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1) ホワイトカラーの男

暑さもひと段落といった気候になりつつあり、人々の服装も衣替えといった形相で道行く人々の額にも汗を拭う行為すらもなくなりつつあった。しかし、相変わらず、都市のあちこちでは道路を掘り返しては埋め戻し、又、舗装しては掘り返すといった、
市民に便利になったように見せかける政府の公共工事が辺りかまわず累々と続けられていた。

小野はそんなことを、本気で考えているわけでもなく、「仕事があればいいのだ」といった現実的なことを考え、走っているのか、歩いているのか判らない競歩のような歩き方をしている人々を、銭湯に飾られた絵のようだと思い見つめていた。

朝の体操がほどなく終り、工事の内容の確認作業も終り、全てと言っていいほど、今日の作業がなくなってしまって、時間をどうやり過そうかと工事現場の事務所の窓から外をぼんやりと眺めていた。

(もう、そろそろやってくる時間なのになぁ……休みじゃないよな?)

 小野は、元々この現場の現場監督ではなかったが、土木作業の職人と配管作業の職人とが些細な事で大喧嘩し、その場にいた若い(もちろん、小野も29歳だから若いことは若いのだが)現場監督が止めにはいったら、逆に殴られてしまい、次の日から出社してこなくなってしまったのだ。終わりかけの現場を1つだけ持っていた小野がこの現場を掛け持ちする ハメになってしまった。
 小野はこの現場に出入りする土木業者と配管業者とは、顔見知りであったため小野との関係も良好で「彼であれば、納得する」といった職人ならではの、あいまいな了解に会社としても納期の観点から彼をこの現場の監督にしてしまったのだ。

小野はその性格の明るさと人懐っこい笑顔で、職人からも人気があり、元請業者からは技術的に高いものがあるといったことで信頼が厚かった。そんな小野を会社の上司は、大手企業の出向社員として登録してあるので、本来ならそちらの仕事を優先させたかったのだが、問題を起こした現場の元請会社から、『次の仕事を渡すから、彼を入れて納めてくれ』と、泣きつかれて結局のところ彼を派遣してしまったのだ。

 しかし、当の本人はそんな会社の事情は知らず『なんて楽な仕事なんだ?』と思っていた。事実、職人同士のいざこざを除けば、仕事の内容も無理難題ではなく、これといったトラブルさえなければ、納期を待たずして完了できる仕事内容だと思っていたからだ。
 ただ、小野はここ数日この現場に来る事が楽しくて仕方がなかった。
それは、ひとりの男の存在だった。

 彼は品の良さそうなスーツを着て、ひょひょろと歩いてこの現場事務所の前を通りぬけ、駅へと向かって歩いていくのだ。決して、高そうなスーツというわけではなく、清楚で常にアイロンのかかったように皺がない、背広の上下を着用し、白いカッターシャツに地味なネクタイをしている典型的なホワイトカラーだった。
 しかし、彼が小野の目を奪ったのは、その優しそうな笑顔だった。
誰に笑いかけるわけではなかったが、どうも、女子供に好かれるタイプのようで、知り合いかどうかは不明だが、よく見かける親子に挨拶を交わす姿が目撃された。

小野がこの現場へ来るようになって早、3週間ほどたちその間、土曜日が2回出社するのを目撃していたので、元々土曜日は休みではなく各週体系なのではないかと憶測をしていた。それに、 チラリとしか見ることができなかったが、 胸に社章らしきものが光っていたので中堅企業のサラリーマンではないかと思いを巡らしていた。
 ただ、歩く姿だけしか見たことがないので、小野は彼が何歳ぐらいであるかはわからなかった。見た目では、若そうにみえるのだが、どうも服装の感じや物腰が落ち着いている感じからして、30台の半ばあたりではないかと想像していた。
(なんだか、かわいい人だよなぁ、俺より6つぐらい年上かなぁ)
などと、自分との年齢差を想像してみては、ニヤニヤと笑いを漏らして、現場の人間から『昨日の彼女のことを、想像してんだろぅ?』とか『あんちゃん、昨日はハッスルしすぎたんか〜』などと、職人から冷やかされていたが、その実、想像しているのが『男』だと判らないように気を使うのももはや、馴れになっていたことだった。

『いや〜、違いますよ。彼女なんていませんよ、いい子がいたら紹介してください』と、ちゃっかり、日本式のフォローも忘れないようにしている小野だった。
小野はよく会うこの笑顔の男性が無性に気になっていて、どうやって彼に接近しようかと思案を巡らす日常を送っていた。

(通りに立って、そ知らぬ顔で「おはようございます」とか声かけてみようかなぁ?  なんだかあの人なら返事くれそうだし…それとも、まずはあの『社章』を確認して、会社を突き止めるか? それから、現場の入口に立って、会社のヘンをうろついて、印象付けて…声を掛ける?? しかし、それじゃぁ、ストーカーだよなぁ…。他にいい方法ないかなぁ?? なんたって、日本だもんなぁ〜どうしようか? )

 小野はアメリカから祖父の葬式に帰って以来、再度渡米をしなかった。特に理由はなかったが、自分の年齢や仕事のことなどを、もう少し考え直す次期にきたのではないかと思えたからだ。
 大学を中退し、高校時代からのバンド仲間と渡米したのは、若さゆえの行動だったと今にして思うが、当時、自分がそこまで考えていたのかというと、そうではなく、ただ、仲間とのバンド活動が自分の中で占める割合が大きく、彼らと離れて生活をする事が思い描けなかったといった方がいいのかもしれない。

 結局のところ、自分自身の中途半端な音楽への情熱と技術で、成功を掴めるわけもなく、一縷の望みに賭けても全米デビューなどという、アメリカンドリームをつかむことなど出来やしないのだ。アメリカでわかったことと言えば、音楽の才能なんてカケラもなかったことと、意外に手に技術があったことだった。
 頭の中で理解できる事象にも、一緒にいる仲間の顔を見ると、答えの出ていることにも希望を見出せるのではないかという錯覚の中での1年間は、ただ年月が過ぎ去っていったというだけで、仲間達の心の欲望を露呈させたに過ぎなかったのだ。

 小野はそんな苦い1年を振り払うように仲間達から別れた。しかし、帰国を考えると二の足を踏んでしまい、結局のところあと4年間もアメリカに留まったのだ。4年間も残る事が出来たのも、自分の意外な技術のおかげだったのだが…。

しかし、どうみても気になる男は”普通”で特に目立つ部分があるわけではなく、既に恋人、いや結婚もしているであろうと思われ、声をかけるのを何度かやめようと思ったこともしばしばだった。
 きっかけをつくる事が意外に神経のいることで、しかも忍耐も必要とする、日本式の誘い方を5年ものアメリカ生活ですっかり忘れてしまって、今更、手管手練の技術でもないだろうと思ってはみて、直球勝負に出ようかとも考えるが、相手のあの笑顔を見ているとそんな気は萎えてしまうのだ。

近頃の小野は『バーにでも飲みに来てくれたらなぁ』などと、殆んど可能性のないこと考え、夢をみていた。『こんなことなら、諦めた方がいいような気がする』と何度思っても、時折見せる、ドキリとする部分が小野の気持ちを断つ事を許してくれない理由でもあった。

もしかしたらという可能性も少なくはないのではないかという、希望的観測でここ数日、自分の理性を保っている状況だった。

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