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1)愛奴(あいぬ)

君との約束を果せなくてゴメンなさい。
きっと、君は眉間に皺を寄せて怒っているだろうと思う。
今更と言うかもしれないが、これを君に贈りたい。
これが僕の気持ちだから。
どうか、どうか受け取ってください。
―――真史
真史からの遺言より


「一緒に逃げよう。二人だけで」
そう言って抱き合った君の身体は熱かった。
けれど、見詰め合った君の瞳は哀しそうに僕を見つめるだけだった。

あの日、あのお堂の中で、そう言って約束したのに君は僕を裏切って去っていった。
僕の失望は計り知れなく、君を恨んだ。
時が経ち、僕には君から与えられた裏切りだけがキズになり、未だに膿んでいる。
その疼きが今尚続く中、風の噂で君が結婚をしたと聞かされた。
僕は自分を選ばなかった君を恨み、僕の生きている世界を恨んだ。
それからの僕は、泥の中に身を横たえ世界の終焉を望みつづけた。
何もかも消えてしまえと、涙も出ぬ目を閉じて、僕は己が朽ち果てる事を願った。

                                *******************************

―――相変わらず、身体の調子が良くない。
やる気も起きない。
弛緩した思考に、身体が反応するはずも無く、ただ何も考えない空っぽの身体を感じていた。
僕は畳の部屋に敷かれた布団から自由にならない身体を横たえ、子供の頃から数えては遊んだ天井のシミを見つめていた。

遂に、床に伏せること10日以上に至っては、母の心配が最高潮に達しているようだった。ガミガミと言い放つ小言が、静かな離れの寝室にまで聞こえてきた。
くだらない、と思う。
身体が弱いのは誰のせいでも無く、そんな廻りあわせなのだ。
一々、怨み言を連ねる事ではないのだ。
なのに、母はそれはまるで、他人のせいだ、神のせいだとあらんかぎりの雑言で罵る。
それはまるで悪鬼のような形相で。

温和な父は既に仏の境地なのだろうか、母を見つめる瞳には慈愛が浮かんでいる。しかし、姉妹達は、汚いものを見るように蔑んだ目を母に向ける。
勿論、僕も同じだ。
しかし、姉妹は僕へも同じ穴の狢だと指摘するように、同じ目線で僕を包む。
ただ、父だけは違ったのだが…。

この家には男が父と僕の二人きり。
母に、どちらがこの伏魔殿を継ぐのかなんて陳腐な質問は愚問だ。
それは、僕が生まれて落ちるよりも決まっていた事かもしれない。母の胎内にいるころから、母は知っていたであろう。
一人の男の行く末は、古い仕来りに縛られ、朽ち果てる寸前のこの家の後継ぎだ。
母の血を受け継いだ僕がこの家を継ぐのか?
―――笑い死ぬとはこのことだ。

母の過度の愛情は僕を腐らせるのに充分だった。僕への歪んだ愛情は、姉妹たちの不満を募り、使用人たちの陰口となった。時に陰口は、近所へ広まり、今ではこの小さな田舎町では知らぬものはいない、醜悪な噂話となった。
―――反吐がでる。
髪を乱し、目を血走らせて僕を庇護しようとする姿は、鬼のようだ。
あの母は、鬼女だ。
この家を支配する夜叉だ。
しかし、僕はそれを非難する事は無い。
何故なら、僕はその鬼女に守られて育つ、愛奴(あいぬ)に他ならないからだ。

※ 愛奴=インドの神ハーリティー(訶梨帝母)の末の子供。お釈迦様によって姿を隠されてしまう子供の名前。ハーリティーは末の子供をお釈迦様(ハーリティーの所業を諭すために)に隠されると気も狂わんばかりに探しつづけたという。

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