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| ▼墨森です。 ▼佐世保の例の事件、連日喧しい限りです。TVニュースなんかで紹介されている例の加害少女のHPも、アーカイブされていたので、とりあえずダウンロードしておきました。もちろん完全じゃありませんし、ひょっとすると改竄されている可能性もあります。まあ、そういう条件のもとでの話ですが、少女の書いたとされる詩(「嘆きの賛美歌」その他)、ありゃあ、マスコミがこぞって取り上げるに値する内容じゃないですよ。語彙数は、小学校6年生の標準を大きく超えています。言ってしまえば、それだけ。どれもこれも借り物ばかり。「それだけでも凄い」という人がいるかもしれませんが、ああいうのを持ち上げるのは、「百害あって一利なし」です。小6の理解力で難解に見える単語を並べているだけで、たった11年の短い人生の中で実感を伴った言葉を選べないって事は、彼女がいかに周囲の状況に興味を失い、価値を見いだせなくなっていたかの証拠にすぎません。あの「詩もどき」は、彼女の不器用さの表出であって、精神を病んでいる兆候ではあっても、才能の煌めきなどではないのです。 ▼本間さんが「週刊文学文芸・編集日記〜またインターネットのせい?〜」で指摘しているとおり、彼女を追いつめたのは、「言葉」でしょう。問題は、その「言葉」に追いつめられた彼女の反応を、誰もが無神経に放置したことにあるような気がします。私は、彼女から、彼女の殺した相手から、彼女に関わっていたあらゆる人々から、とんでもなく不器用な精神の偏りを感じるのです。みんな自分の感情の処理だけで精一杯で、他人に対する本質的な興味を失っていたのではないでしょうか。 ▼他者に対する本質的な興味を失うのは、興味を失っている当人の精神が貧弱だからです。知性を生み出す想像力が衰えてしまえば、すべてを紋切り型の表現に押し込めて事足りてしまいます。相手の心の痛みを感じる能力も育ちません。ひたすら、自分の痛みだけが肥大化してしまいます。そうなったら、人は絶対的自己肯定という麻薬で自らの心を酔わせ、いとも簡単に絶対的他者否定という思考短絡に身を委ねるようになるのです。 |