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5)蚊帳の蝶

真史は時々、あの朽ち果てたお堂に来ていたと後から聞いた。
彼がお堂に来る理由を訪ねると意外な答えが返ってきた。
―――スケッチをするために来ます。

彼はこのお堂の傍の風景や草花などを描きに来ていたらしい。
彼の生家は代々漆器師の家だそうだ。
それは町の中心を走る大きな通りを2本ほど入った角に建っている古い家だ。
屋号を三嶌屋(みしまや)という。
父親は彼が物心つく前に亡くなり、現在はその後再婚した義理の父とその間に生まれた弟との4人暮らし。彼は漆器に描く柄をこの山の自然に求め、暇を見つけてはスケッチをしていると言った。

 彼のノートを見せてもらったが中々の腕前のようだ。
繊細に細部まで描かれた草花はとても美しかった。
神経質なほど描きこまれた鉛筆の細い線は彼の人柄を忍ばせる物だった。
―――このお堂の周辺は、人気が無くて静かなんです。
それに、いろんな草花がありますから。
そう言った真史の顔は話をしたのが照れるのか俯いて表情が判らなかった。
しかし、彼の声色は嬉しくて仕方がないと言った感じだった。
恥ずかしげに俯く真史の顔が僕は好きだった。

僕は彼と時々この朽ち果てたお堂で逢うようになった。
その時の彼はいつも顔を赤く染めて恥ずかしそうにしているだけだったが、僕は彼のもう一つの顔を知っている喜びを感じていた。

それは彼と初めて会ったあの恐喝の場面の彼だ。

何度殴られても、彼は声一つ上げず、どんなに脅されても返事一つしなかった。殴りつける音は聞こえても、彼の悲鳴は聞こえず、ただただ渇いた砂の音が聞こえた。
その後、彼の元へ歩み寄った時に僕は雷に打たれたように身体が震えるのがわかった。

それは彼の目だった。
彼は自分を殴って罵倒した相手を哀しそうな目で見ていたのだ。
己を殴った相手に向けるその哀しそうな目は何なのだ?
その慈愛に満ちた目は何なのだ?
万人に向けたその瞳に意味はあるのか?
僕の中で彼への疑問が次々に起こり、彼から目が離せなくなってしまった。
僕が彼に囚われた瞬間だった。

それからというもの僕は彼を手に入れたいと望み、彼を捜し求めた。
しかし、彼は一向に姿を見せず、僕をあざ笑うかのように出会うことはなかった。僕の苛立ちは頂点を越え、次第に無頓着となって僕の周りを取り巻いた。そうやって、物事を諦めると仏は天邪鬼のように僕が求めた物を返してくれる。

それから、僕は彼と頻繁に会うようになった。
僕が強引に、お堂で逢う事を強要したのだ。
あの日、やっと逢う事が叶った夕暮れのこと。

「いつも、ここに来るの?」
「…はい、いつもというほどではないのですが、大概はここに来ます」
「最近僕もここに来るけど、君とは一度も会わなかったね?」
「……」彼は何故か無言だった。
「…ここで二人だけで会わない?」
「えっ?」
「僕と会いたくない?」
「あっ…と、とんでもありません…でも…」
「でも?」
「……」
「嫌いなんだ、僕の事が嫌いなんだ」
「そ、そんな…」

言いよどんだ彼の言葉とは裏腹に彼の表情は期待に満ち溢れていた。
僕は彼の心の中を少しばかり知っていた。
それは僕に対する態度が普通と違っている事だった。
きっと、彼は僕のことが好きだ。
それは間違いない。
しかし、それはただのの憧れに過ぎないのかもしれない。
だけど、それを僕の前で見せてはいけなかったのだ。
何故なら僕に付け入る隙を見せてしまったから。

ただ、彼がどこまで僕を受け入れてくれるかが当面の問題だろうと推測した。
僕は彼を独占し、僕だけのものになって欲しかった。
それは日に日に肥大化し、僕を大きく変えようとしていた。
幾度となく、僕は彼に彼の存在がいかに大事であるかを伝えようかと思った。
そして、彼の瞳がいかに罪なものかを言わねばならないと思っていた。
あの黒く何でも飲み込んでしまう彼の深い瞳が僕を取り込んでしまったことが罪なことだということが、だ。しかし、僕はそれらの多くをなんとか心に押しとどめた。

僕が欲してやまないものを持っている彼を見す見す、手放す事なんてあり得ない。彼は判っているのであろうか?
僕は彼に絡め取られて身動きの出来ない蝶だということを。

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