五日目〜南・東方戦〜
「みなさん、昨日はご心配をおかけして本当に申し訳ありませんでしたっ!」
 三日目同様大量に集まった選手たちに、巴は深々と頭を下げた。選手たちはそれぞれの表情で、それぞれに言葉を返す。
「気にしないでいいよ、ボクが好きで心配していたんだから」
「そやな。ただ心配かけて悪い思うんやったらもうちょい自分の体大切にし」
「そうですね。貴方のことを気にかけている人間がいるということを忘れないで、あまり無茶はしないでください」
「はいっ!」
 周りから向けられる言葉も視線も、申し訳ないほどに優しい。無茶な練習をして倒れた馬鹿な一年相手に、みんな本当に優しい。
 頑張ろう。そう一人気合を入れて、みんなと練習を始めた。三日目はやたらいろんな人に声をかけられたような気がするが、今日は他の人たちもそれぞれ自分の練習に集中している。もしかしたら疲れさせないようにとか気を遣ってもらっているのかなぁと思うと申し訳ない気にもなるが、ならばなおのこと全力で練習しなければ。
 乾と柳と観月が自分専用に作ってくれたメニューを懸命にこなす。当然それなりにハードなものではあったが、だからこそなにくそと気合も入る。ときおり注意を受けつつ懸命に練習し、息が上がってきた頃合に「休憩してこい」と乾に言われた。
 ふぅ、と軽く息をついてとりあえず水分補給をする。規定の二倍の水と氷で溶いたスポーツドリンクをゆっくりと飲んだ。
 そういえば、初日にドリンクのこと那美ちゃんに言われたな、とぼんやりと思った。小鷹は本当にすごい選手だ、テニス知識も技術力もすごいし、本当に整ったきれいなテニスをする。のみならずしっかりしているし優しいし、人間としても憧れる点が多い。
 だけど、そんな小鷹は自分のテニスと巴のテニスは違う、と言った。だから真似しても意味がないと。
 じゃあ、私のテニスってなんだろう。
 自分のテニスが自分の求める水準にないのはわかる。目指すところに全然近づいていないのも。
 でも、三日目の試合のあと、隼人はこんなことを言った。『お前らしくなかった』と。自分も確かにその時は自分らしいテニスができなかった、と思ってしまったけど、今の自分に自分らしいテニス≠ネんて言われるほど価値のあるものがあるんだろうか。
 今の自分に、なにか少しでも、憧れる選手たちに近づける輝きがあるんだろうか。
 などと宙を見つめぼんやり考えていると、唐突に後ろから勢いよく抱きつかれた。
「なにぼけーっとしとんねんサル女ーっ!」
「きゃ! って、金太郎っ!?」
 驚いて反射的に振り落とそうとするが、金太郎はがっしり自分にしがみついて離れない。立ち上がりお互いばたばたと暴れながら、ぎゃんぎゃんと大声を出して騒いだ。
「急に抱きつかないでよ、重いじゃないっ!」
「なに言うてんねんワイお前より軽いでぇ〜?」
「う……そ、それはそうかもしれないけど女の子にそーいうこと言わない! っていうか、女の子にいきなり抱きつかないのっ!」
「なんでやねんええやんかー、なぁなぁそれより久しぶりに試合しよーやぁ!」
「は? だって今練習中……っていうか金太郎自分の練習ノルマは?」
「ワイ今起きてきたとこなんやー。四天宝寺のみんなとれんしゅーしよ思て探しとったんやけど、なんやにぎやかやな思て見に来たらお前おったから! なぁなぁサル女試合しよーやぁ」
「もーっ、女の子をサル呼ばわりするようなヤツとは試合してあげません!」
「ほなら名前で呼ぶし! なぁなぁ巴、試合しよーやぁ」
「え、名前知ってたの?」
「そら知っとるて、ビデオ見たし! おもろそーなテニスやな、思て実際に試合してもーっとおもろかったからちゃんと覚えた!」
「…………」
 思わず、巴は動きを止めた。
「ん? なんや巴、どないしてん」
「……私とテニスして、面白いって、思った?」
「おー思たでぇ!」
「……なんで?」
「へ? なんでてそんなんワイ知らん。どーでもえぇやん、お前と試合しておもろかったんはホンマなんやし」
「…………」
 面白い。そう言われたのは、初めてではないけれど。
 金太郎のテニスの実力は実際大したものだと思う。そんな選手が、自分のテニスのどこを面白いと思ったのだろう?
「……昨日と、一昨日のテニスは?」
「へ?」
「あっ、ご、ごめん見てないよね私の試合なんて」
「見とったでぇ? おもろかった!」
「え」
 巴は思わず目をぱちくりとさせた。
「……私らしくない、って思わなかった?」
「そんなんワイ知らん。そらいつもとはちーとちゃうかな、思たけどおもろかったやん! せやしまたお前と試合したいなー思てん!」
「…………」
「なぁなぁ、巴、しあいー」
「あ、えっと……そうだ、もう一個聞いていい? ……昨日、はやくんとリョーマくん、どんな感じだった? 同室なんだよね?」
「へ? 山ザルとコシマエ? そやなー、なんや……」
「遠山っ!!! なにをしているっ!!!!」
「うひゃっ!」
 合宿所中に響き渡るのではないかと思うほどの真田の怒声。金太郎は素早くぴゅっとばかりに逃げ出したが、その行く手をばっと数人の選手が阻んだ。数人がかりでがっしりと、金太郎の体を捕まえる。
「金・太・郎〜。なにやっとん?」
「放してぇやぁ、白石ぃ! ケンヤぁ!」
「金ちゃん、アカン。アレはアカンで、金ちゃん。なんぼなんでもセクハラや」
「せくはらてなんやねん! 財前も放してぇやぁ!」
「……四天宝寺の恥っスね」
「毒手、よっぽど食らいたいんやなぁ?」
「毒手いややー!」
 ぎゃんぎゃんと騒ぐ四天宝寺の面々を前にちょっと呆然としている巴をよそに、周囲から続々と選手が集まってきた。
「大丈夫か、赤月」
「もう心配することはないからな」
「え。あの、はい」
「白石……いかにお前がすでに部長ではないとはいえ、監督不行き届きのそしりは免れんぞ」
「そのチビザルをこっちによこしな。落とし前をつけさせてもらおうじゃねぇか」
「そやな、ホンマすまんかった。ここは俺が責任を持って……引き渡すわ」
「なんでやねん! ワイゴリラに殺されるのいややー!」
「……そのゴリラとは、俺のことか、遠山」
「当たり前やん」
「………そこに正座しろっ、遠山! 貴様に選抜合宿主将としてテニスプレイヤーの覚悟というものを叩き込んでくれるわ!」
 凄まじく熱くなっている真田たちをどうしようなだめた方がいいんだろうか、と考えているとふいにぽんと軽く肩を叩かれた。
「すまんかったな、巴サン。金ちゃんが」
「あ……白石さん、謙也さん、財前さん」
「……なんで謙也クンだけ名前で呼ぶねん」
「え、だって氷帝の忍足さんと苗字一緒ですから。あ、もしかして、私に名前で呼ばれるの、嫌ですか?」
「い、いやいやいやいや! そんなことないて、なんちゅーかその……嬉しいっちゅーかその……うわー、女の子に名前呼びされるて照れるもんやな……ちゅーか財前! 女の子に因縁つけたらアカンやろ!」
「……別につけてないっス。謙也さん浮かれんといてください。普段女に縁がないの丸わかりっスよ」
「え? 謙也さん女の子とあんまり話したりしないんですか? モテそうなのに」
「え! ホンマ!? うっわそないなこと言われたの初めてやー、俺……その、カッコええ?」
「ええ、カッコいいと思いますよ?」
「……うっわ、嬉しーわー……ちっと感動やぁ」
「謙也さんキモいっスわ」
「なんでやねん! ちょお女にモテるからって調子乗るんやないで!」
「財前さん、女の子にモテるんですか?」
「……まぁ」
「うちではな、白石と財前がモテ組やねん。バレンタインとか山ほどチョコもらってきよる」
「へー、なんかわかるかも。女の子に興味なさそうな感じとか、女の子受けしそうですよね」
「どういう視点やねん」
「はいはい、お前らちょお黙っとき。……巴サン、ホンマすまんかったな。俺の監督不行き届きやった。許してくれっちゅーんも厚かましいけど、真田の説教終わったら俺からもきつーく言い聞かせとくんで勘弁したってくれ、金ちゃんにも悪気はないねん」
「え、えと……なにがですか?」
 一瞬四天宝寺の三人は沈黙した。
「なにがて……キミ、さっき金ちゃんに抱きつかれてたやん」
「ええ、抱きつかれてましたけど?」
「中学生の女の子に同学年の男が抱きつくて、かなりな勢いでセクハラちゃう? なんちゅーかその、金ちゃんの手やら足やら、相当ヤバいとこ触っとったし」
「え……ああ! そういえばそうですね! 気付きませんでした!」
「……気付いてへんかったんかい」
「え、だって金太郎ですし。私は別に気にしてなかったですよ。そりゃ、いやらしい気持ちで触ってきたりしたらもう踵落としで沈めますけど、なんていうか金太郎の場合は犬がじゃれついてくるみたいなもんだと思ってますから」
『…………』
「……ほうか。そう言うてくれたら俺も助かるわ」
「うわ……なんちゅーか、うわー、あれやな、ええ子やな巴……ちゃんは」
「そやな。ありがとう、巴サン」
「いえいえ、どういたしまして。……だから真田さんたち止めようかどうか今考えてたんですけど……」
「やめとき。あいつにはええ薬や」
「うわー、後輩にクールですね財前さん」
「いや、ホンマにやめといた方がええて。金ちゃんはもーちょいデリカシーっつーもんを学んだ方がええねん」
「そやな。それに今止めたらとばっちり食らって巴サンまで怒られてまうかもしれへんやろ? 今は……そやな、俺らと一緒に練習しよ」
「え……いいんですか?」
「当たり前やん! 俺ら巴………ちゃんのテニス、めっちゃ注目してたし」
「え……」
「まぁ……そっスね。そやさかい金太郎が試合申し込むのにつきおうてわざわざレギュラー全員で会いにいったわけやし」
「…………」
「……なんや、いろいろ悩んどったみたいやけど」
 白石が微笑んでぽんぽん、と頭を叩く。
「俺らは巴サンのテニス、めっちゃ好きやで。自分のテニスもっと大きくできるように、頑張り」
 その手の動きは優しくて、温もりはじんわりと体にしみこむ。なんだか不思議にほっとした気分になり、「ありがとう、ございます」とぺこりと頭を下げて、気を抜くと目の端に涙が滲みそうだったので、「さーて、じゃー張り切って練習いきますか!」と叫んで四天宝寺の面々と一緒に練習を始めた。
 もっとも、その声で注目を集めたかすぐに他の選手たちもやってきて、三日目と同じように大勢で練習することになったのだが。

 早朝練習を終え、洗面所に向かう。練習を終える時間はそれぞれバラバラなので(ノルマもそれにかかる時間も一人一人違う)、一人での道行きだ。
 と、向こう側の廊下から裕太がやってくるのが見えた。いったん部屋に戻ってたのかな、と思いつつ笑顔でそちらに駆け寄り頭を下げる。
「不二さん、おはようございます!」
 裕太は少しばかり驚いたような顔をしてから、笑顔になって挨拶を返す。
「ああ、おはよう! なんか眠そうだな、お前」
「そういう不二さんだって眠そうに見えますぅ〜!」
 そんなことを話しながら洗面所の前で二人並ぶ。二人揃って顔をばしゃばしゃと洗いつつ、あ、そうだ、と思いついた。
「……あ、そうだ、思ったんですけど、不二さんと不二先輩って呼び方、まぎらわしいですよね。だから、不二さんのこと、別の呼び方しちゃダメですか?」
「他の呼び方? あだ名とかってことか? たとえば、どう呼びたいんだ?」
「裕太さん……って呼んでもいいですか?」
 ずっと名前で呼べたら区別しやすいのにな、と思っていたのだ。先輩を名前で呼ぶわけにもいかないし。
 その言葉に裕太はわずかに口ごもってから、ややぶっきらぼうな口調で答えた。
「……ああ、お前がそう呼びたいんなら、い」
「裕太をユータオリに呼びたい。……プッ」
「どわぁぁっ! ……あっ、天根……!?」
「あ、天根さん……と佐伯さん、おはようございます。葵くんも、おはよう」
 ふいに裕太と反対側の隣に現れた六角中の面々にぺこりと頭を下げる。葵が真っ先に満面の笑みで応えてくれた。
「おはようっ、巴さんっ! 早朝練習で挨拶できなかったからボク」
「おはよう、モエりん。早朝練習見てたけど、もう体の具合はすっかりいいみたいだね」
「はい! バリバリ絶好調ですよ! ご心配おかけしてすいませんでした」
「そんなことはかまわないさ。キミのためにする心配なら、辛くはあるかもしれないけど嫌なものじゃないからね」
「え、えと」
「サエさ〜んっ……」
「……呼び名の話か?」
「あ、はい、そうなんです。裕太さんを裕太さんって呼んでもいいかって聞いてたところだったんですよ。ね、裕太さん」
「あ、ああ……」
「あ、それならボクのことも名前で呼んでくれていいよっ!」
「え、なんで?」
 葵は別に知り合いに同じ、どころか紛らわしい苗字の人もいなかったと思うのだが。というか葵ってかなり珍しい部類の姓なんじゃないだろうか。
「な、なんで、って……ううう」
「はは……まぁ、好意を持っている相手に他人とは違うように呼ばれるっていうのは、親しくなったような気分になれるものだからね。キミは俺にあだ名で呼ばれてそう思ってくれなかったのかな、モエりん?」
 爽やかな笑顔と甘い声でそう言われ、巴は少し考え込んだ。
「そうですね……それはわかるんですけど、なんていうか……私、はやくんがいるから基本的に名前で呼んでもらおうとすることが多いんですよ。そっちの方が親しくなれたっていうか、私個人を見てもらえてる、って気がしたし。だからそういうのもわかるんですけど……」
 ただ、なんだかここ数日で思うのだ。
「でも苗字で呼ぶ人は苗字で呼びますし、私はそれはそれで嫌いじゃなくて。そういう人たちってたいてい私とはやくんをしっかり区別して『赤月』って呼んでくれてるから。だから……なんていうのかな……」
 眉を寄せ、考え考え頭の中の言葉をまとめて。結論らしきものができあがって、巴は思わず目を瞬かせた。
「なんだか……私、私とはやくんを両方ちゃんと見て、ちゃんと知った上で両方を区別して呼んでほしい、って思ってる……みたい、です。なんだか勝手な話ですね、すいません」
「……ふぅん、そうか……」
「確かに勝手だよね。いくら同じ学校で同じテニスプレイヤーっていったって、君の兄貴の方は大して知らない奴もいるんじゃないの? ああ自分の兄貴なら知られないわけないって思ってるわけか。別に今に始まったことじゃないけど身内びいきっていうか、ちょっと自惚れてない? ほんっとに、いちいちムカつくよなぁ……」
「わ、伊武さん!」
 ふいに後ろからした声に、驚いて向き直る。唐突に現れていつも通りの仏頂面でぶつぶつとボヤく伊武に、巴は思わずため息をついた。
「そうですねー……自惚れてますよね。ただ、なんていうか、私……ここんとこ、妙にはやくんを意識……してる、のかな。ずっと一緒に暮らしてきた家族とか、そういうのだけじゃなくて……なんていうか……」
 頭の中でぐるぐるする気持ちと言葉をうまくまとめられない。でもいつまでもなにも言わないままではいられないので、巴は軽く頭を振って笑顔を作った。
「テニスプレイヤーとして、ちょっと過剰に思い入れちゃってるのかもしれませんね。すいません、変な話して」
「……キミは」
「思い入れ、お輿入れ、おトイレ。……お前は、俺たちと親しく呼び合うのは嫌か?」
「え……天根さん」
「思い入れるのは、変じゃない。だけどできるなら、それとこれとは別だと思ってほしい。兄貴とお前は、別の人間なんだから」
「…………」
 別の、人間。
 その当たり前の一言は、巴の胸の辺りをぐっと押した。
「そう、です、よね。ありがとうございます、天根さん……あの、じゃあこれからは天根さんのこと、ヒカルさんって呼んでもいいですか?」
「ヒカル、助かる、もうかる。……うん、それでいこう。悪くない」
「巴さん巴さんっ、ボクのことは剣太郎って」
「俺のことも虎次郎でかまわないよ」
「あ、はい、虎次郎さん! ……な、なんか、照れますね、改めて呼ぶと」
「はは、そうだね。でも、俺は嬉しいよ。それはそれで、親しい感じがするもんね」
「あはは、そうですね!」
「さ、サエさん、ひどすぎるよ〜っ……」
「葵くんも、剣太郎くん……で、いいんだよね?」
「! う、うんっ! ひゃっほーっ!」
「……なにはしゃいでるんだよ。たかが名前ぐらいでバカじゃないの? 第一こんな勢い任せに呼ばれてなにか嬉しいことでもあるワケ? どいつもこいつも、まったくイヤになるよなぁ……」
「もー、伊武さん! ボヤかないでくださいよ。心配しなくても伊武さんも深司って呼んであげますから」
「……別に頼んでないし。ていうかキミに名前呼ばれて俺が嬉しいってなんで思い込めるかな。まったくどこまでナマイキなんだか、いい加減にしてほしいよなぁ……ま、いいけど」
 そんなお喋りをしながらも、巴の中には天根の言葉がぐるぐる回っていた。
 自分と隼人は、別の人間。
 そんなことは当たり前のことで、当然のことで、考える必要すらないことで。今までだって、そんなことを意識したことは、なかったのに。

 午前練習を終え、昼休み。さっさと食事を終えて、巴はロビーで残りの時間なにをしようか考えていた。自主練習しようかとも思ったが、昨日倒れたあと明日はできるだけ筋肉を休ませる時間を多く取るように、と言われているのでそう寸暇を惜しんで練習するのも気が引ける。
 そういえば隼人とリョーマはどこにいるんだろう、とぼんやり考えた。練習の間は何度か姿を見たような気がしたのだが。できるなら会って――
 会って、なにを言えばいいんだろう。自分の中に渦巻くこの気持ちに、行く先なんて考えられないのに。
「あ、いたいた」
「っ! ……タカさん」
 ほとんど飛び上がりかけながら見上げると、河村はいつもの優しい笑顔を見せてくれた。
「ボードゲームするんだけど、よかったら参加しない? あ、男子の方の棟まで来てもらうことになっちゃうんだけど」
「……はい、ぜひ!」
 気分転換にはちょうどいいかもしれない。巴は立ち上がり、河村のあとについていく。案内された先の男子たちの部屋のある棟のロビーには、かなりの数の選手が集まっていたが、こちらを見てヒューっと歓声が上がった。
「お! モエりん、来たな」
「こんにちは、桃ちゃん部長! みなさんも……ていうか、ずいぶん大人数ですね。これ全員でやって、昼休み中に終わるんですか?」
「心配しなくても、全員でやるわけじゃねぇよ。学校代表で一人ずつと、ボードゲーム提供主の河村先輩がやるんだ」
「え……じゃあ、もしかして私が青学代表ですか!? 責任重大ですね」
「ちーげぇって。お前は女子代表。男ばっかじゃ華がねぇって意見を取り入れてな」
「あ、もしかして男ばっかりとゲームやるのは嫌だったかな。ごめん、気がつかなくて」
「そ、そんなことないですって! わざわざ私を選んでくれて嬉しいですよ、ありがとうございます」
 ぺこり、と頭を下げて笑顔になると、男子選手たちはなぜか沸いた。なんなんだろうなー、と思いながらも席に着いた。ロビーで一番大きなテーブルの周りの席に着いているのは菊丸、跡部、切原、天根、裕太、南、神尾、平古場、千歳だった。巴の隣に河村が座るのを待っていたかのように、跡部がいつものようなLサイズの態度で切り出す。
「だが、ただやるだけじゃ面白くねぇよな、アーン?」
「んじゃ、負けた奴はなんか罰ゲームしなきゃいけねぇってのは、どうスか?」
「……面白ぇ、望むところだ」
「って、海堂先輩、やるのは私たちなんですから!」
「! わ、悪い、つい反射的に」
「ったく、マムシはしょうがねぇなぁ」
「てめぇが言い出したことだろうが!」
「じゃ、じゃーん! こんなこともあろうかと、サイコロ持ってきたよーん」
「わっ、大きい! あ、なんか書いてある。……『はずかC話』?」
「このサイコロに、書いてあるとおりの話をしてもらうよん」
「面白そうですね。よ〜っし、頑張っちゃいますよ!」
 こんなにいろんな学校の人がいるのだから楽しめるに違いない。巴は張り切ってゲームを始めた。
「よぅし、10! リズムに乗ってきたぜ!」
「ふっ、こんゲームな早よ進めりゃいいちゅうもんでもなかたい。……パイロットに就職決定」
「あっ、ずりぃ! よーっし、俺も……だぁっ、フリーターかよっ!」
「……なんだこれは? 妙なゲームだな。モノポリーのように見せて双六なのか?」
「サラリーマンコースは俺だけか……まぁ、慣れてるけど」
 にぎやかにお喋りしつつゲームを進める。巴はどういうわけかルーレットで小さい数字が出ることが多く、どうにも遅れ気味だ。だけどこのゲームは早ければいいってもんでもないし、と思っている間に、自分のすぐ前にいた平古場がゴールしてしまった。
「ようし、わんぬゴールやん! 残るやぃやーびけーんさぁ、巴」
「む、勝負はまだわかりませんよ!」
 それからも少し手間取ったが、無事ゴール。それぞれ総資産額を集計し、結果。
「ビリ、私ですかぁ!? く、悔し〜っ!」
 じたばたと暴れて悔しさを表現する巴に、なぜか周囲の選手たちは沸いた。菊丸が笑顔でサイコロを差し出す。
「さー、モエりん、このサイコロを振ってもらおーかぁ!」
「うぅ〜っ。しょうがないですねー……えいっ!」
「お! 『はずかC話』!」
「一番いいとこきたな!」
「ようし、恥ずかしい話をしてもらおうか!」
 恥ずかしい話か。正直あまりに多すぎてこれ、というのが思い浮かばないのだが。
 しばし唸りながら考えて、あ、と思いついた。一番インパクトがあって笑える話となると、あれかもしれない。
「えっと……年末に大掃除をしてた時の話なんですけど。私、掃除を終えてお風呂に入ってたんですよ。それでなんだかにぎやかな話し声が近づいてくるな、と思ったらお風呂の戸が開いて! はやくんとリョーマくんが入ってきたんですよ!」
『…………』
「その時はもうパニックで風呂桶とか投げつけちゃって。おまけに一日二人のこと下僕扱いとかしちゃったんですけど。その一ヵ月後ぐらいに偶然、今度は私の方がリョーマくんの入ってるお風呂に入っちゃったんですよ! もう恥ずかしくて恥ずかしくて平謝りするしかないっていうか、偶然お風呂でばったり≠チていうシチュエーションってのぞいちゃった方も恥ずかしいんだなーって実感しちゃいましたねー」
「……おい。なんだそりゃ」
 跡部が地獄の底から響いてくるような低い声で言うのに、巴は(え? 怒ってる? なんで? と混乱して)少しばかり気圧されつつも答えた。
「なにって、恥ずかしい話ですけど……」
「おま、なにガチで恥ずかしい話してんだよ! もーちょい……なんつーかこー……穏やかなのあるだろ!」
「え、なに、ていうか、越前くんと赤月さんって、同じ家に住んでるの!?」
「え、はい、そうですけど……言ってませんでしたっけ?」
「……聞いてねぇぞ」
「お、同じ家に住んどる女の子とお風呂でバッタリ……んなおいしいシチュエーションがマジでこの世にあるやなんて……!」
「そういう問題じゃねえぇぇ!!」
 なぜか巻き起こった大騒ぎに、巴は困惑しつつも騒ぎを必死になだめた。大変ではあったが、その分なにも考えずにすんで気分転換としてはうってつけだったと思う。

 自分は、いったいなにを目指しているんだろう。
 昼練習を終え、合宿所をさまよいながら巴は必死に考えていた。自分はいったい、どんなテニスをしようとしているんだろう。
 三日目の練習試合で、鳥取と樺地に負けて。負けたというだけじゃなくて自分のテニスができなくて。自分の目指すテニスと自分のやっているテニスがあまりにかけ離れていることに打ちのめされて。そもそも自分がどんなテニスをしていたかもわからなくなって。
 隼人に心配をかけて、他にもいろんな人に迷惑をかけて。それでもやっぱり隼人と自分を比べるようなことを言われるとどうしようもなく嫌で。
 なのに、自分はあの時。天根に自分と隼人は違う、と言われた時。
「……悲しかった、のかな」
 ぽつり、と独り言を呟いて息を吐く。なんなんだろう、本当に。自分は隼人にはなれないし、なりたいとも思わない。だからそんなこと当たり前のことなのに。テニスプレイヤーとして隼人のプレイに思い入れている、というのでもない、と思うのに。
 どういうわけか、自分のプレイはいろんな人に評価されている。自分の目から見ればただ未熟で乱雑なだけのプレイなのに、『面白い』とか『またやりたい』とか言ってもらえてしまう。
 その気持ちはありがたいし、応えたいとも思うけれど、そんなに評価される自分の強みがどこかなんてまるでわからない。自分のテニスって、自分のテニスの取り柄っていったいなんなんだろう。
 自分はいったいどこを目指せばいいのか。どんなテニスを目指せばいいのか。
 自分の理想のテニスって、いったいなんなんだろう?
 ぐるぐる頭の中で言葉が回る。気持ちが回る。でもどこへも出ていくことができない。だって自分は今一人だから。心の中のものを誰かにぶつけることはできないから。
 当たり前だ、だってこれは一人で乗り越えなければならないものだ。(天野以外からは)はっきり言葉で伝えられたわけじゃないけどそばにいれば自然と伝わる。他の選手たちも、みんな自分のテニスに悩み、苦しみ、それでも一人で乗り越えてきたんだ。
 だから、自分だって一人で解決しなきゃと思うのに。
『巴』
 どうしてあいつの声を思い出してしまうんだろう。こんなこと今までなかったのに。
 彼は当たり前のように隣にいる存在で、好きとか嫌いとかそういうことさえ考えたことのないくらい普通の存在で、だから別にテニスプレイヤーとしても人間としても、全然意識したことがなかったような相手なのに。
『巴!』
『巴っ!』
『巴っ、お前人の話聞いてんのか!』
 別に頼りになるわけでもない、すごいと思ったことなんていっぺんもない、そんなごく当たり前の存在だった一人の従兄のことを、どうして今、こんなにも思い出すのだろう。
 いや、違う、すごいと思ったことはあった。テニスをやっている時は何度も。それは先輩たちのようにうまいとかカッコいいとかそういうのじゃなくて、ただ、本当に心の底からすごい、と思った。
 そうだ、あれは、全国大会の決勝。リョーマとのダブルス。二人のテニスが重なり合い、高めあい、どこまでもどこまでも上へ上っていくのを見て、ただもう本当に、なんてすごいんだ、と――
「巴っ!」
 声に反射的に振り向いて、巴は仰天した。唐突にかけられたその声はもしかしたら自分の心の中の声なんじゃないかってくらい現実感がなかったのに。
 向こうに、隼人とリョーマが揃ってこちらを見ている。慌てたようなというか、驚いたようなというか、本当にまるで余裕のない形相で。
「なんではやくんとリョーマくんがここにいるのっ!?」
「決まってんだろ、お前を探しにきたんだよ!」
 思わず叫んだ声に秒も間をおかず返される言葉。どうしようどうしよう、まだ心の準備とかできてないのに。うろたえ、慌て、おろおろした末に巴は、「う……う、うぅっ、こっち来ないでよっ!」と叫んで後ろを向きダッシュで逃げ出した。
「は……お、おいっ! ちょっと待てっ!」
 追いかけてくるのが気配でわかる。でも嫌だ、駄目だ、止まってなんてあげられない。だってあんな、むちゃくちゃな気持ちを、自分とは違う存在にぶつけられるわけない。
 必死に足を進めようとする、が突然がっしと手を掴まれて巴の体の進みは唐突に止まった。
「わっ!」
「なんで逃げるわけ」
 この声は。
 振り向いて、巴はびくりとした。リョーマだ。まだ声変わりもしていない、自分より頭ひとつ近く低い男子が、がっしり自分の手を握っている。
 その、視線。普段の試合とはまた違う。鋭いとか厳しいとかいうのではなく、例えるならば獣のような、激しく猛々しく強い視線。それが、自分をじっと見つめていることに、巴は悔しいが、怯えに似た気持ちを抱いた。
 力で振り払えないことはないと思うのに、男の人を怖いと思ったことだって今までなかったのに、『まるで男みたい』なんて、馬鹿な感想を抱いて、なぜか、体が震えた。
「……リョーマ」
「リョ、リョーマくん、放してよ……」
「やだ」
 リョーマは視線を逸らさない。どうしよう、逃げ場がない、とうろたえて視線をさまよわせ、結局うつむいてこんなことしか言えなかった。
「逃げないから。手、放して……恥ずかしいよ」
「は? 恥ず……っ!」
 リョーマはカッと顔を赤くして手を放す。その様子に心底ほっとして息を吐いたが、今度は隼人がずいっと前に出てきてさっきとは違う意味で体が震えた。どうしよう、まだ気持ちが整理できてないのに。
「巴。あのさ」
「……なに?」
「俺と試合、しようぜ」
「……え?」
 巴はぽかんと口を開けた。思ってもみなかった言葉だった。だって自分はただ考え事をしながら合宿所をうろうろしていただけなのに。試合なんてしたら練習の時間に間に合わない。どこから出てきたんだろうその言葉。
 だが、隼人は、必死な顔で、これまでも何度も見てきた顔で、当たり前のようにそばにあった顔で自分に語りかけてくる。
「巴がさ、今すっげー頭ぐるぐるするくらい悩んでるのはわかる。俺だって悩んだんだ。なんて言えば巴の悩みを解決できるのかとか、そもそも俺がどうにかできることなのかとか、いろいろさ。そりゃもう、脳味噌煮えそうなくらい。でも、さ」
 ここで隼人はポケットからボールを取り出して、放ってきた。テニスボール。自分たちが(恥ずかしい台詞なのを承知であえて言うならば)青春を懸ける、直径約六cm半の黄色い球体。
「俺、頭悪いし、結局思いつくのはさ。テニスするのが苦しい時、助けになるのは、やっぱりテニスだってことぐらいなんだ」
 そう言って隼人は真剣な顔でラケットをこちらに突きつけてくる。隼人が何度も試合相手に向けた挑発の仕草。でもこれはたぶん、自分にテニスをしよう、と言っているのだとなんとなくわかった。
 巴は唇を噛んで、うつむいた。テニスするのが苦しい時、助けになるのは、やっぱりテニス。考えてみれば当たり前のことだし、みんなそうして今の自分のような苦しい状態を乗り越えてきたんだろうと思うし、自分だって似たような発想で無茶な練習をしてぶっ倒れた。
 だけど、なにか。自分の発想と、隼人の発想は、なにかが違う。そんな気がする。
 だから自分は、隼人をこうも意識しているのだろうか。当たり前だった存在を意識して、それに近づきたいと思っているのだろうか、遠ざかりたいと思っているのだろうか。
 知りたい。自分の気持ちを、知りたい。巴は顔を上げて、隼人をきっと見つめた。
「本気で、やってくれる?」
「たりめーだろ」
「手加減、なしだよ?」
「おう、全力でやらしてもらうぜ」
「……わかった。ありがとう、はやくん」
「……おう」
 ふぅ、と小さく息を吐いて緊張をほぐす。と、ふと気付いてリョーマの方を向いて訊ねた。
「でも、リョーマくんはなんでここに? もうすぐ練習始まっちゃうんじゃないの?」
「……別に。どうでもいいでしょ」
「いや、どうでもよくはないと思うんだけど」
「少なくともお前はそんなこと気にしてる暇ないんじゃないの。自分がどれだけちゃんとテニスできるかを気にしたら?」
「そ、それはそうかも……そうだね、わかった、頑張るよ!」
「じゃ、俺が審判やるから。コート入って」
「うんっ」
「おう!」
 幸いコートはすぐ目の前にある。それぞれ相対するコートに入るや、リョーマがラケットを取り出し回転させた。
「フィッチ」
「ラフ!」
「スムース」
 ラケットが倒れ、上になっていたのは表側だった。こちらからのサーブ。巴はベースラインにつきながら考える。
 たぶん、隼人は本気だ。さっきのコール、隼人は本気でサーブ権を取りにいっていた。それだけでどう、とはいえないが、でも本気でやろうとしているのはわかる。
 本気の隼人にぶつかれば答えが得られるかどうかはわからない。そんな単純なものじゃないかもしれない。でも。
「赤月巴、トゥサーブ」
「――ふっ!」
 身体全体を使って思い切り振りぬく。すぱぁん! といい音を立ててラケットからボールが飛んでいく。
 ―――自分は、隼人に負けたくない!
 サーブはばしぃっ! と音のたつフラットストロークで返された。その技は、自分ほどではないがやっぱり未熟だ。フォームはきれいだし力も充分乗っているけれど、力の入れ方といいステップといい無駄が多いのが筋肉の動きでわかる。
 だがそれでも返されるショットはやはり強烈だ。巴はだっと走って球に追いつき、両手を使ってコートぎりぎりに返す。
「っ!」
 だがその球も追いつかれ返された。やっぱり無駄の多いダッシュ、乱雑なトップスピンストローク。だが打たれる球は強烈で、足元に突き刺さり順回転で強烈に跳ねていくのを巴はうまく捉えることができなかった。懸命のリターンはサイドラインを越え、リョーマは静かに「15-0」と宣告する。
 ふ、と巴は息をついた。まださほど走り回らされたわけではない、息はほとんど乱れていない。ただ、なんだろう、この感じ。以前はこんなこと感じなかった、意識してなかったのに。なぜか、今は、隼人とプレイしていて、ひどく。
 懐かしい、と思ってしまう。
「っ!」
 ベースラインからニンジャ・サーブを打ち込む。サービスエリアぎりぎりに打ち込んだサーブを隼人は返したが、その軌道は予想の範囲内だった。だっと前に出てアングルボレーで返し、返された球は予想通りの打ちごろの球。小さく跳躍して身体全体を大きくしならせ、ずばぁん! とスマッシュが我ながら見事に決まる。
「どーん! ってねっ」
 そうふざけてみせると、隼人はにっと口元を笑ませた。
「上等じゃねぇか」
 そう言って構える仕草。漂う雰囲気。それらすべてが、なんでこんなに懐かしいんだろう。どれもごく当たり前に自分のそばにあったもので、意識する必要もないくらい当然のもので、いまさら気にするようなものでもないはずなのに。
 サーブを打つ。返される。ストローク。ボレー。ロブ。スマッシュ。サーブを打たれる。レシーブ。リターン。ストローク。パッシングショット。ハイボレー。当たり前の試合、未熟な技術。お互い(むろん隼人の方が上だとは思うが)偉大な先輩たちの足元にも及ばない、拙劣なゲーム。
 なのに。
「ゲーム、赤月隼人。1-0」
 サービスをブレイクされた。思わず「あぁっ!」と地団駄を踏んで悔しがってしまう。隼人がにっ、と笑い小さくガッツポーズをするのが見えた。負けるもんか、ときっと隼人を睨んでから、コートをチェンジする。
 今度は隼人からのサービスだ。軽くボールを跳ねさせて、身体全体をしならせ、ずばぁんっ! と音を立ててボールが飛ぶ。
 その強烈なサーブを巴はダブルハンドのバックハンドストロークで歯を食いしばりながら返した。隼人のコートで跳ねるボールを、隼人はストレートで返し、そのまま一気に間合いを詰めてくる。しかし巴はその球を、トップスピン・ロブで返した。
「15-0」
 ポイントが入る。思わず顔がにやける。隼人が舌打ちせんばかりに顔を歪め、きっとこちらを睨んでくるのを、巴は勝ち誇った笑顔で睨み返す。
 楽しい。
 そうだ、楽しいんだ。自分は今、隼人と試合をやっていてすごく楽しい。今まで隼人と試合をやった時、他の人と比べてとりたててどうこういうような気持ちを持ったことはなかったのに。
 だけど今、自分はプレイしていて、すごく懐かしくて、楽しい。ずっとずっと昔、まだ世界が生まれたてのように思えていた頃、京四郎に見守られながら全力でじゃれあっていた時のように――
(あ)
 巴は思わず目を見開いた。
「30-15」
 リョーマのコールで我に返る。自分の放ったパッシングショットが見事に隼人の脇を抜いたのだ、と気付き、慌ててサーブに備え構えたが頭の中ではたった今気付いた事実がわんわん音を出して騒いでいた。
 そうだ、思い出した。自分の、一番古い記憶。
 自宅に設置されたコート。そこにいたのは隼人と京四郎と、京四郎に抱かれた自分。
 隼人は子供用のラケットを振り回してボールを打とうと四苦八苦している。京四郎はそれにいちいち駄目出しをしていた。二人ともたぶん、まだ幼稚園にも入っていないくらい小さい頃だったと思う。
 ふと、隼人がこちらを見て、不思議そうな顔で言った。
『ともえはやらないのか?』
 隼人にしてみればごく当たり前の問いだっただろう。それまで自分たちはずっと、なにもかも一緒に同じことをやってきた(はっきり記憶があるわけじゃないがたぶんそんなような気がする)のだから。隼人のやることは巴もやる。それが当たり前の既定事項。自分たちはずっとそういう人生を送ってきたのだから。
 だが、その時、巴は少し考えて首を振った。
『ともえは、おとーさんみたいな、すぽーつとれーなーになるから、いい』
 その時すでに夢を決めていた、というわけじゃない。そもそもその頃の巴は京四郎の仕事がどんなものかとかスポーツトレーナーってなにかとかそういうことをほとんど理解していなかったのだから。
 ただ、巴は、その時ずっと京四郎と隼人を見ていて、珍しく真剣な顔でいちいちやり方を教えてやる京四郎とボールを打とうと懸命になる隼人を見ていて、京四郎の方により惹かれたのだ。隼人のようにボールを追いかけるのではなく、京四郎のようにそれにいちいちアドバイスをしてやる側になりたいと思った。
 一生懸命頑張る人を、一生懸命真剣に、そのそばで支える人間になりたいと思ったのだ。
 それが、自分の最初の記憶。自分の気持ちの根っこで基本。その気持ちをずっと持ち続けたまま、家にテニスコートがあるのにラケットを持ったことすらないまま育ち、ちゃんと京四郎のようなスポーツドクター兼トレーナーになりたい、と考えるようになり。
 青学にやってきて、初めてラケットを持った。
 だから、自分の基本は。自分のテニスは。自分がテニス≠ニ言われて思い浮かべる、自分の根っこのところにあるテニスは。
「らっ!」
 先輩たちどころか、リョーマにすらまだまだ及ばない無駄の多いフォームで向こうからサーブを打ってくる。それをライジングショットで叩き返し、巴は浮かびそうになる涙を堪えた。
 ああ、これなんだ。
 まだラケットもろくに持てていないのに、京四郎の指導を真剣な顔で聞いて、ボールを狙うちっちゃな子供。短く髪を刈った頭を揺らしながらラケットを懸命に振り、ボールに当たるたびに飛び上がって喜ぶ。あの時の子供が成長した姿が目の前にある。自分はこいつが大きくなって、強くなっていくのをずっとそばで見てきた。それを支えられる人間になりたいと、ずっとずっと思ってきた。
 だから、自分はあの時の、全国大会決勝の、こいつとリョーマのダブルスを見て。それまでのこいつの努力をしっかり刻み込み、なのに桁違いに飛躍したテニスを見て。
 ああ、すごいなと。理想のテニスっていうものを形にしたらこんなテニスになるだろうなと。こんなテニスができたらなと、そしてそれ以上に。
 隼人にこんなテニスをさせられる人間になれたらなと、たまらなくリョーマと隼人を羨ましく思ったのだ。
「っ―――」
 全力で振りぬいたボールは、びしっ、と隼人の逆サイドに突き刺さり、そのままコートを駆け抜けていった。

「あっぶね、ギリギリ! もーちょいでくじ引き間に合わねーとこだったぜ。ったく、リョーマがコートチェンジの時水分補給とか言ってトロトロしてっからだぞ!」
「なんで。隼人がサーブの時無駄に間長く取るからでしょ」
「ぁんだと、コラ!? 一流のプレイヤーならサーブの時もしっかり自分のペース作って精神集中しとくもんだろがっ、相手のペースがちょっと自分とズレてるくらいでペース崩すような奴が偉そうなこと言うんじゃねぇっ!」
「バカ言わないでくれる。ペース崩したのお前の方でしょ、俺がちょっと長めに水分補給したくらいで」
 二人ともお互いがルールに決められた時間オーバーしてないことぐらいわかってるくせになぁ、と思わず苦笑する。要するにこの二人は喧嘩するのが好きなのだ。戦うのが。勝負するのが。相手を全力で叩きのめして、上にいく、勝つことが。
 お互いにとってそういう相手がすぐそばにいることが、どれだけ幸せなことか、この二人はどこまでわかってるんだろうか。
「ふざけんなそんくらいどーってことねーよ、お前の方こそさっきの試合でバテバテで練習試合ボロボロとかアホな真似すんじゃねーぞっ」
「こっちの台詞」
「でも、二人ともぜんぜん元気でよかった! 試合止めてから気付いたけど、練習試合前に試合するっていうのは体力的にちょっとまずいかなーって思ったからほっとしちゃった」
「たりめーだろ」
「当然」
 笑う隼人と涼しい顔でうなずくリョーマ。対照的だけどよく似た二人。
 この二人のテニスの基本は父親から教わったテニスだ、という全国大会決勝の時の直観は今でも正しいと巴は思っている。中学時代ずっとライバルだったという、京四郎と南次郎のテニス。それを二人はそれぞれ伸ばし、会得し、自分なりのテニスに変えていこうとしていた。
 その戦いの途中でお互いに出会い、ライバルとして認め、(たぶん性格的な相性とかもあったと思うけど)お互いに影響を与え合って互いのテニスを大きく飛躍させたのだ。それがなんとなくわかった時は、親の代からの宿命、みたいな感じでちょっと感動した。
 たぶん自分には、どちらの役目もできなかったろうと思う。
 ぎりぎりで夕方の練習試合のくじ引きの列に紛れ込む。一番後ろに並ぼうとする隼人の後ろに立ち、くいくい、と袖を引っ張った。
「ん? どした?」
「あのさ、はやくん。今日、一緒にペア組んでくれない?」
「え」
「吹っ切れついでに、っていうか。私なりに、けじめつけとこうかな、って思って」
「けじめ……か。よっしゃわかった、お前とペアな。俺シングルスプレイヤーだからな、足引っ張っちまうかもしれねーけど、勘弁しろよ」
「うん、ありがと!」
 笑顔で返すと、少しばかり照れたような顔になって鼻の頭をかく。その顔が面白くて、また少し笑えた。
 今日巴の対戦相手になったのは、山吹中の南だった。二日目と同じだ、と思うや巴は南のところへ行って頭を下げた。どうか東方とのペアと勝負させてくれ、と。
「いや、けどな……君は女子選手だろ? そりゃ、君の力はすごいとは思うけど……」
「もちろん私の実力がお二人のペアに及ばないのは承知しています。身体能力も、技術力も、ダブルスの能力も、お二人に勝てるところはなにひとつありませんし、お二人からしてみたらなんの練習にもならないって思われるかもしれないってわかってます」
 でも、と巴は頭を下げた。
「私、もっと強くなりたいんです。いろんな人と試合して自分の力を高めたいんです。そして今の自分の力を、ちゃんと試して知っておきたいんです。わがままなのはわかってます、でも、お願いです。南さんたちの胸を貸してください」
「……赤月」
「南さんたちがもっと強くなれるように……私も、精一杯頑張りますから」
 必死の思いでお願いします、と深々と頭を下げると、南はふ、と小さく苦笑してから、ぽんぽんと巴の頭を叩いた。
「わかったよ。そこまで言うなら、東方に頼んでみる」
「南さん……ありがとうございますっ!」
「いや、いいさ。実際、なんていうか……君の面構えっていうかな、そんなのが二日目とはずいぶん変わってるからな。二日目とどれだけ違うテニスをするのか、知ってみたい、と思うし」
「……そんなに、変わってますか?」
「ああ。……それとな」
 南はわずかにまた苦笑し、身をかがめて囁くように言う。
「敵を強くするように頑張る、とか考えなくていいから」
「え……」
「というか、君はまだ一年なんだし、自分のことだけを考えていていいんだぞ。今はまだ、自分が強くなって相手に勝つことだけを目指して頑張っていればいい。そうしないと余計なものまで背負い込んじまうことになるぞ?」
 その忠告は、巴の心にもずっしりと重くのしかかったけれども。
「……はい、ありがとうございます。でも、私、いけるところまではこのままでいってみたいんです」
「え……」
「敵も味方も、どんどん強くなって。強くなってもらえるよう頑張って。そういう中を必死に全力で戦う。そういうので、いけるところまでいってみたいんです」
「…………」
 ばっ、と巴は顔を上げ、困惑したような顔の南に全開の笑顔で笑いかけた。
「ありがとうございます、南さん。南さんって、本当に、優しいんですね」
「え……いや」
「でも、勝負は譲りませんよ〜。絶対私たちが勝ってみせますからね!」
「……そう簡単にいくか。伊達に全国レベルって呼ばれてるわけじゃないってことを教えてやるよ」
 こちらの気持ちを酌んでくれたのだろう、南は笑顔になってがつん、と軽く拳を打ち合わせてくれた。

 ―――たぶん、自分は、アスリートの資格なんて本当はないのだろう。
「赤月巴、トゥサーブ!」
 たんたん、と数度ボールを跳ねさせて、すぱぁん! とサーブを打つ。最初から全力だ。自分に手加減できるような余裕はない。自分はまだまだ下手だし、弱い。とにかく全力でぶつかるしか道はない。
 それに、この相手と試合ができるのはこの一回で終わりかもしれない。だったらかけがえのないこの一瞬、全力でぶつかった方がきっと楽しいに違いないと思うから。
「ふっ!」
「ぁっ!」
 返されたサーブを隼人がスマッシュで返す。それを視界に収めつつスマッシュが返された時に備えスペースの空きを埋める。
 巴はダブルスの技術が未熟だとよく言われる。自分でもそう思う。それはシングルスと比べてどうこうということではなく、感情のままに突っ走りすぎるからだ。『この球取れる!』と思ったら相手の守備範囲かどうかということを考えずに走り出してしまうことがよくある。
 でも、相手が『取りたい』と思っている球を取る、ということはたぶんなかったと思う。そういう時のパートナーの気持ちは、なんとなく伝わってきたのだ。巴のテニスは、これまでも楽しい≠ニいう感情にだけはひどく敏感なものだったと思うから。
「ふー……ぁっ!」
「せっ!」
 ラインギリギリを狙ったサーブを返される。それを隼人は強烈なフォアボレーで返す。それをさらに南がトップスピンロブで巴の逆サイドに返し、センター近くに位置していた巴はだっと走ってあがりっぱなを叩きつけて返した。
「30-0!」
 自分らしいテニス。そう人に言われるものかどうかはわからない。でも自分のテニスの基本になるのは、あの時の、一番古い記憶の中の、京四郎に指導されながら懸命に、けれど心の底から楽しそうにラケットを振る隼人のテニスだと、隼人と試合をした時に思い出せたのだ。
「40-15!」
 テニスは楽しい。プレイするようになって改めてそう思う。プレイしているだけで楽しいし、勝てたらもっと嬉しくて楽しい。勝つために頑張るのも楽しいし、負けて次は勝つぞ! と気合を入れて練習に励むのもやっているうちにどんどん楽しくなってくる。そして自分は、その楽しいがどんどん広がっていったらなと、自分の周りの選手、戦う相手、みんながもっと楽しく頑張れたらもっと楽しい! と本気で思っていたし、たぶん今も思っているのだ。
「1-0!」
 だから自分はいつも、もっと楽しい≠ェ広がったらいいな、と思いながらプレイしてきた。相手にもパートナーにも楽しい≠ニ思ってもらえるくらい、いいテニスができるよう全力を振り絞ってプレイしてきた。そういうテニスが自分には当たり前だったのだ。――けれど。
「1-1!」
 あの時。鳥取とプレイしたあの時。たぶんあの時初めて自分は、巴に¥氓ソたい、と思っている相手と戦った。巴を相手にもせずに邪魔だからちょいと片付けるくらいの気持ちとか、自分の学校が勝つための障害だからとかではなく、他の誰でもない赤月巴というテニスプレイヤーに、自分自身のために勝ちたいと思って挑みかかってくる相手と、巴は初めて戦ったのだ。
「2-1!」
 だから、わからなくなった。自分のテニスが。勝ったら楽しいから気持ちいいから、そういうレベルの感情ではなく、そうしなければ自分が自分でいられなくなるような、業のようなものを背負って『勝ちたい!』と挑みかかってくる相手に、巴はビビった。勝てないとかいうことではなく、自分のテニスではこの人と戦う資格はない、と思ってしまったのだ。――意識化しては考えられていなかったけれど、心の底で理想のテニス≠知ってしまったから。
「2-2!」
 テニスというものは――のみならずほとんどのスポーツ競技というものは、勝負≠ェつく。陸上でタイムを縮める時のようにひたすら自己と対話し自分に勝とうというのではなく、別の人間がいて、それが敵で、そいつに勝ちたいと思うからこそ盛り上がるし勝つために練習しようと思う。そういったスポーツを本当に楽しめるのは、本気で勝とうとする人間だけだ、と京四郎が言っていたことがあった。それを聞いた時、自分はいまひとつピンときていなかったけれど、今では本当に、そう思う。
「3-2!」
 隼人とリョーマのライバル関係を、自分はやれやれと思いながら見てきた。子供だなぁ、と少し呆れ、ちょっと面白がるような気持ちで。それが少しずつ変わっていったのは、いつ頃からだったろうか。
「3-3!」
 二人のテニスは、勝負≠セった。相手を叩きのめすための、俺の勝ちと宣言したいがための。お互い相手に誰よりも勝ちたいと思い、努力を重ねていた。勝ったり負けたりを繰り返しながら。勝ったら相手をけちょんけちょんに馬鹿にし、勝ち誇り。負けたら負け惜しみを言い復讐戦を誓い。そんな子供の陣取り合戦にしか見えなかったのに。
「4-3!」
 二人はその陣取り合戦を、心の底から楽しんでいるのだ、と全国大会決勝でようやくわかった。自分のように勝ち負けよりも楽しい、いいテニスができればいいと思っているような人間ではとても味わえないようなレベルで。相手に負けるのが死ぬほど悔しくて、相手をぶちのめしてでも勝ちたい、と心底思っている人間にしか味わえない、テニスの地獄の苦しみとセットになった快感。人生懸けて命懸けて勝負に勝ちたいと思っている人間同士の、その業すら超えたところにあるいい<eニス。それを自分は全国大会決勝で、見せられたのだ。
「4-4!」
 だから鳥取と勝負して気付いた。自分はもしかして、ものすごく失礼なことをしてきたんじゃないか? スポーツを、テニスを、勝負というものを穢すようなことをしてきたんじゃないか? 隼人とリョーマのような、なによりも勝ちを求められない自分が、コートに立つ資格なんてあるのか?
 そう思ったら、体がうまく動かなくなった。
「5-4!」
 自分の最初の記憶を思い出してわかった。自分の根っこは、アスリートではなくサポーターなのだ。頑張っている人を見ると、自分も負けてられないぞ、とも思うけれどもそれ以上にこの頑張っている人を支えたいなと思ってしまう。その人がもっと頑張れるようにフォローしてあげたくなる。あの時惹かれたのは、カッコいいと、自分もああなりたいと思ったのは、隼人ではなく京四郎だったのだから。
 だから、鳥取のように、隼人のようにリョーマのように、なによりも、なにを犠牲にしても、全身全霊で『勝ちたい』とは、巴は思えない。
「15-15!」
 でも。だからこそ。
「…………」
 巴は数度深呼吸をしてきっとサーバーの東方を見つめた。息が荒い。苦しい。隼人よりもたぶん自分の方が息が荒いだろう。フォローするために多く動いているというだけでなく、自分の方が体力がないし、それ以上に無駄に一生懸命動きすぎているからだ。
 だけど。それでも。
「しっ!」
「っ!」
 東方のサーブと同時に巴は走った。全力で。疲れてはいるがまだまだ限界なんかじゃない。全力振り絞ればまだまだいくらだって動ける。自分は、このプレイに命懸けてるんだから。
「ぁっ!」
 ダブルハンドのバックハンドストローク。いつもの自分の全力のリターン。それと同じに振りぬきながらも全神経を集中して細やかなトップスピンをかける。
 跳ね返ったボールに、南は素早く追いつき、余裕を持ってフォアでリターン――しようとしたスイングは空を切った。コートに着弾したボールは、通常とは逆方向にごく軽く跳ねたのだ。
「30-15!」
 巴はにっと笑って小さくガッツポーズを取る。手塚と共に編み出した必殺技、変則トップスピン、今の状態でもしっかり成功している。
 東方がきっとこちらを睨みながら強烈なサーブを放つ。きっと勝ちたいんだ、と思う。勝ちたくて勝ちたくて勝ちたくて、自分たちを叩きのめしても勝ちたいんだと思う。
 自分にそれに応えられるような勝利への執念はないかもしれない。でも。
「っらっ!」
「ふっ!」
「やっ!」
 隼人の足元を突く強烈なレシーブを、東方は巧みに体を引いてバックハンドで返した。それを巴はプッシュボレーで返す。まだまだ低い自分の技術力全力で使って、取りにくい場所にボールを叩き込む。
 巴は自分が笑っているのを感じた。テニスは、楽しい。苦しいかもしれない、でもやっぱり楽しい。もっと楽しくしたい、もっと、もっと。もっとすごく。
「っ」
「はぁっ!」
 南のリターンは打ちごろとまではいかないが、普段の返球より明らかにぬるい。巴は気合を込めて飛び上がり、体をしならせ、一回転するかと思うほどの勢いで全力のスマッシュを叩き込む。
 びしっ! と音が聞こえた。エースが決まったのだ、と肌で実感する。跡部直々に編み出してもらった『悪夢への行進曲』、まだまだ切れは衰えていない。
 巴は顔を上げ、にっ、と南と東方に笑いかけた。まだまだ、こんなものじゃないでしょう。もっと上へいけるでしょう。自分は一番下手だけど、まだまだいけるって思ってる! だってこんなに、楽しいんだから!
「40-15!」
 東方が歯を食いしばってこちらを睨みつけ、全力でサーブを放つ。それをだっと巴は追った。
 自分は本来ならこのコートに立つ資格はない。でも、自分はもうここにいるんだ。ならもうできることをやるしかない。
 自分はいいテニスがしたい。楽しいがどんどん広がるテニスがしたい。だったら、他の人が死ぬ気で勝ちたいと、全身全霊振り絞るくらい強いいい=A楽しい<eニスをすればいい。
 パートナーが、相手が、もっともっと頑張れるような、もっともっと強くなれるようなテニス。そのためには一球一球に、一瞬一瞬に全力込めて、この一瞬はもう二度と来ないという覚悟でプレイするしかない。
 そのためになら自分はいくらだって練習するし、全力振り絞る。命人生懸けてやる。ホントの本気で頑張ってる人たちが、もっともっと頑張れるためになら!
「でえぇぃっ!」
 すばぁんっ! という破裂するような音が、どこか遠くに聞こえ。
「ゲーム6-4! マッチ・ウォン・バイ・赤月ペア!」
「……うっしゃ――――っ!」
 数瞬後に叫んだ快哉は、痺れるほどに気持ちよく、巴の体を震わせてくれた。

「……頑張ってるな」
「わあっ! だ、誰っ!?」
「……俺だ」
「あっ……。なんだ、真田さんでしたか」
 今日の分の勉強を終えて、散歩のついでにやっていた自主練に褒め言葉をかけられ、巴は照れくさくなって頬をかいた。みんな当たり前にやっているだろうことに褒め言葉をかけられるというのは、ちょっと照れくさい。
「俺のことは気にせず続けろ。……なんなら、素振りを見てやってもいいが?」
「あ、はいっ! よろしくお願いします!」
「うむ。だが……その前に、その振り上げたラケットを下ろしてくれ」
「あ、すみません。……じゃあ、始めますね……!」
 怪しい人!? と反射的に思ってラケットを振り上げていたのに気付き、下ろしてから改めて構える。それからしばらく真田に素振りのフォームを指導してもらった。真田さんって、厳しいとは思うけど、やっぱり面倒見がよくて優しい人だよね、と笑顔になる。
「……それにしても、キレイな星空ですよね」
 指導が一段落し息をついて、空を見上げるとついそんな言葉が漏れた。無駄話と怒られるかな、とも思ったが真田は意外にあっさりとうなずく。
「ああ。これぞ、満天の星空というヤツだろうな」
「いつか私も、あの光る星みたいに輝ければいいんですけど……。あはは、私なんかが輝くなんて、欲張りすぎですよね」
 スポーツドクター兼トレーナー。テニス選手。なんでもいい、自分らしく、自分なりに誇れるほど輝けるかどうか。自分にはまだまだ自信がないし、たぶん他の選手もたいていはそんな気持ちだと思う。
 それでも、いつか。
「お前にその気があるのなら、いつか輝く日が来るはずだ。鍛錬し続けられるのならな」
「……はい! その日を目指して、これからも頑張ります!」
 ちょうどいいタイミングで声をかけてくれた真田に、巴は全開の笑顔で応えた。真田はむ、とわずかに息を詰めてから咳払いをし、厳しい顔で「ではな」と言って踵を返した。
 それをなんとなく見送って、巴も星空を見ながらのんびりと宿舎に戻っていく。早川さんとかはこういうのんびりとした時間も無駄とか思っちゃうのかなぁ、とちょっと苦笑した。でも自分はたぶん、こういう風にしかできないのだ。大切なことを全力で頑張るのはもちろんだけど、いろんなことを見て、感じて、楽しむのも、自分にとっては大切なこと。
 だって、世界にあるのはテニスだけじゃない。もちろんテニスが大好きだから一番優先するけど、それは世界にテニスしかないからじゃなくて、いろんなものがある世界からテニス≠好きになって頑張っている、という方が巴は好きだ。
 だから好きなものもひとつだけじゃなくて、いろいろあるのが当たり前。そのひとつひとつをそれぞれに楽しめなかったら、テニスまでちょっとつまらなくなってしまいそうな気がする。
 でもそんなこといちいち考えなくても、自分はたぶん考えるより先に好きなものは好き、楽しいものは楽しいと言ってしまいそうだ。こんな風にきれいな星空を見ながらのんびり歩けるのは、楽しい。まぁ、いつもいつもってわけではないにしろ。
「さぁて、そろそろ部屋に戻って……」
 と口に出して言った時、声をかけられた。
「ねぇ、ちょっといい? 話があるんだけど……」
「……原さん?」
 そこに立っていたのは立海大の原だった。どこか困ったような、苦しげな、それでも確かな決意を込めて自分を見ている。
 どうしたんだろう、と思いながら巴は声をかけた。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「…………」
「原さんも、外に出てたんですか。とりあえず、部屋に戻ってから話しませんか?」
「ううん、ここでいいわ。すぐに済む話だから……」
「え……はい。それで、話ってなんですか?」
「こんなこと、言いにくいんだけど……」
 原はわずかに逡巡するような様子を見せたが、すぐにきっ、とこちらを睨んで予想外の台詞を言ってきた。
「真田さんの邪魔をしないでくれる?」
「ええっ!? そんな、私は真田さんの邪魔をしてるつもりは……!?」
「真田さんは男子シングルスに出るのよ。だから、真田さんを惑わすような真似はしないで」
「惑わすことなんて別に…………あっ! さっきの真田さんと一緒にいたの、見てたんですか。誤解です、誤解! 真田さんの邪魔するつもりなんて、まったくありませんから!」
「じゃあ、聞くけど……真田さんとペアを組む気は全然ないって、言い切れるの?」
「そ、それは……」
 真剣な顔で告げられた言葉。それは確かに、巴の痛いところを突いた。
 真田の邪魔をしたいとは思わない。だが、巴にも確かに欲はある。いいテニスを、できるならすごいテニスをしたいと思うし、勝ちたいと、一番を目指したいとも思う。
 だからそのために必要なら誰とでも組む。そういう、欲張りというかわがままというか節操なしというか、なところが巴には確かにある、と自覚していた。
 原は苦しげな顔できっとこちらを睨んでいる。なんとか答えねばならない、と苦しい返答なのを自覚しながらも巴は答えた。
「……正直、まだ迷ってます」
「そう……わかったわ。でもね、真田さんの邪魔をしたら、私、あなたを許さないから」
 そうきっぱりと自分を睨みつけながら告げると、原はくるりと踵を返して去っていく。ふ、と巴は息を吐いた。今の答えでよかったんだろうか。
 正直、今の原はちょっと怖かった。でも、スポーツをするなら、いいや生きているならたぶんこういうことは避けられないのだ。なにかを選ぶために、なにかを捨てることは。
 そこまで考えて、ふと気付いた。でも私さっき、ひとつひとつをそれぞれに楽しめなかったら、とか考えてたような。
 うーん、と考え込んでしまった。いやでもそれとこれとは。いやいやそういう風に違うって決め付けちゃうのも逃げじゃない? いやいやいやでもひとつを選ばなかったばっかりにどっちも捨てるような状況になったら元も子も。いやいやいやいやだけどしかし……。
 うんうん考え込みながら歩いていると、ふとびゅおん、びゅおんと空を切るような音が聞こえた。なんだろう、と周囲を見回して耳を澄まし、裏庭の方か、とてこてこと歩いていく。
 と、海堂がタオルを振り回しているのが目に入った。いつものスネイクを磨く練習だろう。
 額からは滝のような汗が滴り落ちている。どのくらいこうしているんだろう、とつらつら考えた。たぶん自分が勉強している頃から、ずっとここで練習してたんじゃないだろうか。
 やっぱりこの人は尊敬できる人だなぁ、と思わず笑顔になって、そうだ、戻ってタオルとスポドリでも持ってきてあげよう、と思いつきたたっと駆け出した。
 その気になればそのくらい数分もしないうちに持ってこれる。たたっと笑顔で「海堂先輩っ!」と海堂の前に出ると、海堂は一瞬顔をしかめてから、すぐに緩めて答えた。
「……あ? なんだ、お前か。なんか用でもあんのか?」
「練習、お疲れ様です! 差し入れ持ってきました。タオルとドリンクです」
「……ああ、悪いな」
「気にしないでください。私が勝手にしたことですから。海堂先輩の練習してる姿を見たらなにかしなくちゃって、思えたんです」
「……フン。褒めたって、なにも出ねぇぞ」
 海堂はぶっきらぼうにタオルを受け取ってがしがしと汗を拭く。耳がわずかに赤くなっているのを、海堂先輩可愛いなー、とにこにこしながら見つめた。実際、海堂先輩は深くつきあうほどに味わいのあるというか、面白い人だと思う。
 と、背後にがさり、と草むらを揺らす音がして、なんだろうと振り向き巴は目を丸くした。
「あ、那美ちゃん!」
「…………」
 小鷹は黙って、どこか切なげというか苦しげというかな顔でこちらをじっと見つめてくる。どうしたんだろう、と思いながら「那美ちゃんも練習に来たの?」と声をかけると、小鷹はおもむろに踵を返してその場を走り去った。
「え!? 那美ちゃん、どうしたの!? 那美ちゃーんっ!」
 そんな驚きの声をかけてもおかまいなし。おまけに地面に忘れ物まで落としている。
「ラケット、置いて行っちゃった……」
「……どうしたんだ、アイツ」
「様子がおかしかったですね。私ちょっと、話してきます!」
 脚には自信があるし、追いつけないこともないだろう。前に計った時は短距離はだいたい互角だったが、長距離はこちらに分があった。それに選抜合宿に来てからだいぶ鍛えられたし、とラケットを持って走り出す。
 はたしてさして時間もかからずに小鷹に追いつくことができた。というか小鷹が全力で走っていなかったせいもあるのだろうが、とにかくがっしと腕をつかんで声をかける。
「待って、那美ちゃん!」
「…………」
 小鷹はこちらを見ようとしない。どうしたんだろう、と訝りながらも笑顔でちょっとおどけつつラケットを差し出してみせる。
「えへっ、脚の速さは私の方が上みたいだね。はい、ラケット、落としたよ。ダメじゃない、大事なものなのに」
「……ありがとう」
「どうしたの? 急に走ったりして……。海堂先輩もビックリしてたよ?」
「……だって私がいたら邪魔でしょう?」
「? ? ? ? ? 邪魔なわけないじゃない。一緒に練習しようよ」
「……モエりん、全然わかってないんだね」
「なんのこと? 言いたいことがあるなら言ってよ」
 巴は小鷹がなにを言いたいのかさっぱりわかっていなかった。ので小鷹が微妙に視線を逸らしながら、頬を赤らめながら告げた言葉に、目が飛び出そうになるほど仰天した。
「あのね、私……海堂先輩のこと、好きなんだ」
「……へ? 好きって……?」
「……先輩として以上に、好きなの」
 先輩として以上。センパイトシテイジョウ? に好き。すき。スキ………。
 それってつまり、もしかしてあの小学校の頃から女子の友達の間で何度も話は聞いている、レンアイカンジョウ≠ニいうやつではないか?
(え、え゛え゛えぇぇえぇぇぇ―――っ!!)
 巴は叫び出しそうになるのを必死で堪えた。正直思いっきりうろたえ騒ぎたい気分ではあったが、小鷹の様子は切なげで恥ずかしそうで、大声を出したら壊れてしまいそうで、とてもそんなことができる雰囲気ではない。
「……あなたは? 海堂先輩のことどう思ってるの?」
 わずかに涙で潤んだ瞳でそっとすくい上げるように見られ、巴は思わずどきりとした。きれいだ、と思った。女の子の涙を見るのが初めてというほどウブではないが、これまで見た涙の中でたぶん一番、目の前の小鷹の涙は、潤んだ瞳はきれいだ。
 一瞬見惚れてから、いやいやそんな場合じゃないでしょ! と自分を叱咤し、ぶるぶるぶると首を振って答える。
「あくまで同じ部活の先輩だよ! それ以外は特になにも思ってないし!」
「……本当に?」
「こんな時にウソなんてつかないよ!」
 そうこくこくうなずきながら言うと、小鷹はあからさまにほっとした顔で、頬を赤くして微笑んだ。
「そ、そうだよね。ただの先輩なんだ。……よかった。私、勘違いしちゃって。あなたも海堂先輩が好きなのかなって……。あっ! あの、このことは先輩には言わないでね?」
 一転して普段のような、いや普段よりも女の子らしい可愛らしい顔でわたわたと慌てる小鷹に、ほっと安堵の息をついて微笑みかける。
「わかってる。誰にも言わないから安心してね」
「それじゃ……私、自主トレに行ってくるね。そのつもりで出てきたんだし」
「私は部屋に戻るね。じゃあ、頑張ってね!」
 手を振って別れ、歩くこと数歩。巴は足を止め、はーっ、と深く息をついた。
 好き。小鷹が、海堂のことを。
 言われてみればそうなのかなぁ、と思い当たるところは多々あるが、言われるまで全然気付かなかった。考えたこともなかった。小鷹が海堂を好きだなんて。あんな顔をするくらい、好きだなんて。
 これまでは、恋愛というのは巴の人生に深く関わってくるものではなかった。そりゃ小坂田はリョーマのことを好きだ好きだ言っているが、あれはそう言って騒ぐことが楽しいから言っているような気がするし。
 竜崎もリョーマが好きなんだろうなー、とは思うのだが、なんというかその好き≠ヘこれまでの巴の人生の中に当たり前にある範囲だった。小学校の頃にも何人かに相談されたような、『その人のことを思うと胸がドキドキしてキュンとなる』という、女の子の初恋レベルの。
 だけど小鷹の好き≠ヘ、そういうのとは違う気がした。ふわふわした、恋することが楽しいとかいうのではなく、苦しいとか悲しいとか切ないとかそういう気持ちを山ほど味わいながらも、それでも気持ちを捨てられないとでもいうような、鳥取と試合したときに感じた業≠ノも似た深いなにかを感じた。
 言ってみれば大人の……とまで言っていいのかどうかはわからないが、恋愛≠ニいう感じがしたのだ。それこそ本に書いてあるような。
 そんな大したものを小鷹が抱え込んでいるなどまるで予想外で、そんな気持ちを抱きながら小鷹が自分と食事したりお喋りしたり練習したりしてたのかと思うと、うわあぁぁぁ……ととてつもないものを見たかのような気分になってしまう。
 そんな気持ち持ってる子がこんなに身近にいたんだなぁ、すごすぎる、と思いながら歩き出そうとして、人影に気付き巴は思わず身を引いた。
「ひゃっ!」
「…………」
 人影は声を出さない。だが月明かりがさっと差して、そこに立っているのが顔を真っ赤にした海堂だ、とわかって巴は仰天した。
「……か、海堂先輩!? いたんですか! …………い、いつから?」
 海堂は答えずに、きっと中空を睨みつけている。顔は真っ赤。これは、どう見ても。
「か、海堂先輩? いまの、ひょっとして……」
「………………あ……ああ」
「あは、ははは……。聞いちゃったんですか……」
 どうしよう。めっちゃくちゃに、気まずい。
「あ、あはは……。あのっ、そのっ……失礼します!」
 他にどうしようもなく、巴は頭を下げるとその場からダッシュで逃げた。どうしようどうしよう、と頭の中はぐるぐる回っている。
 小鷹になんて言えばいいんだろう、海堂先輩にこれからどう接すればいいんだろう。ていうか二人とどんな顔して会えばいいかわからない。ああもうどうしようどうしよう〜、と頭をぐるぐるさせながら走った。
 恋愛なんて本当に、まだまだ遠い世界の話だと思ってたのに。

 全力でしばらく走ってから、巴はゆっくりと足を緩め、止めた。まだ心臓がバクバク言っているのは、たぶん走ったせいではない。
 とにかく落ち着こう、と自分に言い聞かせた。もう少し散歩して、頭をクールダウンさせればきっと落ち着く。
 大きく呼吸しながらてろてろと歩き、ふと気付いた。この先のインドアテニス場から、音がする。
 まだ誰か練習してるのかな? となんとなく気になったので、行ってみることにした。きっと気分を少しでもスッキリさせてくれるものがあるに違いない。
 そう期待して足早に歩を進め、中に入って思わず目を見開いた。
「うわ……す、すごい」
 意識しないままにそんな声が漏れる。中のコートで打ち合っているのは樺地と鳥取。お互いまるで試合のような迫力だ。そしてそれをコートの脇で、氷帝軍団が勢揃いして観戦している。見ているだけで圧倒されそうな気がした。
 と、跡部がこちらに気がついたのだろうか、視線をコートに据えたまま手招きをした。来ていいってことかな、と判断し、周囲の人たちに頭を下げながら小走りに近づいて跡部の隣に立つ。と、試合の邪魔にならない程度の音量で跡部が口を開いた。
「巴か。なにしに来たんだ?」
「いえ、たまたま通りがかったんですけど……。すごい試合ですね」
「樺地のパワーを、鳥取も技術でよくさばいている。確かに観るに値する好ゲームだ」
「……あの、私見ててもいいんでしょうか?」
「フン……好きにしろ。別に見られて困る試合でもない」
「じゃあ、観戦させていただきます」
 それからは試合観戦に集中した。
 実際、手に汗握る好勝負だった。樺地のパワー、スピード、テクニック、それらすべてが第一級の男子のものなのに、鳥取はそこから繰り出される桁違いに強烈なショットをしっかり拾い、打ち返す。
 自分よりはるかに背が低いのに、どうしてああも縦横無尽に動けるのだろう。しかもあの強烈なショットの勢いをどうやればあんなに見事に殺せるのだろう。その上それをあちらこちらのラインギリギリに打ち分ける、その技の冴ったらない。そもそもタフネスが普通じゃない、あれだけあっちこっちに走りながら息を乱した様子もないなんて、女子としては常識外れだ。
 すごい。やっぱり鳥取さんはすごい。そうドキドキしながら観戦することしばし、樺地の強烈なパッシング・ショットが鳥取の脇を抜き、試合は終わったようだった。
「……よし、そこまでだ。樺地、鳥取、上がれ。悪くない試合だったぜ」
「ウス」
「最後だし、勝つつもりだったんだけど……やっぱり、樺地くんには敵わなかったな」
 そんなことを言いながら握手を終えコート脇に戻ってくる鳥取に、忍足が笑った。
「なに言うてんねん。樺地を相手にあれだけやれる女子がお前の他におる訳ないやろ」
 笑顔での言葉に(今のところそれが事実だからこそ)巴はわずかにムッとしたが、続けての言葉に目を瞠った。
「転校先でも、女子のエースの座は、間違いないわ」
「えっ……転校!? 転校ってもしかして……。鳥取さん、どういうこと!?」
 思わず大声を出して、あ、まずいかも、と思いはしたがもう止められなかった。あからさまにしまった! という顔をする忍足や馬鹿! と言いたそうな向日の間をすり抜けて、鳥取の前に立つ。
 鳥取は困ったような顔をしたが、ゆっくりと口を開き答えた。
「……ごめんなさい、黙ってて。私……四月から、転校するんだ。関東大会での、肘の故障で、私には特待生の資格はもう、なくなってたから……。榊先生と跡部さんの計らいで、なんとか、学年度末までいられたけどね」
「そ、そんな! 肘の怪我は、もう完治してるんでしょ!? だったら、氷帝にいればいいじゃない! 特待生が無理なら……奨学生とか、なにかあるでしょ!?」
「…………」
「怪我を甘く見るなよ。一旦治ったと思っても、再発することもある。ケアを万全にするためには、どうすればいいか、お前も医者の娘ならわかるだろうが」
 跡部が重々しく告げた言葉に、はっと気付く。
「えっ? じゃあ、転校先って、もしかして、お父さんが……」
「名古屋の学校、紹介してくれたの。赤月さんのお父さんの診療所にも、通える距離よ」
「そうなんだ! ひどいよ、鳥取さんもお父さんも、なにも教えてくれないんだもん!」
「ごめんね。赤月さんとは、勝負だけに集中したかったから」
「鳥取さん……」
 笑顔で言う鳥取を、たまらなくなって泣きそうな顔で見つめる。鳥取はにこっ、と気迫のこもった笑顔で続けた。
「Jr.選抜が、氷帝学園テニス部の鳥取ナヲミとして、最後の試合。悔いのないよう、精一杯戦うつもりだよ!」
「うん……! 頑張ろう、鳥取さん!」
 深々とうなずいて、それからこれだけは、と想いを込めて言う。
「あのね、鳥取さん。私、鳥取さんと試合ができて、すごくよかったと思ってるから。すごく感謝してる……本当に、ありがとう」
「やだ、なに言ってるの? 私だって赤月さんと試合ができてすごく楽しかったんだから。それに、これで終わりじゃないよ。名古屋の学校に行っても、まだ戦う機会はきっとあるから!」
「うん……!」
 がっし、としっかり握手して、巴はこくこくとうなずいた。本当に、本当に感謝してるんだよ、鳥取さん、と口にはできない言葉を心の中で続ける。
 自分がアスリート失格なことを思い知らせてくれて。自分の基本を、理想を自覚するきっかけをくれて。すごい<eニスがしたい、そう思うきっかけをくれて。
 部屋に一緒に戻る途中、鳥取といろんな話をした。転校先の出した条件は選抜での女子シングルスの優勝、もしくは準優勝。ミクスドには出ない、つまりもう巴とは選抜では戦う機会がないということになる。
 でも、これで終わりじゃない。そう自分に言い聞かせた。選抜で自分たちのテニスが終わるわけじゃないんだから。それからが始まりなんだから。
 寂しい、と思う気持ちは、消し去れなかったけれど。

「そろそろ消灯時間ですね。電気、消しましょうか」
「あっ、ちょっと待って! 赤月さんに見せたい物があるの」
 杏が笑顔で言った言葉に、巴は首を傾げた。
「私に? なんですか?」
「ほら、これ!」
 差し出されたものを観察し、思わず声を上げる。
「手のひらサイズのぬいぐるみ? ……ああ〜! めーたん!?」
 実際そのぬいぐるみはめーたんそっくりそのままだった。手のひらサイズということ以外はほぼ完全に。
「わあ、色までまったく同じだね。めーたんをそのまま小さくしたみたい」
「このぬいぐるみ、どこで見つけてきたの?」
「今日、買出しを頼まれて街まで行ったんだけど。ちょっと寄り道した雑貨屋さんに、この子がいたの。一目見て、もうびっくりして! 思わず買ってきちゃった。赤月さんにあげるわ」
 笑顔と同時に告げられた言葉に、思わずぱぁっと心に花が咲く。
「えっ、いいんですかぁ!?」
「ええ。そのつもりだったしそんなに喜んでくれてるしね」
「ありがとうございます! じゃ、この子は今日からぷちめーたん、です!」
「きっと、離れ離れになってためーたんのお友達なんだよ。出会えてよかったね」
「見て見て、並べてみたらなんだかめーたんも喜んでる感じしない?」
「うん!」
「こんなことではしゃいじゃって。あなたって本当に小さな子供みたいねぇ。でもまぁ、赤月さんが楽しいなら、いいか」
 早川が珍しく穏やかに笑っているのも嬉しい。幸せな気分でぷちめーたんを見つめ、じっとこちらを見つめている原に気付いた。
「あれ、原さん……? 顔が赤いですけどどうかしたんですか?」
「……かわいい。すごく、かわいい」
 ぼそり、とこちらの言葉に気付いているのかも怪しい、熱に浮かされたような顔で言う原。じっとぷちめーたんを見つめる熱っぽい瞳に、巴はよし、と覚悟を決めた。
「それじゃ、このぷちめーたんは原さんにあげます! いいですよね、杏さん」
「あなたがいいのなら私は構わないわ」
「えっ!? 私、そんなつもりじゃ……。それに、またこの子たちが離れ離れになってしまうわよ?」
 仰天した顔で可愛いことを言ってくる原に、巴はにっこり笑顔で答える。実際なんだか嬉しい気分だった。
「いいんです。原さんのところにいるってわかっていれば、離れ離れでも寂しくないですよ」
 はい、と差し出すと、原はぎこちないながらも、確かに嬉しそうな笑顔を浮かべてそっとぷちめーたんを受け取る。
「……わかった。大切にするわね。橘さんもありがとう」
「うん。可愛がってあげてね」
 嬉しいな、と巴は微笑んだ。原にしてみれば自分はライバルだし、真田という誰よりも敬愛する存在の邪魔になる敵でしかないのかもしれない。
 でも、こんな風に嬉しい≠ニか楽しい≠共有する関係になれる。原がそういう人間だということも、そういう関係になれたこと自体も、ひどく嬉しかった。
 那美と海堂のこととか、原と真田のこととか(原の気持ちは最初は気付かなかったが小鷹の気持ちに似た感じがあると思う)、ついつい考えてしまうことはいろいろあるにしろ。こうして人と仲のいい関係を結べたというのは、すごく嬉しい。
「あ、いけない。消灯時間過ぎちゃったかも。さあ、寝ましょう」
『おやすみなさーい』
 それぞれに布団に入って眠りにつく。巴は布団にはいるや、ことん、と眠りに落ちて朝まで目覚めなかった。
 見た夢は、忍者のリョーマと隼人と出会い、お互いに力を合わせて旅をする夢だった。

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