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19) 受話器の向こう側

いつもと違って社員食堂は人も疎らで見知った課の者も少なかった。
箱崎は未だ痛む腰を庇いながら、手じかな席にトレイを置いて座った。
『あっ、お茶……』
一旦、腰を落ち着けてしまうと今の状況では、立ち上がるのも億劫で、サーバーのある方をじっと恨めしげに見つめていると営業の松井を見つけた。
『おっ、ラッキー!』
箱崎は座りながら片手を松井に向かって力いっぱい振った。
松井も慣れたもので、箱崎に「お茶ですかー?」と言いながら机に持ってきてくれた。
 
「松井君、悪いネェ」
箱崎は嬉しそうに頷きながら受け取った。
「いえいえ。箱崎係長、ここいいですか?」
松井は笑いながらそう言うと、箱崎の席の前に座った。
「松井君、君今日出勤だったの?」
松井は親子どんぶりを頬張りながら箱崎に目を向けた。

「…そうなんですよ、本当は俺、今日休みの予定だったんですけど。
花田の一件で呼ばれちゃったんですよ」
と、恨めしそうな目線を箱崎に送りながら言った。

「松井君、俺のこと恨んでそうな目してるなぁ」と、からかい半分で箱崎が言うと、慌てて頭を振りながら
「えっ、そんなつもりじゃ…って、そうなんです」
「…どっちなんだ?」
箱崎は苦笑いをしながら言った。
そうこうしていると、同じ課の中村や谷といった面々まで箱崎と松井の周りに集まりだした。
「で、係長大丈夫だったんですか?」
さも興味津々といった口ぶりで中村が口を開けば、普段大人しい谷までもが、目をキラキラさせて箱崎の返事を待っているようだった。
『まいったなぁ……』
「大丈夫って? 俺はなんともなかったよ」
「……そうりゃそうでしょうけど」
箱崎の回りくどさに周囲のギャラリーは溜息をつき、次に話される言葉に聞き入っていた。
実は箱崎が出社すると直ぐに、花田の直接の上司である営業3課の尾田課長に呼ばれたのだった。

『昨日の花田の件だけど、その後、君に何か言ってきたか?』
『いえ、こちらには何も。今日は出社するようにとは言ってありますが、彼は出社していないのですか?』
『あぁ、今のところは、な』
『そうですか』
『……ちょっと、面倒な事になってねぇ。君には悪いが、月曜日に僕と一緒にあちらの会社に出向いてくれないか? 牧浦設備の社長と面識があるんだって?』
『はい、技術にいたころお世話になりました。配置換えになってからは、疎遠になっておりましたが……。わかりました。……私は彼の社員教育時の担当でもありますし……』
『まったく、えらい事しでかしてくれて…ホント参ったよ。牧浦設備は2課の辻内部長組じゃないか。あっちから、クレームついちゃって、頭が痛い』
『……』
箱崎は、出社一番に尾田課長に呼び出され昨日の花田のことを持ち出されていた。流石にあれだけの騒ぎになれば、箱崎一人の胸に収めることもできなかった。

 社内では技術営業が現場を掌握しているといってもいい。そこから枝分かれにわかれた協力会社はすべてが部長の名前を冠した組み組織を形成しているのだ。一種の派閥のようなものだが、総務や管財、人事に経理といった現場と直接の関係のないところはほとんど関係がない。ただ、全く関係がないわけではないので、これはこれで別の組織を形成して、技術営業と密接に絡み合っているのだ。

技術営業を経験した箱崎にとって、花田がどういう理由で、昨日の行動に至ったのかは、おおよその見当はついてはいたが(…確か、辻内組の設備関係の会社が現場で小火を出し現場を干されて、その代わりを急遽探していたんだろう、と推測していた)新人研修以来、彼との交友は途絶えていたので、あそこまで追い詰められていたとは知らなかった。しかし、噂はあくまで噂に過ぎない。過度に信用してしまっては、判断を誤る恐れがるのを、経験上知っていた箱崎にとって、やはり、彼にはこの職場が向いていなかったということなだろうかと、彼の新人教育を担当した箱崎にとって、胸の痛いことだった。
 『牧浦社長は律儀で一本気なところがあるからなぁ、強引なやり方で花田も攻めていったんだろうなぁ…』嫌な事を命じられたと思った箱崎だった。

ふと、気がつくとギャラリーの目線はぼんやりと考え込んでいる箱崎を取り巻いていた。
『うっ、やばい雰囲気が……?』
箱崎は冷えかけた味噌汁を啜りながら、辺りに目を泳がせてみた。すると、相変わらず、期待に打ち震えた目をした谷の姿を見つけてしまった。

谷からの質問に身構えた瞬間、箱崎の携帯が鳴った。
正確には、音がなったわけではなく篠崎の右側の尻の辺りにある携帯が震えたのだ。

『……この位置に入れとくんじゃなかったなぁ、結構、響くじゃないか…腰に』
箱崎はやや眉間に皺を寄せて、激しく震える携帯を取り出して返事をした。
「はい、箱崎です」
『……俺です』
「ちょっと、待って」
箱崎は周りに集ってしまった部下達を尻目に、片手で謝るポーズをしながら、席を離れて人が少ない窓際の隅のほうへ移動した。内心、このタイミングで電話が鳴ったのは有り難かった。

箱崎は広い食堂の隅の窓際に行って、窓際沿いのカウンターへ行き、スツールに手をかけて座った。
「はい、どうぞ」
『……今、いいですか?』
「? いいよ。どうかした?」
やや、間があってから小野が口を開いた。
『外野が五月蝿そうですね。 今、どこにいるんですか?』
妙な言い回しだと箱崎は思った。

「食堂だよ、昼飯食ってる最中。場所移そうか、聞こえないくらい騒がしい?」
『いや、そうじゃないです…すいません』
「うん」
『……』
「……」
気になる間を空けるものだと箱崎は思った。
別れ際の小野の態度も気になったが、思い詰めるようなことでもあったのだろうかと、思い彼の返事を辛抱強く待つ事にした。

『…何か喋ってくださいよ』
やや間があってから、小野が話を切り出した。
それを聞いた箱崎は小野の意外な言葉を聞いて苦笑いを浮かべ「用があったんじゃないのか?」と言った。
『ええ、まぁ…』
煮え切らない曖昧な言葉で濁している小野に不信を抱きながらも、箱崎は努めて冷静に返事をした。
「何かあった?」
『いえ、ただ……』
「ただ、何?」
箱崎は妙な違和感を覚え、小野の未だ見えぬ真意を計りかね、別れから差ほど時間の経過も無い間に、何かあったのだろうかと考えた。
「ひなた……変だよ? 何かあったんなら……」
「いえ、違います」
(…?…)
話終える間もなく、否定をした小野はそれでも沈黙を守り、受話器の向こう側で心配のオーラを出している箱崎を感じていた。
小野は箱崎が自分を心配してくれていると感じる事が出来るのが、嬉しくて子供のように嬉々としている自分が可笑しかった。

「すいません…食事中でしたね、 又、電話します」箱崎は慌てて携帯を握りなおして、やや大きな声で小野を制止した。
「ちょ、ちょっと待ってっ、切るなっよ!」
「……」
無言ではあったが電話は切られていないようで篠崎はとりあえず、一呼吸して話を続けた。
「何があったの? わざわざ電話をかけてきたんだから何かあったんだろ? それとも、俺に言えない事?」
眉間に皺を寄せながら搾り出すように言った言葉は重く小野に響いた。
『すいません、違うんです。はるかさんに心配をかけさせるつもりじゃなかったんですが……ただ……』
「ただ……? ただ、何?」
『声が聞きたかったんです』
「……」
(……はぁ〜)
箱崎は脱力感に覆われてその場にへたり込んでしまいそうだった。
「あ〜なんだ、そのう…“俺の声が聞きたかっただけ”ってことだな?」
『そうです』小野の声は頼りなかったがハッキリした口調だった。
箱崎は小野の心を計りかねてはいたが『声が聞きたかったんです』と素直に喋った言葉に嬉しくなった。
「ホントに、何もなかった? ……ホント?」
『ホントです』
電話口の向こうでクスクスと楽しげに笑う小野の声が、酷く子供のような感じがして、小野がこんな風に自分に接してくるのは意外だと感じた。

「……あのさ、昨日のことなんだけど…」と、箱崎は今喋らなくてもいい事をなんとなく小野に話をしてみた。それは花田の一件で小野とは少なからず関係があったこと柄だったなのでつい、口に出しただけだった。
今のこの状況で、電話を切られても何か釈然としないものを感じている箱崎は、小野の「何もない」という言葉を信じるほか無く、なにやら気になってしかたがない現状を打破する為にもとりあえず、会話をしたほうが良いと考えた。

『……なんだか複雑な話になってきましたね』
小野は少々心配な声で言った。
「あぁ、まぁ、あいつが今日、出社していればこんなことにはならなかったといえば、そうなんだろうなぁ。……このままだとあいつ、辞めるな」
箱崎の言葉遣いがいつもの優しさを帯びたものではなく、妙に冷めた言い方が小野には気がかりだった。
『……花田のこと、怒ってるんですか?』
「えっ?』
箱崎は不意に言われた言葉を思い返した。
「俺が怒ってるって?」
『ええ』
「そりゃぁねえ、怒りもするよ。俺は“今日は休むな”と言ったはずだ。今日出社するってことは彼にとって、もっとも優先すべきことだろ? …まぁ、二度と会社に来ないつもりなら、この現状は彼の選択通りなんだけど。…わかってるよ、ひなたは俺が勝手に心配をして、とりなしてるつもりになって、又余計なことをしているって思ってんだろ?」
箱崎は一人勝手に先を想像して、熱くなりかけていた。

電話口の小野はひとりでヒートアップしかけた箱崎を笑いながら、
『そんなに先走らないでくださいよ、はるかさん』
「うっ……」
妙に冷静に話をする小野に腹を立てていた。
『俺は、俺にとって花田なんて関係ないです。貴方の会社の人間です。……そんな男の話をする貴方に呆れているだけです』
「……別に……話したくて、したわけじゃないよ」箱崎は口を尖らせて、不平を言った。
『じゃあ何で話をしたんです?』
小野は答えを知っていた。

 きっと、箱崎は不信な電話をかけてきた小野を気遣って、とりあえず何かを話して繋がらなければと、咄嗟に思ったんだろう。その結果が、“花田の件”だった訳だ。小野はその優しさが嬉しかった。それは、きっと自分以外の人たちにも見せる優しさだ。しかし、それは今は逆に寂しい。自分だけを見て欲しいと、強欲なほど彼を想う。
そんな気持ちを彼は知っているのだろうか、と。

寂しい笑いを浮かべ『もっと、強欲なまでに俺を求めてくれないだろうか』と考え、自分は箱崎以上に激しい情欲に塗れていると思った。
「……花田のことより俺のこと喋ってくれませんか?」
(……まるで子供だ)
小野の言葉は箱崎にとって嬉しい言葉に違いなかったが、こんなに甘えた声を出す大きな男を箱崎は知らないと、微笑んだ。
「…俺は、昨日好きな人と一緒でした。で、今日は一緒に出勤して、待ち合わせをして帰ることになってます。外での食事もいいかなって思いましたが、やっぱり、二人で買い物して帰る事にしました。で、帰ったら一緒に風呂に入って、ラブラブタイムを過ごします」

箱崎は自分の喋る言葉に赤面しながらも、こんなことを言った記憶が今までにないことを思い出していた。
(今ままでの俺は、どんな恋愛をしていたのだろうか?)
数多くない恋愛経験の中から紐解いてみても、納得する答えは得られるはずもなかったが、そんなことを言える気持ちになれた小野に感謝すべきなのだろうか、と考えた。
『……はるかさん……電話だと、大胆ですね』
思ってもみなかった言葉を貰った小野は笑い声を響かせて言った。
「だれが、そうさせたんだ?」といってやっろうと思った箱崎だったが、その言葉は胸にしまっておいた。
ジョーカーを今見せるほど、俺は恋愛ベタじゃないよ、と思いながら「今日は、迎えに来てくれるんだろ?」と箱崎は嬉しそうに言った。

『いいんですか? 迎えに行っても。待ち合わせじゃなくて?』
「いいよ、何で?」
『バレちゃいますよ、俺たちのこと』
「バレるほど、有名になっちゃいないよ」
『……』
「心配?」
『そりゃぁ……まぁ……はるかさん、今、浮かれてるでしょ?』
「浮かれてるって……そうかなぁ」当たっていると、箱崎は思った。
『駅と反対方向にある保険会社のビルって知ってます?』
「あぁ」
『あそこを右に入ると直ぐに三叉路があるんでそこで、待っててください。車で行きますから。7時でいいですか?』
「いいよ…ねぇ、怒ってる?」箱崎が遠慮がちに言った。
『俺が? 怒ってませんよ、俺は。呆れてますが、嬉しい。なによりも俺より浮かれてる貴方がいて、俺は嬉しい』
彼は彼なりに自分を求めてくれているとわかっただけでも、この電話をかけてよかったと、小野は思っていた。

しみじみと箱崎の言葉を繰り返し思い起こしていた小野は、長電話になったことを詫びて切ろうとしたが、最後に箱崎が言った一言に驚いた。
「電話、掛けてきてよかっただろ? 迷うなんて君らしくないな」
「……じゃ、7時に」といって電話を切った小野は「やっぱり、俺より一枚上手だった」と苦笑いを浮かべ車のシートに身を沈めて箱崎の匂いに思いをはせた。

 箱崎は電話を切ってから、食べかけの昼食をとるために、席にもどると既に味噌汁もご飯も冷めていて、状況を聞きだそうとしていた男たちもいなくなっていた。冷めてしまった食べかけのご飯に食欲もわくことはなかったが、あの電話での会話は、きっとこれからの自分になんらかの変化を与えてくるものだろうと思った。

駆け引きなんてできるような経験もなく、どこか自分に自信がもてなくて、遂に諦めたようになってしまった人生を変えてくれる人を見つけた喜びでいっぱいだった。
この先、どんなことが起こってもこの喜びは忘れないだろうと、思う箱崎だった。
「さっさと片付けよう」
嫌なことは少々ある。
面倒なことも。
そんなことは、今までだって同じだ。
しかし、それ以上に嬉しいことがあると、人はこうも楽観的になれるものなのかと箱崎は微笑み、人も疎らな食堂を眺めると、窓の外に広がる空を見た。大きな雲の切れ目から光がカーテンのように垂れ下がっていた。
(…きれいだ)
そう、呟くと箱崎は冷めた飯を腹にかけこみ、食堂を後にした。

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