七日目〜Jr.選抜〜
 Jr.選抜試合当日、朝。
 隼人はぱっちりと目を開け、今まで見ていたものが夢だと知った。心身が覚醒するにつれさぁっとその睡眠中の感覚が消えていく。まだぼんやりとしていた頭をぶるぶると振り、「うし!」と小さく叫んで、顔をぴしゃぴしゃと叩いて気合を入れた。
 続いて布団を畳み、ジャージに着替え、さっさと外に出てストレッチにランニングと体を温めにかかる。他の面々はまだ全員眠ったままだったが、隼人はこういう大切なイベントの前にはいつも早くに目が覚めてしまうのだ。なのでそういう時は、さっさと外に出て疲れない程度に練習をすることにしていた。
 ランニングを終えたら、軽く壁打ちをして最終調整。汗ばんだ体をさっと流し、そろそろメシの時間だと食堂へ向かった。
 食堂はそれなりに混雑していた。やはりみんなこのくらいの時間が食事にちょうどいいと思っているのだろう。朝は全員同じメニューを食べることになっているので、さっさと受け取って席を探した。
 と、ふいに、数歩先の席に座っていたリョーマと目が合った。
 一瞬どきりとするが、いまさら視線を外すのも面白くない。リョーマの脇には空席もある。視線を合わせたまますたすたと近づいて、隣の席に座りつつ声をかけた。
「よう、リョーマ。緊張してないか?」
 するとリョーマは視線を合わせたまま、いつも通りに巨大な態度で言葉を返してくる。
「なに? お前は緊張してるの?」
「な、なんでだよ?」
「自分が緊張してるから、そんなこと聞くんじゃない?」
「んなことはねーよ。ただ、聞いてみただけだ!」
 いつも通りの言葉の掛け合い。テニスの試合を見ているようだと言われたこともある際どいところへの投げつけあい。
 けれど、自分たちにとってはそれがずっと当たり前で、これからもたぶん当たり前なのだろう。普通にキャッチボールをしたいと思う時もあるけれど、それはいつもというわけじゃない。
 だって今は、Jr.選抜前――戦の前なのだから。
「ふーん、そうなんだ。で、どうなの? 選抜への意気込みは」
「Jr.選抜だろうがなんだろうが、関係ねぇよ。いつもと同じようにテニスをやって、勝つだけだ」
「ふ〜ん、珍しいね」
「な、なんだよ?」
「意見が合ったからさ。ま、そうだね。誰が相手だろうと、ただ勝つのみだね」
 平然とした顔で言うリョーマに、ふん、と隼人も鼻を鳴らしてやる。こいつの強気はムカつくことも多いが、こいつがいつもいつも平然とした顔で大口を叩いている限り、自分だってと思えてしまう。慌てたりうろたえたりしてたまるか、と思ってしまうのだ。
 自分はこいつには、絶対に、なにがあろうと、たとえ地球がひっくり返っても負けたくないのだから。
「そろそろ時間だし、行くよ」
「……ああ。そうだな。行くか!」
 食事を終えて、立ち上がる。これから自分たちは、お互いたった一人で、頂点を目指しコートの中で戦うのだ。
 だから、絶対に負けない。並んで外に向かいながら、そう再度誓った。

 Jr.選抜の会場。何度も練習したはずのその場所は、観客がいるだけで、不思議な独特の雰囲気に包まれていた。
 一年生最後の試合。全力を尽くすしかない試合。それに隼人は、シングルスで申し込んだ。
 ダブルスやミクスドを考えなかったわけではない。ただ、このJr.選抜合宿の中でいろいろなことを経験して、自分が一番力を出せるのはシングルスだと思ったのだ。
 今朝に見た、夢のように。
 ふいにそんなことを思い、隼人はぶるぶると首を振る。今はそんなことを考えている場合じゃない。ここまで来たんだからあとはもうやるしかないのだ。
 これまでの合宿で、手応えはつかんだ。自分のテニスは選抜の試合で通用する、と思えた。あとは全力を尽くす、それのみだ。
 試合の組み合わせを見る。うわ、と内心顔をしかめた。自分のいるブロックには相当の実力者がごろごろしている。
 一回戦の相手はのっけから不二先輩だし。二回戦はおそらく立海の幸村がきそうだ。三回戦、準決勝にくるだろう選手たちもかなりの強豪ばかり。これはかなり厳しい戦いになりそうだ。
 けれど、自分には負ける気は微塵もない。
「いよいよだね」
 後ろからかけられたぶっきらぼうな声に、こちらも負けずにぶっきらぼうに返す。
「おう」
「試合の組み合わせを見たけど、決勝まで残らないとお前とは当たらないね」
「そうか?」
 本当は知っていたけれども、そう返す。自分の場所の次に見たのは、こいつの場所なのだからそのくらいは当然知っている。
 でも言ってやらない。こいつを調子に乗らせたくないし、それに第一、ちょっと恥ずかしいような気がしてしまうからだ。
「じゃあ、行くよ。お前との試合、楽しみにしてるから」
 一瞬息を呑む。それは、つまりは、自分に決勝まで勝ち残れということで、その上で全力で、いつも以上の力を出して戦えということで。
 隼人との試合を楽しみにしているという、単純で純粋なエールに聞こえた。これまでずっと、自分とのテニスについては、嫌味と揶揄でしか向かい合ってこなかったリョーマなのに。
「……よっしゃあ、やってやるぜ! リョーマの方こそ、途中で負けんなよなっ!」
 思わず振り向いて叫んだ。リョーマは数歩先に、リョーマはいつも通りの仏頂面で立っていた。その口元が、ふいに少しばかりほころんだかと思うと、ふん、と鼻を鳴らしてすたすたとその場を去っていく。
 ぞくり、と体が震えた。あの笑顔。にやりと自然と顔が笑む。リョーマのめったに、まったくほとんど見ない楽しげな笑顔。
 なんとしても、あの笑顔を浮かべたリョーマを叩きのめしてやる。――あいつは、俺を待っているんだから。
 そうまた誓って、隼人は試合会場へと向かった。

 第一試合。対戦相手は、青学、不二周介。
「キミとの対戦は、久々だね」
「そっスね。シングルスは、合宿の終わりにやったあの試合以来かも」
 笑顔の不二先輩に、にやりと笑みを返す。高鳴る胸を闘志に変えて体を燃やす。なんのかんの言って、自分はこの人にシングルスでまともに勝ったことがない。
 だから今回なんとしても勝つ。勝って、あいつのところまで駆けていくのだ。
 うん、とうなずいて、隼人は不二に向かい合った。
「よろしくお願いします、不二先輩!」

「だっ、は、は、は、はっ」
 ベンチに思いきり体を預けて荒い息をつく。手渡された酸素を、必死に吸った。
 やっぱり、不二先輩は強い。いや、上手い。こちらの打った球をどれもこれも恐ろしいほど見事に返され、打ち分けられる。こちらはひたすら走らされるしかない。
 自分の得意技であるストロング・ショットも不二先輩にかかれば各種カウンターであっさり打ち返されてしまう。そしてその前後左右に打ち分けられたり戻っていったり跳ねなかったりするボールを自分は返せない。
 必死に厳しい球を打ち分けてはいるが、向こうもその程度でどうにかなってくれるほどぬるい相手ではない。現在のゲームは5-3で向こうのリード。そして次は不二のサーブ。
 正直、かなり厳しい。消えるサーブを隼人は未だに完全には返せない。その程度の球など不二先輩にかかればいいカモだ。どうする、どうすれば――
 と、荒い息をつきながらぼんやり眺め回した会場の中で、ふいに一人の視線がこちらに向けられているのを見つけた。
 背が伸びているのは確かなのに、自分が小学生の時よりちびっこい視点。そのくせ無駄にやたら大きな態度。高飛車で、偉そうで、生意気なあいつの視線が、こちらに向いている。その程度かと、お前はそこで止まってしまうのかと、こちらに語りかけている。
「……っ、ふ、ふ、ふ……ふぅっ」
 数秒その視線を見つめ返し、がしがし、とタオルで顔を拭いて立ち上がった。
 ――そうだ、自分はこの程度のことで止まってなんていられない。負けない。負けたくないし負けられない。
 だって自分は、そう生きると、戦う人間でい続けるとずっと昔に決めたし、なにより。
 ずかずか、とサービスエリアに歩み寄り、向かい側の不二を睨みつける。あいつに、リョーマに負けている、なんて認めたくないし認めない。そう、あいつと会った時から自分はずっと思い続けているのだ。
 あいつにだけは負けたくないと魂懸けて思える奴がいる、だからあいつの場所までたどり着けないなんてこと、絶対にしない。あいつとテニスをやって、そして勝つのだ。だってそれは、本当に、たまらなく。
 だからこの試合も、絶対に絶対に絶対に絶対に、全力で戦って、勝つ―――
 そんなことを思いながら数度深呼吸をする――と、すぅっと頭の中が静かになった。

「ゲーム、7-5! マッチ・ウォン・バイ、赤月!」
 審判の叫んだ声が唐突に耳元に聞こえた、と思うやがくり、と体に強烈な重みがのしかかってきた。それが疲労感だと自覚するや、膝が笑い腰が砕けかける。それを意地で必死に支え、きっと前を見た。
 ネットのすぐそばまで不二先輩が歩み寄ってきて、手を差し出す。その額に汗の玉がいくつも浮いているのを見て驚いた。不二先輩がそんな大量に汗を掻いているところなんて、見たことがない。
「おめでとう、隼人。君の勝ちだよ」
「え……へ?」
 言われて周囲を見て、ようやく自分がJr.選抜の試合会場のど真ん中にいたのだと気付く。試合の記憶が途中から途切れ途切れになっているのに、呆然と不二を見つめると、不二は笑ってみせた。
「気を抜いちゃ駄目だよ、隼人。君はこのあともまだまだ試合があるんだから。……僕に勝ったんだから、このあとの試合も、頑張ってくれるよね」
「は……はいっ! ぜってー、全力で頑張って、勝ちますっ!」
 全力でこくこくとうなずくと、不二は笑ってこちらに背中を向けた。その去っていく背中を見つめながら、ふらつく足を必死に動かす。そうだ、なにがなんだかよくわからないが、なんにせよまだ試合があるのだ。こんなくらいで止まってなんていられない。
 とりあえず、軽くダウンして、次の試合までどこかで休もう。次の試合は立海大のボスだ、体力を回復しないと身がもたない。
 ふと、記憶を失う前に見た顔を捜して会場内に視線を巡らせてみたが、そこには自分を見つめているあの顔はもう見つからなかった。

「っ!」
 もはやほとんど視認できない幸村の球を、必死に走って返す。その走る感覚すらほとんど足に伝わってこない。
 かろうじて返した球は幸村にあっさりと捕えられ、返される。自分の感覚では捕えられない場所に。見えない場所、聞こえない場所、感じられない場所に。
 は、は、と口から漏れる息の感覚すらほとんど伝わってこない。これが幸村の、五感剥奪テニス。最初に聞いた時はそんなことあるのか、と思ったが、自分は今実際にそれを食らっている。
 もうどんどん視界が暗くなってくる。音が聞こえなくなってくる。空気の匂いも、汗の味もわからなくなっている。握っているラケットの、踏みしめるシューズの感覚ももう伝わってこない。
 それでも必死にボールを追う。残り少ない感覚を必死にかき集めて。体には疲労がのしかかり、頭は半ば思考力を失いながらも、必死に走る。
 五感がないなら第六感でもなんでも使って戦ってやる。そして勝ってやる、絶対に。ただそれだけを思いながら走る。体中を必死に叱咤して、もはや動いているかどうかも感じとれない体を動かして。
 ――なんのために?
 そんなの知るか、だって俺はそうしたいんだ。
 なぜ? 誰のために? そんなことをして意味があるの?
 うるせぇ、知るか。意味があるかどうかなんてわかんねぇ、けど俺はするって決めたし、それをしたいって体と心の全部で思うんだ。
 感覚全てを奪われた、まったき闇。その中で必死に動け、走れと体に命じる。どこへなんてそんなの、本能が知っている。自分がずっと、それこそ物心つく前から続けてきたテニスというスポーツ。自分の中に沁みついたそのスポーツがどんなものか、どんなにすごいか、どんなに楽しいか、自分はそれを、あいつに――
 そんな思考を最後に、隼人の意識はすぅっと闇に溶けていった。

「おめでとう、赤月隼人くん。いいゲームだった」
「………、え」
 最初に見えたものは、癖毛の、長身の男子の(その顔にはいくつも汗の粒が浮いているのに)穏やかな表情だった。その人が――立海大の元部長幸村精市がこちらを向いて静かに相対している。
 それをぽかんと見返す隼人に、幸村は笑顔で肩をすくめてみせた。
「君の勝ちだよ。ゲーム7-5。俺の技を受けながら、それでもああも見事に打ち返してきたのは君が初めてだ」
「へ……え」
「俺の完敗だよ。おめでとう。――大した選手だね、君は」
「え……え」
 ばっ、とスコアボードを見る。周りの光景を見て、聞こえてくる声を聞く。「すげぇぞ、あの一年!」「なんだあいつ、何者だ!?」と周り中から飛んでくる言葉。そして歓声。体にずっしりのしかかる疲労感。
 それらすべてを確認し、隼人はようやく自分が勝ったのだ、と確信できた。
「―――っ、しゃっ!」
 思わずガッツポーズを取ってから、疲労感のあまり少しふらつく。それに幸村はくすり、と笑い、こちらに背中を向けて去っていった。
 まだ隼人の息は荒かったが、それでも必死に足を動かし控え室へと向かった。あとひとつであいつだ。あとひとつでリョーマだ。そこでさらに、自分は勝つ。そのために自分はここにいる。
 だから少しでも体力を回復しなければ。ふらつきながらも、必死に前を見て隼人は進んだ。

「おう、山ザル! よーやくお前との勝負やなー」
「は……金太郎? 準決勝の相手、お前かよ」
「当ったり前やん。んで、ワイはお前に勝って、コシマエと戦って勝って、優勝すんねん!」
「ざけんなタコ、勝つのも優勝すんのも俺だっつの!」
 対面するや言葉を投げつけあう。金太郎とちゃんと戦うのは、これが二度目だ。
 そしてこの前もそうだったように、たぶんこれからも自分と金太郎はこんな風に罵りあっていくのだろう。だってこいつは、邪魔者だ。自分の前に立ち塞がる、たぶん一番大きな障害だ。同い年で、あいつと正反対だからこそ近い感覚を持っていて、そしておそろしく、強い。
 だからこいつには、あいつと別の意味で、絶対負けるわけにはいかない。ぎ、と睨みつける隼人に、金太郎はへへっと小憎たらしく笑った。
「なーなー、昨日ワイ、ちーと聞きたいことできたて言うたやろ?」
「は? ……ああ、言ってたな。それが?」
「ワイな、いろんな奴に聞いてみてん。ワイと山ザルのテニス、どっか似てるとこあるかーて」
「……はぁ?」
 眉を寄せる。突然なにを言い出すのだこいつ。それは確かに、自分もそんなようなことを思ったことがないとは言えないが。
「でな。みーんな言うたで。似てるかしらんけどワイの方が強い、て!」
「……はぁ!?」
 ぎっ、とにっかり笑っている金太郎を全力で睨みつける。だが金太郎は平然とした顔できしし、と笑って抜かしやがった。
「せやし、ワイ山ザルと戦って思いっきし勝ったるねん! ワイのが本物やて、思い知らしたるでぇ!」
「てっめ、何様のつもりだこの……!」
「プレイヤー赤月! 早く配置につきなさい!」
「う……はい」
 審判に怒られ、渋々ながらベースラインに着く。正直金太郎をぶん殴りたいくらいイライラムカムカしていたが、ベースラインについてボールを跳ねさせているうちに少しずつ心が静かになってきた。
 そうだ、あいつは敵だ。敵だからこそ、この敵意を、怒りを、鋭く研いで、澄ませ、厳しくぶつけるのだ。鋭く、静かに、全力で。
 心と体が静かになってくる。自分がどんどん研ぎ澄まされてくる。一振りの刀になり、一発の弾丸になり、敵に、あいつにぶつかるのだ――
 隼人はひょうっ、とボールを上に投げ上げた。

「ポイント7-5、マッチ・ウォン・バイ・赤月!」
「っしゃぁっ!!!」
 思わずガッツポーズして叫ぶや、金太郎が「くっそー!! 負けてもうたー!」と半泣きの声で叫ぶ。荒く息をつきつつにぃっ、と我ながら壮絶な笑みで金太郎を見やった。
「どーだ金太郎っ、これが俺のテニスだっ! てめぇとどっちが上か、わかったかっ!」
「むーっ……やっぱワイの方が強い気すんけど」
「んっだとコラ!?」
「今回勝ったのは山ザルやしな。お前もけっこうやるやん!」
 にぃっ、と満面の笑顔を向けられ、なんだか照れくさくなって「おう」とか言ってしまってからはっとして怒鳴る。
「てめぇ負けといてなんだその態度のでかさ!」
「ほな、頑張りやー。コシマエとの対戦、楽しみにしてるさかいな!」
 言って獣のような速さですったかたーと消えていく金太郎をあの野郎、と見送りつつ、隼人はふぅっ、と息をついた。
 そうだ、次はいよいよ、決勝戦なのだ。

 すでにリョーマは決勝戦進出を決めていたが、決勝戦開始までには十分強の休憩がある。隼人は疲れた体を懸命に動かして、会場裏手の休憩所まで来ると、ごろん、とそこに寝転がった。
 すぅ、と吹いた初春の風が隼人の火照った体を心地よく冷やす。外に出てきてよかったな、と思った。岐阜の山の澄んだ風ほどではないけれど、この合宿所の穏やかな風は都会の空気とは明らかに違い、隼人の心身をしゃっきりさせてくれる。
 ふと、眠気が兆した。やべ、と思う。やばいやばいダメだろそりゃ、遅刻しちまうって寝ちまったら、そんなんいっくらなんでもねーだろダメだって。
 そう必死に思いつつも心身を絡め取る睡魔の糸を振り払うほどの力は隼人には残っていなかった。ダメだろ、ダメだって、あいつと、リョーマと絶対戦うって、約束したのに――
 その思考を最後に、隼人の両目は閉じられた。

 母さんが、歩いている。
 隼人はそう思った。白いワンピースを着て、ピンクの日傘を持った母さんが、自分の数歩先を歩いている。
 隼人は必死にそれを追う、けれど隼人の体は幼児の、それこそ三歳児のように小さく、どこまで追ってもどんどん進む母さんには追いつけない。
「母さん、母さん」
 そう必死に呼んでも母さんは振り向いてくれない。それが辛くて、辛くて、うぅっと喉の奥から嗚咽がこみ上げそうになった時、自分の横から小さな足が飛び出してきた。
「っ!?」
「まだまだだね」
 舌っ足らずな口調でそんな生意気なことを抜かしやがったそのガキは、自分を追い越してどんどん母さんに近付いていく。それにかぁっと頭に来て、だだっとさらに全力で足を進めた。
 横のこいつより早く。こいつより前に。こいつより先に。
 こいつに勝ちたい。こいつに勝ちたい。こいつに勝ちたい!
 必死に必死に走る。いつの間にか自分とそいつは中一の、現在の姿に変わっていた。走って、走って、全速力で走って、「母さん!」と叫びながらそいつより先に母さんの腕をつかむ――
 と、その母さん≠ェこちらを向いて、にっこりと笑った。
「頑張ってね、はやくん」
 え、と思った。その笑顔は、リョーマと一緒になって追いかけていた優しい笑顔は、いつも自分の隣にあった、あの従妹のもので――

「うわっ!」
 慌てて跳ね起き、荒い息をつく。なんだなんだなんだ今の夢、と顔を赤くした。なんか俺今すんげー恥ずかしー夢見てなかったか!?
 あーもーなにやってんだ俺っ、と思いながら時計を見て、はっとする。やべぇあと試合開始まで一分もねぇっ、と気付き、持ってきたラケットを引っつかみ全速力で走った。
 あいつのところへ。リョーマのところへ。絶対に勝ちたい奴のところへ。
 秒で細かい着替えやらを終え、隼人は試合会場に入った。ざわめく観衆の視線を体中に浴びながら、コートに立っていたリョーマと向き合う。自然、顔が笑んだ。
「来たね」
「リョーマ、今日こそ決着をつけてやるぜ!」
 馬鹿にされるかな、とちらりと思ったが、リョーマはに、と不敵な笑みを浮かべ真正面から答えた。
「決着をつけるには、最高の舞台だからね。全力で行くよ」
「ああ――望むところだ!」
 思わず満面の笑顔でうなずいて、隼人はコートに入った。こいつもそう思ってたんだ、と思うとたまらなく興奮した。そうだ、今日こそ決着をつけてやる。俺とこいつは、ずっとずっと、この時を待っていたんだから。
「フィッチ」
「ラフ!」
「スムース」
 上になっていたのは裏側、隼人のサーブ。よし、とうなずいてベースラインにつき、数度ボールを跳ねさせてから、全力でサーブを放った。
 ビシュッ!
「15-0!」
「のっけから隼サーブか!」
「隼人……全力だね」
 に、と笑ってやると、リョーマもに、と笑みを返してくる。なんだ、なんだろうこの感じ、なんだかよくわからないが、身震いしそうなほどに嬉しい。
 ビシュッ!
「また隼サーブ!」
「だが……返したっ!」
 ぎゅん、と返ってきたボールは、隼人の手前で顔面めがけて跳ね上がってくる。それを隼人はたん、と後ろに跳ね上がるようにしつつ軽く落とした。そのボールはぽん、と地面に落ちるがほとんど跳ねず、ころころと地面を転がる。
「な……んだあれ、零式ドロップショット!? けど後ろに飛び上がりがけになんて……そんな体勢じゃ普通ならドロップショットすら打てないはずなのに……!」
「……あれは……!」
 にやり、と笑う。リョーマもにやり、と笑う。そうだ――これだ。これを、自分はずっと待っていたんだ。
 ズバンッ!
「なんだっ、速いっ!? 打ったはずなのに、動きがほとんど見えない……!」
「これは……もしや、『天衣無縫の極み』……?」
 ビシュッ!
「なんだありゃっ、打った球が消えた!? 動いたと思ったら、次の瞬間にはボールがコートに……!?」
「違うな。『天衣無縫の極み』なんてもんは、最初っからねーんだよ」
「あなたは……越前の」
 ズガッ!
「天衣無縫の極みってのは、テニスをする時、誰もが最初に持っていたもんだ。テニスを始めた時のどんなにやられようと夢中になって陽が暮れるのも忘れてやった楽しくてしょうがねぇテニス。そん時ゃ、誰もが天衣無縫なんだよ。それをみんな忘れて、勝つための、ミスをしねぇテニスを覚えちまうんだ」
「……それって……」
 スヴォッ!
「だがな。あいつらのあれは、天衣無縫の先にあるもんだ」
「天衣無縫の先……?」
「勝つための≠カゃねぇ。楽しいから=A相手とテニスをするのが、打ち合うのが死ぬほど楽しくて、楽しくてしょうがねぇから、『だからこそ勝ちたい』と血反吐を吐くほど本気で思うテニス。天衣無縫と天衣無縫がぶつかり合った先、一人じゃなく二人でなけりゃたどりつけないテニス。常識を、当たり前をぶち破ってどんなとんでもねぇことだってやってのけちまうテニス。――俺だって中学の時にしかやったこたぁねぇテニスさ」
「おじさん、それって……」
「フン。……俺の相手は、あれを双天双華の極み≠ニか名付けてやがったな」
「双天双華の、極み……」
 打つ。返される。放つ。放たれる。受ける。落とす。走る。打ち込む。上がる。駆ける。全力で。
 体中が震える。歓喜に痺れる。打ちながら、返しながら。
 これだ。ずっと自分の、自分たちの求めていたのは。たまらない、痺れるくらい気持ちいい、心地いい。脳天まで突き抜ける、この快感。
 楽しいなんてもんじゃない、脳味噌吹っ飛ぶほどのエクスタシー。体中が、心中が、もっと、もっととあいつを求める。リョーマとのテニスを。二人なら、自分たちは、もっと、もっと、どこまでも、はるか彼方までいける――

 ――真っ白になった頭で、打ち合いながら夢を見ていた。
 京四郎と南次郎に見つめられる先で、自分とリョーマが打ち合っている。まだ幼稚園に入る前ぐらいの、それこそラケットを持ったばかりじゃないかってくらいの自分たちが。必死にコートを駆け回り、懸命にボールを打ち返して。
 楽しくて楽しくてたまらない、そんな気持ちでひたすらにボールを打ち合って、やがて勝敗が決する。自分の打ったボールをリョーマは取れなかったのだ。
 歓喜の声を上げて、自分は振り向き、叫ぶ。
「やったぞ、―――!」

「ポイント256-254、マッチ・ウォン・バイ・赤月!」
 わぁっ! と会場を揺るがす大歓声が聞こえた。――とたん、世界が戻ってきた。
 呆然とネットの向こうのリョーマを見つめる。リョーマも呆然とこちらを見返してきた。体中から力が抜けて、へたへたとその場にへたりこむ。リョーマも同じように、コートにへたり込んでいた。
 じっと相手を見つめる。リョーマもこちらを見つめる。顔が笑んだ。リョーマも笑みを浮かべる。
 のろのろと体中の、ほとんど残っていない力を無理やり振り絞って立ち上がった。あとちょっとだけ、もうちょっとだけ頑張ってくれ、俺の体。
 リョーマも同じように立ち上がり、のろのろとこちらに歩み寄ってくる。お互い、ネットを挟んで向かい合い、見つめあった。
 だらだらと汗を流した、埃にも汚れたリョーマの顔。たぶん同じような感じなんだろう自分の顔がリョーマの瞳に映っている。それがなぜかたまらなく嬉しく、リョーマと一緒ににたり、と笑い――同時に手を差し出して、バシン、と全力でハイタッチをした。
 とたん力を使い果たして、リョーマと一緒にまたへたへたとその場にへたり込む。今にも気絶しそうな脱力感の中、最後の力でリョーマは振り向いて、叫んだ。
「勝ったぞ、巴ーっ!」
 最後に意識に残っているのは、びっくりした顔をしてから、ふわっと思いっきり笑ってくれた巴の顔と、宙に浮かぶようなふわふわした感覚だった。

「………んう、うぁ?」
 ふわ、と鼻先をくすぐるなにかに、顔をしかめながら目を開ける。真っ白いカーテン、固いベッド、差し込む光と春の風。……そこは医務室だった。
「起きた?」
「ん、う? ……リョーマっ!?」
 慌ててばっ、と体を起こす。目に入ってきたのは、隣のベッドで自分と同じように上体だけを起こし、片膝を抱え込んだリョーマだった。
 そんなに近くにいるとは思わずに、一瞬固まった隼人に、リョーマは穏やかな微笑みを浮かべながら言ってくる。
「ねぼすけじゃない。お前には、珍しく」
「え、そ、そう……かな」
「俺がお前より先に起きてるっていうの、この一年じゃほとんどなかったんじゃない?」
「そ、そう、かも、な」
 じっとこちらを優しい視線で見つめながら、穏やかに笑んで言ってくるリョーマに、隼人はなぜか妙に気圧された気分になっていた。うまく視線が合わせられない。なんというか、気恥ずかしいというか、なんでだかさっぱりわからないけど、妙に、照れくさくて。
「お前……俺より先に起きて、なにしてたんだよ。退屈じゃなかったか?」
「別に? お前の寝顔見てたからね」
「ねがっ」
「面白かったよ。ガキっぽかったり、妙に男らしかったり、落ち着かなくて」
「なっ……ぁんだと、コラ!? 人のねがっ、寝顔見て勝手に偉そうなこと言ってんじゃねーよっ!」
「そう? じゃあ、俺の寝顔はどんな風だった?」
「へ? お、お前の、ねが、お、って」
 すい、とリョーマがふいにこちらに顔を近づけてくる。ぴしり、と下半身が、急に勝手に固まった。
「俺の寝てる時の顔、お前、何度も見てるでしょ? 何度も起こしてくれてるんだから」
「そ、りゃそう、だ、けど」
 リョーマの寝顔、って。何度も見てはいるけど。こいつ顔が整ってるから、寝てる時って、妙に、カワイイって印象しか
「ね、隼人」
「はいっ!?」
 素っ頓狂な声を上げた隼人に、リョーマはくすくすと笑ってから、笑顔を収めて言う。
「楽しかったよ。お前との試合」
「あ……」
 言われ、隼人の顔は自然に笑んだ。そうだ、こいつとの、あの試合は、本当に。
「……俺も、すんげー楽しかった」
「な」
 にや、と二人で笑みを交し合う。お互いがひとつの感情を共有しているのがわかって、妙に嬉しかった。
「ま、次やったとしたら、勝つのは俺だろうけど。よかったじゃない、公式戦で一回でも勝った記録が残って」
「ぁんだと、コラ!? 次勝つのも俺に決まってんだろ、っつか俺が今まで一度も公式戦で勝った記録がねぇみてーに言うなっ!」
「実際ないでしょ。ランキング戦でも俺、お前に負けたことないし」
「てめっ……へっ、ランキング戦なんてしょせんは練習の一環だぜ! 『公式戦で勝った』って記録に残んのは俺の勝利だけなんだかんなー、へっへーだ」
「それもすぐ取り返してやるよ。オーストラリアでね」
「へ? オーストラリア……?」
「最初に榊コーチから説明されたでしょ? オーストラリアのU-16世界大会。俺たち、どっちも参加が決まったから」
「おぉっ、マジかっ!? け、けどなんでお前も……?」
「なんでもさ……協会のお偉いさんの、ジュニア関係にけっこう幅利かせてる人に、お前の親父さんと仲悪い人がいるらしくてさ。お前が最初に選抜に選ばれなかったの、そういう関係もあるみたい。そんで、お前英語壊滅的でしょ? そっち関係で文句つけてきたらしいよ」
「なっ……んっだそりゃ!」
「まぁ、けど、一応男子シングルス優勝者だし。あれだけの試合もしたし。っていうんで、俺が英語ほぼネイティブだから、俺も一緒に代表扱い、ってことで決着したんだってさ。ま、そのおかげで俺も一緒に世界へ行けるんだから、よかったってことにしとけば」
「……そ、だな。お前と一緒に行けるんなら、悪くねぇか」
「ん」
 小さく笑みを交し合う。こんな風に穏やかに、言葉のキャッチボールをするのはすごく久しぶり、というか初めてなんじゃないか、という気がして、急に照れくさくなって隼人は大声を出した。
「よっしゃあ! じゃあ次はオーストラリアで勝負だな!」
「ま、少し先のことにはなるけどね。榊コーチがこのメンバーでU-16世界大会に向けての合宿するとか言ってたし」
「お、マジか!? そりゃまた面白ぇことになりそーだな! あ、そだっ! 巴とか、騎一とかはどーなったっ、試合結果!」
「……騎一は桃部長と組んで男子ダブルスの準決勝で黄金ペアにタイブレークまで持ち込んだけど負け。小鷹は海堂先輩と組んでミクスドの決勝で巴に負け」
「へ……それって」
「……巴はミクスドで、立海大の老け顔と組んで優勝、だってさ」
「っしゃぁっ! やったじゃねーか巴の奴! あーでも騎一は残念だったなー……ってか、ダブルスの優勝って黄金ペアか?」
「そ。圧倒的な強さだったってさ」
「へー、それにタイブレークまで持ち込むってこたぁ、やっぱ大したもんだな騎一の奴! お、けどってこたぁ、男子が入ってる種目全部の優勝に青学が絡んでるってこったよな! さっすが青学、最強だぜっ!」
「当然。俺たちのいる学校だし」
「だよなっ。へへ」
 にっ、と笑みを交し合い、語り合う。それは胸をほわんと心地よくする行為だった。テニスの快感とはまた違う、穏やかな悦び。それを共有できるのは、隼人にとっても、たぶんリョーマにとっても幸せなことだったのだ。
 と、枕元の携帯がふいにメールの着信を告げた。リョーマの携帯も同時にだ。
「ん? 誰だ……? と」
 携帯を開いて、目を丸くする。それからリョーマと目を見交わして、笑った。
 送信元は、巴から。題名は『集合!』。本文は、『合宿参加者で集合写真撮りたいので、まだ時間と体力に余裕のある人は合宿宿舎入り口に集合してください、お願いします!』。
 あんにゃろ先輩たちにもこのメール送ってんだろーなー、と苦笑しつつも、ひょいとベッドから下りて、立ち上がる。
「しょーがね。行くか?」
「ま、しょうがないね。あとであいつに文句言われるのも面倒だし」
「だな。俺ら、帰るとこあいつと一緒だもんな」
 そんなことを言いながら、隼人とリョーマはのんびりと宿舎入り口に向かった。自分たちの帰る場所にいるあいつと、他の人々に会うために。

 ――そして、春。
 学ランに着替えて、隼人は自分の部屋から居間へ下りてきた。今日から新学期。二年生になるのだから、気合を入れていかなくてはいけない。
 と、テーブルについている姿にわずかばかり目を瞠ってから、笑った。
「おっ、リョーマ。今朝は早えぇじゃねぇか!」
「当然。隼人こそ、早いじゃん」
 リョーマが口の中のものを飲み下しつつ答えてくる。隼人はその隣に座り、自分の分の朝食にかぶりついた。
「ま、新年度早々、遅刻するわけにもいかねぇからな!」
「新年度か……お前がうちに来て、もう一年経つんだ?」
「ああ、そういうことになるな」
 くい、と牛乳を飲み干してから、リョーマがわずかに考えるように視線を上にやった。
「こうして考えてみると、けっこう楽しかったかな。お前らが来て」
「そ、そうか?」
 なんだか照れくさくなり頭をかく隼人に、リョーマは視線を宙に向けたまま落ち着いた口調で続ける。
「俺、一人っ子だから、ずっと兄弟がほしかったんだよね。隼人みたいに、くだらないことで一緒に笑いあえて……他の人には話せないようなことも相談できて、どんな時も信頼できる。そんな兄弟が、ほしかったんだ」
 淡々と告げるリョーマに、隼人は不覚にも胸がジンとした。こいつ、こんなクソ生意気な顔の下でそんなことを考えてたんだ。
「リョーマ……俺もだ。俺たち、ずっと仲のいい兄弟みたいな関係でいような!」
「そうだな」
 笑顔を向けるリョーマに隼人も笑顔を返し、自分の分の食事を飲み下す――
「ずっるーい、はやくんばっかりー! 小姑のことも大切にしないと、家庭はちゃんと回らないんだからねっ!」
 や、背後から思いきり叩かれてむせた。
「っ……巴っ! 人が喰ってる時にお前なっ」
「あ、ごめんごめん、だって腹立っちゃったんだもん。はやくん、リョーマくん、夫婦仲がいいのはけっこうだけど、一緒に暮らしてるんだから小姑にも気を使ってよね?」
「誰だ夫婦って小姑ってなんだキショいこと言うんじゃねーっつーのっ!!」
「……なに考えてんの、お前」
 自分たちに揃って睨まれつつも、巴は涼しい顔で「さー、ご飯ご飯」と朝食をぱくつき始める。ったく、と言いつつ残りの牛乳を飲み干していると、巴がこちらを向いて言ってきた。
「あ、はやくん。学ランのボタン、ちゃんと止まってないよ?」
「え、どこだ? ……わかんねぇぞ。巴、やってくれよ」
「え、でももう夫婦になってる二人に横から手を出すのは」
「アホかっ! キショい冗談もいい加減にしろっつーの!」
「あはは。でもさ、私今ご飯食べてるし。リョーマくんは、どこがおかしいかちゃんとわかってるでしょ?」
「え」
 そうなのか? とリョーマの方を向くと、リョーマは仏頂面でふ、とため息をついて立ち上がる。
「しょうがないね。ほら、こっちきて」
「お、おう」
 言われて隼人も立ち上がり、リョーマのそばに寄る。リョーマのさらさらの髪が鼻先をくすぐった。自分と、巴と同じシャンプーの匂い。同じ場所で暮らす人間の――家族の匂いが、心身に伝わってくる。なんだか顔が自然に、ほんわりとした。
「……これでよし」
「サンキュー、リョーマ」
 にっ、と笑顔で言ってやると、リョーマはわずかに鼻先を赤くして、ふん、と鼻を鳴らし言ってきた。
「本当に、手のかかる弟だよね」
「……弟!?」
 思わず目をむいた隼人に、リョーマは平然と抜かしてくる。
「どうかした?」
「弟って、どういうことだよ!?」
「男の兄弟の、年下のほう」
「そうじゃなくって! なんで俺の方が、弟なんだよ!?」
「そりゃ……しっかりしてる方が兄貴で、まだまだ子供な方が弟でしょ」
「ぁんだと、コラ!? リョーマの方が、子供だろ!?」
「いや、違うね」
「年だって二ヶ月俺の方が上じゃねーかよっ!」
「二ヶ月程度の年の差でお前のガキっぽさがどうこうできるとも思えないけど」
「ぬうう〜〜!! おい巴、俺の方がオトナだよなっ!?」
「え、どっちでもいいんじゃない? 一番偉いのは小姑の私で決定なんだし」
『んなわけねーだろ(ないだろ)!!』
 などとぎゃあぎゃあ騒いでいると、ふいに南次郎が居間に入ってきて、時計を見るや目を瞬かせた。
「ありゃあ!? 時計、止まってやがるなぁ」
『……え』
「お? お前ら、なに、余裕ぶっこいてんだよ? 早く行かねぇと遅刻すんぜ?」
 ざーっ、と音を立てて自分たちの顔から血の気が引く。隼人はばっとリョーマの方を見た。
「お、おい、リョーマ! こんなことしてる場合じゃねぇぞ!」
「……そうみたいだね」
「巴! 鞄持ってきてやっからとっとと食っとけ、急がねぇとマジやべぇ!」
「わわっ、どーしてっ、部屋の時計止まってたの〜!?」
 どっすんばったん、がったんごっとん。大騒ぎの末に、三人揃って越前家を飛び出す。
「まったく。新年度早々、遅刻かよ〜!」
「お前らのせいだからな?」
「リョーマのせいだろうが」
「まぁまぁ、責任の押し付け合いはよくないよー。仲良くしなさいってば」
『お前が言うな!』
「……って、そんなこと言い合ってる場合じゃねぇ! 急ぐぜ、巴、リョーマ!」
「……遅いのは、そう言ってるお前の方じゃないの」
 だっだっだっ。
「むっ……これでどうだ! 軽く抜いてやったぜ?」
「にゃろう」
 だっだっだっ。
「……どう? 簡単に抜き返せたけど」
「くっ……まだまだぁ! こんなの俺の全力じゃねぇぜ」
「……じゃあ、学校にどっちが先に着くか、勝負する?」
「望むところだ! リョーマ、お前には負けねぇからな!」
「こっちこそ……隼人、お前には、負けないね」
「そんなこと言ってる暇があったら走ろうよー! っていうか道こっちだってば!」
「おっとやべぇっ! 急ぐぞ、リョーマっ!」
「当然」
 追い抜きざまに、リョーマは小さく、隼人の耳元に囁いた。
「――お前は、俺の認めた、一番のライバルなんだから」
 その言葉に、一瞬、心臓が跳ねた。
 が、涼しい笑顔を浮かべて自分を追い抜かしていくリョーマを見て、自分の足が一瞬止まったことに気付き、こなくそっとまた走り出す。リョーマと一緒に、抜きつ抜かれつを繰り返し。
 そうだ、こんな関係がずっと続けばいい。巴がいて、リョーマがいて。みんなで一緒に走っていければいい。
 だって自分たちの目指すものは、いつだってひとつなのだから。一番を、世界の頂点を目指してみんなで走り続けたい。
 世界で一番の、俺のライバルと一緒に。隼人はにやりと心底からの笑みを浮かべ、リョーマをまた抜き返した。

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