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我侭の領域 〜親父の遺産〜

<1>

「相変わらず、胡散臭い家だ」
俺はそう一言、漏らすと生垣を妙に懐かしむような仕草で撫でていた。
この家に帰るのは何年ぶりなんだろうか?
思うに任せた生垣は、不揃いで長らく手入れもしていない状態になっており、枝が絡み合ってしまっていて、いい景観とはお世辞にもいえなかった。
 生垣を潜って、飛び石の上を踏むと、薄っすらと砂が舞い上がった。
業と足を踏み外して、玉砂利の上を歩くと、ぎゅうぎゅうと音を鳴らして、家人に来訪者を継げた。しかし、ひっそりと佇む家からは、人影も見えず、ましてや、虫の声すら聞こえなかった。

「馬鹿馬鹿しい、誰もいるはずがねぇじゃねえか」
俺は何を期待していたんだろう?
今時珍しい、引き戸の玄関扉をガラガラと開けると、薄暗い玄関に一条の光が差し込み、白い埃が宙を舞っていた。
「懐かしい我が家、っていうのか、こういうのは」
この玄関先に立っていたのは、一体いつの頃だったというのだろうか?
記憶も曖昧で、巡ってこない答えを思い出すと、それは遂に失われた断片のカケラだった。そう、もう18年、18年も前のことだ。

俺はゆっくりと足を差し入れ、そこに降り立つと、少し身体が浮いたように感じた。柔らかい三和土(たたき)の上で俺は、18年前のことを遠い記憶を手繰りよせるようにぼんやりと佇んでいた。

 俺の親父は大工だったのだが、これが偏屈なぐらい固い男だった。義理堅いというか、昔かたぎというのか、古風な親父だったのだ。しかし無類の酒好きで、結局、死ぬまで酒を放さなかった。そんな親父は、酒を飲む度に暴れた。これはもう、酷いの一言で、思い出したくも無いくらいの暴れようだった。警察が出てて来た回数なんて、両手両足の指の数じゃ ぁ足らないくらいだ。
だがそんな親父でも、仕事は真面目に働いた。
ただ、酒が入ると暴力を振るうのはいただけなかったが…。
俺は親父を憎んでいた。
暴力を振るうということも一因であったわけだが、問題はそんな事ではなかった。
 お袋はそんな親父に愛想を尽かし、弟が生まれてすぐに、俺と親父を置いて出て行ってしまった。
俺は、お袋に捨てられたという想いを澱のように溜め込んでいた。
子供の頃、お袋の考えている事なんか到底理解できず、親父に『かあちゃんのところにいっていいい?』といって駄々をこねたら、こっぴどく殴られた。親父はそれから、酒の量が増し、俺を酔っては殴るようになってしまった。全ての原因がここから始まったとは、言えなくもないが、ただ、何もかもこれらのせいにするのが、楽だったのかもしれない。

俺は、そのこのころからか、子供らしくなく、妙に冷めた子供になっていたんだと思う。
お袋に捨てられたということが、酷く重く自分自身に圧し掛かり、トラウマになってしまっていた。
俺より、弟を選んだお袋が憎かった。
何故、一緒に連れて行ってはくれなかったのか?
俺は未だにあの時の光景を思い出しては、ジクジクと痛む胸を抱え、吐きそうになるのを必死で堪えねばならないというのに。

 広い土間の沓脱石(くつぬぎいし)の上に足を揃えて部屋をのぞき見ると、そこはまるで夢の中で幾度と見た居間の風景があった。小さな家には不釣合いで立派な細工の欄間が、埃でぼんやりとその輪郭を映し出していた。俺は靴を脱いで、落石(おとしいし)に足をかけて部屋にはいった。
人の住んでいた感じが見受けられないほど、そこは静寂に包まれていた。

               <2>

そう、親父が肝臓を患って入院していたのは9ヶ月間だった。そして、親父が亡くなって、3ヶ月後に弁護士が俺を訪ね中て、遺産相続の書類を差し出した。
俺に与えられたのは、親父が建てた、この家と土地だった。
親父にしては、上出来な相続を設えたのだろう、しかも借金は一銭も無かった。あれだけ浴びるように酒を飲んだ男が、借金をつくっていなかったことに、ちょっと感心した。弁護士はこの土地と建物を処分して金にするのも、自由と抜かしやがった。
俺は、こんな、呪われたような家に移り住む気もなかったので、弁護士の口車に乗ってやろうと思ったのだが、結局止めた。

懐かしかったからか?
それとも、感傷に溺れてたのか?
自分のルーツを考えてみるのも一興か?
どちらにせよ、俺の自由だ。
だったら、今すぐ売らねばならない事も無いだろう。
俺はとりあえず、弁護士の連絡先を控えて、マンションを出て生家に戻って来た。
 それから俺は、会社に2日の有給を取って引越しを開始した。
マンションからの荷物はほとんど無かったので、引越しと呼べるものではなかったが、長らく人の住んではいなかった生家の方が、古ぼけていたので、掃除をしたくて休んだのだ。

生家は、一人で住むには広すぎた。
水鉢が置かれた土間の三和土からは、湿気た空気が流れ込んできて、部屋を仕切るガラス戸にあたって広がってゆくような気がした。
『子供の頃は、大きな家だと思っていた。家を出る頃は、なんて狭い家なんだと、思ったものだが…』
家の広い狭いの問題は、俺の心の問題でもあったわけだ。
家の中に空気を送り込むために、雨戸を開け放ち次々に戸袋に仕舞っていった。
しかし、そこに現れた風景に、俺は愕然とした。

親父が自慢した小さいけれど美しい庭は、見事に崩れていた。
俺は呆然と縁側に座って、雑草が生い茂る庭を暫くの間、眺めた。
伸ばし放題の生垣といい、荒れ放題の庭といい、まるで廃墟のようだと思った。
 おまけに庭の隅には地を這うようにして、蔓が地面と塀を覆い、小さな白い花と黄色い花がポツポツと水玉模様のように咲かせていた。
その花の香りはとても甘い香りがして、俺の頭を香水に浸したように、ズブズブと入り込んでくるようだった。
何かを求めるような、不安を掻き立てるような香りに俺は眩暈を覚え、こめかみを押えた。
暫くすると、花の匂いに慣れたのか、濃厚な香りがしなくなっていた。
(なんだ、かんだといっても流石に、親父が亡くなったこの家に帰ってくるのは、俺の体に変調を起こさせたってわけかな?)
花の匂いに気をとられたのは勘違いだったと自分で納得し、俺はなんとか立っている、燈篭に目をやった。
苔むした燈篭はそれなりに見えなくも無いが、その奥に鎮座する親父がもっとも気に入っていた小さな蓬莱島が今ではすっかり陸の孤島になってしまっていて、回りの小さな川は干乾び、跡形もなくなっていた。

『知也(かずや)、そこにいっちゃぁならん、さわってもならん! そこは、神様の住んでいるところじゃかんな』
そう言って、何度も俺に言って聞かせた親父の言葉は、俺の中では所詮、お袋に出て行かれた男の戯言と記憶していた。
「神様のいる島……か。草ぼうぼうで、威厳もへったくれもないな」
ぼんやりと庭の中心を眺めていると、左端で小さな水しぶきが上がった。
俺は玄関から靴を持ってくると、水しぶきの上がった場所へ足を向けた。
そこには茶室などないのに、何故か親父が設えた蹲踞(つくばい)があった。 蹲踞を覗き込むと、そこは濃い緑色に変化した水が入っていた。じっと目を凝らしてみていると、時折、水が震え小さな波紋がいくつも浮かんだ。
つくばい
「なんかいるのか?」
俺は、波紋が広がったところを指で触った。
すると、反対側から波紋が広がったと思うと、中から朱色の小さな生き物が顔を見せた。
「金魚?!」
「へぇ……いたのか」
俺はなんでもないことだったが、妙に嬉しかった。
何も生きてはいない寂れた家で、初めて見た小さな命だった。
俺は早速、金魚の住みかを掃除することにした。
手始めに仕事をするにはいい感じだ。
俺は、バケツに水を満たしカルキ抜きを探した。
しかし、何処を探しても見つからず、親父は汲み置きした水で金魚を飼っていたのかと思うと、直ぐに掃除することができずに、高揚した気分が萎えたことを感じた。

俺は近所のペットショップへ餌も含めて買い物をしようと家を出た。
ついでに、自分の夕食も買い込むことにした。
しかし、よくよく考えてみると、引越しと言っても元の鞘に収まっただけの話なのだ。
無い物なんて無かった。 親父が、キレて俺のものぶっ壊してない限りは……。

                <3>

生家に暮らし始めて2ヶ月が経過した。
思い描いたほど感傷に浸る暇も無く、慌しく月日は過ぎていった。
俺は、生家に戻ってからは、以前より落ち着いたようで、
会社の同僚からも「丸くなった」と言われるようになった。
誰もいない家の中は、寒々として時折、泣きたくなるほど寂しく、人恋しくなったりもしたが、現れて消える捕らえどころの無い、感情に振り回されることはなかった。

 俺は、休みの度に家の中を掃除して、整理をしていった。
その度に想うのは、こんなものまで親父は残していたのかと思うガラクタの数々が
見つかったりしたことだった。
結局、捨てようと試みたのだが、捨てられず、又、もとの納戸に仕舞う羽目に陥った。
「何やってんだかなぁ」
俺は苦笑いを浮かべてひとりごちた。
 古びた家は、人が住み始めると現金なもので、結構住み心地のいい快適な空間を用意してくれるようだった。
そんなある日、こんな鄙びた家にセールスマンでもなかろうに、と思ったが、何度もガシャガシャと玄関のガラスが揺れる音がした。

 その日は妙に蒸し暑く、この夕方からは一雨来そうな雲行きで、纏わりつく湿気が肌を撫でる不快感に俺は苛立ちを隠せなかった。俺は、ゆっくりと立ち上がり、落石の上に裸足でたって大声で叫んだ。
「誰?」
土間から見る揺らいだ影は、不意に動きを止め、同じように叫び返した。
「お久しぶりです、陣内さん。八弥(はちや)です」
男が嬉しそうな声で言った。
俺は「新手のセールスか?」と訝しんだが、感情を押し殺していった。
「開いてるよ」
「あっ、では……お邪魔します」と言って、男が顔を現した。
「何年ぶり、で、しょう……か???」
男は入るなり、嬉しそうに微笑んでいたが、声の主が思っていた人物と違っていたようで、急に真面目な表情をして、黙ってしまった。
「あのう……陣内さんの、お宅ですよね?」
男はさほど離れていない玄関先で、表札を確認するように、ひょいと顔を出して確認していた。
俺はどこか、気になるこの男をもっとよく見たいと思い、逆光に立ちすくむ男に向かって言った。
「そうだけど、誰に用?」俺はじっと男を見詰めつづけた。
その間、俺の脳内は男の顔を必死になって探していた。
「陣内 和雄さんはいらっしゃいますか? 私は八弥と申します」
男はそう自己紹介して、頭をペコリと下げた。
『はちや?』
俺は、その名前に聞き覚えがなかった。
しかし、見れば男の顔を何処か懐かしく思っている。
これは、どういうこなのか?
喋らない俺に不信を抱いたのか、八弥と名乗った男が小首を傾げ低い声で言った。
「あのう、ご在宅ではないのでしたら、又、日を改めて参ります。おや、いえ、陣内さんには、八弥が来たとお伝え下さい」
親父がいなかったことが、それほど男を落胆させたのだろうか、力が抜けたような声をしていた。
『親父を訪ねてきたこの男は何者だろう? 親父が亡くなったことを知らないのか?』
俺は、男に返事は返さず「どうも」と言って頭を下げた姿を無言のまま見つめていた。
玄関の戸がガラガラとガラスを震わせて閉まろうとする隙間から、男のやや前かがみになった背中が見えた。
俺は裸足で落石の上に、ただ、突っ立ったままガラス越しに、遠のいてゆく男の影を見つめていた。
そして、むず痒くなった足の裏に気をとられた時、急に声が聞こえたような気がした。

―― 『ゆうちゃんは、いつくるの?』
―― 『明日来るよ』
―― 『あしたって、あしたのいつ?』
―― 『学校があるからね、終ったら』
―― 『おわるの、いつ?』
―― 『長い針がね、12のところにきてね、短い針が4のところにきたら、だよ』
―― 『……かずも、いっしょにいっていい?』

俺は、裸足のまま駆け出して、男を追った。
「ゆう! ゆうにいーっ!」
俺は走りながら、男の名を呼んだ。
名を呼ばれた男は振り向き、照れくさそうに微笑み、走ってくる俺を見つめていた。
俺は、ゆうにいを人目も憚らず、抱きしめた。
思いのほか、ゆうにいは小さくて、昔の大きかったイメージが消えていった。
「おっ、おい……」
驚いてはいるが、俺を引き離そうとはしなかった。
俺はゆっくりと離れて、男の顔を見た。
「なんで、言わないんだよっ?」
男は照れ笑いを浮かべて「かずちゃん、だよな?……なんか、違っていたら恥ずかしいし。それに、かずちゃん……俺の知ってるかずちゃんじゃないみたいだったし……」と言った。
「そりゃぁ、そうだろ? ゆうにいと別れたの何歳だったと思ってるんだよ?」俺は笑いながら答えた。
「はははは……そりゃ、そうだ」
含羞みながら、ゆうにいが笑った。俺はその姿を見て、ちょっと自信なさげにものを言うクセがあったことを思い出した。
「あの家にいるのは、俺と親父だけだ」
俺はゆうにいを見ながら、目の前にいる男の昔の姿を思い浮かべた。

                <4>

白い開襟シャツに薄っすらと汗を滲ませた学生服姿の少年は、路地でうずくまっている俺に、ひっそりと声をかけてきた。
「ここ、車がよく通るんだよ、危ないから公園で遊びな」
俺は学生服の少年を見上げながら、ふてぶてしく言葉を返した。
「こうえんなんか、やだ。よしくんも、みっちゃんも、いるから、やだ!」
少年は困ったように笑い、自分の顔がよく見えるように俺の前に屈んだ。
「ははは、喧嘩したのかい? きみはどこのお家の子?」
俺は、無言で生垣を指差して頬を膨らました。
すると少年は『あぁ、陣内おじさんとこの……かずちゃんか?』と言って俺の頭を撫でた。
俺は暖かくて大きな手の平が嬉しくて、撫でてもらった少年の手を掴んで離さなかった。苦笑いを浮かべた少年は俺の手を無理に離そうとはせず、優しく握り返してくれた。

『おにいちゃんは、どこのおにいちゃん?』
『お兄ちゃんは、八弥って言うんだよ』
『はちや?』
『かずちゃんちの庭に木や花があるだろう? あれをね、植えたりしているおじさんがいるだろう? あのおじさんの息子だよ』
『……おはなのおにいちゃん?』
『あぁ、そうだよ。 ここにも可愛い花が咲いてるね』
少年は俺のそばに咲いていた小さな白と黄色の花を摘んで俺に差し出した。そして、優しく笑って「かずちゃん、一緒にお家に帰ろうか?」といって俺を又、撫でた。
「どうして、ぼくのなまえをしってるの?」
俺は差し出された小さな花と少年を見つめて言った。
「んっ? かずちゃんのお父さんに聞いたんだよ」
少年は俺に微笑んで、家に連れて帰って、遊んでくれた。

それからというもの、少年は度々家を訪ねて来ては、俺と遊んでくれた。
俺は、その頃、お袋が弟を連れて出て行った直後だったので、寂しくて仕方がなかった時だったから、俺の話を真剣に聞いてくれる、少年をとても好きになり、毎日自分の元へ訪ねてくれるようせがんだ。

                <5>

「かずちゃん、裸足で追いかけてきたの?」ゆうにいが笑いを堪えて俺の足を眺めていった。
「あっ? あぁ、慌てたからなぁ」俺は照れながら、覗き見るようにゆうにいの顔を見た。

この男は俺を見て、“かずちゃん”と言った。
今の俺を見てどこに昔の片鱗が窺えるというのだろうか?
それとも、この男には未だ俺が昔の子供のように思えたのだろうか?
ただ、俺はそう呼ばれて悪い気を起こしたわけでなく、寧ろ、嬉しかった。
ちょっと、引いた感じでものを喋るクセのある、優しい声で呼ばれるのは懐かしい感じだったし……。
 「いかないで」と言って、追い縋って仰ぎ見たあの時の少年は、いまではその面影を残す程度だったが、漏れるように溢れてくる懐かしい匂いは紛れも無く、あの時、俺の中から滑り逃げてしまった少年のものだった。

「ここじゃなんだから、家に戻ろうよ」
俺はそういって、ゆうにいの手を握って家に戻った。
「あ、あのう」とか「手は……」とかブツブツと小声で俺に何かを訴えてきたが、無視して暖かな、それでいて柔らかい手を握りながら俺は、笑っていた。
「さぁ、上がってよ。早く」
俺は急かすようにゆうにいの手を引いて落石の上に導いた。
ゆうにいは、昔と替わらず恥ずかしそうにしながら小声で「お邪魔します」といって上がった。俺は汚れた足を、水鉢から水を出して足を素早く洗って、ゆうにいの横に並んだ。
待っていたように俺の横に立っていたゆうにいは俺より幾分背が低かった。(昔は巨人のように思ってたんだけどなぁ)

「ところで、かずちゃん。親父さんは?」
俺はゆうにいから親父の話題を振られて初めて、俺を訪ねてきた訳ではなく、親父を訪ねてきたと思いあたった。
俺は久しぶりに会った男のことで頭が一杯で、親父の事なんか失念していたのだ。
「あぁ、いるにはいるんだけどね」
曖昧な返事をして、徐にゆうにいの手を握って奥の仏間に引張っていった。
「何? どうした?」
ゆうにいは俺のことが理解できないようで、手に力を入れてきた。
「……親父はここにいるんだ」
俺は奥の部屋の襖を開け放つと、線香の煙の名残が漂う部屋の仏壇を指差した。

ゆうにいは俺の言っていることが理解できないのか、押し黙ったまま仏壇を見つめていた。
「かれこれ一年以上になるかなぁ。病気でね、ようは長い間の酒の飲みすぎだ。……亡くなってから弁護士から聞いたんだ。ゆうにいは親父と何年会ってなかった? 俺は18年だ、18年会ってなかった。世間で言う罰当たりな放蕩息子さ」
俺は薄く笑って、ゆうにいの顔を覗き込んだ。口を真一文字にきつく閉じて、今にも泣き出しそうな目をして仏壇を睨んでいた。
「よかったら、焼香してやってよ。俺よりゆうにいにしてもらった方が、喜ぶだろう?」
俺は微動だにしなかったゆうにいの背中を優しく押した。

「……知らなかった。俺、電話では話したりしてたんだけど……。それでも、2年、3年位前……なの、かな? ……は、なし……もっと、してれば……」
ゆうにいの声は殆んど最後の方は消え入りそうで聞き取りにくかった。
俺は今にも泣き出しそうなゆうにいの肩を抱き寄せて、仏壇の前に座らせて大きな声で言った。
「ちょっと、煙草買ってくる」
俺は土間の床下に隠すように置いてあった、ビーサンを引き摺りだして履いて、外へ出た。
通りの角にある煙草屋へゆっくりとした調子で歩きながら、俺はゆうにいの後姿を思い出していた。
いくつになったんだろうか?
俺との差は……確か7つ? 8つ?
頭に白いものは混じっていなかったが、目じりに皺があったなぁ。
俺は懐かしいと思う気持ちと同様に過ぎ去った時間の長さに想いを馳せた。
寂しいといっては泣いたあの頃、ゆうにいが現れてからは俺の世界は一変した。学校が休みだから、といっては、訪ねてくれたし、学校が終ってからも来てくれた。俺の望みは何でもかなえてくれる、神様のような存在だった。
多分、俺にとっては親父よりも、絶対的な存在だったのだ。

―― 「ねぇ、これよんでぇ」
―― 「いいよ」
―― 「ゆうちゃん、あいすたべたい」
―― 「買いに行こうか?」
―― 「ゆうちゃん、ぼーるなげしようよ」
―― 「いいよ」
―― 「ゆうちゃん、おんぶぅ」
―― 「はい、どうぞ」

俺の我侭に振り回されても、笑って受け止めてくれる。
そんな少年だった。
その少年は、もう40はとうに過ぎているだろう。
あの頃のゆうにいは、紅顔のはつらつとした少年でいつも優しく微笑んでいた。暖かい大きな手の平は一生、俺のモノだと錯覚していた遠い日々が蘇ってきた。
 自販機で煙草を買い、まだ泣いているのかもしれないゆうにいの背中を見るに忍びなくて、俺はのろのろとした足取りで家に帰っていった。帰る道すがら、俺はなにげに、ゆうにいの左の指を思い出していた。


               <6>

ガラガラとガラスの揺れる音を、業と大きくたてるようにして開け放ち、家に帰った。土間から一番奥の部屋でひとり寂しそうに、仏壇を見つめるゆうにいが見えた。

俺はその時、いつになく動揺していた。
口の中はカラカラに渇いたようにザラつき、ゆうにいの項垂れた、白く写る首筋に目が釘付けになった。
彼はあんなに色が白かっただろうか?
きちんと揃えて折りたたまれた両足のズボンの裾から覗く、薄い毛の生えた足首が妙になまめかしくて、その先にある足の指が、血の気を失って、ピクリとも動かずに重ねられている様は、俺の鼓動を強く叩いた。
捲り上げられたシャツの下から伸びた二の腕には、筋肉の筋が浮かび上がり、俺はその姿を見ただけで欲情した。
『不謹慎だ』そう思う心がある反面、そんなことなど、忘れてしまえるほど俺は興奮していた。
だが、じっと動かず、静かに仏壇を見つめるゆうにいの姿に、かける声も忘れて、汗で髪が張り付いた首筋を見つめていた。
気がつくと玄関は庭にあった蔓の花の匂いが充満していた。

―― 「ゆうちゃんは、あしたもくる?」
―― 「……あしたは、来れないかも。ごめんね」
―― 「なんで? がっこう?」
―― 「……ごめん」
―― 「ねぇ、いつぅ?」
―― 「かず……ごめん」
―― 「かずが、きてねっていったら、ゆうちゃんはくるよね?」
―― 「……ごめん」

何も言わず、行ってしまったゆうにいに何があったというのだろうか。
しかし、そんな理由を今更聞いても、俺の寂しかった気持ちが癒えるわけではなかったし、もう済んでしまったことでもある。 今はそれより、こうして会えたことに素直に喜んで、二度と彼を離さないようにすればいいのだ。
そう思ってはみるものの、彼に感じた欲望は萎えることは無く、卑猥に、そして大胆に俺の心の中で大きくなっていった。

                <7>

「随分前に親父と話をしたの?」
俺は、彼の腕から目を逸らさずに見つめたまま言った。
「俺が直接話したわけじゃないんだ。……随分前に親父さんから連絡があって……『もうそろそろ、三和土が10年目をむかえるから、新しくしてくれ』と、俺の親父のところに電話があったそうだ」
「三和土の修繕で?」
(へぇ、親父らしいな)
俺は煙草に火をつけながら思った。

「それと……玄関先に“紫陽花”を、植えてくれと注文があった」
「? 親父から? そんなこと言われたの?」
「俺が聞いていたらこん事にはならなかったのに……」
「?」
俺は次第に小さくなる、ゆうにいの声に欹て聞いた。
「俺の親父ね…卒中で倒れる前に、陣内のおやじさんから注文を聞いていたらしいんだ。俺は、親父と上手くいっていなくって、随分前から疎遠になって……今頃になって偶々、出入りの職人さんから聞かされたんだ。で、今日おやじさんに会いにきたんだけど。……何もかも、後手後手だな」
ゆうにいは、自虐的に言って、顔を顰めた。
「まぁ、間が悪かったっていうか、そういう巡り合わせだったんだろ? 
ゆうにいが気にすることはないよ」
「かず……そうじゃないよ」
「そう? 俺は良かったって思ってるよ、マジで」
ゆうにいは意外だと言わんばかりに目を見ひらいて驚いているようだった。
「不謹慎、とでも? 俺は、その間の悪さのお陰でゆうにいと再会できたんだ。素直に嬉しいって思うよ、いけない?」
「……ごめん」
ゆうにいが悪いわけではないのに、何に対して謝るのだろうか、すまなさそうに俺に対して謝ってきた。
黙って下を向いてしまったゆうにいを見て『可愛い』などと思ってしまった俺は、一人顔を赤く染めて、居所のなさに、腰を上げて「コーヒーをいれてくるよ」と言って台所へ向かった。

二人分のコーヒーを用意して、ゆうにいを仏壇の前から引きずるように、居間のちゃぶ台の前に座らせた。
二人とも何も話をしなかったが、ふと、会話の糸口になるように、ゆうにいが先に話をしだした。
「……“富士の瀧”っていう白紫陽花が、手に入ったからおじさんに報告しようと、思ったんだ」
「親父、なんでまた“紫陽花”だったんだ?」
「さぁ、理由は聞いてないな。 けど“富士の瀧”だったらおじさんも喜んでくれるって思ったんだよ」
ゆうにいが力なく笑った。
俺の心臓が、又、性懲りもなく飛び跳ねた。

「ゆうにいは、親父さんの仕事継いでるのか?」
俺のなにげに言った言葉に妙な反応を示したのは他ならぬゆうにいだった。
「……いや、俺は……」
「?」
この状況で、今更俺に何を隠すと言うのだろうか?
ゆうにいの煮え切らない態度に不信を覚えるも、俺は率直に何でも打ち明けて欲しいと思った。
「ちがうの?」
俺は畳み掛けるように言葉を重ねた。
「……あぁ、違う。つい、この間まで俺は親父の傍にも居なかったし」
「ふ〜ん、俺と同じ?」
「どうかな? 状況は、俺の方が悪いよ」仕方がないと言った風に笑った。
「……」
俺はその答えには何も言わず、煙草をふかしてやり過した。

「今日は急ぐ?」
俺は居間から立ち上がり縁側へ向かった。
俺は全身を耳にしながらゆうにいの返事を待った。
「……いや、用事はないよ」
「だったらさ、今晩泊まってかない? ……晩飯、寿司でもとって」
俺は背中で、ゆうにいの声を聞いた。ただ、最悪の答えを頭の中で流れてこないかと、気にしながら。
「……そうだな。久しぶり会ったんだし……」
俺はゆうにいの返事が覆らないうちに、先に進めようと強引ではあるが、ゆうにいの返事の語尾をかき消した。
「じゃ、そういうことで! 昨日さぁ、酒屋に行ってきたばっかだからさ、酒はあるんだよ。泊まりなら遠慮なしで飲めるな。
ゆうにいは酒飲めた?」
俺はまるで子供の遠足のように、ウキウキとした高揚感を抑えることが出来ずに、浮かれたように振舞っていた。
そんな、俺の態度にゆうにいは目を細めて優しく笑いだして正座をしていた足を崩して胡坐をかいた。
「うん、大丈夫。っていうか、嗜む程度かな?」
ゆうにいの返事に安堵感を覚えた俺は、それから矢継ぎ早に、聞きたかったことを喋りだした。  

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