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8)東男の憂鬱の始まり

「おかえり」
くわえ煙草を外して、さも親しげに声をかける男を小野は瞬きも忘れ凝視した。
「ただいま」
優しい声で返事をする箱崎の後頭部を見ながら彼の表情を想像すると胸が痛い気がした。
 
「荷物は…それだけ?」
「うん、そうだけど…土産ならちゃんと買うてきたで?」
「っははは…まぁ、楽しみにしとくわ。…ところで…」
志野木が言い募り、顎でしゃっくてみせると、箱崎は「あぁ」とだけ言って、後ろにいた小野の腕を掴み自分の前に引いた。
「……」
「こちらは、小野君。…で、こっちが志野木。志野木のことは話してたよな?」
小野は軽く頷くと、手を差し出し「はじめまして、小野です」と言葉をかけた。小野は努めて冷静に振舞うことを心がけ、
愛想よくしたつもりだった。そんな小野をじっと見ていた志野木は急に破顔して子供のような笑顔を見せて小野の手を握った。

「こちらこそ、志野木です、よろしく!」
緊張の出会いはバクバクと張り裂けそうな心臓の音で、どうにかなりそうだったが、気がつくと小野は後部座席に座り箱崎は助手席に座って小野の顔を覗き込んでいた。
「…?…」
「小野……君。大丈夫?」
「えっ、俺ですか?」
「って、そうだよ。 なんか、調子悪そうに見えるねんけど…ちゃう?」
「…ちゃう???」
「うん、ちゃう?」
「ちゃう?」
「……おい、はるか。“ちゃう” やないやろ? “違う”や」
「あぁ、そうか! ……調子悪くない?」
「?…はァ…大丈夫です」
「そう? それやったらいいんやけど……」
心配そうに覗き込む箱崎はそれでも納得できないのか、助手席からチラチラと後部座席座る小野を見ていた。

 心配されるのも嬉しいが、こうも何度も見られると苦笑いしか出てこない小野だった。引きつりつつも笑い顔を浮かべる小野に少々安堵し、箱崎は車のハンドルを握る志野木を見た。
「何か、変わったことあった?」
「…いや、特には」
短い言葉だったが志野木の落ち着いた態度は、小野を余計に不安にさせた。
「親父さんは元気?」
「あぁ、相変わらずや。今日お前が着くって知っとるからな。後できよる(来る)やろ」
「お茶会の件やな…ええんやけど商売上、大事なお客さんたち呼ぶんとちゃうんか?」
「いや、今回はお得意さんたちだけのごく内輪な会みたいや。お前も知ってるやろ、菓子屋の竹仙堂さん」
「…ちくせん、どう…? あぁ、竹村の実家か? 確か、竹村の兄貴がそこは継いだんとちがうんか?」
「そうや、俺の同級や。新作のお披露目みたいやな、今度の『春の茶会』の関係かもしれん。お茶屋の森園さんとこや同業の松風さんとかの集まりらしいで」
「…それ、全然内輪とちゃうやん…」箱崎はやや呆れた声色で文句を言った。
それを聞いた志野木はその体躯を同じぐらいの大きさで笑い出し、
「まぁそう言うなよ。これでも町内会の集まりってことらしいんやから」と、言った。
「げぇ〜よう言うなぁ。…俺、練習してへんぞ。大丈夫かなぁ?」
「大丈夫、大丈夫」
と志野木は事も無げに言い「オヤジはお前の着物を誂えたみたいやし、やる気はマンマンや」
「はぁ?? 誂えたって…俺のか?!」箱崎は驚いて運転中の志野木を覗き込んだ。
「お前のと違うかったら誰のやねん?」志野木はそう言ってチラリを箱崎を見た。
「陽平に決ってるやん!」
胸をはりつつ答えた箱崎だったが、志野木がめんどくさそうに業とらしい溜息をついて言った。
「お前、何年オヤジとつきおうとるねん? まだわからんか―? 本気でお前を養子にしたいと画策しとるタヌキやぞ? 
俺のわけあらへん 。それに、可愛げのない俺よりずぅ〜と、見場のええお前のモンを揃えた方がええにきまっとるやないか?」
小野は大きな溜息をついて絶句している箱崎を後部座席から覗いていた。

車が減速し、大きな門構えの家にたどり着くと、志野木は「車置いてくる」と言って車を止めた。
箱崎と小野は降りると志野木を乗せた車は駐車場に向かうのかゆっくりと走り去った。
お互い小さな荷物を抱えた二人だったが小野の緊張感は隠し切れなかったようだ。心配そうに覗き込む箱崎は「…泊まるだろ?」と囁くように小野に聞いてきた。
「…ホテル取った方がいいんじゃない?」と、小野が言うと眉間に皺を寄せて箱崎は「嫌?」と言った。
小野は苦笑いを浮かべて「まさか!」と、言ったものの自分の理性の心配をしなくてはならないのは少々辛いかもしれないと思った。
 小野は徐に箱崎の腰を引き寄せ、唇が触れるか触れないかのギリギリの位置で「今日は口に猿ぐつわでもして…する?」と言った。
箱崎は唖然としていたが、見る間に顔を真っ赤にして「なっ、な、なんっ…」言葉にならない声を出しながら、箱崎は小野の耳を引っ張った。
「い、ててててぇ……」引っ張られた小野は耳を抑えながら屈むと、道路に志野木の影が見えた。

「…どうしたんだ?」
「な、なんでもないっ!」
「…?…」
「はら、そんなに痛くもないのに“フリ”しないっ!」
箱崎は、今だ冷めらやぬ真っ赤な顔のまま小野を引き上げるようにして立たせて家の門を潜ろうとした。
「…はるか…痛いって…」小野は小さな声で囁くように言った。
箱崎は恥ずかしさに我を忘れていたのか、特に気にも止めずにそのままズンズンと奥へ進んでいった。志野木は二人のそんな姿を少し後方から眺めていた。

―――『聞こえただろうか?』
小野は内心ドキドキとした自身の心音を聞き、箱崎の様子を盗み見るように見たが、彼は何も気付いていないようだった。 寧ろ、箱崎の態度はどうでも良かった。きっと小野の真意には気付くこともないだろうと思っていたからだ。ある意味『骨董的天然素材』だから。志野木が傍まで帰ってきたのに気付いた時、唐突に漏れ出た『声』だった。
改めて考えるとそれは無意識ではないのかも知れないと小野は思っている。…所謂、確信犯ってやつだ。未だ放されず箱崎に固く握られた手を見ながら、彼の項のあたりを見ていた。

 流石に、都市部から随分と離れた所にある箱崎の実家は、人の気配も気薄のようで引き戸の玄関からは人の足音さえ聞こえなかった。箱崎はそのまま進み玄関を開けた。
ガラガラを随分懐かしい音を響かせ開けられた土間には大きな衝立が玄関先に鎮座していた。
 小野は立派な玄関を見て、心の中で「ばあさんが住んでいた静岡の田舎より広くないか?」と驚いていた。
思わず小野は「立派な玄関ですね」と天井を見上げながら言った。
箱崎は小さく照れ笑いを漏らし
「まぁ、大きさだけは立派だよ。道場もあるし、それに爺さんのお弟子さんが昔は沢山下宿してたからね」と言った。
「…下宿ですか?」
「うん、そう。家は無駄に広いからここから高校や大学に通うお弟子さんが多かったんだよ。でも、今では弓のお弟子さんは少なくて、普通に遠方からこちらへ進学してくる子の下宿になってるよ。…で、俺も親元離れて下宿していた一人だな」
「へぇ〜そうなんですか〜。今は何人ぐらい?」
驚きながら玄関を見渡し、子供のような表情を晒す小野の顔をさも愛おしそうに箱崎は見つめた。
「今いる下宿の子?…そうだなぁ、確か高校生が二人に大学生が五人だったじゃないか?」
「それで、少ないんですか? プチ合宿ですよ」
「はははは…合宿ねぇ。 でもノリは合宿だよな。なにせ、体育会系だしな」箱崎の話を小野は楽しげに笑って返事をした。
「そんな生温い目で見ないで下さいよぉ〜」
「…べつ、に〜ぃ?」
クスクスと笑いを漏らしながら、小野は箱崎の耳に口を寄せて言った。
「やっぱり、猿ぐつわが必要ですね〜」
箱崎は猿ぐつわをして小野に組み敷かれる自分を想像してしまい、真っ赤になっていた。

「グタグタ言ってないで、サッサと上がるっ!」
立場が不利なのか、言葉で言い返せない不甲斐なさからなのか箱崎は急かすように小野を引っ張り上げようとした。
小野はそんな箱崎の態度を微笑ましく思えながら「お邪魔します」と言って靴を脱いで上がった。
 小野は後ろから何も言わず、先ほどとは違う気配を漂わせてやって来る志野木の気配を目の端に捕らえた。それはあからさまではなかったが、志野木の何かが変わったことを小野は感じ取っていた。
あの態度の変化に気がついたのは小野だけであり、箱崎にはまだ、知られていないことだった。

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