海底洞窟の話
『お前がローレシアの王子になにを求めているか、教えてほしい』
 その問いに、僕は少し考えてからこう答えた。
「ロレが、ロレのあるがままで幸せであることを」
 ハーゴンはじっと僕を見つめ、訊ねる。
「ローレシアの王子におまえがおまえ自身のために求めていることはないのか」
 僕は小さく苦笑を漏らした。
「ロレに僕のことを好きになってもらったり? 僕を抱いてもらったり、ずっと一緒にいてもらったりとかですか?」
「…………」
「そういうことになったら僕はたぶん幸せでしょうけど――僕は僕を幸せにしてほしいって、ロレに思ってるわけじゃありませんから」
「ではなにを求める」
 無表情だけど苛烈な意思を感じさせるその声に、僕は静かに答える。
「言ったでしょう、幸せであることを。――僕はロレが幸せになってくれたら、それ以上の幸せなんてないんです。僕の全てはロレを幸せにするために存在しているのだから」
「…………」
「僕がどうでも、不幸でも傷ついても死んでしまっても。ロレが幸せだったら、ロレを少しでも幸せにできたら僕はそれでいいんです。だから、ロレになにかしてもらおうとか、そういうことを考えてるわけじゃない」
「―――そうか」
 ハーゴンはやはり静かに言った。本当に静かに。かそけき、と言っていいほど静かに。
「――私には、わからない」
「僕の考え方がですか?」
 ハーゴンは僕から視線を逸らして、もう暗い空を見上げながらうなずく。
「愛する人間に、ただ一人の存在に。なぜ、求めずにいられるのかわからない。自分を愛することを、労わることを、大切にしてもらうことを」
「僕もまったく求めないというわけではないです。ただ、僕はそれよりも優先したいことがあるというだけで。僕は僕の幸せよりも、ロレの幸せの方が大切だっていう、ただそれだけのことですよ」
「――やはり私には、わからない」
 ハーゴンは静かに言って、僕を見た。その顔は相変わらずの無表情だったけど、思わず僕は言ってしまっていた。
「そんなに僕のことがわからないことが悲しいんですか?」
「悲しい?」
 ハーゴンは無表情のまま、顔に手を当てる。
「ええ。なんだかひどく寂しそうな、悲しそうな顔をしてるように見えたから」
「………そうか―――そうだな。私は悲しいのだろう」
 僕の方を見て、一歩踏み出す。僕の指先に、その爪の長い手をそっと触れさせた。ハーゴンの指は、ひどく冷たかった。死人のようとは言わないまでも。
「お前を理解できないのが。お前と、理解しあえないのが」
 僕は苦笑して、とりあえず指だけでハーゴンの手を握り返してあげた。この人、案外に人と話す能力は低いのかも。
「人を理解するのは、ちょっと話を聞けばすぐできるっていうものじゃありませんよ」
「…………」
「相手のいろんな話を聞いて、相手がどんなことを考えているか、感じているか知って。そうして少しずつ自分の中に相手の場所を作り上げていって、試行錯誤して相手がどんな想いだったか想像して。それでも相手の全てを理解したとは言えない」
「…………」
「僕はロレのことをもしかしたら本人自身よりもよく知っていると自負していますけど、それでも完全に理解したとは言い切れないんですからね」
「―――なるほど」
 ハーゴンは小さく言って、手を離した。僕の指先が初夏の熱い空気にさらされてみるみるうちに平常の体温に戻る。
 そしてハーゴンは、いつもの静かな瞳でじっと僕を見つめる。
「お前は、私を理解しようと思ってくれるだろうか」
 ……また唐突だな。
 でも僕は少し微笑んで、こう答えてあげた。
「そうですね。あなたがそれを、心から望むのであれば」
「――私は、心から望む」
 それに対して僕が何か答えようとする前に、ハーゴンは踵を返した。僕に背中を見せて、去っていこうとする。
「ハーゴン!」
 僕が呼び止めると、ハーゴンは振り向く。僕は答えを言うべきかどうか少し迷って、やめた。どうせお互いの感情はわかりきっているんだ。
 だから代わりにこう言った。
「あなたは僕に触れて、なにかわかりました?」
 ハーゴンはわずかに頬を緩めたかな、という感じに顔を震わせて、こう答えた。
「お前の体がいかに熱いかはわかった」
 その言葉に、僕は少し苦笑した。ハーゴンはまたわずかに頬を震わせ、何事か呪文を唱え、すうっと姿を消す。レムオルとは少し違う、ルーラの改訂版だろうか。
 姿が消える直前に、かすかな声が周囲に響いた。染み入るような静かな声が。
「……海底洞窟で、また会おう………」
 その声は、少しだけ周囲の空気を揺らして、そしてあっという間に消えていった。

 ――という会話から二週間。僕たちは、ディリィさんの指示通り海底洞窟のある場所にたどりついていた。
 ペルポイから船を飛ばしてきたけど(デルコンダルに行くとまた面倒なことになりそうだったから)、海流が逆方向に流れていたんでけっこう時間がかかってしまった。許容範囲内だと思うけどね。
「……ここで間違いねぇのかよ?」
『うむ。海の底を見てみろ、明らかに極端に盛り上がっておろうが』
「そりゃわかるけどよ……」
 ディリィさんと話しているロレには珍しく覇気がない。この二週間、ずっとそうだった。
 悩んでいる、というよりは――なにか怖がっている、という方が正確のような気がする。ロレがなにかを怖がっているところなんて、今まで一度も見たことがないからよくわからないけど。
「考えていても仕方がないわ。月のかけらを使ってから考えましょう」
 マリアの言葉に、ロレは「………おう」とうなずいた。どこか気圧されたような声で。
 マリアは少しずつロレと普通に――少なくとも見た目は――話すようになってきた。何度もディリィさんと話したりしていたし、告白から二ヶ月近く経ったし、で彼女も感情を制御することに慣れてきたんだろう。
 ただ、僕にはやはり、それは虚勢にしか見えなかったのだけど。
「……これどうやって使やいいんだ?」
「貸して。呪文を制御しなれている人間の方が使いやすいはずだわ」
 マリアが手を伸ばすと、ロレはびくんと震えて、一瞬マリアから体を逃がした。僕は思わずぎゅっと掌に爪を立てる。
 あのロレが。普通なら絶対に誰からも逃げたりしないロレが、一瞬とはいえ逃げた。
 それは、マリアへの想いがそれだけ大きいということの証のように、僕には思えたから。
 ――そしてそれはたぶん事実だ。
 だからどうっていうことじゃない。ハーゴンに言った、ロレの幸せが最重要事項だという気持ちは変わらない。
 だけどなぜか、どこか、心が軋む。なんでなんだろう、僕は本当に、ロレの幸せを、ただそれだけを心に祈っているというのに。
「………ほれ」
「ありがとう」
 もちろん、ロレが逃げたのはほんの一瞬で、すぐ顔を無愛想な仮面で覆ってマリアに月のかけらを差し出した。マリアはうなういて受け取ったけど、たぶん内心ではロレが逃げたことを気にしているのだろう、指先が少し震えていた。
 マリアは月のかけらを握ると、高々と天に掲げた。月のかけらを使用するには、月のかけらの中に眠る精霊力と感応しなければならない――だが、そんなことマリアにとっては実に容易いだろう。
 目を閉じたまま何事か唱えると――海が、海の水が、退き始めた。
 海が大きく揺れて波がこちらに向かってくる。船はほとんど跳ねるように揺れた。自動的に平衡を保つようにできている魔船でなければ転覆していたかもしれない。
 海底火山を覆っていた水は何度も何度も、かなり長い時間大量に周囲の海に押し寄せ――小半刻ほどの時間をかけて、海底火山の上から消えてしまった。
「……すげぇな」
「うん」
 口笛を吹くロレに僕もうなずいた。確かにすごい。月のかけらの力っていうのは初めて見たけど本当にすごいんだな。
 もっとも、ここまで強烈な力を発揮できたのは、マリアの力もあるのだろうけど。
 僕たちは船から降りた。水上歩行――メイルフォの呪文と落下制御――フワルーラの呪文を併用して、水際ぎりぎりまで歩いて数十丈ほど下の海底洞窟の入り口とおぼしきところに降りていくという方法で。
 海底洞窟の入り口は扉で封じられていたけれど、さっきまで海の底だったから当然ひどく濡れていて、波でつるつるに磨かれた足場の岩は滑りやすかった。その程度で転ぶような鍛え方はしていないけれども。
 扉はマリアがアバカムを唱えて開けた。レミーラを唱えて中に入る。とたん、むわっ、と強烈な熱気がこちらに押し寄せてきた。
「……なんだ、この熱さ?」
「もしかして……」
 僕は少し小走りになって先行し、洞窟内の様子を窺った。そして、予想通りの光景にふう、と息をつく。
「どうした? なんなんだよ」
「見てみればわかるよ」
「はぁ? どれ………!」
 洞窟内に視線をやって、ロレは絶句した。ついてきていたマリアも同様だ。それも当然だろう、ここ海底洞窟の中には溶岩の海がそこら中に広がっていたのだから。
 溶岩なんて僕も本や人の話でしか知らない。海底火山の中なのだからあってもおかしくないと言えばそうなのだけど、目の前に溶岩がぼこぼこ泡を立てているのを見るとさすがに気圧されてしまう。
 まぁ、なんにせよ進むしかないんだけどね。溶岩を渡らないと進めなくなったらトラマナを唱えればいいんだし。
 でもこの強烈な熱さは。ヒャドチル――弱冷気の呪文をかけないと熱気で前に進めないほどだ。ヒャドチルをかけても強烈な輻射熱がじりじりと僕らの肌を焼く。
 マリアだけは水の羽衣のせいか涼しい顔をしていたけれど、すぐ魔物がうじゃうじゃ出てきてそんなことも言ってられなくなった。
「ハッ!」
 ロレの剣がキラータイガーの首を切り落とす。僕もニ撃目でなんとかキラータイガーの心臓を貫いた。
「ふぅ……ここの敵、けっこう面倒だな」
「そうね……」
「一匹一匹なら簡単に対処できても、大挙してこられると少し厄介だね」
 出てくる魔物自体はこれまでにも会った奴らだから対処方法もわかりきっているんだけど、数が多いから対処が間に合わなくなってしまう。魔法力は温存しておきたいから攻撃呪文を唱えるのも得策とは思えないし。
 こちらの魔法力を吸い取る敵が出てきた時はそうも言っていられないけど。キラータイガーみたいに単純な力押ししかしてこない敵はこちらも力押しで返す作戦を取っていた。
 だけどそのぶん傷を負う可能性も高い。キラータイガーに集中して狙われて傷だらけになったロレに、マリアが近寄った。
「ベホマを唱えるわ。体から力を抜いて」
「………おう」
 また少し体が逃げる。意識してじゃなく無意識に。
 その態度にマリアはまた少し表情を固くしたけど、なにも言わずロレの体に杖を触れさせて呪文を唱えた。
 今マリアが使っているのはローレシアの元国宝、雷の杖。なんでもローレシア城にいた魔族の封印の鍵として使われていたらしくって、名前は有名だけどロレも見たことはなかったらしい。魔族を退けた立役者ということで、マリアにローレシア王から旅の間だけ譲渡されたんだ。
 呪文の威力を増す力はなかったと思うけど、集中には役立つのかこの杖を手に入れてからのマリアの呪文の冴えには鬼気迫るものがある。
 でも、僕から見ると、どうしても必死に神経を張りつめさせた結果集中力が鋭くなっているようにしか見えないのだけれど。
 あっという間にロレの傷は回復し、ロレは無言で立ち上がる。いつものロレなら軽く礼ぐらいは言っているだろうところだ。
 でも、僕は結局なにも言えない。ロレとマリアのバランスを崩すわけにはいかないから、ロレにもマリアにもなにか言ったらかえって気を遣わせてしまうだろうから。
 だけど、その状態に甘んじて、この二人を、ロレをいい方向に導けないのだとしたら――
 僕の存在価値はどこにあるんだろう。

「大地の精霊よ、しばしその手を休めよ。我らが足をつけし場所より我らに向けて立ち上がる痛みの腕を、安らぎの中に眠らせるべし=v
 何度目かのトラマナの呪文を唱えて、僕たちは溶岩の中に踏み込んだ。どんなに熱く溶ける岩も、トラマナを使えば僕たちを傷つけることはない。
 かなり長い溶岩に満たされた道をひたすら進む。ここの洞窟はかなり複雑だったけど、地図作成は僕の得意分野だ、迷いはしない。
 溶岩の狭間に隠されるようにしてあった階段を下りてさらに進む。その間中、僕たちの間にはほとんど会話がなかった。
 普段はこういう時、僕は率先して二人に話題を振って雰囲気を和ませようと尽力する。実際今回もそうしようかと思ったんだけど、やめた。
 ロレが、会話を拒否――というか、怖がっているのがなんとなくわかったからだ。びくびくしている。マリアの反応を、恐れている。
 マリアはそんなロレを見てどう思っているんだろう。幻滅したりしているんだろうか? 見た限りではただ、必死に戦いに集中しているようにしか見えないけれど。
 僕は、ロレがロレであるならどんなロレでも受け入れられるけど――ロレが苦しいのは嫌だ。今ロレは苦しがってる。なんとかしてあげたい――でも。
 僕がどんなに精一杯の言葉を投げかけても、ロレを納得させることはできなかったんだ。
「……人がいる」
 ロレがぽつり、と口に出した。僕たちははっとして視線をロレの見ている先に向ける。
 確かにそこには、人がいた。二人。それも司祭。こっちに気づいているのかいないのか、祭壇のような場所に向けて何事か呪文を唱えている。
 その怪しさと、漂う瘴気に、僕とマリアは顔をしかめた。
「……魔族だね、たぶん」
「そうね……あの瘴気は魔族のものだわ」
「そうか」
 ロレはずかずかと司祭たちに近寄る。僕たちもあとに続いた。
 おもむろにロレが剣を振り上げる――だが振り下ろす前に魔族たちはさっと飛び退った。
 そして悲嘆の表情を浮かべ、声を揃えて言ってくる。
『おお、ロトの勇者の方々よ! なにゆえ我ら祈りの徒に暴虐の剣を振るうのか?』
「うるせぇ。てめぇらは魔族なんだろうが、無駄口叩いてる暇があんならとっとと本性現しやがれ」
 その言葉に、にぃ、と二人揃って口の端を吊り上げ、その二つの老いた顔に見事にそっくりな笑みを浮かべる。
『おお、ロトの勇者の方々よ、なんとつれないお言葉か。あなた方を歓迎するべく、我らは祈りを捧げていたというのに』
「祈り、だ? うるせぇ、くだんねぇこと言ってんじゃねぇ。俺らはとっとと邪神の像手に入れなきゃなんねぇんだよ」
『おお、ロトの勇者の方々よ、なんと愚かな。我らが祈りによりて降臨せし悪霊の神々の一柱の前では、あなた方の望みが叶うことなどありえぬこととおわかりにならぬとは』
「……悪霊の神々の一柱?」
 僕は思わず呟いていた。まさか、こいつらは―――
『来たれませ悪霊の神々の一柱! その御力もて、ハーゴン様の御心を乱す愚か者どもの首、シドーに捧げ賜れませ!』
 その言葉と同時に、魔的結界が張られた時の独特の気配が周囲に満ちた。ただでさえ人里離れた洞窟の奥、充分に魔化されていることだろうにその上に結界を張らねばならないほどの魔族を呼ぼうとしている。
 それは悪霊の神々と呼ばれるほど強力な魔族、シドーの側仕えと呼ばれる混沌より産まれし魔神の一柱。
 すなわち――
 ギュオォォォオン! と空間が絶叫した。召喚呪文、それも極めて強力な存在を喚ぶ時に起こる空間の歪みによる悲鳴だ。
 レミーラの光が吸われるような空中の漆黒の球体から、ずるずるずる、と這い出てきたのは黄金色の腕だった。爬虫類じみたいぼいぼの肌に紅の手袋をはめた、成人男性の胴を二つ合わせたほども太さのある腕。
 ついでもう一方の三叉の矛を持った手。肩。澄んだとすら言えそうな蒼色の翼、そして不恰好なほど大きな胴体。そこだけつるりとした腹は翼と同じく蒼い。
 悪魔と人が言った時一般的に思い浮かべるような、どこか牛じみた顔。巨大な足。尻尾。足の先には手袋と同じように、紅の靴を履いている―――
「……魔神公爵、ベリアル」
 僕は小さく呟いた。
 ロレとマリアが武器を構える。僕も同じように武器を構えた。だが、ベリアルはそんな僕たちを興味なさげに睥睨し、魔族にしては人じみた、割れ鐘のような声で言ってくる。
『ハーゴン様、本当にこの程度の奴らにくだされた力を使えというのですか?』
 その言葉に対しての返答は、まだ宙に残っていた漆黒の球体からだった。
『そうだ』
 ――ハーゴンの声だ。
 マリアがぎっと声のした方を睨む。
「ハーゴン! どこに隠れているの、出てきなさい!」
『出てくるつもりはない。今回私はお前たちの戦いを傍観させてもらう』
「……ほう? 余裕かましてくれてんじゃねぇか」
 ロレが一歩前に出る。笑顔を浮かべて。
 その笑顔には苛烈なまでの殺気がこめられていた。ハーゴンへの恨み――違う、憤りだ。
 それもマリアのためなんだろうか。少なくとも、マリアに及び腰になっている鬱憤を、好きなだけぶつけられる相手に会えたことによる歓喜が混じっていることは疑いようもない。
「それならそれでいいさ、首洗って待ってやがれ。このクソトカゲだの雑魚魔族だの、そんな奴ら全員ぶっ殺して、てめぇの前に立ってやる。その時の俺は今よりもっと強くなってる――さっさと倒しておきゃよかった、って地獄の底で後悔させてやるよ」
『それは不可能だな。私が後悔することはありえない。――それにベリアルはそう簡単に倒せる魔族ではない』
『無敵の魔族と言っていただきたいものですな、ハーゴン様。我は三柱の悪霊の神々の中でも最強、戦闘力ならば魔を統べる御方にも匹敵する。――そのようなふざけたことを抜かす奴は、授けて下された力なしで叩きのめさねば気が済みませぬわ』
『そうか。お前がそうしたいのならばそうするがいい』
 ……ハーゴンはベリアルになにか切り札を与えたのか。いくつか想像できることはあるけど――向こうが使おうとしないのなら今のうちに叩くにしくはない。
「二人とも、即行で片づけるよ。長引くと不利だ」
 それにベリアルはベホマが使えるそうだし。
「おう」
 ロレがぶっきらぼうに言って剣を構える。鬱憤のぶつけどころができて嬉しがっているのがわかった。
「わかったわ」
 マリアが杖を構える。張りつめた表情で。……張りつめた糸が切れなければいいけれど。
 僕も剣を構え――戦闘が始まった。

 最初に動いたのはマリアだった。誰よりも早く、凄まじい速度で、杖を振りかざして呪文を唱える。
「大地よ、全てを飲み込め。炎よ、全てを焼き払え。風よ、全てを吹き飛ばせ! 三位の力よ合わさりて、我らが敵に力を示せ! 汝と世界が力もて、全ての敵を破砕せよ!=v
 高速で唱えられたイオナズンの呪文。ベリアルと二人の魔族――地獄の使いの間に即座に大爆発が起こる。
 だが、爆発の煙がまだ退かないうちに混沌語の呪文の詠唱が響いた。その流れるような詠唱が終わると同時に、僕たちの周囲でも大爆発が起こる。――イオナズンの呪文を唱え返された!
 その強烈な爆発にたちまち僕たちの骨は折れ、肌は焼ける。普通の人間がくらえばあっさり四肢がバラバラになってしまうだろう。
 でも人でなしの僕らはそれに耐えた――だけどベリアルの攻撃はそれで終わりじゃなかった。
 その巨体に似合わぬ素早さで煙の中から姿を現したベリアルは、こちらに向けて炎を吐いてきた。その炎は大きく広がって、ロレ、僕、マリアを包みこむ。
 また肌が肉が焼かれる強烈な激痛が走る――だけどそんなものにかまっている暇はない。僕は素早くベホイミでマリアの傷を回復した。
 幸い雑魚魔族は二体ともマリアのイオナズンで吹っ飛んだ。僕の力じゃベリアルの皮膚は貫けない。あと僕たちにできることは――
「マリア! ルカナン唱えて!」
「わかったわ!」
 傷だらけになりながらもベリアルに斬りかかり、今壮絶な斬りあいを展開しているロレだけど、まだ決定打は与えられていない。ベリアルはルカナンに耐性がない、状況を打開できる手になるはずだ。
「風よ、大地よ、我が敵を導け。我らが振り下ろす刃の下へと。我が敵の纏う硬き衣、貫かれるべく弱らせしめよ!=v
『!』
 ベリアルが一瞬硬直する――そこにロレの光の剣が深々と突き刺さった。
『き……貴様ァッ!』
 ベリアルが吠えて迅雷の速度でロレに人間では不可能な速さで攻撃する――ロレはそのいくつかは受け流したけど、二発はまともに食らった。
「ぐ……!」
 ロレの体が揺らめく――だけどその前に僕が呪文を唱えていた。
「人の命司る精霊たちよ、我が愛するものの傷深く癒したまえ!=v
 ベホイミの短縮呪文がぎりぎりでかかり、ロレの傷が癒される。ロレはぐっと踏みこたえ、さらに踏み込んでそのどてっ腹に深く剣を突き刺した。
『グォァアァァッ!』
 ベリアルは絶叫して至近距離のロレに向けて炎を吐き、槍で突き、と攻撃しまくる。でもロレに集中攻撃するならこちらには癒し手が二人いるんだ、そう簡単に倒れさせたりはしない。
 ロレはその凄まじい膂力で、ベリアルの体を刺さったところからずばぁっ、ずぱぁっと斬り裂き――ついには脳天までむりやり引き裂いてしまった。
 ……ロレは鬱憤を敵にぶつけると同時に、自分も責めてるんだ。たぶん本人は自覚してないだろうけど。そうでなきゃ、戦うために生まれてきたみたいに戦闘に長けたロレが、あんな自分も壮絶に傷を負う戦い方しない。
 鬱憤が爆発したから、ルカナンがかかっていたとはいえ鉄より硬いベリアルの身体を引き裂けるほどの力が出たのだろうけど。
 ベリアルが切り裂かれると同時に、ロレはどうっとその場に倒れた。
「ロレイス!」
 マリアが叫んで駆け寄る。僕は、体の反射を押さえつけてベリアルの方に向かった。
 ロレはマリアに治療された方が嬉しいに決まってるし、ベリアルのとどめもさしておきたい。僕の感情とかは、どうでもいいことだから無視だ。
 ベリアルはまだ生きていた。僕は即座に核を探して細切れになるまで体を突きまくる。
『――貴様らごときに殺されたりはせん』
 ベリアルの裂けた口から、声が聞こえた。念話だ、たぶん。僕は少し眉をひそめながら声を聞いた。もちろん細切れにする作業は続けながら。
『まさか、本当にこの力を使うことになるとは思いもしなかったが――油断しすぎたな。もしまた命を得ることがあったならば、留意することにしよう………』
 ……この力――ハーゴンからもらったっていう力を使う気か!?
「ロレ! マリア! 気をつけて!」
『もう遅い……』
 にや、と引き裂かれた頭が笑ったかと思うと――空間が歪んだ。
「!?」
 ベリアルの身体を拠点として、空間が歪んでいく。旅の扉を使った時のような、世界が、精神が、揺らいでいく感覚。
 それは闇に見えた。漆黒の闇。けれど異常なまでの生命力に満ちた、そのくせ死体のように冷たい、固体のような液体のような気体のような闇が、ベリアルから広がって世界を歪めていく。
 その闇は間違いなく闇なのに、輝いているようにも感じられた。輝く闇。修辞的におかしい言葉だけど、そうとしか言いようがない。光と影が、生命と死が、同時に存在する闇。見ているだけで精神が混乱してくる――
 ――これは、混沌だ。
「うお! なんだこりゃ!?」
「これは……なに!?」
 ロレとマリアがこっちに気づいて叫ぶ。僕は後ろに飛び退りながら叫んだ。
「ロレ! ロトの剣を使って!」
「……はぁ!?」
「これは混沌だ。ベリアルがハーゴンに与えられた力っていうのは混沌を現出させる力だったんだ! 混沌を鎮めるには世界を変える力を使うしかない。ロトの剣は混沌を封滅するのには一番適しているはずだよ!」
「え、いや、そりゃわかるけど……えぇ!?」
「使い方は知ってるでしょ? ロトの印で学習したんだから!」
 僕も一緒に学習したんだから確かなはずだ。僕はロトの印にいろんな問いを投げかけて知識を得たけれど、混沌を封滅する方法はロトの剣を用いる以外教えてくれなかった。
「いやそりゃそうだけど……えぇいわかった! てめぇら俺の後ろに来い!」
 僕とマリアは素早くロレの後ろにつく。ロレはぎりっと奥歯を噛み締めながら叫んだ。
「……王者の剣!」
 そう、ロトの剣は、その真名を呼び、思うがままに振るえばその力を発揮してくれるはず――
 だけど、剣は現れなかった。
「…………!?」
「!? おい、おいっ! どーしたんだよっ、どうして出てこねぇんだ!? おーいっ!」
 ロレがどんなに叫んでも、ロトの剣は現出しない。その間もじわじわと混沌は広がっていく。
 混沌に飲み込まれた人間がどうなるかはわからない。だけど――あの人の精神の平衡を失わせる闇の中で正気を保つのはかなり難しいだろう。
 どうするか……ロトの剣はなぜ出てこないんだ? ロレの話を聞いた限りではロトの剣はロレを主と認めたはず。それならいかなる時も呼びかけには応えるはずなのに………。
 必死に頭を回転させつつじわじわと広がる混沌に押されて退がる――と、マリアがふいに一歩前に出た。
「――私が、なんとかするわ」
「………は!? お前……なに言ってんだ、お前がなにをどうやりゃなんとかできるってんだよ!?」
「……マリア、もしかして、パルプンテを……?」
「ええ」
 マリアは唇を引き結んでうなずく――絶対に前言を翻さずやり遂げるという決意をこめた表情だ。
「パルプンテは混沌の欠片を世界に呼び込む呪文。混沌に混沌をぶつけることによって、相殺させることができるかもしれないでしょう?」
「……だけどそううまくいくかどうかはわからない。混沌に対する研究はディリィさんの蔵書にもほとんど載っていなかった。かえって勢いを増す結果にもなりかねない――それはわかっているの?」
「ええ。でも、他に方法はないでしょう? ロトの剣が出てこない以上それしかないわ。混沌をこのまま広がらせては、世界の消滅にも繋がりかねない」
「……そうだね」
 僕はため息をついてうなずいた。世界を滅ぼすにはシドーを召喚するしかないとハーゴンは考えていたようだけど、これだけの混沌で世界が滅びないという保証はどこにもない。
 やるだけやるしかないだろう。
「わかった、マリア、君に任せる。でも、自分一人の責任にはしないでよ」
「ありがとう、わかってる、思い上がる気はないわ」
 それからマリアはロレの方を向いた。ロレは状況が飲み込めてないみたいで、少しぽかんとした顔で、けれど危険は十二分に感知しているらしく今にも死にそうな表情でマリアを見ていた。マリアが傷つくのが怖い、マリアが心配でたまらないと体中で言っていた。
 ――本当に、どうしてこれで意識的に自覚できないんだろう。
 マリアはロレを見て、くすりと笑った。
「なんて顔してるの。私はなにも死地に赴くわけじゃないのよ。それよりはまだ助かる可能性は高いわ」
「………マリア」
「大丈夫、なんとかしてみせるわ。――私だってロトの血を引く勇者ですもの」
「マリア―――」
 それ以外の言葉を忘れてしまったかのようにひたすらマリアの名を呼ぶロレに、マリアはまたくすりと笑って、そっと手を握った。両手でロレの剣を握っているほうの手を、ぎゅっと。
「私は負けないわ。――あなたと、サウマリルトと、世界の全ての命がかかっているんですもの。――大丈夫よ」
 言うやたたっと混沌の前に進み出て呪文を唱える。
「万物の始原たる混沌の海よ! 我精霊神の定めし理と力によりて汝を喚ぶ! 混沌の秘めし力を世界に対して一時振るうことを許さん! 我が命に従い――顕現せよ、混沌よ!=v
 呪文が終わった瞬間、世界が揺らいだ。
 旅の扉に入った時のような揺らぎが再び僕たちを襲う。今度の衝撃は二度目だけど、その力は増しているように感じられた――
 マリアを見る。マリアは必死に混沌を制御して現出させようとしているようで、目を閉じて全神経を集中して制御呪を唱えている。確かに混沌を制御できれば混沌を相殺することは可能だろうけど――
 そんなことができるとは僕には思えない。だからこそパルプンテは制御不可能な呪文っていうことになっているんだから。
「………ッ………!」
 ロレがぎゅっと拳を、血が出るほどに握り締める。自分の無力が悔しくて悔しくてしょうがないんだろう。その気持ちは僕にも理解できた。
 ――でも、つい、『ロレは僕がマリアの立場でも、同じように心配してくれただろうか』と思ったりしてしまったのだけれど――
 そんなことをちらりと考えた瞬間。
「!」
「きゃ……!」
 マリアがついに呪文の制御を失敗したようだった。今にもはちきれそうになる混沌の力を必死に押さえつけてたんだ、ここまでもった方が奇跡みたいなもんだ。
 押さえつけられた混沌は一気にその力を解放した。周囲を歪ませる感覚が一気に倍化し――ベリアルの喚んだ混沌が一気に力を増し、マリアを飲み込んだ。
「…………ぁ…………!」
「―――マリア―――――!」
 ロレは絶叫して、マリアのところへと駆け寄った。僕は思わず後ろからロレにしがみつく。
「ロレ! 行っちゃ駄目だ、行ったって無駄だ! 混沌に対抗する方法がなければ飲み込まれるだけだよ!」
「うるせぇっ!」
 ロレは僕を、思いきり殴り倒してマリアのところへと走る。僕が倒れながらも足にしがみつくと、蹴り飛ばされた。鎧をつかむと振り払われた。
 止めなくちゃ――それだけを思って僕は必死に、何度殴られても、何度蹴られても、必死にロレを引き止める――だけどロレは、僕を見もせずこう言った。
「邪魔だ! すっこんでろ!」
 ――それを聞いたとたん―――
 僕の腕は、すとんと床に落ちた。
 僕は、ロレがマリアを助けようとする時には――邪魔なんだ。
 ロレを気遣ったりするのは、マリアの前では、なんの意味もないことになるんだ。
 僕が、ロレの命を助けようと、関わったりするのは無駄で、ロレにとってはすっこんでいてほしい存在ってことなんだ。
 ――じゃあ、僕はロレを止めることはできないよ。
 僕はロレの意志を尊重しなければならないから。
 ロレが意思を通したいと思っているのに僕が邪魔してしまっては、僕の存在価値が本当になくなってしまうから。
 僕はロレを大切にして、ロレの意志を大切にして、ロレが自分の意思を通して幸せになれるように心を配らなくてはならないから。そういう役回りだから。
 だから、僕は、ロレを見守るしかないんだ。どんなに不安でも、どんなに苦しくても。僕はロレを幸せにするために存在しているのだから。
 ああ、でも―――僕は、ロレを守りたいのに。ロレを危険から守るためなら僕はなんだってするのに。僕はロレを守るためにも存在しているのに。
 こんな時になにもできないなら、僕って、僕の存在って、本当に、なんなんだろう。
「マリア―――――!」
 ロレが叫ぶ。混沌に打ちかかりながら。
 光の剣はいつしか、ロトの剣に姿を変えていた。ロトの剣は強烈な光を放ち、やすやすと混沌を切り裂き、消滅させる。
 混沌の闇に包まれていたマリアが現れ、くたっと倒れかかるのをロレが支える。マリアは気を失っているようだった。
 ロレはマリアを、そっと床に横たえさせた。頭をどうするか少し迷って、マントを体の下に敷くことでなんとか妥協したみたいだった。
 それから、じっと、たまらなくほっとしたというような、たまらなく大切だというような、たまらなく愛しいというような、切ないくらい優しい瞳でマリアを見て、そっと優しく髪を撫でた。
 ―――きっと、今のロレの中には、僕はいない。
 僕の存在なんて微塵の価値も、存在してやしない。
 それを確信した僕は、踵を返してその場から離れた。
 ――今、二人っきりにしてあげることが、きっとロレが僕に求めている最大限の奉仕なのだろうから。

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