草薙閃は、夜の街を必死に走っていた。通り過ぎる人々が驚きの目を向けるのもお構いなしに。
目立つのには慣れていた。まだ春先だというのにジーンズにTシャツ一枚というやや寒そうな格好もそうだし、左手には袱紗に包まれた棒状のなにかを握っている。竹刀に似ているが、それよりも風を切る音ははるかに重たい。そしてそれでいて走る速度は疾風のよう。そんな人間が夜の街の道を走っていればたいていの人は視線を向けるだろう。
目立つ理由には閃がいかにも未成年、それも純情で真面目! というきりっとした雰囲気を持っている上、顔立ちが美少年といってもいいほど整っているせいもあるのだが、閃はそんなことは意識していなかった。
『ったく、お前も毎度毎度ご苦労なこったねー。道歩いてりゃ一山いくらで連れるよーなあんな雑魚妖怪どもに必死になっちまってよ。だっから俺に任せりゃ一撃だっつーのに』
頭の中におもむろに響く声。だが閃は少しもうろたえず、むしろ苛立たしげに舌打ちして声に答える。
「煌うっさいっ! お前がやったらまたすんげー被害が広がるだろっ! いっつもいっつも火事起こす機会ばっかうかがいやがって!」
『しゃーねーだろ、俺は火神なんだからよ』
「それにっ、俺はもっと強くならなきゃなんないんだ! いっつもいっつも煌に頼ってたら、強くなんてなれないだろっ」
閃の言葉に、煌と呼ばれた声はくくっと笑った。
『へいへい、そんじゃ今回はお手並み拝見するとしますか。まーこんくらいの雑魚妖怪も倒せないよーじゃ世界中の悪の妖怪を倒して回るなんざできやしねーからな』
「わかってるよっ、そんなことっ」
走りながらむっと唇を尖らせ、閃はきっと前を睨む。
「俺は悪を倒すヒーロー(予定)なんだから!」
『へいへいほー』
「煌っ茶々入れんな……あ!」
閃は足を止めた。裏路地へ裏路地へと走って閃は自分に有利なポジショニングができる戦闘訓練で使い慣れた広場へ向かおうとしていたのだが、どこをどう間違えたのか容赦ないまでの行き止まり、袋小路に入り込んでしまっていた。
『あーあ。あーあ。でーたよ方向音痴。だーから言ったベー、敵を誘導しよーなんざお前には無理だって』
「う、うううう、うっさい! だってしょーがないだろっ、あんなとこで戦ったら周りに被害が」
「なにをぶつぶつ独り言を呟いてんだぁ?」
後ろからへらへらとかかってきた声に、閃はざっと振り向き袱紗の紐を解いた。中から出てきたのは、柄、鍔、そして鞘。
それは日本刀だった。長さ二尺三寸反り六分。黒塗鞘打刀拵え入り、現代の刀剣工が打った人を斬るための刀だ。
滑るような速さで刀を抜き、構える閃。その姿を男たち――街で出会ったとたん閃を追ってきた奴らは嘲るように笑った。
「なんだぁ? その刀。人間のガキが、俺たちとやろうってか?」
「笑わせんじゃねぇーよ、あぁ? 食っちまうぞぉ、んん?」
「……お前ら程度にやられていいほど、俺の命は安くない」
冷たい口調で閃が言うと、男たちは一気にいきり立った。
「ざけんな、コラァ。死ぬか? ヤダつっても殺しちゃうぞ?」
「百夜妖玉≠ェこの街にいるたぁ聞いてたが、まさか護衛もいねぇところに行き会えるとは思わなかったぜぇ。てめぇを食えばとんでもねぇ妖力を手に入れられるっつーんだ、こりゃ食うしかねぇわなぁ」
「…………」
閃は少しも表情を変えず、刀を正眼に構えて自然体に立ちじっと敵の男たちを見つめる。
そう、だから自分はずっと戦ってきた。守られてきた。……周囲の人々を、傷つけてきた。
だから、自分は、強くなる。強くなって悪い妖怪を倒すと決めたのだ。五年前のあの時から。
自分は、そのためにここに在る!
『ウォォォォンッ!』
男たちは服を脱ぎ捨て遠吠えを上げると、変化した。黒い体毛がびっしりと生え、体格が大きくなり、口には牙、手には爪、顔の形が変わり耳が耳が移動する。
一秒で男たちは狼男へと姿を変える――その瞬間に閃は動いていた。
「ふっ!」
二歩踏み出して刀を肩の位置まで上げ、限界ぎりぎりまで集中して狙っていた一番前の男の眼球に刀を突き刺す。愛刀は周りの骨を削りながらも眼球を貫き、その奥の脳髄に突き立った。
「グ……! グアァァァァアァァッ!」
狼男は絶叫して身を振り乱す。閃は素早く刀を抜いて構えた。軽く呼吸を整えながら、凛然とした目で残りの敵を睨む。
「き……貴様ぁっ!」
別の狼男が走り寄って爪を振り上げる。だが閃はそれをあっさり受け流し不敵に笑った。
「ただ腕を振り回すだけじゃ俺の体に傷ひとつつけられないぜ」
「ぐぬっ……!」
斬り合いが始まった。狼男はムキになって腕を振り回すが、閃はそのすべてを刀で受け流す。逆に冷静な顔を崩さないまま隙をついて斬りかかり、狼男の体に傷をつけていく。
だが、閃にはその表情ほど余裕があるわけではなかった。
確かに今のところこちらに傷はついていない。だが向こうに与えた有効打もほとんどないのだ。
最初の目を狙った一撃はうまくいったが、あれは向こうに隙があったから防御を考えず攻撃できたのだ。今の自分は攻撃を防ぎつつ目を突けるほどの達人の域には達していない。
そして自分が集中せずに行えるレベルの斬撃では、敵にかすり傷しかつけられない。妖怪の皮膚は鉄の鎧並みに硬いのが普通だ。そして人間よりもはるかにタフ。そんな奴が相手では、向こうにかすり傷が積み重なって倒れるよりも、こちらが一撃食らう確率の方がはるかに高い。
だが、そんなことははじめからわかっていた。だが、それでも。自分は戦わなければならない。戦って、強くならなければならないのだ。
「ウガルゥゥッ!」
業を煮やしたか、相手の狼男は大きく吠えた。とたん、狼男の体の前の空気が歪む。
まずい! と思うより早く、空気を揺るがして強烈な衝撃が放たれた。銃弾より速い衝撃の波。閃はかわしきれず、右脇腹にその衝撃波を食らって吹っ飛んだ。
「ぐっ!」
骨が折れたようだった。服と肌が裂け、肉がよじれ、血が噴き出す。右脇腹から全身に伝わる体がねじれるような激痛に、閃は奥歯を踏みしめて耐えた。
大丈夫だ、このくらい。何度だって味わってきた。このくらいで負けるもんか。
そう思いながら必死に立ち上がるも、やはり痛い。体中が痛くてたまらない。この程度、この程度。必死にそう言い聞かせて立ち上がる――
と、声がした。
『おい。閃』
低い、低い獲物を目の前にした獣が唸るような声。煌の声だ。
「……なんだよ……」
『俺を、出せ』
そう言うと思っていた閃は立ち上がって刀を構えながら必死に強がる。狼男たちは勝利を確信したのか、にやにやしながら少しずつこちらに近づいてきていた。
「やだ」
閃はきっぱりそう言って刀を構える。大丈夫、向こうの攻撃妖術の威力は大したことがない、痛いけど体の動きは鈍ってない。
『やだじゃねぇ。出せ』
「やだ。俺はいつまでもお前に頼って、お前の後ろで守られてるのは嫌だ」
『……閃?』
恐ろしく低く、熱を持った声。閃は思わずびくりと震えた。やだ、だめだ、その声は反則だ。
『お前は俺の、なんだ?』
「………………」
『なんだ?』
その声の圧倒的な迫力に耐え切れず、閃は泣きそうになりながら言った。煌、怒ってる。どうしよう、怖い。煌が怒った時は、いつも。
「……生贄兼、食料兼……」
『兼?』
「……相棒」
そうぽそりと言うと、煌のにやりと笑む気配がした。
『そう。なら、俺がどんだけ怒ってるかわかるな?』
「わかるけど、けどぉ、でも……」
『いいから、出せ!』
閃はうーっと顔を歪める。どうしよう、泣きそうだ。怖いしその上めちゃくちゃ恥ずかしい。今の自分の状況も、これからやることも。
でも、自分は煌に怒られると、無条件でいうことを聞きたくなってしまうのだ。
「うー、うーうー、うーうーうーうーっ!」
「はぁ? お前なに言って……」
閃は顔を真っ赤にしながらジーンズのホックを外した。そして一気にずり下ろし、敵に背を向けてパンツも少し下ろす。もう少しで前が見えそうになってしまうぐらいに。
「な……」
敵たちが唖然としている間に、閃は叫んでいた。
「出てこい! 煌!」
――――――。
ギュルオォォォォッ!!!
閃の尻に印された痣から、すさまじく熱く、毅く、大きなものが噴き出してくる。体中の熱が一気に上がる。燃えそうだ。体中が燃え尽きそうなほど、たまらなく熱く疼く。
ずぉんっ、と最後に舞うような音を立て、煌は――全身炎でできた巨人は、にぃ、と笑った。
「俺様の可愛い可愛い生贄を、よくもまぁ傷つけてくれたもんだな、ぁ?」
『…………!』
狼男たちは絶句する。その恐ろしいほど美しい姿にか、それとも底から立ち上るほど圧倒的な妖力にか。
「まぁもう言うだけ無駄だと思うがよっく覚えとけ。百夜妖玉¢嵩繿Mは俺、草薙煌のもんだ。髪の毛一本から指先の爪までなぁ。だから――」
「あ……あんた、まさか」
狼男たちが呆然と口にする。
「真なる迦具土=c……!?」
煌はに、と笑んだ。
「旧き火神≠ニ呼びな。――だから、てめぇらは殺す!」
その言葉と同時に炎が噴き出された。
業火。劫火。そんな言葉すら生易しい圧倒的な熱の嵐。
コンクリートは一瞬で蒸発し、どころかその下の地面まで一気に蒸発し、空気すらその圧倒的な熱量の前に燃やし尽くされ。当然、狼男たちは跡形も残さず消え去ってしまっていた。
「ふん、クズどもが」
にぃ、と笑ってから、煌はこちらを振り返る。それからまたしゅるしゅると姿を変えた。
身長二m近い、人外と思えるほど美しい美青年。それが煌の人間としての姿だ。
女が見れば悲鳴を上げるどころか気絶しかねないその美貌も、ほぼ生まれた時から見ている閃には家族の顔でしかなかった。怒ってるかな、と思いながらそろそろと見上げる。
が、煌は怒るよりなにより真っ先に、ひょいと閃を抱き上げ、傷を負った右脇腹に舌を這わせた。
「わ……ちょ、ちょっと!」
「ったく血ぃ流してんじゃねーよもったいねー! お前は体も肉も血の一滴も○○や××××も全部俺のもんだつってんだろーがいっつもよー」
「や、ばかっ、変なこと言うなっ! 舐めんなって、ばか……」
「舐めなきゃ治んねーだろ? あーもったいねー、お前の血ぃこんなにうめーのに」
「嬉しくない……第一お前舐めなくたって傷治せるくせに!」
「ま、そこらへんは役得役得。ほれ動くんじゃねーよ、治せねーだろ。あーうめー」
くそー、と思いながらも閃は素直に動くのをやめる。実際煌の治癒能力がなければ自分はもう百回は死んでいるだろう。そういうところは、素直に感謝しなくちゃならない。
「……ありがと。助けてくれて」
ぼそりと言うと、煌はにやりと笑って閃の頭をぐしゃぐしゃかき回した。
「バーカ。んなのたりめーだろっつーの。お前は俺の生贄で、食料で、相棒なんだからな」
「うん……」
「だっから最初っから俺がやるっつってんのに、無理して戦って怪我してよー。っとに馬鹿だなおめーは」
閃はきっと煌を睨んだ。
「だから、俺はもっと強くなりたいんだって言ってるだろ。そのためには実戦経験がなによりも大切なんだ」
「バーカバカバカバーカ。人間が兵器も使わねーで妖怪に勝てるわけねーだろバーカ。俺様に任しときゃどんな妖怪でも楽勝でぶっ殺してやるっつーんだよ」
「だから、そんなんじゃやなんだってば!」
「ま、いいや。お前の服も破れちまったことだし、こいつらの賞金で今日はなんかうまいもんでも食おーぜ」
「うまいものって……煌普段食事しないじゃん。なに食うの?」
「あ? そりゃ、うまいもん食って適度に脂の乗ったお前の尻の肉とかー」
「………ぜっっったい、やだ!」
「反論禁止〜。今日助かったのは誰のおかげだ、あぁ?」
「う……うーっ!」
煌はひゃっひゃっひゃと下品な、けれど不思議に磊落な印象を与える声で笑いながら閃を担いで歩く。閃はぱたぱたと暴れるが、とても抜け出すことはできなかった。
草薙閃――百夜妖玉≠ニ呼ばれる、血肉そのものが妖怪には至上の美酒となり、食らった妖怪に驚くべき活力を与える力を持つ少年。
草薙煌――旧き火神=A真なる迦具土=B太古の日本にて初めて火が誕生した時、火に対する畏れの想い≠ゥら産まれた妖怪。
この二人の物語が、今、ゆっくりと幕を開けようとしている。