六日目〜遠山戦〜
「あれ?」
「どした、巴?」
 青学一年連中で(昨日のうちに全員にメールしておいたのだ)早朝練習をしている時に、ふと巴がユニフォームのポケットから携帯を取り出して首を傾げた。メールが来たのだろう、携帯を開き、画面を上から下まで眺めて自分たち同様ラリーを終えて近付いてきた小鷹に向け声をかける。
「ねえ、那美ちゃん。那美ちゃんの携帯にもメール来てる?」
「え? ……あ、来てる……って、えぇ? なにこれ」
「なんだよ、そんなに驚くような内容なのか? 誰からだ?」
「榊コーチから……朝食のことで問題が起きたから女子選手は全員食堂に集合、だって」
「問題? ってなんだよ」
「さあ……そこまでは書いてないけど。なんかトラブルでもあったのかな?」
「トラブルが起きてなんでコーチが女子選手呼ぶんだよ」
「さぁ……私たちに聞かれても」
 困り顔を見合わせる巴と小鷹に眉を寄せていると、天野が手を上げた。
「あ、じゃあ僕もついていくよ」
「え、いいの?」
「調理関係のトラブルなら力になれることがあるかもしれないし……それに僕の練習は一段落ついたしね」
 そう言いながら天野はボールとラケットを片付け始める。自分がリョーマと打っている間、一人で壁打ちやらなにやらやっていたのだが、本当にもういいのだろうか。
「騎一、お前本当に大丈夫か?」
「え?」
 一瞬天野は目を瞬かせたが、すぐに笑ってうなずく。
「うん、とりあえずはもういいんだ。納得できたから」
「……そうか?」
 その笑顔に微妙な違和感を感じながらも言葉にできないでいるうちに、天野と巴たちは呼び出された食堂のある方へと向かっていく。それをなんとなく見送っていると、背後からいつもながらに偉そうな声がかかった。
「どうでもいいけど、もう練習やめる気? やる気ないんだったら目障りだからコートから出てってくれない?」
「なっ、んなわけねーだろ馬鹿リョーマっ。このくらいのことで人のやる気をどうこう言ってんじゃねーよっ」
 怒鳴るように言葉と睨む視線を返すと、リョーマ――さっきまで自分と打っていた相手はふんとやはり無駄に偉そうに鼻を鳴らした。
「ならいいけど。だったらぼんやりしてる暇ないんじゃない。さっさと行動で示してほしいんだけど」
「言われなくてもやってやるってのっ。明日の試合で優勝するのは俺なんだからなっ」
「ふーん。なにを言うかはお前の勝手だけど、あんまり現実から離れたこと言うとあとで恥かくんじゃないの」
「ざけんな、超可能性高いっつーの。お前の方こそんな偉そうなこと言っといて一回戦負けとかしたら承知しねーぞっ」
「当然。ていうかそれこっちの台詞なんだけど? お前の方は俺と戦うくらいまでは勝ち残ってくれるわけ?」
「たりめーだ、ざけんなボケリョーマっ。きっちりてめぇに勝って優勝してやるよっ」
「ふーん? じゃあ、楽しみにしといてあげる」
「上等だ」
 お互いしばし睨み合い、それからふんっと鼻を鳴らして視線を外す。お互いの口元に笑みが浮かんでいるのを、お互いなんとなく察していた。
「さって、練習再開すっか! 今度ミスった方がジュース一本おごりな」
「上等。負けたあとで文句つけないでよ」
「こっちの台詞だっての」
 お互いサービスラインに移動する。隼人は一瞬ちらりと巴が消えていった方を見つめてから、ぎっとリョーマとの勝負に集中すべく相手を睨みつけた。

「たぶんなんだけど、榊コーチは女子選手と男子選手をもう少し仲良くさせよう……っていうか、垣根を取り払おうと思ってあんなこと言い出したんじゃないかな。俺の顔見た時、一瞬困った顔したし」
 朝食後の軽い練習に備えアップをしていると、天野がそんなことを言った。
「へ? じゃあなにか、榊コーチは本当は外注できたのにしなかったってことか?」
「うん。というかたぶん調理スタッフ全員風邪っていうのからして嘘かも。だって普通に考えてないよね、そんなこと?」
「確かに……」
 ぐ、ぐ、と筋肉を曲げ伸ばししながらうなずくと、天野は同様にしながら苦笑する。
「俺のこういう、空気読めてないところが原因なのかもなぁって思ったよ」
「は? なにが、ってかなんの?」
「……ダブルスプレイヤーとしての限界、みたいな」
「はぁ!?」
 隼人は思わず天野の方を勢いよく向いた。天野が驚いたように目をぱちぱちさせる。
「なんだよ限界って、あ、もしかしてお前、壁にぶつかって悩んでるとか言うんじゃねーだろーな!」
「うーん……まぁ、そうなるのかなぁ」
「はぁ!?」
 隼人は思わず憤然とした。
「お前なぁ、悩んでるんなら話せよ! ただでさえいつも世話になりっぱなしなんだからこーいう時に返させろっての水くせぇなぁ! 第一、俺ら……その、なんつーか……友達だろ!」
 わずかに顔を赤くしながらの一言に、天野はまた目をぱちぱちさせてから、ぶふっと吹き出した。
「わ、笑ってんじゃねーよっ! こんの〜」
「わはっ、ちょっと待って痛い痛い! そういうつもりじゃないんだって! ただ、その……嬉しくてさ」
「……は? 嬉しい?」
 思わず頭をぐりぐりしてやっていた拳を解くと、天野は笑顔でうなずく。
「うん。ちゃんと友達って思って、心配してくれてるんだなぁって。いい奴だなぁって、すごく嬉しくてさ」
「なっ……おま、バカッ! たりめーだろ、そんなん」
「うん、でもありがとう。……実は正直、だいぶ煮詰まってたからさ」
「……そんなに、深刻なのか?」
 おそるおそる訊ねた言葉に、天野は苦笑してみせる。
「深刻っていうか……以前からのしかかってることではあるんだけどね。俺は体が小さい上に、リョーマくんみたいな技術力もない。ただひたすら拾って粘って相手のミスを誘うだけの消極的なテニスだ。そんなテニスしかできない俺が、この先、ちゃんと……先輩たちがいなくなったあとの青学を支えて、桃部長のパートナーとして、テニスプレイヤーとしてやっていけるのかな、って」
「…………」
 隼人は一瞬黙った。天野の言葉は、身につまされる部分がないでもなかった。先輩たちの抜けた青学を、ちゃんと自分は受け継いでいけるのか。まだまだ未熟な自分が、本当に昔から夢見ていたようにテニスで誰よりも強くなんてなれるのか。そんな風に不安に思うのはしょっちゅうだ。
 だが。
「たっ!」
 ごつんと頭に落とした拳に、天野は涙目になった。
「痛いよ、隼人くん……」
「たりめーだ、痛くしたんだよ。いーか騎一、なんかいろいろ愚痴ってたけどなぁ、だったらお前はテニスやめられんのか?」
「え?」
 天野はまたも目をぱちぱちさせる。
「テニスやめて、青学テニス部放り出して、どっか行けんのかよ」
「それは……できないけど」
「だろ? だったらやること変わんねーじゃねーか。いっしょーけんめー練習して、強くなるっきゃねーだろーがよっ」
「……それはそうだけど……」
 困ったような顔をする天野に、隼人派両腕をつかみ真剣な顔で言い聞かせる。
「いいか、騎一。言っとくけどな、お前は強ぇんだ。青学テニス部に欠かせない戦力なんだぞ。しかもJr.選抜に選ばれるほどのすっげー選手だ、わかってんのか?」
「え、と……わかってる、つもりだけど……?」
「だったら! わかってんだろ、どんなに怖くったって途中で止まるなんてできねーんだ! 俺らに、テニスプレイヤーにできんのは、死ぬまで全力でこの道突っ走るだけだろ!」
「…………」
 ぽかん、とした顔をする天野にあれ? 俺外した? と一瞬慌てたところに、ぱかん、と後頭部にテニスボールが激突した。「てぇっ!」と叫んでから、ぎろっと後ろを向き怒鳴る。こんなことをするような奴は隼人の知る限り一人しかいない。
「なにしやがる馬鹿リョーマっ!」
「お前に馬鹿って言われる筋合いないんだけど?」
 リョーマは自分から跳ね返ったボールをラケットで受けて自分の手の中に戻しながら、白い目で隼人の方を見る。
「んっだとっ」
「お前の理屈一方的にぶつけられても騎一も困るんじゃないの。普通に考えて騎一はお前ほど単純じゃないだろうし」
「……お前、それ遠まわしに俺が単純だって言ってねぇか?」
「別に。お前に遠まわしに言っても通じないのは知ってるし」
「ホントかよ……っつかなっ、んなこと言うんならお前はなんか騎一にこー、ぐっとくるよーなこと言えんのかよっ。人のことに文句ばっかつけてんじゃねぇっ」
「なにそれ。そもそも俺は騎一の悩みに口出しする気ないし」
「やっぱなんも言えねぇんじゃねぇかっ」
「言えないんじゃなくて言わないだけ。そもそもそんなこと、誰だっていつだって思う時は思う話でしょ。それをぎゃあぎゃあ騒ぎたてたらかえって迷惑なんじゃないの」
「う……そーなのか、騎一?」
 おそるおそるうかがうように天野の方を見ると、ぽかんとしていた天野はぷっ、とまた吹き出してから、笑顔で首を振る。
「ううん。どっちの気持ちも嬉しいよ」
「へ? どっちのも……って?」
「悩んでる時に相談しろって真正面から言ってくれる隼人くんも。黙って見守ってくれるリョーマくんも。どっちの気持ちもわかるし、どっちの気持ちも嬉しいなぁって」
「へ……そう?」
「うん」
 笑顔でうなずいてから、天野はぐりん、と腕を回してラケットをケースに入れた。
「え……練習、しねーの?」
「うん、その前に桃部長のとこ言って聞いてくる。俺、ちゃんとテニスプレイヤーとして、パートナーとしてやれてますかって」
「へ……」
「そうだよね、怖かろうがなんだろうがやるしかないよね、テニスのこと捨てられるわけないんだから。……二人のおかげで勇気出てきたよ。ありがとね」
 にこっ、と笑顔を投げかけてから、天野はこちらに背を向けて歩き出す。それをちょっとぽかんとしながら見送って、我に返ってから隼人はむっと唇を尖らせた。
「俺とリョーマと同じ扱いってなんか納得いかねぇ……」
「お前だって別に実のあること言ってなかったってことでしょ」
「ぁんだと、コラ!? てめぇの方こそかけらも実なんてなかったじゃねーかよっ!」
「お前みたいに一方的に押しつけるよりはマシなんじゃないの」
 しばしやりあってから、テニスで勝負をつけるということになり、いつものように打ち合う。それを、巴がなんだか不思議な笑顔で見ているのが、なんだか不思議だった。
 こんなのいつものことなのに、いつもの光景なのに、なんで巴はそんな顔をするんだろう。巴だって別に、今は特に、もちろんいろいろ変わってはいるけれど、子供の頃と同じような感覚で接することができる、と思ったのに。

 昼食を取った後も同じようにみんなで練習をする。いつもの青学メンバーの練習。
 次の練習までさして時間がないので気心の知れた連中でやっているのだが、少しばかりもったいないような気がしないでもない。すぐ手近にすさまじく強い選手たちがごろごろ転がっているというのに、いつも練習相手になっている顔ぶれだけなんて。
 けどなぁ、ちょっと練習したらすぐ午後の練習始まっちまうしなぁ、と思いつつ天野とラリーをしていると、唐突にびしぃっ! と足元にテニスボールが打ち込まれた。驚きつつも軽く受けて、天野が打ってきたボールと同様に手の中に収めると、どどどどど、と音がするほどの勢いでこの数日で見慣れてしまったぼさぼさ髪の小さな体――金太郎がこちらに走ってくる。
「おーい山ザルー! ワイのボール返してぇなぁ」
「はぁ!? これお前のかよ、っつか返すもなにもなぁ、いきなり足元にボール打ち込んできた奴の台詞じゃねぇだろっ!」
「しゃーないやん、健坊が取り損ねるんやもん」
「……お前ら二人で練習してたのか?」
「ちゃうで! 四天宝寺のみんなで練習しとったんや。ワイらいっつもみんなで練習しとるもん。ワイらのボケとツッコミについてこれる奴そうそうおれへんし」
「なんでテニスの練習でボケとツッコミが関係あるんだよっ……つか、ならちょうどいいや。俺ら青学一年だけで練習してたんだけどさ、一緒に練習しねぇ?」
「ええで!」
 にっこり笑顔でうなずいた金太郎に、遅れてこちらに走ってきた藤堂が仰天した顔で怒鳴る。
「ちょっと待てっ遠山っ! なんで敵と一緒に練習しなきゃならないんだっ、もう少し考えてものを言えっ!」
「えー、ええやんそんなん、おもろそうやし。お! きーやんおるやん、一緒に打たへん〜?」
「え、俺はいいけど……藤堂、かまわないかな?」
「……っ!! 俺に聞くことじゃないだろう、勝手にしろっ」
「おう! きーやん、いっくでー!」
「わわっ、ちょっと金太郎くんっ、コートから人がいなくなってからにっ」
 いきなりボールを打ち出す金太郎に慌ててコートから退散すると、こちらに四天宝寺の面々がやってきた。慌ててぺこりと頭を下げると、先頭の白石は笑顔で手を振り訊ねてくる。
「なんや、俺らと一緒に練習しよ、みたいなこと言うてたみたいやけど、ええの? 俺ら一応他校やけど」
「え、だって今はJr.選抜じゃないっスか。他校もクソもないでしょ?」
 きょとんと訊ねると、財前はは、と息を吐き肩をすくめ、謙也はぷっと吹き出し、白石はくすりと笑い、千歳はにっと笑みをこぼした。えーと、これは一緒に練習してもいいってことかな、と笑顔になってうなずくと、謙也が急にそわそわと周囲を見回しだす。
「ほな一緒に練習するっちゅーことで……ええんやけど、巴ちゃんはどこなんかなぁ〜? なんや見当たらへんねやけど」
 隼人は思わずむっ、とした。なんというか、自分は巴については気にしないと決めたはずなのに、ある意味巴と一緒にひとつの山を乗り越え大きく成長した(という感じのことをやった)はずなのに、それでもやっぱり面白くない。
「……今リョーマが連れてきてるところ、っスけど」
「そ、そーかー! ほな連れてきてくれたら一緒に」
「謙也さんその笑顔キモいっスわ」
「おま、ほんまええ加減にせーよ!? 先輩に対してなんやねんその態度、いっぺんいてこますどオラァ!」
「女のこと考えてニヤけとる人に先輩面される覚えありませんけど」
「べっ、別にニヤけとるんちゃうわ! ただ巴ちゃんと打ったら楽しいし練習としても実になるんちゃうかなー、思ただけやないか!」
「……ほー、巴と練習? 面白そうな話じゃな」
 唐突に横からかけられた声に、謙也はびくぅっと体を跳ねさせて声の方を向いた。
「げ……立海大……!」
「俺らは別に立海大っちゅう名前やないがの」
「仁王くん、挑発するのはおやめなさい」
「いいじゃん捌に、どっちでもよ。ま、なんにせよ巴と練習するなんて面白そうな話、黙って見てるわけにゃあいかねぇな」
「ブン太……まぁ、気にならねぇっつうと嘘になるが……」
「んだって、俺らをよそに巴と練習? んなの俺らが黙ってると思ってんのか?」
「そやな、ちーとばかしおもろないなぁ。抜け駆けは感心せぇへんで、謙也?」
「げ、侑士っ」
「氷帝か……」
「あれ、どうしたんだいお揃いで」
「あっ、隼人くん……ってことは巴さんもここにっ!?」
「え、赤月さん? へぇ、そう聞いちゃ黙ってるわけにはいかないなぁ」
「千石……お前な」
「六角に山吹まで……」
「あ、はやくん! あれ、那美ちゃんときーくんは……って、え、みなさんどうしたんですか、溜まっちゃって?」
『巴(ちゃん・さん)っ!』
「やぁ、モエりん」
「や、赤月さん、こんにちは」
「……どういうことなわけ。これ」
「うるせぇ俺だって好きでこんなことになってるわけじゃねぇ……」

 この合宿の最初の頃味わっていたようなもやもやイライラした感情を抱きつつ、練習の最後で引いたくじで決まった練習試合の相手は、金太郎だった。四天宝寺のスーパールーキー、遠山金太郎。
 対戦表を見てそのことを知るや、隼人は思わずにぃっ、と笑った。上等だ。このもやもやを吹き飛ばすには、もってこいの相手だ。
「お、今日の相手は山ザルかぁ。どーせならコシマエとやりたかったわー」
 自分の後ろでそんなことを抜かす金太郎を、隼人はぎっと睨みつけつつ唇の両端を吊り上げる。
「ざけんな、チビサル。舐めたこと抜かしてっと恥かくぜ。俺に負けてから言い訳したって誰も聞いてくんねーかんな」
「うしゃしゃしゃ、おもろいこと言うやんけ。ほな、いっちょ派手に勝負すんでぇ」
「上等だ」
 ぎっ、とにやつく金太郎を睨みつける。こいつには、リョーマとは別の意味で、ぜってー負けねぇ。

 びしっ、とラケットの少し先に打ち込まれたボールを、隼人は全力で体を伸ばし返した。ライン際ぎりぎりに返されたボールを、金太郎は飛びつくようにして返す。
 それをさらに必死に返し、さらに返される。何度も何度も繰り返された光景が、また繰り返される。
 実際、ここまでラリーが続いた経験は隼人にしても少なかった。全国大会の時のリョーマと金太郎の時ほどではないが、もう試合開始から二時間半は過ぎているのにまだ3-4だ。
 お互いにお互いのサービスをブレイクできずにひたすらにラリーを続けている。今は隼人のサービスゲーム。なんとしてもこのゲームを取って、次に続けなくてはならない。
 は、は、と荒い息をつきながら同様に荒い息をつきながらも笑みを崩さない金太郎を睨みつける。びしっ、と返ってきたボールを懸命に打ち返し、それをさらに打ち返されて、それをさらに必死に打ち返し――
 それを金太郎は取り損ねた。っし! とガッツポーズをし、金太郎が「くっそー!」と悔しげに喚いたところで、審判をやっていたコーチの一人が手を上げる。
「……なん、スか?」
「試合はここで終了とする」
「……っはぁ!?」
「なんでやねん! まだ勝負全然ついてへんで!」
「明日は選抜試合だぞ、これ以上やると明日の本番に支障が出る。決着なら明日の試合でつければいいだろう」
「っ……けど!」
「お、明日決着か。そらおもろいかもしれへんなぁ」
 思わずぎっと金太郎を睨む。
「んっだとてめぇなに抜かしてんだっ」
「へ、なに怒っとるんや? やってどうせ決着つけんのやら舞台でかい方がおもろいやん」
「そーいう問題じゃなくてだなっ、ここまできて勝負お預けなんて」
「ええやん、どうせ明日になったら決着つけれるし。あ、もしかしてぇ。ワイと当たる前に負けてしもたらどないしよー思てんのやろー?」
「なっ……んなわけあるかっ、明日はてめぇも込みで全員ぶっ倒すに決まってんだろっ!」
「ほな明日でもええやん。ワイ、ちーと聞きたいことできたし」
「は? 聞きたいことって」
「ほな、また明日なー。試合後の礼っ、おつかれさまでしたー。ほななー」
「あっ、こらてめっ待ちやがれっ」
 隼人の制止も待たず、金太郎はぴゅっとコートを出て行ってしまった。

「……ったく、あのクソチビ、はぐらかしやがって」
 ぶつぶつ言いながら隼人は合宿所の廊下を歩く。夕食までの練習が禁止されているというのがまた面白くない気分に拍車をかけた。一応コーチ陣の理屈はわかっているので文句を言う気はないが。
「ま、しょうがないんじゃないの。あんな試合じゃ」
 一緒に歩いているリョーマが肩をすくめて言うのに、隼人はぎっと一睨みをくれた。
「んっだと馬鹿リョーマっ、お前俺が手ぇ抜いてたとでも言うのかよっ」
「別に。ただ」
「ただ、なんだよ」
「どうせなら、もっとすごい試合が見たかったね」
 隼人は思わず目を見開く。こちらを見返すリョーマの表情は静かだ。嘘をついている様子はない。これは、つまり。
「……さっきのはすごくなかった、ってことか?」
「あそこまで打ち合うなら、もっとずっとすごい試合にできたはず、ってこと」
「…………」
 隼人は思わずうつむいた。がりがり頭をかきながら考え込む。つまり、それは、さっきの自分は気合とか気迫とか、そういうものが足りていなかったということで。明日の試合に向けての、エネルギーとかモチベーションとかそういうものが不足しているということで。
 別にやる気がないわけじゃない、全然ない、けれど。確かに身の震えるほどの圧倒的な溢れるほどの気迫というものは、なかった気も、する。
 それはなぜだろう。なにが足りないんだろう。やるべきことはすべてやったのに。終えておくべきことはすべて終えたのに。なにが、一体――
 と、はっとなにかを感じて隼人は顔を上げた。なにかを感じる。隼人にとっては身を震わせるほどの、強烈な名状しがたい感覚。
 予想通り、視線の先には巴がいた。睨み合う手塚、橘、跡部、真田、さらに幸村、不二というそうそうたる面子に囲まれて、一人立っている。
 だがそんなことは問題じゃない。問題なのはひとつ。巴が、自分の従妹が、そこで泣きそうになっているということだ。
 反射的にずいっと一歩を踏み出す。それにずいっとばかりに自分のそれよりいくぶん細い足がついてきた。
「……んっだよ。リョーマ」
「別に。そっちこそなに」
「関係ねーだろ。なんでこっちくんだよ」
「別に好きでやってるわけじゃない。たまたま行く方向が同じだけじゃないの」
 言い合いながらも二人とも足を進める方向は変わらない。顔の向く方向も変わらない。相手がどこへ向かい、なにをしようとしているのか、それを隼人はふと悟り、ぷっと思わず吹き出した。
 そーだよなぁ、こいつにもそーいう気持ちがあるんだよなぁ。忘れてた。こいつも、あいつを、そういう風に思ってるんだよな。
 初めてリョーマの方をちらりと見て、口元にわずかに笑みを佩きながら訊ねた。
「行くか?」
 リョーマもそれに気づいたのか、同じようにこちらを見返し、ふふんと笑う。
「いいけど」
 ――そして揃って駆け出した。
 同じようにだだっと駆け出し、ばっと近寄り、揃ってぐいっと目標の手をつかむ。
「え……な」
「なにぼっとしてんの」
「おらっ、とっとと逃げるぞ、巴っ!」
「え、はやくん、リョーマく……わっ!」
 ぐだぐだ言っている巴の両手を言葉より先に引っ張る。巴が慌てて足を動かす。見る間に巴を取り囲んでいた先輩方は、隼人たちの奇襲攻撃により呆然とその場に取り残され遠くなっていった。
「みっ、みなさん、すいませぇぇんっ!」
「じゃ、これ、もらってくから」
「そーいうわけなんで、おっさきにーっ!」
 そう言葉を残して走り出す。思わず口から笑みが漏れた。ちらりと横を見ると、リョーマも同様に笑っている。
 くくっ、ははっ、ふふっ、へへっ、くっくっくっ、わっはっはっ。止まらない。足も笑い声も。おかしくて、楽しい。
 誰よりもまず守りたいもの。守ると誓った存在。それを再認識して、こいつと一緒に守れることがなぜか妙に嬉しい。なんでかなんて、さっぱりわからないけど。でも、そうだ。俺は、こいつと、こいつなら。
 手を繋ぎながら、走って、走って、走って。気がついたら合宿所を抜け出して、相当な距離を走った先の海を一望できる土手の上でひっくり返っていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……んもーっ、二人ともいきなりすぎ……」
「っ……じゃー、お前……っ、あのまんま、あの人たちに、囲まれてたかったわけ……っ」
「は……っ、そんなこと、ない、けど、は……っ」
「じゃー、いいじゃんかよ……っ、ふぅっ。はー、つっかれたーっ」
「この程度で? 山ザルのくせに、案外、体力、ないんだね……っふ」
「へっ、息荒い分際で偉そうに吹いてんじゃねーよっ。それにっ、疲れたっつーのは、アレだ、しゅーじぎほーってやつだってのっ」
「ひらがなで喋ってるようにしか、聞こえないんだけど。慣れない言葉使うの、やめといた方が、いいんじゃない? っふぅ……」
「ぁんだと、コラ!? 言っとくけどなぁ、これでも古文の成績はっ」
「俺より悪いじゃん。アメリカ帰りより成績悪いって日本人としてどうなの。ていうか、修辞技法は古文じゃないし」
「ぐっ……う、うるせぇなっ、ちょっと勉強ができるくらいでいい気になるんじゃねぇ馬鹿リョーマっ。言っとくけどなっ、テニスの腕は俺の方が絶対上なんだかんなっ」
「どこをどう見たらそんな大法螺が吹けるわけ? 練習でしか勝ったことがないくせして」
「う……っ、うるせぇうるせぇっ! 今度やる時はぜってー俺の方が勝つんだよっ、そん時になって吠え面かくんじゃねぇぞっ!」
「ふーん。今までその台詞何度も聞いてるんだけど。今度も口だけ?」
「ざけんなタコっ、今度という今度はぜってぇ本当の本当だ! 負けてから泣きべそかいたって知らねぇからなっ」
「ありえないこと心配しなくてもいいよ。今度も俺が勝たせてもらうから」
「ざけんな、俺が勝つっ」
「俺だね」
「俺だっ」
「俺だね」
「俺だっ」
 ぎっ、とリョーマと睨み合っていると、巴が突然ぷっと吹き出した。思わずムッとして声をかける。
「なに笑ってんだよ、巴」
「話してる横でいきなり笑いだされても困るんだけど?」
「ごめ……っ、だって、二人とも、進歩がないんだもん……っ!」
『な』
 なんだそりゃーっ! と言いたいこちらの心情など知らぬげに巴は心底おかしそうに笑い転げる。なんなんだ、と思わず眉根を寄せてしまった。
「ふ、ふふふっ、ふふふふっ、あはははっ……」
「巴、お前な、笑いすぎ……っつか、泣くまで笑ってんじゃねーよっ!」
「……馬鹿にしてるわけ?」
「そういうんじゃないけど、あは、あははっ」
「……ったく。ははっ」
 思わず隼人も笑い声を漏らす。巴があんまり嬉しげに、おかしげに笑っているので、なんだかわけがわからないがまぁいいか、というか自分も嬉しいような気になってきてしまったのだ。
「お前までなに笑ってんの」
「ここまで笑われるとこっちまでおかしくなってくんじゃんか、フツー」
「どこの国の普通? それ」
「ふふふっ、あはははっ……あの、ね」
「なに?」
「なんだよ」
 揃って巴の方を向くと、巴は微笑んだ。思わずどきりとする。その笑顔が巴らしくないというか、奇妙というか、あまり使ったことのない言葉を使って表現すれば、ひどくはかなく見えたのだ。
「二人とも、覚えててね」
「は?」
「なにを?」
「私と、私と一緒にいた時間」
『……はぁ?』
「私たちさ、これからきっと、いろんなことがあって、いろんな風にどんどん変わってくんだろうけど……それでもさ、今とか、この一年一緒にやってきたこととか、一緒にこんな風に笑い転げた時間とか……そういうのを、忘れないでほしいなって」
「……なんだよ、まるでこれでお別れみてーに」
「お別れなんて、いつやってくるかわかんないよ」
「そりゃ……そーだけどさ」
「だから、ね。二人とも、忘れないでよ。私は、絶対忘れないから」
 巴がなぜこんなことを言うのかわからなかった。今突然言うことじゃないという気がする。だが巴は心底真剣だ。なのでちゃんとした答えを返してやらなきゃ、と口を開けるより早く、リョーマがぶっきらぼうに口を開いた。
「……やだ」
「なっ、リョーマてめっ」
「忘れてほしくないなら、近くまで来てぎゃんぎゃん喚けばいいじゃん。いつものお前みたいに。なにしおらしいこと言ってんの。全然似合わないんだけど」
 こんなことを言われて巴は怒るかと思いきや、目をぱちぱちさせてからふふっと笑う。やはりどこかはかなげに。今にも消えてしまいそうな顔で。
「そっか。……そうだね」
「……そうじゃん」
「でも、しょうがないよ。家族を、ただ一人の従兄を、嫁に出すんだもん。少しは大人にならざるをえないじゃない」
『……はぁっ!!??』
 絶叫した。隣でリョーマも絶叫している。驚いたのかぽかんとしている巴に、隼人は(隣でリョーマも)全力で食ってかかった。
「なななななななに言ってんだお前はぁぁぁっ!!! よよよよよ嫁嫁嫁って正気かおまっ、阿呆なこと言うのもいい加減にしろこのバカっ!」
「お前がバカなこと言うのはいつものことだけど、それにも限度があるって思わないわけ? 嫁ってなに、どこに出すの。こんなのもらってくれる奴いるわけないじゃん」
 ほぼ同時に叫びながらも、隼人はリョーマのその言葉にかっちぃぃん、ときて考えるより先にリョーマの方を見て怒鳴るように言う。
「ぁんだと、コラ!? てめぇにんなこと言われる筋合いねーよっ、それこそてめぇの方が貰い手ねーだろーがそのクソ生意気な性格でよっ」
「お前、物事考えないのもいい加減にしたら? お前もらわれたいわけ、嫁として。お前がもらわれたいっていうなら勝手にすればいいけど、そういう奴と知り合いだって思われるのやなんだけど」
 リョーマもこちらを見ていつもの腹の立つくらい傲岸不遜な顔で抜かしてくる。それにかぁっと頭の中を熱くしながら怒鳴った。
「はぁ!? ざっざざざけんなっ、俺はただてめぇがまるで俺が結婚できねーみてーなこと言うからっ」
「実際結婚もできなそうだけどね」
「ぁんだと、コラ!?」
 喚きあい、睨みあい、怒鳴りあい。つかみあいになりかけてまずい明日は試合だ、と我に返り。その間中くすくす笑いながら自分たちを見ていた巴に、ひどく照れくさくなってぽりぽり頭をかいて。
 それから三人で合宿所へと戻った。自分たちの今戻るべき場所へと。
 そしてなんだか、なんとなく、なぜかはわからないけれど。隼人は妙に、『嬉しいな』と思ったのだ。
 そのせいで緩んだ口元を『なにへらへら笑ってんの、気持ち悪いんだけど』とリョーマに言われ、また大喧嘩になったのだが。

 その夜は早く寝た。もちろん明日の試合のためだ。やるべきことはすべてやった、気合も充分以上なほどに入った、あとはもうたっぷり休息を取って明日を待つしかない。
 そして、その夜は、夢を見た。
 自分の一番古い記憶。自宅に設置されたコート。自分と、京四郎と、京四郎に抱かれた巴。
 京四郎に駄目出しをされながら子供用のラケットを振り回す自分。それを見つめる巴。もう半ば風化しているほどに遠い記憶。
 そこに、声がかかった。
『いっしょに、やらない?』
 聞き覚えのある声。まだ声変わりも終わっていない声。この一年、きっと誰よりも自分の近くにいた声。
 隼人はその声の主である黒髪の、帽子をかぶった、ラケットを持った隼人と同じくらいの年の男の子を見つめ、それからその背後の着物を着たうさんくさい男を見つめ、また男の子を見つめて、それからこくんとうなずいて言った。満面の笑みで。
『うん! いっしょにやろ!』
 それから隼人はそいつと一緒にテニスを始めた。じゃれあうように、殴りあうように。お互いの境目がわからなくなるほどぴったりと、気持ちをぶつけあうテニス。それはそれこそ脳味噌がぶっ飛ぶほどに、楽しい体験だった。
 ふと、京四郎がこんなことを言うのが聞こえた。
『隼人。――――。お前らはちゃんと、巴の気持ちに応えてやれよ。お前らが、巴を守ってやるんだぞ』
 その言葉に、隼人はたまらなく嬉しくなって、大声で答えた。横のこいつと、声を揃えて。
『うん!』
 そこで目が覚めた。
 なんなんだろう、どういう夢だったんだろうと思うけれど、わからなかった。
 ――ただ、あの身を震わせるほどの嬉しさと、悦びは。
 体がちゃんと、覚えている。

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