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楽園まであと何キロ?

会社の歓送迎会が今月は2度にわたって行われ、サイフの中味を始終気にしなく てはいけない季節が今年もやってきたと、
藍田は心に吹きすさぶ世間の冷たい風を身を持って体現していた。
『だからぁ、言ってんだろ? 給料日前にすんなっつうんだよ! 俺は明日から 何食ってけばいいんだよっ! ……クソ』
苛々が顔に出るぐらい顔をしかめた藍田は、騒がしく飲む同僚を横目に、目的の 人物を盗み見た。カウンターに座ってグラスを傾けるその人物は、人の良さそうな笑いを浮かべ、 泥酔しかけて会話の飛んでいる男と話しをしていた。

『優しいよなぁ、中嶋部長は……あんな、ダヌキじじいの堀山部長の相手するこたぁないのによぉ』
 
藍田は、恨めしそうな目線を堀山部長にこれでもかっと送っていた。
相変わらず「無礼講だ」と言ってカラオケマイクを離さず、歌いまくっている重田課長の回りには、欲どしい連中がわらわらと集まって、騒ぎまくり、同期の連中は新入社員との携帯電話の番号の交換に勤しんでいた。
 藍田は自分はといえば、ぐちぐちと実らぬ中学生の恋愛をしているように、憧れの中嶋部長を眺めるだけしか能のないことをしていると考えていた。
『俺も、今がチャンスかなんだけどなぁ……』
などと思いながら、中嶋部長の隣に行ってもいいのだろうか? などと考えて、あれこれと理由を探しだしてから既に1時間は経過していた。
 中嶋に熱い視線を送っていた藍田は、急に振り向いた愛しい男と目が合うことになり、飲んでいたチューハイを吐き出しそうになるぐらい驚いた。相変わらず、温和な顔をした中嶋が藍田に向かって手招きをしていた。
『……お、俺ですか〜ぁ???』
藍田は手招きされているのが、自分かどうか判らず、辺りをキョロキョロと見渡していたが誰も該当するような奴もいない。
再度、中嶋を見ると、未だに「おいで、おいで」と手招きをしているではないか。藍田は中嶋に向かってふらふらと立ち上がり、引力に引かれるように歩み寄った。

「あ、あのうぅ……」
「嫌な上司に見つかったって、顔に書いてあるなぁ」と、中嶋が言うと間髪入れずに藍田の腕を掴んで空いた椅子に座らせた。
「そ、そ、そんな事、思ってませんよ」
「はは、冗談だよ。ちょっと、手伝ってくれないか?」
「ハァ……」
心臓が口から飛びでて戻ってこないくらい驚いていた藍田は、今の状況が飲み込めないでいた。
しかし、男前の中嶋の傍には、既に撃沈して固形化している堀山部長がおり、その中嶋は優しい微笑で酔っ払いを指し示していた。
『あぁ、そういうことか……』
藍田は隣でいびきをかいて爆睡する堀山部長をしげしげと眺めた。
藍田は状況を理解し、中嶋と二人で堀山部長をカウンターから引き剥がして、大きめのソファへ移動させた。
図らずも、中嶋の腕に触れた時に感じたビリビリとした雷のような衝撃に、胸を高鳴らせている自分をどうにか落ち着かせるのに藍田は必死だった。
 移動させた後、どうしていいのかわからず、つい中嶋の顔を仰ぎ見ると、柔和な表情を称えて「手伝ってくれて有難う」と気さくに言い、ついさっきまで中嶋が座っていた椅子のヨコを指差していた。
即されるように示された椅子に、硬いロボットのような動作で腰掛けると、中嶋が「藍田君、何か飲むか?」と聞いてきた。
「あ、な、なんでも結構ですっ」
「じゃぁ、同じものでいい?」
「はい……」
ニッコリと笑いながらカウンターの前にいるバーテンダーに「スコッチのダブルを2つ」と言った。
「あのままにしておくと、いつ床で寝てしまうか、わからなかったからね。帰るまでには酔いも醒めてるだろ?」
藍田を覗くように見てくる中嶋にドキマギしながら、藍田はバーテンダーに差し出されたお手拭を貰って両手をごしごしと拭いていた。
「むこうでは、余り飲んでなかったようだけど、具合でも悪いのかい?」
暗い店内の照明では真っ赤に染まった顔を見られなくて本当に良かった、と藍田は胸を撫で下ろし、意外な会話の展開になったものだと、思っていた。
「い、いえ。 っちょと……色々考え事してまして」
自分でも不甲斐ない答えだと思いもしたが、今のこの状況ではよくやってる方だと自分を褒めたい気分だと、思っていた藍田だった。
「そう? まぁ、年に一度のことだし……」
そう、言いかけた中嶋は藍田の直ぐ傍までやってきた、秘書課の原田へ目線をやると喋るのを辞めてしまった。
藍田は割り込んできた原田を苦々しい目をして迎えてしまい、心の中で『……折角のゴールデンタイムをぉぉぉ……』と今にも声になりそうな叫びをグッと堪えた。

「すみません、少し宜しいでしょうか?」
「あぁ、構わないよ」
「明日の会議の日程ですが、11時からということで……」と、藍田を一瞥して中嶋に急接近し、スケジュールの打ち合わせをする原田だった。
「変更? 今からか? 他に誰が空いてる?」
「田ノ浦主任と同課の行田でしたら、可能かと…」
「変更はしない、荒井の替わりに田ノ浦を出席させる。田ノ浦には明日のプレゼンテーションをする手筈を整えて置くように伝えてくれ」
「わかりました」
「あぁ、それから……」
「はい」
「君、ここのことは中村くんに任せて、今日は早く帰りなさい」
「あっ、ありがとうございます」
 藍田は中嶋と話をしている原田を恨めしそうな目で見やりながら、仕事の話でも何でもいいから早く終ってくれるようにと祈っていた。苦虫を噛み潰したように眉間に皺を寄せて、仕事の話をしていた原田は、思いもかけなかった中嶋からの言葉を貰い、先ほどとは打って変わった表情で、嬉しそうに挨拶をしながらその場を離れた。

『俺だって「早く帰りなさい」な〜んて優しく声をかけてくれたら嬉しいに決まってるさっ!』
藍田は言われてみたいが、今は言われたくない言葉に嫉妬しながら中嶋を見た。
中嶋は徐に背広の内ポケットから、万年筆と黒皮の手帳を取り出してなにやらメモを書いていた。
『……万年筆かぁ〜今時珍しいかな? でも、中嶋さんらしいか』
藍田は、中嶋の様子をじっと見詰めていた。
そんな視線を受けて中嶋は藍田に顔を向けると、破顔して「やっぱり、万年筆って古いかな?」と言った。
見透かされたように言われたのが、心臓に悪くて慌てて頭を振り否定した。
「全然、ち、違いますっ!」
「?」
「あっ……いえ、なんだか部長らしい万年筆だなぁって思ったんです」
藍田は酒で赤くなった訳ではなかったが、自分の言い回しが不自然に感じられて恥ずかしかった。
「俺らしい、ねぇ」
言われたことがそんなに珍しい事だったのか、いやに考え深げに中嶋が言った。
藍田は奇妙な中嶋の態度を気にしながらも、あわせる顔がなくて少々俯きながら中嶋に言った。
「以前からとても綺麗な万年筆だなぁと思っていたんです。それに、珍しですよそんな花の絵の万年筆って……」
藍田は無意識のうちに目線を中嶋の持っている万年筆を見つめていた。
「……そうだな、蒔絵の万年筆なんて今時、流行らないな」中嶋は言葉とは裏腹に懐かしそうな目をして万年筆を眺めた。

藍田は万年筆に視線をおとしたきり、顔を上げてはくれない中嶋を見つめ、自分を見てくれない寂しさを感じていた。
「蒔絵ですか……古いものなんですか?」
遠慮がちに言うと、中嶋は藍田を見ながら万年筆を差し出した。
差し出された万年筆は、使い古されてはいるが、美しい光沢があり、薄暗い店内の光の中でも一際輝いているように見えた。
「……古いことは古いかなぁ」
藍田は自然に、万年筆に視線を落とした中嶋の傍により、絵の描いてある部分を差し出して見せた。
「……あぁ、花は藤袴(ふじばかま)。図柄では珍しいのかな?」
「へぇ……そうなんですか、花のことはよく知らないんで…。でも俺は部長以外に持ってる人は見たことないですよ。変わった万年筆です」
「変わってる……か。そうだな、あまり見かけないな」
「大事なものなんですね?」
藍田は『実は、妻からのプレゼントなんだ』と照れた表情で答えられたら、どうしたものかと心の中で想像して、一人勝手に自らした中嶋への質問に落ち込んでいた。

「大事といえば…そういうことになるかな」
藍田はそうやって昔を懐かしむように万年筆を見る中嶋の口から「大事なもの」といわれると、陽気な気分が一瞬にして萎えてしまうのが判った。
「そうですよ、いつも持ってらっしゃいますよ」僻み半分、やっかみ半分といった気持ちで藍田は言った。
『……万年筆に取って代われるもんなら、変わりてぇ〜よ』
「いつも?」
藍田の言葉尻にひっかるものを感じた中嶋は鸚鵡返しように答えた。
『げげっ……マズイ』
「あっ、い、いえ。いや……まぁ……はははは」
大袈裟に取り繕った笑いをして、その場を誤魔化す為に次の質問を考えねばならなかった藍田は、懐かしそうな目をしている中嶋に話を切り出した。
「使っていらっしゃるのを見てますよ。部長の愛用品ですよね?」
「愛用品か……いい響きだね」中嶋はグラスの酒を少々飲んで藍田に笑いかけた。
藍田はその途端、顔に火がついたように赤くなるのが判った。

「……親父の形見になるのかな、この万年筆」
俯きかげんに万年筆を見ながら呟く中嶋の横顔が、酷く煽情的で色気があった。
藍田は、中嶋の言った言葉の意味が頭の上を掠めてゆくのを感じながら、中嶋の少々骨ばった首筋の辺りから目をそらす事が出来ないでいた。
『…親父さんのだったのか……しかも、亡くなってるし……』
「なんだ? しまったって顔してるな」
「えっ?!そ、そんなこと…」
「ははは、いいよそんなに気を使わなくっても。万年筆は形見ってとこかな。親父が亡くなったのはもう随分昔の話だ」
「……」
「中学に上がったばかりの頃だったかな、亡くなったのは。元々身体が丈夫な方じゃなかったし……そういえば、20年ぐらい墓参りしてないなぁ」中嶋はそう言って頭を掻きながら苦笑いをしていた。
「に、にじゅうねん?  そんなに行ってないんですか?」
中嶋はすまなさそうな顔つきで、
「墓参りだけで帰るってのも、なんだか妙に緊張するし、一人では帰りにくいもんなんだよ。色々、小言も多いから、実家とは疎遠なものでね」
「それにしても…やっぱり行った方がいいですよ。それに…形見の万年筆、今でも持ってること伝えたらきっと喜ぶと思いますよ」
中嶋は藍田の言葉に驚いたような表情をして、見つめ返した。
藍田は何か不躾なことをいってしまったのだろうかと、不安になってしまった。しかし、驚いた表情を見せた中嶋は直ぐに破顔し、嬉しそうに笑った。
『???』
怒っていないと判るその笑顔に喜んだ藍田だったが、何故笑ったのかは判らなかった。
 藍田は話が不味い方にそれたのではないかと、危惧していたが、図らずも中嶋の笑顔の特典が見れたことに内心、喜んでいた。しかし、次に何の話を切り出していいのか判らず、しかもここで中嶋との会話を終えることなんて勿体無くて、出来そうにないことを考えていたので、百面相に近い顔つきで、必死になって話の繋ぎをどうしようか考えていた。

「藍田君のご両親は健在?」
思いもかけず、中嶋からの言葉に十字を切って拝みたい気分に駆られた藍田だった。
「ええ、ピンピンしてます。 俺の両親は二人そろって“塚ファン”で暇もないのに二人そろって観劇しまくってますよ」
「“ヅカファン”って……?」
「宝塚歌劇団ですよ。知りませんか?」
「あぁ、知ってるよ。へぇ〜いいじゃないか。共通の趣味があって、健康そのものって感じだ」
『はははは』
舞い上がった気分で話を続けている藍田は、もうどうにでもなれという場当たり的な感じで、とりあえず、中嶋と会話を続けることができることが嬉しかった。

「ご病気だったんですか?」
「親父? あぁ、そうだよ。元々丈夫な方じゃなかったから、弱かったといえばそうかな。記憶といえば、寝たり起きたりを繰り返し、近づくとエタノールの匂いがする男という印象が大半を占めているな」
 少し首を曲げて藍田に相槌を窺うようにする仕草は、妙に女性的で、品がある仕草だと思った。綺麗に切りそろえられた爪や、骨ばってはいるが手の平の肉の部分は柔らかそうで、あの手の平に触られるとどんな気持ちになれるのだろうか、と考えると、体の中の血管が凄い勢いで流れて全身を駆け巡ぐって痺れた感覚に襲われるようだった。

「藍田君は小説とか、読むの?」
突然、違う話題を振られ驚きもしたが、中嶋と会話が繋がる事の方が嬉しかった。
「俺ですか……推理小説が好きなんですよ。よく、顔に似合わないって言われますけど、これでも学生時代には推理小説同好会に入ってたんですから」と、いかにも『どうだ』といわんばかりの勢いで中嶋に告げた。
すると中嶋は大きく見開いた瞳が直ぐに弓なりに細められて、その精悍な顔に笑顔を浮かべた。
「そうか…じゃぁ、誰が好きなんだい?」
中嶋にそう問われた藍田は問われた意味が理解できていなくて、ぼんやりと『中嶋部長』と心の中で呟いた。
「好きな小説家とかいるだろ?」
『あぁ、そういう意味……なぁ〜んだ』
藍田は中嶋の言葉に一喜一憂している自分が妙に可愛く思えた。
「外国だったら…やっぱりアガサ・クリスティかなぁ、レイモンド・チャンドラーも大好きですよ。この辺りは外せないですねぇ。
国内だったら…松本清張、高木彬光……う〜ん、最近だったら森 博嗣かなぁ」
「そう」
「???」
奇妙な相槌だと感じた。
藍田は中嶋の顔を眺めながら注がれたスコッチに口をつけた。

「…桐嶋 恵亮(きりしま めぐる)って知ってる?」
中嶋が静かな調子で藍田に問い掛けた。
 藍田は一瞬、中嶋の言葉に心の中を見透かされたかとドキリとしたが、自分だけが妙に敏感になっているだけで、中嶋は自分のことを知らないはずだと思いこんでいた。
「……はい、知ってますよ。部長は彼のファンなんですか? 俺、彼の小説は全部持ってますよ。"石女の島(うまずめのしま)”でしょ、"サヴォイ家の遺産”とか、でも “双鶴(そうかく)” って言う小説が一番有名ですね。推理小説じゃないんですが、発売当時の評判は凄かったそうですよ。内容が内容で自伝小説じゃないかって 噂まで飛び出して……。なんせ男同士の恋愛小説でしたから」

「よく知ってるね。君も読んだのか?」
藍田は中嶋の言葉に酷く焦ってしまった。
まるで何もかも見透かしたような黒い瞳でこちらを見ていたからだと、藍田は頭を振った。
「……ええ、まぁ。“双鶴” の主人公が想いを寄せる男の職業が変わっていまして……確か……蒔絵師だったかな。馴染みが無かったんでよけいに覚えているんですね」
 藍田は桐嶋について饒舌に語り始め、わくわくと高揚した気持ちを押さえる事ができず、中嶋の微妙な変化を見落としていた。ただ、“男同士の話”というのは流石にマズイ話題ではないかと、言葉にしてから思った藍田だったが、喉もと過ぎればなんとやらで、中嶋も聞き流してくれているように見受けられたので、そのままやり過ごすことにした。
「そうか…」
「桐嶋 恵亮がどうかしましたか?」
不思議そうな顔つきで中嶋の顔を覗き込んだ。
中嶋の顔は、温和な顔つきだったが、目が哀しそうで目尻の皺が一層、悲しみを増幅しているように見えた
グラスに注がれたスコッチの琥珀色の液体がゆるりと流れ、氷を溶かして小さな音をたてた。
「……親父だよ、俺の」

藍田ははっきりと中嶋の声が聞こえた。
確かに聞こえた。
…が、意味が理解できなかった。
『親父って言ったよな? 親父って……』
はっきりと聞こえたにも関わらず、頭の中で言葉だけがグルグルと回っているような感じがした。
「う、うそ…」
中嶋は藍田に笑いながら「嘘言ってどうするんだ?」と言い又、笑った。
藍田は心の中で叫んでいたが、本人の自覚無しに声に出して叫んでいた。
「ギャ−ッツ!」
「おい、おい藍田くん…」
周囲で騒いでいた会社の者たちは、一人、中嶋部長の傍で直立不動状態で、頭を抱え叫んでいる藍田を一瞥しただけで、無視を決め込んだ。そんな、周囲の状況だったので藍田は、あり難い事にさほど注目を浴びずにすんだ。

「す、すいません! 俺、し、失礼なことを…」
「いや、別に失礼な事はしてないよ」
「で、でも…すいません…ホント、なんですよねぇ?」
「ホントだよ、桐嶋 恵亮は俺の親父。正真正銘、血が繋がった父親だ。本名は中嶋 恵亮。桐嶋はペンネームだ」
『…最悪だ…』
藍田は穴がなった入りたいと思うより、この場から逃げ出したい気持ちだった。
『…折角、お近づきになれたのに…もうダメだ…あ〜短い楽園体験だった!』
「どうした? 親父が小説家っていっても特に何にも特典はないぞ」
中嶋の冗談にどう反応していいのかわからない藍田は、それよりも桐嶋先生の息子さんに、あろうことか「彼の小説好きなんですよ〜」なんて何て能天気な事を言ってしまっていいのだろうか、と、後悔に叫びだして髪の毛を毟り取りたい気分だった。
しかし、ふと思いついたことがあった。

「あぁ、だから万年筆?」
心の声をそのまま口にしてしまった藍田だった。
優しい笑い顔は哀しい笑い顔になった中嶋を真っ直ぐな目で藍田は見詰めた。
「そう、だから万年筆」
(泣いているのだろうか?)
藍田は小さく囁くように言った中嶋の言葉に耳を傾けた。

「この万年筆は親父から貰ったものだ。親父が金沢の出身でね、蒔絵師だった親友から記念に贈られたものらしい。それを、俺が貰った」
藍田は何故か、中嶋の『貰った』という言葉が酷く重いものを今だ引き摺っているように聞こえてしまった。
しかも『蒔絵師だった友人から贈られたもの』と中嶋は言ったのだ。
ということは、あの“双鶴”の小説は…作者自身のことだったのではないのだろうか。
作中の主人公凌二が愛してやまなかった男の名前は“蒔絵師の谷垣 真史”だ。結局、谷垣の愛は一つの万年筆に込められて、凌二の手に渡った。しかし凌二の手に渡るまで長い時間の距離を要し、手元に渡った時には亡くなっていたという、内容だった。その小説がいきなり現実を帯びていたのだ。つくりものではなく、事実だったかもしれないのだ。

 夢のような事実を知った気持ちは激しく興奮し、尚且つ動揺までも藍田にもたらした。しかし、興奮する心とは裏腹に、横を見やるとそこには、相変わらず、ポーカーフェイスを装った精悍な顔つきの中嶋の顔があった。
藍田の浮かれた気持ちは一瞬にして萎えてしまった。
どこか哀しそうな瞳が薄暗いライトに揺れているように見え、穏やかな表情が、妙に哀しく見えるのは、中嶋の本心は誰にも判らないとでもいいたげな感じだったからだ。
藍田は中嶋のことを深い海かもしれないと思った。
海は昼間の顔と夜の顔を使い分けている。
中嶋の夜の顔を見たような気分だった。

「…あの小説。売れたのかな?」
中嶋が藍田に問い掛けた。
「…売れたと思いますよ。…俺の知り合いで読まなかった奴、いませんでしたから」
藍田は渇いた喉を鳴らして、嫌な唾を飲み込んだ。
一瞬、中嶋が驚きに目を大きく見開いたように見えた。
「…そうなのか?」
「ええ、あの話は…俺や、俺の友達の中ではある意味、聖域なんです」
藍田は喋る覚悟を決めた瞬間だった。
(もう、どうにでもなれ!)
「聖域?」
怪訝な表情をして、藍田を見つめる中嶋の目線が刺すような感じを覚えた。
「…そうです。あんな風に…愛して欲しいと思いましたから」
「……」
中嶋はピクリと眉を上に僅かに上げただけだったが、動揺など決してしないと思っていた男の僅かな変化に何故か笑みがこぼれた藍田だった。
「憧れって言うんでしょうか? あんな風に深く激しく愛して欲しいと。想うだけで、決して手に入らない現実ですけど…」
「…君は…」
問いかけを躊躇する中嶋に向かって藍田は破顔し、
「そうです、部長の想像する通りです。…こんなところで、カミングアウトするともりなんてなかったんだけどなぁ。…想定外ってやつですね」
藍田は至って普通に、さも苦痛も感じないというように、努めて明るく告白した。内心、どうやって相手に伝えるべきなのか、もっと思慮深くせねばならなかったのだろうと思っていたものの、頭の中で、選べる言葉に幅もなく、ノンケの友達にも打ち明けた事もない自分の経験では、考えるだけ無駄なことのように思えた。
(こんな風に打ち明けるつもりなんて、なかったのに…なんでかなぁ)
藍田の心は、表情とは裏腹に後悔の影が滲んだ。

「…すいません。部長にこんなこと言うつもりはなかったんですが、成り行き上、なっちゃいました…ははは」
声は努めて明るくしたしたつもりの藍田は、それでもやはり後悔ばかりが心を苛んでゆくように思えた。
「藍田くん、悪かったね」
藍田は聞きなれない言葉を言った中嶋を見つめた。
(えっ? …今、なんて?)
「俺が、変な話を振ったせいで、君に嫌な思いをさせてしまったな。すまない」
「いえ、部長が謝る事ではないですよ。俺が勝手に喋ってしまっただけですから」
藍田は言いながら、目の辺りが熱くなるのを感じて、顔をやや上向きかげんに持ち上げた。藍田は、なけなしの自尊心やわずかに残った男気でようやく自分を保持していたのに、中嶋に謝まれてはどうしていいのか突然わからなくなってしまった。

自分のことを告白したのもイケてない話だが、もっとイケてないのは中嶋に好きだと告白できなかったことだと思うと悔しかった。
できることなら、もっとカッコつけて告白したかったのにと、今更ながら己の男運の無さを嘆いた。
「…やっぱり俺が悪い」ポツリと中嶋が呟いた。
その途端、藍田は訳のわからない悔しさがこみ上げてきて、目にいっぱい涙をためて俯いた中嶋を睨んだ。

「…部長が俺なんかのために謝るなんて可笑しいですよ。別に同情して欲しくて言ったわけじゃないんですから」
「…しかし」
藍田は中嶋の繋ぎかけた言葉を遮り「謝ってなんてほしくありませんっ!」と眉間に皺を寄せて苦しそうに呟いた。
 特にこだわっているわけではなかったのだが、中嶋の態度を見ていると苛ついた気持ちにささらに拍車をかけるような気がしたからだった。
「藍田くん…」
どこか戸惑いのある声色で囁かれて、藍田は我に返った。
「お、俺は、告白した事を後悔しています。でも、それは…言葉の足りない言い方しらない自分の情けなさにです。決して、貴方…部長に告白したことを後悔してたんじゃありませんっ!」
 既に、藍田は自分自身何が言いたいのかさえわからなくて、何に対して怒りをぶつけているのかさえ曖昧のようだった。
「……」
「俺は、俺は部長が好きです…いつか、部長に告白するつもりでした。勿論、わかってますよ、ふられるなんてことは、もう慣れっこですから。ただ、こんな風になるなんて…予想がつかなかっただけです」
泣くつもりなんて毛頭なかった藍田だったが、熱い物が目の上を覆い尽くして、溢れて流れていくのが判った。
 絡みつくような視線で藍田を見つめていた中嶋は、最初ほど驚いてないらしく、顔には薄っすらと微笑みを浮かべていた。
そんな顔を泣きはらした目で見ていた藍田は、『あぁ、この男もただの男だったんだ。自分の見込み違いだったんだ。過度の期待に身を震わせていたなんて…なんて、馬鹿なんだろう』と落胆し、己の学習能力の無さに呆れていた。

「藍田君…君、覚えてないだろ?」
そういって微笑んだ中嶋は、大人の男の余裕のような気がして、一層、藍田を苛つかせた。
「…お、覚えてないって、何なんです?」
ホンの一瞬前まで泣いていたのに、今の藍田の顔に涙は無かった。
「やっぱり、覚えていないんだね?」
「????」
(…馬鹿にしてんのかっ?!)
「君の入社面談の時の面接官は誰だった?」
回りくどい言い方が、直一層藍田を不安にさせていたが、奇妙な質問だと思っていた。
「お、俺の入社面談なんか…かんけ…い」
(…4人いたと思うけど…誰だっけ? 人事の福田部長と荒木補佐?それと…)
「俺がいたよ」
(あぁ、そうだ…いたんだ。部長もいた、でも…)
「俺は君に質問しただろ? 『クラブはどこに所属を?』君は笑顔で『推理小説同好会に入っています』と。そして『作家は誰が好き?』すると君は、少し困った顔をして『余り有名ではないのですが、桐嶋 恵亮先生が大好きです』と言ったんだ」
(…あぁ、そういえばそうだ。そうだった)
確かにそう答えた、と藍田は入社面接のことを少しだけ思い出した。
「俺は君に言ったよ『私もかなりの好きモノだから、よかったら今度、その作家について教えてくれないか?』と、すると君は『喜んで。勿論授業代は“ロハ”にしますよ』と笑ったんだよ、それも最高の笑顔で」
(…思い出した)
藍田は呆然とあの入社試験の日を思い返していた。

「あれから君は、俺にその話をしてくれていない。待っているのも疲れたよ。それとも、焦らすのが好きなのかい?」
最高の笑顔で微笑む中嶋を凝視し、節のある長い指でグラスの口を探るように弄ぶ姿を堪能している余裕が藍田にあるはずもなく、ただ息苦しい鯉がパクパクと口を開け閉めしている姿を晒していた。

「それとも、所帯臭いオヤジは相手にしないのかい?」

 藍田の頭の中は混乱を極めた。
欲しかった言葉が目の前にぶら下がっていて、尚且つ、手招きをするように藍田を誘っている。盆と正月がやってきたというのはこういうことをいうのか、と妙に納得をした藍田だった。

 中嶋に言われた面接時の言葉は思い出すことも無く、今の今まで過去に埋もれたいた。当時、藍田は失恋の痛手から食欲不振に陥り、不眠に悩まされていた。リクルート活動もまま成らないほど疲れていたが、じっとしているのも、別れた男のことを考えそうで怖かったので、クスリの力を借りて無理やり眠るようにしていた。しかし、そうやって眠っても酷く傷ついた心は一向に癒えなくて、暗い日々を送っていたのだ。

 リクルート活動も終盤に差し掛かった頃には、藍田の心の傷も少しはマシになり、程なく本命の会社から入社面接の通知を受け取った。さすがに緊張を隠せなくて、落ち着きの無い態度のまま藍田は4人の面接担当官と会話をしたのだが、そのことがスッポリと言っていいほど記憶から抜け落ちていた。

 緊張していたのか、それとも失恋の後遺症なのかは本人にもわからず、好みがど真ん中の中嶋がいたことすら思い出せていなかったのだ。
しかも、あれから何年たったのだろうか?
不覚にも程がある。
入社からいままで、一人片思いだと嘆いて自棄酒飲んで暴れていたの何だったというのだろうか。
藍田の心臓は早鐘のように鳴り響き、緩やかに微笑む中嶋をただ、呆然と見つめていた。
現実に起こっている今のこの状態が、幻のように思え、呆気に取られて立ち尽くす藍田の前で、中嶋が藍田の腕を引いた。

「そう、興奮しないで…。座りなさい」
即されて藍田は緩慢な動作でスツールに座り込んだ。
「悪い子だなぁ、誘っておいて知らないふりをするなんて」
囁くように言われて、目の前の展開が幻のように思えた。
からかっているような感じで首を傾げて中嶋が藍田を見た。
起こった事態に対応できずに、中嶋を凝視していた藍田は、突然ゼンマイを巻ききった人形のように素早く動いた。
「お、俺、誘ったつもりじゃ…」
困惑しているといった心情が顔の表情に表れている藍田を中嶋は穏やかに制止して「そんなつもりじゃなかった?」と言った。

『つもりもなにも、あれは…ただの社交辞令だよ…なっ?』
藍田は、黙ったまま中嶋を見たが、一瞬、音が聞こえなくなったように感じた。
それは中嶋がそろりと藍田の手の甲に指で触れて撫でたからだった。
背筋の毛が逆立つ感じを覚え、えもいわれぬ痺れた感覚が頭の中を突き抜けたようになった。
藍田は唸るように「貴方が欲しい」と言った。
その瞳の中に情欲の炎がゆらりと立ち上がるのが中嶋には見えた。
中嶋はその炎を目のあたりにしても、態度に変化の兆しも見えず、淡々とした言葉遣いで「随分、積極的だね」と言った。

酒の匂いだろうか、それとも中嶋の体臭だろうか?
甘美な香りが藍田を取り巻いた。

「かわいい君に免じて、答えてやりたいと思うが答えは“ノー”だ」
意地の悪い顔つきで藍田を見る中嶋だった。
藍田は、今更拒否されてももう引くことなど出来ないと思い、形振りかまわず中嶋を手に入れたいと懇願しようと考えた。

「俺を待たせた罰だよ」
藍田に見せた初めての真顔で中嶋が言った。
物欲しげな目で「…罰、ですか?」と藍田は言い「そう、罰」と素っ気無く中嶋が答えた。

「で、でも…罰が終わったら、どうなるんです?」
上擦った声で藁をも縋るような目つきで中嶋の手を握った。
中嶋は薄っすらと微笑みながら、「君に汚名返上の機会をあげようか?」と心底楽しそうに言った。
藍田は頭を上下に振って「なんです?」と焦らして答えない中嶋をせっついた。

「今度、営業第二課から企画のプレゼンテーションがある。君も出すんだ」
思ってもみない答えが出てきて藍田は呆気にとられた。
「…俺、一課ですけど…」
何を言っているのかと思いもしたが、企画書と何の関係があるのかと中嶋を疑った。
「君がA食品のプレゼンテーションを考えているのを知ってるよ。それを二課が出す前に出すんだ。二課のプレゼンテーションの提出期限は今日から10日後。
君はこの5日以内に仕上げて課の許可を受け、7日にプレゼンテーションのアポイントを取得すること。君のプレゼンテーション用に俺は予定を入れずにおくから」
 藍田は黙ったまま、想像外のことを口に出した中嶋を見つめていた。
「もう少し自分に自信を持ちなさい。いつまで自分の企画書を腐らせたら済むのかね?」
語気を強めた中嶋に対してバツが悪くなった藍田は俯いてしまった。
『そんなつまりはなかったんだけど、結果的にそうなってしまっただけだ』
思いがけない言葉を言われ意気消沈し、何故、こんな場所で仕事のことを持ち出されねばならないのかと、中嶋の真意が見抜けない自分の情けなさに苛立ちを覚えた。

「な、中嶋部長は俺のことより仕事が大事なんですね?」
まるで中学生の嫉妬レベルだと自分で卑下しても、「一度ひねくれた心は元に戻らないんだよっ!」と、心の中で叫んでいた。
 そう言って、中嶋を睨んで見ると、中嶋が驚いた顔をして藍田を凝視していた。
その途端、中嶋の固かった表情が崩れて心底、楽しいと言いたげに満面に微笑を湛えて藍田の頬を人差し指でゆっくりと撫でるように触れた。

「そんな、反応を返してくれるなんて思いもしなかったよ」
今だ楽しげに笑う中嶋だった。
「……」
黙ったまま藍田は中嶋を見ていたが、急に頬に触れられている指の熱を感じて顔を赤くした。
「じゃぁ、君が今度のプロジェクトの企画に通ったら、セックスしょう」
「はぁぁ〜???」
一言発した後、藍田は絶句した。
「…企画提出日は今から五日後だから、今日から徹夜だな。期待してるよ」
中嶋は急に立ち上がり爽やかに微笑むと、右手を上げて颯爽と出口へ向かっていった。
 そして「そうそう、君の実力なら大丈夫だろうから、明日にでもホテルは予約しておくよ」と言った。
藍田はただただ呆然と、中嶋を見送って、既に出て行ってしまった扉を見つめていた。
「…なんで? 何、これ? これって…まんまとしてやられたのか、俺?」
我に返り、テーブルの上にある酒に手をかけて飲み干すと、子供のように笑い出し「望むところだーっ!」と握りこぶしを大きく振りかざして叫んだ。

何事か怒ったのかと胡乱の眼差しを一心に受けている藍田だったが、一人だけで盛り上がっていると思われているらしく、何事も無かったように同僚達は飲んでいた。
『…意外に近かったのかな? 楽園の入口は…』
そして、自分の楽園までの距離は35センチだったと藍田は密やかに呟いた。



※ 仕事中毒と思いがちな親父は、エロも同時進行できる頭を持っているが、青年は器用貧乏で苦労が多い。しかし立ち直りは早い、というのがコンセプトですかね(笑)有り勝ちな日常です。

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