「ロレ」 そう僕は話しかける。その単音節に、僕の想いをせいいっぱいこめて。 その言葉に、ロレは眉をわずかに上げる。聞いてくれてるんだ、ってそれだけで僕の胸はいっぱいになる。 好きな人が、愛しているって大声で言える人が、目の前を歩いていて、話しかければ応えてくれる。 その、奇跡のような幸せ。 それだけで世界はありようを変えるのだと、初めて知った。 「風が気持ちいいよねー」 「………………」 「サマルトリアは春から夏にかけてが一番いい季節なんだよ。緑が一番元気だし、涼しいから!」 「………………」 「避暑にはちょっと早いけど、今度川見つけたら水浴びとかしようね!」 「………………」 ロレは最近、話しかけてもほとんど答えてくれない。言葉を返してはくれない。 それはとても寂しい。たまらなく寂しい。僕はロレと話がしたくてしょうがないのに、ロレはそうじゃないんだって思い知らされるみたいで。 でも、ロレがそばにいてくれるっていうことは、そんな鬱屈も吹き飛ばしてしまうほど圧倒的に幸福で。体の底からいくらでも目も眩むほどに湧き出てくるエネルギーに突き動かされて、僕はロレに何度も話しかけた。 「ロレ、僕ね、季節のうちでは春が一番好きなんだー。ロレはどの季節が好き?」 「………………」 「ロレ、ローレシアでは暖流の影響でサマルトリアよりずっと暖かかったでしょう? 夏とか暑かったんじゃない?」 「………………」 「ねえロレ、今日はなにが食べたい? あっ、見てよモモンガ! 昼に飛ぶなんて珍しいね! ほら白い花があるでしょう、これはサマルトリアでは春に咲く中でも二、三を争うくらいきれいな花で――」 「だ――――っ、うるせ――――っ!」 大声で怒鳴られて、僕は一瞬きょとんとした。なにをそんなに怒ってるんだろう? だけど次の瞬間、困惑は僕を押し潰すほどの絶望に変わった。 「ロレロレロレロレやかましい! いちいちベタベタしやがって、うっとうしいんだよ! てめえは生まれたての雛鳥かっ、俺のあとばっかくっついてくんじゃねえ!」 ――――――――― ロレが。僕のことを、うっとうしい、って。 ロレにとって、僕は、邪魔なの? ロレにしてみれば、僕は、いない方がいい? その認識は僕を根こそぎ吹き飛ばして、消滅させてしまいかねない衝撃を与えた。 なぜか少しうろたえた顔をしているロレに、僕は泣き叫びたいのを必死にこらえながら訊ねた。 「……僕、邪魔?」 「い、いや、邪魔っつーか……」 「僕、迷惑?」 「いや、迷惑っつーんじゃねえけど……」 「……ごめん、ね。ごめん、なさい。僕、ロレと一緒にいられるの、嬉しくて。浮かれちゃって……うるさかったよね。僕、うっとうしいんだ……そんなつもりじゃなかったんだけど……ごめんなさい……」 ロレに嫌われたら、僕がロレと一緒にいる意味も、生きる意味も消滅してしまうのに。 自分が生まれて初めて泣きそうになっているのにも気づかず、僕はこらえようこらえようとしながらもどうしても漏れ出してきてしまう泣き言にうつむいた。 こんなこと、生まれてこの方、一度も口にしたことなかったのに。 「わかったよ、悪かったよ! ひっつきたいんなら好きなだけひっつきゃいいだろ!」 ―――え? 僕は顔を上げて、ロレを見つめた。ロレはわずかに顔を赤くして、仏頂面の、でも底の方にたまらない優しさを感じさせる顔でこちらを微妙に視線を逸らすようにして見ている。 ―――本当に? 僕がロレのそばにいてもいいって、そう言ってくれたの、今? 僕はおそるおそる、でも必死の思いをこめて言う。 「僕、やかましくない?」 「……それほどは」 「僕、うっとうしくない?」 「ひっつくのを少し控えてくれりゃ、な」 ―――優しい。 僕は嬉しくて嬉しくて、ロレに抱きつきたいのを必死にこらえながら思いきり笑った。城にいた頃は一度もしたことがない、心の底からの笑顔で。 「ロレ、ありがとう! 僕、ロレのこと大好きだよ!」 ロレはなぜか、僕から数歩退いて、そのあとしばらくそばに寄ってくれなかった。 「ロレー、ごはんできたよー」 「おう」 「今日はねー、野鳩のローストと春野菜のスープ、つけあわせに山菜のサラダだよ! いっぱい食べてね!」 「おう」 「はい、ロレ」 「おう」 いつものことながらロレは「おう」とか「ああ」とかぐらいしか答える時に口にしない。まるで亭主関白な夫みたいだな、と思うとおかしかったけど、同時に嬉しかった。 ロレがそんな風な気持ちでいるんだとしたら、僕に心を許してくれているんだとしたら、こんなに嬉しいことはない。 それに、僕の作った食事をロレが食べてくれるってことは、やっぱりたまらなく幸せだから。好きな人の血肉を作る手伝いができてるんだって思うと、僕は心底からの幸福感に包まれるんだ。 ――まだ一度もおいしいって言ってもらったことはないけど。 野外料理の技術はきっちり学んだから一応それなりに自信はあるんだけどなぁ……まぁ、いつかおいしいと言わせてやるのが僕の目下の目標かも。 しばらくそんなことを考えながらロレの食べる姿を見ていたんだけど、ふと、気になっていたことを聞いてみた。 「ねえ、ロレ」 「はんだよ」 「ロレって、兄弟いる?」 ローレシアの正妃には他に子供はいなかったとは思うけど、ローレシア王には妾妃が多いというのは知っている。王族と認められたり認められなかったりする妾妃の子が、何人いるのかまではさすがに知らない。 「男兄弟はいねえよ。女の異母妹ならうじゃうじゃいるけど」 「そんなに? 会ったことある?」 「何人かには」 「その中に、ロレの好きな人いる?」 なぜかロレはずるっとこけた。? 僕そんな変なこと聞いたかな? 「お前な……血の繋がってる女相手に好きも嫌いもあるかよ」 「えー、なんで? 好きになるのに血の繋がりって関係あるもの?」 っていうか、血の繋がったいつもそばにいる人――親兄弟が好き、っていうのは普通に聞く話だと思うけどなぁ? 「あるに決まってんだろ! 第一なんでんなことてめーに言わなきゃなんねーんだ」 「僕はロレのこと好きだもの。好きな人のことは知りたいな。だめ?」 だって気になるもの。ロレがどんな人のことが好きなのか。ロレはどんな人のことを大切に思っているのか。 知ってその人たちに近づいてロレに好かれたい――なんて大それた願望は抱いてないけど。でもやっぱりいつかはロレに少しでも僕のことを好きになってもらいたいし、それにもっと単純に、僕はロレのことをいっぱいいっぱい知りたいんだ。 「おめーがどんなに知りたかろーがな、俺には言う義理はねーんだよ」 「そうかなあ」 小指の先っぽぐらいの義理はあるんじゃないかな? 一緒に旅してるんだし。 「そーだっ。……第一、好きだなんだって話は王族の、それも男には縁のない話だろーが」 「え? なんで?」 僕は聞き捨てならない台詞を聞いて、思わず目を見開いて訊ねた。誰も好きになれないって……それじゃ、まるで…… 僕みたいじゃないか。 そんなの、ロレには全然似合わないのに。 ロレは一瞬、しまったという顔をして、それからがりがりと頭を掻いて渋々話してくれた。 「一人前の男ってのはな、特に重い責任を持つ人間は、惚れたはれたにかまってる暇はねーんだ。男は仕事に一生をかけるもんだ、そーいうもんは娼婦にでも任しときゃいい、ってな」 ………………。 それは、ある意味今の時代の当然の風潮と言えたかもしれない。 特に尚武の気風の強いローレシアでは、男は好きとか嫌いとかに関わる必要はない、っていうのはごく普通な考え方かもしれない。 でも、僕は。 「そうかな?」 そう言っていた。ロレに逆らいたくないとかそういう気持ちもあったけれど、それ以上に。 「本当に、そうかな?」 ロレみたいな、本当に豊かな気持ちを持った人間が誰も好きにならないっていうのはもったいなさすぎると思うから。 「違うってのかよ。お前だって将来は政略結婚することになんだろ」 「うん、そうだろうね。でも、誰かを好きになるってことは、止められることでも予防できることでもないよ」 眉間に皺を寄せて、片眉を上げて、言ってくるロレに、そう返す。 「誰かが誰かを好きになる。自分の中に他人が映る、それってものすごいことだよね。一つの奇跡だ。でも同時に、とても当然のことでもあるんじゃないかな。人は、いつだって人を愛したいって思ってるんだから」 「……なんだよ、そりゃあ」 「人を愛せないと思っていても、愛さないと決めていても。ちゃんと生きている限り、心の中で誰かを愛する準備は進んでる。そしてある人に出会った瞬間――愛は花開く。周りの状況、立場、理屈、そんなもの一切考慮せずに。……人間って、きっと愛することに飢えてる生き物なんじゃないかな。誰かを愛したくて愛したくてしょうがないんだよ、きっと……」 僕ですら、この僕ですら、君に出会った瞬間に、君を好きになったのだから。 そうなんじゃないかなって、今は思えるんだ。 「ロレも、愛なんて自分には関係ないって思っていたとしても、必ず、いつか必ず、誰かを大好きだって、たまらなく愛しいって思う時が来るよ」 そう言うと、ロレはむすっとして、ご飯を食べ終えると毛布を被って寝転がってしまった。僕はこっそり微笑んで、ロレを見つめる。 好きとか嫌いとか、そういうことが苦手で、愛することに不器用なロレが、たまらなく可愛く思えたからだ。 ――その時は僕はまだ、ロレがいつか好きになってくれるのが僕だったらいいな、とは―― ほんの少ししか思っていなかった。 |