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15) 凛とした精神は炎のごとく

小野からの告白を受けて、丁度一週間ほどたった。箱崎はまだ、躊躇していた。
……勿論、彼に伝えるべき答えはイエス……なのに、今一歩踏み切れないでいる。

『どの面下げて彼に話をするのか?』
 
箱崎は彼と顔を会わす度に、今までと変わらない態度で接してくる小野に対してすまない気持ちでいっぱいだった。
自分はただ、小野が弟のような存在だったのか、それとも、年下であるが頼りがいのある友達のようなのか、なにもかも理解してくれる親友のような存在なのか……色々と考えては見るものの、あの晩、彼に触れられた時の己の欲望を思うと、思い描いた答えは全てが違うといえる。

それとも、歳を取ったせいで気弱くなっているのかもしれないと、自嘲気味に笑い自分を卑下してみても何も変わりはしなかった。確かに、今、この歳になって揺れる心を抱え、ただ一人呆然と一人で過ごす時、寂しくなる事はある。しかし、それを自分に好きだと告白してきた男に、その寂しさを埋めてもらおうとしているのは、人のいい彼を騙しているような気がしてならなかった。
では、本当に俺は彼が好きなんだろうか?
それに、何故、彼は四十過ぎた男を好きななったんだろうか?
素直に認めれば、楽になる事は知ってはいる、がしかし、そこへ踏み出す勇気がないのは、何故なのか?
やはり、世間体に拘っているのか?

しかし、己の欲望に忠実であるならば、彼とセックスがしたいと思っているのが本音だ。
例え、それがどのようなものなのかは、経験上何もないが、触れたいと思う心は次第に自分の中に広がっていくのは止める事などできなかった。
    あの晩、彼に触れられた頬の感触は背筋が震えるほど官能的で、今でも想像すると胸の奥のほうでズキズキと痛みを伴うような熱が湧き上がることも知っているのだ。自分はセックスだけで彼と寝ようとしているのではないか? と、物事を全て、マイナス思考へと運ぶのはもう、自分の思考が遂にショートしていること匂わせていた。


                                            **************************


久しぶりに小野は、工事部の部長に呼ばれてS工業へ朝から出社していた時の事だ。その日は、今度小野の会社が入ることに決まったJV(建設工事共同企業体)への顔合わせや、細かい取り決め等の確認作業の為だ。

 朝から出社して、昼は工事部以外の部長達との昼食兼会議に駆り出され、身も心もクタクタに疲れている日だった。
仕事が優先しているとはいえ、同じビル内に居る箱崎のことをふと思い出しては、何をしてるいのかと想像すると俄然、やる気が増すのは面白い現象だと思った。

しかし、偶然とは恐ろしいもので、小野はこの広いビルの社内の中で箱崎の姿を見つけることができた。嬉しさのあまり、声に出して彼を呼び止めようとしたが、彼の慌てぶりが尋常でないことに気が付き、声を掛けるのを躊躇った。
『……はるかさん?』
彼の慌てた感じは、妙に気の張った様で、急ぎ足で接待室へと消えていったのだ。このS工業は、他業者などと会談するのに小さな区切られた部屋がいくつもある会議室がある。(通称、談合部屋)談合をするわけではないのだが、各業者が会社の中に入らずに、会議が行えるように受付の直ぐ近くに、低い衝立で仕切られた小部屋があるのだ。

業者からの荷物の受け渡しから、請求書等の書類の確認作業、仕入れ商品の説明など、いろいろなことに使用される便利な部屋だった。箱崎はその一室に消えていったのだ。
小野は気になる箱崎を入口に近い工事部の机から盗み見るように、彼の消えた部屋を凝視していた。

すると、突然怒号が聞こえた。
(なんだぁ???)
「君は……私たち業者を馬鹿にしているのかっ?!」
「俺は、馬鹿になんかして……んよ。お宅の被害妄想じゃないですか?」
「花田君、止めなさいっ」
「係長は黙っていてください」
「箱崎さん、あんたとこはどんな教育してんだっ?! 下請け業者は、馬鹿にするように教育してんのかーっ?!」
「いえ、決してそのような……兎に角、牧浦社長、落ち着いてください。花田君、君もだ、座りなさいっ」

怒号は箱崎が接待している相手のようだった。
小野は困り果てた箱崎の顔を思い浮かべながら『あの落ち着いた人の滅多に見られない表情が見れる花田という青年に取って代われるなら、いいのに』などと不謹慎なことを考えていた。小野は、この事態が特別緊急性をもった重大な事件だとはついぞ考えていなかったからだ。

小さく仕切られた壁が大きく揺れ、転がるように若い男が出てきた。
「ったく、馬鹿馬鹿しいっ! やってらんねぇよっ!」毒づいた男は悔しさを顔に滲ませ、言ってはならない言葉を吐いた。
「たかが、下請けのくせにっ!」

小野は眉間に皺を寄せ、座っていた椅子から身を乗り出すようにして、箱崎の居るであろう場所を見つめていた。
「なにぃーっ?!」
年配の男の怒りを含んだ声が聞こえた途端、今まで隠れて見えなかった男が飛び出して、壁に背を向け、立っている男へ突進した。小野は言い知れぬ不安から握っていたボールペンを放して、飛び出した男に向かって駆け出した。
それと、同時に箱崎が中から飛び出して、今にもつかみかかろうとした男を後ろから羽交い絞めにして制止した。

小野は咄嗟に、若い男の方に向かい右腕で首の辺りをヘッドロックをするように抱え込んだ。
「社長、牧浦社長っ、落ち着いてください」箱崎の必死の声が聞こえた。
「はなせぇ、この野郎っー!」
小野が抱え込んで押さえている若い社員は、興奮して前後の見境もなくなっているようで体格差で負けているにもかかわらず、小野を振りほどこうともがいていた。
そんな状態が、10分以上は続いただろうか、小野と箱崎以外、二人のいがみ合った男達を止めに入ろうとするものは居なかった。

膠着状態が更に10分程経過した時、体力のない中小企業の社長は羽交い絞めにしている後ろの箱崎に向かって言葉を言った。
「……箱崎さん、わかりましたから放してくれませんか?」
箱崎は、思い出したように男を放し、小野と社長の間に素早く割って入った。
そして、深々と頭を垂れ、
「大変、申し訳ありませんでした。謝って済む事態だとは思っておりません。後ほど、改めて陳謝させて頂きたく、お伺い申し上げますので……本日はどうかこれにてご容赦ください。花田の件は……私の責任です。私が……」
「箱崎さん……」
「?」
「頭を上げてください、あんたが何も謝る事はないんですよ」
「……いえ、これは私の教育が至らぬ為……申し訳ありません」
小野は痛々しく謝りつづける箱崎を横目で見ながら、制止している若い男の首を捻ってしまいたい衝動に駆られていた。
(……くそっ、理性もふっ飛びそうだ)
小野は短い舌打ちをして、そうひとりごちた。

社長と呼ばれた男はどこか悲しげな表情を垣間見せて、寂しく笑ったような気がした。そんな様子を馬鹿にしたように、暴れ続ける若い男をどうしたものかと、扱いに困惑した小野だったが、冷たく殺気だった気の流れを感じて箱崎の顔をマジマジと見つめた。
箱崎は冷たい気を孕んではいたが、どこか寂しげで何かを憂いでいるような顔をしていた。
「……悪かったな、ひなた。放していいよ」
小野は己の耳を疑った。
(ひなた、っていいましたっけ?)
小野は箱崎から突然、名前で呼ばれて驚いていた。

それでも事態を飲み込めない若い男は急に自由を得られて、尚も突進しようとした時『バシッッ!』と、弾ける大きな音がした。
箱崎が、若い男の頬を殴った音だった。
そして、有無を言わせず、男の首根っこを押さえて引き摺って社長と呼ばれた男の前に突き出した。そして、頭を無理やり抑えて、箱崎も同じように頭を下げて言った。
「何度、謝罪を申し上げましても……」
「箱崎さん、顔を上げてくださいよ。あなたに謝られたら、私はどうすりゃいいんです?」
「……」
「私も、大人げなかったんですよ」
寂しそうに笑う社長と呼ばれた男は、薄くなった頭を掻きながら小さい体を余計に小さく丸めて出口へと歩いていった。
 その間、受け付け付近では水を打ったように静まり返っていて時折、遠くの方で電話の呼び出し音だけがプルプルと鳴っていた。


                ***************************


箱崎に殴られたのがよほどショックだったのか、若い男はうな垂れてさえない表情をしていた。
受付を出て見えなくなるまで箱崎は寂しそうに去っていった社長を見つめ続け、若い男の方に向かった。
「花田、今日はもう帰っていい」
そう静かに言った。
花田はその言葉が己が想像していた言葉と同じだったのか、哀しくすがるような瞳を揺らして、唇を一文字にぎゅっとかんでいた。彼は周りのいろいろな視線に耐えられなかったのか、何も言わずその場を立ち去ろうとした。
その後、姿を見守っていた箱崎は花田を呼び止めて言った。
「花田、明日は必ず出社するんだぞ、絶対に休むんじゃない……わかったか?」
言葉は意外なほど優しかった。
若い男はか細い声で「わかりました」といったような気がした。

箱崎は「やれやれ」といった表情をしてもまだ、若い男が立ち去る姿をずっと見ていた。
小野は意外な一面の箱崎を知り、驚きと歓喜の声を心の中で叫んでいた。
すると箱崎は、ポツリと「……迷惑かけたね」と小野に向かって言った。
小野は箱崎が今にも泣き出してしまうのではないかという気がした。
「……箱崎さん」
箱崎は小野の頑丈な腕を2、3回なだめるように叩くと顔も上げずにそのまま立ち去ろうとした。
小野はかける言葉を失って、ただ箱崎の背中を見つめていた。
とすると突然、箱崎が振り返り小野を見た。
(……箱崎さん?)
「今日……車か、な?」
小野は、箱崎のいいたい言葉を察して、
「いいえ、乗ってきてません。定時には終わりますよ? 地下の茶店で待ってます」
と、咄嗟に言い、箱崎は小野の返事を聞くとニッコリと笑って、「……少し遅れるかもしれないけど、行くから」と、言った。
小野もニッコリと笑い「じゃ、下で」と返事を返した。

箱崎は小野の立ち去ろうとする背中に向かって、又、声をかけた。
「ありがとう、ひなた」
小野は振り返ることはせずに、肩越しに片手を短く振って答えた。
ただ、小野は心の中でガッツポーズを繰り返ししていた。

工事部で事務をしている女の子が席に戻った小野に向かって、
「……小野さんて、箱崎係長とお知り合いだったんですか?」
と、不思議そうな顔で聞いてきた。
小野はニヤケる顔つきを必死で押さえながら、
「……ええ、可愛がってもらってますよ」と答えた。
「へぇ……そうなんですか。箱崎係長って意外な人物と知り合いだったんだ」
(なんだそりゃぁ?)
「そんなに不思議じゃないと思うけど……」
女子社員は話に食いついてきた小野を、興味津々で目を輝かせながら見返した。

「ええ、でも、箱崎係長の部署とは小野さん、全然関係ないですよねぇ?」
小野はややムッとした表情で「そんなことないですよ、俺、資材のカタログや、請求書関係でよく顔合わせますし、安全衛生の講習会の手配だって箱崎係長が担当してくれてましたよ?」

小野の意外なほどの強い口調でビックリした女子社員は、やや引きぎみな声で小野を見ながら言った。
「ふ〜ん、そういえば、係長、講習会の主任も兼任してたんだったわ」
女子社員はやや含みを孕んだ調子で答え、小野はむきになった自分を悔やんだ。

(危ないなぁ……カンがいというか、なんというか……)

「でも、係長は小野さんのことを『ひなた』って呼んでましたよね? 
小野さんは箱崎係長の個人的なお知り合いなんですか?」
言葉に含みをもたした言い方をするわりには、攻撃的に話をする女子社員に小野はなんとなく嫌悪を感じはじめていた。
(俺に気があるのか? それとも……はるかさんに気があるのか? ……どっちにしても、いい感じはしないな)小野の頭の中に警報ランプが回り始めた。

「箱崎さんと俺は会社の仕事より、弓関係での付き合いの方が長いからなぁ」
小野はさも、箱崎とは旧知の仲で個人的な間柄だということを相手に印象付けようとウソをついた。
「“弓”ですか?」
不思議そうに女子社員は聞き返した。
「“弓”ですよ、俺の友人に箱崎係長と同じ道場に通うのがいて、その関係なんです。箱崎係長って弓道じゃちょっとばかし有名なんですよ、知ってました?」
小野は少し自慢げに女子社員に言った。
女子社員は意外そうに驚いて、
「そうなんですかー? へぇ、知らなかったわ〜。係長ってなんだか文化系みたいだから、運動はダメなのかなんて思ってたから、知らなかったわ……へぇ〜」

「なんだ、武田さん知らなかったの?」
設計部の湯川が会話に割り込んできた。
「ええ、全く。湯川さんは知ってたんですか?」
自分が知らなかったことがよほど悔しいのか、武田は口を尖がらせながら聞き返した。
「あぁ、有名だよ。それに係長のご実家って弓道場じゃなかったっけ? 忙しい時なんか毎週週末になると大阪へ帰るって言ってたよ」
 小野は自分の方に向かれた興味がなくなってくれるのはありがたい事だと思ったが、話が次第に箱崎へ移るのは、自分のモノを横取りされたようで嫌だった。しかし、箱崎の話が当り障りのないことだと判ると安堵し、取りあえず仕事を手早く済ませ、箱崎よりも先に喫茶店で待つことにしようと思った。

(きっと、先に待っていると、彼は恐縮そうに謝りながらやってくるだろう。……今日は落ち込んでいるに違いない。ちょっと弱気になった彼を介抱するのが……いいんだなぁ)
小野は既に自分の頭の中で構築したささやかなアフター5を夢想していた。

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