『――お前は、もういらないだろう?』 深く、深く。 僕の心よりはるか底の深淵より、そんな声が聞こえてくる。 (―――いらない) 半ばまどろみ、半ば冷たく意識を冴えさせながら、僕は答える。 『――世界などもういらないだろう? いや、最初からお前は、世界などいらなかっただろう?』 (いらなかった。ずっと、ずっといらなかった………) その声は、ひどく暗く、重く、死者の腕のように冷たく――心地よかった。その冷たい声に包まれると、自分が死に近づいていけるような気がして、とても楽になった。 ――ああ、本当に。本当に僕は死にたかったのだ。 この世に生れ落ちた、その時から。 僕の居場所は、僕がいてもいい場所は、この世のどこにもなかったから。 『――ならば、死のう。世界と共に、滅びよう。もう我らは、世界のなにも、必要としていないのだから………』 (ああ……そうしたい。滅びることができたら……なにも存在しない無の中に、飲み込まれることができたら……) それができたらどんなに楽だろう。どんなにすっきりするだろう。 ――僕は、もう、世界のなにも必要としていないのだから。 『――では、私はお前を無に還そう。復活も転生も存在しない、完膚なきまでの無へ至るようお前を消滅させよう』 (ああ……) 僕は呻いた。全身を包みこむ安堵に。 理性ではいけないとわかってはいても、その言葉はたまらなく甘美だった。 もう幸福など存在しない、僕にとっては。 声がするすると僕の方にその力を伸ばし、絡みつかせる。少しずつ少しずつはるか深淵へと身を沈めさせていく。 それに幸福感すら感じながら、僕は、心の中に存在する唯一の人間の名を呼んだ。 (…………ロレ) 目が覚めた瞬間、感じたのは激痛だった。 「が………は!」 喉の奥から空気が漏れる。悲鳴じゃない。悲鳴なんて上げられる余裕はなかった。 激痛。激痛激痛激痛激痛。体中の神経に直接触れられているかのように体中が痛む。 体中に焼けた針を突っこまれているかのような、酸で体を溶かされているような、とてつもない激痛。それが間断なく僕の体を襲った。 「…………!」 耐えきれずベッドの上をのた打ち回る。痛い痛い痛い痛い痛い痛い。たまらなく痛い体中が痛い死ぬほど痛い! ベッドから体が落っこちたが、そんなことはどうでもよかった。僕の体はそんな衝撃など感じないほどの痛みに支配されていたのだ。 そのうちふいに、すうっと痛みがひいた。と思うと、今度は猛烈な呼吸困難の症状が僕を襲った。 息ができない。必死に息をしようとするのだけど、気道が狭まって空気が通らない。ヒュー、ヒュー、と喉が鳴り、肺は呼気を吐き出そうと震えてげほげほと咳き込むけれど、それでもまともに息をすることが、酸素を取り込むことができない。 苦しい。苦しい、苦しい。苦しい、苦しい、苦しい! 体中の細胞が酸素を求めて暴れている。けれど喉は少しも空気を取り込んでくれようとはしなかった。水の中に沈められた時のような、あるいはそれよりも苦しい呼吸。絶息の苦しみとはこういうものか、と頭のどこかが思った。 コンコン、とドアがノックされて、誰かが部屋の中に入ってくる。 「サウマリルト、ちょっといい……!? サウマリルト! どうしたの!?」 マリアの声だ、とちらりと思う。だけど僕には返事をする余裕なんてなかった。交互に襲ってくる激痛と絶息の苦しみに、耐えなければならなかったから。 医者だか司祭だかが上げる声を遠くに聞いた気がした。ベッドに寝かされて、拘束具で拘束されるのを人事のように感じた。今の僕の中にあるのは、痛みと苦しみ、それだけだったからだ。 激痛にのた打ち回り、苦しみに喉をひっかく。どちらにしろ耐え難い苦痛がえんえんと続く。 もはや動く気力もなくなってきた頃―― 声が、聞こえた。 「な――なにやってんだよっ!」 ―――ああ。 ロレの、声だ。 こんな時でも、こんな時だから、ロレの声はどこまでも美しく僕の中に響く。体の芯に響く低く通りのいい声が、僕にはたまらなく嬉しい。 ロレが僕の存在を認めていないのはわかってるけど――それでも、ロレの声を聞くことができるのは、ロレの存在を感じることができるのは、たまらなく嬉しい。 情報を入れることすら苦しくて、閉じていた目をゆっくりと開く。それだけの動作に体中の力を使わねばならなかった。 ――ロレが、見える。 ああ、ロレが見える。僕の唯一、世界でただ一人好きな人が。 ひどく久しぶりにちゃんと見たロレはひどく苦しげで、なにをそんなに悲しむことがあるんだろう、ととても可哀想になったけれど、それでもやっぱり僕は、たまらなく嬉しかった。 「サマ!」 目が合ったとたん、ロレはそう叫んだ。僕の名前を呼んでくれた。 ああ――― 僕は性懲りもなく歓喜に震えた。顔が自然に笑みを作る。今でも体中に激痛が間断なく走っているのに。 ロレが、僕の名前を呼んでくれた――それがどんなに嬉しいことか。慣れていつの間にか忘れていた――この喜び。 ――ロレの方は、やはり今でも、僕の存在を認めたくないのはわかっていたけれど。 僕は、拘束具を振り払った。レベル上げをした僕の力があれば、この程度のことは楽にできる。 でもやはり、今の僕では、それだけのことに多大なエネルギーを費やす必要はあったけれど。 「サマ!」 「なにをしているんだ、君は!」 ロレの声がする。それが僕に力を与えてくれる。だからやるべきことをやることはできるはず。 ――僕は、ロレに、言わなきゃならないことがあるんだ。 「―――ロ、レ……っ。僕のかけ、られたのは、ハーゴンの、呪い……だよ」 「……ハーゴンの………?」 僕にはわかっていた。目覚める前のあの声。あれは、ハーゴンの声だ。 ハーゴンが僕に呪いをかけた。どういうつもりかはっきりしたことはわからないけれど、僕を消滅させてくれると、そう言っていた。 この痛みや絶息の苦しみは正直耐え難いけれど――それでも、僕はその結論にたどり着いたとき確かに安堵を感じていたんだ。 ――ロレにもういやな思いをさせなくていい。不可抗力という形で、死ぬことができるんだ、と。 「おい、それよりサマっ、大丈夫なのかよ!?」 僕は思わず微笑んだ。そんなことを言われたら、誤解してしまいそうだ。まだロレが、僕のことを好きでいてくれるって。 ハーゴンのかけた呪いだから、解除するのは不可能だ、と言いたかったのだけど。言えなくなってしまった。 だから代わりにこう言った。 「だい、じょうぶ、だよ。それ、より、お願いがっ……あるんだ」 「お願い……?」 ロレに、笑って僕は告げる。苦痛に耐えて醜く歪んでいるだろうけど、できるだけ優しい笑みになっているといいと願いながら。 「僕を、この、街に――この街の、どこか裏路地にでも、捨ててい……っ、て」 そこまで言うとまた絶息の苦しみが襲ってきて、僕は激しく咳き込んだ。 「な……なに言ってんだよっ! おま……捨ててけって……そんな……んなことできるわけねぇだろ!?」 ああ、本当にロレは優しい。存在を認めていない僕のような人間に、そんな風に言うなんて。 でも、僕は――ここで死ぬべき存在なんだ。 「それが、最良の、選択だよ……っ。僕は、もともと、大した、戦力に、なって――ぐふっ、がは!」 「これ以上話すのは無理だ、医者として承服できん!」 聞こえてきた声に、僕は一応答えた。答えないと眠らせられるのではないかと危惧して。 「だいじょう、ぶ――今さえもてば、あとは、どうなったって、いいから」 「な――」 口、動け。咳よ止まれ。今だけでいい、今だけでいいんだ。 今さえもてば、僕はもう死んでいい。 「ロレ、ごめんね。ロレ、ごめんね。こんな、汚い、僕で。いやな、思い、させて、ごめんね。でも、僕、もう、いなくなるから。だから、僕のことなんか、全部、捨てて、忘れて、幸せに――なってね」 体中の力を振り絞り、絶息の発作を渾身の力で抑え、なんとかそれだけ言葉を紡ぐ。ロレに伝えなきゃならないんだ。 僕のことなんか、もう、消していいよって。 「な――んだよ、それ。てめぇ、馬鹿言うのもいい加減にしろ! お前今の状況わかってんのか!?」 けれどロレは僕の胸倉を掴み上げる。ああ、またロレにいやな思いをさせちゃったんだと、苦しく息をしながら悲しくなった。 「おい、お前!」 「黙ってろ! わかってんのかサマ、お前今の苦しみがこれからずっと続くかもしれねぇんだぞ!? 俺のことなんか気にしてる場合じゃねぇだろ、どうしてなりふりかまわず俺らに助けてくれって、呪い解いてくれって言わねぇんだよ!?」 ……なにを言っているんだろう、ロレは? 「だって、ロレ、僕のこと気持ち悪いんでしょ?」 「――――」 きょとんとしてそう言うと、ロレはなんだか、まるで呆然としているみたいな顔をした。 なんで、ロレがそんな顔をするんだろう。ロレが知らないことなんて、僕一言も言ってないつもりだけど。 「気持ち悪い、僕のこと、なんか、捨てて、しまって、いいよ。げほっ、目障り、なら、土に、埋めて、くれても、水に、沈めて、くれても、いい。ごめんね、が……っ、自分で、しなきゃ、いけないのに、手間を、かけさせて、しまって……げ、えほっ……!」 足りない空気を必死にかき集めて、そう口にしたのだけど、ロレは顔を真っ赤にして怒鳴る。 ああどうして僕は、最後までロレを怒らせることしか、いやな思いをさせることしかできないのだろう。 「お……前、なに考えてんだ! 自分のことなんだと思ってんだ!? 俺がどんなこと言ったって、お前は、お前で、ちゃんと………!」 「ロレが、存在を、認めない……っげっほ、僕に、なんて……えほっがふ、存在する、価値、ないよ」 だから、遠慮なく捨てていっていいんだよ。 そう続けるつもりだったのだけど、僕の体力はそこで尽きた。 猛烈な絶息の発作を何度か起こして、もはや暴れる力もなく、意識を失ってしまったのだった。 僕は深淵へと少しずつ落ちていっている。体中に十重二十重に絡みついた、声の腕に導かれて。 その声が誰のものかはもうわかっていた。一度会っているんだ、忘れない。 大神官ハーゴン。僕たちの敵だ。 『――私はお前の敵ではない』 静かに、声がそう囁く。 『お前の魂を感じとった時から、お前の敵であったことはない……お前を理解したいと、お前は私を理解してくれるかもしれないと、そう思ったのだから………』 (呪いをかけたくせに) 僕はかすかに抵抗するようにそう言う。 (僕にあんな苦痛を味わわせたくせに) 『それはやむをえないことだ……私も苦痛を味わわせたいと思ったわけではない。お前を完膚なきまでの無に還すためには、お前に魔≠ニなってもらうしかなかったのだ……』 (魔≠ノ……?) 『そうだ……完全なる消滅。そのためには魔≠ニなるしかない……世界と共に、無に還るためには……』 (…………) 『それに、私はお前に自分を理解してもらいたかった……そのために魔心消焼の呪からお前の魂を救ったのだ……』 僕は驚いた。それは僕がメガンテを使うときに使った、二度と復活できない代わりに強い力を出す呪法の名前だった。 (……どうやって?) 『私には混沌から引き出した知識と、人間がこの千五百年積み重ねてきた呪法類例の集積がある……それを用いお前の呪法を乱した。あの段階でお前の魂を救うためには、メガンテの呪文の効果を発揮させるよう呪力を足す方法しかなかったが……』 (……それで、僕は生き返ることができたのか……) けれど、そうして生き返ってしまったから――僕はロレに、あんなことを言ってしまったのだ。 そう思うと複雑で、僕は少しハーゴンの声に抵抗して深淵に落ちながらもがいてみた。 とたん――あの激痛が僕の魂を襲った。爪の先に焼けた鉄串を突っ込まれたような痛みが、全身をくまなく走る。 (…………!!) 『抵抗しないほうがよい……抵抗すればよけいな苦しみが魂を襲う。ただ私の声に身を委ねれば、苦痛は最小限ですむ……』 (…………) 納得いかないものはあったけど、僕はとりあえず抵抗をやめた。――それほど強く抵抗したいわけでもなかったし。 だって、ハーゴンの声は、共に滅びようという誘惑の叫びは――僕にはたとえようもなく優しく聞こえたから。 『サウマリルトよ………』 (なに………) 『お前は、私と共に世界を滅ぼす気はないか?』 僕は少しきょとんとした。なんでそんなこと聞くんだろう。 (なぜそんなことを?) 『他意はない。ただ、どうせお前を消滅させるなら同じ時に消滅したいと思っただけだ……世界と共に、世界ごと消滅したいと……』 (…………) 『お前も、世界などいらないはずだ。世界など不必要なはずだ。ならば自分と共にその世界を滅ぼしたところで、別にかまわないだろう?』 (……だけど………) これまで僕にずっと優しくしてくれた、家族や国の人たちのいる世界を滅ぼしていいものだろうか。 それはしてはいけないことだと思う。 そう言うと、ハーゴンは静かに言い返した。 『だが、お前は本当に、その者たちを大切に思っているのか?』 (………………) 『そうではないだろう……ただ、お前は理性でそう考えているだけだ……そう考えるべきだ、そう感じるべきだ、と……お前は本当は、別に世界が滅びても、滅ぼしてもかまわないのだろう? 自分が滅びてもいっこうにかまわないのと同じように……』 (………………) 『世界が、この鬱陶しい世界が、なにもかも消えてなくなる瞬間を見てみたくはないか? 世界も、自分も、なにもかもが無に帰す、永遠の静寂が訪れるその瞬間……』 (………ああ………) 僕は嘆息した。本当に、ハーゴンの声はなんて心地よいんだろう。 この声を聞いていると、なにも感じなくていいように思えてくる。生まれた時からずっと心のどこかで願っていた、完全な無に自分が呑みこまれていく感触。 声が、僕の魂を包みこむ。それに身を任せるのはとても楽で、気持ちがいいこと。 僕は目を閉じ、耳をふさいだ。全てと断絶し、ただハーゴンの声にだけ支配された。 なにもない。それはとても楽。なんにもない、安堵に満ちた世界。心地よい。なにもない。なにも――なにも―――なにも―――― 『―――サマ!』 (――――!) 僕はばっと目を開けた。ふさいでいた耳をしっかりと澄ます。 けれどその必要もなくその声は大きく響いていた。僕の心の中から、魂の底から、割れんばかりに響き渡るその声。 『探したのはこっちの方なんだよサマルトリアの王子……じっとしてりゃあいいものをうろちょろうろちょろ動き回りやがって……!』 『長えな。俺はサマって呼ぶぜ』 『おまえ、すげえな。なかなかやるじゃん』 その声。その声。どうして忘れていたんだろう。 『やかましいっ! てめぇはもう一回死ね、そんでもう蘇ってくるな!』 『俺を手伝うと誓え、サマ』 『目の前で襲われてんなら、ましてそれが仲間なら……助けちまうもんだろうがよ』 『仲間の貞操と引き換えにもらうメシなんぞまずくて食えるか』 ああ――― わかってるのに。僕は存在していちゃいけないとわかってるのに。 でも、その声は。どこまでも僕を照らし出すその声は。 僕の、消滅したいとか、無に還りたいとかいう気持ちを吹っ飛ばして、例えようもなく幸せにしてしまうんだ。 (―――………) 僕は息を吸いこんだ。体の底から、魂の底から、僕の存在理由を全力で叫ぶ。 (ロレ!!!) 『!』 僕の体に絡みついたハーゴンの声が吹き飛んだ。深淵に沈みこんでいこうとした僕の動きが止まる。 (ロレ!) 僕は叫ぶ。叫んでどうしようということを考える暇もなく、ひたすらに叫んだ。 好きな人の名前を大声で叫べる――その幸福に、しばし僕は酔いしれた。 『――だが、ローレシアの王子はお前の存在を認めていないのだろう?』 ハーゴンの声が聞こえ、僕はは、と正気に返った。 『ローレシアの王子は、お前の心を認めず、傷つけ、放り捨てたのだろう? お前の心などいらないと。お前の存在など認めないと』 (―――ええ) 僕はハーゴンの声がする方に向き直った。その通りだ。僕はこのままここで消滅するのが一番いい、その考えは変わっていない。 (だけど、僕はあなたとは行けません) 『……なぜ?』 感情の感じられない、けれどわずかに波立った声が僕に訊ねる。 僕は答えた。僕にとってはあまりに当然なその答えを。なんで忘れていたのか不思議なくらい。 (ロレのいる世界を消してしまいたいとは、僕は思わないから) 『…………』 (この世界にはロレがいる。僕の好きな人が生きている。だから――僕はこの世界を守るために、全力を尽くすんです) ハーゴンはしばし無言で僕の言葉を聞いていたが、やがて言った。 『お前はローレシアの王子を憎んではいないのか?』 僕はハーゴンの見当違いを笑った。 (憎む? なんで?) 『自分の心を傷つけられたのみならず、無視され、存在を否定されたからだ』 (でも、だからって僕がロレを憎む理由にはならないでしょ?) 『…………』 (ロレは僕に、こんな僕に幸せを与えてくれた。一時でも幸福を感じさせてくれた。そんな人を憎んだり恨んだりする理由、ないでしょう? ロレが僕をどれだけ傷つけたって、僕はロレと出会えて本当に幸せだったんだから) 『…………』 また少し黙ってからハーゴンは、静かに聞いてくる。 『もしローレシアの王子が世界から消えたら、お前は世界を滅ぼしたいと思うか?』 その言葉に、僕は微笑んで答えた。 (いいえ) 『なぜ?』 (ロレが、世界を愛しているから) 僕も初めて気がついた。僕が世界を守る理由に。 (ロレが世界を愛しているから。ロレが愛しているというだけで、僕には世界は守る価値がある。たとえロレがいなくなったとしても) ロレ――― 君の存在で、僕がどれだけ救われているか、君は知っているだろうか。 君のおかげで僕は世界の中に組み込まれることができる。世界を惜しむことができる。世界のために、鬱陶しいとすら感じていた世界のために、戦うことができるんだ。 ハーゴンは、静かに嘆息した。 『サウマリルトよ………お前はなぜ………』 かすかに、ひどく切なげにそう囁き――口調を元に戻して言う。 『しかし、お前がそれを選ぶならば、お前は未来永劫魂の苦痛を味わうことになるのだぞ』 (かまいません―――その方がいい。僕はロレにいやな思いをさせず、消えていくことができるんだから……) 『…………』 ハーゴンは再び、深く、深く嘆息し、去っていった。気配が遠ざかるのがわかる。 ――そして、再び、あの苦痛がやってきた。 (…………っ、…………っは、…………っ!!) もうあれから、何日経っただろうか。 それとも、魂には時間など関係ないのだろうか。 体中――今の僕は魂だけなのに体っていうのも妙だけれど、全身に走る太い針で目玉を突き刺されているような激痛。 そうでない時は、絶息の苦しみ。呼吸ができないという感覚をえんえんと味わわされる。 激痛、苦しみ、激痛、苦しみ、激痛、苦しみ。その繰り返しが、ひたすらに何度も何度も数えきれないほど続いた。 たまにハーゴンがやってきて、静かに僕のそばで待ち、僕が助けを求める気配がないのを知ると無言で去っていく。それも何度繰り返されたかわからない。 僕は助けを求める気はなかった。この苦痛に終わりはないのだ、と考えるとさすがにぞっとしたが、それでも、ロレにいやな思いをさせながら生きていくよりずっとマシだと思えた。 だから僕は、その苦痛の地獄の中に居座り続けた。終わりのない、先が見えない、激痛と苦しみの繰り返しの中へ。 激痛、苦しみ、激痛、苦しみ、激痛、苦しみ………。 (………ロレ) 僕はこっそり何度もロレの名前を呟いた。ロレには迷惑なことだろうけど、知られるわけじゃないんだしと思って。 ロレの名前を呟くと、その苦痛の繰り返しが少しだけ楽になった。与えられる苦痛に変わりはなかったけれど、僕がこうして苦しみ悶えながら死んでいくのにも、いくぶんかの意味はあると、そう思えたから。 (………ロレ………) ふいに、視界が明るくなるのを感じた。 これは、僕の身体が目を覚ましたのだ、と気づくのに少しかかった。けど、どちらにしろ同じことだろう。 目を覚ましても僕の魂には、絶えず激痛が与えられ続けていたのだから。 周りで誰か話してる。それが誰かもわからない。 目を開ける力も、耳を澄ます力も、もう残ってはいなかった。 ふいに体が起こされた。触覚はまだ生きていたらしい。 頭の後ろに手が回されて、固定された。なにをされるのか、とちらりと考えた瞬間―― 僕の唇に、なにか柔らかいものが触れた。 柔らかくて、少し湿っていて、ひどく熱いなにかが。 なんだろうこれは、この熱は。たまらなく熱い、僕を焼き尽くすのではないかと思うほど。 でも、でも。 なんて心地いい、幸せな熱なんだろう。 激痛を感じながらうっとりとそう思う――と、その直後、僕の喉の奥になにかひどく苦いものが押し込まれた。 それはなぜかするすると僕の体内に入り込む。そしてさらりと僕の体に溶け――次の瞬間、激痛が消えた。 僕はなにがなんだかわからないまま、目を開ける。激痛は去ったけれど失われた体力は戻ってこないようで、それだけのことにもそれなりに力を使わねばならなかった。 とにかく力をこめて目を開け――ロレと目が合った。 「サマ………!」 「………え?」 僕はぎょっとした。なんで、ロレがここに? 激痛が去ったことが思い出された。まさか、まさか――― 「え、なに、も、しかして、僕、呪いが解けちゃった、の?」 間抜けな台詞。だが、そんな台詞を言わなくても実際僕の状況は果てしなく間抜けだった。 捨てていってくれと言ったくせにあっさり呪いが解けて。消えるはずだったのにその予定が消えた。 なにより、ロレに、僕の存在を認めていないロレに、また会ってしまった――そう思うとカーッと頭に血が上って、僕は言い訳しながら必死にロレの目の届かないところへ逃げようとした。 「……ご、ごめん、ロレ、ごめん、ごめんね、迷惑かけて。でもいいから、捨てていっていいから、僕のことなんて全然気にしないでいいから」 動け、動け僕の体。世界から消えるのが無理なら、せめてロレの目の前から消えてしまわなくては。 「ロレ、本当に僕のことなんて気にしなくていいよ、捨てていってもいいし、あ、ついてきた方がいいならついていくけど、ロレがいやな思いするならやめた方がいいと思うし―――」 力の入らない体に必死に力をこめて、ロレから逃れようとばたばたする―― と、突然僕は力強い腕に腕をつかまれた。そしてぐいっと引き寄せられた。 太い腕が背中に回された。ぎゅっと服をつかまれた。 ――僕は自分の感覚を疑った。 これは、なに? この熱さは、なんなんだろう? 僕は――ロレに、抱きしめられて、いる? 「ロ、レ………!?」 自分の見ているものが、感じているものが信じられなくて僕は混乱した。見えているのはロレの耳、肩、そして背中。 なんで? なんでこんなものがこんな角度で見えるんだろう? 「サマ」 僕の耳元で囁かれる、たまらなく熱いロレの声。それを聞いた瞬間、僕は達したかと思えるほどの快感に震えた。 駄目だ、そんなことをしていたらロレがいやな思いをする。ロレはきっと僕を気遣ってこんなことをしてくれてるんだ。 僕は必死の思いで意思を奮い立たせて言う。 「だ、駄目だよ、そんな、わかってるから、僕のこと気持ち悪いのわかってるから、無理しないで、遠慮しないで僕のことなんか捨てて忘れて全然かまわないから―――」 「もういい」 掠れた声で、そう囁かれた。太い腕でぎゅっと抱き寄せられた。 僕は泣きそうな幸福感に満たされる――でもこんなのは本当じゃない、信じられないという心の声は大きくて、おそるおそるロレに真意を訊ねようとする。 「ロレ………?」 「いいから………もう、いいから。わかってるから」 「わ、かってるって」 「俺、お前とちゃんと向き合うから。あとでちゃんと話すから………だから今は―――黙って、抱きしめさせろ」 わからない。さっぱりわからない。なにが起こってるのかさっぱりわからない。 でも、ロレがいる。ロレがここにいて、僕を抱きしめてくれている。 その存在感。幸福感。 本当にロレは僕を抱きしめてくれているんだろうか。これは夢なんじゃないだろうか。今まで一度もそんなことしてくれたことないのに。 怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。次の瞬間にはロレに突き飛ばされて憎憎しげに剣を突きつけられるのではないかと恐ろしかった。 だけど、ロレの腕が僕を抱きしめてくれている。今僕はロレに抱きしめられている。 その力は圧倒的で、僕を泣きたいくらい幸せにして、だから僕は、怖かったけど、たまらなく怖かったけど、おそるおそる自分の腕をロレの背中に回して―― たまらない幸福を感じながら、ぎゅっと、ロレを抱きしめたのだった。 |