僕たちは竜王の城を出ると、海路でマイラの村へ向かっていた。 僕たちの当面の目的は新たに、紋章を集めて精霊ルビスさまと会うことに変わった。ロトの武具の情報もいろいろとディリィさんからもらったし、世界中をうろついてレベル上げと強い武器防具を手に入れる旅にきちんとした目的ができたと言えるだろう。 だからってわけでもないけど――― 最近、竜王の城を出てから、僕はよく考えるようになっていた。ロレが、一瞬でもこっちを見てくれる瞬間があるかどうか。 オルガさんやディリィさんに告白しろとけしかけられたせいじゃない。たぶん。ただ、ロレのあの時の言葉が、ひどく胸に残ってるんだ。 『同じに考える必要ねぇだろ。てめぇもマリアもディリィもみんな違うんだからよ、それぞれに気持ち一個でいいじゃねぇか』 ……僕には僕の、特別な居場所をロレが作ってるって考えてもいいんだろうか。 ロレの今までの言葉を思い起こす。ロレが僕のことを仲間として大切に思ってくれていることは間違いない、と思う。マリアより立場が下なことも間違いないだろうけど。 ただ、今考えているのは――その僕に向けられた感情は、どういうものかというか―― 僕を抱いてもいいと、一瞬でも思えるような気持ちなんだろうか? ということだった。 ロレに自分の自由な気持ちで好きな人を決めてもらいたいという気持ちは今も変わらない。ロレの幸せのためになら僕の気持ちなんてどうでもいいというのも本心だ。 だけど、ロレが――最近のロレの言葉が。僕の心を本当に気遣ってくれているような、僕を少しでも本当に好きでいてくれるような、そんな風に聞こえてしまうから。 思い上がっちゃいけない、そんなことあるわけない、ロレは僕のことなんかなんとも思ってないんだから――と自分に言い聞かせても、そのたびにオルガさんの、ディリィさんの、ロレの言葉が蘇る。 そして僕はどうしても期待してしまうんだ。ロレが一瞬でも、僕を見てくれる時があるかもしれないって。 馬鹿だ馬鹿だと思うけど――心のどこかで、こっそりと、僕はロレに初めて会った時から祈っていたから。 ロレに、少しでも僕を好きになってほしいって。 マイラの村は、ラダトームから船だと一週間ぐらいかかった。距離自体はそれほどでもなかったんだけど、水路が入り組んでてあちこち遠回りしなくちゃならなかったんだ。 マイラの村近くの浅瀬に船を止めて、レムオーマ――大規模幻影の呪文で魔物や人から船を隠す。そこからマイラの村までは半日もかからなかった。 ロトの時代からの温泉街というだけあって、ひなびた雰囲気はあるけど感じのいい場所だ。古くさほど大きくもない建物が静かに立ち並び、人を落ち着かせる雰囲気を漂わせている。ここには湯治の客が多く訪れるからだろうな。 「……なんだか、不思議な匂いね」 一度温泉に入り、夕食を終えてくつろいでいる時に、マリアが鼻を小さく動かして言う。 「そうだね。僕のうちの別荘にも温泉があるところがあったけど、そこでもこんな匂いしてたな」 「いいわね……ムーンブルクは山が少ないせいか、私温泉って入ったことがなかったの」 「それじゃあ今日はたっぷり温泉に浸かるといいよ。明日は朝から精霊同調の儀を行わなきゃならないんだしね」 「で、よ。精霊同調の儀って具体的になにすんだ?」 「うーん、呪法の一種だから具体的にって言われると専門的な話になっちゃうんだけど。簡単に言えば物品、この場合はロトの剣と人、この場合はロレの中の精霊とを繋げる……っていえばいいのかな」 「……同調すんのは俺でいいのか?」 「それ以外にいないじゃない」 「それなのだけど……サウマリルト。儀式は私が行うから、あなたはその間私たちの周りを守ってはくれないかしら?」 真剣な顔で言われ、僕はちょっと目を見開いた。 「……僕が護衛を?」 「ええ。いろいろ考えてみたのだけれど、精霊同調の儀は私が行った方がいいと思うの。この手の呪法は精霊に敏感な体質の人間の方が効き目が高いのはあなたも知っているでしょう?」 「………」 確かにそうだ。そしてマリアはこの上なく高い魔法の素質を持つ――すなわち精霊に敏感な人間だ。 「儀式自体は人数が必要な儀式ではないし。儀式に邪魔が入らないように、場を守ってくれる人間が必要だと思うの。あなたには手をかけさせて本当に申し訳ないのだけど……」 「気にしないでいいよ、マリアの言うこと正しいと思う。わかった、僕は明日場を守る役目につくよ」 すまなそうなマリアに、僕はそう言って笑った。ロレとマリアが一日中密室で二人きりになると思うと心穏やかならざるものはあるけれど、そんなことでやるべきことに影響を与えていいものじゃない。 それに、僕は不安だった。ロレと一日中、ずっとすぐそばにいて、僕はロレに素知らぬ顔をして接し続けていられるだろうか? ロレがこっちを見てくれはしないかと、僕に心を向けてくれはしないかと期待の目で見ないだろうか? 僕はロレにいやな思いをさせるようなことはしない、そう思いはするけれど、なんだか今の僕は、少し情緒不安定になっているようなのだ。 ロレがこっちを向いてくれるんじゃないかなんて、そんな期待を抱いてしまったから。 温泉にたっぷり浸かって、疲れを取って、明けて翌日。陽の昇る前に、ロレとマリアは宿の離れに一室を借り、結界を張ってそこにこもった。今日、太陽が沈むまで、二人はここで儀式を行わなくちゃならないんだ。 その間僕は見張り役。基本的に結界内に外から影響を及ぼすことは難しいんだけど、ロレとマリアの気が乱れちゃまずいからね。 人が近づいてこない限りすることがないので、僕は頭の一部で離れの周りに注意しつつ、竜王の城で学んだ呪法や呪文をおさらいすることにした。別にその書物を持ってるわけじゃないけど、習った内容は全部暗記してるから問題はない。 ディリィさんは、僕には死霊系の呪文の素質があると言っていた。まずはそこからおさらいしてみよう。 死霊系呪文のうちいくつか簡単なものは僕も使えるけど、その真髄にはいまだ手が届かない。まずはザキの呪文からだ。 頭の中で呪文を組み立てる。実際に唱えてしまっては呪文が暴発する可能性がある。少しずつ死の精霊の制御方法を学んでいかなきゃならない。 たまにこっちに来る人たちを追い返しつつ、僕は呪文の練習を続けた。 ……気が楽、っていうんだろうか、こういうのは。ロレもマリアもいなくて、僕だけで勉強に没頭している。ロレのことも、ロレとマリアのことも、考えなくて、感じなくていい。 ロレにいやな思いをさせることを、ロレが僕のことを嫌いになってしまうことを、怖がらなくてもいい。 ――確かに、ロレと会う前の僕は、そうしてとても楽な時間を過ごしてきたと言えるかもしれない。 でも、僕はずっと苦しかった。周りの、自分を愛してくれる人に対して、僕はほんの少しの愛も返せないという事実のせいで。 必死になって尽くした、優しくした、労わって傷つけないように注意して相手が気持ちよくなってくれるように振舞った。でも、僕は――そういうことをしていて、少しも楽しくも嬉しくもなかった。 こんなに優しくしてもらっているのに。愛してもらっているのに。僕にはどうしても、その人たちに奉仕することが嬉しいとは思えなかったんだ。疲れるだけで。 相手の人たちは喜んでくれたけど、僕は少しも嬉しく思えなくて、すごく無駄な、馬鹿馬鹿しいことをしてる、そんな風にしか思えなくて、だから僕は、そんな自分を心の底から憎んだ。こんなにも愛してくれている人に対してそんな風にしか思えないのか、お前は最低の人間だ、と。 周りの人は僕を素晴らしい方だ、生まれながらの王だと誉めそやしたけど、僕は自分がこの世に生きていていい存在だなんて、これっぽっちも思えなかったんだ。 だから心のどこかで、僕は死にたがって、それを王族の責務を果たさなければという思いだけで生き続けてきたんだ。 ――それが、ロレと出会って、変わった。 世界が意味を変えた。自分すら存在意義を変えた。好きな人がいる、胸を張って好きだと言える、その人のために尽くすのがこの上ない幸福だと言える人がいる。その歓喜、その至福。 僕は、生まれて初めて、ここにいていいと、自分が生きていていいと言われた気がした。こんな人でなしの僕にも好きな人ができたことで、初めて存在を許された気がしたんだ。 ロレのおかげで。 ……そうだよね。なにを馬鹿なことを考えていたんだろう、僕は。ロレはいるだけで、ただ存在するだけでこんな僕にこの上ない幸福を与えてくれる。それ以上のなにを望めるっていうんだろう。 僕がどんなことを感じているかなんてどうでもいい。ロレが誰を好きだろうとどうでもいいことじゃないか。僕はただ、僕がロレを好きな気持ち、ロレが与えてくれる気持ちただそれだけで、なんだってできるんだから。 世界でただ一人、僕に光を与えてくれる存在の幸せのために尽くす。それ以上の幸せなんて、僕にはないんだから。 『――それは、ロレイソムがあまりに惨めな考え方ではないか?』 僕はびくりとした。ふいに蘇ってきた声は、強烈な現実味があって、まるで僕の心を読んで叱ってきたみたいに思えてしまったから。 その声を頭から追いやろうと首を振る――と、その瞬間、ざわり、と神経が総毛だった。 一人の人が、宿屋からこっちに向かって歩いてきていた。年の頃は二十なるならず、黒い髪を長く伸ばして後ろで結んでいる。でも喉仏があるから男性だとわかった。 顔立ちは、ぞっとするほど綺麗だった。どこがどうと印象に残るものではないのだけれど、顔のどの部分も完璧なまでに整っている。美しいというのは形が平均的だということだ、と誰かが言っていたけれど、そのひとつの証明がここにあった。 背は六尺足らずというところ、頭に蝙蝠の耳のような髪飾りをつけ、細身の身体を祭服に包んでいる。そして、その祭服には―― 破壊神シドーの、紋章があった。 僕は座っていた場所から立ち上がって、こちらからも相手の方に近寄った。武器から手を離して、こちらには敵意はない、ということをアピールしながら。 なぜなら、相手も武器を持っていなかったからだ。もちろん、祭服を着ているからには呪文を扱えるのだろうから平和的交渉する意図があるかどうかははっきりとしたことは言えないけれど、少なくとも相手にあからさまな敵意は見つけられなかった。 離れの廊下で僕たちは真正面から向かい合って、じっと見つめあう。先に口を開いたのは向こうの方だった。 「お前がサマルトリアの王子、サウマリルトだな?」 おそろしく静かな、感情も表情も感じられない声だった。 「ええ」 僕はうなずいて、問い返す。 「あなたは大神官ハーゴンですか?」 「そうだ」 相手――ハーゴンも、こともなげにうなずいた。 僕たちは相手の顔をじっと見つめた。さっきも言ったけど、すごく整った美しい顔だ。だがその顔は青ざめて、死人かと思うくらい顔色が悪くて、その上表情が微塵もなかった。死者のように静かに、冷たく、けれど死者にはない意思をもって、ハーゴンは僕の方をじっと見つめている。 今度は僕の方から口を開いた。 「質問してもいいですか」 「ああ」 「あなたはなぜ世界を滅ぼそうとしているんですか?」 「私は世界がもういらないからだ」 なるほど、明瞭だ。 つまり、彼は本気で世界を滅ぼそうとしているのだろう。その理由は世界がもういらないから。 ……つまり、過去には世界を欲していた時もあった、ということだな。 「他の人は世界を必要としていますよ? 世界を終わらせたいのなら、あなたが消えるのが一番早くて簡単だと思いますけど」 「私だけ消えても世界は残る。それは少し腹立たしいし、私はなにもかもが消滅する様をこの目で見てみたい。世界のなにもかもが無に帰する様を」 「なるほど。つまり、あなたは世界が憎い……違うな。世界が鬱陶しいから、なにもかも消してすっきりしたいんですね? 鬱陶しくて苛立たしくて、好きでもない、むしろ嫌いな世界が消えてしまえば、さぞすっきりするだろう、と」 僕がそう言うと、ハーゴンはじっと僕を見て、それから目を閉じ、「ああ……」と息を吐くようにして、たまらないというような声を漏らした。 「どうかしましたか」 「お前は、わかるのだろうか………」 「……さあ。ただの偶然かもしれませんよ」 「そうだな、わからない。どんなに似た魂をしていても完全に同じ魂など存在しない……完全な理解など存在しない。だが――」 ハーゴンはすっと手を伸ばし、僕の頬に触れた。 「お前の魂を感じとった時から、私に初めて希望が生まれた……自分のことを、理解してくれる人間がいるかもしれないと……」 「理解されることはたいていの場合幸せなことですけど、必ずしも理解は幸福の必要条件じゃありませんよ」 「私に幸福はもういらない……そんなものはもう存在しない。ただ、なにもかもを消滅させたいという、静かな希望があるだけだ……」 「だけどあなたが世界を滅ぼそうとする限り、僕たちはあなたを殺さなくちゃならないんですけど」 「それは仕方がない。私もお前たちが私の前に立ち塞がるならば、お前たちを殺さなくてはならない。これは仕方のないことだ」 「まぁ、そうですね。仕方がありませんね」 彼の望みと僕らの望みが変わらない限り、相反するものである限り、歩み寄りの余地はないのだから。 「では、あなたはここで僕を殺しますか? そうなると僕も全力で抵抗せざるをえないんですけど」 「…………」 ハーゴンはすうっと視線を上にずらし、廊下の屋根の脇から空を見上げた。いつの間にか陽は雲に隠されている。 「お前はローレシアの王子をどう思っている?」 僕はちょっと驚いた。思ってもみない質問だ。 でも、この質問に対する答えは決まっている。僕はすぐに答えた。 「世界で一番、唯一、愛している人です」 「………………」 ハーゴンは目を閉じてその言葉を聞き、それからふぅ、とため息をつくようにして息を吐いた。それはまるで、わかりの悪い生徒に対する教師のように僕には見えた。 「同じだな。同じところにはまりこんでいる……結果などわかりきっていることだろうに、それを見ないふりをしている。やはり、私とお前はよく似ている」 「そうでしょうか」 「……ローレシアの王子を殺したい理由が、またひとつ増えたな」 「―――なんですって?」 僕はぴたり、とハーゴンの喉元に鉄の槍の穂先を突きつけた。 「ロレを、殺す、ですって?」 僕には躊躇はない。戸惑いもない。 ロレを殺そうとする相手は、人間だろうと魔族だろうと魔を統べる者だろうと、殺す。それは僕にとって、確認する必要もないほど明快な論理だ。 ロレを殺そうとするなら、誰でも殺す。 ハーゴンは再び、ふぅ、と息をついた。 「仕方のないことだな。お前が私を殺そうとするのは仕方のないことだ。だが、私はそれをそのままにしてはおけない」 「あなたはロレを殺すつもりですか?」 「お前にもじきにわかる。ああいう魂をした人間が、どれだけ簡単に、容赦なく我らの心を切り裂くか。私はお前にあのような苦しみを味あわせたくはない」 「もう一度聞きます。あなたはロレを殺すつもりですか?」 ハーゴンはもう一度息をついて、それからうなずいた。 「そうだ」 僕は即座に槍に全体重をかけてハーゴンの喉元へ押しこんだ。普通なら逃れようのないタイミング。 だが、ハーゴンは瞬時に姿を消し、十歩ほど先に再び現れていた。ルーラッチ――短距離瞬間転移の呪文だろう。 僕は槍を構えて突撃をかけつつ、口の中で呪文を口ずさむ。ベギラマを連発すれば少しは効くだろう。 そんな僕にハーゴンは、深い息をついて、ふぅ、と口から吹きつけるように息を吐いた。 ――誘眠の息! 僕はそれをかわそうとしたが、甘い香りのするその吐息は容赦なく僕の体にまとわりついてくる。猛烈な眠気が襲ってきて、僕は唇を噛んだ。 こんなもので邪魔されるわけにはいかない。僕は、ロレを守るんだから。 僕は震える手で腰に差したナイフを抜き、左手に突きたてた。ナイフが皮と肉を切り裂き、手の甲を貫通する。 激痛が襲ってきて、眠気が少し晴れた。僕は頭を振ってハーゴンの姿を確認する。 ハーゴンは今度は完全に姿を消していた。ルーラか、と僕は大きく舌打ちをする。 今度会う時があれば、と僕は手の傷を癒しながら思った。今度会う時があれば僕は問答無用で彼を殺す。 できるできないは問題じゃない、やるんだ。それが僕の存在理由なんだから。 『……ひとつ、聞きたい』 突然耳元に聞こえてきたハーゴンの声。トオーワの呪文だ、と一瞬でわかった。 「なんですか?」 印を結んで逆探知の呪法を使いながら、何食わぬ顔をして会話する。 『ローレシアの王子が死んだらお前はどうする?』 「死なせませんよ」 『もし、死んだら。お前はどうする?』 「…………」 僕は一度ため息をついて、その質問に答えた。 「僕も死にます」 単純な話だ。ロレがいなければ僕の存在理由はなくなる。僕の幸せも僕がこの世界にいていい理由も。 僕は、好きな人のいる幸せをもう知ってしまったのだから。 『………そうか』 「僕からも質問していいですか?」 逆探知にはまだ時間がかかる。会話の時間が必要だった。 『なんだ』 「あなたはどうやって僕たちがここにいることがわかったんですか?」 『精霊同調の儀だ。私は世界の精霊力の流れを常に感知している。強大な精霊力の流れがマイラの村で生じたので、ロトの勇者たちではないかと見当をつけてやってきた』 「……なるほど」 精霊同調の儀をむやみに行うのは考えものってことだな。しかし精霊力の流れを感知って、どういう精霊感応力してるんだ。 「もうひとつ。あなたはシドーを復活させるつもりですか?」 『ああ』 「どうやって?」 『生きとし生ける者の心の中にはあまねく混沌が存在する。それらと私の精神を繋げ混沌を私の精神に召喚、魔族たちの精神とも繋ぎ合わせ混沌をこの世界に具現する。そうすればあとは勝手に混沌がシドーの形を取ってくれるだろう』 「……そんなことが、本当にできる、と?」 考えるまでもなくむちゃくちゃな話だ。 居場所を見つけるまであと少し――― 『私にはできる』 「その自信の根拠は?」 『私はそのために作られた』 「…………」 一瞬、僕は考えた。彼はシドーを崇める教団に作られたとでも言いたいのだろうか? だけど妙だ、ならなんでロンダルキアなんて聖地を本拠にしてるんだ。それにハーゴンという名前。もしそうだとしたらわざわざルビス教の大神官の名前をつける必要なんてどこにもない。 では、彼の言葉はどういう意味なのか? 「作られたというのは誰に――」 『私は生きたいと思っているわけではない』 唐突に僕の言葉を打ち切ってハーゴンが言葉を発した。 『だが、世界を滅ぼす前に死ぬのは嬉しくない』 「……だから?」 『だから、ロトの血族のことは警戒している』 ざわり、とその瞬間、空気が変わった。 僕はばっと渡り廊下から飛び出して、空を見た。空には黒雲が渦巻き、太陽の光をほとんど遮って、まるで闇夜のような暗さを作り出している。 それになにより、この凍りつくような邪気―――! 「……巨大魔的結界ですか」 してやられた。 話を引き伸ばして居場所を探っているつもりが、逆に魔的結界を張る時間を稼がれていたとは。この上ない不覚だ。 「なんのかんの言いつつしっかり敵を倒す手は打っておく。自分の感情と同様に利と理を重んじる。――ちゃんと頭の働く方のようですね」 『私は頭は悪くない』 僕はようやくハーゴンの居場所をつかんでいたが、そんなものにもう意味はなかった。魔的結界が張られれば、その結界の容量が許す限りいくらでも魔族を送りこめる。魔を統べる者にとって魔族を操るのは息をするのと同じくらい容易いことだ。 となれば、ロレとマリアが動けない今を狙って、大量の魔族を送り込んでくることは間違いない。 ――ロレを、マリアを、そしてマイラの村を、守らなくてはならなかった。 「最後に質問。あなたは、僕を殺したいと思いますか?」 『殺しても蘇生呪文をかければかならず蘇生できるのだから、別に殺してもかまわないとは考えている』 「……それはどうも」 やれやれ、見込まれてんだが見込まれてないんだかわかんないな。 僕は槍を持って走った。ここマイラの村は清浄な精霊力を持っている、召喚するなら村の外だ。 だけど村の外に向けて走る途中で、僕は一度足を止めてしまった。 村の人たちが大声で騒いでいる。あんなものを見ればそりゃ騒ぎたくもなるだろう。 強烈な邪気と威圧感がこちらに向けられているのを感じる。見上げるほどに背の高い周りの木々より、さらに頭ひとつ以上高い雲を突くように巨大なその体躯。 橙色の肌に一本角、僕の背丈より大きいんじゃないかって思えるほど巨大な目玉。蒼い爪の生えた手には巨大な棍棒、右肩からはどんな獣の皮で作ったたんだ、と思えるほど巨大な毛皮を下げている。 その異常なまでの力から、俗に悪霊の神々と讃えられるほど強大な魔族たちの一柱――― 「……天空の巨人、アトラス」 僕はため息をつきたくなるような気持ちで名を口にした。 僕は村の人たちに家の中に入っているように指示すると、一人村の外に出た。ここまで強大な魔族に村人の一人や二人助けがあったところで役に立つわけがない。 村の前の広場にやってくると、アトラスもちょうどその場所にやってきたところだった。僕の姿を認めて、その巨大な口がにたあ、と笑う。 僕をいたぶり殺せることを喜んでるんだろうか。魔族にとって虐殺は本性だからな。 そして、僕にはそれを笑い飛ばせるような実力は、まったくない。 僕の読んだ書物が正しいならば、アトラスに攻撃呪文はまったく効かない。ザキやザラキのような即死死霊系呪文もまったくの無駄だ。 となれば、肉弾戦しかないわけだけど――僕の力でアトラスの皮膚を貫けるかというと、僕には全然自信はない。つまり、僕一人では勝つのはほぼ不可能。 「……まぁ、それでもやるしかないんだけどね」 ロレとマリアは今、動かすことはできないのだから。 僕はため息をつくと、呪文を唱えた。 「我が周りに漂いし精霊たちよ、集いてその力を示せ。我が肉は骨は精霊の理を知る、死すべき運命持つものなり。汝ら不死の精霊たちよ、我を傷つけんとする刃、盾となり鎧となりて受け止めんことを!=v スクルト――防御力を上げる呪文だ。アトラスの力の前には焼け石に水かもしれないけど、やらないよりマシだろう。 アトラスは薄笑いを浮かべながらこっちを見ている。完全にこっちを舐めてるな。 まあ、当然のことだろう。それに油断してくれなきゃこっちが困る。 僕はもう二回スクルトの呪文を唱えてから、アトラスの足に向けて突撃した。全体重を乗せた一撃が、アトラスの足にぶち当たる。 ――だけど、アトラスは微動だにしなかった。 それどころか皮膚に傷がついてさえいない。アトラスの肌は岩よりも硬く、強靭だった。 ち、と舌打ちして僕は目を狙うべくアトラスの体によじ登ろうとする――だがアトラスは存外素早い動きで身をかわし、僕と間合いを取り――その左手の棍棒を、僕の体に振り下ろした。 「……………!」 僕は声にならない悲鳴を上げてのた打ち回った。三度のスクルトとぎりぎりで身をかわしたせいでまだ死んではいない。だが僕の左半身は完全に潰れていた。左腕と左足の骨が砕け、筋繊維がずたずたに裂け、人間の体とは思えないほどにぺちゃんこになっている。 痛い、とかいう段階ではなかった。 アトラスが棍棒を振り上げる。僕はそれをかわすことができるほど動くのは絶対に不可能だ。 つまり、僕は次の一撃で負けが確定するわけだ。 ―――切り札さえ、なければ。 僕はすうっと息を吸い込んだ。この呪法を使うには自分の肉体、精神、魂、全てを力に変えなければならない。 圧倒的に強い敵を前にした時、自分以外の全員を救うことができる、自己犠牲呪文メガンテ。僕はそれを以前からずっと研究してきた。 だけど使えたことは一度もない。メガンテを使う――自分の命全てを敵を討ち果たす力に変えるには、とてつもなく強靭な肉体と精神が必要で、僕の体にはまだそれだけの容量がなかったからだ。 だけど、竜王の城でいろんな文献を読み漁って。ひとつの呪法を見つけたんだ。 「アーヴァヤクトラ・ヴェーナ・イデュ・エルベドス、イミデュダーラ・ゲーマ・オブヌイ・ガードム=v これは普通の呪文じゃない。真の魔*@――混沌を世界に現出させるために、古代の人間が開発した術式なんだ。 アトラスがぴたり、と動きを止めた。戸惑っているようだ。人間からこんな言葉を聞くなんて思ってもみなかったのだろう。 そう、これは元はと言えば魔族の呪法。自分を完膚なきまでに消滅させ、同時に敵を倒すための呪法。 人間は普通肉体と精神という器に魂を閉じ込め、それを同調させて力を出している。ならばその器を取っ払い、魂だけにしてしまえばより純粋な力を発揮できるはずだ。 同時に肉体と精神を力に変換して、魂に飲み込ませてしまえばいい。そうすれば魂の持つ本来の力が、いやそれをさらに上回る力が出せるはずだ。 ――つまり簡単に言えば、僕はメガンテをまだ使えないけど、この呪法を使えば使えるのだ。 「エメダイオーン・ヴィスハー・ゼリセルクォータ・ジェミリン、ワーフヂューレ・チャ・パスカウジハード=v 右手だけで印を切る。当然だけど左半身からは血が噴き出してるから、僕の身体からはどんどん力が失われていく。 でも、その程度のことでするべきことができなくなるほど、僕は、僕のロレへの思いはやわじゃない。 「命の精霊よ、万物の根源よ―――=v 呪法を終えて、通常の呪文を唱える。この呪法は呪文と組んで威力を発揮する。それまでは単なる呟きだ。この呪法は言うなれば究極の自爆技、自爆する前に死んでは元も子もないってことだろう。 当然ながら、人は魂だけでは生きていくことはできない。魔族もそれは同じ。魂を守る器があって初めて生命は成り立つ。けれど魂は、器がなくなって消滅するその瞬間に、もっとも強力な輝きを発する―― この呪法は、肉体、精神、魂、自分を構成する全ての要素を力に変え、強力な呪文を使うための呪法だ。 そして、使った者は、肉体精神魂、全てが完膚なきまでに消滅して、復活も完全に不可能なまま、死ぬ。 復活の儀式に失敗した時のように、この世に最初からいなかったかのように消滅するのだ。 「我ここに宣言す、命は力なり、生を形作るものなり、万物の基にして世界を内包するものなり。我また誓約す、我が命、そは全て敵を討ち果たすために使われるものなり=v 死ぬのは怖くない。消滅するのも別に怖くない。 たとえもう二度と蘇ることのない死が訪れたとしても、かまわない。だって、僕は、ロレを守るために死ぬことができるなら、それ以上幸福な死に方なんてないんだから。 ロレにもう二度と会えないのは、とても、とても寂しいけれど――― ロレを守れない僕の命なんて、それこそなんの価値もないのだから。 「そして我命ず、命の精霊よ我が意思に従え。我欲するは我が命にあらず。我が命余さず原初の力と化して―――=v アトラスがはっとしたように棍棒を振り下ろそうとする。もう遅い。 「我が敵全て打ち砕かんことを!=v 呪文を唱え終わると同時に巨大な力が僕の中から噴き出した。その壮絶なまでの力に僕の精神はたちまちのうちに消失する。 最後に視界の中でアトラスが消滅するのを確認して、僕は心の中で笑んだ。これでいい。 ロレ、ごめんね。僕のせいで、きっといやな思いするね。自分たちを助けるために仲間が死んだなんて。 ごめんね、いやな思いさせて。本当にごめんね………。 その思いを最後に、僕の意識は闇の中に沈んでいった。 「………お、起きたか」 最初に聞いたのは、ロレのそんな声だった。 僕は開いた目をぱちくりさせて仰天した。僕、生きてる? というか、僕、ロレの背中の上で揺られてる? なんで? 「おい、起きたんなら自分の足で立てよ。体も元気になってんだろ?」 確かに、僕の体は五体満足だった。どこも欠けていないし、傷も残ってない。どこをとっても元気そのものだ。 狐につままれたような気分でロレの背中から降り(ちょっと……いやかなり残念だったけど)、ロレのあとについて歩き出す。状況がまったく読めなかった。 「……ロレ」 「ん?」 「ここ、どこ?」 「マイラの村に決まってんだろ」 「アトラスは死んだんだよね? なのに、なんで僕が生きてるの?」 ロレは僕の言葉に顔をしかめた。 「お前な、阿呆なこと言ってんじゃねぇ。俺らは教会で絶対確実に蘇生できるっつったのお前だろーが」 「…………」 そうじゃなくて。僕は、絶対に蘇生できない呪法を使ったのに。 「それから、な……」 「え?」 ゴツン! と、僕はロレに思いきり頭を殴られた。 「いたーい!」 「自分一人で勝てねぇって思ったんだったら俺ら呼びやがれ! なんのために一緒にいると思ってやがんだ! 自己犠牲呪文だぁ!? ざけんな、俺ぁたとえ蘇れようがどうだろうが命と引き換えに敵を倒すなんて戦法認めねぇぞっ!」 「え、ロレ、だって」 「お前にも大切なもんはあんだろーが、死んだらそれ守ることもできなくなんだぞ、俺の許可なく勝手に死んでんじゃねぇっ!」 「…………!」 結界内に声をかけるような時間の余裕はなかったとか、絶対蘇れる死なんて死と呼ばないと思うけどなとか、そんな反論が全部頭から吹っ飛んだ。 ロレの許可なしで死んじゃいけない。 それって、もしかして。 「ロレ」 「んだよ」 「僕は、ロレの許可なしで死んじゃいけないの?」 ロレは苦いものを飲み込んだような、妙な顔をしたけれど、うなずいた。 「ああ。てめぇは俺の………なんだ、その………なんつーか、あれだほら………」 「あれって?」 「………だーもうっ、ぐだぐだうっせーっ! いいからとにかくてめぇは死ぬな! 俺を守るっつうんならしっかり最後まで生きて俺を守りやがれ! 俺もお前のこと守ってやっからな!」 真っ赤になって、こっちを睨み、大きな声で怒鳴るロレ――― ああ。 この時初めて確信できた。 ロレは、僕のことを好きでいてくれる。 マリアの数十分の一にも満たなかったとしても。その他大勢に毛の生えた程度だとしても。 僕のことを、仲間として大切なだけじゃなく、好きだって、守りたいって思ってくれてるんだ。 ―――嬉しい………。 僕は泣きそうに嬉しくなって、潤んだ瞳でロレを見つめた。好きだという気持ちをありったけこめて。 ロレは落ち着きかけていた顔色をまた朱に染めると、がりがりと頭を掻いて、それからぶっきらぼうに言った。 「まー、お前のやったことは褒められたこっちゃねぇが……村の奴らを無事守ったことは褒めてやるよ。マリアと相談して、お前になんか褒美やるってことになったんだ。なにがほしい?」 ―――その言葉は、ロレにとってはなんの気ない褒め言葉と同じものだったのだろう。 だけど、ロレが僕のことを好きでいてくれると、オルガさんとディリィさんの言葉、そして高まっていた僕の思いで心から思いこんでしまっていた僕にとっては、最高のチャンスだと言っているように聞こえた。 だから、あとから考えると本当に間抜けなのだけど、僕は嬉しくて嬉しくてたまらない心地のまま、でもたまらなくどきどきしながら緊張しながら、応えてくれることを期待しながら――― 「ロレが」 ―――こう、言ってしまったんだ。 「ロレがほしい」 |