「悪かった」 いきなりそう頭を下げられて、僕は困惑した。 昨日。ハーゴンの呪いがロレたちの手によって解かれ。 僕は呪いからは解放されたものの、体力はまだ戻っていなかった。一週間の間、僕の魂に与えられた責め苦は僕の気力体力を想像以上に萎えさせていたらしい。 一人で歩くこともできないので、僕はロレにおんぶされて宿屋まで運ばれた。僕はその間中ロレが怒り出すんじゃないかと思ってドキドキしてたんだけど、ロレはずっと無言で僕を宿屋まで優しく運んでくれた。 そして、僕を一人部屋に寝かせて、「ゆっくり休め」とまで言ってくれて。僕はそれだけでロレどうしちゃったんだろうと心配でしょうがなかったのに、明けて翌朝僕の部屋に入ってくるなりこうして頭を下げてくる。 僕は本当に、ロレはいったいどうしちゃったのか、と不安でしょうがなかった。 「あの……ロレ。どうしたの?」 「……悪かった」 「悪かったって……なにが?」 おそるおそる聞くと、ロレはぎっと僕の目を一瞬睨んで、すぐにまた頭を下げる。 「決まってんだろ。お前が俺に、好きだって言った時に、俺が言った台詞だよ」 「え……」 僕は今までに何度もロレに好きだって言って、そのたびにロレにいろいろ言われてきたから、そう言われてもどれのことだか。 首を傾げる僕に、ロレは苛立たしげに言った。 「ほら……気色悪いとか、触んなとか、いろいろひでぇこと言っただろ」 「………もしかして、マイラでの話?」 「………ああ」 ロレは頭を下げる姿勢を崩さない。僕に心から謝罪しようとしてるのがよくわかる。ロレは謝る時もいつでも真っ向勝負なんだ。 でも、だけど、謝るって言われても。 「なんで謝るの?」 僕は強い困惑を感じながら、おそるおそる言った。 「ロレはそう思って言ったんでしょう? それなら謝ることなんて全然ないよ。ロレが僕のことを触られるのも気色悪いって思ったんだったら、そう言う権利がロレにはあるじゃない」 「……お前な。俺が言ったこと、ひでぇって思わなかったのか?」 「そりゃ……初めて聞いた時は、心臓止まるかって思うくらい、苦しかったけど。でも、しょうがないじゃない。僕がロレにとってそういう存在なんだとしたら、そう言われるのは当然だし、それに伴う苦しさだって僕は甘受しなきゃいけないと思うよ。僕は、ロレにとって、気色悪い存在なんだから」 だからこうして話をしていていいかどうかも僕は不安でしょうがないんだよ。 そう続けて言おうとしたんだけど、その前にロレがばっと顔を上げて怒鳴った。 「お前……どうしてそんな風なんだよ!」 「え……」 「どうしてそんな風に自分大事にしねぇんだ!」 憤怒の形相でそう怒鳴ったとたん、はーっとため息をついて頭を下げる。 「……すまん。俺に怒れる資格ねぇよな」 「え、え、ロレ、謝らないでよ」 僕はひどく慌ててしまっておろおろとした。 「悪いのは僕のほうだよ、ごめん、ロレを怒らせるようなことしちゃって。ごめんね、僕はロレにとって気色悪い存在なのに―――」 「気色悪くねぇよ」 きっと顔を上げて、きっぱりとロレは言った。 「え……?」 「お前は、気色悪くねぇよ」 「………ロレ」 僕は困ったような顔をするしかなかった。ロレの言葉を信じないわけじゃない、そんなわけない、けど。 ロレは今まで何度も僕に気色悪いと言ってきた。マイラでは本当に心底そう思ってると感じられた。 だから、今そう感じていたとしても。すぐまた気色悪いと感じられるような気がして、素直には受け取れなかった。 「あの……無理しなくて、いいよ?」 「無理なんてしてねぇ」 「だって……ロレ、ロレのことを好きな僕は顔も見たくないんでしょう?」 そう言うと、ロレはぎっと僕を睨んだ。 「だから、悪かったって言ってんだろ」 「だから謝らないでいいってば、本当にそう思ったんでしょう? それなら気を遣わないで」 「遣ってねぇ」 「でも、ロレのことを好きな僕は、気色悪いんでしょう?」 ――ロレは、一瞬、ひどく辛そうな顔をして、首を振った。 「気色悪くねぇよ」 「…………」 「好きになるなとか、そういうことじゃねぇんだ」 「え……?」 「好きなら、好きでいいから」 「ロ―――」 僕は、今度こそ呆然としてしまった。 ロレ、いったい、どうしちゃったの? 「……なんか、食いたいもんねぇか」 「え?」 ふいにそんなことを言われ僕は目を見開いた。 「な、なんで?」 「なんでじゃねぇよ、てめぇは病人だろ。世話されるのが当たり前だろうがよ」 「せ、わ、って……ロレが、僕を世話するの?」 「おう」 僕は仰天してぶるぶると首を振った。 「い、いいよ! そんなことしなくていい!」 「タコ。てめぇ今自分一人じゃ歩くこともできねぇだろうがよ、黙って世話されとけ」 「そ、そんなこと言われたって……!」 だって、そんな、ロレが僕を世話するなんて、僕がロレに世話される側になるなんて、そんなのって絶対ありえないことなのに―― と言おうとした瞬間、目が眩んで頭がくらくらとして、僕はベッドの上に倒れこんだ。頭を激しく振ったせいらしい。 「バカヤロ、なにやってんだ」 そこまではとてもロレらしい台詞だった。だけどそのあとロレは、 「大丈夫か?」 と言いつつ僕の体を支え、そっと横たえさせて布団をかけてくれたんだ。 僕はそのあまりのそぐわなさに呆然としてしまった。ロレが、大丈夫かと言って僕を気遣い、世話までしている。 おかしい、ありえない、そんなことあるわけない。だけどロレは真面目な顔をして「水いるか?」なんて言ってる。 僕はただもう、顔を青くしてぶるぶると首を振ることしかできなかった。 そんなことを一週間繰り返して、ようやく僕も慣れてきた。 だんだんわかってきた。ロレは、僕にすごく悪いことをしたと思ってるんだ。だからその償いというか、謝罪の意を表すために僕にいろいろ優しくして親切に世話してくれている。 確かにそれは、ロレに堂々と優しくしてもらえるというのは、くすぐったいような幸福感を覚えさせる扱いではあったけれど、それ以上に僕はどうしても恐縮してしまった。今までずっとロレと僕の関係は、僕が一方的にロレにいろいろやって、ロレがそれを享受しつつ時たま拒絶する、という形でしかなかったのだから。 こういう風にロレの方から関わってこられると……なんていうか、幸せすぎて怖い。 「……お前、本気で俺に初めて会った時から俺のこと好きだったのか?」 いつものように僕の部屋にやってきて、いつからロレのことが好きだったのかと聞かれて答えると、ロレは愕然としたように言った。 「うん。そう言ったでしょ?」 マイラでも言ったし、それまでにも何度も言っていたと思うんだけど。 「なんで?」 「なんでって……?」 「俺のことなんにも知らねぇのに、なんで俺のことを好きになれたんだ?」 僕にとってはあまりに自明なこと。でも、ロレにとっては不思議なことなんだ。僕は少し笑った。 「ロレが、ロレだからだよ」 「……なんだよそれ」 「そのまんまだよ。ロレが、そういうロレだから――僕は一目惚れしたんだ。人生でただ一人、ロレを好きになったんだよ」 「………ふーん………。……なんか食いてぇもんねぇか?」 視線を逸らして言うロレに、また僕は笑う。 「食べたいものはないけど、少し喉が渇いたかな」 「バカヤロ、ちゃんと食え。食って栄養つけろ。てめぇだって医者だろうが、そのくれぇわかれ」 「わかってるけど。気を遣わなくていいよ、必要な栄養分は頑張って取ってるから」 「タコ、必要なだけ取りゃいいってもんじゃねぇだろ。てめぇは痩せすぎなんだよ、しっかり肉つけやがれ」 「うーん、でも僕ってあんまり肉がつかない体質みたいなんだ」 会話しているとよくわかる。ロレがロレには似合わないことに、どんなに僕に気を遣っているか。 僕は、ロレに、そんな風に優しくしてほしいわけじゃないのに。 「―――ロレ」 「んだよ」 「本当に、気を遣わなくていいよ」 「…………」 僕がそう言うと、ロレは黙り込んでしまった。 と、部屋の扉がノックされた。ロレが即座に応える。 「開いてる!」 マリアが入ってきた。なにか光る円盤を持っている。あれは……魔法具? 「……二人とも。今、ちょっといいかしら?」 「俺はいいぜ」 「かまわないよ。なんの用事……かっていうと、その円盤だよね?」 「ええ……ゴーディリートともう一度話をしてみようと思って」 「は? って、それとその円盤がどう関係あるんだよ」 「この円盤はトオースハマの呪文の受け容れ口になる魔法具なの。これがあればゴーディリートとの連絡は格段に容易になるはず」 トオースハマというのはトオーワの呪文の発展系で、映像つきで超遠距離の相手とも会話ができる呪文だ。便利だけどその分難易度は桁外れで、そんな呪文をなんの受け容れ準備もしていない相手との間に繋げるなんて、本当にディリィさんの技量はとんでもない。 「もしかしてお前、この一週間ずっとこれ作ってたのか?」 「……ええ」 「大変だったでしょう。お疲れさま」 「いいえ……それより、ゴーディリートと連絡を取っていい?」 「もしかして、ディリィさんと何度か話をしたの?」 「話というか……私のトオーワルマの呪文の受け容れ口は向こうに作られていたから。伝言を残す形になっただけだけれど」 トオーワルマというのはトオーワの呪文の強化版。超遠距離の相手と話ができる。マリアの技量もやっぱり相当なものなんだな。 とにかく、マリアは円盤を床に置いて呪文を唱えた。たぶん時間を打ち合わせておいたんだろう、ディリィさんの幻像が現れ、僕の方を向いてにっこりと笑った。 『――久しいな、サウマリルト。無事呪いが解けたようでなによりじゃ』 「ありがとうございます」 頭を下げようとすると、制止された。 『楽にしておれ。まだ体力が回復していないのであろう?』 「もうだいぶ元気にはなってるんですけどね」 「嘘つきゃあがれ、まだ宿屋の中しか歩けねぇくせに」 「宿屋の外に出てないだけで、ほとんど普段通りに歩けるようにはなったよ?」 『ふむ……確かに氣はかなり回復しておるようだが、休んでおくにこしたことはない。早めに話を済ませるとしよう。まず、サウマリルトがいつ呪いをかけられたかだが。おそらくそれは一ヶ月前のマイラであろう』 ……そうだろうとは思ったけど。僕はその時のことをあんまり話したくはないんだよな。 ちょっと話を逸らすつもりで言ってみた。 「……ロレたちから話を聞いて不思議に思ってたんですけど、ロレの居場所はともかくどうして僕に呪いがかけられたことがわかったんですか?」 『ロトの剣からの繋がりよ。ロトの剣はお前たちパーティ全員と感応していた。全員ロトの勇者じゃしな。わしはそなたたちと別れてからロトの剣から送られてくる情報に精神を傾注していたのでな。だいたいの状態ぐらいならばわかる』 「ロトの剣がそんなことを……」 「精神接触されているのは気づいていたけれど」 超遠距離の人間の状態を感知したとこともなげに言うディリィさんもすごいけど、気づくマリアもすごいな。 『魔神転化の呪いは表面化するのに時間がかかる。最初に呪いの種を植え付け、呪われる者の魂の内でそれが育ってきた頃に外部から合図を送ることで呪いは力を発揮する』 ……やっぱりハーゴンと会った時に呪いかけられてたんだ。 「……ちょっと待て。それってこの街に、ハーゴンの手先がいるってことじゃねぇか?」 『あるいは、な』 ロレがすっくと立ち上がる。 『どこへ行く気だ』 「ハーゴンの手先を探してくるに決まってんだろ!」 きっとディリィさんを睨むロレ。なんか久しぶりに見たな、ロレのロレらしいとこ。こういう風に考えるんじゃなくまず動くのがロレの本来のやり方なんだよね。 「手がかりがないのにこの広い街から探すのは無理だよ」 『そうじゃな。もう一回呪いをかけようと接触してくるならば捕まえようもあろうが』 「だからって、このままにしとくわけにもいかねーだろ!」 『まあ待て、話はまだ終わっておらん。……サウマリルトよ。はっきり聞こう。そなた、マイラでハーゴンに会っておるな?』 うわ……バレてるか。こりゃ誤魔化しても無駄だろうな。 「………はい」 ロレは一瞬驚いた顔をして、そのあときっと僕を睨んだ。マリアは呆然としたように硬直している。 「お前マジハーゴンと会ったのか!? だったらなんでさっさと言わねぇんだよ!? 俺たちの最終目的だろ!?」 「最初に言いそびれちゃって……そのあとは、気持ちの問題でそういうことを思いつくことができなくて」 これは事実だけど、なんとなく言い訳のような気がする。 ロレに近寄るなと言われてショックだった間はともかく。この一週間話そうとしなかったのは、僕がハーゴンに――なんというか、なにがしかの共感を得てしまったことを知られたくなかったからだと思う。 大して役に立てるような話ができるわけじゃないっていうのもあるけど。僕のそんな内心には当然気づくことなく、ロレは顔をしかめて聞いてきた。 「……で。ハーゴンはお前になにしたんだ?」 「……少し話をして。それから僕の頬に触れて。たぶんあの時に呪いの種を仕込んだんだろうな。それから――」 「それから?」 「ロレを殺すつもりだと言ったから、攻撃したら姿を消した。そのあと遠話で少し話をして時間を稼がれて、魔的結界を張られてアトラスを召喚された」 心情を交えず、事実だけを淡々と話す。ロレは少し驚いた顔をした。 「俺を? 名指しで殺すつもりだって?」 「うん……」 『そなた、ハーゴンになにか恨みを買うようなことでもしたか?』 「知るかよ。会ったことも顔見たこともねぇんだぜ。……けど、まぁ。向こうが俺を殺すつもりだってんなら、上等だ、殺される前にぶっ殺してやる。もともと殺すつもりだったんだ、それによけいに気合が入るってだけの話だぜ」 『やれやれ……野蛮というかなんというか。もう少し相手がなにを考えているか予想してみようとかはせんのか』 「するかよめんどくせぇ。ハーゴンがなに考えてようが俺らのすることはできる限り早くハーゴンをぶっ殺すってだけだろーが」 『それはそうであろうが……』 ふと、ディリィさんが顔をしかめてマリアの方を向いた。 『マリア? 大丈夫か?』 「え!? え、ええ。大丈夫……気にすることはないわ」 マリアの手はわずかに震えていた。たぶん仇の話を聞いて、普段は意識の底に封じているムーンブルクのことが思い出されてしまったんだろう。 ―――ロレはきゅっと眉を寄せると、そっとマリアの手を握った。 「マリア」 「……ロレイス?」 「言っただろーが、俺がお前を守ってやるって。俺たちがついてる。怖がるこたぁねぇよ」 「……あ、あなたに守ってもらおうなんて私は少しも思ってないわ!」 「んだと!? てめぇ偉そうなこと言ってんじゃねぇ、弱ぇくせしゃあがって!」 「なんですって!?」 「なんだよ!」 睨みあう二人。僕たちのことなど忘れて互いのことだけ見ている二人。 僕はこっそり苦笑した。ロレは僕のことにいろいろ気を遣ってくれているけど、こういう方面に気を遣おうっていう頭は働かないんだな。 もっとも、こんなことで気を遣ってほしいわけじゃないけど。 『これこれ、いい加減にせぬか。……しかし、なぜロレイソムだけをわざわざ名指しで殺すなどと言ったのだろうな? ロトの血族はすべからく魔を統べる者にとっては危険な存在であろうに』 「知るか。俺としても好都合なんだ、別に気にする必要ねぇんじゃねぇの?」 ――ロレ。それは駄目だ。君が真正面で戦うのを、ただ見ているなんて僕は嫌だ。 「……ロレ。僕は気にするよ。ハーゴンがロレを殺そうとしているのはなぜか、どうすれば守れるのか、すごく気にするよ」 「…………そうかよ」 僕としては決意表明のつもりだったんだけど、ロレはなぜか深くうなだれた。 そのあと、ディリィさんが話したいことがあるとかで、僕たちは二人きりになった。ベッドの上で体を起こしている僕と、ディリィさんの視線がぶつかりあう。 先に、ディリィさんが口を開いた。 『……サウマリルトよ。そなた、ハーゴンとなにを話した?』 「……………」 僕はしばらくなにも答えなかった。答えたくなかったからというよりは、単純になんと答えればいいのかわからなかったからだ。 彼とした話をどのように表現すればいいというのだろう。率直な探りあい。駆け引きなどまるでない質問の応酬。そのくせ気を抜けば騙され殺される、油断のできない話し合い。 ―――そしてその底に確かに存在した、ひとかけらの共感。 『わしはなにもそなたの内心にまで嘴を突っこむ気はない』 ディリィさんは表情を変えないまま、静かに続ける。 『だが、そなたが魔に魅入られようとしているのだとしたら――友の一人として、遠い兄弟として、世界を愛する人間の一人として放っておきたくはないのだ。だから頼む、今ここですぐにきっぱりと答えてくれ』 ディリィさんの表情は静かなままだ。だけど声の底には熱意が感じられた。 『サウマリルトよ、そなた、ハーゴンに共に来るよう誘われたのではないか?』 その質問に、僕はゆっくりとうなずいた。 「―――ええ」 『それにどう答えた?』 素早く放たれる質問。 「あなたとは行けません、と断りました」 『………そうか』 ふぅ、と息を吐いて、ディリィさんは天井を見た。 そんなディリィさんに、今度は僕の方から質問する。 「なんでそんなことを?」 『……魔神転化の呪いは魔族が人と共に滅ぼうとする際使うもの。魔族の側からしてみれば最高級の愛情表現じゃ。……愛情という言葉が当てはまるのかどうかは知らんがな』 「そうでしょうね」 『それとそなたの心身が弱っていたことなどと考え合わせて、そなたは誘われ、それに――少なくともある程度のところまでは乗りかけたのではないかと思った』 「さすが、正確なご判断ですね。でも、心身が弱っていたのはロレに話しかけることができなかったせいだと思いますけど」 ディリィさんの表情が、わずかに微笑むような色を帯びる。 『ロレイソムに告白したそうじゃな』 「はい。思いきり振られました」 『わしにはそうは見えんがな』 「見えなくても振られましたよ。……今は、なし崩しのうちに話してもいいようなことになっていますけど」 『あやつは馬鹿で不器用なだけじゃ、そう気にするな。あやつはやはり、そなたを大切に思っていると思うぞ』 そのディリィさんの言葉に、僕は笑っただけで答えなかった。 その、さらに一週間後。 明日からまた旅立つと決まり、僕はさっさと荷物を整理してベッドに横になっていた。体力はもう、ほぼ完全に回復している。 だけど眠気はいっこうに訪れず、僕は明かりをつけたままぼうっと天井を見ていた。頭の中でロレのことを、ロレにどういう風にもう気を遣わなくていいんだよと伝えるかを考えながら。 と、部屋の扉がノックされた。 「はい、どうぞ」 「俺だ。入っていいか?」 ――ロレ!? 「ロレ!? ちょっと待って、すぐ開けるから!」 急いで扉を開けて、ロレを見上げる。ロレはなんだか、困ったような顔をして僕を見下ろした。 「どうしたの、ロレ、こんな時間に?」 「中入っていいか」 「うん……」 中に案内して、ベッドに座る。ロレは横に座るか少し迷ったみたいだけど、結局立ったまま僕を見下ろして話しかけた。 「………サマ」 「うん」 「あのな」 「うん?」 「サマ、俺はな……」 「うん。なに?」 「サマ、俺は、あのな」 「うん」 僕はにこにこしながらロレを見上げ続ける。ロレがなにか言いにくいことを言おうとしてるのはわかっていた。 でも焦りはしない。最後にはロレはちゃんと話してくれるってわかってるから。 だから僕は、できるだけ話しやすい雰囲気を作っていればいい。 「サマ!」 「なに?」 「………サマ」 「なに、ロレ?」 ロレはひどく苦しそうな顔をしながら、何度も深呼吸をして、少しだけ顔を赤くしつつ、とうとう言った。 「あのさ。俺と、ヤるか?」 「―――え?」 ロレがなにを言ったのか、僕には最初わからなかった。だけど、ロレは赤い顔のままもっと直截に言う。 「だからさ。俺に、抱かれるか? って」 「――――――――」 僕の思考は、一瞬――というにはかなり長い時間、止まった。 「え――――――っ!?」 「でかい声出すな、馬鹿!」 ばっと手で口を押さえられて、僕はまだ頭に血を上らせながらも叫ぶのをやめて問う。 「ンむ、グ……ご………ごめん。でも……でも、でも………なんで?」 だって、ロレ言ったじゃない。下心を持った僕なんていらないって、そういう意味のことを。 なのに、なのに………なんで? 強い疑問の意志をこめた視線に、ロレははーっと、深いため息をついてから答えた。 「あのな……お前、俺をずっと好きだったんだろ?」 「うん」 初めて会った時から、ずっと。 「俺のこと好きで、俺が幸せになるようにって、今までずっといろいろしてきてくれたんだろ?」 「………うん」 君が幸せになってくれることが、僕にとって最高の幸せだったから。今もそうだけど。 「だからな……なんつーか。ちっとでも返してやりてぇっつーか。俺とそんなにヤりてぇっつーなら、俺の体でいいんなら、お前に……やってやりてえなって、思って、よ」 「………ロレ。駄目だよ。それは駄目だ」 僕は首を振った。そんなこと、僕はしてほしいとは思わない。ロレにいやな思いをさせてまで、僕に親切にしてほしいとは思わない。 「僕はロレに無理して僕を抱いてほしいわけじゃない。僕はロレに幸せになってもらいたいんだから。僕の心も体も、そのために、ロレが幸せになるためにあるんだよ。なのに、ロレに僕のために嫌な思いさせるなんて、本末転倒じゃない」 僕はロレに気を遣ってほしくないんだ。少なくとも僕のためには。最低でも僕の前では、ロレの思うままに、ロレの心のままに振舞ってほしいんだ。 そうでないと、ロレは幸せじゃないだろうと思うから。 そうでないと、僕は幸せじゃないから。 そう続けるつもりだった僕は、ロレの言葉に絶句した。 「俺がお前のためになにかしたいって思うのは、おかしなことか」 「え………?」 ロレが、僕のために、なにかしたいって、思う? なに、それ? そんなことが、あるの? 「心も体も俺のために使おうとするお前のために、なにかしてやりたいって思うのは、そんなにおかしなことか?」 「ロレ―――」 ロレ、本当に? それ、本当の気持ち? 僕に――幸せになってほしいって、思ってくれるの? 本当に? 僕が、ロレに、思うみたいに? 「ほん……とうに、僕に、なにかしたいって、思ってくれるの?」 震える声で、僕は囁くように言った。信じられない、とても信じられることじゃないけど、でも。 「……ああ」 ロレはうなずいてくれた。ぶっきらぼうに、少し顔を赤くしながら。 「僕のために……こんな僕のために、僕を、気色悪い僕を抱いてもいいって、そう思ってくれるの?」 「お前は気色悪くなんかない。――そんなこと言ったのは全面的に俺が悪かったけどよ、もーそろそろ俺信用できねぇか。俺はお前を気色悪いなんて思ってねぇ。っつーか……俺なりに、大切だと、思ってる。……言わせんなこんなこと」 「ロレ………」 ああ――― こんなことが。こんなことがあっていいのだろうか。これは本当のことなのだろうか。 ロレが、僕を大切だと言ってくれた。 ロレが、僕のためになにかしたいといってくれた。 ロレが、僕の幸せを、願ってくれた――― 怖い、信じるのが怖い。いつ嘘だといわれるかと思うと怖い。 でも、でも。本当に、本当にロレが、そう思ってくれているのだとしたら。 「……ロレ………僕を、抱いて、くれる?」 おそるおそる、泣きそうな思いで僕は言う。 「ああ」 ――ロレは、静かにうなずいた。 僕は、恐怖と期待に板挟みになりながら、たぶん変な顔になりながらそろそろとロレに腕を伸ばし――その腕を思いきり引き寄せられて――― キスされた。 「………………は、ぁ」 僕の体が、心が、魂が震えた。たまらない歓喜に。幸福に。 ロレの唇が僕の唇に触れている。ロレの唇は、想像していた通り、熱くて、少し分厚くて、柔らかかった。 ああ、これがロレの唇の感触。ずっと夢見ていた感触。こんなことが本当にあるなんて。 夢みたいだ―――。 うっとりしていると、突然ロレの唇が僕の唇を挟んだ。そして揉むように唇を動かしてくる。 ぞくぞくぞくっ、と僕の背筋になにかが走った。なんだろう、この感じ。痛いような、切ないような、たまらなく胸を高鳴らせるこの感じ。 その感覚はロレが舌を僕の口内に入れてくると例えようもなく高まった。ロレの舌が僕の口内で縦横に動く。舌が口内に触れるたびにぞくぞくぞくぅ! 体中に電撃が走った。 どうしよう……どうしよう、こんな、こんなのって。 「! ………は……ん、ロ………レ………」 僕は震える声を漏らした。呻くように。 ―――死ぬほど、気持ちいい………。 ロレの手が背中に回される。ゆっくりとベッドの上に押し倒された。ロレの手が僕の服をはだけ、唇がそこに落とされ―― ようとした瞬間、ロレの動きが止まった。 「う………っ」 「………ロレ?」 ロレは口を押さえて、僕から離れた。そしてベッドから下り――部屋の外へと走り出す。 「う………!」 「ロレ!?」 僕は慌ててロレを追った。ロレは廊下を走り、一階に下りる。そしてさらに宿屋の隅へと、厠へと走り、扉を開けて中へ駆け込み―― 猛烈な勢いで吐いた。 ロレは僕の部屋に戻ってくるなり、土下座した。 「………すまん」 「わ、ロレ、そんなことしないでよ! ……言ったでしょ、僕の体も心もロレを幸せにするためにあるんだって。ロレに罪悪感を抱かせるためでも、いやな思いをさせるためでもないんだから」 「…………すまねぇ…………ホント」 「気にしないでよ、本当に。ロレが悪いんじゃないんだからさ。僕に魅力がないのが悪いんだから」 僕は必死にロレを慰めた。本当にそう思うんだ、ロレが悪いわけじゃない。僕がロレにとって吐くような存在だったっていうだけ。 僕はロレに抱かれそうになってたまらなく幸せだったのに、ロレは気持ち悪かったのかと思うと、ひどく沈み込むものはあったけれど――それ以上にロレを落ち込まないようにしたかった。 だってロレは、僕に一瞬でも、たまらない幸せを与えてくれたんだから。 「マジ、悪ぃ…………」 「ロレ。顔を上げてよ」 「……俺、マジでお前のこと気色悪ぃなんて思ってねぇから。ホントだから……だから、頼むから、自分のこといらねぇなんて思わないでくれよ………」 ――ロレ。 僕は困ったように笑った。ロレってやっぱり、厳しいなぁ。 僕は確かに、ロレに必要とされない自分なんて必要としていない。気色悪いと思われて、そばにいない方がいいと思われたら、前と同じように死んでいくと思う。 だけど――こんな風に言われたら、たとえそうだとしてもそばにいないわけにはいかない。 ロレが僕にこう言うなら、僕はそれに逆らえない。ロレに必要とされるよう、死にもの狂いで戦わなくちゃならないんだ。 「うん……わかった。思わないから、顔を上げて」 顔を上げるロレに、僕は微笑む。 「本当にロレが悪いんじゃないよ。ロレが気にする必要全然ない。しょうがないことなんだよ、きっと」 「……すまね……俺、お前に、なにかしてやれるかなって、お前になにか返してやれるかなって思ったんだけど………」 ロレ……そう思ってくれることが、僕を大切に思ってくれることが、僕にはなにより嬉しいよ。 「僕はロレに返してもらおうなんて思ってないよ。僕がロレのことを好きだから、好きでロレが幸せになれるよう頑張るってだけなんだからさ」 「マジで………ごめん………」 ロレはまた頭を下げてしまった。僕は少し困って、でもこんなにロレが僕のことを気遣ってくれることが不謹慎にも少し嬉しくて、うつむくロレと視線を合わせて言った。 「ねぇ。それなら、ひとつお願い聞いてくれる?」 「……お願い?」 ロレは顔を上げた。 「聞いてくれる?」 「ああ、聞く。なんでも聞く」 「じゃあさ」 わがままなのは重々承知だけど、君が本当に、僕のしたいことをかなえたいと思ってくれているなら。 「僕と、同じベッドで寝てくれない、かな?」 ――その図々しいお願いに、ロレはうなずいてくれた。 僕たちは宿屋の狭いベッドの上で具合のいい場所を探して転がった。それが、ロレと一緒のベッドでじゃれあえることがこの上なく楽しい。 「二人で寝るにはやっぱ狭っ苦しいな……」 「ロレ、もっとこっち寄っていいよ」 「バカヤロ、それじゃてめぇが落っこちちまうだろ」 「それじゃ、ロレが僕を抱きしめてくれる? そしたら落ちないと思うけど」 「………わかった。来い」 え……本当に? 冗談で言ったのに。 ………でも………ロレは、腕を広げてくれている。僕のことを、僕の気持ちを、受け容れてくれてるように見える。 なんだか恐れ多いような、申し訳ないような気分になりながらも、それでもやはりたまらなく嬉しくて、少し気恥ずかしくて、僕はそろそろとロレに近寄って背中からロレにくっついた。 「おい、なんでそっち向くんだよ」 「だって……あんなことしたあとでロレに真正面から抱きしめられながら眠ろうなんてしたら、心臓壊れちゃうよ」 本音を言って、僕はロレの腕に頭をすりつける。 「えへへ。ロレの匂いがする」 またキショいって言われるかなって思ったけど、ロレは怒らなかった。僕はつい調子に乗って、ロレの匂いと感触を存分に堪能する。 ロレの声が耳元で聞こえた。 「……どうしてお前そんな嬉しそうなんだよ。あんなことあったあとなのに」 「え? だって、僕すごく嬉しかったもん」 「……は?」 「だって、ロレが僕の気持ちを、ロレを好きだって気持ちを気遣ってくれたんだよ? ロレを好きでいてもいいって言ってくれただけじゃなくて、僕の気持ちのために僕を抱こうとまでしてくれたんだよ? たとえできなくても、そりゃできなかったのは残念だけど、それよりずっと、ロレが僕の気持ちを認めて、大切にしてくれたって思うと、嬉しくて嬉しくてたまらなくなるよ」 「――――…………」 正直な気持ちを言っただけなのに、ロレは数瞬絶句してしまったようだった。少ししてから、また言葉を発する。 「サマ」 「なに?」 「……なんで、お前、そこまで俺が好きなんだよ。なんで俺なんだ? お前ならもっと他の、お前を好きになって大切にしてくれる奴を好きになりゃ、もっとずっと幸せにしてもらえただろうに」 僕はくすりと笑った。ロレはやっぱり、僕がどんな人間かってことはあんまりよくわかってないらしい。 ロレを好きでない僕になんて、幸福も喜びも存在していないというのに。 「それはね……僕もいろいろ考えてみたんだけど。たぶん、僕の欠けたところが、ロレの凄いところにちょうどうまくはまるからだと思う」 「は? 俺の……凄ぇところ?」 「うん。僕はね、ロレと出会うまで、誰かを好きになったことって一回もなかったんだ。家族も友人も臣民も、僕は大切だと思えなかった。どんなに頑張って尽くしても、大好きだって思えなくてさ。この人たちが死んでも別に僕悲しくないなって思っちゃうんだ。でも、ロレはさ。愛するのも憎むのもいつも全力で。ちっともためらわないで。周りにいる人たちを心から愛してその人たちのためになにかするのを当然と思って、ごく自然にやるでしょう?」 「おい、俺はそんな聖人みてーに周りの奴らを……その、愛したりなんてしねぇぞ。つーか、俺ぁ人を愛すだなんだってのには縁がねぇ奴で……」 「ロレは自分をわかってないね。ロレが当たり前のようにやってる、他人を受け容れることが、他人を労わることが、他人を守ることが――どんなに難しいことか、わからないでしょう?」 「…………」 「世界を当然のように受け容れて愛することが、どれだけすごいことかロレはきっとずっと気づかないだろうね。辛いこと苦しいこと憎しみ恨み、そういうもの全部まとめて当たり前に受け容れて、それでも自分が生きているこの世界を当たり前に愛することがどんなに難しくてすごいことか。……僕は、世界の誰一人愛せなかった僕は、君のそんな愛に救われたんだよ」 それは僕にとってはあまりに明白な事実だったのだけど、ロレは訝しげに言った。 「……お前、思い込み強すぎ。俺そんな愛溢れる人間じゃねぇぞ」 思い込み、だって。僕にはロレが自分はこういう人間だって思い込んでるように見えるけどな。 でも、そんなことを言い合っても水掛け論にしかならないから、僕はこう言った。 「いいんだよ、思い込みでも。僕が世界で、人生でただ一人、好きにならせてくれたのは間違いなく君なんだから」 「………そうかよ」 ロレは僕の頭を優しく撫でてくれた。何度も何度も。気持ちのいい、大きくて暖かい手で。 僕はたまらなく幸せな気分で、どうしようっていうくらい贅沢な気分で、ロレの腕に抱かれているという夢のような状況にドキドキしながら、ロレの寝息を聞きながら、その夜を過ごしたのだった。 |