僕の終わりの話・前編
 ロレは船の舳先から祠に飛び降りて、続いて降りようとするマリアに手を差し伸べた。
「………え?」
 マリアは一瞬呆気に取られて、それから頬を染めてロレを見つめた。
 ――ドキドキしてるんだ。ロレの行動に。
「なんだよ、早く来い」
「だ、だって……なんであなたがそんなことを?」
「しちゃ悪いか」
「悪いかって……あなた今までそんなこと一度もしたことなかったじゃない!」
「そうか?」
 そう、ロレは今までこんなことしたことなかった。マリアを女性に対する貴族のように、ことさらに優しく扱うことは。
 それが、変わってきている。海底洞窟で、マリアを助けた時から。
「いーだろ、こんくらい別にしたって。それともお前は嫌なのかよ?」
「それは……嫌ではないけど……」
「じゃ、とっとと来い。さもなきゃ抱えて飛び降りるぞ」
「わ、わかったわよ! …………はい」
 ロレはマリアをそっと祠の床に降ろした。そっと、羽をつまむように優しく軽く。
「…………! いつまで握っているのよ!」
「へ? ああ、悪ぃ」
 じゃれあう二人を見ながら、僕は一人で祠の床の上に飛び降りた。ロレが僕に手を差し出してくれることは、ありえないことだろうから。
 ロレは、たぶん――決めたのだろうから。自分の心の向かう先を。

 ロンダルキアの洞窟に侵入し、命の紋章を手に入れた僕たちは精霊の祠までやってきていた。ここはルビスさまがかつてアレフガルドを創った時偶然できた精霊力の吹き溜まりのような場所らしい。なのでルビスさまの託宣を聞くことができる場所として定められているとかで、その筋では世界的に有名な場所だ。
 でも、ルビスさまに招かれた人間でなければ祠の扉を開けることはできないんだそうだ。アバカムを使っても開かない神の封印が施されているんだとか。
 つまり、祠の扉が開いた以上、僕らはルビスさまに招かれているってことになるわけだけど。
 下へ下へと階段を下って、至聖所にたどりついた。人がまったくと言っていいほど訪れないのに、神聖な雰囲気に満ちた空間。
「……ここでなにをすりゃいいんだ?」
 ロレがそう口を開く。
「紋章を捧げて、祈れと言っていたわね、ゴーディリートは」
「祈れ、ね……」
 ぽりぽりと頬をかくロレに、僕は提案した。
「……紋章を出して、そこに三人で座ろう。そしてそれぞれに、今一番心にかかっていることを考えるんだ」
「は? なんだよそれ」
「……僕は神学は専門というわけではないけれど、祈りというのは真実の言葉じゃなければ届かないのはわかる。だから祈りという形にとらわれないで、今心にかかっていることをひたすらに念じたら、ルビスさまもその声を聞いてくれるんじゃないかと思うんだ」
 むろんのこと――
 こんなことを言い出したのは(間違った理屈ではないとは思うけど)、今の僕が行う世界のための祈りでは、どう考えても、ルビスさまに届くとは思えなかったからだ。
 ただ一人の人のことしか考えられない状態では。
「ふーん……そうかもな。じゃ、やってみるか」
 僕は小さく笑った。こんな時なのに、こんな時ですら、ロレが僕の意見を容れてくれることはたまらなく嬉しい。
 三人で紋章を祭壇に捧げ、ひざまずいて祈る。――祈りというのは本来こういうものだったのかもしれない。神という絶対的存在に向けて、ただひたすらに自分の想いをぶつける。
 他の二人の考えていることは、たぶんお互いのことだろうと思った。ロレはマリアの、マリアはロレのことを。お互い二人で完結している男女。人と人の最も美しい形だ。
 その中で、僕が異分子だということはわかっていたけれど――
(ルビスさま。どうかロレを守ってください)
 僕は祈る。マリアの存在も世界の存在も無視した、ひどくわがままな祈りを捧げる。
(ロレの心と命と幸せを守るために、僕を使ってください。僕はどうでもいい、苦しくても死んでも苦しみながら生きながらえなくてはならなくても、そんなのどうでもいい。ただ、ロレが幸せであるために、僕を使ってください―――)
『――なぜ自分を犠牲にしてまでロレイソムの幸せを求める?』
 ふいにそんな声が聞こえてきて、僕はかなり驚いたが、表面に出しはしなかった。
 低く、重く、威厳のある声。精霊女神ルビスの声、と言われてたいていの人が思い描く声とはかなり趣を異にする。
 だけど、その、体を芯から震わせるような圧倒的な迫力は、やはり、神のものとしか思えなかった。
 だから、僕は答える。
(僕は僕自身よりもロレの方が大事だからです)
『ロレイソム自身はそのようなことを望んでいないとしても?』
(――ロレに僕の存在が不要なのはわかっています。僕の力などなくてもロレは自分の力で幸せを掴むだろうってことは)
『…………』
(でも、僕の願いはただひとつ。僕の存在意義はただひとつ。ロレを守り、ロレを少しでも幸せにすることなんです。僕の存在がどんなにロレにとって無駄でも――想うことが許されるなら、僕はロレのために自分を使いたい。そうでなきゃ僕の存在に、意味なんてないから)
『………サウマリルト、あなたは―――』
 声が突然、優しく澄んだ、それでいて神々しい声に変わった――と思ったら紋章が光り輝き、視界が純白で埋め尽くされた。
 まぶたを閉じて太陽を見た時のような、けれど少しも眩しくはない白さ。その中で、声だけが優しく響いた。
『……自らが幸せになろうとしなければ、他人の幸せを願う資格もまたないのですよ』
(……ルビスさま)
 意外だ。神様がこんな人がましい忠告をするなんて。
『神とはいえ、元は私は精霊でした。愛した相手も、憎んだ相手もいたのです。たまたま神としての力を得たゆえ神々の末席に名を連ね――そしてただ一人生き残っただけで』
 だけどアレフガルドを創り維持しているってだけで十二分にすごい力だと思うけどな。
『けれど世界を滅ぼそうとする力を止めることはできません。魔を統べる者を止めることができるのはあなたたちだけなのです。神というのは世界を創る力は持っていても、真なる混沌と戦う力は持っていないのですから』
(……神は混沌から世界を創り出したのですから、神ならば混沌に対する対処の方法もわかっているのかと思っていました)
『神というのは戦う力は存外に低いのですよ。魔族のような意思持つ存在を従わせる力は私にはありません。私はアレフガルドを維持するのに力のほとんどを使っていますし』
 ふーん。なるほどね。
(魔を統べる者を倒せるのが僕たちだけだというのは……ロトの血族の中で一番適当な人材だというのではなく?)
『ロトの血……それにまったく力がないとは言いませんが、すでにロトから何十代も時を数え薄まった血です。あなた方が勇者たりえているのは、血ではなく私の祝福でもなく、自らの力なのですよ』
(――自らの力?)
 ロレはともかく僕とマリアにそんな力があるとは思えないけれど。
『あなたたち二人は触媒のような働きをするのです。ロレイソムの力を強め、安定させている。あなたたちは三人でひとつの力を成しています――三人揃ってひとつの勇者となっているのですよ』
(なるほど――でも僕はロレには必要不可欠ではないですね?)
 答えには少し間があった。神様が迷ってるのかと考えると、少しおかしい。
『――ええ。あなたもいた方がより安定するのは確かですが、必要不可欠というわけではありません』
(――やっぱり、ね)
 世界の創造主に言われちゃあおしまいだな。
『けれど、ロレイソムはあなたのことを本当に大切に思っているのですよ』
(そうでしょうね)
 でも、僕は、それはそれで嬉しいけれど、幸せだとは思えない。
 僕は、ロレの負担になるのは嫌なんだ。ロレの役に立ちたいんだ。ロレの幸せに少しでも貢献したいんだ。
 ――そうでなけりゃ、僕がロレを好きなことに、微塵も意味なんてないんだから。
『サウマリルト。自分の存在に意味がないなどと思うのはおやめなさい。あなたには愛してくれる人がいる、一人でも愛せる人がいる。それだけで充分あなたという存在には意味があると考えられませんか?』
(――本当にそうお考えなのですか?)
 聖人君子のふりをしてみんなを騙してきた誰も愛せなかった僕に。愛している人に振り返ってももらえない役立たずな僕に。存在する価値がある、と?
『ええ』
 ルビスさまの言葉はきっぱりとして、威厳と優しさと神々しさに満ちていた。僕ですら一瞬その言葉に納得しかけてしまうほど。
 そんなわけはない、とは思うけど――僕は苦笑していた。
(わかりました。できるだけそう考えるよう努力してみます――旅が終わるまでに、なにかロレの役に立てることが見つかるかもしれませんし)
『サウマリルト………』
 ルビスさまが困ったような声を出す。たぶん僕の思考が基本的に変わっていないことを案じているんだろう――僕が、僕自身をそのままで価値があると思えないという事実は実際変わっていないのだから。
 だけど、いまさら直すことなんてできない。だって僕は、生まれてこの方ずっとずっと、自分が嫌で嫌でしょうがなかったのだから。
『……忘れないで、私の子。私はあなたを信じています。あなたが幸せをつかめると、本当に心から信じていますよ』
 その言葉に僕は苦笑して、一礼した。僕の本性を知りながらこれだけ言えるっていうのも大したもんだ。
『忘れないで……あなたは幸せになれる。幸せになる力を持っているのですよ……』
 その言葉を最後に、僕は意識を失った。

 意識が戻った時――頭がひどくがんがんしていたけど――見えたのは、ロレがたまらなく愛しそうな顔で意識のないマリアを見ている顔だった。
 僕は再び目を閉じた。ロレはきっと、今のマリアしか見ていない、見ないですむ状況を、壊されたくはないだろうから。

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