――ロレがマリアを初めて見て、言葉を失った時から。 僕はこの日が来ることを、心のどこかでずっとずっと知っていたような気がする。 僕たちは、二週間という時間をかけてロンダルキア中をさまよった。外れにある小さな祠を拠点として。 ひとつにはレベル上げのためであり(ロンダルキアにはこれまでとは比べ物にならないほど強い、ひいては経験値の高い魔物がうろうろしていたから)、もうひとつには敵――ハーゴンの拠点がどこにあるか調べるためだった。 精霊力が狂っているんだろう、気候的にはまだ夏の頃なのに極寒の世界となっていたロンダルキアを踏破するのはそれなりに大変だったけど(装備のおかげで寒さはさほど感じないですんだけど、次々降り積もる雪を越えるにはちょっと苦労した)、二週間で僕たちはハーゴンの拠点であろう神殿を突き止め、もう限界なんじゃないかと思えるほどレベルを上げることに成功した。 ――その間も、ロレはずっとマリアを気遣っていた。陰に日向に。 マリアはそれをどう受け取っていいのか戸惑っているみたいで、時々瞳を揺らしながらロレを見ているのがわかった。 そして僕は、そんな二人を、ただ見守って、せいぜい邪魔にならないように引っこんでいるしかできなかった。 だから、ロレが夕食の時にこう言った時も、同じことを考えたんだ。 「明後日にしようぜ」 「明後日って……なにがかしら?」 訊ねたマリアに、ロレは静かなのにどこか炎のように揺らめいた眼差しを向ける。 「ハーゴンとの決戦の日だよ」 「!」 「……そうだね。いいと思うよ。ロンダルキアとの魔物ともさんざん戦ってもう敵じゃないと思えるぐらいにはなったし、ハーゴンの拠点と思われる神殿への道はもう確認したしね」 確かにそろそろ潮時だ。レベルは限界、敵地の場所もわかっている。これ以上引き伸ばしても意味なんてないだろう。 最終決戦――この旅の終わり。 どう転んでも、たぶんそこで僕とロレは、二度と会わないことになるのだろう。 「マリアはどうだ。明後日、どう思う?」 「……なんで明日ではなく明後日なの?」 「明日一日はゆっくり休んで英気を養おうってことだ。これまでずっと旅してきたんだ、最後の一日の前に休んどくのも悪かねぇだろ?」 「……そうね。わかったわ。私も明後日でいいと思う」 「よし。そんじゃ集合は明後日だ。そん時まで自由時間――つっても、この祠ん中じゃ自由時間もクソもねぇだろうけど。で、いいな?」 どこか遠く聞こえてくるロレの言葉に、僕はうなずいた。なんでだろう、頭の中ががんがんする。 なにをうろたえているんだろう、僕は。こんなの決まっていたことだろうに。旅が終われば、ロレは僕とは別れる。そんなの、ずっと前からわかっていたことだろうに。 「うん」 「わかったわ……」 そして、僕はそのあと、部屋に戻った。ロレとマリアを二人きりにするために。 それが僕がロレのためにできる唯一のこと。邪魔にならないことが、つきまとわないことが、ロレが僕に求めている唯一のことなのだろうから。 自分用にもらった部屋に入る。寒かった。凍えるぐらい。 僕はなにをやっているんだろうな。僕の求めていることはロレに初めて会った時から変わらないのに。 ――ロレと生きたい。ロレのために生きたい。 自分の中にあるもの全てをロレのために使い、ロレに少しでも嬉しいと思ってもらうことができたら、こんなに幸せなことはない。 ただ、それだけでいいはずなのに。よかったはずなのに。 なんで、僕はこんなに。 僕は部屋から外に出た。もっと寒くなってほしかった。僕の心の中のなにもかも、凍りつかせてしまいたかった。 その時、ちらりと、無意識のうちに僕はロレたちのいる食堂の方を見た。部屋の中にいた時は見ちゃいけない、としか考えてなかったから、本当になんとなく見ただけだと思う。 ――だから、食堂でロレとマリアがキスしている光景は、僕にはまったくの不意打ちだったんだ。 僕は、すーっと頭の血が下に下がっていくのを感じた。体中から力が抜けていくような。 けれど倒れはしなかった。倒れたらロレとマリアが心配する。ロレに、迷惑がかかる。 頭の中でがんがんと鐘を打ち鳴らされているような感覚に耐えながら、僕はふらふらと自分の部屋に戻った。力が抜けて、ぺたん、とベッドの上に座る。 別に、驚くようなことじゃない。わかっていたことだ。決まっていたことだ。 ロレが、マリアを好きなこと。世界の誰よりも、大切に思っていること。自分のものにしたいと思っていること。 そして、僕をそうは思っていないこと。 僕の顔はいつしか微笑んでいた。しょうがないことだ。初めて会った時からずっとそうだった。 僕は、ロレの人生に、全然必要じゃない。 パーティメンバーとしては必要だと言ってくれた、大切だと言ってくれた。でも、それはどのくらいの必要で、大切なんだろう。 人生に。生きていく苦しみに耐える時に。ロレは、僕がロレを思う時そうであるように、僕を自分の人生の喜びとしてくれるだろうか? たくさんある中のひとつでもいいから、僕と出会えたことが嬉しいと、僕の存在が生きる支えのひとつだと思ってくれるだろうか? ―――そんなわけはない。 ロレにとって僕は仲間以上の存在にはなりえない。そしてロレにとって仲間っていうのは、人生の支え≠ニいうほど深く人生に関わってくる存在じゃない。 僕は、ロレにとって、しょうがないから面倒を見られているだけの、見ているだけの、本当の人生の支えに相対した時には邪魔な存在でしかないんだ。 「あはは」 僕は声に出して笑ってみた。おかしかったからだ。 僕はロレに最初に会った時、これから少しでもロレが僕のことを好きになってくれればいい、と思った。だけど、結局、旅の最後まで来ても、僕は、ロレに大して好きになってはもらえなかったんだ。 ―――しょうがない。 僕はロレに、好きになってもらえるだけの力がなかった。それだけのことなんだ。 それにそれでも僕のやることは変わらない。ロレに尽くす。僕の全てをかけてロレを助ける。 それが僕の生きる全てなのだから。 部屋の扉がノックされた。コンコン、と二回、重く力強いノック。――ロレだ、と思った。 「どうぞ」 無言で中に入ってきたのはやっぱりロレだった。唇を厳しく引き結んで、僕を睨みつけるように見ている。僕は小さく微笑んで、ベッドからロレを見上げた。 「ロレ。なに? どうかしたの?」 ロレはじっと僕を見て、低い声できっぱり、はっきりと言った。 「サマ。お前には言っとくのが筋だろうと思うから、言っとく。俺はマリアに惚れてる。自覚した」 「…………」 そんなのわかってるよ。僕は君が認めるずっとずっと前から、君が誰を好きなのか知ってたんだから。 「俺はこれからマリアを抱く。そのつもりだ」 「…………」 そんなのわかってるよ。君がどんなに彼女が好きか、僕はよく知ってるんだから。 「だから、俺がこれから先お前に振り向く可能性は零だ」 「……………………」 そんなのわかってるよ。君が僕を振った時から、ううんもしかしたら初めて会った時から、君が僕の方を向いてくれることは金輪際ないって、僕はよくわかってたんだから。 でも―――僕は君が好きなんだ。世界でただ一人好きなんだ。世界で唯一愛せた人なんだ。 君がいなければ、世界が意味を失う。人生が必要なくなる。喜びも、楽しみも、君がいなければなくなるんだから。 だから、せめて、想うことだけは。君のことを、想うことだけは――― 「俺を好きでいるのをやめて、他に好きな奴見つけろ」 ―――え。 その言葉を聞いた瞬間、僕の魂は凍りついた。 それがどういう意味なのか、僕は知っている。ロレの宣言だ。 僕が、ロレを、好きでいることを許さない、という。 頭も、心も、全てが氷よりもまだ冷たく冷えた。ただひとつの言葉だけが僕の中で何度もこだまする。 『俺を好きでいるのをやめて』 ―――なんで? なんで、そんなこと言うの? 僕には、君しかいないのに。 君がいなくなったら、君を好きでいなくなったら、僕の全ては消滅してしまうのに。 なんで、僕に、そんなこと、言うの? 僕はロレを見上げる。その厳しく引き締まった顔を。 その表情にはきっぱりとした拒絶の色があった。僕がなにを言おうと受け容れないという決意があった。 (―――迷惑なんだ) 僕は、長い長い時間をかけて、ようやくその結論を認めた。 僕の想いは、ロレにとって、迷惑なんだ。 僕に想われていると、ロレは嫌なんだ。鬱陶しいんだ。やめてほしいって思ってるんだ。 以前にもそう言われたことはあった。でも、あのあと、ロレは、僕に言ってくれたのに。 好きなら好きでいいからって、そう言ってくれたのに。 (―――本当は、嫌だったんだ) 嘘をついたんじゃないと思う。でも、やっぱりあれはただの気遣いだったんだ。 僕を受け容れてくれたのではなく、ただ僕が哀れだから気遣って言ってくれただけだったんだ。 ―――僕の想いは、本当は、ロレにとっては、邪魔なんだ。 どくん、と頭のどこかが鳴った。体のどこかも鳴った。 世界が歪んできた。視界が赤く染まってきた。認識できるもの全てが、ロレの顔さえもぐちゃぐちゃになってきた。 邪魔。迷惑。鬱陶しい。必要ない。それどころか害悪。あってはいけない。存在しちゃいけない。僕の想いは――僕の全ては。 ――僕は、世界から放逐されなければならない。 「…………わかった。おめでとう、ロレ」 そんな声がどこか遠くに聞こえた。なにを言ってるのか認識ができない。 僕はもう、世界にあってはならない存在なのだから。 ――ロレに、ただ一人の愛する人に、全てを否定された存在なのだから。 「ありがとな、サマ」 「……なにが?」 「今までずっと俺とマリアを助けてくれて。すっげ、感謝してる」 「どういたしまして」 「じゃあな。――お前も早く新しく好きな奴見つけろよ。今度は女をな」 なにを、言っているの、ロレ。 僕にはわからないよ。新しい好きな人? 僕がなんで、そんな人を見つけられると思うの? 僕の全ては、ここで今、否定されたというのに。 僕はもう、終わりなのに。 「ありがとう、ロレ。――じゃあね」 だけど僕は顔に苦笑を浮かべてそう言って、ロレが部屋から出ていくのを見守った。なにをやってるんだろう僕は、僕はもう存在していちゃいけない人間なのに。 ロレが自分の部屋に入った音を聞いてから、僕は光の剣を手に取って部屋を出た。濡れた靴を履いたまま、コートも着ずにそのまま祠の外に出る。 ここにはいられない――いてはいけない。 陽の暮れたロンダルキアは静かだった。今晩は吹雪ではないようで、静謐な白の世界を月が冷たく照らしている。 僕はどんどんと歩いて、ほとんど果てがないように見える大雪原にたどりついた。そこで軽くギラを唱えて雪に穴を掘る。 なにをしてるんだろうな、僕は、と頭のどこかがひどく冷たく呟いていた。ただ、もうロレのそばにはいられないと思った。消えてしまいたかった。この世から跡形もなく消滅してしまいたかった。 この穴の中で死ねば、肉眼で見つけるのはほぼ不可能になるだろう、と頭のどこかがそんなことを思った。魔法による探査は遺体を消滅させることで断ち切れる。難しいことじゃないと思う、メガンテを併用すれば。 僕はまだ死んじゃいけない。ロレがいやな思いをする。 でも、でも。僕の生きていく意味が、喜びが、全てがもう消えてなくなったのに、存在することを許さないと人生の全てに言われたのに。 このまま今までと同じように、自分を深く憎みながら、他人の愛情を嫌悪しながら生きていくことが――どうしてできるだろう。 僕は穴の中に飛び込んだ。剣を抜いた。喉元に突きつけた。 刺したい。死にたい。駄目だ、ロレがいやな思いをする。でもロレは、僕に好きでいるのをやめろと言ったのに。生きるよすがを断ち切れと言ったのに。 愛する人にそう言われて、どうして生きていなくてはならないんだ? ―――ロレ。 結局僕は最後まで、君になにもしてあげられなかったね。 僕は君に会えたことが嬉しくて、君にお返しをしてあげたくてしょうがなかったのだけど――君にとっては、僕の想いは邪魔以外の何者でもなかったんだよね。存在していちゃ迷惑なものだったんだよね。 それなら僕はもう、消滅するしかない。僕をこの世と結び付けていた全て、僕の生きたいと思う全て、僕の命の全ては、あってはいけない存在だと、僕の全てが言ったから。 なのに、僕は、僕の全てに存在を否定されたのに、その人の気分を少しでも損ねないようにするために、これからの長い長い、地獄のような時間を生きていかなければならないのか? 「あ、あ、ああああ…………」 口から嗚咽が漏れた。一筋、二筋、涙がこぼれた。雪穴の中なので音はあっという間に吸収されて消えた。 なんで、なんで、なんで。 僕は、本当に――消えてしまいたいのに。 「――もう少し、待ってはくれないか」 僕は少し驚いて上を見上げた。穴の上から声がしたのだ。 そこにいたのはハーゴンだった。 「……ハーゴン」 ハーゴンはいつもと変わらない無表情だった。ハーゴンがウゴルナの呪文を唱えて僕を穴の上に引きずり出す。 目が合った。静謐を形にしたような瞳だった。背景には漆黒の空と、蒼い月と、純白の雪原が見える。 「僕に……なにか用ですか?」 ハーゴンに訊ねると、ハーゴンは「ああ」とうなずいた。 「なんですか?」 早く済ませてほしい。できるなら殺してほしい。 僕は、一刻も早く、消滅してしまいたいのだから。 ハーゴンは静かに僕を見て、言った。 「ひとつ確認したいことがある」 「確認したいこと?」 「ああ――お前はこのまま死んでいいのか、と」 「なんでそんな――」 当たり前のことじゃないか。 だけどハーゴンの続けての言葉に、僕は目を見張った。 「誰にも自分を理解されないまま、死んでもいいのか?」 「………理解?」 「ああ」 理解―――ハーゴンがずっと言っていた言葉。 「理解―――」 それは一体なんなんだろう。人に、他人に自分を理解してもらうって、いったいどういうことなんだろう? 「理解………」 僕は繰り返した。馬鹿みたいに。壊れたオルゴールのように。 僕はもうこの世界に、あってはいけない存在なのに、誰かに理解されることにどんな意味があると? 「寂しくは、ないのか」 「………え?」 「誰にも理解されず、誰にも自分の思いを知られず死ぬことは、寂しくはないのか?」 「――――――」 寂しくないのか。 その問いに――僕は。 「………寂しい」 咽ぶようにそう答えていた。 「寂しい………!」 すごく寂しい。誰も自分のことをわかってくれないまま、知らないまま、誰とも心を通じ合わせることのないまま消えていくのは――すごく、すごく寂しい………! 僕は、この時、ようやく――ハーゴンがどんな想いでこの言葉を口にしていたかを理解した。 そうだ、僕は理解してほしかったんだ。ロレに。僕がどんなに彼が好きか、僕がどんな風に彼を想っているか。 僕が彼に出会った時どんなに嬉しかったか、彼と一緒にいられてどんなに楽しかったか、想いを否定されてどんなに、どんなに――苦しいとかいう言葉じゃ言い表しようもないほど辛かったか――そういうことを、知って、理解してほしかったんだ。 想いに応えなくてもいいから。そんな大それた望みは抱かないから。 せめて、僕の想いを、僕が全身全霊で彼のことを想っていたという事実を、知ってほしかった。 「ああ―――」 僕は泣いた。ぼろぼろと涙をこぼした。 偉そうなことを言っておいて、僕はなんにもわかっていなかったんだ。ハーゴンの、誰かに理解してもらいたいという、切ないほどの気持ちを。 僕のような人間がそんなことを思うのは思い上がりだっていうのはわかってる、でも、それでも誰かに、自分の好きな人に自分を理解してほしいという想いが、どれだけ強く、大きなものか。 それを全然わかっていなかったんだ。 今ならわかるよ、ハーゴン。君の想いが、感情が。どんなに強烈なものだったか―― 「ハーゴン」 「なんだ」 僕はハーゴンを見つめた。相変わらずぼろぼろ涙をこぼしながら。 「僕は、誰かに理解されたい」 「―――ああ」 「僕の想いを誰かに知ってほしい」 「ああ」 「僕は、ロレに、僕を、理解しようとしてほしかったんだ………」 「………ああ」 ハーゴンは涙を流す僕をじっと見つめると、相変わらず静かな、だけど無表情と言うには強すぎる瞳をしたまま言った。 「私では、駄目か?」 冷たい、けれど激しい熱情をこめて。 「私では、お前を理解するのに足らないか?」 僕は、静かに涙を流しながら、ゆっくりと首を振った。 「ううん」 心の底から、想いをこめて。 「ううん、駄目じゃない」 そう言うと、ハーゴンは、わずかに、ほんのわずかに、口元に笑みを浮かべたんだ。 それから僕たちはお互いのことを話し合った。 これまでの人生がどんな風だったか。どんなことを体験し、どんなことを感じたか。どんなことに喜び、どんなことに傷ついたか。どんな人間を愛し、どんな人間を憎んだか――― 長い長い時間をかけて、僕とハーゴンはお互いのことを知った。お互いの想いを、心を、魂を。相手を理解し、相手に理解された。それは僕にとっては、生まれて初めての快感だった。 ハーゴンが僕のことを知ろうと力を振り絞ってくれるのがわかったし、僕がハーゴンのことを知ろうと全力を尽くしているのがハーゴンにはわかっていることもわかっていた。 それは、もしかしたら、幸福と呼んでいいものだったかもしれない。 ――長いような、一瞬のような時間が過ぎたあとで、僕はハーゴンに言った。 「ありがとう。また、あとで」 ハーゴンもうなずいた。 「またあとで」 そう言うと、ハーゴンはわずかに身をかがめ、僕の額にキスをして去っていった。 冷たくて、固い、けれど優しいキスだった。 僕は、しばらくそこにいたけれど、天候が悪くなってきたので立ち上がって祠へ向かった。 ――日付が変わって、ハーゴンとの決戦はもう明日に迫っていた。 |