ムーンペタ大公の罪の話
 僕たちはムーンペタに向かっていた。水の紋章を手に入れるためだ。マリアがムーンブルクの様子を見たいと言ったっていうのもあるけど、基本的にそれは副次的理由。でもムーンブルクの様子をちゃんと見るためにローラの門からルーラで飛び飛びにあちこちの街を回るんだけどね。
 ローレシアを去る時はほとんど国を挙げての見送りをされてしまった。まぁ、僕たちロトの勇者パーティは救国の英雄といえるんだから当たり前と言えばそうだけど。恐れられてもいる一面を忘れさせるためにも、ローレシア王は盛大に送り出したんだろうな。
 ――その旅の間中、ロレとマリアの間にはめちゃくちゃぎこちない空気が流れていた。
 お互いにめちゃくちゃ気を遣いあってるって感じ。まぁ無理もないといえばそうだろう。マリアが――とうとう、ロレに告白したんだから。
 あの翌日マリアは深刻な顔で僕に、「ロレイスに告白してしまったの」と告げた。「ごめんなさい、もうあなたに親切にしてもらうわけにはいかない」と張りつめた顔で。
「なんで? 僕がマリアに親切にするのは、別にロレを諦めてもらうためじゃないよ?」
 笑ってそう言うと、マリアは首を振る。
「私はロレイスとの……その、恋愛の争いに名乗りを上げたのよ。本当にあなたの恋敵になったの。なのに、あなたとこれまで通りにつきあうわけにはいかない」
 マリアは真面目というか、頑なだなぁ。まぁそういうところがロレの保護欲をくすぐるんだろうけど。
 僕は別に保護欲をくすぐられはしなかったけど、笑ってみせた。
「確かに恋敵だけど、この戦いの勝者は君に決まってる。僕は本当に、君とロレが恋人同士になればいいと思ってるんだよ。なのに、わざわざ角突き合わせる必要はないと思うけど?」
「……わざわざ喧嘩する理由は、確かにないわ」
「でしょ?」
 マリアはそう言ったけれど、僕の言葉には首を振った。
「でも、駄目よ。私はあなたがどんなにロレイスを好きか知っている。なのに知らないかのように優しく気を遣われるのは、あなたの心を傷つけると思うわ」
 僕はそのあと何度も僕はロレに幸せになってもらいたいから君にも親切にするんだよ、と言ったのだけど、マリアは頑固に首を縦に振ってくれなかった。……誠実と言うべきところなんだろうけど、日々の体調管理も自分でできるって言い張ったりとか、かえって面倒が増えただけのような気がするんだけどな。
 ロレは考えに沈むことが多くなった。僕が話しかけても気づかないで考え事に没頭している時もままある。ロレがいつも通りなのは毎朝晩の鍛錬の時だけだ。
 マリアの告白にどう返事をするのか考えているのだと思う――僕の時とは対応がまるで違うけど、しょうがない、ロレはマリアが好きなんだから。
 ロレは正直な人間だ。自分の気持ちに嘘をつくことは絶対にない。だから、迷うことはあっても、考えたりはしても、最終的にはきっとロレはマリアの手を取るだろう。
 実際、それが最上の選択だと思う。ロレにとってもマリアにとっても。いろいろと障害はあるけれど、好きな相手と一緒になれるという幸福があるならば、そんなものいくらでも乗り越えていけるはず。
 本当に、心の底から僕はそう思う。ロレとマリアが一緒になってほしいって。
 ――そう思うたびに、胸がひどく冷たくなるのは確かなのだけれど。
 そんな時、僕は冷たく冷えた胸を押さえてただその冷たさに耐える。耐えるしかないことだから。しょうがないことだから。
 ロレがマリアを好きな以上、ううんロレが男を好きになれない以上、ロレが僕の気持ちに応えてくれることは絶対にないことなのだから。だから僕はただ耐える。凍りつくような冷たさにも、胸を突き刺すような痛みにもただ耐えて、笑って二人と接する。
 それが僕のすべきことで、ロレのためになることでもあるのだから。

 ムーンブルクを視察して回りながらも、ロレとマリアの状態は一向に進展しなかった。必要な話はするけれど、お互いにぶっきらぼうだし、雑談の類は一切しない。食事の時とかに僕がいくら話題を振ってもいっこうに話は弾まなかった。
 そのくせ視線が合っただけで赤くなったり唾を飲み込んだりして、慌てたように目を逸らす。お互いに意識しあいながら避けているのが丸見えで、僕ですらじれったくなるほどだった。
 けれどそれもロレが覚悟を決めるまでだろう。ロレは一度心を決めればためらいなくマリアを自分のものにするはずだから。そしてマリアもそれを受け入れることだろうから。
 その日が早く来ればいいと思う。ロレが幸せになれる日が。僕はそのためならなんでもする、そのためなら僕の心も、痛みも、どうだっていいから。
『――本当にそうなのか?』
 ハーゴンの声が聞こえた。ローレシアで彼と話した時の声だ。
 ハーゴンはマリアの告白にどう対処するのか訊ね、僕がロレの幸せのために行動する、そのためなら僕の感情なんてどうでもいい――と言うと、そんなことを言ったのだ。
『お前はローレシアの王子を愛しているのだろう。自分のものにしたいと思うのだろう。この世界の中でただ一人、そう思う人間なのだろう?』
(その通りです)
『ならば感情のままに行動しようとはしないのか。ローレシアの王子を手に入れるために、手を尽くそうとはしないのか? そうしたいという感情も、確かにお前の中にはあるのだろう?』
(確かに、あります)
『ならばなぜ?』
(僕はそれ以上に、ロレの幸福を願っているからです。むりやり僕の方を向かせたら、ロレがロレでなくなってしまう。僕の愛したロレがいなくなってしまうのは、愛しているロレが幸福じゃなくなってしまうのは、僕にとってはなによりも――自分の死よりも世界の消滅よりも、とても辛いことだから)
『……サウマリルトよ。それでお前は本当にいいのか?』
(いいんだよ)
 僕は何度も何度も思い出されるハーゴンの声に、何度も何度も繰り返してそう答える。
 自分の中で答えはもう出ている。迷う必要なんてどこにもない。僕は僕のすべきことを、したいことをやるだけなのだから。
 ――その声を思い出す頻度が、だんだん高くなってきていることには、僕は知らないふりをした。
 それ以外、どうすればいいかわからなかったからだ。

 一週間かけてムーンブルクの視察を行い、ムーンペタに到着した。ムーンブルクは全体的に、ひどいとは言わないまでも前に来た時よりも悪くなっている、と僕は判断した。
 スラムが広がっていた。店に並ぶ品物の質が落ちていた。以前よりゴミが散らかるようになっていた――そんな程度のことだけど、これは明らかに行政の力が落ちている証拠だ。
「……私が早く帰っていれば、こうはならずにすんだのかしら」
 ムーンペタの宿で食事を取りながらマリアが珍しくぽつりと言うと、ロレが即座に眉をぎゅっと寄せてマリアを睨んだ。
「阿呆。てめぇがいたって魔物の跳梁は避けられねぇんだ、以前よりは悪くなってたさ。それよりてめぇはこっちの戦力に絶対必要なんだ、馬鹿なことごちゃごちゃ考えてねぇで今てめぇのできることやりやがれ」
「………そうね。そうかもしれないわね」
 マリアが小さくうなずく。その顔はわずかに赤かった。ロレに久しぶりにちゃんと話しかけられたということで少し意識してしまったらしい。
 それを見てロレも少しだけ顔を朱に染めて黙りこむ。夕食の席に、一時沈黙が下りた。
「……山彦の笛にも反応があるし、たぶんディリィさんの言っていた場所に水の紋章はあるんだろうけど。どうする、先にムーンペタ大公に話を通しておく? 場所柄そっちの方が話が早いと思うけど」
 ディリィさんの言っていた水の紋章のある場所は、かつてムーンペタで魔法の実験場だった場所だそうだ。強い水の精霊力が満ちているので魔法の実験場として使われていたらしい。水の紋章がムーンブルクには発見されていないのはなぜかよくわからないけれど。
 そこは今では重罪人を落とす処刑場のようになっているらしい。魔族の召喚実験がとても多く行われた場所で、もう十年も前に実験が失敗して魔族が暴走、召喚術の枷により逃げることも混沌に帰ることもできない魔族が徘徊するその場所は封印されて、重罪人を魔族に食わせるための場所になったのだとか。
 自力で脱出することができさえすれば罪は許されるとか何とか……まぁ、野蛮といえば野蛮な法だ。
 僕の振った話にロレとマリアははっとしたようにこちらを見て、それぞれお互いを見ようとしないままうなずいた。「ああ」「そうね」とか言いながら。
 ……互いへの意識の強さが、旅の障害になる段階にまで高まっているか。これじゃ戦闘時どうなるかはなはだ不安だな。
 でもしょうがない。これはそれだけロレとマリアがお互いを思いあっているって証拠でもあるんだから。僕が頑張ってフォローしていけば、たぶんなんとかなると思う。前に僕とロレがもめた時にはマリアにフォロー役をやらせてしまったのだから、少しでもそのお返しになるだろう。
 ――ロレの心をそんな風に乱すのは、僕では、怒りと憎しみによってしかできなかったことを思うと、胸がすうっと冷えていくけれど。
「じゃあ、明日早いうちにムーンペタ大公を訪ねようか。向こうも予定があるだろうから、早いほうがいいでしょ?」
「ああ」
「わかったわ」
 相も変わらず視線を逸らしながら答える二人。けれどわかる、お互いの一挙一動に強烈に意識を集中させているのが。
 本当にお互いを、誰よりもなによりも意識しているんだ。
 僕はにっこり微笑んで、二人に今日見た面白い人の話を始めた。二人がなかなか乗ってきてくれないのはわかっていたけれど。
 ――胸の中がしんしん冷えていくのを、無視して。

「許可できません!」
 ひどく切羽詰った表情でそう言うムーンペタ大公に、僕たちは揃って目を見開いた。
「なぜです? 先程申し上げました通り、我々はあの監獄に世界を救うのに必要な重要な物品が存在するという確かな情報を得ているのです。世界を救うための旅を阻害する、どんな理由があるというのですか?」
「あそこには大量の魔族どもが蠢いておるのです。ムーンブルクの王位継承者をそのようなところへお行かせするわけには参りません!」
「いまさらなこと言ってんじゃねぇよ。俺らは今まで山ほどの魔族どもと戦ってきてんだ。危険も全部承知の上、だってのになんで許可出せねぇんだよ」
「あそこの魔族どもは他の魔族どもとは桁が違っているのです。危険も桁が違います! いかに今まで魔族と戦ってきたロトの勇者様方とはいえど、命を捨てに行くようなものです!」
「ムーンペタ大公――どんな危険があろうとも私たちはあそこに行かなければならないのです、世界を救うために。無駄に命を捨てる気はありません、危険だと思ったらすぐに撤退します。ですから……」
「なんと言われても許可は出せません! よいですか、この五十年あそこに入って出てきた人間は誰もいないのですよ!」
 あまりの頑固さに僕たちは顔を見合わせた。明らかに変だ。ムーンペタ大公にしてみればマリアが死ねば自分に王位が巡ってくるチャンスだというのに、こうも躍起になって引き止める理由がわからない。
 これはなにかあるな、と僕はにっこり微笑んで立ち上がった。
「わかりました。では、あなたから許可をもらうのは諦めます」
「おい、サマ!?」
「その代わり、ムーンペタの高等裁判所に許可をもらうことにしますから。よろしいですよね?」
「な!」
 ムーンペタ大公の目が大きく見開かれる。この程度のことも予測していなかったのか……僕たちの訪問でよっぽど動転したんだな。
 ムーンブルクの司法は行政から完全にとはいわないまでも独立している。国の成り立ちから聖職者の権利が強いムーンブルクでは、裁きは神に任すべきもの、ということで裁判所は教会内の一組織なんだ。
 例の監獄も当然、ムーンペタ行政の管轄でもあると同時に裁判所の管轄でもある。つまり、僕たちが裁判所に許可を求めに行っても、建前上はムーンペタ大公はそれに口出しできないんだ。
「よろしいですよね?」
 重ねて問うと、ムーンペタ大公はぐっとつまり、顔を真っ赤にしながらのろのろとうなずいた。
「……紹介状をお書きします。少々お待ち願えますか?」
「けっこうです。マリア王女は国の主となるべきお方。そのお方がわざわざ足をお運びになるのに紹介状などを要求する人間などいないはずです」
 ぐ、と言葉につまるムーンペタ大公を尻目に、僕はロレとマリアに言った。
「参りましょう、お二人とも。一刻も早くあの監獄へ赴かねばなりません」

 僕は大公の城を出ると、足早に歩き始めた。
「サウマリルト……裁判所はそちらではないわよ?」
「僕たちは監獄に行くんだよ」
「え!?」
 驚いた顔をするロレとマリア。
「なんでだよ、さっきあのおっさんに裁判所に許可もらうとか言ってたじゃねぇかよ」
「ムーンペタ大公がなにか隠してるのは二人とも気づいたでしょ? あいつは監獄を探られると都合の悪いことがあるんだよ。となればあれだけ脅せば今のうちに証拠隠滅を図ろうとするはず。その現場を押さえるんだ」
「なる……」
 感心したようにロレがうなずく。嬉しくなって僕は一瞬微笑んだけど、すぐ真剣な顔を作った。ロレは今ただでさえマリアのことで頭がいっぱいなんだ、僕のことを思い出させて不快な気持ちにさせちゃいけない。
「行こう。道はもう調べてあるから」

「予測通りだな……」
 監獄の前で、レムオルの呪文で姿を消しながら、僕たちは監獄に入っていく数十人の兵士たちを見つめた。
 レムオルは動きさえしなければ半永久的に持続するけど、兵士たちは半刻も経たないうちにやってきた。僕たちはこっそりとそのあとについて中に入る。
 兵士たちはあからさまに、とは言わないまでも怯えていた。かなり緊張していた。三分の一は魔術師らしく、武装はせいぜい杖程度だ。おそらくはムーンペタ大公お抱えの精鋭部隊なのだろう。実際錬度はかなり高そうだった。
 けれど、魔族にどれだけ抗えるかというと、正直疑問だった。
「どうすんだよ?」
「そうだね……」
 こっそりあとをつけながら向こうが襲われるのを待つなり証拠隠滅を図ろうとする現場を押さえるなりするっていうのもあるし、今から直接強襲してなにをしているのか訊ねるのも当然ありだ。こちらにはこの国の王女がいるんだから、たいていの無法は通る。
 ロレは待ちの体勢は嫌いだろうから最後のかな、と口を開いた瞬間――悲鳴が聞こえた。
 僕たちは即座に走り出す。思考と並行して体を動かす、これは戦場での鉄則だ。
 数秒で兵士たちに追いつき敵を確認する。兵士たちの一団の前方と左側面から、ベビルが一体ずつ襲いかかっていた。ゆっくりと殺戮を楽しむつもりなのだろう、その爪で兵士たちをじわじわと切り裂いていっている。
 だがじわじわと、というのは全体としての話だ。攻撃されている兵士は今にも死にそうになっている。
 駆けていったんじゃ、間に合わない!
『マリア!』
「わかったわ!」
 僕とロレが期せずして同時に叫ぶ――するとマリアも叫び返して素早く呪文を唱えた。
 ウゴルナ――念動の呪文だ。以前にも何度かやったことがある、届かない場所にいる魔物を倒すための方法――
 マリアが素早く呪文を唱え終わったとたん、僕たちの体はぶわっと浮いた。強烈な力で走る速度が加速され、ぶん投げられるようにそれぞれベビルのいる方向へ吹っ飛んでいく!
「は!」
 僕は空中で光の剣を抜刀し、そのままの勢いでベビルの顔めがけ斬りつけた。ベビルの核は、他の多くの魔族と同じくその脳髄にある――
 ロレにきっちり仕込まれた、ロレ考案の空中での抜刀術――それはしっかりと効果を発揮し、僕の一刀でベビルは消滅した。
 当然ロレも自分の方のベビルを片づけている。……マリアとの連携、うまくいってるじゃないか。
 それはつまり、お互いを意識しつつも信頼は揺らいでいないってことなんだろう。好きあっているならば当然なんだろうけど。
 ――僕とは違うんだ、と、そんな当たり前のことをまた意識する。
 ともあれ、すたり、と着地して、僕たちは兵士たちに向き直った。
「――こんなところでなにをしているのかな?」
 本当はそれは僕たちにこそ言われる台詞ではあるんだろうけど、そんなの無視して冷たい笑みを浮かべてあげた。

 ばん、とロレが部屋のドアをぶち破るようにして押し開ける。中にいたムーンペタ大公が大きく震えた。
「な、なんなのですか! 先触れもなしに突然部屋に入ってくるとは……」
「うるせぇ」
 ロレがずかずかと大公に近寄り、ぐいっと胸倉を掴み上げる。
「な、なにを……」
「やかましい、ネタは上がってんだ。てめぇがマリアがガキの頃呪文に干渉して魔力を暴走させたことも、それで瀕死の重傷を負った教師にとどめをさしたこともな」
「………!」
 ムーンペタ大公は硬直した。
 そう、ムーンペタ大公が隠したがっていた監獄の秘密とはそれだった。ムーンペタ大公は今は監獄の場所に満ちる強力な魔力を利用して、マリアに呪いをかけさせたんだ。マリアの体内に満ちる膨大な魔力が、凄まじい暴走を引き起こすように。マリアの評判を貶めて、王位継承権をなくさせるため。
 たぶん本当は王を暴走に巻き込むつもりだったのだろう。王を傷つけたとなればいかに王女でも罪を問われる。
 でもほとんどマリアと顔を合わせることのない王を巻き込むのは難しいから、多くの人の前で呪文を唱える呪文の授業の時に呪いを発動させた。けれどその暴走を必死に抑え込んだ教師の力で、被害はその教師一人で収まった。
 その報告を受け取ってムーンペタ大公は怒り、その怒りをぶつけるためとマリアの評判を下げるため、その教師を殺した。殺したというか、瀕死の重傷を負っていたので軽い呪いをかけるだけで自然に死んだようだけど。
 当然その証拠を隠滅しようとしたけれど、その直後に魔族の暴走が起きてしまって中に入れなくなった――
 それが兵士たちからの情報と、監獄を徹底的に調査して得た僕たちの結論だった。
「もう証拠と証人添えて裁判所に提出した。あとはてめぇを裁判所に連れてくだけなんだよ」
 ロレがぐいっと大公を引っ張る。大公はひぃ、と悲鳴を上げて暴れた。
「お、抵抗する? いいぜ別に。それなら俺らだってお前を勢いあまって殺しちまったりしてもいいもんな。誰からも文句出ねぇもんな? なぁ、マリア?」
 ロレはぐりんと大公を振り回して、ロレの後ろ、僕の前でじっと大公を見ているマリアと顔を合わせさせた。マリアは一見静かな、その分見ようによっては即座に殺されるんじゃないかって感じの目でじっと大公を見る。
「ひ、ひぃぃっ!」
「……あなたを殺しはしないわ。神と法の手に裁きは委ねる。ムーンブルク王女として、個人的な感情に走ることはしない」
 そう言われあからさまにほっとした顔になる大公――だが、マリアはすっと大公に手を伸ばして言った。
「だけど、私はあなたを許さない。あなたが法に許されようが神に許されようが、私は絶対にあなたを許さないわ。あなたが生きている限りずっとあなたのことを恨み続ける。呪われし姫、マリア・テューラ・イミド・クスマ・ムーンブルクがね」
「…………!」
「私はあなたを憎んでる。――これからも永遠に憎み続けるわ」
 その言葉に、大公はひぃ、と悲鳴を上げて、泡を吹きながら気を失った。――貴婦人でもあるまいに、気の弱い奴だな。

 それから裁判所に大公を連れていって、ムーンブルク王女が告発した罪だと裁判所にはようく言い含めておいて(要するに脅しだ)、ムーンペタ大公の地位を一時的に貴族議会から派遣された人間に預けるよう命を下して――と、僕たちは一日中駆けずり回った。休めたのは夜遅く、宿屋に帰ってきてからだ。
 食事を部屋まで運んでもらって、三人だけでもくもくと食事をしていた。マリアが予想通り、どっぷりと落ち込んでいたからだ。誰かと一緒にいるのがすごく苦しそうだった。
 ロレはなんでマリアがそんなに落ち込んでるのかわからないみたいで、かなり慌ててたけどなにを言っていいのかわからないみたいでなにか言いかけてはやめる、というのを繰り返していた。
 マリアはひたすら落ち込んで力なくスープをすすっている。僕はロレのうろたえっぷりを見ていられなかったので、マリアに声をかけた。
「僕は、立派だったと思うけどな」
「…………」
「憎しみはひどく深かったことだろうに、法と神に裁きを任せた。王女としての義務は充分に果たしてると思うよ」
「……けれど、個人的な憎しみを相手に向けたことは確かだわ」
 マリアがひどく暗い声で言う。
「別にいいんじゃないかな? 子供の頃の心をひどく傷つけられたんだから、そのくらいのことは当然許されると思うよ」
「それでも――私、本気で言ったのよ。あの人が罪を裁かれて罰を受けたとしても、絶対に許さない、って……」
 マリアはうつむいた。その瞳からぽとり、と涙がスープに落ちる。
「許さなくていいじゃないか。あいつはそれだけのことをやったんだ」
「違うの。私は亡くなった人のために憎んだんじゃないの。私が、より虐げられるようになったから、私の苦しみのために、復讐のために憎むって言ったの……」
 マリアはうつむきながら、絞り出すような声で言う。ぽた、ぽた、とスープに涙を落としながら。
「そんなのは当然だよ。誰だって十年以上前に少し接した程度の人のために人を憎めるものじゃない」
「それなら放っておけばいい、ただ法と神に裁きを任せればいい。……でも、私は本当は私が裁いてやりたかったの……なのに、外面を取り繕うために、けれど少しでも大公を苦しめてやりたくてああ言ったの……」
 顔を押さえて、泣くのを必死に堪えているようにうっくうっくとしゃくりあげるマリア――
 慰める言葉がもう思いつかなかったわけじゃないけど。マリアが慰めてほしいのは間違いなく僕ではないだろう。
 マリアの悲しみに呼応して、手を泳がせながらなんて慰めればいいのかわからないと顔に大書している、僕の世界の誰より愛しい人なのだろう。
 だから僕は席を立った。僕はここには必要ないだろうから。
「僕、水持ってくるね」
 そう言ってマリアには気づかれないように、ロレに目配せしてマリアを示す。ロレはカッと顔を赤くして怒鳴りそうな顔をしたけど、僕が真剣な瞳でうなずくとぐっと奥歯を噛み締めて立ち上がった。
「おい、マリア……」
 肩に手をかけそうな格好でそう言っていた姿を目に焼きつけながら、僕は部屋を出た。
 行くあてなんてどこにもないけど、もう夜も遅いからそっと廊下の奥の窓まで歩いてみた。窓から降り注ぐ月の光が少し普段より明るいように感じたから。
 窓に座って月を見上げる。いつもと変わらない月だ。別に見て楽しいものでもない。
 ロレのことを考えた。ロレと、マリアのことを。
 ロレはきっとあのあと一生懸命マリアを慰めるのだろう。いつもと同じ、ぶっきらぼうだけど優しい口調で。
 前みたいに、マリアを抱きしめたりもするのかもしれない。場合によってはキスもするかも。ロレは、マリアが好きなんだから。
 ――だからどうってわけじゃない。僕のすることは変わったりしない。
 ロレを守る。ロレの幸福を守る。ロレの好きなマリアを守る。全力で、死力を振り絞って二人を助ける。――それだけだ。
 それだけでいいのに。どうして、『ロレはきっと、僕が傷ついている時でも抱きしめて慰めてはくれないだろうな』なんて考えてしまうんだろう。
 どうして、ロレがマリアを慰めている情景を想像するとたまらなく胸が冷えるんだろう。
 そんなの、本当に、ロレの幸せに比べれば、僕にとってはどうでもいいことなのに。
『――ハーゴンは傷ついた僕を前にした時慰めてくれるだろうか』
 僕ははっとした。今、僕はなにを考えた?
 なんでハーゴンが出てくるんだ。彼はただ、ただ一人の同類として僕を観察しているだけなのに。
 誰にも理解されずに滅ぶのは寂しいから、理解してもらう相手に僕を選んだだけなのに――
『それをだけ≠ニ言っていいのだろうか』とちらりと頭をよぎった思考を心の底に沈めて、僕はまた月を見上げた。月は見事な満月で、雲もかからず優しい光を周囲に投げかけていたけれど、僕には少しも綺麗だとは思えなかった。

戻る   次へ
ローレシアの王子の話へ
DRAGON QUEST U topへ