島の遺跡で戦い
「せぁっ! りゃっ! はぁっ!」
 早朝。鬼の御殿の庭で、ライは戒刀乱魔を振るう。ここのところずっと船上生活だったので、かなり久々の剣の稽古だった。
 剣であれ刀であれ銃であれ、ライの戦技の基本は、まだ五歳にもならない頃に親父から叩き込まれたものが基礎となっている。ケンタロウは本当に、どういう経験を積んできたのかは知らないが、理不尽に強く、理不尽に(騒ぎを大きくするために必要なことならば)どんなことでもできた。
 その指導を受けたライも、自分の技はかなり理不尽なものだということは自覚している。正規の剣術の指導を受けた者から見ると、「なんだそのやり方は!」と驚かれるほど、技の基本や道理というものを無視しているのだそうだ。
 誰が見ても、ほとんどただ振り回しているようにしか見えない技。だがそのくせ芯に妙に一本筋が通っていて、どんな武器の扱い方も戦闘技術も、ひとつの体系の中に包み込んでしまう。
 ケンタロウの指導も戦闘技術も本当に理不尽としか言いようがない、とライは思っていたが、今は少なくとも、悔しいがあいつはあいつなりに一種の達人なのだ、と認めていた。シルターンの武術の達人であるセイロンやシンゲンも、メイトルパの戦闘技術の達人であるアロエリやクラウレも、騎士団で王道的な剣技を修めたアルバも、自分の武術はひとつの界に収まらない広さがある、と口をそろえて言っていたし。
「ふぅっ! ふぅぅぅ……はぁぁぁ……」
 稽古を終えて、ゆっくりと呼吸を整える。あの戦いの時に習得したストラの技術だ。
 ケンタロウに無理やり教えられた呼吸法に、セイロンから教わったシルターン武術の呼吸法を重ね合わせて自分なりにひとつのものに仕立て上げたつぎはぎの代物なのだが、ライには合っているような気がしていた。実際セイロンのストラと同様に傷を治すこともできるし、もっと極めていけばより深い傷も治せるだろう。
 それになにより、戦技を振るう時に力をさらに増すことができる。
「おう、精が出るな!」
 声をかけられて、驚いて振り向く。そこにいたのはカイルとキュウマ、スバルとシンゲン、それにアルバと――
「……ナップ、さん」
「ん? なんだよ、妙な顔して。俺になんか用でもあったのか?」
「いや、別にそーいうわけじゃ、ないです、けど」
 微妙に視線を逸らしつつぼそぼそと言う。ナップが悪いというわけではないが、この人の顔を見ると今はどうしたって、昨日のレックスとの濡れ場を思い出してしまう。
「しっかし、船の上で戦ってるの見た時にも思ったが、その年で大した技だよな。どこでその剣技、教わった?」
「教わった、っつーか……ガキの頃に親父からめちゃくちゃな指導受けたのを、自己流で発展させただけで……」
「自己流!? なんと……それでそこまで見事な剣技を習得するとは、恐ろしい才能ですね」
「だよなぁ。特に、あのストラ……型破りな呼吸法だけどよ、それがしっかり身についてやがる。実際に使っちまえる辺り、正直驚きだぜ」
「ま、ご主人の武術は実際大したもんですからなぁ。型破りで、ちっとばかし見たくらいじゃただ適当に振り回しているようにしか見えないのに、それがなぜか不思議にひとつの流れのうちに含まれている。それこそ技だけなら、ひとつの流派って言ってもいいほどですよ」
「買いかぶりすぎだっての。俺はただの宿屋の店主で、こーいうのは単に習慣やなんかでやってるだけなんだからな」
「それだけの腕持っててそう言われちまったらこっちの立つ瀬がないって。俺はレイドに聖王国、特にトライドラの制式剣術を叩き込まれて、今も毎日毎日稽古してるけど、それでもライに勝てる自信ないからな」
「一撃の重さだったらアルバの方がずっと上じゃねぇか」
「それはそうだけど、ライは剣も刀も大剣も銃も、それどころか槍も武具も上手に扱うだろう? 正直すごいって思うよ」
「へぇ! 槍や武具も扱えるのか!」
「や、槍とか武具とかは自由自在にとはいかねーけどさ。素人よりは少しマシに扱える程度」
「面白ぇなぁ……よし、ライ。俺とちょっと組み手やってみようぜ」
「え、カイルさんと?」
 驚きの声を上げたが、カイルはにやりとその赤銅色の顔で笑んでみせる。
「おおよ。俺としちゃ、ガチンコ勝負の時はやっぱ素手が一番楽しいからな。強い喧嘩相手はできるだけ増やしときてぇわけよ」
「まぁ、いいけど……実際、勝負にならねぇと思うぜ」
「んなもんやってみなきゃわかんねぇだろ! ほれ、とっとと来いって!」
 ざっ、と構えてみせるカイルに、仕方なくライも続いて構える。ライがケンタロウから教わった格闘術は、武術なぞという上等なものではないが、一応の様式というか、やり方のようなものは存在していた。
 その中のなによりも重要な教え――それはすなわち、先手必勝。
 ずっ、とライは踏み込み、だんっ、とカイルの足を踏みつけた。

 ばっごぉん! と防ぎきれなかった全力での裏拳を食らい、ライは文字通り吹っ飛んだ。が、それも半分は自分から飛んだのだ。後方に大きく跳んで勢いを殺し、鼻血を流しながらもたんっ、と左足で地面を蹴って、さらにだんっと大きくカイルへ向かい踏み込む。
 カイルはにやっ、と大きく笑んで、ずんっと全力で地面を踏みしめ、こちらに交差しながらの一撃を加えようとし――
「そこまで!」
 キュウマの声で動きを止めた。ライもふ、と息を吐いて体の力を抜く。少しばかり息が荒くなっているのを自覚していた。
 わかっていたことだが、さすが、カイルの格闘技術はそんじょそこらの奴とは桁が違う。明らかに遊ばれているのに、決定的な一撃を与えることができなかった。刀か剣か大剣か銃を使えば、致命になりうる一打を与えることもできただろうが。
 だが、ひゅうっとカイルは口笛を吹いた。
「なるほどなぁ、やるじゃねぇかお前さん。あともうちっと精進すりゃ、気≠フ流れをうまく拳に乗せることもできるだろうさ」
「え、そうか? そんなに簡単にできるもんなのかよ?」
「本当なら簡単にできるこっちゃねぇ。だが、ライ、お前さんは確かに才能があるよ。剣やら拳やらの才能じゃなく、戦いってもんの才能がな。お前さん、どんな武器もお前さんにとっちゃ体の一部になりうるもんだって思ってるだろ?」
「は? そりゃ当たり前だろ、そうでなきゃ戦えねぇじゃねぇか」
「普通ならそうはいかねぇ。どんな奴もひとつか、せいぜい二つの技を極めることに全力を注ぐもんだ。自分の技に自信を持つためにも、生き残るためにもな。だが、お前さんにはそこらへんのこだわりがまるでねぇ。実際、とんでもねぇ器だと思うぜ」
「そうか? 俺としちゃ、別にそんな大したことしてるわけじゃねぇんだけどな……」
 そもそも自分は宿屋の店主であり、剣術家にも拳法家にもなるつもりはないのだし。
 だが、そんな自分の反応に、アルバは苦笑しシンゲンは笑った。
「ライ以外の奴の口から出たら、それってかなり嫌味だな」
「ま、やっとうのお稽古をなによりのものと考えてらっしゃる方々からすれば、噴飯ものの言い草でしょうなぁ」
「は……? んなこと言われたって、俺は別に……」
「まぁな。ライの気持ちはなんとなくわかるよ。剣だなんだってのは、人を守るための技にもなるけど、人を傷つけるための技にもなるしな。それに人生を懸けるってのは、あんまり健康的な話じゃない」
 ナップがははっと笑い――それから、一歩こちらに進み出た。
「けど、それでも、俺にとっちゃ剣ってのは人生の一部にもなってるもんだ。それが豊かな才能持ってる奴に、見くびられるのは正直ちょっと面白くねぇな」
「は……? おい、ナップさん……」
「勝負しようぜ。真剣で」
「……はぁ!?」
 ライは思わず仰天したが、カイルとスバルは「おー、やれやれー」と囃したてるし、キュウマは難しい顔をしながらも「むぅぅ、軽率なと申し上げたくもありますが、戦に身を置くものとして気持ちはわからなくも……」などと唸っている。アルバは「頑張れよ、ライ!」などと瞳を輝かせているし、シンゲンは「心配しなくても死にそうになったら止めてさしあげますんで」とものすごく当てにならないことを言っている。
 そしてナップは笑顔を浮かべつつも、おそろしく真剣な顔でこちらを見ている。やれやれ、とため息をつき、戒刀乱魔を構えた。これはどうやら、勝負をしなけりゃ収まりそうもない感じだ。
 ナップもすい、と背中から大剣を抜き、構える。ライは見たことがなかったが、とんでもない業物だというのがびりばりと伝わってくる代物だ。
 す、す、とお互い有利な間合いを取るべく動き回る。その間中微塵もぶれないナップの体を見て、ライは思わずこっそり舌打ちしていた。
 弱いなどと思っていたわけではないが、やっぱりこの人、達人だ。それもそんじょそこらの達人じゃない、ことによってはルヴァイドすら上回ってしまうのじゃないかってくらいの戦闘経験と剣技への強い執念のようなものを感じる。
 実力的にいえば、ライはこの人にはとうてい及ばないだろう――だが、そう簡単に負ける気もない。ナップが間合いを外そうと左にずれたのを追うように、すいっ、と砂利の上で歩を進めた。
 す、とナップの視線が厳しくなる。ナップは足を止めず、すすすと左へと進み続け、大剣は届くが刀は届かない、という絶妙な間合いでしゅんっ! と音の方が遅れて聞こえるような一撃を見舞ってきた。
 だが、ライにとってはそれはむしろ待ち望んだ一撃だ。すい、と体を深く沈めながら、刀を大剣の刃に滑らせて、ぎりぎりのところで軌道をずらす。
 これを見た時アルバは『あっ、やられたっ』と思ったそうだ。体を安定させるため以上に体を沈めるのは下策中の下策。足がうまく動かなくなるから移動速度が遅くなり簡単に敵に捉えられやすくなるし、敵と相対する時顔を見上げるようにしなければならないから体勢やら逆光やらで圧倒的に不利になる。それに対し相手は堂々と足を動かして剣を振り下ろせばいいだけだ。
 事実、ナップはそうした。逸らされた大剣の軌道を一歩踏み込んで返し、右後ろからライの首を刈ろうとする。
 が、そこでライは、さらに踏み込んだ。
「っ!」
「むっ!」
 呻くような声が周囲から漏れるのを気にしている暇はなかった。ライとしてもこの、体を深く沈めながら一足飛びに相手の懐へ飛び込むやり方は神経を集中させなければならないのだ。それこそナップの腰の高さほどに身を縮めながら、一気にナップの懐に飛び込み斬り上げる。
 だが、ナップもあっさりそれを許すほどぬるい相手ではなかった。大剣と自分に挟まれるような状態からのライの攻撃を、ぱん、と跳ね上げるようにして手元に戻した大剣の握りで受ける。
 すかさずそこに追い討ちをかけながらも、ライは目を丸くしていた。握りで受けると言葉にすれば簡単だが、そこは素手で大剣を支え握っているところなのだ、ひとつ間違えれば指が落ちる。それをまったく怖気もせずに、しかも一挙動で手元に重い大剣の握り部分を戻すなど、どれだけの膂力と技が必要になるか。
 剣戟が始まった。ライは懐から離されないようにしながらナップの死角を衝いて刀を振るい、ナップはそれを受け間合いを離そうとしながら神速の一撃を見舞ってくる。
 受け、捌き、返し、滑らせ、振るい、踏み込み、打ち抜き。目にも止まらぬ速さで襲ってくるナップの剣を、ほとんど脊髄反射で捌いてこちらも刀を振るう。伯仲、と言うにふさわしい剣戟だった、とあとでシンゲンが言っていた。
 と、その中にできた一瞬とも言い難い刹那の間隙に、ナップがすい、と一歩を退いた。なんだ、と思いながらも即座に追撃しようとして、体の底が勝手に震える。
 まずい。なんでかはわからないが、この間合いはまずい。
 ナップはその一瞬で、その大剣を大上段に振りかぶっていた。そんな大振りの攻撃など当たるわけがない――という常識など、微塵も意に介さないというように瞳を輝かせて。
 唇から呼気と、言葉を漏らしながら大剣を振り下ろす――
「斬絶――」
「ナップ! なにをしているんだい!?」
 直前に響いた声に、ライとナップは揃ってびっくぅ! と震えて声の主の方を向いた。そこには、後ろにヤードを伴ったレックスが、厳しい顔をしてこちらを見ている。
 やばい、とライは内心びくついた。あれは、どう見ても、先生として怒っている感じの顔だ。
 ずかずかとこちらに歩み寄り、びしっと指を突きつけられる。
「ナップ。ライくん。ちょっとそこに座りなさい」
「はい……」
「う……はい」
 ナップの真似をして、地面の上に正座する。
「君たちのやってたことが、ひとつ間違えば命を落とす危険すらある危ない行為だっていうのはわかってるね?」
「はい……」
「……はい」
 俺がしたいっつったわけじゃなくてナップの方から誘ってきたのに、という思いもあるが、自分も受けたのは確かなのだし、いまさらそんなことを言い立てるなんて男らしくない。仏頂面ながらもうなずいた。
「どうしてそんなことをしたんだい。稽古なら鞘打ちでも木剣を使うのでもいいだろうに。なにか理由でもあるのかい?」
「いや、その……ライの戦士としての力を、ちゃんと測っておきたくなった、っつーか……」
「ナップ」
 その静かで、深く、けれどはっきりと強い怒りを感じさせる声音にナップのみならずライもびくんと身を震わせた。レックスさんって、優しそうだと思ってたし実際優しい人なんだろうけど、怒るとかなり怖い。
「……その……ちょっと、ムカついたから。軽く、絞めてやりたい、っつー気持ちも、あったと思う……」
 ふぅ、とため息をついてから、ライの方に向き直る。
「ライくんの方は? 受けた理由は?」
「や、その……本気だったみたいだから、受けとかないと悪いかな、って……」
「命を落とす危険があったかもしれないのに?」
「や、向こうもこっち殺す気なわけじゃないだろうし、たぶんなんとかなるだろう、って……」
 ぎゅっ、とレックスの眉間に大きく皺が寄った。うわ、もしかしてまずいこと言った!? というライの懸念通り、レックスは本格的に説教を始める。
「いいかい、ナップ、ライくん。君たちも知ってると思うけど、避けられない戦いというものは確かにある。命を危険に晒さなければならない時もね。だけど、それは命を粗末に扱っていいということには全然ならないんだ。このくらい大丈夫だろう、っていうような甘い見通しだと……」
 ……それからえんえん、それこそ一万数を数えるほどと思えるほどの時間が経ったのち、レックスは「だから、これからは気をつけるようにね」と微笑んで説教をおしまいにしてくれた。
 だぁぁ、とライは思わずその場に寝転がる。レックスは言葉は荒げないが、どこまでも真剣に真面目に心を込めて説教してくるので、受ける側としてもものすごく自分が悪いことをしたような気になって精神的にかなりきつい。説教されながらカイルたちにやりあってる時にできた傷を治療してもらってたのに。
 ナップの方はとみれば、まだ正座したままでしゅんとうつむいてしまっている。やっぱり長年のつきあいがあるとよけいに負荷が大きいのか、と思っていると、レックスに笑顔でぽんぽんと背中を叩かれ、ぐいっとこちらを向いた、と思うや頭を下げた。
「へ……?」
「悪かった、ライ。さっき言ってたこと嘘じゃねぇけど、わざわざ真剣使ってマジでやったのには、ちょっと八つ当たりみたいなとこあったと思う。大人気なかったよな、マジでごめん!」
「え……や、んなことは別にいいけどさ」
「うん、でもマジ悪かった。俺の方がずっと年上なのにな」
「いや、だからいいって。こっちも承知の上で乗ったとこあるし、それにけっこう面白かったしな」
 言うと、ナップはにかっ、と嬉しげに笑う。朗らかで、明るい笑いだった。
「そっか? じゃ、これで恨みっこなしな!」
 言って差し出された手を、ライも「おう」と笑って握る。予想通り剣ダコだらけの硬い手だが、そのまっすぐな笑顔はライにとっても心地よかった。
 それにしても、とライはカイルたちと話しているレックスの方を向くナップの横顔を見上げる。穏やかというか、口元にわずかに笑みを佩いたごく普通の表情なのだが、その顔が、なんだか。
「……ナップさん、なんか、嬉しそうじゃねぇ?」
 言われてナップは目を瞬かせたが、すぐに照れくさそうに笑う。
「いや、なんつーか、さ。生徒としては、先生に心配かけて申し訳ないけど、心配してくれるくらい大切にしてくれてるって再認識するのはそんなに悪くねぇからな。ライ、お前だって、親父さんに先生が似てるって言ってたけど、そういう人に心配されるの悪くなくねぇ?」
「なっ」
 ライは思わずぼっと顔を赤らめた。心配されるのが悪くねぇって、なに言ってんだこの人。親父は俺のことわざわざ心配するよーな殊勝な人間じゃねぇし、そもそもそんなガキみてぇな。
「ライくん、大丈夫かい? まだどこか痛いところでも?」
「わっ、んなのねぇって! 大丈夫だってば!」
 いつこちらの方を向いたのか、心配げな顔を間近に近づけて訊ねるレックスを、ライはまだ赤い顔のまま押しやってしまった。そのそれこそガキのような行為と、それでも「そうかい?」と言いつつ心配そうな顔を崩さないレックスに、ライははぁっと息をついてから仏頂面で告げる。
「ライでいいよ」
「え?」
「だから、ライでいいって。もともとくん付けなんてされる柄じゃねぇって思ってたんだ」
 そう言うと、レックスはにこっと嬉しげに微笑んだ。
「じゃあ、俺もレックスでいいよ」
「え、いや、だって、目上の人を呼び捨てはまずいだろ」
「君はもう一人前の男なんだろう? だったら呼び捨てでかまわないよ」
「いやいやいいって! 変だろ、そんなのっ!」
 などと顔を赤らめてやり取りをしつつ、ライは自身の中に嬉しい感情が確かにあるのに気づいてしまった。確かにこの人に心配されるのは、心の中をちょっとばかしむず痒くさせる、かもしれない。
「おーい、ライ! 他のみんなも起きてきたんだ、そろそろ食事にしようぜ!」
 ミスミの準備してくれた、ユカタという寝巻きを着たまま、縁側から言ってきたハヤトにはっとする。
「やべっ、ほんとだ、もう朝飯の時間じゃねぇか!」
「おいおい、さすがに客人にそこまでさせるわけにゃあ……」
「なに言ってんだ、宿と材料提供してもらってんだぜ、メシぐらい作らせてくれよ。薪割りやなんかもやるけどさ、俺としちゃやっぱ食事作るのが一番嬉しい恩の返し方だからさ」
「ったく、いつもながらしっかりしたガキだよ、お前さんは」
「おーいっ、保護者っ、なにやってんだよ! メシの支度がまだできてねーぞっ」
「リューム、態度大きすぎかと」
「そーだよぉっ、それにミルリーフたちもちゃんとお手伝いするんだからねっ!」
「おー、偉いな、ミルリーフ。リュームは罰として皮むきの分担倍な」
「なっ、ひでーぞそれっ!」
「稽古ありがとな、ナップ。傷治してくれてありがとな、スバル、カイル、ヤードさん。レックス……さん、心配かけてごめんなっ!」
 叫んで駆け出すライに、後ろから「ご飯楽しみにしてるよ!」という声がかかってくるのに、ライは背を向けたまま大きく手を振って答えた。

「うまっ、マジでうまい。オウキーニさんと張るぐらいうまい! ……やっぱライってそんななりして料理の名人なんだな……」
「そんななりってなぁなんだよ、そんななりってなぁ」
 唇を尖らせながらも、ライは海藻とアブラアゲのミソ味スープをすする。材料がそういう系統しかなかったので、ほとんどシルターン風朝食になってしまったが、シンゲンやハヤトは喜んでくれたようだ。
「ふうむ、この川魚でうめぼしを包んで揚げたものに大根おろしをかけたもの……初めて食うたがこれは実に美味じゃな。シルターンの食材を使っておるのにシルターンにはない、そのくせシルターンの味の料理を作ってみせるとは。その年でそこまで精進するとは大したものじゃ」
 ミスミににっこり微笑んでそう言われ、照れくさくなりながらもライは苦笑する。
「そう言われるのは嬉しいけどよ、実のところ必要に迫られてってやつなんだよな。新しいシルターン料理を作ったのはそこの眼鏡侍がコメのご飯に合う料理を作れってうるせぇからだし」
「いやぁ、照れますなぁ」
「料理が上達したのは自分で自分の食う料理を作んなきゃなんないから、できるだけうまいもんを作ろうとやってきたのの積み重ねだしな。ま、好きでやってることだけどさ」
「へぇ、ライって子供の頃から自炊してたんだ」
「ああ、まぁな。なにせクソ親父が俺が五つの時に家おん出て、それからずっと一人で暮らしてきたからさ」
「えっ……」
 一瞬場の空気が固まったが、ライは笑って手を振ってみせる。
「ああ、心配ねぇって、一人ったって助けてくれる大人はいたし、友達もいたし。そりゃ割りを食うこととか寂しいこととかは多かったけど……そのおかげで今があるんだって思ったら、悪くねぇなって思えるしな」
『…………』
「ライ。そなたは、まことよい子じゃな」
「うん……すごいと思うよ。でもなにか辛いことがあったりしたら、誰かに頼るんだよ? 俺たちも俺たちなりに、力になるからね」
「別に気にすることねぇってのに……でも、ま、気持ちはありがたく受け取っとく。嬉しいぜ、みんな」
 にっ、と笑みを向けて次のおかずを口に運ぶ。照れくさいという気持ちもあったが、出会った面々が向けてくれる好意が嬉しい、という気持ちも確かにあったので。
「で、さぁ……とりあえず、これから俺たちはどうしようか。昨日で一通り島のみんなと面通しはすんだわけだけど」
 マグナがもぐもぐと口を動かしながら言うと(即座にネスティに『はしたないぞ』と叱られた)、レックスが答える。
「とりあえずレルム村から連絡をもらってからずっと、ラトリクスの探査網で周囲の海の哨戒を行いつつ自警団のみんなに見回りを強化してもらってる。子供たちが集落の外に出る時には護衛をつけたりね。だからこちらとしては、その見回りの協力をしてもらえると助かるんだけど」
「しっかし……向こうの目的が全然わからねぇからこっちとしても対処のしようがねぇよな。そもそも向こうがなにを狙ってこの島くんだりまで来るんだか。……前にオルドレイクがここに来た時は、どんな狙いがあったか知ってるのか?」
「詳しく知ってるわけじゃない。こっちとしては向こうが襲ってくるから撃退する、ってくらいの感覚だったし。ただ、普通に考えて、この島の遺跡が目当てだったんだろうな」
「遺跡?」
「ああ。この島に眠る召喚術やエルゴに対する実験の記録や知識や、機構を利用しようとしてたんだろう」
「……なんのために?」
 ハヤトがわずかに眉を寄せ、小さく言った言葉に、周囲は目を瞬かせた。
「なんのために、って……」
「悪いことに使うためじゃねぇのか? そりゃ。ああいう悪党ってのはいつだってそういうもんを探してるし」
「そうなんだけど……俺の知っているオルドレイクはほとんど狂ってた奴だけど、真剣に狂ってた奴だった。あいつには世界を自分の思い通りに創り変えるって目的があって、そのために魔王の力が必要だったから魅魔の宝玉をバノッサに与えてサイジェントの城を落とさせた。倫理はともかくとして、論理的には無駄なことはしてないんだ。それだけの頭がある奴のはずなんだよ」
『…………』
 自分たちの父親に言及され、キールとカシスとクラレットはうつむいたが、そちらにちらりと視線を向けながらもハヤトは続ける。
「だから、この島の遺跡にも明確な目的があって訪れたはずなんだ。世界を滅ぼして正しく¢nり変える、常識から考えればとんでもない目的を果たすために」
「……その遺産を追ってやってきた奴らも、その目的を果たすためにやってくる、と。そうなると、確かにこの島の遺跡のどこにそんな目的に役立つ代物があるか、知らなくちゃならないわけだけど……」
 ナップはレックスと顔を見合わせ、肩をすくめる。
「まいったな。悪ぃんだけど、そこまで強烈な力を持つ遺跡には、正直心当たりがねぇんだよなぁ」
「え、そうなのか? 四界全部から召喚獣を呼び出して、完成しなかったにしろ人の手でエルゴを創ろうってとこまでいった遺跡だろ?」
「まぁ、そうなんだけど……なんつーか、規模の問題なんだよ。あの戦いの時、最後にディエルゴって万物を思い通りに操る奴と戦ったんだけど、そいつでも操れるのはせいぜいがこの島の中程度だった。俺たちにとっちゃとんでもなく厄介な敵だけど、世界を滅ぼすってとこまではいってなかったぜ」
「人の手でエルゴを創り出すなんてことが本当にできれば、世界を滅ぼすこともできたかもしれない。でも、俺たちが封印したあの遺跡の力を使っても、最大効果範囲はこの島までなんだ。つまりね、この島の遺跡は、恐ろしい力を秘めているけれど、本来の目的からしたら未完成なんだよ。未完成品をどういじっても、すぐに力を得ることができるわけじゃない。もちろんオルドレイクとしては、邪魔者をみんな片付けて腰を据えて研究する態勢を作り出す自信があったのかもしれないけど……」
「俺らがしっかり撃退したしな。セルボルト家の残党ってのは、オルドレイクがいた頃より勢力が落ちてるんだろ? いくらなんでも俺たち全員を退けて、エルゴを創り出すための研究に勤しむ態勢を作り出すなんて無茶な自信持ってねぇだろうと思うんだけど」
「なるほどなぁ……」
「そもそもなんでわざわざ忘れられた島に俺ら全員呼び出したんだ。普通なら少しでも警護する人数の少ないとこを狙うんじゃねぇのか?」
「遺跡を封印したと言ったけれど、それはどのくらい信用がおけるものなのかな?」
「抜剣者と超律者、それに豊穣の天使と聖なる大樹と同期してる融機人召喚師が共界線に直接魔力ぶち込んで強制封印したからな。普通の奴なら触れることもできねーし、どんなすげぇ召喚師でも数十人がかりで数ヶ月かかると思うぜ」
「そこまで、となると……向こうはこの島になにを求めて来てるんだろう」
 うーん、とそれぞれに考え込むが結論は出ない。なので、とりあえず全員それぞれに班を作って、見回りを強化する、というごく普通の案に落ち着くしかなかった。

 ライは子供たちと班を作り、狭間の領域近辺を見回ることになった。リシェルやギアンも一緒に来たがっていたが、強力な召喚師というのはここまでの強者が集まった中でも実際貴重なのだ。それに加え、自分の子供たちはなにせまだ幼いので、たまに暴走することがある。そんな時に止められるのは自分しかいない、という自負もあった。
 薄暗い森の中を、できるだけ音を立てないようにゆっくり歩く。サプレスの住人たちは昼は休息を取っているそうなので、起こすのは悪かろうという当たり前の気遣いだ。
「……くっらい森だよなぁ。いかにもなんか出そうな感じ」
 リュームが珍しく小さな声で囁くと、ミルリーフが身をよじる。
「そういうこと言わないでよぉ、本当に出てきちゃったらどうするのー」
「ここは霊界の集落なんだから、幽霊の類は出そう≠カゃなくて実際に出る≠ゥと」
「わーんコーラルっ、普通の顔してそういうこと言わないでよぉっ」
「ん? ミルリーフ、お前幽霊とか怖かったか? 敵として出てきた時にはばかすか倒してたじゃねぇか」
「うー、それはそうなんだけどぉ……なんていうか、突然出てこられるとびっくりするっていうか」
「バァーッ!」
「きゃぁっ!」
「うわっ!」
「……っ!」
「っと! なんだ、あんた? 俺らになんか用か?」
 突然現れてきたのは、ライそっくりの姿をした奇妙ななにかだった。青が基調の色彩をしている以外は姿形はライとまるで同じなのだが、その顔に浮かべるどこかすっとんきょうな表情はライとしては浮かべた覚えがない。
 そしてそいつはにぃっと笑い、それから即座にライの表情を誇張したような顔になって身振り手振りも交え言ってきた。
「ット! ナンダ、アンタ? 俺ラニナンカ用カ?」
「……どーいう事情があってんな真似してんのかは知らねーが。挨拶もなしにいきなりんな真似してくるってこたぁ、喧嘩売ってるってことだよな?」
 にやり、と笑んで拳を振り上げるや、偽物ライは仰天した顔になって一歩退く。
「ンギョッ!?」
「おいおい、しょーがねぇ保護者だな。島の奴らとそー簡単に喧嘩していいのかよ?」
「よくはねぇが、向こうがわざわざ喧嘩売ってんだ、買ってやるのが礼儀ってもんだろ。どっちかが一方的に我慢する関係ってのを、仲がいい関係とは言えねーだろうしな」
「一理はある。けど、大人げなくもある、かも」
「それに、うちの子をいきなり驚かした仕返しは、親としてしっかりしなくちゃな!」
「え……パパ……ミルリーフ、間違ってるかもだけど、ちょっと嬉しいかも……」
 子供たちの視線を背中に受けつつずいっと一歩前に出ると、偽物ライはびくびくっと周囲を見回し、だっとばかりに逃げ出した――かと思うや、のっしのっしとやってくる巨大な鎧騎士の後ろに隠れた。
「あ、ファリエルさん……ってか、ファルゼンさんって呼んだ方がいいのか?」
「どちらでもかまいませんよ、私はもう、島の中の者には正体を隠していませんし」
 ふわ、と鎧の外に美しいほっそりとした少女が浮き上がる。ファリエルの本体だ。
「で、どうかしたんですか? マネマネ師匠がなにかまた失礼なことでもしたんですか?」
「あ、そいつマネマネ師匠っていうのか」
「なんかそのまんまの名前だな」
「やっぱり、真似っことか得意なの?」
「ええ、まぁ。この森に入ってきた相手の真似をして、からかうのが趣味な幽霊なんです。でも、自分の真似を完璧にできたらご褒美をくれる、っていうので子供たちには好かれてるんですけどね」
「なるほどな。どうりで喧嘩買われ慣れてねぇと思った」
「……喧嘩してたんですか?」
「そういうわけじゃねぇけど、からかってんだろうなって思ったから喧嘩買った振りしてみた。そう簡単にからかえると思われんのも癪だしな」
「ナントイウ野蛮ナ……貴様ノヨウナ奴、弟子ニシテヤランゾッ!」
「心配しなくてもなる気もねーよ。……ファリエルさんは? この辺を見回ってたのか?」
「ええ……私、こういう体ですから。お日様のある間は、できるだけ狭間の領域で休息を取っておいた方がいいんですよね。それでこの辺りの見回りを……フレイズは空を飛べますから、一人で行動した方が効率よく見回れますし」
「ふぅん……ファリエルさんも大変なんだな。なにかっちゃ休息取らなけりゃならないって、きついんじゃねぇのか?」
「そんなことないですよ、もう慣れちゃいましたし。……それに、私はまだずっとマシですから。かつてこの島での無色の派閥との戦いの中では、命を落としたあげくに輪廻の輪に加われず亡霊として道具のように使われた人が何人もいました。今はもう、そういう人は解放されましたけど……他にも、豊かな感情を持っていたのに、それを消してでも私たちを守るために存在し続けたいと願った機械兵士や、人の世界と断絶してもこの島に在り続けるため剣を継承した男の子もいるんです。私なんて、恵まれ過ぎてますよ。だって、私の力で大切な人や、島のみんなを守ることができるんですもの」
 にこっ、と笑ってみせるファリエルの笑顔は、あどけなささえ感じる少女のものだ。だが彼女はこれまでに、幾度もの戦いの中で前線に立って敵を倒してきたのだろう。
 ラトリクスで紹介を受けた、感情などまるでないように思えたヴァルゼルドという名の機械兵士。スカーレルはオルドレイクへの復讐を断念しながらも、仲間たちとも別れ一人国々をさすらっていたという。そして、友や親や、そういう絆を結んだ相手がいながらも、この時間の流れが遅いという島で、不老となる剣を継承したナップ――
 それぞれに事情があり、考えがあり、選択がある。そして犠牲が、失われるものがある。それはごく当たり前の、仕方のないことなのだけど。
「だったら、きっちり守れるよう、俺らも協力しねぇとな」
 にっと笑って言うと、ファリエルは一瞬きょとんとしてから微笑んだ。
「優しいんですね、ライさん。本当なら、あなたにはまるで関係のないことなのに」
「ん、まぁ関係ねぇっつったらそうなんだけどさ……」
 ライは眉を寄せ、軽く肩をすくめる。これまでの旅の中で、これまでの戦いの中で、自分なりに考えたところくらいあるのだ。
「世界ってさ、けっこう繋がってるんだよな」
「え?」
「なんつーか……親父に聞いた話なんだけどさ。しょくもつれんさ、とかなんとか……草木が生えて、それを食う羊とか牛とかがいて、それを食う狼とかいて、でもそいつらも年を取ったら死んで、大地の肥やしになって、そっからまた草木が生えて、みたいなのあるじゃんか。そういう、世界の中にある輪廻の輪みたいなのはさ、いろんなところですごくいっぱいあって、しかもけっこう複雑に絡み合ってんだ。害虫をいっぱい殺したのが、山津波を起こすみたいにさ」
「えと……はい」
「そういう風にさ。この島の中でのことも、きっと他の世界と繋がってんだよ。世界の危機がどうこうとかまでじゃなくてもさ、俺の料理うまいって思ってくれた奴が俺の宿訪ねて、噂を広めて、いろんな召喚獣が集まって、それきっかけにして帝国の法が変わったりするかもしれねぇ。別にそういうのを当てにしてるわけじゃねぇけど、自分と住んでるとこが違うから、種族が違うから関係ねぇってことじゃねぇ、ってのは確かにわかるんだ」
「…………」
「それに実際、目の前でとんでもねぇ事件が起こるかもしれねぇってのを放っとくわけにもいかねーだろ? 困った時は相身互いだし、あんたらは俺たちを信じて島に迎え入れてくれた。だったらその信頼を返すのが筋ってもんだ」
「……ふふっ」
 ファリエルが笑い声を立てた。鈴の鳴るような、優しく可愛らしい声だった。
「なんであなたが、あなたたちの事件の中心人物になってたか、わかりました。……あなたって、レックス先生に似てるんですね」
「……はぁ!? なに言ってんだよファリエルさん、俺あんなに優しいっつーか、穏やかじゃねーだろ!?」
「もちろん、いろいろ違うところはありますけどね。でも、その根っこっていうか……本質的に向いているところが、すごく似てます。すごく優しい人なんだって、わかりますよ」
「うんっ! パパは世界一優しいもんっ!」
「そぉかぁ? 人遣い荒ぇし料理のことになったら我忘れる料理バカだしすぐぽかぽか殴る奴だぞこいつ?」
 がづん。
「いちいちうるせーぞ、リュームっ」
「……ってぇなーっ! そーいうとこが優しくねーんだよっ!」
 ぎゃんぎゃん喚くリュームの相手をしながら、こっそり考える。似てる? 似てるんだろうか、俺があの優しい人に。ヤッファさんもそんなこと言ってはいたけど。確かにあの人の底の、頑固なとこは似てなくもないかもしれないが――
 そこまで考えて、レックスに似ているということはケンタロウに似ているということでもあるのでは、という結論に達して顔をしかめた。冗談じゃねぇ、あんなクソ親父に似ててたまるか。この話は記憶の彼方に放り投げて――
 と、ファリエルがはっとしたように顔を上げた。
「? どした、ファリエルさん?」
「なにか……とてつもなく、強力な魔力が、一瞬、感じられたような……」
「……なんだって? ミルリーフ、感じたか」
「え、ううん……なんだか一瞬ざわざわって感じはしたけど、この森にいるとそういう感じ、けっこうあるし……」
「リュームとコーラルは?」
「俺に魔力関係の力期待すんなよ」
「……ボクは感じられなかった。でも、もしかしたらって考えることは、ある」
「どういうことだ。言ってみろ」
「ファリエルさんは、霊体。サプレスの魔力と、すごく、親和性が高い存在。そして、この森は、サプレスの魔力に溢れてる。ボクたちがそれに紛れて感じ取れなかった力を、ファリエルさんが感じた可能性はある。そして、セルボルト家の残党である人たちは、キールさんやヤードさんたちのように、霊界の召喚師――」
 そこまで言ったところで、ほとんど怒鳴るような大きさでキールの声が頭の中に響いた。キールの使う、遠距離大量通話聖霊だ。
『全員遺跡跡に集まってくれ! そこで――とてつもなく強力な魔王を召喚しようとしている気配がある!』

 ソルは魔法陣の最後の一線を書き終え、立ち上がった。この魔法陣で自分が立つ場所は陣の中央だ、最後の一線は自分が書かなければならない。
 魔王の強力な魔力を染み透らせ、今代の誓約者の莫大な魔力を受けた魅魔の宝玉の欠片。それを特殊な製法で粉末にし、種々の触媒を使って精製した聖王家――初代の誓約者と繋がる者の血で解いて作り出した染料。
 それを特殊な儀式によって折り取り、呪物――筆とした聖なる大樹の枝で魔法陣を描く。源罪を吸い取り浄化する霊樹の枝は、使いようによっては驚くほど強力な悪魔を召喚するための呪物となるのだ。
 魅魔の宝玉は使用者の意思を受けて魔王すら召喚してしまう術具。欠片であろうとも、使いようによっては強力な呪物となることは、そもそも作成の段階から想定されていたことだった。
 それに初代と今代の誓約者の魔力の源素を移す。これはこれから召喚する魔王の機嫌を少しでもなだめるためだった。王国時代は誓約者に仕えたとされながらも、それからは誰一人にたりとも頭を垂れず荒れ狂う霊界の大悪魔を召喚するのだ、そうでもしなければそもそもが喚び出すことさえできないだろう。
 そして、その魔王の力によってこの遺跡を使うことで、ソルの目的は果たされる。
「……準備はよいな、ソルよ」
 重々しく声をかけてきた重鎮に、ソルはうなずいた。
「いつでも」
「ならば早く始めよう。結界を張ったとはいえ、大悪魔を召喚しようというのだ、魔力の動きをいつまでも悟られずにいられるとは思えん」
「しかし……本当にわざわざこのような場所を整える必要があったのか? ここまでの大悪魔を召喚できるならば、独力であろうとも世界の破壊は」
「それは何度もご説明申し上げたはずです。魔王は決して人間にはかしずかない。それ以上に前回、受肉させた魔王の力は想定以上の――世界を滅ぼすに足る代物でしたが、それでも誓約者によって阻まれたのです。誓約者がいる以上、いかなる大悪魔であろうともリィンバウムを自由にすることはできない。そう結論が出たはずですが」
「ちっ……ならばとっとと呪文を唱えろ、お前が楚の召喚主となるのだからな」
「承知」
 小さくうなずいて、ソルは目を閉じた。自分の中の感覚、生命、そして魔力の流れを感じ取る。
 正直、自分の能力で大悪魔を召喚するのは難しい、とソルは踏んでいた。兄のように莫大な魔力容量があるわけでもなく、上の姉のように強力な魔力を持つわけでもなく、下の姉のように即座にどんな召喚獣とも感応できる精神を持っているわけでもない。
 自分にあるのは、いくぶんかの小手先の技術と、小賢しく立ち回る頭脳だけだ。それは誰よりも自分自身がよくわかっている。
 それでも――それでも、ようやく、ここまで来た。
「――我、ソル・セルボルトは言上する。霊界を燃やし尽くす煉獄の炎にして、万物の命を撃滅せし天をも貫く槍よ、我が命、魂懸けての言霊に、一時耳を預けたまえ」
 ソルが呪文を唱え始めたのに呼応して、それぞれ所定の位置についている二十人近い召喚師たちがいっせいに呪文を唱え始める。
「我、セルボルトの名の下に汝に願う。来たれ。汝の力、汝の炎、汝の槍にて、我らが敵を駆逐せんことを」
「滅せ、滅せ、滅せ、滅せ。我らが敵は不浄なる世界。新たなる世界の創成のため、我が前の世界を討ち滅ぼせ」
 みな一流といっていい召喚師たちだ、それぞれの有する強力な魔力が放出され、立ち昇り――魔法陣という形で作られた魔力装置を動かし、ひとつの巨大な召喚装置として機能する。
 ぱぁっ、と魔法陣が赤に、黒に、翠に、紫に輝く。この地は四界の魔力を円環に乗せて循環させることで高めている場所。四色は円環が、四界が無事廻っている徴だ。
「我、ひたすらに希う。汝の槍を一時我に貸し与えんことを。我が命、我が魂は、すべてそがために使われんことを」
 ――ぬっ。魔法陣の中から、巨大な、熱された鉄の色に輝く槍が突き出てきた。
 これは大悪魔の一部分。武器にして大悪魔の代名詞。憤怒の魔騎士≠フ持つ槍だ。
 予想通りの結果。求めた通りの結果。ゆえに、ソルは予定通りの呪を発した。
「不遜にも、汝を使わんとする者たちは、すべて汝の槍の贄。奔る汝の槍によりて、討ち滅ぼされるべき愚物たち」
 その呪文が聞こえたのは、たまたま距離の近かった二、三人くらいだろう。そいつらが血相を変えて何事か言うより早く、槍は奔った。
 ぞぶっ。不気味な音を立てて、憤怒の魔騎士≠フ槍が血相を変えた召喚師の一人の心臓を貫く。
 と思うや、瞬時にその体は消滅する。ソルによって織り込まれていた呪文に従い、生贄として憤怒の魔騎士≠ノ喰われたのだ。
 ぞぶっ。ぞぶん。ぞぶっぞぶっぞぶっ。見る間に、次々と召喚師たちは貫かれていく。悲鳴を上げる暇もないまま。逃げ出す暇もないままに。
 最後の一人を貫いたのち、槍はすぅっと魔法陣の中に消えた。おびただしい血臭。肉は消滅しても、貫かれ噴き出した時の血は残る。
 体中に召喚師たちの血を浴びて、ふ、とソルはようやく小さく息をついた。
 ここまでは、よし。あとは最後の大勝負、この遺跡の力を引き出して、一体化させ、そして
「やめろ、ソル!」
 叫んだ声は、凛として、なのに優しく柔らかく、同時に力強かった。一瞬で人の心をつかむ、王者の声音。
 それにゆっくりと振り向いて、ソルは無表情で肩をすくめた。
「遅かったな、誓約者。そして、その仲間たち」
 兄と、二人の姉を、守って救ってくれる人々に。

 体中に返り血を浴びながら、ソルは魔法陣の中央で、一人立っていた。ごく平然とした≠ニしか形容できない、以前見たときと同じ無表情で。
 感情の感じられない顔。意思を押し殺した顔。感情も意思も、それらすべてを呑み込んで、当然のことと、自分が心を揺らすことではないと受け止めて、キールの言葉を受けて大急ぎで集合してきた何十人にも及ぶ強者たちと一人で相対し、しゃんと、ソルは立っている。
「ソル……どうやって、ここに。聖霊をいくつも飛ばして、魔力探査網を作っていたのに……」
 半ば呆然と口にするキールに、ソルは無表情のまま肩をすくめる。
「忘れたのか。俺は兄上より魔力の制御はうまいんだ。魔力隠匿の授業では、一度も負けたことがなかっただろう?」
「隠匿用の、妖霊を……?」
「兄上の今使っている術式はサイジェントでだいたいわかってたからな。その穴を衝くのはそう難しくなかった」
「し、しかし! どうやってこの島の探査網に気づかれずに! ラトリクスでも、狭間の領域でも、自警団たちも警戒を強化していたというのに!」
 フレイズが甲高い声を上げるが、ソルはキール――ないしはその隣のハヤトから目を逸らしもせずに答えた。
「ここまでやってくるのには、俺がロレイラルから召喚した潜水艇を使った。これには高度な撹乱装置と光学迷彩が装備されている。それで通常の目視による探査を抜け、ロレイラルの集落の探査網はそれに加えて霊界から存在を隠匿する妖霊を召喚して無効化した。こっちには霊界の召喚師は山ほどいたからな」
「異なる世界の魔力を合わせて我々の捜索を無効にするとは……!」
 フレイズが腹立たしげに唇を噛むが、それからなにか言うより先に、ヤッファがずいっと前に出る。
「……で、坊主。お前はその魔法陣でなにを召喚するつもりなのか、教えてもらおうか。体中に血ぃ浴びて。それとも、もうした≠フか? なんでも魔王級の代物が召喚されそうだ、とかいう話を聞いたんだがな」
「答える義務はないな」
 すっぱりと答えられて、ヤッファはにやり、と笑んでじゃりん、と爪を鳴らす。
「そりゃあそうだ――となりゃあ、こっちとしては腕ずくで聞き出すしかねぇんだがなぁ」
「待ってくれ!」
 悲鳴のような声を上げたのは、キールだ。
「それより先に……頼む。僕に、ソルと話をさせてくれ」
「チッ……おい、どうするよ、レックス」
「ごめん、ヤッファ。頼むよ。それに、少なくとも今は共界線は落ち着いている」
「チッ……」
 舌打ちをしたが、ヤッファは素直に引き下がった。代わりにキールが一歩前に出て、悲痛な声で語りかける。
「ソル……詫びてもしょうがないことだとけれど詫びさせてくれ、すまなかった。本当に、どれだけ詫びてもう許されることじゃないのはわかっている。だけど、頼む、僕に償う機会をくれ。僕はこの先一生をかけて君たちに償いたい。君たちにつけられた傷を全力で癒していきたい。僕が傷つけた人々の分も、君たちが傷つけてきた人たちの分も、そうして償っていきたいと思うんだ……」
「…………」
 半ば涙声になりながら訴えるキールを、ソルは変わらぬ無表情で見つめた。それからすい、と視線を、キール――あるいはハヤトの傍らに立つ、クラレットとカシスに向けた。
 クラレットはあからさまにびくりとした。ソルの視線に明らかに怯えを見せ、震えた唇をのろのろと開くがなにも言えないままのろのろと閉じる。
 カシスははっ、と笑い声を立てた。あはっ、あはははっ、といくぶん常軌を逸した声で、爆発するように言い立てる。
「そうよソル、やりなさい! 父さまの志を継ぐの! 世界を滅ぼすのよ、それが父さまの遺志なんだから!」
「…………」
 ソルは無表情のまますい、と視線をキールに(ハヤトに)戻す。それからふいに小さく顔を歪め、忌々しげに吐き捨てた。
「あなたたちは本当に夢想家だな」
「え」
「ここまできて――ここまで追い詰められ、世界中から憎まれて、まだそんなことが言えるのか」
「ソ……ル?」
 ソルはじ、とキールを――ハヤトを見た。静かなのに、燃えるような気迫を帯びた視線で。
「俺はただ、生き延びたいだけだ。どんなことをしても。自分が傷つこうが、世界がどうなろうがどうでもいい。ただ――自分の命を少しでも永らえさせたいだけだ」
 その言葉の内容と同様に、その視線の熱さに周囲は沈黙した。これだけの強者たちに囲まれた、圧倒的に不利な状況で、こんなことをこれだけの気迫を持って言い切る気概。
「だから力を得るためならなんでもする。自分に都合のいい研究をオルドレイクの遺産と偽証することも、姉上たちをそそのかし手足として使って必要なものを集めさせることも、セルボルトの残党幹部たちを欺いて何十何百という人間を殺すこともだ」
「なん……です……って!?」
「姉上、俺が見つけたあの研究は世界を滅ぼすような代物じゃない。俺が改竄を加えたせいでそう思えたかもしれないがな。あれはただ、俺に、ソル・セルボルトに比類ない力を与えるためだけのものだったのさ」
「そん……な」
 がくり、と腑抜けたように膝をつくカシスを、ハヤトが支える。それを苛烈な気迫を持ちながらも、どこか淡々とした視線で見つめるソルに向かい、カイルやスバルが一歩前に出て拳を打ち鳴らした。
「へぇ……そんなことをこの状況で抜かせるとは、大した面の皮の厚さだぜ」
「だがな、これだけ大勢の奴らを巻き込んで、そんなこと抜かされて、はいそうですかと承知できると思ってんのか?」
「ええ! そのような邪法で力を求めるなど、許されることではありません!」
 しゃりん、と武器を構えたフレイズ――そちらに視線を向けはしなかったが、ソルの淡々とした視線が一瞬、零下の光を帯びた。
「俺を憎むのも罵るのも好きにすればいい――だが批判するなら俺と同じ人生を生きてからにしてくれ。俺はもう身の毛もよだつほどおぞましい化け物に喰らわれては蘇らせられるのを繰り返すのも、盗賊たちにいいようにされ汚泥を啜って命を繋ぐのも、怪しげな召喚師というだけで世界中に石を投げつけられ攻撃されるのも、もううんざりなだけだ」
 ソルの言葉に一瞬空気が凍る。だがハヤトやキールの表情を見ずとも、その言葉が真実なのはわかった。ソルの淡々とした視線が、苛烈な気迫が、彼がどれだけ過酷な生を強いられてきたのかを証明している。
「あんたたちがなにをするのも勝手だが、俺を思い止まらせられるとは思わないことだ。あんたたちがなにをしようと俺は儀式を終える。止められるものなら止めてみろ――俺を殺してな」
 言ってすっ、とソルは杖を構えた。隙のない構え。明確な敵意。それに呼応して何人ものが武器を構える――が、そんな中一人の人間が悲痛な声で叫んだ。
「そんなことを言っちゃ駄目だっ!」
「……は?」
 ソルが一瞬ぽかんとする。それはそうだろう、そう叫んだのはソルとは一面識もない赤毛の教師――レックスだったからだ。
「君がどんなに辛い生を送ってきたかはわからない。想像しかできない、でもそれは本当に辛い生だったと思う。でも、その生を乗り越えて君は今ここにいるんだろう!? なら、そんなに簡単に命を捨てちゃ駄目なんだっ!」
「駄目……って」
「君はまだ生きてるんだ。生きてるならこれからいくらだって変わっていける。君は過酷な生を乗り越えてここまで生きてこれたんだろう? それだけの力があればこれから違う生き方を選ぶことだってできるはずだ、と思うんだ!」
「あんた……なにをいきなり」
「少なくとも――なんのためかはわからないけれど、目的のために死を選ぶようなこと、しちゃいけない! お願いだから、そんなこと、しないでくれ………!」
「お願いって……」
 明らかに困惑した顔になるソルの前に、また面識のない人間が一人進み出る。今度はナップだ。
 ナップは苦笑した顔で、けれどしっかり大地を踏みしめて、すっと前に出て肩をすくめてみせた。
「馬鹿だろ。この人、これ真面目に、本気で言ってるんだぜ」
「な、ナップ、いやそれは俺が馬鹿なのはわかってるけど君に言われると非常に辛いものがっ」
「要するにこの人はめでたしめでたしが好きなんだよ。誰も死なないで誰も苦しまない。悪い奴らは全員改心してそれを許して最後にはみんな幸せに暮らしましたとさ、ってのがさ。現実がそんなに簡単なもんじゃないのもわかってるくせに」
「……呆れた奴だな」
「ああ――けどな。俺はそんな先生が好きなんだ」
 言うや抜き手も見せずにひゅんっ、と大剣を抜いてみせる。びっ、とソルに突きつけ、構えた姿には一分の隙もない。
「そういう先生の体も心も護りたいと思ってるから――ソル、だっけか。お前の願いは叶わねーよ。お前は死なせないし、誰も殺させない。特に俺たちの目の届く場所じゃあな」
「…………」
「君がどういう儀式行おうとしてるのかはよくわかんないけどさ。それって、大悪魔を呼び出す魔法陣だよな?」
 そこにひょい、とマグナが首を突き出してきた。ソルは一瞬眉を寄せたが、無言でうなずく。
「んー、つまりこの血臭からすると、実際に魔王を呼び出したわけか……仲間たちを生贄に。それでその代償に、自分を悪魔とか霊体とか、そういう高位存在に生まれ変わらせる、みたいな感じ?」
「……そんなところだ」
「うん。なら俺も、遠慮なく君を殺さずに止める側に加われるな」
 言ってゆっくりと大剣を抜く。ソルはさらに眉を寄せた。
「意味がわからないんだが」
「いやさ、君の言葉がどういうつもりのものであれ、そんな儀式一か八かのものにしかならないだろ? それでもし失敗したら、たぶん魔王は君の存在を喰ってそれを依り代にこちらの世界に顕現しようとする。それを放っておくわけにはいかないから、さ」
「……なら俺を儀式を始める前に殺した方が得策じゃないのか?」
 言われて、マグナはあっさり肩をすくめてみせる。
「殺さなくちゃならない理由がないのに、なんで君を殺す必要があるんだ?」
「………なにを」
「君を止めれば、君がもう二度とそんなことをやらないように説得できる人材がこっちには揃ってるし。なにより、君は兄姉が好きなんだろ? だったらもともと別にどうしても高位存在なんてものになりたいわけじゃないはずだ、兄姉の心からの『生きてくれ』ってお願いを、そうきっぱり断れる顔してないよ、君は」
「なにを―――」
 ソルはわずかに顔をしかめたまま、こちらを見やる。飛び出してきた何人もの関係のない人間を見やる。
 やれやれ、とライは苦笑して、一歩前に出た。これは自分もなにか言っておかないと収まりがつきそうにないし――なにより、自分なりに言いたいこともあるのだ。この、自己完結型の兄ちゃんには。
「なぁ、あんた。ソル、さ。自分が傷つけられるのが辛いから、別のとんでもない存在に生まれ変わりたいって、そう言ってるんだよな?」
「……ああ」
「ま、そういう風に思うこともあるよな。周囲の世界全部に傷つけられりゃ、周囲の世界全部を傷つけ返すぐらい強くなりてぇって思うのは普通だよな」
「…………」
 ソルがわずかに目を見開いた。同意されるとは思っていなかったのだろうか。
 ライは苦笑する。だが、自分はこいつを否定できるほど世間知らずではないけれど、だからといってこいつの行動全部を肯定できるほどお人よしでもないのだ。
「俺はあんたの人生全部見てきたわけじゃねーし、実際に体験してきたわけでもねーからどんだけ辛かったかとかなんて想像するしかできねぇ。なんのかんので、あんたよかずっと楽に生きてきた奴だからな。でも、あんたが兄貴や姉貴の言葉を聞けないぐらい、ふざけんなって言いたくなるぐらい苦しかったんだってのはわかるよ」
「…………」
「自分が苦しい時、他の奴にどんだけ同情されたって辛いのが楽になるわけじゃねーしな。もうやめたいとかみんな死んじまえとかぶっ殺してやるとか、そーいう風に思う気持ちは、まぁわかんなくもねーよ。あんたほどじゃねーにしろ、俺もそんくらい思う時あったからな」
「だから……なにが言いたいんだ」
 顔をしかめながらのソルの問いに、ライは肩をすくめてあっさり告げた。
「逃げたって無駄だぜ、ってこと」
「――――」
 その言葉はソルの意表をついたようだった。目を見開き、わずかに口まで開けて驚きを示す。
「あんたがどういうつもりで儀式行うのかしんねーけど、あんたがどんな存在になったからって辛いことがなくなるわけでも楽になれるわけでもねーんだよ。どう変わろうが、たかがヒトなんだからさ。ただ、確かなのは、あんたが別の存在になって俺たちとは違う場所に行くんだとしたら、今あんたが持ってるもの――兄ちゃんや姉ちゃんの、頼むから生きて幸せになってくれって気持ちとか、一緒にいられる時間とか、そーいうのがもうなくなっちまうってだけだ」
「…………」
「だから――こんなこと、部外者の俺が言うのもなんだけどな」
 ライは静かに、ソルに頭を下げる。
「頼む。もう、いいにしてくれないか? あんたの辛いとか、許せないとか、ぶっ殺してやるとか、奪われた分を取り返してやるとか」
「…………」
「あんたが変わってそういうもんが全部すっきりするかはわかんねーけど、失っちまうものは、あんたにも、あんたの兄姉にも――あんたを心の底から案じてる奴らにも、あるんだ。俺だって他の奴らだって、ここまできてあんたが一人でここからいなくなっちまうのを見たいなんて思ってる奴一人もいねぇよ。だからってわけじゃねぇけど、頼むから、もうちょっとだけ、あんたのがんじがらめになってる気持ち、いいにしてくれないか? ――頼む」
「なにを……言ってるんだ」
 ソルの応えからは、明らかにさっきほどの力が失われていた。張り詰めた糸のような鋭さが失われ、どこか厭世的な、生に疲れた者のような力のなさがのぞく。
「俺は……別に、許せないとか、そんなことを思ってるわけじゃない。ただ……しなきゃならないことを、当然するべきことをしようとしてる、だけだ」
「兄ちゃんと姉ちゃん泣かせてもか」
「っ……」
 ソルの視線がわずかに揺れる。その視線の先にいる者たち――キール、クラレット、カシスは大きく表情を揺らした。
「私は……っ」
 最初に泣き崩れたのはクラレットだった。ぼろぼろと涙をこぼしながら、魂の底からの叫び声を上げる。
「私は、生きたい! 生きていたいです! どうにかしてここまで生きてきたんじゃないですか、兄妹誰一人欠けることなく、なんとか生きてこれたんじゃないですか! だから、もっと、生きたい! 私はもっと、みんなで、幸せに、生きていたいん、です……!」
「あたしは……わかんない! わかんないよっ!」
 続いてカシスが泣き喚く。いやいやをして膝をつき、だん、だんと叩いた。
「だってずっと、生まれてからずっと、あたしたち、父さまの道具で、それでよかったはずで、でも本当はみんなそうじゃなかったって、そんなの、わかるわけないじゃない! 急にそんなこと言われたってわかんない、わかんないんだから……勝手に、そんなに、簡単に、決めないでよっ……!」
「ソル……僕が君になにか言う資格はないっていうのは、よくわかってる。でも……それでも、これだけは言わせてくれ」
 キールが濡れた瞳で、きっとソルを見つめ、叫ぶように言う。
「僕は、君に生きていてほしい! 僕たちのそばで、一緒に生きていてほしい! 僕も、この七年で、ようやくわかりかけてきたんだ……生きるってことが。だから、どうか、君にも……!」
「ソル」
 最後に、すっと進み出たのはハヤトだった。珍しく静かに、落ち着いた声で、それでもこれ異常ないほどにきっぱりした声で、すっと堂々と手を差し出しながら、言う。
「一緒に、来い」
「――――」
 ソルは一瞬、泣き笑いのような顔をした。嬉しいような、駄々を捏ねる子供のように泣きじゃくりたいような。
 けれどそれから、無理やり感情を押さえつけたような、無表情を装った表情に戻り、癇症な子供のように首を振る。
「遅いんだよ、もう――」
 そして、半歩後ろに後ずさる。魔法陣の中央に。
「――もう遅い」
 ―――そう言った次の瞬間、ソルの胸は背後から突き出された巨大な槍に貫かれた。
『!』
 一瞬全員が硬直する――だがそれからの反応は早かった。それぞれ一気に飛び出し、ソルを取り囲む。
「アメル!」
「はいっ!」
 アメルが癒しの奇跡を使って傷を癒そうとする――だが、なぜかその甲斐はなかった。ソルの心臓から漏れ出た血は、どくどくと体の外に溢れ、地面を濡らしていく。
「馬鹿な……あれは憤怒の魔騎士≠フ槍!? あんなものを遅発召喚だなんて、いったい、どうやって……!」
「言っただろ……? 兄上。魔力隠匿の授業は、いつも、俺の、勝ちだったろ、って……」
 がっくりとその場にくずおれ、ハヤトの腕の中に支えられながらもソルは笑う。貫かれた心臓から飛び出た血は、地面にかかり、魔法陣にもかかり――かぁっと、眩しいほどに輝かせる。
「先生! 遺跡が……!」
 うるぉぉぉぉおぉぉん、とばかりに遺跡が鳴いた。レックスたちは血相を変えて遺跡に向き直るが、ソルが止めた。
「心配は……いらない。憤怒の魔騎士≠フ力で、一瞬、遺跡の最深部と、俺を繋げた、だけだから。憤怒の魔騎士≠フなにより優れた能力は、いかなる結界・封印の類であろうとも存在を無視して貫く力……だから、結界も、封印も、無事、さ……」
「遺跡と、あなたを繋げる……? あなたはいったい、なにをしたのです!」
「だから、儀式、さ。至源の魔力を受けた強大な力持つ召喚具、エルゴの王の血脈、源罪をたっぷり吸収した円環の樹、そして四界の魔力を響かせる魔力現出機構……これらの補助により、俺は四界の、リィンバウムのエルゴと擬似的に繋がることができる。竜に、至るための、道ができる……」
「……竜、だって?」
 ライは思わず呻くような声を上げた。竜に至る。それはかつて自分たちが見た儀式。そして、その時、それを行った者は――
「……でも、それは、あくまで道を作っただけ。助けでしかない。竜に至るのは、人の身では簡単なことじゃない。磨かれていない魂では、心では、竜に至ることは」
「そう。できない、のさ」
 静かに言っていたコーラルが、大きく目を見開く。
「あなたは……まさか」
 ソルがく、と笑った。口元からだらだらと血を漏らしながら。
「派閥幹部たちの、強い召喚師たちの命と魂を生贄にして、憤怒の魔騎士≠ニ誓約が結ばれた。俺の命と魂は、その竜へ向かう儀式のために使われる。四界と繋がり、エルゴと繋がり、大悪魔の力によって後押しされた竜。俺という存在を核として、世界を、エルゴすら呪い、食い殺す堕竜は――世界を無に帰す、始祖と父上の理想の存在は生まれるのさ……は、反吐が出る」
「堕竜……だって……?」
「ソル! 君は……君は、なぜ、そんなことを……!」
 ハヤトの腕の中で、もはや呼吸も弱々しくなりながらも、ソルは泣き叫ぶキールの顔を見て、微笑んだ。
「言っただろう、生き延びたかった、って……俺には、生き延びる方法が、これだけしかなかった……だけだ」
 ぎゅぉぉおおぉぉぉおぉぉんっ!
 ソルの体は、ハヤトの腕の中から瞬時に天へと昇った。上空はるか彼方で、自分にもわかるほどに、強烈な魔力が迸り、そして同時に悲鳴のような音が立って、ずぬ、ずぬ、ずぬおぉぉおぉぉぉっ!!! とソルの体は爆発的に広がった。
 はるか上空で、四界の色に輝く、けれどひどく禍々しい形の翼を広げて吠えるその姿は――
「……堕竜」
 ギャオオオォォルォォオグオオォラォォオォォンッ!!!
 かつてソルだった堕竜は、空間そのものを軋らせるような声音でそう吠えた。ミスミがはっとして叫ぶ。
「いかん! あれは呪殺の声じゃ! 魂に直接働きかけて、生きる力を奪う声! あの声は四界に響く、あのまま好き放題に吠えさせていては、どれだけの者が殺されるかわからんぞ!」
「まさか……ディエルゴの共界線に干渉する力を、あの竜は咆哮で扱えるのか!」
「くっ――!」
 ハヤトが剣を掲げた、と同時に爆発的な速さと広さで万色の輝きが広がった。結界だ、とライにもわかる。ソルだった堕竜の咆哮を封じ、被害が出ないようにここら一帯に結界を張ったのだ。
 ぼ、ぼ、ぼぼぼぼっ。
 堕竜の周囲に、何十、何百もの黒い影が生まれた。そしてそれは宙を舞い、こちらへと近づいてくる。
「なんだ、あれは……魔獣? そして、黒い……霊と源罪だったものが、入り混じった戦士……!?」
「堕竜の力だ……自らに属するものを、無限に召喚する能力……」
 全員どこか呆然とその光景を見守る中、ハヤトが小さく呟いた。
「間に合わなかったのか?」
 ライはばっとそちらの方を振り向いた。どこか呆然としたような顔で、上空を見上げながら言う言葉。
「俺は――俺たちは、間に合わなかったのか?」
 ハヤトには似つかわしくない、絶望に似た言葉。諦めに似た言葉。それにライは怒鳴りかけ、気付いた。
 今、ハヤトは自分に問いかけている。
 今まで自分のしてきたこと、自分の力、自分の想い、それに『今、自分は絶望してしまえるのか』と問いかけている。
 だが、ライは、にやっと笑った。自分に問いかけた言葉に答えられるのは自分だけ――けれども、自分たちはこうして同じ場所にいるのだ。一緒にいるのだ。だったら、相手に自分なりの言葉をぶつけるのも当然のことだ!
「冗談じゃねぇ」
 きっぱり言った言葉に、何人かがこちらの方を向く。
「こんな結末認めてたまるかよ。なんだか知らねぇが勝手に思い込んで勝手に堕竜になって、辺りに迷惑かけまくって――そんでそのくせ少しも満足した顔しねぇで、不幸で不幸でしょうがねぇって顔してた奴、このままあっさりどうにもならないまんまにしてたまるかよ!」
 叫ぶ。そう、ギアンの時と同じだ――納得いかない、こんな結末には納得できない。ずっと辛いまま生きてきて、それでも兄姉には隠してるくせに本気で大切そうな目向けるような奴、このまま死なせてたまるか!
「認めないったって……あいつ、俺らの目の前であんなもんに変わりやがったんだぞ! もう、いったいどうやって」
「そんなもん、あいつ動けなくなるまで殴ってから、みんなで顔つき合わせて考えりゃいいだろ!」
『……は……?』
 きっぱり言った言葉に何人かが絶句した――が、何人かは逆に噴き出した。
「さすがは御主人。明快至極、その上迷いがない」
「あいつがどんなこと考えてあんなことしてるかとかはわかんねーけどな、暴れる奴は一発かまして、落ち着かせてから話するしかねーだろ! あいつと話して、それからこれからどーするか考える! そんだけだ!」
「ど、どうするとは……竜と成ったものを元に戻す方法があるとでもいうのですか?」
「あいつ≠元に戻せる方法があるのかどうかはわからねぇ。保障なんてどこにもねーし、やってみなけりゃわからねぇ。けどな、今あいつを助けてやんなきゃ、あいつが消えちまうのは確かなんだぞっ!」
『…………』
 そう――それが堕竜の末路。竜に至れず、転生の輪から外れた魂は、力尽きるまで荒れ狂い、最後には消えてしまう。そんなのは、ライはきっぱりごめんだ。
 だから。
「……そうだね」
 レックスが微笑んで、するり、と剣を抜いた。そうして構えると、レックスがどれだけ修練を積んだ戦士なのかがわかる。
「……いいのか? 先生。無駄な被害とか、出るかもしれないぜ?」
「『信じなければどんな願いもかないっこない』……俺がそう言ったんだって、君も言ってただろう、ナップ。それに……みんなの力を合わせれば、やってできないことはないって思ってるんだ、俺」
 その言葉に、島の面々は苦笑したようだった。ああ、またいつものが出たか、とでも言いたげな、呆れたような――けれど強烈な意思を持った、力強い苦笑。
「まぁ、最初から頼ってくれるようになっただけ進歩よね」
「今回はたまたまわらわたちが一緒にいたせいなのじゃろうがな」
「ヘッ、ひっさしぶりに……いっちょ、暴れてやっか!」
「待ってくれ……! 君たちの気持ちはわからないでもないが、彼は実際に堕竜と化してしまっているんだぞ!? そんな風に気炎を上げたところで、救えるはずが」
「不可能、じゃない」
「……なに?」
「あの人を助けるの、不可能じゃない」
 苛立たしげに口を開いたネスティに、コーラルは静かにそう答えた。
「方法は、ある。あの人の魂の周りの魔力を吹き飛ばしてから、よけいな魂殻から魂を切り抜けば、いい」
「ま、まさか……転生の輪を経由せずに生まれ変わりを経験させるというのですか……!? そんなことが、まさかできるわけが」
「前例も、ある。やろうと思えば、不可能なことじゃ、ない」
「けど……今回はあの親父の魔剣がねーぞ? それでも大丈夫なのか?」
「代わりとなるものは、ある」
「え?」
「それ」
 言ってコーラルが指差したのは、ライが腰に下げた一丁の銃だった。
「……プラズマブラスト……?」
「それは光を撃つ銃。短時間ならば剣の形をとることもできる。ボクたちの力をそれに加えれば、水鏡の魔剣と同じように魂殻を切り離すのも、不可能じゃない」
「そうか……!」
「……けど、機会は、一度だけ。それまでに、相手を無力化するほどの打撃を、殺さないようにしながら加えなくちゃならない」
「……なら、俺たちの出番だな」
 にかっ、と笑って前に進み出てきたのは、マグナとアメルだった。
「俺たちの力を合わせて、彼を殺さないように不殺の結界を張るよ。ついでにあっちの動きを封じて、彼のとこまで走っていけるだけの道も作る!」
「そんなことできるのか!?」
「へへ、前に見ただろ、俺たちの使った同調召喚。あのもうひとつの成功例を見せてやるよ」
 にっ、と笑うマグナの顔は誇らしげだ。そこにネスティがやれやれと言いたげな顔で口を挟む。
「成功例とは少々厚かましいんじゃないか? 実際に成功したのは一度だけだったろう?」
「う……それは、そーなんだけどさ……」
「こういう時なんですもの、もちろんネスティが援護に回ってくれると思ってますから。魔力の微調整、任せてもいいですよね?」
 にっこり笑顔で言うアメルにネスティの顔は渋くなったが、マグナが「ネスぅ……」と不安げな声を出すと、渋い顔のままは、とため息をついた。
「やれやれ……仕方ないな。実際、僕がいなければ確実に成功させるのは不可能だろうしな」
「やった! ネス、頼りにしてるぜ!」
「万一調整に失敗してやり過ぎても、私が治しますから安心してくださいね?」
「その心配はいらない。君も治しすぎて無駄に元気にさせないよう気をつけることだな」
「……ふふっ」
「……はは」
「やれやれ、ッたくいつもながらしょーもねェ奴らだぜ。……で、俺には一体なにさせる気だ、マグナ?」
 肩をすくめて槍を肩で揺らすバルレルに、マグナはにやっと笑う。
「さっすが俺の護衛獣、俺のことよくわかってるなっ」
「はァ!? なに言ってんだ、バカ野郎。俺はただなァッ」
「バルレルは、あの竜をこっちに追い込んでくれ。いっくら同調召喚ったって今じゃ距離が離れすぎだ。できるだけ地面に近づけてくれるともっとありがたいかな。そこまでの機動力と制圧力持ってるの、たぶんバルレルしかいないだろ?」
「ケッ、面倒なこと押しつけやがって」
「うん、面倒なのはわかってるけどさ。頼むよ、バルレル」
 にっと笑って言うマグナに、バルレルはフンと鼻を鳴らした。
「しょーがねェな……召喚主のお願い≠セ、退屈しのぎにやってやらァッ!」
「よし……それじゃあ、俺たちの役目は、彼の魔力を吹き飛ばすこと、かな?」
「へっ、だな!」
 レックスとナップがすい、と前に出て剣を構える。その動きだけで、この二人がどれだけ互いに背を預けて戦ってきたのかが自然とわかった。堕竜を見据えながら、島の仲間たちにもてきぱきと言う。
「みんなはそこまでの道を切り開いてくれ。あれだけの魔獣たちの群れだ、よそに追い払うわけにもいかないしね」
「俺らに雑魚掃除を任せるつもりかよ?」
「ごめん、カイル……でも、みんなの力なら間違いなくできると思うから。みんなの力をひとつにしたいって、そう思うから……」
「わかってるっての、しゃーねぇなぁ。手伝わせてもらうとすっか!」
「さぁて……それでは自分たちの役割は、突撃する御主人たちの露払い役、ですかね?」
 しゃりん、と音を立てて刀を抜いたシンゲンの横で、リシェルがにっと笑って杖を構える。
「ひっさびさに、暴れるわよー!」
「お前この前もその前もしっかり暴れてたじゃねーか」
「うるっさい! ここまでの大舞台じゃなかったでしょっ、だからいいのっ!」
「ライ……君が彼を救おうとするなら、僕はいくらでも力を貸すよ」
 珍しく真摯な面持ちでそう言ってきたギアンに、ライはにっと笑ってぽんぽんと頭を叩いてやった。
「おう、ありがとな。頼りにしてるぜ、ギアン」
「ら……ラララライッ、ああもちろんだとももちろん任せてくれ任せまくってくれたまえっ!」
 最後に、全員の気持ちをまとめるように、ハヤトがす、と剣を掲げて言う。
「キール、クラレット、カシス――いくぞ、君たちの弟を救いに」
「……ああ」
「ええ――私にできることであれば、なんでもします」
「当たり前よっ、あたしたちは、そんじょそこらの召喚師じゃないんだからっ」
 まだ目を赤くしながらも、決意を込めて立ち上がるキールたち。それに向けて微笑みながら、ハヤトが小さく呟くのが聞こえた。
「ガゼル……背中は任せた」
「……へっ、任されてやらぁっ!」

「深淵の霊王よ、その力をここに! 深き彼方より伸びし腕にて、世界を隔絶させたまえ!」
「我らが世界は我が目の中に! そこより先は別けられし場所……!」
 ハヤトを中心にして、キールたちが懸命に呪文を唱える。堕竜を含めてこの地に結界を張ることで、魔獣や呪殺の咆哮を外に漏らさないようにしているのだ。
「だらららららぁっ、どらぁっ!」
「ほらほらほらほら、邪魔だよっ!」
 カイルがその豪腕で次々に近寄る魔獣たちを殴り倒し、ソノラがその後方から的確に銃で打撃を与える。
「せぃっ、はぁっ、ふっ!」
「……ふっ」
「かたじけ……なっ!?」
「……今は前を見て戦うことが肝要ですよ」
「は、はっ!」
 刀を振るうキュウマの後ろからシオンが手裏剣を投げて襲いかかってこようとした魔獣を倒し、なぜかキュウマに驚かれている。
「どらぁっ、ふんっ、りゃぁっ」
「ウゥゥウッ、ガルゥッ!」
「こんの、魔獣どもめ、鬱陶、しいのよっ!」
「え、エルカさん、危ないですのぉっ!」
 ヤッファが槍を突き出す合間から、ユエルが素早く動き回って敵を仕留め、エルカやモナティがその後方から攻撃していく。
 現在自分たちは、子供たちを中心に円陣を組んで魔獣や戦士たちの猛攻勢を耐えしのいでいる。最終的には至竜の力が必要になるのだから、と三人を合体させるのを優先したのだ。
 だが、子供たちを護らねばならないということは後退ができないということ。戦闘において攻勢をしのぐには、後退しつつ敵戦力を削ぐのが一番やりやすい。つまりそれだけこちらは消耗が激しくなる――その上、現在堕竜はいまだはるか上空で吠えている――これでは攻撃のしようがない。
「くそ……まだか、まだなのか、バルレル!」
『ちったぁ、黙って、ろォッ!』
 呻くような声と共に、堕竜の上から何本もの黒く輝く巨大な槍状の光が降り注ぐ。バルレルの力だ、とわかった。バルレルの普段の姿が消耗を抑えるための擬態で、本来の姿は見上げるような大男だというのは今回初めて知ったことだ。
『だららららッ、だァッ!』
 中空を縦横無尽に飛び回りながら次々に巨大な黒い槍を放つバルレルに、さすがに堕竜も自然と追い込まれてきたようだった。虹色に光り輝く息吹を吐いて反撃しつつも、少しずつこちらに寄ってくる。
「よし……! 捉えた!」
 目を輝かせてそう叫ぶや、マグナは即座に詠唱に入った。同様に、ネスとアメルもその横で呪文を唱え始める。
「我が言の葉は大地と繋がりて、聖樹の力を巡らせん。天地世界に呼びかけて、呪を力とす道を作らん」
「霊界の、癒しの大天使にして光の賢者エルエルよ。あなたの力をここに……私の声を、願いをどうか聞いて、ここに力を現して……」
「霊界のもっとも深き淵に住まう殲滅者アシュタルよ。その力をここに示したまえ――汝が力は黒き輝き、汝が力は蒼き炎、汝が力は冷たき烈風! 深き光を、白き烈光を、我らが敵を捕える枷としたまえ……!」
 それぞれの呪文が進むごとに、ず、ずずっと目の前の空間から天使と、バルレルの本来の姿に似た大男が姿を現していく。そして大男はにやり、とマグナと笑みを交し合い、天使はアメルにうなずいて、それぞれの手の中から種々様々な色に輝く光を解き放った。
『ディープオーロラ!!』
 マグナとアメルが叫んだ、と思うや自分たちの前の空気がきゅかきききぃん! と凍っていく。人間が十人は通れるだろう巨大な氷の道が一瞬で、堕竜のところまで通じてしまったのだ。
「すげぇ……」
 思わず呟いたのはライ一人ではなかっただろう。この一撃で堕竜を捕え、動けなくしてしまったのだからそのくらいは言いたくなる。
 だが、宙を飛んでいた魔獣たちは、次々とその道に下り、壁のようになってこちらまで迫ってくる。
「空と道、両方から攻めてこっちの防壁をぶち破る気か……!」
「ふふ……でも、こういう状況は想定範囲内だわ」
 にこり、とアルディラが笑い、杖を掲げた。リシェルの悠冥の錫杖に似たどこかおどろおどろしいその杖はアルディラの雰囲気には合っていなかったが、アルディラが掲げるのに従い機械のように回転し、白い光を放ち始める。
「さて、いくわよクノン。サポートよろしく!」
「お任せください、アルディラさま」
 答えてクノンはアルディラの前に立ち、両手を構えた。両腕に強力な槍を仕込んでいるクノンの防衛態勢だ――つまり、アルディラが呪文を唱えられるだけの時間を稼ぐ構えだろう。
 アルディラは目を閉じ、軽やかに呪文を唱える。まるでクノンがいるのだから自分のところまで敵がやってくることはありえない、とでも言いたげに。
「スクリプト・オン! 魔力回路最大回転、全エネルギーをもって最大範囲に最大魔力放射!」
 ぎゅるるるぉぉぉ、と杖がますます回転と輝きを増す。はるか中空にぎゅぎぎぎぎ、という音と共に門が開き、巨大な、それでありながらどこか優美な赤い鳥のような機体がこの世界に現出する。
「放ちなさい、ヴァルハラ! 破滅の引き金を引いて、私たちの敵を消滅させなさいっ!」
 ずばぁぁぉぉぁぉぁんっ、という音と共にその機体が巨大な光線を放つ。その強烈無比な一撃は、目の前の魔獣たちを、上空にいるのも道を歩いてくるのも一緒に壊滅させていた。
「やるのう、アルディラ。さぁて……では、我らも参るとするか。久方ぶりにやるかの、スバル、キュウマ?」
 すい、と進み出たのはミスミだった。それに応えてスバルが斧を振り上げ、キュウマが刀を構える。
「おうよ、母上っ!」
「御意!」
「では――いざ。鬼妖界にいまします、偉大なる水龍神、オボロさま……」
 呪文を唱えながら、それこそ流れる水のような、舞うような動きでミスミは前に進む。その左右を固めるのはスバルとキュウマだ、どちらもわずかにミスミより前に立ち、武器を構えている。
「我ら、ここに祈りの文言を奉りて、なれを勧請す!」
 言いながらばっ、と掲げたのは青白く美しく輝く薙刀だ。それにスバルとキュウマが呼応して武器を掲げ、それぞれ「こおぉぉぉっ」と息を吐いて魔力をミスミの薙刀へと集める。
「我らが声に応え、いざここにいまし、力を示しませっ! 秘奥儀、天羅万象っ!」
 今度訪れたのは嵐だった。はるか天空にずおん、と門が開き、巨大な龍神がずおおおお、とこちらに出てきたかと思えば、その龍神が手に持った球を掲げるや、ごおおおぉぉぉんっ、とばかりに強烈な嵐が吹き荒れる。
 それもただの嵐ではない、魔力を持って敵を滅そうとする嵐だ。雨や風や雷が、強烈な破壊力と意思をもって寄ってきた魔獣たちを押し潰していく。
「それでは……こちらも、参ります」
 次に進み出たのはヤードだった。ごく静かに、仲間に護られることはできても敵には気づかれない絶妙な間合いで現れ、呪文を唱える。
「我、ヤード・グレナーゼが、自らが結びし誓約に従い御力を請う……」
 ぎゅおん、と門から這い出るようにして現れたのは、巨大な鎧だ。一種禍々しさすら感じるのに荘厳な雰囲気をもまとうそれは、現出するやぎゅおおおおっ、と腕を伸ばして自分たちの前の空間を歪めていく。
「無色の反逆者の名において、霊界の深き澱みより出でて、その無限なる断罪の力をここに示したまえっ! 出でよ、聖鎧竜スヴェルグ!」
 門から完全に抜け出るや、その鎧はずおんっ! という音を立て目の前の魔獣たちを手の中に押し潰す。本来ならいかに巨大な鎧とはいえ手の中に入るような数ではないはずなのに、当然のように手の中に収めてしまっているのだ、本当に空間そのものを歪めているのだ、と自然に知れた。
 ぶちゅん、という音と共に、こちらに押し寄せてきていた敵たちは上空にいる者も道を通ってきた者も全員押し潰された。
「マルルゥもいくですよぅ〜っ」
 にこにこ笑顔でマルルゥが宙を舞う。その軽やかな動きで一気に前に出て、その手には大きすぎるのではないかというような杖を振り回した。
「オウサマさーん、オウサマさーん。幻獣界の奥深くにいる、すっごく強くて、偉くて、カッコいい牙のオウサマさーん」
 マルルゥの呪文とは言えなさそうな呼びかけに、しかし懐のサモナイト石は確かに反応した。ぱぁ、と輝きがもれると同時に門が開き、巨大な狼とも獅子ともつかない獣が現出する。
「マルルゥお願いするのです、魔獣さんたちを倒してマルルゥたちを助けるために、月の下へ出てきて、思いっきり吠えてくださいなのですよう〜っ!」
 だだんだん、と巨大な獣は軽やかに宙に舞った。そして中空でそこに足場があるかのように留まり、ウゥゥルルゥゥオオォォオォォォッ、と周囲の空気がびりびりと震えるような咆哮を放つ。
 その咆哮は音だけでなく光も同時に発した。獣の頭上に月が現れた、かと思うとその月がかぁっと光り、周囲の敵たちを次々薙ぎ払っていく。
 ――四回の超弩級召喚術の詠唱。それにより、見渡す限りの魔獣や戦士たちはすべて消滅させられていた。
「……すっげぇな。召喚術ってのがそーいうもんだってのはわかってたつもりだけど、あいつら以外にもこんなことができる奴らがいんのか……」
「あったりまえでしょ、世界は広いのよ? あたしたちだってこのくらいできるっての!」
 少し呆然としたように言うガゼルに、リシェルはぽんぽんと言葉をぶつける――と同時に、ウロオォォォゴォォオォンッ、とでも言うべき咆哮が背中で聞こえる。
 にやりと笑う。振り返らないでもわかる、この気配、間違いない。
「リューム、ミルリーフ、コーラル!」
『おうっ』
『パパ、みんな、早く乗って!』
『あの人のところまで、すぐにたどり着く』
 一体の巨大な至竜となった子供たちの背中に素早く乗り込む。全員が乗るのを待って、子供たちは大きく吠えて翼をはためかせた。
「うわぁ……すげぇな。まさか竜の背中に乗るようなことがあるとは思ってなかったぜ」
「ま、これからもそうはねーだろーけどな。それより――おかわりのお出ましだぜ!」
 ライはガゼルに答えながら銃を構える。氷の道に繋ぎ止められた堕竜が吠え、新たな魔獣や戦士たちを生み出したのだ。
「リューム、ミルリーフ、コーラル、下りろ! こっからは地上から雑魚をぶっ飛ばしつつ進む!」
『え……でも』
「空中戦はこっちが不利だ。もうあと少しで着くんだから、お前らは上空から援護してくれ! 最後の分の力は残しとけよ!」
『……うん、わかった!』
 ぎゅおおっ、と一気に氷の道の上に下り、自分たちは道を進み始めた。次から次へと襲いくる敵たちを、それぞれの力を全力で振るい、連携しつつ撃破していく。
「遅ぇんだ、よっ!」
「攻撃回路、出力全開!」
 ガゼルが次々手裏剣を飛ばし、レオルドが次々銃を乱射する。近づいた敵はドリルで突き、短剣で素早く斬り裂く。
「ちょっと甘いんじゃ、ないかしら!?」
「あちこち隙が、ありすぎですよっ!」
 スカーレルが流れるような動きで敵を斬り裂き、それを後方からパッフェルが銃で、あるいは短剣で止めを刺す。
「はあぁぁ……ああぁぁっ!」
「はっ、ふっ、とぉっ!」
 欠けていたはずのレシィの角が輝き、次々と魔獣や戦士たちを麻痺させるのを、セクターがドリルや短剣で倒していく。
「ふぅぅ……ええぇいっ!」
「せっ、ほっ、りゃぁっ!」
 ハサハが雷を落とした敵に、素早くシンゲンが一刀を振るい、次々首を落としていく。
「あたっく! エェーイッ!」
「コオォォ……フォッ!」
 グランバルドが連射で敵を落とす前で、ファルゼンが壁となり次々敵を斬り裂く。
「我が友、哀れなる凶魔獣レミエスよ。クラストフの名においてではなく、我らが友誼の名の下に、狭間に立つ者の一人、ギアンがここに望む。その最大なる力をもって星を落とせ。星をも落とす呪いの咆哮で、堕竜の咆哮を打ち消せ!」
「数多の顔を持つ者よ、猛りし機界の新星よ、ブロンクスの名の下にリシェルがあなたの名を呼ぶわ! すべてを消滅させる光を、あたしたちの敵に放って! プロンプト・オンっ! ぶっ飛ばしなさい、ゼルギュノスっ!」
 ギアンが、リシェルが、呪文を詠唱し、敵たちをまとめて消し飛ばす――
 もはや魔獣や戦士がいくら増えようとも、自分たちの勢いを止めることはできなかった。見る間に自分たちは、堕竜の前へと近づいていく。
 ゴォォオオォォンッ!! と堕竜が吠える。来るか、と思ったが、一瞬先にハヤトたちが前に出た。
「俺の中に眠る力よ……!」
「霊界のエルゴよ、深き眠りより一時目覚め、我らが誓約者に力を……!」
 ブォゴゥッ、という破裂音と共に放たれた輝く堕竜の息吹――それがすべて、堕竜へと跳ね返った。いや、違う、打ち返されたのだ。ハヤトの掲げた、万色に輝く剣によって。
 自らの攻撃を自らで受け、堕竜が大きく呻く。そこに続いて、マグナがすっと進み出てどこに隠し持っていたのか虹色に輝く杖を振り上げた。
「バルレル! 合わせろ!」
『ケッ! 勝手なこと、言いやがってッ……!』
「超律者、クレスメントの名の下にマグナが希う! 我が盟友、殲滅者アシュタルよ、我が護衛獣、狂嵐の魔公子バルレルと今ひとたび力を合わせたまえ!」
『ケッ、またあいつかよ……あいつとは相性が悪いって、言ってんだろーがッ……!』
『オオオォォオオォオッ!!』
 ジュヴォゴゴゴガジュボッ!! と空気が悲鳴を上げる。闇色の槍が何十本も堕竜に降り注ぐと同時に、さっきと同様に現れた大男が蒼い炎を吹き荒れさせ、堕竜の周囲の空間を沸騰させたのだ。
 堕竜が苦しげに呻いて、首をもたげ、再び息吹を放とうとする――その前に立ったのは、レックスとナップだった。二人とも大剣をひたりと構え、静かに堕竜を見据える。
「さぁ――行くよ、ナップ」
「ああ、先生」
「我が手に来たれ――果てしなき蒼、ウィスタリアスよ!」
「我が剣に宿れ、不滅の炎、フォイアルディアよ……!」
 思わず目を瞠る。ヴォン! という音と共に、レックスとナップが輝き始めた。レックスは蒼に、ナップは赤に。それと同時に髪が伸び、色が白く変わり、それぞれの大剣が蒼と赤の光り輝く剣に変わっていく――
「行くぜ、先生……!」
「ああ!」
「出てこい、アール……! 俺の相棒! その最大最強の力をもって!」
「俺の心はナップの心、ナップの腕は俺の腕、二人の剣は一振りの剣……! 二人の力は今ここではひとつ、果てしなき蒼と不滅の炎で、一閃の輝きとなって敵を討ってくれ!」
 二人が剣を打ち合わせる――や、ぎゅおん、と上空の空間が歪んだ。これまで見た中でも、最大級の空間の歪み。だが、その中からひょん、と出てきたのは、ナップの周りで何度か見た、肩に乗る程度の大きさの召喚獣だった。
 え、と一瞬思う――が、すぐに目を瞠る。その召喚獣は、さらに巨大な召喚獣の一部だったのだ。これまで見た中でも最大級に巨大な召喚獣(見たところ鈍色に輝く巨大な翼を持った鉄の巨人に見えた)、それが中央にどんと据えられた巨大な大砲を堕竜に向ける。
「いっけぇーっ! ギガントシュートっ!!」
 ドッゴゴッゴォオォォォォォォオオォォ!!! と周囲の空気を吹き飛ばしながら、巨大な光線が堕竜に突き刺さった。ウゴオオォォン!!! と堕竜が絶叫する。離れた場所にいる自分たちすらも吹き飛ばしかねないほどの、その絶大な魔力と破壊力。
 吹き飛ばされないよう必死に地面を踏んで耐える。だがその圧倒的な光の奔流は数瞬で終わった。あとに残されたのは、震える頭を必死に持ち上げ、息吹を放とうとする堕竜だけ――
『お父さん、今!』
「おうっ!」
 言われるより前にライは飛び出していた。走りながらプラズマブラストの形態をソードモードに変え、素早く呼吸を整え、堕竜を見据える。
 見える。余計な魔力を吹き飛ばされた今なら。力なくうなだれるソルが、その周りの枷が。
 別に自分は、ソルとなにか関係があるってわけじゃない。だからソルをちゃんと救い上げてやることができるわけじゃない。
 けどだからって、放っておいていい法はない。関係なくても、ただの通りすがりでも、手を差し伸べられることがなによりの救いになる時があることをライは知っている。
 なにより、ライは、目の前で人が勝手に不幸な結末を選択するなんて、少しも納得できない、だから!
「お前のしょうもねぇしがらみ、全部ぶった切ってやらぁ……!」
『パパ!』
『お父さん!』
『いっけぇーっ、親父っ!』
「召竜――連撃ぃっ!」
 ずばっしゃぉぉずどっしゃぁぁ!!!

 ソルは、のろのろと目を開けた。
 見えるのは、茅葺きの天井と白い布きれ。布きれの見える角度と、濡れているところからすると、自分を気遣って頭の上に乗せられたものなのだとわかる。
 なぜ自分はこんなところにいるのだろう、とぼんやり考える。自分は憤怒の魔騎士≠召喚し、その力を借りて堕竜と化したはず。こんな風にこんなところで寝ていられるはずがないのに。
 夢なのだろうか、これは。すべてを呪い尽くし、役目を終えて消えた自分の身勝手な幻想――
「ソルっ、目が覚めたのねっ!?」
 などという物思いから姉のキンキン声で、ソルは全力で現実に引き戻された。
 はっ、としてばっと上体を起こす。体には重い倦怠感がのしかかっていたが、痛みや苦しみの類はまるで感じない。
 周囲を見る。そこには兄と二人の姉、のみならず誓約者に蒼の派閥の召喚師、二人の抜剣者に、なぜか白銀の髪の少年がこちらを気遣わしげに見つめていた。
「……ここは」
「俺たちの家だよ。お前、魂殻を切り抜かれたあとばったり倒れちまったんで、どっか休ませる場所が必要だろうってことになってさ。だったら俺たちの家が一番適当だろ?」
 若い方の抜剣者が少しおどけた顔で言う。それを呆然と聞きながら、思わず呟いた。
「俺は……堕竜になったはず、なのに」
「だから、そのまとってる魔力吹っ飛ばして、魂殻からお前の魂切り抜いたんだよ。転生の輪を経由させない生まれ変わりってやつ。そっからアメルさんとかいろんな人が魔力与えて介抱したわけ。あとでお礼言っとけよな。……ま、一番頑張ったのはあんたの兄さん姉さんとハヤトだけどさ。……なんか飲むか?」
 肩をすくめて言う白銀の少年に、ソルは半ば無意識に首を振る。
「なんで……なんで、俺を」
「君が呪ったのは、無色の派閥の人たちだったんだね」
 口を開いたのは、赤毛の方の抜剣者だった。優しげな表情でこちらを見つめ、柔らかい声で言ってくる。
「君はお兄さんや、お姉さんを救いたかった。無色の派閥の手の届かないところに――ハヤトくんのところに預けたかった。でもセルボルト家の残党がいる限りそうさせてくれるわけがない。もしかしたらなにか呪詛の類でもかけられてたのかな。そのために、兄姉を助けるために、君は堕竜になることを選んだんだ」
「なに、を……俺は、ただ」
「これでも一応共界線を操れる者だからね。調べようと思えばそれくらい調べられるんだよ」
「………!」
「君は、以前俺と戦った子に似てるよ。その子もいつも自分を申し訳ながって、みんなのことばかり考えてしまう、優しい子だった」
「なに、を」
「兄姉たちのために、自分が生きていてはいけないって……自分が手を汚して無色の人間を倒し、自分が俺たちに倒されれば兄姉たちを守れるって、そう考えてしまったんだろう、君は?」
「違う、俺は……」
 そんなんじゃない、そんなお人好しな理由でことを起こしたんじゃない。ただ、無色の派閥の連中を殺したかっただけだ。そうすればもうこれ以上、実験にも魂を鍛えるという名目で過酷な状況にも放り込まれずにすむから。姉や、兄を自分と同じ状況に引きずり込むのはごめんだったから、自分の力だけで生き延びるために必要だと、そう、思って。
 ふいに涙が湧きおこってきたことに、愕然として目を押さえる。馬鹿な、なんで、涙なんてとうに枯れ果てたはずなのに。
 なんでこんな、優しい声で、見当違いなことを言われただけで、こんな。自分はそんなに、優しくされることに、理解されることに飢えていたとでもいうのか。
「あーほらほら、無駄なことすんなって。そんなに簡単に自分の人生、たったひとつの気持ちやら考えやらで収まるわけないだろ」
 なぜかぽんぽん、と自分の頭を叩きながら、白銀の少年がすっと盆を差し出す。そこにはスープが乗っていた。ほかほかと湯気を立てる、病人用に細く切った堅いパンを入れた、うまそうな匂いを立てるスープ。
「生きてんだからさ。腹は減るし眠くなるしたまにはだらけたくなったりもするし、誰かと出会ったり誰かに助けてもらったりした時に価値観ひっくりかえったり、状況が全然変わったりなんてことになったりもするんだよ」
「…………」
「生きてんだからさ。いつかは死ぬんだろうけど、まだ生きてんだからさ」
 生きてる――。その言葉は、なぜかひどく、ソルの芯の部分に沁み通った。
 自分はまだ生きている。死ぬはずだったのに。死ぬのが当然と、生き延びるためと自分をごまかしながらも心のどこかでそう考えていたにも関わらず。他者に呪詛を波及させることもなく、こうして、生きていられている。
 それは、どんなに。本当に、どんなに――
「………っ」
「そうそう、いつかは死ぬんだから、急いで死ぬことも無駄に重いもの背負うこともないって。お気楽極楽脳天気の方が人生楽しいぜ?」
 楽しげに笑う蒼の派閥の召喚師。そんな明るい笑顔は、これまで見たことがないもので。自分の人生に関わってくるなんて、思ったこともないもので。
 そんなものと関わりができて、本当に、いいのか?
「……ソル」
 兄が――キールが震える声で自分の枕元に立つ。顔を青くして、今にも泣きだしそうに眉を寄せて。彼が十七になって別れるまで、まるで見たことのなかった顔だ。人形には作ることのできない顔だ。
 それがこちらを真正面から見つめて、必死に、切々と語りかける。
「ソル。君がどんなことを考えてことを起こしたのか、僕たちには本当のところはわからない。だから、話してほしいんだ。君がなにを考え、なにを感じたのか。君の本当の気持ちを、ちゃんと」
「…………」
「ソル……僕は、君たちのことを七年間放っておいた最低の人間ではあるけれど、それでも君たちの、兄なんだから……」
「キール……兄さん」
 半ば無意識に口をついて出た言葉に、キールは一瞬大きく目を見開いたが、すぐに(弱弱しくではあったが)微笑んで言う。
「なんだい、ソル」
「俺は……」
 そこから先は、言葉にできなかった。
 恨みに思う気持ちも、うらやましく思う気持ちもないではない。けれどそれよりも、彼が幸せに生きてくれて嬉しかった。自分たちはただの人形ではないのだと、幸せに生きられる存在もいるのだと、そう信じられることがありがたかった。――そんな気持ちを、どう言葉にすればいいのだろう。
「ソル」
「ソル……」
「クラレット姉さん……カシス姉さん」
『……馬鹿!』
 二人揃って言われ、両側から平手打ちを食らった。
 思わず目を見開いて驚くソルを、クラレットは泣きながら睨みつけカシスはわぁっと泣きながら抱きついた。驚きのあまり固まっていると(無色の派閥に属していた頃にはどんなことをされた時でも涙など見たこともなかったのだ)、カシスが泣きじゃくりながら叫ぶ。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿! あなたは大馬鹿よ、ソル! 結局あなたあたしたちのこと全然考えてないじゃない! あなたの命と引き換えに自由を得たりして、あたしたちがどう思うかなんて全然考えてないんだわ!」
「ソル、あなたは……っ、どうして私たちがあなたのことを無視したり忘れたりできると思うんですか! 姉弟でしょう、私たちは。ずっと一緒に生きてきたんでしょう!? なのに、どうして……っ」
「姉さん……それは」
 自分がこれ以上ないほど周囲に憎まれて散れば、すむ話だと思ったのだ。周囲の憎悪を一身に受ける悪役になれば、もう誰も自分のことを思い出しなどしないだろうと。自分の想いは、姉たちを護りたいという願いは生き延びることができるだろうと。
 なのに、自分は今、こうして寝床の上で姉に抱きつかれている。スープの匂いを嗅いで、うまそうだなどとも思ってしまっている。本当なら、死んでいるはずだったのに。なんで。
「……ソル」
 ぽん、と親しげに肩をたたかれた。逞しい腕で、肩から背中を撫で下ろされた。顔を上げるまでもなく誓約者の――ハヤトの腕だと分かった。
「君がどんな人生を生きてきたかも、君がどんな人間なのかも詳しくは俺、知らないけどさ。俺は、君と仲良くなりたいと思うよ」
「…………」
「君は生き残れたんだし、しがらみを断ち切るっていう君の目的も達せた。だったらあとは仲良くしながら生きるしかないんじゃないかな?」
「……いまさらだ。俺と仲良くしようと思う奴なんていない。今回だっていろんな人間に、迷惑をかけるだけかけてきたんだ」
「ふーん、そう思うのか? なら……」
 にやりとハヤトが笑った――と思うや、自分の体は宙に浮いていた。思わず息を呑んで持ち上げた相手であるハヤトにしがみつくと、ハヤトはははっと楽しげに笑って軽々と自分を家の外へと運び出す。
 そこには――
「おっ、出てきやがったか。ったく、心配かけやがってこのガキャァ」
 鍋の椀を片手に、自分の頭をぐりぐりといじめる中年の海賊がいた。
「やれやれ、まったく。今度このようなことを企む時は、わらわたちに相談してからにしてほしいものじゃな」
 面白がるように言って、ぽんぽんと頭を叩く鬼姫がいた。
「無事でよかったぁっ! あのね、ユエルたちね、すっごい心配したんだよっ!」
 直截に気遣いの言葉をぶつけてくる、オルフルの少女がいた。
「本当に……よかった。これからはもうあんな無理しちゃ駄目ですよ? ひとつ間違えたら本当に死んじゃうところだったんですから」
 優しい笑顔で頭を撫でてくる、元天使の女性がいた。
「………ったく。……ま、無事でよかったな」
 仏頂面で、不機嫌そうに、それでも深く息をつく盗賊の青年がいた。
 それぞれに鍋を囲みながら、ごく普通に当たり前のように、自分に声をかけてくる。当たり前のように自分を受け容れて、その上で気遣いの言葉を浴びせてくる。
「……な? そんなに世の中単純じゃないってわかっただろ?」
 笑みを含んだ声で言われ、ソルははっと首を振って、仏頂面でハヤトを見つめた。
「ここにいる奴らは特殊な例外だ。世間の奴らが、召喚師や召喚術ってものを恐れ遠ざける奴らが、こうもあっさりと俺たちを受け容れるわけがない」
「んー、ま、それはそうなんだけどさ」
 ハヤトはぽりぽりと頭を掻きながら、ソルをそっと大木の根元に降ろした。そして真正面から、すっと手を差し伸べてくる。
「だから、変えないか。そういう世界。君と、俺たちとで」
「――――」
 思わず、呆然と相手を見上げてしまった。
「召喚術が正しく使われる世界。界の違う者同士が手を取り合うことでできなかったことをする、そのために使われる世界に変えないか。一方的に呼ばれて苦しんだり、生そのものを歪められてしまう召喚獣たちや、召喚師のいない世界に。そうしたら、君も素直に俺や、キールたちの手を取れるだろ?」
「―――…………」
「やってみようぜ、ソル。俺たちと一緒に」
 ソルはじっと相手を見つめ、ハヤトの瞳を、声を、言葉を自分の中で吟味する――が、すぐに苦笑した。そう言われてしまったら、すでに答えは決まっているのだ。
 ソルはすっ、と腕を伸ばして、ハヤトの手を取った。ハヤトもにっ、と嬉しげな笑顔になってソルの手を握る。
「これからよろしくな、ソル!」
「ああ――こちらこそよろしく、ハヤト」

「お、これうめぇっ! んー、やっぱ働いたあとの飯は格別だよなっ」
「ま、これで一応これまでえんえん引きずってた厄介事は解決したわけだしな。飯もうまくなろうってもんだ」
 串焼きをかじりながら言うリュームに、タコ焼き(オウキーニの作ったタコを小麦粉をダシ等で溶いて作った生地に入れて専用の器具で焼いたもの)をもぐもぐやりながらライはうんうんとうなずく。今回の宴会では、ライもむろん奮闘したが戦った者たちへの感謝の念を表す、ということで主に郷や村の者たちが料理等を準備してくれたのだ。
 実際、今回の事件では、よけいな被害も出ることなく、救うべき相手をきっちり救って、見事なほどにめでたしめでたしでけりがついたのだ、料理の味もいや増すというもの。それはもちろん、いろんな人が――本当にいろんな人が、それぞれにそれぞれの力を存分に発揮したせいなのだろうが。
 他の料理を求めて駆け出すリュームと別れ、ゆっくりと宴の席を回る。
「ふふ、レックス先生は本当に、変わりませんよねぇ。もう一杯、いかがですか?」
「え、いや、あの、大丈夫ですから。ええと、パッフェルさんも、変わらずきれいですよ」
「出会った頃と比べたら?」
「ええと……すごくきれいになりました、よ?」
「もう、先生ったらお上手ですねぇ……」
 普段とは少し違う、妙に色っぽい雰囲気でパッフェルがレックスに酒を勧め。
「ったくよォ、うちのあのボケときたらいっつも考えるより先に体動かしやがってよォ、ちったァこっちの都合も考えろってんだ」
「まったくだぜ、あんにゃろう。後始末する方の身にもなってみろってんだよなぁ。……そのくせなんのかんのでどんな時もきっちり問題自体は解決しやがるってのがまた」
「ムッカつくんだよなァ……あーッ、っとにあのスッタコ野郎はッ」
 珍しくも意気投合している様子で、ガゼルとバルレルが酒を酌み交わし。
「君の召喚術は、実際大したものだね。あそこまで驚くべき効果をもたらした通常の召喚術は初めて見たよ」
「いやいや、そんな大したことじゃないけどさ。長くやってればさ、なんとなく勘でここをこうしたらどうなる、って具合わかるだろ?」
「君はバカか。そんな適当なやり方で召喚術に劇的な変化がもたらされるわけがないだろう。こちらがどれだけ苦心して君の魔力に調整を加えているかわかって……」
 ギアンとマグナとネスティが、召喚術についての議論を戦わせているかと思えば。
「ほらほら、飲んだ飲んだ。一度飲むっつったのに男らしくねーぞー」
「それは……わかっているけれど、僕は正直、酒は……」
「こんくらいのだったらジュースみたいなもんだって。ほれほれ、舐めてみるくらいでもさ」
「………。……っ……! ……おい、しい……」
「だろ? ユクレス村産の果実酒はそんじょそこらの高級酒なんぞ歯牙にもかけねぇくらいうまくて飲みやすいんだぜっ」
 なにが気に入ったのか、ナップがキールに楽しげに酒を勧めている。
 いろんな奴が、いろんなやり方で、喋り、飲み、食らう。それはライとしても、見ていて嬉しくなってくるような光景だった。生まれた界がどこだろうと、どんなに違う生を送ってこようと、手を繋げる奴らは確かにいるのだと。
「お……ソル、お前もう歩いて大丈夫なのか」
 宴の中を、ゆっくりとした足取りで歩きまわっていたソルを見つけ、話しかける。ソルはわずかに目を瞬かせて、それからきゅっと唇を引き結び小さくうなずいた。
「帝国の宿屋の主人、ライ。俺は、お前に言っておくことがあった」
「……なんだ?」
 真剣な面持ちの言葉にわずかに緊張して身構えると、ソルはゆっくりと、だが深々と頭を下げる。
「迷惑をかけて、すまなかった。そして、礼を言う。……俺を、助けてくれて」
「は……」
 一瞬ぽかんとしてから、ぶふっと吹き出す。ソルは真剣な顔を崩さなかったが、ライはくっくと笑って言った。
「なんだよ。お前もしかして、それ全員に言って回ってんのか?」
「……必要だと思ったからな」
「ま、それはわかんねーでもねーけど……義理堅いっつーかくそ真面目っつーか……けど、いい奴だな。お前」
 笑って告げた評に、ソルは眉根を寄せてみせる。
「ひとつ間違えば大量の死傷者を出していた、そして実際に何十人もの人を殺した人間を善人とは呼ばないだろう」
「まーな。本来ならな。俺もお前がそーいうことをした責任ってのは取らなくちゃなんねーと思うし」
「……ああ」
「ま、それでも、俺はお前を悪い奴じゃないって思った。好感が持てるって思った。だから、さ」
 笑ってテイラーに渡されていた、料理人としての名刺を差し出す。
「機会があったら店に来いよ。腕によりをかけてサービスしてやるからさ」
 にやり、と笑って言った言葉に、ソルは少し戸惑った顔をしてから、静かにうなずいた。
「……ああ。心に留めておく」
「おう」
「なーんだよー、ソル! ライと仲よさそーに話し込んじゃって―、背の高さがあんま変わんないからっていちゃいちゃしてるとキールやクラレットやカシスや俺が妬くぞー!」
 がっし、とばかりにソルに後ろから抱きついてきたハヤトに、ライとソルは揃って顔をしかめる。
「ハヤト……お前、酔ってるだろう」
「っつか、この酒臭さからしてちょっと飲みすぎじゃねぇか? 何杯飲んだんだよ」
「んー……えっとー、よくは覚えてないけど、確か勧められてるうちに『おう、もう一瓶空か』とかヤッファさんが言ってたような」
「おいおい……ここの酒口当たりはいいけど、酒としてはけっこうきつい酒みたいだったぞ?」
「……つまり、完全に酔っ払いか」
「あっはっは、そうかもなー! なーソル、時々酔っぱらったりふざけたり調子に乗ったりする誓約者じゃ、お前嫌か?」
 ソルはは、と小さきため息をついてから、肩をすくめた。
「嫌もいいも……よろしくと言ったのはお前だろう。それに俺はよろしく、と返した。そんなことで見捨てるなら最初からそんなこと言いはしない」
 その言葉にハヤトはふわー、とふにゃけた笑みを浮かべ、「ありがとなっ、ソル!」と嬉しげに言って抱きついた。

 ライはふと、目を開けた。目の前には満天の星空が広がっている。
 思いのほか冷たくなっている体をぶるっと震わせる。頭がわずかに痛んだ。記憶をたどってみて、そういえばいろんな相手に勧められて断りきれず、けっこうな量の酒を口にしたな、と思い出す。
 周囲を見渡し、累々と酔っ払いが宴会場となった草むらの上に寝転がっているのを見て苦笑する。子供たちや女性は島の者の家に引き取られたのだろう、姿が見えなかった。
 立ち上がって歩き出す。どこに向かう気があったわけでもないが、喉が渇いたので水を飲みたかった。村や郷の人々は後片付けもしっかりしていってくれたらしく、口に入れるものの類はまったく残されていなかったのだ。
 とりあえず足の向くまま歩いていると、狭間の領域の辺りにやってきてしまったようだった。だが幸い川のあった場所を覚えていたので、そこに向かってとりあえず喉の渇きが治まるまで水を飲む。
 ふぅ、と息をつき顔を上げる――と、ライはわずかに眉根を寄せた。なんだか、近くから奇妙な声が聞こえる。
 何人かの声が入り混じったような、悲鳴と荒い息の中間のような。ライには戦っている時の声のように聞こえた。狩りをする時のように気配を殺し、そっとその声の方に近づく――や、仰天した。
「っ……ぁっ!」
「ほら、どうだよ、気持ちいいだろ?」
 数瞬固まってからそろそろと、足音を殺してその場を離れ、もう大丈夫だろうというくらいになってからだっと駆け出す。駆けて駆けて、自分のいる位置がわからなくなってから、ようやく足を止め、は、は、と息をついた。
 今のは、ハヤトだった。正確に言うならハヤトとガゼルとキールとソルだった。
 その四人が、狭間の領域の岩陰で、くんずほぐれつして、あれをやっていたのだ。自分と兄貴がやるようないやらしいことを。四人で。
 ライは頭をぐるぐるさせてがっくりと膝を落とす。なんだ? なんだったんだ今の? 幻かなにかか? いや違う、あれは確かに実像だった。確かにあの四人が、四人で。
 ライの常識内ではありえない事態に、ライはふらふらになりながら足を進めた。四人って。四人っていったいなんなんだ。普通ないだろそんなの。普通ああいうことは、二人っきりで、結婚するくらい好きな人とやるもんじゃないのか?
 混乱し、半ば呆然とし、頭をぐるぐるさせながらさまよい歩く。人家の灯りはなかったが、ライは夜目が利く方なので月明かりで充分要は足りた。ひたすらにさっきのことを考えながら、脳味噌を暑くさせながら歩く――と。
「……あっ、あっ、い……」
「……っ、ふ、ぁ……」
「っく、ゥ、ァ……」
 そんな声がかすかに聞こえてきたのに気づき、固まる。しかもこの声は。以前に。確かに、レルム村で。
 ライは足音を殺し、そろそろと声のした方に近づく。狭間の領域とユクレス村の中間地点、深い森の木陰の草むら。
 そこをそろそろとのぞき、絶句した。そこでは、さっきと同様に何人もの生き物がくんずほぐれつしていたからだ。
 具体的に言うと、マグナとバルレルと、レシィが。――さらに、レオルドが。
「ぁっ、ぁ、御主人、さまぁ……」
「はっ、ぁ、あ……」
「く、ゥ、ッァ……」
 喘ぎ声。飛び散る汗。上気した頬。そんなこういういやらしいことをやる時特有の特徴までばっちり認識してしまい、ライは数瞬硬直してから、そろそろと音を立てないようにその場を離れ、走り出した。
 なんだあれなんだあれなんだあれ。なんで、あいつらまで、あんなこと。四人でって、三人でって、普通そんなことしない、しちゃいけないことのはずなのに。しかも、機械兵士まで。あんな、あんなやり方で。
 頭がぐるぐる回る。かんかん痛いくらい熱く鳴る。――そして。
「………っ!?」
 自信の下半身が熱を持っているのに気づき、ライは呆然とした。
 なんで。そんな、馬鹿な。なんでそうなるんだ、あんな、変な、やっちゃいけないところ見て。普通じゃないところ見て。そんなので、こんなとこが熱くなるとか、興奮するとか、ありえないだろ、普通?
 呆然とする、頭がぐるぐるする、なにがなんだかわからなくなる。混乱して、なにをどうすればいいかわからなくなって、ライの足は自然に走り出していた。
「っ……っ、……っ」
 ユクレス村に向かう道を頭をぐるぐるさせながらひた走り、は、は、と切れてきた息を整えながらふらふらと道端にしゃがみ込んだ。普段ならこの程度の距離を走ったところで息が切れたりはしないのに、ひどく心臓がばくばくいって思い通りに動いてくれない。
 と、そんなライの耳に「ひぁっ……!」と呻くような声がかすかに聞こえた。
 は、とライは口を開き声のした方を見る。そこにあったのは、以前見たことのある家だった。
 ユクレス村の外れ、小さくぽつんと建っているけれど水道が引いてあって、中は四界すべての技術を組み込んで快適に過ごせるよう作ってある家――レックスの家だった。
 ライはごくりと唾を飲み込み、そろそろとその家に近寄る。普段ならこんなのぞきみたいな真似しない、絶対しない。けれど、今はどうしても確かめずにはいられなかった。ハヤトとマグナがあんなことをしていたんだから、もしかしたらレックスも、と思うと確認せずにはいられなかったのだ。
 足音を忍ばせ、そろそろと近寄り、声の聞こえてきた窓から中をそっと覗きこむ。――とたん、頭の中が真っ白になった。
 中にいたのはレックスとナップだった。二人きりだった、それはいい。だが。
「ひぐ……ふ、ぅぐ、ぅ……」
「ほらほらナップ、ちゃんと舌を使って。ちゃんとしないとまたお仕置きしちゃうよ?」
 普通、こういうことは、相手を縛り上げ、動けなくして、あちらこちらに変な器具を押し付けたり突っ込んだりしながらするものではないはずだ。
 ナップは体中を縄で縛りあげられていた。あれでは動くのもままならないだろう。その状態で、口にはレックスのものを押し込まれ、後孔にはなんだか太くてぶるぶる動く棒のようなものを挿れられ、その上乳首を金属製の書類挟みのようなもので挟まれて、レックスに苛めるような言葉を言われている。
 なのにレックスのみならず、ナップの顔にも確かな欲情の色があった。それはつまりこの行為を受け容れているということで、たぶんこういうことをもう何度もやっているということで、つまりそれは。
 ぐわんぐわん、と頭が鳴る。世界が崩れ落ちるような衝撃が走る。こんな、こんなこと、あっちゃいけないこと、なのに。
 それなのに、熱い。腰の奥が、頭が。あっちゃいけないことなのに、ライの理性は嫌悪を感じているのに体が勝手に興奮している。体の中で熱が逆巻き、放出したいと訴えている。
 そろそろとその場を離れ、だっと走り出す。嫌だ、駄目だ、そんなの冗談じゃない。自分はそんな、変なこと好きじゃない。そう思ってるのに体が熱くて、放出を求めてて、誰かに、触ってほしくて――
 はっ、と我に返る。今、俺はなにを考えた?
 ぼっ、と顔が熱くなる。そんな、触ってほしいなんて、あんなやらしい、おかしなことしたいなんて俺は一度も。
『――ライ』
 かぁっ、と頭に血が昇った。唐突に思い出した。自分は何度も、触られていたんだ。体の奥まで、余すところなく。その感触を、実感を、肌に迫って。
『可愛いぞ、ライ。ほら、力抜いて。ここ、気持ちいいか? いい子だ、ほら、これ口に咥えて』
 言葉まで一緒に思い出す。過去に確かに何度も行ったその体験。ぶんぶんと首を振って全力で走り出すが、思い出した感触はまるで消えてくれない。
『んっ……ふ、く……ぅ』
 自分の間近まで顔を近づけて腰を動かしながら漏らした、荒い息。
『ここ、イイかっ、ライっ!?』
 半ば快感に支配されそうになりながらも、自分をできる限り優しく触ってくれた、手の感触。
『ッ、く、イくぞ、出すぞ、ライっ!』
 ライを触りながら、ライの最奥に何度も打ちつけ、放出する時のかすれた声――
 ライは必死に走ってその回想を吹き飛ばそうとしたが、まるでうまくいかなかった。むしろ今までなんで忘れていられたのか不思議なくらいに、体の奥底からすさまじい勢いで熱が溢れ出す。体中を満たし、爆発させそうなほどの力で、感情と熱と感触が。
『よっ、ライ!』
 そう言って振り返って投げかけてくれる笑顔に、体中が痺れるほどの、恋情が――
「……兄貴」
 ほとんど数ヶ月ぶりに口にした好きな人の呼び名は、ライの心臓をきゅぅっと締めつけた。

「――おい。リューム、ミルリーフ、コーラル。起きろ」
「へ? んぶ……ぅ?」
「ん……なぁにぃ、パパ……」
「お父さん……なにか、あったの?」
 父の声に反応してのろのろと起き上がる三体の至竜を、ライはじっと見つめた。その瞳には至竜たちが思わず固まるほどの、強烈な炎が燃えている。
「な……なんだよ。なんか、あったのか?」
「合体して至竜になってくれ」
「へ?」
「そんで、帝都まで飛んでくれ」
「えぇ!?」
「頼む」
「た、頼むったって……」
「……なんで、そんなこと、いきなり?」
 その問いに答えるライの瞳は血走り、目の下にはクマができていて、一晩中眠っていないのが容易に察せられた。顔も赤く、興奮していて、たぶん今頭の中は半ばぶち切れた状態に違いない。
 だが、それでも、こちらを圧倒するほどの気迫と気合と気概をもって、ライは告げた。
「兄貴のところに行くんだよ」

戻る   次へ
おまけ1へ   おまけ2へ   おまけ3へ
サモンナイト4 topへ