六日目〜忍足・向日戦〜
「ふあぁ〜〜。眠いよう。お腹すいたよう」
 あくび交じりにざすざすと食パンを切っていると、わき目も振らず真剣な顔でレタスをちぎっている小鷹に突っ込まれた。
「モエりん、口より手を動かさないと、ごはんは食べられないよ」
「それは、そうなんだけどさ。でも、ごはん作ってくれてた人が全員、風邪で倒れたからって……。なんで私たちがごはん作らなきゃならないの〜?」
「それは確かに……」
 ややぎこちない手つきながらも美しい所作でフルーツを切る原に相槌を打たれ、巴はうんうんとうなずき返す。そもそも、これを言い出したのは榊コーチだった。食事係の人間は基本的にこの施設の管理者の方々なのだが、その人たちが全員風邪で倒れたから食事を作れ、と唐突に女子選手が集められ命じられたのだ。
 そりゃ、ご飯を作るのは慣れてるし大人数作るのも合宿で経験はあるが、普通そういう時はまた新しくよそに頼むものじゃないだろうか。なんで選手が、というかなんで女子だけなのだろう。なんか納得いかないというか、裏を感じてしまう。
「それは……男子が作るよりはマシだからじゃない?」
「ホントかな〜。だって、料理うまい男子もいっぱいいますよ? ほら、すぐ目の前にも」
「ははは……」
 慣れた様子で野菜を茹でる杏に疑問を呈しつつ隣の目にも止まらぬ速さで(いや、見えるが、感覚として)玉ねぎを大量に薄切りにしていく天野を指さすと、天野は苦笑した。その手つきはたぶん巴も含めたここにいる全女子と比べても一番鮮やかだ。ちなみに彼は『朝食に対する重大な連絡事項がある』というメールが巴に回ってきた時に一緒にいたので、なにか役にたてるかもと一緒に来てくれたのでこれ幸いと手伝ってもらっているのだ。
「いや……天野くんはその、例外じゃない?」
「橘さんだって上手ですよ?」
「うーん、兄さんは趣味が料理だから……」
「ボヤかないの! お昼は……臨時の、人が……っ、作りに、来て、くれるんだからっ」
「……早川さん、ジャガイモの皮、そんなに厚く切ったらもったいないよ」
 味噌汁担当の早川と鳥取は対照的な包丁さばきでじゃがいもの皮を剥き細切りにする。早川は包丁の持ち方からして危なっかしいが(さすが那美ちゃんのライバル、とこっそり感心した)、鳥取の動かす包丁の動きは鮮やかだ。そういえばストリートコートで子供たちにテニスを教える日に手作り弁当持ってきてたなぁ、とぼんやり考えながら大量のパンを切り終えて、ふと気付いた。
「あれっ? そういえば、吉川さんは?」
 吉川の姿が周囲に見当たらない。まさかサボってるとか、と見回すと、背後から冷静沈着な声が響いた。
「私の分担である手作りヨーグルトはすでに完成しています」
「はわっ! お、驚かさないでくださいよ〜」
「私は普通に声をかけただけですが」
「まだ始めてからそんなに経ってないのに終わってるなんて、すごい手際のよさですね」
「ふっ。時間が余ったものですからゴーヤとヨモギ、ケールなどもそれに加えてみました」
 蛇足じゃん、と内心突っ込みつつ具に取りかかる。まずはひき肉を炒め、色が変わったらナスと玉ねぎを加え、塩とカレー粉で薄めにさっと味付けする。なにせ大人数分なので大変ではあるが、作っているのはパングラタン、スポーツ選手とはいえ具はそれほど大量には必要ない。このレシピを提供したのは、当然横でホワイトソースを手早く作っている天野だ。
「あ、巴ちゃん、絹さやはこっちでやっておくからパンとグラタン皿の方やってくれる? 油を薄く塗って、パンを入れておいてくれればいいから」
「はーい。具の方は入れなくていい?」
「うーん、じゃ、お願いしようかな。適度にばらばらと、頼んだよ」
「オッケー!」
「だけど、本当に手際がいいのねぇ、天野くん」
「そうね……私たちの料理の配分もすごくてきぱきとやってくれたし」
「ああ、それは……」
「天野選手は母親が料理研究家ということで、自身料理を仕込まれ今ではその腕前は青学テニス部内外に轟いているそうです。その腕はほぼプロ並みとか」
「へぇ! すごいのねぇ」
「あはは、いや、単に慣れと、あとは性に合ってただけですよ。こんなのでプロ並みって言ったら本当のプロが気を悪くしますってば……と、早川さんキャベツをざく切りにする時は何枚か本体から取り外して重ねて切っていくとやりやすいよ」
「わ、わかってるわよ! こ、こんなことで勝ったと思わないでよね……こ、小鷹さん!」
「え、なんで私!? 急に話しかけないでよ、今トマトを……」
「那美ちゃん、落ち着いて。ゆっくり、力を入れないで慎重に切っていけばちゃんと怪我しないで切れるから」
「う、うん……っしょっ」
「うーん、さすがきーくん、厨房の中は俺が支配する! って感じだね! はい、こっち終わったよ」
「ありがとう。じゃ、あとはホワイトソースをかけて、パン粉と粉チーズと絹さやを散らしてオーブンで焼くだけだね」
「赤月さんの手際もいいわねぇ。メインのおかずを任せた甲斐があったわ」
「え、そうですか? えへ、嬉しいな〜。あ、那美ちゃん、手伝うよっ」
「あ、ありがとうモエり〜ん……!」
 十五分後、とりあえず朝食の第一陣が出来上がった。玄米ごはん、じゃがいもとキャベツととろろ昆布の味噌汁、野菜と白身魚のカレーヨーグルトソース和え、パングラタン、サラダ、フルーツ、手作りヨーグルト、牛乳。これからまだ順次配膳が待っているが、とりあえずはこれで一段落だ。女子は全員で歓声を上げつつハイタッチで健闘を讃えあったが、天野は一人オーブンから目を離していなかった。さすが料理人、と苦笑しつつ全員で配膳に取りかかる。
 と、どやどやと食堂に男子選手たちが入ってきた。何人もの選手がめいめい声を上げながら厨房からの差し出し口にやってくる。
「おおっ赤月さん! 今日の朝食は女子が作ったって聞いたけど、本当だったんだね!」
「おー、うまそうじゃねぇか! お疲れさん! 大変だっただろー」
「おおっ、女の子の手作り朝食っ! くぅ〜っ、なんや泣けてきたわ……おおきに!」
「あ、はいっ、ありがとうございます、どうぞ食べてくださいっ!」
 慌ててトレイを差し出し頭を下げると、なぜか男子選手たちが沸く。え、なんで? と思って目をぱちぱちさせると、隣の早川さんに肘でつつかれた。
「バカ! 相手はお客さんじゃないんだから、作ったこっちの方が立場が上でしょうが! 食べさせてやる、ぐらいの態度でいればいいのよ!」
「え? あ、そっか、そうだよね、こっちの方が立場上なんだよね、選手なのに料理作ったんだから。なんか、普通に食べてくれてありがとう、みたいな気分になってた。……まぁ、喜んでくれてるみたいだし、いいかな?」
「よくないわよっ、あなたはもっとプライドを持ちなさいプライドというものをっ」
「へぇ、ほんまうまそうやん。なぁ、ちなみに巴サンが作ったんはどれなん?」
「あ、私が作ったのはこのパングラタンなんですけど」
 でもそれ半分以上きーくんに作ってもらったようなもので、と言おうとしたがそれよりも早く『おお〜これがぁ!』『うまそうだな!』『赤月さんって料理も上手なんだね!』となぜか嬉しそうに笑われてしまったので言いそびれた。それからはひたすらに配膳をし、洗いものはスタッフの人がやってくれるということなので一通り終えるとほっと笑い合って厨房を出る。
「お! 女子、料理うまかったぜ!」
「うんうん、どれもおいしかったよ〜。ありがとね、みんな」
「そやそや、ホンマうまかったで、おおきに!」
 とたん、食後のお茶を飲んでいたらしい男子選手から声がかかり、巴は思わず笑顔で言った。
「そうですか? ありがとうございます! きっときーくんも喜びますよ!」
 なぜか、その言葉に空気が凍った。
「え……あの、きーくん、って」
「? ああ、天野騎一くんです、青学の一年の! 彼料理上手だから女子選手じゃないけど手伝ってもらったんですよ。おいしかったでしょ? パングラタン」
「って、パングラタンは赤月さんが作ったんじゃなかったのっ!?」
「ええ、一緒に作ったんです。私も手伝いましたけど半分以上はきーくんが。きーくんってすごく料理うまいんですよ!」
『…………』
「はは……そっか、そうなんだ……ははは」
「あ……そ、そーなんやー……女子の手作り料理と思ってあない流してもうた俺の感動の涙はいったい……」
「?」
「いやあの、すいません、みなさん……本当すいません……」
「……いや、君が悪いわけじゃない、とわかってはいるんだけどね……」

 朝食後の休憩時間になにをしようか、と考えながら歩いていると、声をかけられた。
「よう、巴」
「あっ、切原さん! こんにちは」
 切原はにっとこちらに笑いかけ、隣に並んできた。巴も思わず笑顔になる。
「もうすぐ、合宿も終わりだな。もう、土産とか買ったのか?」
「実はまだなんですよ。いまひとつ、これぞ名産品って感じのものがなくて……」
「ははっ、確かにここって土産らしい土産物ってねーよな。まー特産品とか特にねーとこなんだからしょーがねーけどよ。……あー、こんな話してっとこ真田元副部長とかに見つかったらどやされんな―。テニスに集中すべき環境でテニス以外のことを考えるとは何事か、たるんどる! って」
「え、お土産の話してるだけで? それはちょっと、厳しすぎますね」
「お前もそう思うだろ? ホント、カタ過ぎるんだよ、真田元副部長って」
「あははは……」
「よう、巴。なんや楽しそうに話してるやん」
「あ、忍足さん、こんにちは!」
 向こうからやってきた氷帝の天才、忍足に巴は笑顔を返す。と、切原が唐突にぐいっと自分の前に出て忍足を睨んだ。
「忍足さん、今コイツと話してるの俺なんで、引っ込んでてもらえます?」
「ほー、こらまた勢いよく噛みついてくるなぁ。お座敷犬かなんかみたいやわ」
「お……っ、面白ぇこと言ってくれんじゃねぇっスか。喧嘩売ってんなら買いますよ」
「お前に買えるほど俺の喧嘩は安うないで」
「え、えと、お二人とも、とりあえず落ち着き……」
「巴!」
 響いた声に振り向き、巴は思わず笑顔になった。
「はやくん!」
「次の練習に備えて、俺らと軽く打とうぜ。リョーマと騎一と、あと小鷹も向こうにいるからさ」
「え、ホント! うん、行く行く! あ、すいませんお二人とも、お先に失礼します」
「え、ちょ」
「じゃ、そーいうことなんで、失礼しまーっす」
 隼人と揃って頭を下げて、じゃれあうように顔を寄せ合い、突っつきあいながら二人で練習場へと向かう。今朝の早朝練習でもそうだったけれど、同じコートで駆け回って、勝ったという経験のせいか、久しぶりに自分たちの距離がひどく近いところにあるのを感じていた。
 同じようなことを隼人も感じていたのだろう、顔を寄せてきた時にふいに照れたような顔をして言ってきた。
「なんか、ガキん時に戻ったみてーだな。もういい年だってのによ」
 巴は思わずくすり、と笑んで首を振る。
「そうでもないよ。私とはやくん、ちゃんと変わってるよ」
「え、そうか? どの辺が?」
「いろいろ。あんなとことかこんなとことか」
「は? 意味わかんねぇ、はっきり言えよ」
「具体的には教えてあげなーい」
「んっだよ、このっ」
 拳を振り上げる隼人からくすくす笑いながら逃げ回る。そう、誰もが憧れる目指す星を手に入れてしまった果報者の家族なんて、こうしてちょっとくらいいじめてちょうどなのだ。今の自分には、どれだけ憧れてもとても手に入らないものなのだから。

 昼の練習を終え、昼食を取り。コンディショニング調整のために早く終わる午後の練習の空き時間をどう使うか思案していると、ふいにぶわっ、と風が顔に吹き付けてきた。ちょうどあくびをしていたところだったので、口の中に砂が飛び込んできて、じゃりっという音を舌の上で立てる。慌ててぺっぺと吐き出した。
「もー! なんでここだけ窓が開いてるのよ〜」
「見ーちゃった! 面白かったぞ、今の〜」
 ふいにぴょい、と顔を出してきたのは菊丸だった。いつも通りに楽しげな顔でにやにやと笑って射る。
「せんぱーい。人の不幸を笑わないでください! あーあ、ついてないや。なにかいいこと、ないかなぁ」
「いいことね〜。そうだなぁ、不二の占いとかは?」
「占いですか?」
 突然の発言に目をぱちぱちとさせると、菊丸はなぜか目をきらきらさせながら言ってくる。
「すっげぇよく当たるんだ。いいことあるか、聞いてみればいいじゃん」
「うーん……」
 別にいいことないかなーという発言はそれほど本気のものではなく、反射的に出た愚痴のようなものなので(巴的には最近は苦しいこともあったがいいこともあったと認識している)不二先輩を巻き込むのは申し訳ないような気がして思わず言葉を逃がしたが、菊丸はにこにこと言ってくる。
「信じる者は救われる! 占ってもらえよぉ〜」
 菊丸がここまで言ってくれているのを断るのも悪いし、なにより不二の占いに興味がないと言ったら嘘になる。巴は笑顔でうなずいた。
「そうですね。じゃあ、占ってもらいます!」
 そしてさっそく連れ立って不二のところへと向かう。不二は入り口近くで写真を撮っているということだったので、向かってみると果たして不二はそこにいた。
「それでボクのところへ?」
「はい! ぜひ、お願いします」
 首を傾げる不二にこっくりうなずいて見上げると、不二は楽しげにくすりと笑い声を立てて答えた。
「いいよ。かわいい後輩の頼みだ、断れないよ。時間があまりないから、簡単なものにしよう。姉さんから教わったんだけど……」
 言いながら不二はなにやらそこらに転がっていた小石をいくつか拾い、それになにやら傷をつけ始める。なにをしているのかというと占いの道具の代わりらしい。あ、そっか占いには道具っているよね、といまさら気付いた間抜けな自分に思わず頭をかくが、不二は気にせずてきぱきと小石を握ったり落としたりと占いを進めた。
「……これで終わり。それじゃ、結果だけど……」
 ドキドキと不二を見つめる巴にくすり、とまた微笑んで。
「キミにはこれからいいことがあるよ。間違いない」
「やったぁ! 先輩に言われると本当に説得力がありますよ」
 思わずガッツポーズを取ると、そこに穏やかな声がかかった。
「それはどうでしょうね」
 声のした方を振り向くと、そこに見えたのはテニスプレイヤーとしては珍しいほど肌の白い、聖ルドルフの選手兼マネージャーだった相手。
「観月さん……」
「占いは確率論に過ぎません。その結果が100%真実である保証はどこにもありませんよ?」
 観月は一見穏やかな笑みを浮かべているが、瞬時に緊迫する空気に巴は思わずひええと身を縮めた。不二と観月は相当仲が悪い。犬猿の仲、というのともまた違って、お互いに理由があってお互いのことを嫌いあっているという関係だ。
 しかも二人とも嫌いな人間と全力で敵対するという行為を躊躇なく行える精神力の持ち主だからまた始末に悪い。この二人が笑顔でぶつけ合う視線の鋭さときたら。どうしようまいったなぁ、と巴は二人の顔を交互に眺めやる。正直この二人の仲裁に入れるという気がまったくしない。
 と、唐突に声をかけられた。
「赤月」
「え……わ、リョーマくん!」
「なにやってんの、こんなとこで。練習しなくていいわけ?」
「え、だって今休み時間……」
「ふーん、お前他の奴らと同じくらいの練習で満足できるくらい今の自分に満足してるんだ。ま、いいけど。じゃ、お前は参加しないってことで」
「え、参加しないって……あ、もしかしてみんなで練習しようとかそういう話?」
「休み時間だから参加しないんでしょ? そう言っとく」
「んもー、リョーマくんってば私と一緒に練習したいならちゃんとそう言えばいいじゃない! 素直じゃないんだからー」
「……は? なに勘違いしてるわけ、そんなわけないじゃん」
「あはは、そーだよね。まあいいや、一緒に練習しよ! あ、じゃあすいません、不二先輩観月さん、私お先に失礼しますね。不二先輩占ってくださってありがとうございました!」
「ちょ……待ちなさい、巴くんっ」
「……越前。キミ、ずいぶんずるいやり方するね」
「……何がっスか」
「二兎を追うもの一兎をも得ずってこと。トーナメントは明日だよ?」
「……悪いけど俺、一人で満足できるほど無欲じゃないんで」
 言ってスタスタと先に歩き出していた巴を追ってくるリョーマに、巴はなんとなく訊ねてみた。
「不二先輩となに話してたの?」
「……別に」
「あー、ずるーい内緒なんて。いいじゃない、教えてよー」
「お前とあいつにだけは絶対教えてやらない」
 そうぶっきらぼうに告げるリョーマの顔があまりに不機嫌で(あいつって誰? とか聞きたいことはいろいろあったのだけれども)、あーこりゃしょーがないなー、と巴は息をつく。
「ちぇっ、ケチなんだから。はやくんを落としたんだからそのくらいのサービスしてくれてもいいのにー」
 言うや、リョーマは顔を真っ赤にして巴を睨み怒鳴る。
「……はぁっ!? お前、なに言ってんの!?」
「とぼけなくたっていいのにー。リョーマくん、はやくんをただ一人のライバルって認めたんでしょ?」
「――っ、別に、あのくらいの奴倒したくらいで満足できるほど弱くないし」
 は、とどこか安堵したような息をつくリョーマに、巴は苦笑した。
「もう、まったく素直じゃないんだから。私はちゃーんとわかってるんだからね」
「……なにが」
「教えてあげなーい」
 言って軽やかに巴は駆け出す。「ちょっと!」と怒鳴るリョーマを置いてきぼりに。
 だって自分から言ってしまうのはちょっとシャクだ。二人がどれだけお互いのことを得がたい存在と思っているかとか、お互いの間にどれだけ強固な(自分がまったく入れないほどの)絆を結んでいるかとか、これから末永くはやくんをよろしくお願いしますとか。
 隼人はやっぱり家族で、ずーっと一緒に生きてきた存在で、巴にとっても得がたい存在で。それが自分より大切な存在を見つけてしまうというのは、いつかはやってくるしょうがないことだとわかってはいるけれど、やっぱり実際その時になってしまうとちょっと面白くなくて。
 だからこのくらいの、小姑としての可愛い意地悪、許してほしいものだ。そうくすくす笑いながら巴はコートへと駆け込んだ。

 練習の最後、今日の対戦相手として当たったのは氷帝の天才、忍足侑士だった。さっそく忍足のところへと頼み込みに向かう。
「忍足さんっ、試合のことなんですけど」
「お、巴やないか。……その顔からすると、またなんや無理難題押しつけようって腹やな」
「え!? そ、そんな、無理難題って」
「例えば、俺に男子と組んでほしい、とか?」
「う゛」
 巴は思わず唸った。さすが氷帝の天才、こちらの考えていることなどお見通しらしい。
「えーと、その……当たりです。なんでわかったんですか?」
「そら顔つきがな。おっそろしく気負っとるもん、丸わかりや。昨日、南と当たった時、東方連れてきてくれて頼み込んだいうんは聞いとったし」
「え、えー!? もしかして噂になってるんですかー!?」
「そらな。わざわざ男二人でかかってきてくれて頼むような女子、普通おらんやろ」
「うーん……女子選手の皆さん慎み深いんですねー」
「そういう問題ちゃうんちゃう?」
 忍足は苦笑してぽん、と巴の頭の上に手を載せた。思わずぱちぱちと目を瞬かせる巴に、忍足はにやりといかにもクセ者っぽい笑みで笑いかけ、言う。
「まー、巴と全力で試合できるいうめったにない機会やし、俺はミクスドさほど熱心に取り組んどったわけちゃうし、岳人呼んできてもかまへんのやけど」
「え、本当ですか!?」
「ただし、条件付やで。女の子とガチで試合するんや、それなりの相手を用意してきてくれ」
「相手……ですか?」
「そや。ミクスドに慣れてて、お前との息が合ってて、かつ強い奴」
「え、ミクスドと私に慣れてて、強い人……」
 うーん、としばし考えてからはっとしてしまった。
「手塚先輩っ!?」
「お、ええやん。そうそう、そんくらいの奴を引っ張ってきてくれ。嫌やったらこの話はナシやで」
「え、でも、いいんですか? 手塚先輩を連れてきたら……」
 いろんな意味でもう試合にならないような、という言葉を巴は呑み込んで、笑顔になった。
「わっかりました、手塚先輩ですね。なんとか頼み込んでみますっ!」
「おう、頑張りや」
「はいっ!」
 忍足に笑顔を投げかけて、巴は走り出した。強くなりたい、もっと上へ行きたい。そして『勝ちたい』と願う人を支えたいと思ってしまう自分。相手が、パートナーが、もっともっと頑張れるように死力を振り絞ろうとしてしまう自分。
『いいのかなぁ、自分なんかがこんなところにいて』
 そんなことを心のどこかがこっそりと思う。他の選手たちが魂懸けて思うような、『勝ちたい』という熱情。それに真正面から立ち向かえるような気迫を、たぶん自分は持ってはいない。
 あるのはただ、いいテニスがしたいという気持ちだけ。すごく面白いテニスというものを、もっともっと面白く、みんながもっともっと頑張れるようにしたいという気持ちだけ。
『――でも、負けない』
 そう一人うなずく。そう、自分はもうここにいる。ならその全力振り絞っていい<eニスをするしかない。あの時、隼人と一緒に試合をした時思ったように誓ったように、自分のできるやり方でテニスに全力を振り絞るという気持ちはまだ少しも衰えてなんていないのだから。
 だから、そのために、全力の試合をするために。
「手塚せんぱーいっ!」
 巴はくじの列に並んでいる手塚に向け大声を上げた。

 手塚はこころよく(顔はいつもの仏頂面だったが)願いを聞き届けてくれ、巴は手塚とペアになって忍足・向日と対戦した。結果は6-3でこちらの勝利。手塚ゾーンや百錬自得の極みまで使われたのに、忍足も向日もよくここまで食い下がったなぁと感嘆してしまった。
 つまりその分自分にミスが多かったということなのだろうと思うと、反省しきりなのだが。ともかく最終調整としては文句なしの一戦に終わった。あとは明日のトーナメントに向けて、効果的な休息を取っておくだけなのだが。
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
 自分の周りを取り巻く空気に、巴はひぃぃ、と内心悲鳴を上げそうになった。現在自分の周りには、手塚に橘、跡部に真田、さらに幸村までが揃って無言のまま睨むようにお互いを見つめあっている。
 最初は真田がラケットの手入れをしているところになにをしているのかな、と思って声をかけただけだったのだ。そこになぜかタイミングよく橘が現れて声をかけてきて、そこにさらに跡部がなにしてやがると声をかけ、その上手塚がなにをしていると現れ、さらに幸村が空気を微塵も読まずに「やあ、赤月さん。暇なら少し話でもしない?」と声をかけてきて。
 なぜか自分を囲んで睨み合い状態に陥ってしまったのだ。ああもう喧嘩したいならなにも私をダシにしなくても、と思うが当然ながらそんなことを口に出せるわけがない。
 どうしようかなー、と緊張しながらも考える。このまま無駄に時間を過ごすのはもったいない。こんな実力者が揃っているのだからテニスの練習をしたいところだが、練習はコーチ陣から禁止されている。ならばなんとかもう少し空気を和やかな方向に持っていきたいところなのだが。
「あ、あの〜、みなさん……よろしければ休憩室で、ジュースでも飲みません……?」
『なに?』
 周囲の人間の視線が揃ってこちらに向く。ひいい、と思いつつも笑顔で続けた。
「いや、だってほら、いつまでも睨み合ってるのって健康上よくないじゃないですか。明日の試合に支障が出たら困るでしょ? だからほら、みんなで仲良くジュースでも飲みながらお喋りでもしたら楽しいんじゃないかな〜、と」
「そうだね。赤月さん、一緒に休憩所まで行こうか」
『!』
 一瞬空気に走ったような気がする激震を気にも留めず、巴は目をぱちぱちさせて笑顔でさらりと話しかけてきた幸村を見つめる。幸村とはこれまでまともに話したことがほとんどない。なのでどうしてこんなに親しげなのかよくわからなかったのだが。
 でもつんけんされるよりよっぽどいい。巴は笑顔でうなずいた。
「はい! ご一緒させてくださいね!」
「おい、巴。なにすっとぼけたこと言ってやがる。てめぇ、いつから立海大なんぞに尻尾を振るようになった」
「え……へ?」
「跡部。言っておくが、赤月はお前の所有物ではないぞ。あくまで彼女は青学の生徒だ」
「そうだな。だが青学生徒だからといってお前がその行動に口出しできるわけでもないよな、手塚?」
「その通りだ。そもそも立海大なんぞ、だと? その言葉侮辱と判断して相違あるまいな!」
「フン、いちいち細かい奴だ。そんなこったからテメェはいつまでも幸村に首根っこをつかまれたままなんだよ、真田」
「なんだと……!? 貴様、その言葉は俺と幸村、双方にとっての侮辱だぞ!」
「赤月さん、ここは騒々しいから先に休憩所に行っていようか? 二人で、ね」
「え……えと、でも」
「幸村。うちの後輩に、勝手なことを持ちかけるのはやめてくれるかな?」
 すい、と突然の提案に戸惑う巴と幸村の間に割って入ったのは、不二だった。ええー不二先輩いったいどこから、っていうか見てたの!? と目を見開く巴などまるで無視して、不二と幸村は笑顔で、ただし恐ろしいほどの迫力を感じさせる顔で向かい合う。
「フフ……不二、もうすぐ卒業だっていうのに『うちの後輩』なんていう資格はないんじゃないかな? そもそも君にそんなことを言われて従う筋合もないと思うけど?」
「クス……幸村、それを言うならそもそも君がモエりんに誘いをかけていい筋合もないよね? 君はこの合宿でモエりんと知り合ったばっかりの、赤の他人なんだから」
「フフ……」
「クス……」
『こっ……怖――――っ!!』
 本当になんで自分がこんなところにいるんだろう、と巴は泣きそうになった。こんなすごい人たちの相手には自分はそぐわないだろうに。
 どうしようどうしようとにかくなんとかこの場を丸く、とうんうん唸っていると、唐突に、風のように走りこんできた人影に両手を握られた。
「え……な」
「なにぼっとしてんの」
「おらっ、とっとと逃げるぞ、巴っ!」
「え、はやくん、リョーマく……わっ!」
 相手の顔を認識するより早く両手を引っ張られる。慌てて半ば反射的に足を動かし、見る間に圧倒的なプレッシャーを放っていた先輩方がみるみる遠ざかっていく。
「みっ、みなさん、すいませぇぇんっ!」
「じゃ、これ、もらってくから」
「そーいうわけなんで、おっさきにーっ!」
 走りながら頭を下げる巴とは対照的に、隼人とリョーマは笑い声すら漏らしている。三人で手を繋ぎながら走って、走って、走って。どんどん周りの風景が置き去りになって。
 気がついたら、合宿所から抜け出して相当な距離を走った先の、海を一望できる土手の上で荒い息をついていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……んもーっ、二人ともいきなりすぎ……」
「っ……じゃー、お前……っ、あのまんま、あの人たちに、囲まれてたかったわけ……っ」
「は……っ、そんなこと、ない、けど、は……っ」
「じゃー、いいじゃんかよ……っ、ふぅっ。はー、つっかれたーっ」
 ごろり、と土手の上に寝転がりながら、隼人は笑う。その笑顔が不思議に懐かしくて、巴は一瞬どきりとした。
「この程度で? 山ザルのくせに、案外、体力、ないんだね……っふ」
「へっ、息荒い分際で偉そうに吹いてんじゃねーよっ。それにっ、疲れたっつーのは、アレだ、しゅーじぎほーってやつだってのっ」
「ひらがなで喋ってるようにしか、聞こえないんだけど。慣れない言葉使うの、やめといた方が、いいんじゃない? っふぅ……」
「ぁんだと、コラ!? 言っとくけどなぁ、これでも古文の成績はっ」
「俺より悪いじゃん。アメリカ帰りより成績悪いって日本人としてどうなの。ていうか、修辞技法は古文じゃないし」
「ぐっ……う、うるせぇなっ、ちょっと勉強ができるくらいでいい気になるんじゃねぇ馬鹿リョーマっ。言っとくけどなっ、テニスの腕は俺の方が絶対上なんだかんなっ」
「どこをどう見たらそんな大法螺が吹けるわけ? 練習でしか勝ったことがないくせして」
「う……っ、うるせぇうるせぇっ! 今度やる時はぜってー俺の方が勝つんだよっ、そん時になって吠え面かくんじゃねぇぞっ!」
「ふーん。今までその台詞何度も聞いてるんだけど。今度も口だけ?」
「ざけんなタコっ、今度という今度はぜってぇ本当の本当だ! 負けてから泣きべそかいたって知らねぇからなっ」
「ありえないこと心配しなくてもいいよ。今度も俺が勝たせてもらうから」
「ざけんな、俺が勝つっ」
「俺だね」
「俺だっ」
「俺だね」
「俺だっ」
 ぎっ、と体を起して本気で睨み合う二人に、巴は思わずぷっ、と吹き出していた。ぷふーっ、とさもおかしそうに笑う巴に、二人揃って顔を見合わせてから不機嫌そうに声をかける。
「なに笑ってんだよ、巴」
「話してる横でいきなり笑いだされても困るんだけど?」
「ごめ……っ、だって、二人とも、進歩がないんだもん……っ!」
『な』
 二人揃ってムッとするのに、また笑い転げる。自分でもおかしいくらい止まらなかった。この二人が、自分の一番身近で一番遠い二人が、初めて東京に来た頃と同じように子供っぽく争っているのが。
 変わらないものなんてない、それはよくわかっているけれど。今この一瞬、選抜前のこの一瞬、二人が自分の横で、以前と同じように口喧嘩しているのが。本当に、奇妙なくらい、嬉しくて、ほっとして。
「ふ、ふふふっ、ふふふふっ、あはははっ……」
「巴、お前な、笑いすぎ……っつか、泣くまで笑ってんじゃねーよっ!」
「……馬鹿にしてるわけ?」
「そういうんじゃないけど、あは、あははっ」
「……ったく。ははっ」
「お前までなに笑ってんの」
「ここまで笑われるとこっちまでおかしくなってくんじゃんか、フツー」
「どこの国の普通? それ」
「ふふふっ、あはははっ……あの、ね」
「なに?」
「なんだよ」
 揃ってこっちを向く二人に、微笑む。自分にできるめいっぱいの、優しい、気持ちいい笑顔で。
「二人とも、覚えててね」
「は?」
「なにを?」
「私と、私と一緒にいた時間」
『……はぁ?』
 二人はまた揃って眉をひそめる。それに笑顔を投げかけ続けながら、言う。
「私たちさ、これからきっと、いろんなことがあって、いろんな風にどんどん変わってくんだろうけど……それでもさ、今とか、この一年一緒にやってきたこととか、一緒にこんな風に笑い転げた時間とか……そういうのを、忘れないでほしいなって」
「……なんだよ、まるでこれでお別れみてーに」
 一瞬心臓に冷たいものがよぎったが、それでも笑顔を崩さず続ける。
「お別れなんて、いつやってくるかわかんないよ」
「そりゃ……そーだけどさ」
「だから、ね。二人とも、忘れないでよ。私は、絶対忘れないから」
 自分を圧倒するテニスをしてくれたあなたたち二人と、どこまでも、それこそ天まで二人で駆けていくあなたたち二人と、一緒にいれたことを忘れないでおくから。
「……やだ」
「なっ、リョーマてめっ」
「忘れてほしくないなら、近くまで来てぎゃんぎゃん喚けばいいじゃん。いつものお前みたいに。なにしおらしいこと言ってんの。全然似合わないんだけど」
 言われて巴は目をぱちぱちとさせ、それからふふっと笑った。
「そっか。……そうだね」
「……そうじゃん」
 仏頂面のリョーマと、戸惑ったような隼人の前で、巴はくすくすと笑った。そう、そうだよね、リョーマくん。本当に似合わないよね。
「でも、しょうがないよ。家族を、ただ一人の従兄を、嫁に出すんだもん。少しは大人にならざるをえないじゃない」
『……はぁっ!!??』
 ユニゾンで大声で怒鳴られて、巴は一瞬ぽかんとした。その一瞬の間に、揃って顔を真っ赤にした隼人とリョーマがすさまじい勢いで食ってかかってくる。
「なななななななに言ってんだお前はぁぁぁっ!!! よよよよよ嫁嫁嫁って正気かおまっ、阿呆なこと言うのもいい加減にしろこのバカっ!」
「お前がバカなこと言うのはいつものことだけど、それにも限度があるって思わないわけ? 嫁ってなに、どこに出すの。こんなのもらってくれる奴いるわけないじゃん」
「ぁんだと、コラ!? てめぇにんなこと言われる筋合いねーよっ、それこそてめぇの方が貰い手ねーだろーがそのクソ生意気な性格でよっ」
「お前、物事考えないのもいい加減にしたら? お前もらわれたいわけ、嫁として。お前がもらわれたいっていうなら勝手にすればいいけど、そういう奴と知り合いだって思われるのやなんだけど」
「はぁ!? ざっざざざけんなっ、俺はただてめぇがまるで俺が結婚できねーみてーなこと言うからっ」
「実際結婚もできなそうだけどね」
「ぁんだと、コラ!?」
 ぎゃんぎゃん喚きあい、睨みあい、しまいにはつかみあいそうになる二人を、巴はくすくす笑いながら見つめた。この光景も貴重なものだと思うと、見ずにはいられなかったのだ。
 いつかは目の前から消えてしまうのだと、いつまでも当然のように在るものではないのだと、そう思えてしまうと。

「まだ時間あるなぁ……。どうしようかな」
 夕食を取って、あとは就寝までの数時間を過ごすだけ。そういう状況で思わず呟くと、背後から唐突に声がかけられた。
「時間あるなら、相手をしてくれないかしら」
 振り向いて相手が原だと知り、少し驚きはしたものの笑顔でうなずく。夕食後についての試合や練習については言及されていないので、文句を言われる心配はない。
「相手って、インドアテニスですか? いいですよ。明日の大会へ向けて最後の調整って感じですね!」
「……じゃあ、先に行って待ってるわね」
「はーい。すぐに準備して行きますね〜」
 言ってから、部屋に取って返してラケットその他を準備し、室内コートへと向かう。原と二人でアップをしてから、原の方を振り向いて笑った。
「フゥ……。身体も温まったし、アップはこれで充分ですよね。よーっし、試合、始めましょうか!」
 が、原はどこか思いつめた表情でこちらを睨むように見つめて言う。
「その前に、あなたに話しておきたいことがあるの。明日の大会のことなんだけれど……。これから始める勝負に私が勝ったら、真田さんとのペアを諦めてほしいの」
「な、なんですか、いきなりっ!」
 本当にいきなりの言葉だったが、原は怯まない。こちらを睨みながら言葉を叩きつけるように投げつけてくる。
「Jr.選抜男子シングルスの頂点は世界への登竜門。あなたなんかに邪魔はさせない。もちろん、私が負けたら、この件については二度と口出ししない。……どう、受けてくれるかしら?」
 う、と巴は思わず言葉に詰まる。そうだ、自分の参加するのはミクスドダブルス。誰か男子選手の相手が必要なのだ。本当なら以前から相手を決めておかなければならないところだ。
 ただ巴は場合によっては他校の選手ともペアを組めるというのが魅力で、Jr.選抜合宿内で決めようと先延ばしにしてきた。そしていろいろあったせいで相手決めをすこーんと忘れてここまで来てしまったのだが。
「なにをそんなに悩むことがあるの? とても簡単な条件でしょう?」
「こんなの意味ないです。だって私まだ真田さんからなにも言われてないんですよ?」
 そうなのだ、巴は真田に組もうと誘われてもいないし巴からも誘っていない。そもそも誘ったところで受けてくれるかもわからない。そんな状況でこんな話をされてもどうにも答えようがない。
 が、原はきっとこちらを睨む視線を強くし、つけつけと告げる。
「逃げるの? 私も真田さんもあなたは挑まれた勝負からは逃げない人だと思ってたんだけど。……とはいっても、急な話よね。わかったわ。1ゲームマッチの勝負。これならどうかしら」
「……わかりました。そこまで言われたら、逃げる訳にはいきません。この勝負、お受けします!」
 半ば以上勢いだが、原は今本当に必死だ。その必死さがなにかをはき違えているような気がしようと、ここまで必死の想いでの申し出を断るようでは女がすたる。巴はきっ、と原を見つめ返し、うなずいた。

 そして巴は、勝った。
 びしっ、という快音と共に巴の打ったリターンが原の伸ばしたラケットの先を駆けていくのを見つめてから、半ば茫然とした気分で巴は原に向き直る。
「勝った……。原さん、あの、私……」
「なんだ、今の試合は。原、お前の力はこの程度だったのか」
 唐突に現れた声。顔、姿。原の想い人である真田の理不尽な言い草に、巴は思わず腹を立てた。
「真田さん、いきなり現れてそんな言い方ってひどいんじゃないですか!」
「いいのよ。私は知ってたの。だから試合の途中から、真田さんを意識しちゃって……」
「そういう問題じゃ……」
「そうした精神的もろさが、お前の弱点だ。だが、自分の弱さを知っている者が本当の強さを得る。赤月のようにな」
「え、私……ですか?」
 ああ、と真田はうなずいて、こちらに向き直る。
「その強さには可能性を感じる。明日の試合、俺と組まないか」
「私と真田さんがミクスドで出場するんですか!? えと、でも……」
 この状況でその誘いは原さんが可哀想すぎる気が、とおろおろと二人の顔を見比べると、原は小さく首を振った。
「私のことなら気にしないで。あなたの実力、認めざるを得ない」
 いやでも実力とかそういう問題じゃなく、なにより私まだ真田さんと組むかどうか全然吟味してないんですけど―、と思いながらしばしおろおろしたが、この状況で、ずっしり落ち込んだ風ながらもあきらめた風な原と真摯にこちらを見つめる真田に挟まれた状況で、真田を振るというのはあまりに勇気が必要で、巴にはそこまでの勇気はなかった。
「……わかりました。真田さん。明日の試合ではよろしくお願いします!」

 その夜は早く寝た。もちろん明日の試合のためなのだが、他の同室の女子たちも原の落ち込みと自分との間に立ちこめる硬質な雰囲気に気がついたせいもあったのだろう。
 そして、その夜は、夢を見た。
 自分の一番古い記憶。自宅に設置されたコート。隼人と京四郎と、京四郎に抱かれた自分。
 子供用のラケットを振り回す隼人。それに駄目出しをする京四郎。それを見つめる自分。
 そこに、声がかかった。
『いっしょに、やらない?』
 聞き覚えのある、硬質な、けれど知っているものよりいくぶん甲高い声。黒髪の、帽子をかぶった、ラケットを持った隼人と同じくらいの年の男の子の声。
 隼人はその男の子を見つめ、その背後にいる着物のうさんくさい男を見つめ、また男の子を見つめて、それからこくんとうなずいて言った。嬉しそうに、笑顔を浮かべて。
『うん! いっしょにやろ!』
 楽しそうな笑顔を浮かべる隼人。わずかに笑む、将来の生意気さを今でももう予感させる帽子の男の子。彼らがじゃれあうようにテニスを始めるのを、自分は京四郎の腕の中で見つめる。
 ふいに、隼人がこちらを振り向き、言った。
『ともえはやらないのか?』
 それに巴は、微塵も考えず笑って首を振る。
『ともえは、おとーさんみたいな、すぽーつとれーなーになるから、いい』
 ――いい夢だと、思った。
 起きた時は、少し涙をこぼしていたけれど。

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