「……だって」
「ん?」
 にこにこ笑顔で首を傾げてみせる天野。巴は言おうかどうしようか迷ったが、だんだんそのにこにこ顔が憎らしくなってきてぶっきらぼうに言葉をぶつけた。
「だって、きーくんに話したらはやくんやリョーマくんにも知られちゃうもん」
「………。あの二人には知られたくない?」
「…………」
 どうなのだろう。自分の中でもまだはっきりとした言葉になってはいない。
 けれど、そう。自分にはまだ隼人たちと向き合う勇気がない。
 彼らと真正面から向き合ったら、自分の中の汚いもの、嫉妬や苛立ちや悔しさを、あらいざらいぶちまけてしまいそうで怖いのだ。
 黙りこんだ巴に、天野はぽん、とその薄い胸を叩いた。
「わかった。じゃあ隼人くんたちには秘密にしておくよ」
「えっ」
「巴ちゃんがいいって言うまで、誰にも話さない。誓うよ。朋ちゃんや那美ちゃんにも、先輩たちにもね。それだったら、どう?」
「……なんできーくんがそこまでするの? ていうか、はやくんたちに頼まれて聞き出しにきたんじゃないの?」
「あ、やっぱわかってたか」
 天野は苦笑したが、また真剣な顔になって言う。
「隼人くんたちは、巴ちゃんを心配してるよ。そりゃもう、すごい勢いで頭ぐるぐるさせてる。でも、それと巴ちゃんの悩みをどう解決するかとは別のことだと思うんだ」
「え……」
「悩んでる時って、迷宮にはまり込んだみたいな状態だよね。必死になんとかしようとしてるのに頭は同じところばっかりぐるぐる回ってる。でもさ、それってたぶん、しょうがないことなんだと思うんだ」
「しょうが……ない?」
「うん。なんていうかさ……悩みって悩み終わったあとならなーんだこの程度のことに悩んでたのか、って笑い飛ばせちゃうことが大半だと思うんだ。でも、悩んでる最中はそんなこと考えることすらできない。それこそこれをなんとかしないと人生終わっちゃう、みたいな気分で考えまくっちゃう。それはたぶん、そのことばっかり考えて悩む時間がその時の自分に必要だからなんじゃないか、って思うんだよね。……受け売りなんだけど」
「必要、って」
「さんざん悩んで、考えて。そういう時間を自分の納得いくまで使わないと、自分で納得できないっていうか、もういいんだ、って思えないんじゃないかなって。だから、悩むな、とは俺は言えないし、言わない。そのせいで心配かけても、そのくらいはしょうがないって思うよ。俺たちは……隼人くんもリョーマくんも那美ちゃんも、巴ちゃんのことが好きだから、そういうことだって受け容れる。俺たちが心配してるってことさえ覚えておいてくれればね」
「…………」
「で、俺は巴ちゃんが今感じてるもやもやとかイライラを、ぶつけられる場所くらいにはなれると思ってるんだけど、どうかな? 俺じゃ力不足かな?」
「そんなこと……ないけど」
 巴はまたうつむいた。こうまで言ってくれる人に対して応えたいという気持ちと、こんな自分にそんなこと言われても応えられないという気持ちがせめぎあう。
 結局、こんな言い方になった。
「きーくん……どんな風にテニスをすればいいのか、わからなくなったことってある?」
「え」
 天野は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んでうなずいた。
「あるよ」
「……あるの? いつ?」
「んー」
 天野は小さく苦笑してから、口を開いた。なにか遠いものを見るような目をしながら。
「俺がさ、中学入るまでテニスやめてたことって知ってる?」
「え……ううん、聞いたことない」
 天野がジュニア経験者で、それなりに強かったということは聞いているけれど、そんな話は初耳だ。天野は気にした風もなく笑った。
「そっか。……俺さ、小学生の頃わりと強くて、けっこういろんな大会に出てたんだよね。で……たぶんいい気になってたんだろうなぁ。ある試合の時にね、俺の打った球が対戦相手の頭に直撃したんだ」
「!」
「その子は救急車で運ばれていって。俺はもうパニックになって、試合を放棄した。相手に大事はなかったんだけど……怖かったんだよなぁ。また同じことがあったらどうしようって。また対戦相手を傷つけちゃったらどうしようって。怖くて怖くて……逃げ出したんだ。対戦相手から、勝負から、テニスから」
「…………」
 巴は呆然と天野を見つめていた。いつも通りの笑顔で淡々と話す天野。その裏に、その陰に、そうして普通に話せるようになるまでに、どれだけの苦しみがあったのだろう。
「それで青学に入学するまでまともにラケットも握らなくなった。どんな風にテニスをすればいいのか、どうすればあんなことをもう二度と起こさないようにできるのか、わからなくて」
「……なんで、今は普通にできるようになったの?」
 巴のおそるおそる発した問いに、天野はまた苦笑した。
「俺の場合は数年のブランクがあったからね。リョーマくんとの出会いをきっかけに、もう一度テニスをやってみる気になって。改めてラケットを握ってみたら、気付いただけだよ」
「……なにに?」
「自分がどれだけ、テニスがしたいのかってことに」
「…………」
 テニスがしたい。そのシンプルな言葉の重みに、巴はぎゅっと唇を噛んだ。
「私……っ」
 今の自分には、それに応える言葉がない。なにを言っても、ただの甘えだという気がしてしまう。自分のテニスが、自分の目指すテニスができないなんて、結局はただ甘えているだけではないのか。
「……たったそれだけのことに気付くのに俺は数年かかったんだよ」
「え」
「だから今巴ちゃんが悩んでることが悪いとは思わない。ごく当たり前のことでも、自分でそうなんだ、って納得できなきゃどうしようもないからね。でも、その手伝いができるならいくらだってしたいって思う。俺は、巴ちゃんのこと大切な仲間だって思ってるからね」
 にこ、と微笑む天野に、巴はうつむいた。涙がこぼれそうになるのを必死に堪える。どうしてこの人はこんなに優しい言葉を、当然のようにかけてくれるのだろう。
「……私……っ、自分のテニスが、できなくて」
「……うん」
「一生懸命練習してるつもりなのに、手を抜いてなんていないのに、なにやっても私の理想のテニスに全然近づいてないってわかって、体の動かし方までわかんなくなってきて……」
「そっか。辛いね……」
「うん……っ。それではやくんにまで当たっちゃって、もう自分で自分がすごい嫌で、どうすればいいのかわかんなくなっちゃって、もう、ホントに、もう……」
 こぼれるな、涙。ここで泣いたらよけい相手に気を遣わせちゃうじゃないか。しっかりしろ私!
 必死に自分に言い聞かせるが、溢れ出した涙は止まってはくれなかった。ぽた、ぽたぽた、と下に落ちて、スコートの膝に染みを作る。
 天野はさすがに驚いたように息を飲んだが、すぐに慌ててばたばたとポケットをひっくり返し、そっとハンカチを差し出してくれた。きれいにアイロンをかけられたそのハンカチにやっぱりきーくんだなぁ、とおかしくなりながら、巴は「だいじょうぶ……」と首を振って自分のハンカチを取り出す。
 涙が止まるまで少し時間がかかったが、天野は黙って隣にいてくれた。本当にいい人だなぁ、と思いながら、巴は顔を上げて笑ってみせる。
「ごめんね。ありがとう、きーくん。私、自分なりに、やれるだけ頑張ってみる」
「そっか。無理しないように、頑張って」
「うん……ホントに、ありがとう」
「いいよ。同じ学校の仲間じゃない。……隼人くんたちには?」
 少し考えたが、巴は首を振った。
「もうちょっと……待ってほしいって言っといて。ちゃんとはやくんたちと向き合う覚悟ができるまで。あと、心配かけてごめんって」
「うん、わかった」
 天野はにこっと笑って立ち上がった。
「じゃ、せっかくだからもうちょっと練習しようか。お互い、少しでも殻を破るきっかけになるかもしれないし」
「うん!」
 巴も今度は笑顔で返すことができた。それから朝食の時間までラリーを続け、今度は少しはマシにラリーを続けられた。天野が『お互い』と言ったことには最後まで気付かないまま。

「木更津さん、おはようございま〜す!」
 元気に声をかけた巴に、木更津はいつもの笑顔で答えた。
「おはよう。クスクス、キミっていつも朝から元気だよね」
「あはは、まぁ、それが取り柄ってもんですし。……そうだ、木更津さん。私、合宿の初日に六角中の人たちと会ったんですよ。六角中って、前に木更津さんがいたトコですよね。もう、お友達と話をしたりしたんですか?」
 と、そこに長髪に赤い帽子をかぶった男子が近寄ってきた。笑顔で木更津に声をかける。
「あ、淳じゃないか。同じ建物にいるのに、けっこう会わないもんだな」
「ああ。……久しぶり」
「その赤いハチマキはなんだよ?」
「……木更津さん、その人は……?」
 選抜ユニフォームでは学校名もわからない。首を傾げる巴に、木更津は肩をすくめる。
「ああ、これは六角中の木更津亮だよ。僕の双子の兄貴」
 そういえば観月から聞いたことがある。木更津の兄と木更津がそっくりな双子なので、見分けるために髪を切らせてハチマキをつけさせたのだ、とか。
「おいおい、『これ』かよ? 兄貴に向かって」
「いいだろ、別に? 僕があとに生まれただけだろ。昔だったら僕の方が兄貴だし」
「あ、それ聞いたことあるかも……。でも双子に会うなんて初めてです! 感激〜!」
 にこにこ笑顔を振りまくと、木更津兄弟はくすくすとさすが双子だけあって似ている笑みを浮かべた。調子に乗って訊ねてみる。
「あ、聞いていいですか?」
『なにを?』
「双子ってどんな感じなんですか?」
「別に間違えられることが多いってことくらいで、あとはフツーの兄弟と同じだよ」
「そうだね。つい同じことをやって張り合ったり、ワザと全然違うコトしたり……」
『入れ替わって、人をからかったり』
「はあ、そうなんですか〜。うーん、よくわからないですねぇ」
 入れ替わるというのは普通の兄弟では無理だろうが。
「すみません、変なこと聞いて。ありがとうございます」
「そろそろ朝食だろ?」
「じゃあ、また練習で」
「はい、失礼します」
 ぺこりと頭を下げて巴は食堂へと向かった。双子をナマで見れるなんて貴重な体験しちゃった、と思いながらもぎゅっと拳を握り締めている。
 よし、普通に話せた。この調子でテニスの方も普通の調子になれるよう頑張ろう。めいっぱい頑張らないと。そうでなくとも自分は合宿に来てる人間の中で一番下手なんだから。

「あー、おいしかった! 朝ごはんはちゃんと食べないとね!」
 なんたって朝食は黄金の食事、というのが京四郎の持論のひとつなのだ。京四郎を(困ったところは多々あると認めつつも)誰よりも尊敬している巴としては、朝食をおろそかにするわけにはいかない。
「モエりんってば、いつも思うけどホントによく食べるよねぇ」
「うん! ごはんは元気の源だもん、しっかり食べないと!」
「それはそうだけど、あんまり食べすぎても体に悪いよ?」
「そうだね、無駄な肉がついても動きが重くなるし」
「う……」
 一緒に食べていた小鷹と鳥取にそう言われ、巴は言葉に詰まった。確かに今日は、ちょっと普段より食べすぎてしまったかもしれない。元気を出さなくちゃ、という気持ちでいっぱいで。
「那美ちゃんって、すごいよねぇ……」
 巴はしみじみ言って、そうため息をついた。
「え? なに、突然」
「私と同じ一年なのにさ、青学で同じ授業受けてるのにさ、テニス知識も勉強もスポーツドクター兼トレーナー志望の私よりずっとすごいし。テニスも私とは比べ物にならないくらいうまいし。鳥取さんもすごいけど、一年差があるからこれから一年頑張れば追いつけるかな、って希望抱けるのに、那美ちゃんは私より年下なのにすごいんだもん。しみじみ差感じちゃう」
「……なに言ってるのモエりん。それを言ったら、テニス初めて一年でJr.選抜に選ばれちゃうモエりんの方がよっぽどすごいじゃない」
「そうかなぁ……」
 巴は再びため息をつく。本当にそうだろうか。そうだとしても、自分が今この合宿でおそらく一番下手だということには変わりない。今の自分は、夢をかなえるどころか、自分の理想の、自分自身のテニスをすることすら、できるかどうかおぼつかない状態なのだし。
「理想のテニス、か……」
「え、なに?」
「あ、ええと……」
 なんでもない、と言おうかと思って、ふと考え直した。もしかしたら二人の話から今の状態を打開するような言葉が聞けるかもしれない。
「あのね……那美ちゃんと鳥取さんにとって、理想のテニスって、どんなもの?」
『え?』
 二人は声を揃えて目をぱちくりさせてから、素直に考え込んでくれた。先に鳥取が口を開く。
「私は、男子の選手だけど、ナダルかな……あの俊足とタフさは、やっぱり憧れちゃうよ」
「え? あ……プロテニス選手、ですか」
 考えてみたらそれが一番普通の答えかもしれない。この時代ではどんな分野もそうだろうが、特にスポーツにおいては目指すべき高みの情報はいくらでも入ってくる。その中で自分なりの理想を見つける人も多いだろう。
 でも巴にとってはそういうのは少し違う気がする。自分の中の理想のテニスというのは、もっと身近で、自分のテニスの、もっと言うならば心構えの基本となるもののような気がしていた。
 え、基本? と自分で考えてから首を傾げる。自分のテニスの基本って、そんなものがあったのか? 自分でも気付いていなかったのに。もしそうだとしたら、それはなんだろう?
 考えていると、今度は小鷹が口を開いた。
「私は、手塚先輩、かな。別に手塚先輩のプレイスタイルを真似たいっていうんじゃなくて……あの完成度の高さが今一番目標に近いっていうか」
「ああ、手塚先輩……」
 それはわかるかも、とうなずく。鳥取の答えよりは自分の答えに近づいた気がする。手近な目標。目指すべき高み。それはいつも当然のようにそばにあるものなのだ。
 そこまで考えて、あ、と気がついた。
「那美ちゃん!」
「え、なに、モエりん?」
 がっし、と手をつかんできっと小鷹の顔を見つめる。
「きっと私にとって理想のテニスは那美ちゃんだよ!」
「は……はぁ?」
 そうかそうか、そうだったのか、と巴は一人うなずいていた。考えてみれば自明のことだったではないか。巴がテニスを始めた時から小鷹のテニスはすぐ近くにあった。自分とは比べ物にならないほど完成されたそのテニスは、いつだって自分の憧れで目標だったではないか。
「私、これから那美ちゃんを師匠と呼ぶから! 那美ちゃんの一挙手一投足を観察して少しでも自分のものにしようと頑張るから、よろしくね!」
「いや……呼ばれても。ていうか、なんで私が理想なの?」
「それは」
「なんだよモエりん、お前までへび使いになる気か?」
 ふいに通りすがりにひょいと顔を出してきた桃城に、巴はきょとんとした顔をした。
「あ、桃ちゃん部長。なんですか、へび使いって」
「なんだ、お前知らねぇのか? 小鷹ってよ、『へび使い』って呼ばれてんだぜ?」
「へび使い? なんでですか? 那美ちゃんが笛を吹くとへびがにょろにょろっとツボから出てくるとか……」
「違げぇよ。あれさ、海堂をうまいこと操ってっからだよ」
「え、ええっ!? それは、その……」
「ああ、そっか。海堂先輩はマムシだからへび使い……ん? 那美ちゃんが海堂先輩を操る? ってどういうことですか?」
「モエりん! 桃城部長!」
「? ? ?」
 真っ赤になって怒る小鷹に、巴は首を傾げ、桃城は大笑いし、鳥取は苦笑を浮かべた。

「……だから、それは勘違いだってば」
「ええ!? だって師匠、師匠のテニスはいつだって私の目標で」
「だから師匠はやめてよ。モエりん練習試合の時に私に勝ったことあったじゃない。モエりんの理想ってそんなに簡単に乗り越えられちゃうものなの?」
「うー、でもなぁ……」
 素振りをしながらこっそり巴と那美は話をする。朝食の時の話にまだ決着がついていないのだ。
「でもさ、し……那美ちゃんのテニスは本当にきれいで、基本ができてるっていうか。整ってるっていうか。一年の中でもすごくバランスがいいって乾先輩が褒めてたくらいだし。いつもずっと憧れてたんだよ?」
「……私のテニスを真似したって、モエりんは強くなれないよ」
「えぇ!? やっぱり修行が足りなすぎる?」
「そうじゃなくて。……私のテニスとモエりんのテニスは違う≠チてこと」
 そのどこか固い、平板な、ひどくきっぱりとした言い方にどうしたんだろうと思いつつも巴は眉を寄せて考えた。小鷹がこうもはっきりと言うということは本当に自分のテニスと小鷹のテニスは違うのだろうか。
 でも、自分のテニスを形作る時に巴の中に常に小鷹のテニスがあったのは確かなのだ。ラケットの握り方すら一年前までろくに知らなかった自分の基本となったテニス。それは間違いなく青学の先輩たち、そしてそれ以上に同学年で一緒に頑張ってきたレギュラーたちのものなのだから。
 そして一番多く試合をしてきたのは小鷹だ。そのほとんどは遊ばれているような形でしかなかったけれども。同じ家に住んでいる隼人とリョーマは、いつも自分たち二人で打っていて巴とはろくに打ってくれなかったのだから。
 ちくん。
「……あれ」
 今、なにか嫌な気分になったような。
「そこ! 私語は慎め!」
「はいっすいませんっ!」
 榊コーチの声に、巴は慌てて素振りに集中する。Jr.選抜の素振りだから普通にただ素振りをするだけではない。並んでやっている選手たちの間にコーチ(選抜のコーチは榊コーチだけではない)が回り、フォームを矯正したりしてくれるのだ。
「こら、そこ! なんだそのフォームは!」
「は、はいっすみませんっ!」
 すぐ近くで怒鳴られて巴は思わず飛び上がったが、すぐにきっと声の方を向いて頭を下げる。練習は全力でやらなければ、絶対に理想のテニスになんて近づけない。
「すいませんっ、どこが変なのかどうかご指導お願いしますっ!」
「む……うむ」
 まんざらでもなさそうな顔でコーチはうなずき、巴に近づいて体に触れつつ指導を始めた。
「ほら、手で打つんじゃない! 下半身を固定して上半身を大きくひねるんだ。軸をきちんと固定して!」
「はいっ」
「ああもう、そうじゃない! 打点は自分の体より前だ! そんなことは常識だろう、そんなことも知らないのか!?」
「すいませんっ」
「まったく……Jr.選抜でこんなことを教えることになろうとは。補欠枠の選手はしょせん補欠枠だということか!?」
「……っ、すいませんっ」
「赤月博士の娘ともあろう人間がそのていたらくとは。兄とはえらい違いだな! 父親の名を穢す気か、それとも本当に赤月博士の高名は噂だけか、あぁ!?」
 どこか楽しげに言い立てるコーチに、巴はぐっと唇を噛んだ。
 駄目だ、泣いちゃ駄目だ。わかってる、こんなのはただの気合入れだ。自分だって(レギュラーではない)先輩たちによくやられた。このくらい跳ね返せなくちゃ本当に補欠枠は補欠枠でしかないって、お父さんの名前が噂だけってことになっちゃう。
 わかってるのに、心のどこかが泣き叫ぶ。
『私は隼人とは違う! 隼人と私を一緒にしないで! 隼人はお父さんからちゃんとテニス教育受けたけど、私は受けてないんだもん!』
 そんなことを言うのは嫌だ。そんなのは甘えだ。最初に京四郎にテニスをやるかと聞かれた時に、首を振ったのは自分だ。自分で選んだんだ。テニスをやると決めたのも自分の選択だ。わかってる、わかってるのに。
 なんで、こんなに隼人と比べられることが悔しいんだろう。
 うつむいて必死に涙を堪えていると、ひょい、と目の前にラケットが突き出された。
「……え」
「プリッ」
 真剣な顔でそう言って肩をすくめたのは立海大付属の仁王だった。ぽかんとする巴の前でざっざっざっ、と素早く素振りをしてみせ、くるりとコーチの方を向く。
「さて、コーチさん。今の素振りでどこか注意する点はあったかぇ?」
「え、い、いや特にはなかっただろう。立海大付属の仁王雅治のストロークは何度も見たが、いつもフォームは完璧だったしな」
「ほうかほうか、完璧か」
 うんうん、と仁王は真面目な顔でうなずいてからべろん、と舌を出してみせた。
「ほんならあんたの観察眼はJr.選抜のコーチにふさわしいレベルがやないってことじゃな」
「なっ」
「俺のストロークは意図的に癖をつけてあるんじゃ。場合によって癖を変えて、相手が無意識のうちに混乱するようにな。今のは特に癖を強くした。それが見抜けんようじゃ、俺らを指導するにゃあちっくとばかり力不足なんやか?」
「……っ、貴様、コーチに向かって!」
「仁王くん、失礼ですよ。相手はJr.選抜のため選ばれたコーチです。むろん、心身ともに磨きぬかれたスポーツマンであることでしょう」
 すっと横に出てきたのは柳生だ。くい、と眼鏡を押し上げながら柔らかにそう言った、と思ったら表情を一気に冷然とさせてすっとコーチを見つめる。
「なのですから、まさかいたいけな一年生女子を泣かせて楽しむような下劣な心根の持ち主ではないでしょう。そのようなコーチがいたとしたら、立海大付属の全力をもって合宿から追い出さざるを得ません」
「っ……」
 コーチは顔を真っ赤にして、それでも分が悪いのを悟ったのだろう、くるりと背を向けてずかずかと歩み去った。巴はしばしぽかんとそれを見つめ、はっと我に返って仁王と柳生に向け頭を下げる。
「あの、ありがとうございます。助けてくださった、んですよね? お気持ち、嬉しいです」
「なに、気にせんでいい。あのコーチが気に入らんかったからいじめてやったばあじゃ」
「仁王くん。……本当に気にする必要はありませんよ、赤月さん。選手のプライドを傷つけることで奮起させるという方法は確かに有効ですが、行きすぎては選手のメンタルに深刻なダメージを与えますからね。それをわかっていない……いや、わかっていたのかもしれませんが、あなたを……可愛らしい女子をいじめて楽しんでいるようなコーチを見過ごせなかっただけですから」
「え? 私、いじめられてたんですか?」
 思わずきょとんとした顔をすると、二人揃ってまじまじと見つめられ、それからぷっと吹き出された。え? え? と二人の顔を見比べると、くっくと笑いながら仁王が言う。
「なかぇか見事な鈍感っぷりじゃな。今にも泣きそうくじゅうちょったがくせに」
「な、別に泣いてないですよ! あのくらいのことで泣いたりしません!」
「ほほー。目を潤ませてうつむいて唇噛きいたのはどこのどなたじゃったかぇ?」
「あ、あれは自分に気合をこめていたんです!」
「仁王くん」
 柳生が厳しい声を出すと、仁王は飄々とした顔で肩をすくめた。うー、といったん睨みつけてから、あ、とふと気付いて巴は声を上げた。
「仁王さん、さっきの……意図的に癖をつけてるって話、本当ですか? 私全然気付かなくて、本当だったらすごくすごいなって思ったんですけど」
 仁王はくす、と笑んでまた肩をすくめる。
「ああ、本当じゃよ。さっきの素振りには癖なんぞつけとらんかったがな」
「……は?」
 ぽかんと口を開ける巴に、柳生がため息混じりに説明する。
「仁王くんは、もしあのコーチが癖をつけていることに気付いていても癖を指摘できないようにしたんですよ。『ある』ことを証拠立てるのは簡単ですが、『ない』ことを証拠立てるのは極めて困難ですからね」
「うわぁ……ズルイ。仁王さんって、さすが詐欺師って呼ばれるだけありますね?」
「お褒めに預かり光栄の至りじゃな」
「褒めてな……いやでもそれもある意味スゴイですよね。そこまで考えて人にちょっかい出すなんてすごいですよ。柳生さんも優しい口調なのに毅然としてるし、仁王さんのペテンにも当然のよーに対応してるし。さすが紳士≠ナすね!」
 大きくうなずいて真剣にそう褒めると、仁王と柳生は顔を見合わせ、また吹き出した。
「おんし、まっことしょうえい奴じゃな」
「は? しょうえ……って」
「彼は『面白い奴だな』と言っているんですよ」
「面白いって……私ギャグのセンスあんまりないですよ? 一度漫才の練習したことがあるんですけど見てた人全員どっ引きで」
「いやそういうことじゃのうてな」
 くっくと笑いながら、仁王はつん、と巴の額をつつく。
「またプレイが見とぉなる、ってことじゃ」
「今日の試合、楽しみにしていますよ」
 そう言って練習に戻る二人に、巴は思わず拳を握り締めた。
 二人の言葉で思い出してしまった。コーチにも言われた。
 今日まともにプレイができるかどうかもわからないほど、今の自分はテニスのやり方がわからなくなっているということ。自分の未熟さ。至らなさ。Jr.選抜の中で一番、テニスが下手だということを。

「はぁ……」
 昼食の皿を見つめながら、巴はため息をついた。食欲が出ない。でも、食べないと午後の練習に支障が出る。
 どうすればいいのかな、とまたため息をつくと、隣のテーブルから菊丸と天根が顔を出してきた。
「どうした? お皿の中身、ぜーんぜん減ってないじゃん」
「元気がないみたいだな」
「あ……。いえ、ちょっと」
 巴が言葉を濁すと、菊丸はむぅ、と頬を膨らませてから笑顔になり立ち上がった。
「なんだなんだ。そんなくっらい顔してちゃダメダメさんだぞ。よし、そんじゃ俺のとっておきのギャグを披露しちゃうよん」
「え……」
「菊丸に聞くマーク! ……どうだ!」
 思わずぽかんとする巴の前で、天根はいつもの真剣な顔で隣のテーブルにいた黒羽をつつく。
「バネさん、バネさん」
「ん? なんだ、ダビデ」
「バネと一緒に遊ばねぇか? ……プッ!」
 巴がまたもぽかんとすると、黒羽は怒りの形相で素早く立ち上がり宙に舞った。
「俺をネタにすんなっ!」
 どげしっ! と飛び蹴りを入れられる天根。それを見ていたら、思わず吹き出してしまった。
「……ぷっ! あはははっ、なんですかそれ! めちゃくちゃツボですよ〜。あははは、笑いが止まらない〜!」
「なぁなぁ、どっちの方が面白かったんだ?」
「えーと、菊丸先輩のも面白かったですけど、個人的には天根さんの方がグッドでした」
「……そうか。俺としてはそこでツッコミがほしいんだけどな……」
「そ、それは黒羽さんにお任せしますよ」
「本当に迷惑かけてスマン。俺が責任もって突っ込むからカンベンしてやってくれ」
 頭を下げる黒羽に、本当に漫才コンビみたいだなぁ、とくすくす笑っていると菊丸がにかっと笑った。
「うん、少しは元気になったみたいだな。よかったにゃ」
「え……」
「お前、やっぱり笑ってる方がいいぞ」
「は、はい。ありがとうございます。気を遣ってくださって」
 ぺこり、と頭を下げて巴はまた笑った。ありがたい。隼人たちだけでなく、自分はいろんな人に心配され、気を遣われている。
 それにどれだけ応えられるのだろう、と思うとまた食欲が失せそうだったが、できるだけその思考を頭から追い出して昼食をちゃんと食べ終えた。

 食堂を出ようとすると、声をかけられた。
「やあ、赤月さん」
「あっ、千石さん、こんにちは!」
 にこっと元気に笑いかけると、千石はくすっと笑い返してきた。
「お昼はもう済んだのかい?」
「はい。もう、終わりましたよ」
「だったら、どう? これから軽く打ち合わない?」
「いいですね! ぜひ、お願いしますよ」
 自分のテニスを取り戻すために、自分の理想に近づくために、隼人とリョーマに負けないためにも練習できる機会は多い方がいい。勇んでうなずくと、千石はにこりと笑って言う。
「じゃあ、コートへ行こうか」
「はい!」
 連れだって向かったコートにはあまり人がいなかった。少し寂しい気分で千石を見上げる。
「さすがに空いてますね」
「このあともハードな練習が待っているからね。身体を休めているんじゃないかな」
「なるほど」
 そんなことを話していると、また声をかけられる。
「なんだ、巴も自主練か?」
 振り向くとそこに立っていたのは不動峰の神尾と伊武だ。巴は笑顔になってぺこりと頭を下げた。
「あっ、神尾さん、伊武さん。こんにちは! これから千石さんと軽く打ち合うんですよ」
「へぇ、そうなのか。だったら、ダブルスしねぇか? こっちもふたり、そっちもふたりなんだしよ」
「そうですね。それもいいかも!」
「うん、オモシロい。その提案に俺も乗らせてもらうよ。今日のラッキーカラーは黒だしね」
 和やかに話が進む中、伊武は一人そっぽを向いていつも通りにぶつぶつボヤいていた。
「あー、また、神尾と組むのか……あの『リズム』ってセリフ、何とかしてほしいんだよなぁ」
「なっ!?」
 ぼそりと呟かれたその台詞に目を見開いてから、神尾はムッとしたように唇を尖らせた。
「……そうかよ、わかったよ。俺が巴と組みゃあ、文句はねぇな」
「ちょ、ちょっと、待ってくれよ。なに勝手に決めてるんだよ」
 慌てたように千石が一歩前に出る。いくぶんムッとしたような顔になっていた。
「赤月さんを誘ったのは俺だってこと、忘れないでほしいな」
「千石さんのパートナーってことで巴を練習に誘ったわけじゃないっスよね?」
「そりゃあ、そうだけどさ……」
 わずかに険悪な雰囲気が発生したのを感じ取り、巴は慌てた。
「あ、あのっ、ふたりとも、落ち着いてください!」
「あーあ、巴のせいでメチャクチャだね。キミが収拾つけるしかないんじゃない?」
「そ、そうですね。わかりました!」
 伊武の発言には少しばかり反論したいところもあるけれども、練習時間を無駄にするわけにはいかないし、争いの原因(たぶん)の自分が収集をつけるのが一番いいだろう。千石か、神尾か。伊武を選んで喧嘩両成敗というのもアリだ。
 が、巴はすぐに決めた。
「千石さん、お願いします!」
「よぉし、ラッキー! 改めてよろしくね、赤月さん」
「はい!」
 千石の笑顔に自分も笑顔で答えつつ、巴は気合を入れた。神尾たちとはすでに何度かダブルスを(練習時に)組んだことがあるが、千石とはこれが初めてだ。いろんな人と組んでできるだけ多くいろんな経験を積まなければ。
「……やっぱり、こうなる運命なんだ」
「ボヤくなって! ほら、行くぞ、深司」
 コートの反対側に向かい合い、言葉をかけ合う。
「そんなに時間があるわけじゃないから1ゲームマッチで行くよ。いいかな?」
「いいっスよ。さぁ、リズムを上げてくぜ、深司!」
「……ああ。……まったく、リズムってなんだよ。バッカじゃないの」
「なんか言ったか?」
「別に……」
 いつも通りの会話。だが巴は一人緊張していた。ちゃんとテニスができるんだろうか。今の自分がやって、まともなテニスになるんだろうか。
 いや、迷うな。試合の時に迷ったらもうその時点で負けだ。自分だけじゃなくて千石さんにも迷惑をかけることになる。
 何度か深呼吸をしながらベースラインに向かう。と、「あ、赤月さん」と千石に不意に声をかけられた。
「あ……はい。なんでしょうか?」
「んーと、ね」
「はい」
 少し考えるような顔をしてから、千石は軽い口調で笑顔になり言った。
「ちょーっと俺と一緒に深呼吸してみよう!」
「え……」
「はい、吸ってー。吐いてー。吸ってー。吐いてー」
 目の前の千石を見つめながら、言われるままに深呼吸をする。だがなんで急にこんなことをするのだろう、と思ってじっと見つめていると、千石はちょっと照れたように笑いながら言った。
「そんなに緊張しなくてもいいよ」
「え?」
「なんていうかさ、軽い練習みたいなもんだし。もちろん勝つつもりでやるけど、俺シングルスプレイヤーだからダブルスにはあんまり自信ないし」
「はぁ」
「だから、つまりね、楽しんでやろうってこと。せっかくの二人で初めてのダブルスなのに、楽しまなくちゃもったいないだろ?」
「…………」
 巴は思わず目を見開いていた。二人で初めてのダブルス。つまり、この人は。
「あの、千石さん、私とまた組んでくれるつもりだったんですか?」
「え? そ、そりゃーもちろん。学校も違うしいつも組むってわけにはいかないだろうけど、俺としては赤月さんとこれからも親しく付き合っていきたいなー、とか思ってるしね」
「…………」
 笑顔で言う千石を思わずまじまじと見つめてから、大きく笑顔でうなずいてしまった。
「はい! 頑張りましょうね、千石さん!」
「えっ、あ……うん、もちろんだよ!」
「……おい、いつまで話してんだよ」
「……ったく、試合前に試合相手を待たせていちゃつくってどういう神経なのかな。普通の神経持ってたらできないんじゃないの? まー別にキミが普通の神経してるなんて思ってないけど。それでも常識的にどうかとか思わないわけ? あー、そもそもキミに常識うんぬんする方が間違ってたてことか、そりゃそうだよね……」
「す、すいませんっ、今すぐ打ちます!」
 慌ててベースラインに向かう。それでも、さっきよりはだいぶマシな心境だった。千石が自分とのダブルスに少しでも価値をおいてくれた。そしてこの試合は無理をしてまで勝つ必要はない。その自覚が心身をいくらか軽くしてくれたのだ。
 もう一度軽く深呼吸をしてサーブをしてからは、なにも考えなくても体のほうが勝手に動いてくれた。結果、ストレートで自分たちの勝ち。
「やったぁ、勝ちました!」
「うん、チームワークの勝利だね」
 二人とも笑顔で手を打ち合わせる。神尾は小さく舌打ちした。
「ちっ、あー負けちまったか」
「あー、負けたのって、きっと俺のせいなんだろうな……」
「そんなこと言ってねーだろ」
 神尾と伊武のいつも通りの掛け合いに思わずくすりと笑んでいると、千石がふいにすっと顔をのぞきこんできた。
「わ、千石さん。なんですか?」
「いや……なんていうか、ね」
 少し言葉を選ぶように間を置いてから、にこっと優しい笑顔で千石は言った。
「楽しかったよ、赤月さん。ダブルスがこんなに面白いって思ったのは初めてだった」
「え……」
「今度はちゃんとした試合で組んでみたいって思ったよ」
 思わずぽかんと口を開ける巴に、くすりと笑って頭を軽く撫でてから千石は神尾たちに向き直り言った。
「あ、もう休憩時間も終わりだね」
「……あ、本当だ。じゃあ、昼の合同練習も頑張っていきましょう!」
 巴が気合を入れて言うと、神尾たちもうなずく。
「ああ、頑張っていこうぜ!」
「うん、頑張ろう!」
「……ここで『頑張ろう』って言わないと、引くだろーなぁ。シラケるだろーなぁ。じゃあ、言ってあげるよ。『頑張ろー』」
『はははは!』
 そんな風にして、この日の昼休みは終了した。巴はこっそり千石の言葉に『面白いって笑えるっていうことだろうか』とか真剣に考えていたが。

 練習が終了し、練習試合のくじを引く。ドキドキしながら対戦表を見たが、まだ対戦相手は決まっていなかった。少し気が抜けたが、緊張は取れない。何度も深呼吸していると、真田がつかつかと歩いてきて言った。
「赤月」
「あ、はい。なんでしょう?」
「こちらに来い」
 そう言って背を向けまたすたすた歩き出す真田を怪訝に思いながらも追う。そこに立っていたのは立海大付属の桑原と丸井だった。
「桑原さん、丸井さん……」
「おう……」
「よぅ、巴ぃ」
「今日のお前の対戦相手はこの二人に決定した」
「え!?」
 思わず目を見開く。巴は女子ミクスドの選手だ。当然ながら男子ダブルスと勝負することは普通ない。一日目に季楽・日吉ペアと一緒にやったのは、あくまで例外的な措置のはずだ。練習試合とはいえ、ちゃんとした試合ではありえないはずなのに。
「本来なら女子であるお前と男子ダブルスが試合をすることはありえないのだが。今日は係員がミスをしたようで、ダブルスとして申し込んでいた選手と基本シングルスだがダブルスも可として申し込んでいた選手のくじが混ざってしまったようなのだ」
 真田は厳しい顔で言葉を続ける。桑原は困ったような顔、丸井は面白がるような顔をしたままだ。
「当然だが一日目のようなレベルの選手ならともかく、我が立海大クラスの選手を相手にするには、お前のような女子では荷が重い」
「っ……」
「そこで、今日は俺がお前のパートナーを勤めることとなった」
「えっ」
 思わず目をむいて真田を見ると、真田は厳しい顔でうなずく。
「お前とは初めて組むことになるが、桑原と丸井とは何度も戦っているし、実力的にもお前のフォローには一番適任だと判断された。よろしく頼む」
「………」
「俺は女子選手と男子ダブルスが試合なんてむちゃくちゃだって言ったんだがな……」
「別にいいだろぃ。俺一度くらい巴と試合してみてぇって思ってたしな」
「そういう問題じゃねぇだろ。男と本気で試合なんてしたら、女には危険もあるし」
「それってダンジョサベツってやつじゃね?」
「お前ら、黙らんか! ……他の選手がいいということなら、代わるが?」
 きっと厳しい顔で睨むようにこちらを見つめる真田に、巴は首を振って頭を下げた。
「いいえ。私はこれで文句ありません。よろしくお願いします、みなさん」
「……うむ」
「……うぅ」
「シクヨロ」
 厳しい顔を崩さない真田、困った顔を続ける桑原、面白がるような丸井。たぶん彼らには、自分との試合などあくまでお遊びのようなものなのだろう。
 だが、自分は違う。今の自分には、必死に自分のテニスをなんとかしようとする自分には、これはお遊びなんかじゃない。
 勝ちたい。自分の力で勝ちを手に入れたい。
 巴はぎゅっとラケットを持つ手を握り締めた。

 全力でサーブを打つ。神経を集中してできるだけライン際を狙ったつもりなのに、桑原はあっさり返した。
 コートの反対側に打たれたボールを、巴は全力で走って辛うじて返す。丸井が得意の鉄柱当てでポイントを決める。必死に走ったが巴の足では届かなかった。
 ぐ、と唇を噛み、今度はニンジャ・サーブを打った。一発目は決まったが、次に打ったサーブは桑原があっさり追いついて返した。全力で走って打ち返すが、丸井に見事なボレーを決められてしまう。
 必死に走る。だがそれより先に真田がそれを強烈なストロークで返した。桑原はそれを拾えない。
「30-15!」
 審判のコールのあと、真田がこちらを向いてひどく厳しい顔で言った。
「なにをしている、赤月。パートナーのボールと自分のボールも見分けられないのか。それでもダブルスプレイヤーか!」
「すいませんっ……」
 ぐ、と巴は血が出そうなほど唇を噛んだ。悔しい。たまらなく悔しい。必死で頑張っているつもりなのに、なんとかしようとしてるのに。それでも、シングルスプレイヤーのフォローにも自分のプレイはなっていない。
「……えぇいっ!」
 全力でボールを打つ。駄目だ、こんなのじゃ駄目だ。もっと、もっと上に、ちゃんと。
「はぁっ!」
 全速力で追いついて、変則トップスピンを打つ。まだ駄目だ、まだ切れが足りない。もっと、もっと強く、鋭く。
「せいっ!」
 全身で必死に跳躍し、悪夢への行進曲を出す。駄目だ、駄目だ、もっと、もっと、もっと! もっと―――
 ただそれだけを全身全霊で念じて走っていたら、ふいに「おい!」と肩をつかまれた。
「……え」
「なにをしている。試合は終わったぞ」
 のろのろと手の先を見上げる。自分の息がひどく荒くなっている、とぼんやり思いつつ。
「真田さん……試合結果は……?」
「……5-7でこちらの負けだ」
「あ……」
 ざっと顔から血の気が引いた。負けた。また、負けてしまった。自分のせいで、真田まで。
「おっでれーたな。巴、お前なかなかやんじゃん」
「ああ。まさかここまで食い下がられるとは思わなかった」
「なんつーか、女とテニスして面白いって思ったの初めてだぜ」
「そうだな。面白かった。その……ありがとう」
 そんな言葉も慰めにしか聞こえない。届かない。駄目だ。今の自分では駄目だ。全身全霊で戦って負けた。今のままじゃ駄目だ。もっと、もっと強くならなくちゃ。
 巴はたまらなくなって、ぺこりと頭を下げると全力でその場から走り去った。

 とにかく練習をしなければ。巴はそう決めた。
 理想に近づくためには、自分のテニスをちゃんとするためには、やはり練習しかない。それも今までのような甘っちょろいものではなく、とびっきりハードなヤツだ。それを全身全霊をこめてやり抜けば、理想のなにがしかはつかめるかもしれない。
 とりあえず壁打ち一万本。いいや十万本だ! そう決めて、巴は練習を始めた。
 今日一日ハードな練習を終え、締めに試合で思いきり走り回ったあとだ、どうしたって体は重いし腕は震える。けれどそれを懸命に叱咤して動かした。無理しなくちゃ。全力でやっても駄目だったんだから、その上をいく練習をやらなくちゃ。そのくらいしなきゃ誰にも追いつけない。理想なんて追えるはずない。
 荒い息を無視して、必死に走り、球を打ち返す。ラケットを取り落としそうな自分の腕を叱りつけ。
「……はぁ、はぁっ」
 走る、そして打つ。走る、そして打つ。こんなんじゃ駄目だ。こんなのは違う。
「はぁっ! せいっ!」
 こんなものじゃない、私のテニスは、もっと。走る、打つ、走る、打つ。
「せっ、やぁっ!」
 私の理想とするテニスは、もっと―――
「……あっ!!」
 ずるっ、と足が滑って巴は転んだ。思いきり膝をすりむいたようで、膝がひりひりと痛む。
 立たなくちゃ、起きなくちゃ。まだ練習は全然終わってない。そう思うのに、体がいうことを聞いてくれない。目の前がどんどん暗くなる。駄目だ、しっかりしろ私、そう自分に言い聞かせても体は少しも動かない。
「おい、巴! なにをやってる!」
 声がした。ぐらぐらと揺れる頭をのろのろと動かして声のした方を見上げると、そこには跡部がこちらを怖い顔で睨んでいる。
「あ……跡部さん。ちょっと、特訓を……」
「特訓だと?」
「理想のテニスに少しでも追いつくために、全力以上の、特訓を……」
 のろのろとそう言うと、跡部はチッと舌打ちした。
「くだらんな。だから、倒れるまで練習したってのか?」
 この言葉には、巴も倒れながらもムッとした。
「跡部さんには、くだらないん、でしょうけど」
「いいか、巴。俺の前に、そんな無様な姿をさらすことは許さねぇ」
「え」
 言うや、ふわ、と体が地面から浮いた。すぐ目の前に跡部の顔があり、首の下と膝の下に体温が感じられる。
 これって……お姫様抱っこ、ってやつ!?
「ちょ、ちょっと待ってください! なんでこんな、ていうかそもそもなんで跡部さんがここに、ていうか重いんじゃないですか!? 肩を貸してもらうとかで充分ですから」
「アーン? この俺様が、お前ひとりに苦労するほど非力だと?」
「そういう問題じゃなくて! そのっ、私は一応女の子ですから!」
「……言いたいことはわかるがもう黙っていろ。大声を出すと身体に良くない」
「う……」
「まったく、無茶をするヤツだとは思っていたが……ここまでするとは俺の眼力でも見抜けなかったぜ」
 半ば独り言のように言ってから、間近にある巴の瞳をじろりと睨む。
「とにかく、医務室に行くぞ。おとなしく抱かれていろ」
「は、い……」
 なんだかすごく恥ずかしいけど自分だけ恥ずかしがってるのも馬鹿みたいな気がして、頭がぐらぐらするのも吹っ飛んだ気分で間近にある跡部の顔をじっと見つめているうちに、巴はふぅっと意識を失った。跡部さんの腕って、暖かくて強いな、とか思いながら。

 ふ、と目を開ける。目の端にひどく真剣な顔でじっと自分を見つめる顔が映った。
「……真田さん……」
 そう呟くと、真田ははっと驚いたようにこちらに顔を向ける。
「起きたのか」
「はい……。あの……なんで真田さんがここ」
「馬鹿者!」
「ひゃっ!?」
 この声は、と首を回して、真田より自分の近く、枕元に手塚が厳しい顔でこちらを睨んでいるのに気付いた。隣には橘も立って同様にこちらを睨んでいる。
「無茶にも程がある! トレーニング中の配慮が足りないせいで命を落とすこともあるんだぞ!?」
「っ……すみま」
「二人とも、落ち着け。相手はさっきまで気を失っていた人間だぞ」
 そう割って入ったのは、真田だった。
 え、と驚いて真田を見ると、真田はいつものひどく厳しい顔で、けれど視線はわずかに優しくこちらを見つめている。
「っ、すみま」
「謝る必要はない。それより、お前が無事でよかった。自らに厳しい特訓を課すのはいいが、身体を壊しては元も子もないぞ」
「……そうだな。とにかく、大事がなくてよかった。心配したぞ、巴」
「………。命を落とす危険があったということをよく……いや。……すまん」
 手塚も、橘も、普段よりも優しい瞳でこちらを見つめてくれている。これまでずっと見守っていてくれたのだろうか。そんなに心配をかけてしまったのだろうか。
 みっともないなぁ、私って。駄目な奴だなぁ、私って……。
 そう考えていると、瞳の奥がじんわりと痛んで、全員が慌てた顔をした。
「お、おい……! 泣くことはないだろう?」
「えっ、泣いてなんか、グスッ! ……うそっ」
 どうしよう、涙が止まらない。不甲斐なくて不甲斐なくて、勝手に涙がこぼれるのだろうか。目が熱くて、痛くて、視界が歪んで。泣くなんて情けないと思っているのに、う、う、と何度もしゃくりあげて涙をこぼしてしまう。
「巴……ほら、これで涙を拭け」
 橘がハンカチを差し出してくれる。巴は「すみません」と言って受け取り、涙を拭いた。きれいにアイロンの当ててあるハンカチを汚すのは申し訳なかったけれど。
「……赤月。なぜ、倒れるまで練習するような真似をした」
「っ……」
「跡部が、お前は理想のテニスに自分のテニスを近づけるために無茶な特訓をしたと言っていたが、本当なのか」
「……はい」
 恥ずかしい、と思いながらもうなずくと、全員大きく息を吐く。巴はひどくいたたまれない気分でおそるおそる訊ねた。
「あの……みなさん、すごく怒ってる……っていうか、呆れてますよね、やっぱり……」
「いや……この感情を、どう表現したらいいんだろうな」
 手塚が眉間に皺を寄せながら、呟くように言う。
「お前が理想を高く掲げ、その理想への努力を惜しまないのを嬉しく思う一方……」
「お前を導く立場でありながら悩みに気付けず、なんの助言も与えてやれなかった自分に怒りすら覚える。……まったくもって、たるんどる」
 険しい顔で真田があとを引き取る。
「本当に……お前は、目の離せない奴だな。悩みがあるならいくらだって聞いてやる、一緒に練習するし一緒に考えてやる。だから、もう無理はしてくれるな」
 橘がそう優しく微笑みながら続ける。
 優しい言葉。自分のことを思ってくれている言葉。足元にも及ばない存在である自分のことを、気遣って、気にかけてくれる優しい人たち。
 それにまた涙が出そうになった。至らない存在である自分が泣きそうに悔しいけれど、この人たちの優しい気持ちも、泣きそうに嬉しい。
「今日はもう休め。また明日から理想のテニスを目指し、練習に励めばいい」
「はい……。あの、跡部さんは、どうされたんでしょうか?」
 そう訊ねると、手塚と真田は顔をしかめ、橘は苦笑した。
「あいつは、まぁジャンケンに負けたから……」
「は? ジャンケン?」
「いや、なんでもない。……跡部は幸村と協力してお前を休ませるために手を尽くしてくれている」
「は?」
「いや、つまりだな」
 その時こんこん、と部屋の扉がノックされた。
「誰だ」
 手塚の鋭い声に、聞き慣れた柔らかい声が返る。
「天野です。巴ちゃんの食事持ってきました」
「そうか。入れ」
「いえ、あの、今両手が塞がっているんで、申し訳ないですけど開けてもらえませんか?」
『…………』
 ごほん、と咳払いして手塚がつかつかと扉に歩み寄った。そういえばお腹減ったかも、と巴も橘に手伝ってもらいながら体を起こす。
 扉が開く。と、その向こうに天野と跡部と幸村、そして大勢の選手たちが鈴なりになって並んでいるのが見えた。
「…………」
 思わずぽかんと口を開けると、その向こうから口々に声が飛ぶ。
「モエりんっ、だいじょーぶかっ!? 跡部がお見舞いしちゃダメとか言うから」
「こら英二、巴は今体調が悪いんだからあまりうるさくするのは」
「巴くん、よろしければ疲労回復のためのマッサージを」
「巴さんっ、ボクねボクねキミのために貝殻取ってきたんだ!」
「おいテメェ、ちょっと練習したくらいで体調崩してんじゃねぇぞ!」
「……もう少ししっかりしろ、そうでなければ下克上も果たし甲斐がない」
「一応言っておこうと思ったのだが……効果的な練習方法が知りたいのならいつでも相談に乗るぞ」
「練習相手ならいつでもなったるで〜」
「……どーでもいいけど、人、多すぎるんじゃない? まー同じようにここに来てる俺がいえた義理じゃないけど」
「てめぇら! 散れって何度言ったらわかる!」
 跡部の怒鳴り声が響く中、巴は思わず笑ってしまっていた。
「あ、あは、あははははははっ」
「……どうした、赤月」
「あの、みなさん。本当に、心配してくださってありがとうございます!」
 ぺこりっと頭を下げて、その拍子にちょっと体がふらつくのを慌てて真田が支えてくれる。
「でも、ホント私大丈夫ですから! 明日になったらちゃんとみなさんのところにお礼しに回りますから、もう心配いらないですよ!」
 その言葉に、あるいは唇を尖らせあるいはほっとしたような顔をして、鈴なりになっていた選手たちは散っていった。跡部がじろりとこちらを見て、ぶっきらぼうに言う。
「悩みがあるならこの俺に相談しろ。お前はどうしようもないバカだが、俺は意外に気に入ってるんだ。馬鹿げた行動で潰れてもらっちゃつまらんだろうが」
「俺もまだ君とろくに話してもいないのに、消えてもらいたくないな。君のテニスはとても興味深かったしね」
 幸村にも言われて、笑顔で二人にも頭を下げる。本当に、なんだか気持ちがふうっと楽になった気分だ。
 自分にはこんなに心配してくれる人たちがいてくれる。テニスという同じ道を歩む仲間がいてくれる。なにを自分一人で悩んでたんだろう、と馬鹿馬鹿しくなってきた。
 くすくす笑っていると、天野が少しほっとしたような笑顔で歩み寄ってきてトレイをサイドテーブルに置いた。
「元気になってきたみたいだね。食べられる? 一応消化のいいもの作ってきたけど」
「うん、食べる」
 トレイの上にあるのは匂いからして蜂蜜の入ったホットミルク、ミネストローネ、フルーツヨーグルトというメニュー。たぶん天野が作ったのだろう、おいしそうな匂いに巴は笑顔のままミルクに手を伸ばした。
 食べ終わって、天野と二人きりになった時に天野の告げた言葉に、少し消化が悪くなったような気はしたけれど。

 少し眠って、気力体力を回復させた巴を同室の女子選手たちが迎えに来てくれた。一緒にお風呂に入り、その流れで一緒に敷いた布団の上に寝転んで話をしている。こういう女の子同士のおしゃべりっていいな、と巴はにこにこした。合宿の醍醐味という感じだ。
「そういえば、あなたってテニスいつ始めたの?」
 杏に聞かれて、巴は笑顔で答えた。
「私、青学に来てからテニス始めたんですよ」
「そうなんだ! じゃあ、まだ始めて一年なのね」
「私もそう。中学で始めたの」
「原さんもなんだ。ちょっと意外だな。昔からやってるのかと思ってたよ」
「……フン。始めて一、二年でJr.選抜だなんて、さすが才能がある方は違うわね」
 早川の棘のある口調に一瞬全員黙ったが、巴は特に気にせず早川をつついた。
「んもう、早川さんったら〜。もっと素直になって私たちみたいなナイスなライバルと戦えて嬉しいって言えばいいのに」
「ちょっと、誰がナイスなライバルですって? 私はあなたをライバルと認めた覚えはないわよ!」
 顔を真っ赤にして怒る早川をなだめつつ、巴は原の方を向く。
「じゃあ、その前はバレーボールとかバスケットボールとかやってたんでしょ?」
「……別になにも。実家が日本舞踊の家元だったからスポーツやる時間がなかったわ」
「それじゃ、なぜテニスを?」
「廊下で猫背を……正された。真田さんに」
 全員思わずうなずく。いかにも真田はそういうことをしそうだ。
「で、身長を活かせるスポーツだって誘われたの。……男子テニス部に」
 この言葉には全員思わず絶句した。
「な、なぜ!?」
「私、子供の頃から和服かズボンしか着たことがなかったから……男子の制服で入学したんだ。……真田さんも本気で男子だと思っていたみたい」
 そういえば確かにコートにいる時以外は原はジャージだ。てっきり冷え性だからだとばかり思っていたのだが。
「でも、真田さんと出会わなかったら私はここにいなかった。……とても感謝している」
 どこか優しい口調に、那美がからかうように笑った。
「なるほど〜。原さんがテニスをしてるのはそういうワケもあるんですね?」
「ちょ、ちょっと! 誤解しないでちょうだい! 別に真田さんのためじゃ……」
 などと言いつつも顔は赤い。
「あら? やっぱりそうなんですね!」
「なーんだ! 原さんは真田さんが好きなんですね! だったら応援しますよ。ねぇ、みんな!」
「ち、違うったら! だから余計なことはしないでちょうだい!」
 そのあと何度も原に念を押され、なにもしないと約束させられた。まぁ、確かに自分のことは自分でしないと、とは思うのだが。
「でも、今日で合宿も半分かぁ。早いなぁ……。一ヶ月くらい前にすごく緊張してたのが、昨日のことみたい」
「一ヶ月前か。二月の今頃は、チョコの準備が大変だったな」
「それって、バレンタインの?」
「ええ。兄とテニス部のみんなにあげたの」
「へぇー、杏さんもマメなんですね。鳥取さんは誰かにあげたんですか?」
「私は樺地くんに。……ほら、幼馴染だしね。そういう赤月さんは? 誰かにあげたの?」
「え、えっと。秘密でーす! バレンタインチョコって見てると、自分で食べたくなりません?」
「あー、わかるっ! 美味しそうだもんね」
「あなた、ひょっとして買って自分で食べちゃったとか?」
「そこは秘密ですってば! 早川さんだって食べたくなるんじゃないですか?」
「私、甘い物はあんまり好きじゃないの」
「へー、辛党ですか、女の子にしては珍しいですね。原さんはどうですか?」
「……私は洋菓子よりも和菓子が好きだから」
「おまんじゅうとか、お団子ですか? 和菓子もいいですよね。私の田舎の銘菓・鮎型饅頭なんか最高に美味しいんですよ! 今度帰省したら、原さんにも買ってきてあげましょうか?」
「……気持ちだけ受け取っておくわ」
「遠慮しなくてもいいんですよ?」
「……あ、気を悪くしないで。……こういう時って、どう答えていいか、わからないの。今まで経験がなかったから……」
 やや戸惑ったように言う原に、巴はにっこーと笑顔になった。
「そういう時は、甘えちゃえばいいんですよ!」
「そ、そうなのか? ……じゃあ、好意に甘えさせてもらおうかな……」
「まったく……あなたって、本当に押しが強いわねぇ」
「わーい、早川さんに褒められちゃった」
「褒めてないわよ」
「あ、そうそう、チョコって言えば、美味しいチョコレートケーキを出すお店があるの、知ってる? 甘すぎないから、早川さんも和菓子好きな原さんも、きっと気に入ってくれると思うな」
「えっ、どこですか? 教えてください!」
「そうね、せっかくだし、合宿が終わったらみんなで出かけない? こうして合宿を通して友達になったんだし、ここだけで終わらせたくないわ」
 杏の言葉に巴は嬉しくてまた笑顔になった。
「学校なんて関係なく……。いいですね! すっごく楽しそうです」
「おあいにくさま。馴れ合いはごめんだわ」
 きっぱり言う早川に、鳥取が穏やかな笑顔で言う。
「それなら、ライバルとして競い合う仲間って思えばいいんじゃない?」
「…………。そ、それなら悪くないかもね」
「……そうね。馴れ合いは好きじゃないけどライバルとしてなら嬉しい」
「じゃあ、とりあえず親睦を兼ねてケーキからですね!」
「やっぱり食べ物から離れないんだね、モエりんは」
「むっ、じゃあ那美ちゃんは食べたくないの?」
「……ごめんなさい。食べたいです」
「うん、素直でよろしい。それじゃ、みなさん、約束ですよ!」
「……話は尽きないけど、そろそろ寝ない? 明日も早いんだから」
「あ、そうですね。じゃあ、電気を消します」
『おやすみなさーい』
 みんなで就寝の挨拶をしながら、巴は自分の気持ちを再確認していた。明日も頑張ろう。明日の早朝もみんなで練習する約束をしたし。
 ――心のどこかでは、天野が去り際に告げた言葉を。
『隼人くんとリョーマくん、すごく巴ちゃんのこと心配してたよ』
 その言葉を、ずっと気にしていたのだけれど。

 その日見た夢は変な夢だった。桃城と海堂が仲良しで槍が降ってきたり、菊丸と向日で空を飛んだり、菊丸が本当に分身していたり、乾先輩が巨大化したり、氷帝の選手たちが「行ってよし!」を練習していたりする夢だった。

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