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5)決戦日はピーカン

日曜の昼下がり。
ガラス越しにみえる風景もいい加減見飽きた。
目もあわせない無言劇に参加して早、1時間を過ぎようとしている。
俺は俯いて俺と対峙するやや疲れた女と楽しく会話する訳でもなく、期待した修羅場を演じる訳でもなく、ただお互いかける
言葉もなく、氷の溶けたアイスコーヒーを前に顔を突き合わしていた。

アイスコーヒー貴重な休みを捨てて、ここにいるわけだ……何の冗談だ? 
まさか、ドッキリか?
おどけてみても事態が変わる様子はみられない。
好きでもない男とか、ましてや知り合いでもない女と茶を飲むなんて、
前代未聞だ。しかし、何れこんな場面がやってくるだろうとは覚悟はしていたが、これは流石に予想だにしなかった。
……しかしまぁ、この展開はないだろう、と思う。

流行廃りのない地味なスーツを着て、顔に疲れを滲ました女は俺を自宅の玄関から「話がある」と誘い出し、俺は今こうして対峙するハメに至っているわけだ。
ふらふらついていった俺も浅はかだったんだけどな。
しかし「話がある」といった相手が俺だというのは今も納得のいかないところだ。
ここはダンナである凛太郎と、なるはずだ。
…だってさ、俺はこの場合、関係はないはずなんだから。
俺が原因では無いのだし、俺がとやかく言われる筋合いではないんだ。
それに、離婚はしてるんだから俺がどやされることなんてありえねぇ。

しかし、目の前に辛気臭い顔で座る彼女は「俺」を目指してやってきて何かを告げようとしているようだ。ただ、矛盾を孕んだ矛先が俺に向けられて暴れまわるのかと危惧したのだが、彼女は何を考えているんだか、終始無言のままだ。
 こんな状態になるんだったら、金切り声の一つでも上げて、テーブルの一つや二つひっくり返してくれた方がまだマシのような気がした。

彼女と席についてから時計を見るか、ガラス越しに路上を走る車を見るか、変わりばえのしない店内の客を眺めるかの3つを順番に繰り返していたが、そろそろ俺のネタも限界だ。
……っうか、飽きた。

結果もなければ進展もない対話に終止符を打つべく俺は顔を上げて女を見た。
(……げっ…ッ!)俺は内心驚いた。
ただ、俯いて何も喋らないことで俺にプレッシャーを与えているばかりだと思い込んでいた彼女が、顔を上げじっと俺のことを窺っていた。 …なんだ、様子見かよ。

ただ、彼女の目線は怒りや詰りや謗りもなく、どこか強い意志を滲ました目つきをしていてその目で俺を見ていた。
いわゆる『女』の目だ。
俺も腹を括れ、とのことなのだろうか?
そう考えると奇妙なことに笑いが洩れるほど自分が緊張していたことに気がついた。
「あのう…」
俺の薄笑いに気分を害したのか、彼女はおずおずと話を切り出した。
俺は言いかけた彼女の言葉を遮るように、言い訳がましく第一声を吐いた。
「…すいません、変な意味じゃないんです。ただ、俺も緊張してて…そう考えたら何だかおかしくて。…すいません、笑い事じゃないですよね?」
フーッと大きく息を吸い込んで、心の中では『やっぱり、笑い事だよ』と独りごちて座り心地の悪い椅子に深く沈んだ。

「…いえ、そんなことは…私のほうから話があると言っておきながらこの体たらくですから…」
相変わらず暗い微笑みしか浮かべる事のない彼女は俺を責めているのか、それとも自分を卑下することで被害者面を装うとしているのか、俺にはわからない。
俺は彼女のことを何も知りはしないのだから。

そう、彼女は凛太郎の元妻。いわゆる凛太郎の初婚の女性だ。
あぁ、胸が痛い。
妻という痛みの伴う言葉。
そうだ、忘れていた現実が具象化する。
この目の前の彼女は、充を置き去りにし、凛太郎を捨てた女だ。
吐き気にも似た苦いものが胸を突いてせり上がってくる。
暫く忘れていた針で刺すような痛みを俺は感じた。

「…俺に話があるんでしょう?」
―――嫌味がいいたけりゃぁ、さっさと言えってんだよっ!
俺は平静を装いつつ、心の中で彼女を詰った。
「…はい、こんなところにお呼び立てしてしまって、申し訳ありません」
何故、この彼女は謝るんだ? ……謝ることなんてないだろう? 
謝る事をしているというなら別だろうが。……と、言うか世間的に謝らなくては成らないのは俺のほうなんだろうな。
何故かって?
それは……まぁ世間様で言う、既婚者と付き合っているということだったから。
この際、男だとかうんぬんかんぬんということは置いといて、だ。 
しかし、俺たちはとっくの昔にキレている。
(いや、それは違うか。…でも、何度も別れたんだよ俺たちは。数えるのが面倒なくらいに)
囲われていた訳ではないが、世間で言う日陰者というのは俺のような者のことをいうのだろう。
…まったくもって馬鹿馬鹿しいと思う現実だ。
そう考えると、忘れてしまった過去の記憶が甦る。
凛太郎が妻を伴ってやってきた友人の結婚式。

それは本当に偶然だった。
彼は一人で来るものだとばかり俺は思っていた。色んなことに考えを廻らさなくてはいけなかったはずなのに、俺ははしゃいで、調子に乗っていたんだろう。だから、俺は浮かれすぎて深く考えもせず、当日の様子を想い描き、凛太郎と同じジャケットを設え、同じ腕時計をするように頼んだ。いわゆるペアルックだ…時代にそっていないととか、ダサイとかそんなことは考えられなかった。ただ、この人は俺のものだ主張したかった。寄り添っているのは自分だと、世間にわかって欲しかったからだ。

……子供のように浮かれてた。
二人で出席する結婚式。
なんだか二人だけの晴れの舞台のような気がした。俺も結構夢見るお年頃だったんだよな、あの頃は。
でも当日の凛太郎の隣には、夢見る俺ではなく、眉間に皺を寄せて射殺すように俺を見つめていた凛太郎の妻だった。
 俺はお愛想笑いを浮かべながらその場をやり過ごすことを考えたが、煩いほど心拍は上昇を続け、針の筵に座るように激しい痛みが体中を射しているようだった。式場では「おめでとう」と皆が口々に言う。
―――何が、めでたいのか?!
そして、俺に近づいてきた凛太郎は耳に寄せてこう囁いたんだ。
―――『…式が終ったら後で逢おう』
…どの面下げて、そんな口を叩くんだ。
俺は情けなさに眩暈を起こしそうだった。
しかし、その半面もう一人の俺は、俺自身は…大声で叫びたいぐらい嬉しかった。満面に微笑みを称え、傍に寄り添う凛太郎の妻に笑いかけた。『そら見ろ!愛されてるのはお前じゃない、俺なんだよっ』勝ち誇って口角を吊り上げた俺は、ウェディングドレスと同じ顔色をした彼女を見下した。

驚愕に歪んだ彼女の顔は今でも忘れない。
どんなに鈍い女でも判るだろう?
それでもわからないんだったら、よっぽど肝が据わってるってもんだ。
だがしかし、俺は願わずにはいられなかった。
そんな女だったら…良かったのに、と。どれだけ、俺は救われていたか、と。
…ふふふ…俺って奴は…やっぱ最低だ。

「別に謝って頂かなくて結構ですよ、俺に話があるんでしょう? だったら、手短に話してもらえませんか? …俺、明日出張なんですよ。準備も未だなんで」
苛ついた態度で言葉を滲ませれば、彼女はいかにもすまなさそうな顔をして頭を下げた。
「あっ…すいません。ご都合も考えずに…」
とりすましたその顔が気に入らない。
いかにも自分が悲劇の主人公のような面をして、まるで自分だけが不幸のように振舞うその揺れる身体が疎ましい。
返された言葉に苛つきながらも俺はなんでもないように笑って見せた。
上手くなったと思う。
何が?
お為ごかしが。

「…で、話ってなんです?」
何もなかったように俺がきりかえすと、痛みを伴ったような顔つきで彼女は喋りだした。心の中で、わんわんと響いている自分の声が煩い。痛いのは俺の方だ、と大声で叫んでいるからだ。
「しゅ…永尾とは…今でも一緒に暮らしているんですか?」
―――今でも、ときたか…
知っているクセに知らないふりを見せる彼女の顔が俺を余計に苛つかせた。
「いえ、暮らしてません」
きっぱりとそう告げると、一瞬大きく目を見開き「…えっ?」と言葉すくなに絶句した。
暫くそのままだった彼女は少し顔を突き出すようにして言葉を選びながら喋り始めた。
「あっ、いえ……一緒に住んでいるとばかり…」
―――この女はこんなことの為に貴重な金を使ったんだろうか? たかだか、俺をやり込めるために…探偵の素行調査にはお金がいったろうに。
 女一人暮らしてゆくのも大変な世の中なのに、と女の心配をしてみる。そうすることで少し自分の過ちが許された気分になるからだ。
「もう、随分前になります。彼とは別れました」
そう、口では何のためらいも無く言い出せるのに、本人を前にすると言い出せない。
そんな俺はやっぱり意気地なしだ。
呆気に取られた様子の彼女は未だ信じられない風だった。

「…別れましたが、つい最近家賃を滞納したとかで、家を追い出されて俺んちに居候してます。
まぁ、充のこともありますから同情はしますがね。でも、家賃貰ってないんですよ? …いつまでいるつもりなんでしょうねぇ。
ほんと、どうにかしてくれませんか。…まぁ、貴方に言っても無理なんでしょうが。 ……ですから、貴方方のことについて俺がとやかく言うなんて事、何にもありませんよ? それに、今更…俺が原因で、なんて恨みを言われるのも迷惑ですし」

俺はさもウザいもののような言い草で返事をした。まぁ、多少の誤差のある内容だが、辻褄は合っているしな。それに、どれが本当なんてわかりゃしない。彼女だって俺の話を信じている訳ではないだろう。長い間自分を騙していた存在の俺なんかの言葉を。
「……」
「お門違いなんですよ、俺と…永尾との関係のことを聞きたいのなら……もう終わったことです。
まぁ、今の俺たちの関係を聞きたいって言うんでしたら、アンタが目くじらたてるようなものじゃないですよ? …お情けって感じですか?」
―――本当に、もう終わったことなのだろうか?
俺は出来るだけ平静を装い、ふざけた物言いに終始しようと思った。本心を曝け出すなんて、決してしたくはなかったのだ。この女の前では。それは俺の残された唯一の物のように思えた。
彼女は揶揄するように笑った。
それは俺のウソだと言わんばかりの顔つきだった。
―――イケ好かない女だ。

「…馬鹿な女だと思ってらっしゃるんでしょうねぇ」
彼女は俯きかげんに飲まずに薄まったアイスコーヒーのグラスに目線を落として俺の返事を待つ訳でもなく呟いた。
「…主人と、永尾と別れたのは貴方が原因ではありません。私が耐えられなくなっただけのことですから。…最初からわかっていたことなんです。…私が…。いえ、ただ、そのことで貴方が不快に思うことがあるといなら、本当に申し訳なく思っています。ですから、そのことは誤解の無いように、と」
俺を慮っての言葉なのだろうか、彼女の言い出した言葉は声に出しにくいもののように思えた。

―――耐えられなくなったのは、俺のせい?
余計な想いが頭を過ぎる。
彼女は明言したではないか? …俺が原因ではないと。
だけど、胸を潰すような痛みはなんだ?

「…今更、別れた原因や、アンタとのことを俺が気にしているからと謝りに来たわけでもないでしょう? 言いたい事、あるんならさっさと言って下さいませんか?」
自分で言っていてマズイ言葉を選んでいるという自覚はある。
これでも、平静になろうと努力して相手を傷つけないように努力はしているのだ。
…ただ、全く効果は現れてはいないだけであって。
平静さを装えば装うほど、鍍金が剥がれるように俺自身のボロが滲み出す恐怖を感じずにはいられなかった。だから、心のどこかで俺は願っていた。早く終ってくれ、何も無いうちに。何も起こらないうちに、と。

「…充は元気ですか? もう随分、会ってないんです。永尾が会わせないようにしているわけではなかったんですが…後ろめたくて。…自分が、しっかり自立するまでは会わないって、心に決めていたんで。…会えなかったんです。でも、今、今は違いますっ! 今は…違うんです。…言い訳、ですね…酷い母親です。『母親の資格なんてない』って色んな人たちに言われました。…でも、愛しています。だから…迎えに来たんです」

―――あぁ、そういうことか…最低だ。
「アンタが母親失格だろうが、俺には関係ない。それとも、かわいそうだと同情して欲しいの? 
そんなこと、俺に話して何になるって言うんです? 話す相手間違ってるんじゃないですか? 
俺の中にあるアンタの評価をあげろってんですか? それとも、不幸な女に同情しろとでも言うんですか?……くだらねぇ。
アンタは自分の生活に余裕ができたから、充を迎えに来たんでしょ? 愛してるって言いながら、本当は自分が寂しいから、自分の隙間を埋めるために、充を迎えに来たんだ。素直に言えばいいじゃないか、捨てたものを返してくれって。
……アンタもやっぱり自分勝手だ……俺が言えた義理じゃないけどね」
俺は嫌味を滲ませて今だ俯く女を見据えた。
彼女は僅かに身体を震わせていた。

「……そうよ」
唇をかみ締めて、毒でも飲んだかのように蒼白になった彼女は俺の謗りを身を切るように受け止めていた。
「で、でも……貴方なんかにそれを言われたくないわ」
今にも零れ落ちそうな涙をいっぱい溜めて、彼女は俺を一生懸命睨んでいた。
自分のことを正当化して、哀れんでくれるような態度で俺に会ったんじゃないのか?
逆ギレなんてされる謂れはないぜ。

しかし彼女言い分も最もだ。
だからって俺が彼女を責める権利は無い。
俺には関係がないんだ、ただの通りすがりの他人だから。
血縁関係があるわけでもなく、戸籍にはいることも許されない、家族になることを拒否された男だ。そんな男の元で育っている充は何なんだ?
それを良しとしたのは、他ならぬアンタじゃないのか?
何もかもホッポリだして、逃げたのはアンタだろ?
どうせ俺は擬似家族に幸せを夢見た可哀相な男だよ。
…あぁ、馬鹿みたい。ほんと、今日は厄日だ。
今日という日は、己の馬鹿さ加減を思い知る為の日なのだろうか?

「だったら、何故、俺なんです? 俺に話をしたって意味なんてないことぐらいわかっていますよね。それに、凛太郎がいないってことぐらいアンタ知ってたでしょう?」俺は指先の震えを見つからないようにそっとテーブルの下へ隠した。
「話はしていますっ! …何度となく、話はしています。でも、永尾からは何の返事も、貰ってません。のらりくらりで、黙ってしまうし…。 貴方が、ヘンなことを言っているんじゃないかって……それに、あの人のことだから、又、行方を晦ましてしまうんじゃないかと…不安になって…なりまして、それで…」

意志を秘めた瞳がユラユラと泳いだ。
不安が彼女を飲み込んでいるのだろう。

「俺が何かしてるとでも? 凛太郎に入れ智恵して充を渡さないようにとでも? ……想像力、豊ですね。ほんと感心しますよ。俺に話をしても何の解決にもなりませんよ。 ……俺は…部外者で、蚊帳の外の人間ですから……そんなことアンタが一番ご存知のはずでしょう?」
クスクスと密やかに笑い声を発して俺は笑った。おかしくもないのに笑える自分が不思議でならなかった。しかし一方で、悲しくて胸が痛かった。自分で自分を揶揄して涙を流しそうになるなんて、とんだ笑い話じゃないか?
一銭にもならない話し合いで、その上俺には何の得もない。
凛太郎は俺の元から離れていくだろうし、ましてや充まで俺の元から去っていくのか?

「アンタの不安解消の為に俺は呼び出されたのか?」
自分でも驚くぐらい、低い声だった。
弾かれたように大きく茶色の瞳を俺に向けた彼女は俺の意味を理解しているのだろうか?
「…ち、ちがいます。斉藤さんからも、言っていただきたくて…」
口篭もる彼女の挙動は不審を通り越して滑稽に見えてきた。
俺は乾いた笑いを我慢して、一言喋りだせば、理性が吹く飛ぶぐらいの怒りを押えながら話を続けた。そうすることが、何の意味があるのかと、思いながら、グッと強く指を握り締めて胸の痛みに耐えた。

「何を? 俺から充の親権を放棄するように凛太郎に取り成せって? …馬鹿にするのもいい加減にしろよ? 
子供の事はアンタと凛太郎の問題だ、俺のじゃない。それに、アンタが置き去りにした充を必死に育てたのは凛太郎だぞ。
目の前で見ていた俺に、そんなこと言えるかよっ! 言っとくけど、俺はアンタほど人でなしじゃないぞ……見縊るなっ!」

しかし、彼女はそれまでの態度とは打って変って、俺を蔑むような目つきで毒を吐いた。それは彼女の箍が外れた瞬間だった。
「人を馬鹿にするのもいいかげんにして欲しいわ。あたしにした仕打ちも忘れて、のうのうとしてる貴方に何が判るって言うの? 私達が別れた時はさぞかし嬉しかったでしょう? 女から男を寝取った気分はいいかが? さぞかし満足でしょう……私がどれほど苦しんだか、傷つき悩んだか……アンタに、アンタなんかに判るはず無いじゃないっ! 知ったような顔してっ…偉そうに説教しないで!」彼女は傷ついた顔で俺を詰った。

―――そうかなぁ……俺は、アンタのことが良〜く判るよ。アンタは俺と似たもの同士だから。
「あぁ、判らないね。俺はアンタみたいに捨てたものを拾ったりはしないから。俺は捨てる前には、よ〜く考えるんだよ。アンタみたいになんでもかんでも捨てたりしないさ!」俺は心で思うことと違うことを口に出しながら、狡賢く立ち回ることができる自分が哀しかった。

「小汚い泥棒猫のクセに…」
低い唸り声のような言葉は彼女が本音を言った瞬間だった。
―――やっぱり、そう思っていたんだよね。 今までのアンタは自分をよく見せようとした産物だったんだな、今が本当のアンタだね。
俺は内心、大声で笑い出したいのを我慢しなくてはいけなかった。

「はぁ? アンタ本気でそう思ってんの、…マジかよ? アンタ、自分が泥棒猫だって思わないのか、オメデタイねぇ。アンタと付き合う前から俺が付き合ってたっては考えないんだ、へぇ〜いい考え方だよ、見習えって?」
小ばかにした口調でやり返し、そして、声をたてて笑った。
「…子供を置き去りにしなくちゃならなかった私の気持ちなんて、アンタなんかに判る筈ないわっ! 子供の産めないアンタなんかにねっ!」低い、唸るような声だった。
その言葉は彼女が、俺にいつか言おうと思い続けた言葉だろうか。
―――あぁ、やっぱりそれを言うのか?
俺の表情は見なくても判るだろう。
涙もでねぇとはこのことだ。
彼女は思わず口走った己の言葉に動揺していた。
その様子から本当は聡い女なのだろう。
こんな醜態を晒す彼女ではないのだろう。
そんな彼女にしたのは、やっぱり俺だろうか?

あぁ、胸が痛い。

「…ぁ…わたし…その、言うつもりじゃ…」
同情されている自分を省みるのは、気持ちの良いものじゃない。
揺れ動く彼女の心が言葉を捜していると思うと惨めな気分にさせられた。同情を貰うのは柄じゃないさ。それより俺は、嫌われ役を演じなくっちゃならいよね。アンタのためにも、凛太郎のためにも。酷い男に引っ掛かったものだと、思えるように。

「思っていることを口にした気分はどうだい? えぇ、いい気分だろ? 俺がそんなことを気に病んで泣いているとで思っているの? ……下らない。男の俺が子供を産むなんて滑稽なことを女は考えるんだな。子供、子供ってアンタ、子供が切り札だと思っているのか? どうせアンタは凛太郎にそれをチラつかせて迫っていたんじゃないのか、その結果逃げられたんだ。…アンタの方こそ最低だ!」
言い放った言葉はずべて本当のこと。
さらけ出す予定は更々なかった、俺の本心。
これを言えば彼女は楽になれるだろう。
亭主を寝取られた可愛そうな女で、憎むべき存在を得られる幸せを感じてくれるだろう。

「どっちが最低よっ!」
彼女は大きな音を響かせ、勢いよく立ち上がった瞬間、テーブルの上にあったアイスコーヒーをおれの顔めがけてブチまけた。

その瞬間、店内の温度が3度は低くなった感じがした。
―――あぁ、あ。店が氷河期になっちゃってるよ。
しかも、人の目が痛いぐらいに注視されてるし。
俺は茶色く変色し、生地に染みて広がるコーヒーをぼんやりと見ながら、ニヤリと笑い彼女を見た。
彼女は気持ち悪い物を見るように俺を眺めいたが動く事はなかった。

俺は大きな声で笑い声を響かせた。
もう、どうにも止まりゃしない。
俺たちは泥沼の中で溺れて、足掻いている二匹の魚だった。
酸素もうまく吸えない肺のない魚。
泥まみれになって助け出されるのを待っている。
誰が引き上げてくれる?
あぁ、そうだ。
白馬の王子様なんかきてくれねぇかなぁ。
でもってさ、庭におっきな池がある腹のつきだしたエロじじいをご希望かな……はっはは。

俺は笑い声を称えたまま、立ち上がり震える彼女の真正面に顔をズイっと寄せて、穏やかに言った。
「クリーニング代はいらないよ、これでチャラだ」
彼女と目線を逸らさずに、右手を上げて彼女の頭からゆっくりと飲み干せなかった俺のアイスコーヒーをかけてやった。
きれいにまとめ上げた髪が、茶色の液体を吸いながら、重力に従い流れ落ちてゆく。それは、ゆっくりと、彼女の顔を撫でるように。

俺は出しなにレジの前でポケットから千円札を1枚取り出して「俺の分、釣はいらない」と告げて店を出た。
冷えた店内とは真逆のむせ返るような気温に、眉間に皺を寄せて俺は歩き出した。
ギラギラと照りつける太陽が眩しかったが、熱い日差しは逆に自分を生き返らせてくれうよう感じられた。

―――あっ、やべぇ……泣きそう。
「……雨、ふらないかなぁ」
太陽がサンサンと降り注ぐ空を見上げながら俺は呟くと、そうすれば泣いても判らないのに、と思った。
それから徐に、ポケットに仕舞いこんで拉げてしまった煙草を取り出して一本を口くわえてから思い当たった。
―――あぁ、そうだった。
俺のカランダッシュのライターは凛太郎が持ち去ったことをすっかり忘れていた。

探った尻のポケットには携帯が着信を知らせる青い光を発していた。
「……進藤…」
着信は進藤だった。
俺は進藤へ電話をかけなおした。
「……あぁ、進藤? 何、用事?」
「俺の声がおかしいって?」
――そりゃねぇ、俺、今、心で泣いているから。
「……ねぇ、進藤。 俺を慰めて」
「ふふふ……そう、愛して欲しいんだ」

俺は一刻も早くこの場所から引き上げて欲しかった。
もう一人は沢山だ。
誰でもいい、早く引き上げてくれ。
俺が溺れて沈まないうちに。

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