風の塔からムーンペタに戻ってきた僕たちは、その日は宿に泊まったんだけど。その前にロレたちに了解を得て、僕は貿易商ギルドに向かった。 西ウーラ大陸に向かう隊商に、護衛として雇ってもらえないか交渉するためだ。 西ウーラ大陸に出てすぐに、大きな砂漠がある。水が手に入れにくく、体力を大量に消費する砂漠を少人数の素人の装備で越えるのは、少なくとも今のマリアでは無理だ。 できるならラクダかなにか乗り物を借りたいし、そのあてや水の準備やなんやかやもつてがあった方がずっとやりやすい。そんなわけで砂漠を越える隊商に護衛として雇ってもらうことを、風の塔へ向かう前から考えていた。 水と食事を分けてもらえれば報酬はいらない、という条件に惹かれたというかほだされてくれて、明後日出発する隊商の責任者の人がじゃあ一緒に連れていってあげよう、と言ってくれた。なんか僕の体を嘗め回すように見てたから、もしかしたらそういう意図で言ってきたのかもしれないけど。 別にかまわなかった。僕の方に引きつけておけば、マリアに手出しはしないだろう。とりあえず今心配なのは、マリアのことだったから。 宿に帰ってそのことを話すと、ロレはふーん、とどうでもよさそうな声で言い、マリアは話の進みの早さに目を丸くした。 「ま、マリアの体力で砂漠越えできるわきゃねーからな。いい話見つけてきたじゃねーか」 「決めつけないで。私はそんなにやわじゃないわ」 「やわだろうが。この五週間の旅でもうヘロヘロになってんだろ? そんな奴が偉そうな口叩くなっつの」 「…………! 私は………!」 泣きそうな顔でマリアはロレを睨むけど、ロレは平然とした顔で笑ってみせる。 「これまでろくに外を歩いてなかった奴が旅しようってんだ、無理したって続かねぇし意味がねぇ。ちょっとずつ鍛えていきゃあいいんだよ、馬鹿」 「……っあなたに馬鹿とは言われたくないって何度言ったらわかるの!?」 また喧嘩を始めたロレとマリアをまぁまぁとなだめながら、僕は胸の痛みに耐えていた。 ロレはやっぱりすごくマリアを大切にしてる。ロレはマリアに対してだけ、少しだけ気を遣ってるんだ。普段のロレはどんな人間にも気を遣ったりはしないのに(それでも人を傷つけることはめったにないのだけど)。 それを見るとやっぱり少し、ううん実を言うとかなり胸は痛む――でも、今はそれに耐えることができる。 ロレが、僕を、たとえマリアには遠く及ばないにしても、仲間として必要としてくれているって確信できたから。 隊商との旅は和やかだった。少なくとも初めのうちは。 よろしくお願いしますと頭を下げた僕たちを隊商の人たち(と、護衛の人たち)は可愛がってくれた。僕たちが若いからっていうのもあったろうけど、それ以上に容姿が保護欲をそそるからっていうのもあったと思う。事実ロレは(初対面の時相手の人をぎろりと睨んだのがよくなかったのか)こき使われていたし。 一方僕とマリアはほとんどお客様扱いされていた。まあ護衛の報酬が水と食事だけっていうんだから当たり前なのかな。僕たちは外見はとても戦えるようには見えないだろうし(ロレと違って)。 馬車で僕とマリアを運んでくれるっていうありがたい申し出もあったんだけど、僕たちはそれを断った。すぐにでも戦いに飛び出せるところにいないと護衛の役が果たせないし、マリアは歩くのに慣れなくちゃならないし。 でもマリアはもう歩くの無理だな、と僕が思ったら馬車に乗せてもらったけどね。 予想通り、魔物はほとんど出なかった。せいぜいが一日に一団体出るかどうか。 僕たちだけで旅をしてる時は三十分か一時間、出る時には十分間隔で一団体出てきたのとは雲泥の差だ。 まぁこれはルビスさまが僕たち以外の人間を危険にさらさないようにしてるんだろう。アレフの時もしばらく他人と一緒に旅をした時は魔物がほとんど出なかったっていうから。予測が間違ってなくてよかった。 ――最初に出てきた魔物はドラゴンフライの大群だった。 「ドラゴンフライの群れが出たぞーっ!」 護衛の一人が叫び、並んでのんびりと歩いていた馬車の連なりがにわかに緊張する。護衛の先導で避難しようとする彼らを尻目に、僕たちは声のした方へ飛び出した。 十匹近いドラゴンフライの群れがこちらに向かって飛んでくる。それぞれ武器を構える護衛の人たち。僕たちもむろん武器を構える。 だけど一番早く動いたのはマリアだった。ムーンペタで買った魔力もなにもない檜の杖を振りかざし、呪文を唱える。 『風、そは鋭き白刃、怒れる死神の大鎌、敵を滅するものにて。精霊よ我が声に従え。吹き抜けよ風、荒れ狂え疾風、彼方に見ゆる我が敵に向かいて打ち倒すべし。斬り裂け!』 その呪文ひとつで、ドラゴンフライは全部瞬時に見事にズタズタになった。まだ距離が百mはあったのに。遠距離版詠唱も完璧だ。 いつもながら見事な呪文だ、と僕とロレは武器を収めたんだけど、護衛の人たちはそう簡単にはいかなかったみたい。驚愕の表情でドラゴンフライとマリアを見比べて、一人がおずおずと聞いてきた。 「あ、あのな、お嬢ちゃん。あのドラゴンフライどもを倒した呪文を唱えたのは……アンタか?」 「ええ」 マリアは素っ気なく答える。きっと自分のしたことを評価されるのが恥ずかしいんだろう。それにマリアは人見知りが激しくて、会ったばかりの人間にはまず警戒と拒否で相対する。 だけど護衛の人たちはそんな態度などものともせず、一瞬顔を見合わせてからわっとマリアに押し寄せた。 「ちょ……きゃ!」 「すっげぇなあんた! あんな強力な呪文の使い手初めて見た!」 「魔術師連合は魔術師を外に出さないからよう、まともな魔術師って見たことなくてよう。本当は魔術師って弱いんじゃねぇの? って思ってたんだが」 「あんたみたいな綺麗な女の子があんな呪文使えるなんて思わなかったぜ! すげぇ、すげぇよあんた!」 「こら、てめぇら大の男が女取り囲んで喚くんじゃねぇ!」 ロレが護衛の男たちとマリアの間に割り込んでマリアを庇う。マリアは怯えた表情を浮かべながらロレの背中に隠れた。……虚勢を張る余裕もないんだな。 護衛たちは上品とは言い難い笑みを浮かべて野次を飛ばす。 「なんでぇ、一緒に旅してるからってそんな可愛い子を独り占めすんじゃねぇよ、小僧」 「阿呆か。こいつは人間だぞ、全員で仲良く分けるもんじゃねぇだろ」 「お前はこれからも一緒に旅ができるんだろうが。こんな時ぐらい分けろ!」 「そうだそうだ! 美人は世界の財産だぞ! 俺たちにもおこぼれくれたっていいじゃねぇかよ!」 「タコ! こいつが怖がってるだろっつってんだよ」 ぎろりと睨み回されて、その迫力に護衛の男たちはう、と勢いを減じた。それでも一人の男が必死に言う。 「け、けどよぉ、お前別にその子とできてるってわけでもねぇんだろ?」 「………ああ」 その微妙な間にまた僕の心臓は少し痛んだけど、男は当然間などに気づかずその答えに勢いを得て言い募る。 「じゃあよう! そんなにムキになるこたないだろ、俺たちと話すも話さないもその子に選ばせろよ!」 それは確かに一理はある言葉だった。が、ロレはぎろりとその男を睨み、きっぱりこう言ったのだ。 「確かにこいつは俺のもんじゃねぇけどな。こいつは俺が守るって決めてんだよ」 不敵な顔で、にやりと笑いながら、自信たっぷりに誇らしげに言われたそれは――― ある意味睦言よりもずっと上等な愛の言葉のように、僕には思えた。 それからも当然旅は続いた。街道を通りながら通る町々で商売をするので、進みは遅かったけれど。 たまに出てくる魔物たちはあっという間にマリア(とロレ)が蹴散らしてしまうので、僕は護衛の役をほとんど果たせていなかった。それには隊商の責任者の人が話し相手になってくれと僕を真ん中の馬車の横に歩かせていたっていうせいもおおいにあると思うんだけど、それでも雇われた仕事を果たせてないのは確かなので護衛の人たちやロレと一緒に人足代わりの仕事も頑張った。 そういう時、僕はなぜか方々の人から手伝いを申し入れられる。きっとよっぽど頼りなく思われてるんだなぁ。まあ僕の容姿じゃ無理もないけど。 「持ってやるよ」 「いえ、大丈夫ですよ自分で持てますから」 「なに言ってんだそんな細い腕して。ほれ貸してみろ」 「あ……」 「………っ!」 僕の荷物を奪い取ったとたん、その男の人はしばし絶句する。 「……お前、これ一人で持って歩いてたのか?」 「はい……」 僕はレベルが上がってるから見かけよりずっと力が強いんだよね。普通の成人男性よりはたぶんずっと力が強いと思う。 持ったはいいけど歩けず下ろすのも多分プライドが邪魔してできず、と固まっているその人に、ひょいと横から手が差し伸べられた。 「なにとろとろやってんだ、とっとと運べ」 「ロレ!」 僕を手伝ってくれるんだ、と嬉しくなって僕は笑う。ロレはふんと鼻を鳴らしてそれに応えてくれた。 ロレは僕が両手で持っていた荷物を軽々と片手で運ぶ。その逞しさ、力強さに思わずうっとりした視線を向けながら、僕は新しい荷物を運ぶために馬車の方に戻る。 うん、平気、大丈夫。たとえロレがマリアを僕よりずっとずっと大事に思っていたとしても平気。 だって、ロレはちゃんと、僕のことも大事に思ってくれているって思えるから。 二週間旅をして、砂漠に入ると、当然のことながら体力の消耗は今までよりはるかに激しくなった。 昼は暑く、夜は寒い。単純な熱や寒さは呪文でなんとかできるにしろ(ヒャドチルとメライルっていう弱冷気弱暖気の呪文があるんだ)、なにせ暦の上でさえようやく秋になるならずという時期のこと、照りつける日差しは激しく、厳しかった。 僕だってけっこう疲れたんだから、マリアはきっとそれ以上だったろう。息も絶え絶えという調子でそれでも歩こうとするマリアに、僕は医師として制止をかけた。 隊商の人たちは僕の願いをあっさり聞き入れ(そりゃそうだ護衛として一番役に立ってるのはマリアなんだから)、マリアはラクダで運んでもらうことになったんだけど、それでもマリアは辛いみたいで、苦しそうな顔をしてるのを何度も見かけた。 僕は疲れが取れるような料理を作ったり(料理はもうだいぶ前から僕の担当になっていた)、ゆっくり休めるよう細々と面倒を見たりはしたんだけど、それでもマリアの体には辛いみたいで。 早く砂漠を越えられないかな、と思いつつ頑張って歩いていたある日の夕方、僕は隊商の責任者の人に呼び出された。 「なんのご用ですか?」 「うん? ああ、まあもう少しこっちへ来なさい」 魔物との関係もあって、砂漠で旅する人間は夕方になる前に休み、まだ夜が明ける前から起き出して行動する。もうすでにぴっちりと張られたテントの中、僕は呼ばれるままに責任者の人の方へと近寄った。 「君はまだ若いのに頑張るねぇ。無理せず私を頼っていいんだよ?」 などと言いつつ責任者の人は僕の手を握ってきた。そしてそのままさわさわと撫でさする。 「はぁ……」 僕は内心やっぱりな、と思っていた。いつ仕掛けてくるかと思ってたけど、砂漠でとはね。そりゃ隊商の人たちを除けば人はいないけど。 「この隊の中で私の思い通りにならないことは何一つない。そう、何一つね。この意味がわかるね? 君は賢い子だからね」 こんな隊一つのことでそんなに威張られても……とは思うが、言いたいことはわかる。つまり逆らうと水や食糧の供給をやめるぞ、という脅しだろう。 まぁ、効果のある脅しだ。こんな砂漠の中で放り出されちゃ僕らはともかくマリアの命に関わる。ルーラで砂漠の入り口の街まで戻るという手はあるんだけど、ここまで来ておきながら戻るっていうのはやっぱり面白くない。マリアの体力も心配だし。 あ、だからこの人は砂漠で襲うことにしたのか。けっこう考えてるんだな。 「美しい指だ……こんな綺麗な肌は見たことがない……」 うっとりと呟いて僕の手にすりすりとほおずりをする。ひげの感触が少し指に痛かった。 僕が黙って動かないでいると責任者の人は僕を抱き寄せて、ゆっくりと押し倒した。 「大丈夫、怖くないからね……私がたっぷり可愛がってあげる……」 僕は押し倒されながら、まぁ、しょうがないかな、と思っていた。水と食糧は絶対に必要なんだ、マリアの体力を保たせるためにも。そのためなら一回襲われるぐらいなんでもない。 さわ、と内股を触られる。背筋にぞっと悪寒が走ったけど、僕は気にしないよう努めた。マリアが無事に砂漠を越えるためなら、これぐらいなんでもない。 だって、ロレが。僕の世界で一番大好きな人がマリアをすごく気にかけてるんだもの。 だから僕もマリアを守る、世話を焼く、彼女に尽くす。そうしてロレが少しでも喜んでくれるなら、僕はなんでもする。 ――そのためならロレ以外の人にだって、抱かれるんだ。 僕はびくんと震えた。今、僕、なにを考えた? 責任者の人の舌が僕の耳朶を舐める。気持ち悪い。気色悪い。 僕は、これがロレだったらって思ってるんだろうか? かぁっと、体が燃えた。罪悪感じゃなく――興奮で。 ロレ。ロレがもし、僕のことを抱いてもいいって思ってくれたら。 責任者の人の興奮した瞳。僕だけを映した瞳。これが――ロレだったら。 ロレがほんの一瞬でも、僕を、僕だけを見てくれたら――― 責任者の人の唇が、ゆっくりと僕の唇に近づき―― 「おい、おま――」 「やだ――――っ!」 どむっ! と僕は思いきり責任者の人の腹を蹴った。責任者の人が文字通り吹っ飛ぶ。 やだ、やだ、絶対やだ。ロレと出会う前なら一回や二回病気を移されなければどうってことなかった、どうでもよかった、けど今は。 僕に触れるのは、ロレじゃなくちゃいやなんだ。 それがわかってしまって、しばしはぁはぁと荒い息をついてから、はっとして責任者の人に駆け寄った。今の僕の力で本気で蹴ったら、普通の人間は生きていられるだろうか。 脈と呼吸と瞳孔を確認する。とりあえずまだ死んではいなかった。僕はほっとしてベホイミを唱える。 脈と呼吸が落ち着いてきたのを確認してから、僕はほっと息をつき顔を上げて――仰天した。 ロレがテントの入り口に立って、決まり悪そうにこちらを見ていたからだ。 「ロ………レ」 「………おう」 ぶすっと言って頬をわずかに掻くロレ。僕はカッと顔が熱くなるのを感じた。 僕のロレに対する、あの瞬間のどうしようもなく浅ましい想いを、見透かされたような気がして。 ロレは一瞬目を見開いて、顔をますますぶすっとさせ、ぶっきらぼうに言った。 「お前、どうして最初から抵抗しなかったんだよ」 「……え?」 「お前ならこんな奴一撃だろ?」 僕は一瞬ぼうっとしてから、ようやくロレは責任者の人に襲われたことを言ってるんだ、と気がついた。 「……抵抗したら水や食糧が分けてもらえなくなるかもしれないと思って……」 正直に答えると、ロレはぐいっと眉を吊り上げて怒鳴る。 「本気で言ってんのかてめぇ!?」 「え……だって、砂漠のど真ん中で水や食糧を分けてもらえなくなったら、ロレもマリアも困るでしょ? 少なくともマリアの体力は保たないと思うし……」 そう言うと、ロレはぐっと奥歯を噛み締めてから、はーっとため息をついた。それからすたすたと僕に近寄ると、ゴイン! と普段より強く僕の頭を殴った。 「いったーい!」 「阿呆。んなことでてめぇの貞操散らしてどーすんだよ。貞操と引き換えに水と食糧もらいましたっつって喜べると思うのか、あのお堅い女が。水だろうが食糧だろうがてめぇが犯されるぐらいなら少しもいらねぇって言うだろうぜ、マリアならな」 「…………」 僕はじっとロレを見つめた。ロレが眉をひそめる。 「なんだよ」 「ロレは?」 「は?」 「ロレは、僕の貞操が散らされて水と食糧をもらうのと、僕の貞操が無事で水も食糧ももらえなくなるのと、どっちを選ぶ?」 ロレは呆れ果てたという顔をしてから、むすっと一言言った。 「馬鹿にしてんのか?」 「……水と食糧?」 がつん、とロレはまた僕を殴る。 「いったー!」 「阿呆! お前俺を舐めてんのか!」 「だってー」 ロレはマリアを大切にしてるから、そうなんじゃないかなって。 僕が泣きそうな顔で見上げると、ロレはばりばりと頭を掻いて、それから苛立たしげに言った。 「仲間の貞操と引き換えにもらうメシなんぞまずくて食えるか」 「…………」 僕はぶわーっと心の中から湧き上がる衝動のままに、ロレに抱きついた。 「ロレ! ロレロレロレ、ロレ!」 「だぁっ! ひっつくな鬱陶しい!」 また殴られたり蹴られたしたけど、かまわなかった。 ロレが僕のことを大切に思ってくれている。命だけじゃなく貞操も。僕の気持ちを大切にしてくれる。 それが、僕は泣きたくなるくらい嬉しかったんだ。 その後の旅程は結局つつがなく進んだ。ロレの脅しと僕の説得が効いたのか、責任者の人はきちんと水と食糧を分け続けてくれた。 砂漠を越えて、草原を抜け、ドラゴンの角とその下の街ドラゴーマへムーンペタから一ヶ月かけて到着。隊商の人たちと別れ、宿に泊まり―― 明日、ドラゴンの角に挑む。 |