「ロトの剣は剣にして剣にあらず、力にして力にあらず。――どういうことかわかるか?」 ディリィさんは真面目な顔でそう言った。 「わかるか、んなもん」 「……それはもしかして、精霊の依り代、ということ?」 マリアの問いに、うむと嬉しげにうなずく。 「その通り。ロトの剣の本性は精霊に代表される、この世界の、そして神の力の依り代なのじゃ。他のロトの武具もそういう面はあるが、オリハルコンは意思に反応してその在りようを変える金属、特にその傾向が強い」 「わけわかんねーっての。だからなんなんだよ?」 「普通に振り回しているだけでは、ロトの剣の真の力は引き出せぬ、ということさ。まぁ普通に使っておるだけでも並みの剣よりは鋭いがな」 「へ……? おい、待て。ロトの剣ってオリハルコンでできてる、世界で一番鋭い剣じゃなかったのか?」 「言ったであろう、オリハルコンは意思によってその在りようを変えると。ロトの剣は精霊暦で五百年、ロトの意思に従って混沌を封滅することに力を注いできた。普通の剣と同じような使われ方をするためには調整を変えねばならん」 「……えっと……よくわかんねーんだけど、ロトの剣の力を引き出すにはどうすりゃいいんだ?」 にっ、と笑うディリィさん。 「簡単じゃ。ロトの剣に向けて、精霊同調の儀を行えばよい」 「………なるほど」 「……あれを? 確かに儀の意味としては合っているけれど……」 「せいれ……? なんだそりゃ」 「精霊同調の儀。この世の万物は精霊の力によって成り立っているのは知っておろう? その儀式はな、物体と人間の体内の精霊力を同調させて、物体を自らの体の一部であるがごとく使えるようにする儀なのじゃよ。強力な魔法の品物などに使われるな」 「へぇ……んな便利なもんがあんのか。俺は知らなかったけどな」 「それは当然だと思うよ。精霊同調の儀って一見便利そうに思えるけど、精霊力を同調させるってことは、同調した物品の不調に人間の方が引きずられるってことでもあるんだよ。折れでもしたらそれこそ死にそうになるほどのダメージが人を襲う。清浄な場所で丸一日を潰してやらなくちゃならない、面倒な儀式だしね」 「うげぇ……」 ロレは顔をしかめた。 「んなことしてまでロトの剣使わなきゃなんねぇのか?」 「ロトの剣の力の説明をもう一度せねばならんのか? ……まあ、普段からロトの剣を使おうとはせんでいい。ロトの剣はあくまで最後の切り札じゃ。力を復活させておき、いざという時だけ使え」 「いざという時ねぇ……」 「千五百年前に鍛えられた剣とはいえ、オリハルコンの剣じゃ。折るにはとてつもない力が必要じゃろうし、そなたの心が折れなければまず折れはせん。そこのところはまず安心してよいと思うぞ」 「……まぁ、いいけどよ。その儀ってのやりゃいいんだろ? やるならさっさとしようぜ。ロトの剣ってどこにあんだ?」 ぽこ。ディリィさんが杖で軽くロレの頭を叩いた。 「なにしやがる」 「たわけ。精霊同調の儀は清浄な場所で、というたであろ? ここは混沌のもっとも生じやすい場所じゃぞ。お主たちがここから旅立つ時に渡すゆえ、清浄な場所を選んで儀を行うがいい。――わしとしてはマイラの村辺りがお薦めじゃな」 「マイラ……温泉の村ですね。そして過去には妖精族が住処としていた場所でもある」 「さすが、博識じゃな。その通り、あそこはアレフガルドでも有数の清らかな精霊力が満ちる場所なのだ」 「……それで、そろそろ話は終わりか?」 「いや、このあとルビスの力の話を……」 「あーもー、んなもん明日でいいだろーが。俺はもー飽きた。それよりさっさと一勝負しろ」 「ほほう。そんなに早くわしに負かされたいのか?」 ディリィさんの言葉に、ロレは片眉を吊り上げた。 「舐めんな、クソが」 「ぶは!」 ロレがディリィさんの杖に一丈近く吹っ飛ばされた。そしてそのまま動かない。 気絶したのか、と立ち上がりかける僕を制して、ディリィさんはすたすたとロレに近寄り――とたんの瞬速の斬りつけを、杖を使って受けた。ロレがディリィさんが間合いに入るなり、飛び起きざまに斬りつけてきたのだ。 不意を討とうとしたのか、気づかなかった、と僕は感心したんだけど、ディリィさんはからかうような笑みを浮かべた。 「まぁ、少しでも頭を使ったのは褒めてやるが。腕がこうもお粗末では、わしから一本取ることはできぬよ」 「……んだとコラ。俺の腕がお粗末だってか?」 「粗末粗末。どういう修練を積んできたのか疑うのう。その程度の腕でこの先勝ち行けるか、はなはだ疑わしいわ」 「ざけんなよ……」 ぎりぎりと剣で杖を押しやる――かと思うと、とんでもなく苛烈な動きで剣をディリィさんの頭へと滑らせた。杖を滑り台にして、剣速を加速したんだ。 でもディリィさんははたから見てさえ目にも止まらぬほどの速さのそれをあっさり見切ったみたいで、杖を軽く動かして軽くはじき、杖を回転させてロレの頭に振り下ろした。 「ぐっ……」 一声呻いて、ロレはその場に倒れた。慌てて僕たちが立ち上がるより早く、ディリィさんは呪文を唱えた。短縮呪文だからなにかと思っていると、呪文が終わったとたんロレがぱっちりと目を開けたのでザメハ――覚醒呪文だとわかった。 「ロレー、大丈夫ー?」 「……たりめーだ。このくれぇで倒れてたまるか」 「思いきり倒れておったではないか」 「うるせぇっ! もう一回だ!」 ロレは距離を取ると、剣を構えた。 ――けれど、結局ほどなくしてロレはまたディリィさんに倒されてしまった。 本日の対戦結果、ロレの十戦十敗。 「もうひとつそなたたちに話さねばと思っていたことに、紋章の話がある」 「紋章? ……家系を表す、あれのこと……ではないのでしょうね」 「むろん。わしが話したいのは精霊ルビスの紋章じゃ」 「精霊ルビスの?」 ルビス神殿の紋章、というのは確かにあるけど――ディリィさんはそんな話をしたいのではないだろう。 なにが言いたいのか、と僕はディリィさんの話に神経を集中させる。 「精霊ルビスの紋章――それは世界の精霊力の結晶のことを言う」 「結晶?」 「うむ。精霊ルビスの世界に対する支配力が高まった時に生まれる精霊力の塊。一見ただの石にしか見えぬそれを、ルビスの紋章と称する。これを集め自らの内なる精霊力と同化させると――精霊ルビスの精神と、繋がりができるのじゃ」 「………はぁ?」 「それはつまり――ルビスさまと話すことができるということ!?」 「そうなるな」 「――どこでそんなもののことを知ったんですか?」 僕の口調からなにを読み取ったのか、ディリィさんはに、と口の端を吊り上げた。 「疑うか、サウマリルト?」 「僕はルビスさまに対する文献には全て目を通しているつもりですが、そんなもののことは一度も聞いたことがありませんから」 「ふむ。それはそうであろうの。わしもここの本以外で読んだことはない」 「……ここ?」 「竜王の城の文献よ」 「―――!」 そうか。 竜王は竜族。竜族は知識の集積を好む種族だ。 その上魔を統べる者。魔族やゾーマの残留思念から、様々な情報を引き出し集積したに違いない。 でも、だからって無条件に信頼することはできない。 「その文献の信頼度は?」 「確かじゃぞ。なにせわしが自分で確かめたからの」 「―――おい。マジか?」 「うむ」 「あなたは精霊神ルビスと――世界の造物主と出会ったというの!?」 「その通り。一度きりの短い逢瀬だったがの。百年ほど前のことになるが――その時のことはよく覚えておる」 「お前の頭がボケたんじゃねぇのか?」 「失礼な。――お主たちがこの先どこに行くつもりなのかは知らぬが。ロトの剣と同調を行ったのちは紋章を探すべきだと思うぞ。世界を滅ぼさんとする魔を統べる者が現れた以上、精霊ルビスはそなたたちに確実に助けを用意しているはずじゃ」 「……ならどーして今すぐその助けをくれねーんだよ?」 「たわけ。お主は蟻と話ができるか? たとえ言葉が通じたとしても会話が成り立つまいが。神と人というのはそれほど存在の次元が違う。ルビスの力の結晶を取り込み、ルビスと精神的連結ができた上で、きちんと時間と場所を整えて会わねば話などできるか。力の渡しようがないわ」 「ふーん……そういうもんか」 「のちほどわしが紋章を見つけた場所を表にして渡してやろう。紋章が出現する場所は決まっている、そこを詳しく調べれば必ずあるはずじゃ」 そんな風な言葉でディリィさんは話を終わらせた。 「見物しながら本を読んで、集中できるのか?」 ロレの苛烈な猛攻を受け流しながらそんなことを聞くディリィさんに、僕は本とロレとディリィさんを等分に観察できる視線の位置を変えないまま、答えた。 「できますよ」 「なんの本を読んでおるのだ?」 「今読んでいるのは『魔的真説研究』。次は『魔的概念と精霊力各論』にするつもりですけど」 「ほほう、もうそんなところまで。さすがだの」 「あなたに言われると複雑な気分になりますね」 僕としてはロレを見守る時も本を読もうとしてるのは、初めて会った僕よりも明らかに知的水準が高い相手であるこの人に向けた対抗心というのが大きいのだから。 「てめぇっ、俺相手しながら余裕ぶっこいてくっちゃべってんじゃねぇっ!」 吠えたロレが、手加減抜きの一撃を放つ――が、ディリィさんはそれをあっさりかわして、ロレの頭に一撃を叩き込んだ。 「……ぐ……」 ロレはぱったりと気を失う。ディリィさんの攻撃には無駄がないなぁと思いつつ、僕は本を読み進めた。 本日の対戦結果、ロレの八戦八敗。 「いざや炎の精霊よ我が手に集え! 炎熱、そは敵を薙ぎ払う矛にして命奪う剣! 精霊よ力を示せ、世界は燃焼するものなり、我が前に居並ぶ敵をみな全て、その真なる力をもちて焼き払え!=v ベギラマの呪文がドラゴンフライの大群を焼き払う。強烈な炎をどんどん吹いてくる竜族の力の欠片を受け継ぎし蜻蛉たちは、あっさりと消し炭になって地面に落ちた。 ヒュー、とロレが口笛を吹く。 「やるじゃねぇか。マリアもそうだけど、お前らの呪文どんどん強力になってきてねぇか?」 「私たちだってあなたが剣の稽古をしている間、遊んでいるわけではないのよ」 「僕たちディリィさんに呪文や呪法の講習を受けてるんだよ。それにここの蔵書は呪文研究にはうってつけだし」 そう言うとロレはとたんに不機嫌な顔になった。 「……どうしたの?」 「べっつに! なんでもねーよ!」 口ではそういうけど顔があからさまに『面白くねー』と言っている。 ……これって、僕たちに対する独占欲とディリィさんへの対抗心、どっちが比重重いんだろう。 「心配しなくても、僕たち別に講習受けたからってディリィさんの方の応援したりしないよ?」 「阿呆! んなこと心配してんじゃねぇっ!」 「……じゃあ……僕たちちゃんとロレの方がカッコいいと思ってるよ?」 「そーいう心配でもねぇっつーの! 本気で阿呆かてめぇは!」 「えー、でもロレレベル上げのせいもあってどんどん強くなってるし、どの修行もすごく頑張ってると思うけどな?」 「だからな……あーもういいっ!」 ロレは顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。怒らせちゃったかなぁ、と心配になりつつロレを見ていると、ふいにその眼がきっと鋭くなった。 「……来たぜ」 僕たちも一瞬遅れて気配を察知し、武器を構え直した。敵が近づいている。 「今度はそんなに数は多くないみたいだね」 「ああ。お前らは休んでていいぜ」 「そういうわけにはいかないでしょう? 攻撃呪文を使わなくてもできることはいろいろあるのよ」 「言うじゃねぇか」 そう言って笑うロレの顔は、きりりと獰猛に引き締まっていて、ここに来てからのレベル上げと修行で、自身をより強く鍛え上げていることをうかがわせた。 「――行くぜ!」 ロレの声が僕たちの体に染み通り――僕たちはロレのあとについて走り出した。 ちなみに本日の対戦結果、ロレの七戦七敗。 そんなこんなで、もう一週間もここに滞在していたりするんだけど。 「――いつまでもこうしているわけにはいかないでしょう」 マリアが書庫で、読んでいた本から顔を上げてそう言った。 「そう? 僕は今の生活、けっこう修行になってると思うけど?」 「勉強になるのは確かだけれど。私たちは強くなればいいというものではないわ。より強い武具を集めて、敵の情報を手に入れて。紋章を入手するという目的もできたのよ。そろそろ旅立つ時期だと思うわ」 「うーん、それはそうなんだけどね」 「なにか問題があるの?」 問題っていうか。 「ロレが、まだディリィさんから一本取ってないでしょ?」 そう言うと、マリアはうつむいて、本の脇に置かれた手をぎゅっと握り締めた。――怖がってる。 「ロレイスとゴーディリートの間には、力の差がありすぎるわ……一週間やそこら修行したところで、どうにかなるものじゃない」 「それはそうだけどね。取るのは一本でいいんだよ。真剣勝負で勝たなきゃならないわけじゃない。不可能ではない、と僕は思うけど?」 「そうかも、しれないけど………!」 マリアはばっと顔を上げて、そしてまたうつむく。その瞳は、わずかだけど潤んでいた。 ――その気持ちは、わかることはわかる。僕の中にも存在する気持ちだから。 「ロレが傷つくのが、怖い?」 マリアがまたばっと顔を上げる。驚いたように僕を見つめてから、そろそろと視線を落とした。 図星を指されて、反論をあきらめた時の仕草だ。 「……私は、ただ………無駄に傷を負っても意味はないと思っているだけよ。勝てない戦をしてもしょうがないって……」 「うん」 「どうせここでの戦いは訓練にすぎないのだから、意地を張ってもしょうがないでしょう? 別に勝たなくてはいけない戦いではないのだし。無意味な勝利にこだわるのは誇りとは呼べないわ、正直馬鹿みたいだと思う」 「そうかもね」 「……なのに――――。サウマリルト、正直に白状するわ。私、本当はロレイスに勝ってほしいと思ってる。無意味な戦いだけれど、それでもロレイスには負けてほしくないなんて考えてる」 「うん」 「でもロレイスがゴーディリートに立ち向かっていって傷つくのは、本当に嫌なの。ロレイスがぼろぼろになっていくのを見るのは怖い。殴られて痛めつけられるのを見ていると、心臓が止まりそうになる。普段の戦いはそんなこと感じている暇はないけれど、自分だけ安全なところで見ていると、怖くて怖くてたまらなく苦しくなってくる――」 「だからあの二人の戦いを見にこなくなったの?」 僕の言葉に、マリアはうなだれて、ゆっくりとうなずいた。 「サウマリルト……あなたは平気なの? ロレイスが殴られ、傷つけられても大丈夫なの?」 どこかすがるような声で訊ねられて、僕は小さく微笑んだ。 「平気じゃないよ」 ロレが傷つくのは嫌だ。いくら稽古みたいなものだっていったって、殴られるのを見ると理屈抜きで心臓がぎゅうってする。ロレを守ろうと飛び出していきたくなる―― 「でもね、これはロレが選んだことだから」 「……選んだ?」 「うん」 僕はうなずく。 「ロレが、自分で決めて選び取ったこと。僕は、それに従う。ロレがどんなに辛くて苦しくても、もちろん僕が辛くて苦しくても、ロレが決めたことにどこまでも従う」 「………なぜ………?」 問われて、僕は笑った。 「僕がロレを世界のなによりも信じているから――そして、ロレのことが誰よりも好きだから」 「…………」 「僕はロレを自分の全てを懸けて守るし、ロレの望むことはなんだって全力で叶える。僕はロレを好きなんだから、そうするのが僕にとっては当然なんだ。それと同じことで、今はロレは黙って見守ってほしいと思ってるから――僕はただ、黙って見守るんだよ」 「……そういう考え方は、ロレイスをあまりに甘やかすことになりはしない?」 マリアの言葉に、僕は微笑む。 「ロレは他人に甘やかされるような人間じゃないよ。他人に助けられようが助けられまいが、自分のしたいと思ったことはなんとしてもやり通す人間だ。だから、僕のやっていることはきっとロレには余計なお世話なんだと思う」 「…………」 「でも、僕はロレが好きだから、僕のやったことで少しでもロレが喜んでくれたらそれ以上幸せなことなんてないから、全力でロレに尽くすんだ」 ロレの幸せのために尽くせないんだったら、僕の存在になんてなんの意味もないんだから。 これはきっと、僕のわがままにしかすぎないのだろうけど。 マリアは僕の言葉を聞いて、深く深くため息をつき、それからなんだか少し悲しそうに笑った。 「あなたは、本当にロレイスが好きなのね」 「うん」 それは僕にとってはなによりも優先される理由だ。 午後三時の時を告げる鐘が鳴った。そろそろロレとディリィさんの戦いが始まる頃だ。 「そろそろ僕はロレとディリィさんの戦いを見に行くよ。マリアはどうする?」 「……私はいいわ。ロレイスが負けるところをこれ以上見たくないもの」 というわけで僕はマリアに手を振って、書庫を出た。石造りの広い廊下は永続化されたレミーラの呪文で明るく照らし出され、歩くのにまったく不自由はない。 ロレとディリィさんの戦いはたいていホールで行われる。僕はそっちの方に急いだ。 ぎぃん、と金属が打ち合わされる音が聞こえてくる。しまった、もう始まってるのか。 僕は足早に歩を進め、邪魔にならないようにとこっそりホールをのぞく。ちょうど、ロレがディリィさんに剣を跳ね飛ばされたところだった。 ロレがぎゅっと唇を噛むのが見える。拳をぎゅっと握り締めるのも見えた。本当に、たまらなく悔しそうに。 胸がぎゅうっとした。 ロレのあんな姿、見るの初めてだ。今ロレは、本当に本当に悔しいんだろうな。そんな姿見ると、なんていうか――たまらなく可哀想で、胸が痛くなる。 ロレを見て、『可哀想だ』なんて思う時が来るなんて思いもしなかった。でも心の一部では、『ロレのめったに見れない姿が見れて嬉しい。可愛い』なんて馬鹿なことを考えてもいたのだけれど。 ――と、ディリィさんがロレに近づくのが見えた。すぐ近くまで顔を近づけて、なにか話してる。 ロレがきっとディリィさんを睨んだ。ディリィさんは笑ってる。 あの二人は背の高さがそれほど変わらないんで(ディリィさんの方が少し高い)、そばに立ってるだけでずいぶん顔が近くなるんだけど、そういうのとは違う。ディリィさんが明らかに普通より顔を近づけてる。 なんだか……絡んでる……? そうちらりと思った瞬間、ディリィさんはぐい、とロレを壁に押し付け、顔を近づけ――キスをした。 僕も当然驚いたけど、ロレの驚きようは半端じゃなかったみたいで、ロレは愕然を絵に描いたような顔をした。目をまん丸に近いほど見開いて、口をぱかっと開け、ふるふると震える手でディリィさんを突き飛ばし――それから猛烈な勢いで怒鳴り始める。 よく聞こえなかったけど、ロレがめちゃくちゃ怒ってるのはわかった。対するディリィさんは、余裕の笑みを浮かべてロレから離れ、すたすたとこっちに歩いてくる。 どうしようかな、と思ったけど、隠れるのも変なのでその場で待つ。ディリィさんは僕のところまで歩いてくると、にっこりと笑った。 「見られていたか」 「知っていたんじゃないですか?」 確信があったわけじゃないけど、思ったことを言ってみる。するとディリィさんの笑みがにこりからにやりに変わった。 「さすが、サマルトリアの王子。勘がいい」 「なんでサマルトリアの王子が関係あるんですか?」 「サマルトリアの初代国王も勘と頭のいい人間だったらしいでな」 ああ、アレフが手紙を残すくらい理解されてたってことだもんね。 「――少しは怒るのではないかと思っていたが。冷静だな、思いのほか」 突然真剣な顔になって言われて、僕は首を傾げた。 「ディリィさんも、僕がロレのことが好きだって知ってたんですか?」 「うむ……というか、わかるだろう普通。接している時の態度が他の人間とはまるで違うのだから」 「自分では意識してないんですけど……」 「そうだろうな。だがお主はロレイソムを見る時とそれ以外とでは表情がまるで違う。ロレイソムを見る時だけは、たまらなくとろけそうな笑顔になる」 「……そうなんですか」 たぶん、見る人が見ればわかるんだろうな。僕は別にロレが好きなことを隠してはいないから。 「その好きで好きで仕方ないロレイソムが唇を奪われたというのに、平然としているのがどうも解せんのだが」 「唇を奪ったわけじゃないでしょう。おでこだったじゃないですか」 「ばれていたか。見えないようにやったつもりだったのだが」 「角度でそれくらいわかります。……なんていうか……気持ちがわかったから」 「ほう?」 笑うディリィさんに、僕は説明しようとした。 「意地悪や軽い気持ちでやったんだったら絶対に許さないけど。あなたがロレに惹かれていたのは僕でもわかりました。ロレのことを、すごく可愛いって思ってるのも」 「うむ……」 「でも、同時に手を出しちゃいけないって自分を戒めてるのもよくわかりました」 「――――」 「好きって気持ちを抑えこんで、相手にぶつけないようにしなきゃならない苦しさや辛さは、僕にもよくわかるから。それでも一瞬でいいからこっちを向いてほしいと思う気持ちもわかるから。だから――怒れません」 「………ふ」 僕の言葉に、ディリィさんは苦笑したようだった。肩をすくめて杖をつく。 「きっちり読まれておるな。わしはそんなに単純か?」 「いえ……ロレを好きな人の気持ちだから。だから僕にはわかります。ロレがどんな風に人を惹きつけるか、よく知っているから」 「なるほど……」 うなずいて、ディリィさんは笑った。 「言うておくが、わしはお主ほど真剣にロレイソムを愛しておるわけではないよ。ただ、かわゆいと思う。その若い魂に惹きつけられる。その真っ直ぐな心持を愛しいと思う――それだけだ」 「でも、この先一生に一度の恋になっていくかもしれない。そうでしょう?」 「確かにな」 ディリィさんがうなずき、僕を見て、それからさっきよりずっと優しい笑顔で笑った。 「だが、わしはお主も好ましいと思うておるのだよ」 「………そうなんですか」 全然気づかなかった。 「そなたがロレイソムを一途に思うその心。その稚けないとすら言えそうな心がたまらなく愛しい。健気だと思う。なにを捨てても、自分を捨てても全力でロレイソムに尽くそうとするそなたの恋が――」 さらさらとディリィさんの手が僕の髪を梳く。僕はどんな顔をすればいいのか迷って、とりあえずディリィさんの優しい瞳を見つめた。 「わしはそなたたち二人が好きだ。マリアも好きだがな。そなたたちがみな、幸せになればよいと思うておる。だからこそ、ロレイソムも額への口づけひとつで逃がしてやろうと思うておるのさ」 「………………」 「幸せにおなり。そなたはマリアに遠慮しておるようだが、そなたが自らの幸せを追い求めて、悪いことはなにもないのだよ。奴とてそなたを憎からず思うておる。それに、そなたも幸せにするぐらいの甲斐性は持っておるようだがの、ロレイソムは」 「……マリアに遠慮しているわけじゃ、ないんですけど」 「ほう?」 「僕は、僕よりも、ロレの心が、幸せが大切なんです。だからロレは、ロレが好きな人と一緒になってもらいたい。――僕の気持ちなんて斟酌せずに、自分の素直な気持ちで相手を選んでほしいんです」 「………ふむ」 ディリィさんは、わずかに苦笑したようだった。 「それは、ロレイソムがあまりに惨めな考え方ではないか?」 「――え?」 僕は目をぱちくりさせた。思ってもみない台詞だったからだ。 「惨め、って……?」 「ロレイソムを子供扱いしておる」 「…………子供、扱い」 息を呑む僕に、ディリィさんは軽く微笑んで背を撫でる。 「あやつも男。自分を愛し、心から尽くしてくれる人間の気持ちを知らされぬまま、なにも知らぬまま気を遣われて尽くされるというのは、男として忸怩たるものがあると思うぞ」 「…………」 「どうだ。せめて想いを伝えてみては」 「…………でも」 それでも、僕は―――― 黙りこんでしまった僕に、ディリィさんはまた苦笑した。 「まぁ、そなたが決めることだ、強いる気はない。だが、わしは、そなたも幸せになっていいと思う。――わしの言いたいことはそれだけだ」 そう言ってディリィさんは去っていく。僕はその後ろ姿を見ながら、思っていた。 それでも、僕は、わがままは承知だけど、独りよがりなのはわかっているけれど、ロレに尽くしたいって、ロレの幸せのために頑張りたいって思うんだ。自分の幸せのためじゃなくて。 だって、ロレが幸せじゃないと、僕は幸せじゃないんだもの。 そう思ってから、そういえばディリィさんに好きと言われた返事をしてなかったな、と気づき、少し申し訳ない気持ちになった。 ディリィさんも、さして期待してはいないだろうけど。 「――ディリィ」 ディリィさんの用意した朝ご飯の席で、ふいにロレが口を開いた。今のところ僕とディリィさんの料理勝負は、圧倒的とは言わないまでもディリィさんの方が勝っている。 「なんじゃ」 ディリィさんが答えると、ロレはじっと、どこか静かな目でディリィさんを見て言った。 「俺と勝負しろ。最後の勝負だ」 「………ほう」 ディリィさんは口の端を吊り上げた。 「その最後の勝負でわしに勝てる、と?」 「さぁな。だが、俺は全力でやる。自分の全部ぶつけてやる。お前もそうしろ」 「………ふむ」 僕とマリアの視線が集中する先で、ディリィさんはにこりと笑んだ。 「わかった。全力でやろう」 ――さっそく、ホールに移動することになった。 ロレとディリィさんが一丈ほどの間を開けて対峙する。お互い静かに武器を構えた。 ロレは鎧を脱いでいた。身につけているのは剣と盾、それに服だけ。麻の短衣から逞しい四肢が伸びているのがよく見える。 対するディリィさんはいつもの長衣。その浅黒い肌が見えるのは、顔と手首から先だけだ。 ロレは動かない。ディリィさんも動かない。僕たちも動きを止めて、ひたすらに二人の姿を見つめた。 ――先に動いたのはロレだった。集中に集中を重ねていたのだろう、目にも止まらぬ疾風のごとき速さの突きをディリィさんの喉元に向けて放つ。 ディリィさんは錫杖で、軽くそれを受け流した。だがロレはそれを予測していたかのように、受け流された剣を返して横からの払いを見舞う。 ディリィさんはそれも錫杖で受けた。今度は受け流すのではなく受け止める形で。ロレはぎりぎりと剣を押すが、ディリィさんも両手を使って押し返す。 かと思うと、ばっとロレとディリィさんは飛び退って離れた。間合いを取って、二人とも探るように円を描きながら移動し――マリアが息詰まる雰囲気に耐えかねたように息を吐いた瞬間、相手に襲いかかって激しく打ち合った。 ロレはディリィさんに苛烈な猛攻を加えていたけれど、ディリィさんはその全てを受け流していた。それはいつものことだけど、逆にロレもディリィさんの、僕にはほとんど見えないほどの速さの攻撃をなんとかかわしている。 ――すごい攻防だ。 ロレが剣を振り下ろす、ディリィさんが飛び退って避ける、ロレが打ちかかる、ディリィさんが杖で突く、それを紙一重でかわす。 ディリィさんが杖で払う、ロレが盾で止める、そこからさらに変化して空いているところを打とうとする、逆に間合いを詰めて体全体の突きを放つ、体は攻撃態勢なのにどうやってかずらして避ける。 「……息が詰まりそう……」 マリアが思わずといったように漏らした。確かに、見ている側にもひどく緊張を強いる攻防だ。 だけど、僕は二人から目が離せなかった。二人――特にロレから。 だって、すごく綺麗だったから。すごく激しくて、毅くて、カッコよかったから。 ロレがこれ以上ないくらい本気になってる――大好きな人のそんな姿を見て、ドキドキしないなんてできない。 それに、僕は、盲信と言われようがなんだろうが、最後には絶対にロレが勝つって確信してたから。 「!」 ロレが剣を飛ばされかけて、体勢が崩れた。当然、ディリィさんは神速の動きでロレに打ちかかる。 ロレは大きく身を反らせるが、かわしきれない。当たる、と思った刹那―― ロレの短衣が大きく裂けた。 次の瞬間、僕の頭の中ではいろんな思考が駆け巡った。ああロレの短衣は麻だったし汗で濡れてたから、ディリィさんの錫杖にひっかかって裂けちゃったんだなぁ、とかロレ大丈夫かな、動きにくくならないかな、とか裂けた短衣の隙間からロレの乳首が見える、うわーロレの体ちゃんと見たの久しぶり、嬉しーい、とか。 それはディリィさんも同じだったみたいで、大きく目を見開いて顔にわずかに朱が上り、動きが止まる―― だけど、ロレの動きは止まらなかった。 裂けた短衣から肌身をのぞかせながらも、そんなこと関係ないというようにばっと体を回転させ――ディリィさんが固まったその一瞬に、ディリィさんの脇腹に全力の一撃を叩きこんだ。 「…………!」 ディリィさんは文字通り吹っ飛んで、地面をごろごろと転がった。止まったところでのろのろと体を起こし、げほげほと咳きこむ。 それから、なんだか呆然としているロレに微笑んで、静かに言った。 「お主の勝ちだ」 「…………」 ロレはじっとディリィさんを見て、すーっと頬に朱を上らせ、それからぐっと握った拳を上に伸ばし勝ち鬨をあげた。 「………っしゃあ!」 僕はたまらずロレに駆け寄っていた。体の底からたまらない感情が湧いてくる。 「おめでとう、ロレ! 勝ったね、勝ったね!」 「おうよ!」 汗に濡れた体に抱きつく僕に、ロレはばしばしと叩くことで応えた。その顔も体も、たまらない嬉しさで満ちている。 やっぱり、ロレは勝った。カッコいい、すごくカッコいい。そんな思いを、嬉しさを僕はロレにぶつけ、ロレも僕にぶつけた。 それは単に手近にいたからに違いないんだけど――それでも僕は、ロレが他の誰でもない僕に気持ちをぶつけてくれていることが嬉しくてしょうがなかった。 マリアとディリィさんに、いい加減にしろと叱られるまでの短い時間だったけど。 「――それじゃ、な」 ロレがぶっきらぼうに言って、荷物を背負う。僕も隣で、頭を下げた。 「いろいろとありがとうございました」 「いやいや、気にするな。当然のことをしたまでじゃ。久しぶりに楽しかったぞ」 「……あなたにはいろいろと思うところもありますけど――ありがとう、勉強になりました」 「わしも久々に若い才能に出会えて嬉しかった。修練を怠るでないぞ」 「はい」 ふいに、ロレがディリィさんの顔をじっと見つめ、言った。 「おい」 「なんじゃ」 「……お前、俺たちといっしょに来る気ねぇか?」 ……これはまた。予想外と言えば予想外な台詞だ。ロレらしいと言えば言えるけど。 ディリィさんは苦笑する。 「言ったであろう? ロトの剣がここからなくなる以上――」 「だったらロトの剣なんてここに置いときゃいいだろーが。お前に代わりができるくれーならなくたって別にかまやしねーよ。それより具体的な戦力が増える方がいいぜ」 「…………ロレイソム」 「第一! 俺はまだてめぇにたった一回しか勝ってねぇんだぞ! 五十回以上負け分が残ってんだ、その借りきっちり返させやがれ!」 ロレの顔はちょっと赤かった。ロレが口に出してる何倍も、ディリィさんのことを想ってこんなことを言い出したのはよくわかった。 ……そんなにディリィさんとの勝負はロレの心を惹きつけたのか、と嫉妬する気持ちもあるけれど―― ロレが強い人間に惹かれるのは、わかっていたことだ。 だから僕は、にっこりと笑った。 「そうですね。ディリィさんが来てくれれば頼もしいと思います。それに、竜王の曾孫が世界を救ったとなれば、竜王に対する世界の不当な認識を改め、竜族との交流を復活させるきっかけになるかもしれません」 「サウマリルト――」 「どうですか? ディリィさん。僕たちと一緒に来てくれませんか?」 マリアはもの言いたげな視線を僕たちに向けてきてたけど、僕はあえてそう言った。 ディリィさんはしばし、じっと下を向いて考えてたけど―― やがて、少し寂しげに微笑んで首を振った。 「いや、やめておこう……やはり人間たちにとっては、自分たちを救うのは人間であると信じていられるほうがよかろう。現在竜族は滅び行こうとしている。もはやほとんどが魔物と大差ない状態じゃ。そんな竜族に人間が歩み寄ろうとしたところで、ろくなことにはならん」 「俺はそんなこと言ってんじゃ――」 「それに。そなたたちは三人でひとつ。三人で絶妙な平衡を保っておる。わしが入ってそれを壊したくはない」 「……………」 ロレが無表情になってがりがりと頭をかく。ぶっきらぼうな仕草だけど、なんだか――寂しそうに見えた。あんなに寂しそうなロレ、初めて見たってぐらいに。 ディリィさんに向き直った時は、もう普段のロレの顔になっていた。いつもの勝気な、力強い笑みを浮かべている。 「……今回の勝ちはまぐれ勝ちだったからな。今度は――今度会った時は、実力で勝つ」 そうロレが言ったとたん、ディリィさんの顔に、ふわーっと満面の笑みが浮かんだ。嬉しくて嬉しくてたまらないという感じの、優しい笑顔。 「うむ。次の手合わせを楽しみにしておるぞ」 「……ああ」 そう言ってロレはディリィさんに背を向けた。僕たちもロレのあとに続き、歩き出す。 少し離れると、ディリィさんが声を上げた。 「お前たち! 幸せになるのだぞ!」 そのストレートな励ましの言葉に僕は少し笑い、振り向いて頭を下げる。マリアは少し咳払いして、目礼した。 ロレは、もう一度後ろを振り向いて、大きな声で叫んだ。 「―――またな!」 |