「貴方とは、行きません。 …別れてください」
―――真史はなんと言ったのだろうか?
僕は真史の言葉の意味が判らなかった。
「……なんて?」
「…聞こえなかったんですか? 別れてくださいと言っているんです」
苛ついた様子で俯く真史をただ、呆然と僕は見ていた。
「…見合いをするんです。 …だから、貴方がいたら結婚できないんです。貴方に着いては行きません。ここに残ります」
彼の言葉が僕の頬を上滑りして去っていく感覚がどうにも、僕には理解できなかった。
僕は頭に血が上り、力いっぱい真史を殴りつけた。
鈍い音が埃の舞う堂内に響き渡り、真史が反動で床へ倒れ込んだ。
「ふざけるなっ!」
僕の声は震えていた。
驚愕に震える心を叱咤して僕は床に倒れている真史を睨んだ。
「二人で、逃げようって…誓ったはずじゃないかっ! …今更、何だって」
「……戯言です。ただの夢物語です。 …そんなものを信じていたんですか? …貴方らしくもない」
『らしくない』と言われ僕は頭に血が上った。
二人の仲は不動のものだと信じて疑わなかった。
だから、誓い合ったのではなかったのか?
あの日、追い詰められたようにこのお堂の中で話をした。
自分が結婚せねばならない事態になっていたと真史に告げた。
真史は大きな瞳を揺らして僕を見つめていたが、何も言わなかった。
だから僕は、真史が僕と同じ気持ちでいるものだとばかり考え、僕を心配しているのだと思っていた。
―――真史、ここを出よう。
―――ここを、ですか?
―――そうだ、そして二人だけで暮らしてゆこう。
―――こんなところに未練はない。二人でゆくならどこでもいい。
―――凌二さん…。
母から言われていた結婚の話を無視しつづけていた僕は、事態が悪化していたのを見逃していたのだ。母を無視した代償は僕と真史の逃避行で終止符を打つ筈だった。愛してもいない、ましてや顔すら知らない相手を伴侶として選べという母の言葉はやはりハーリティーだったのだと思い知ったのだ。
二人の逃避行はそれでも僕を熱狂させ、二人で開く新たな世界に心が高ぶった。
安穏な生活を捨てるが、二人だけの生活が築けるはずだったのだ。
貧しい生活だが、満ち足りていたはずの二人だったのに。
なのに、なぜ今更なかったことにしようと言うのか?!
あのお堂でのやり取りは何だったのだろうか?
あの約束は何なのか。
僕が一人で惚けていたとでも言うのだろうか。
「…『見合い』って何だ?」
冷気が漂うお堂の中は僕の声まで凍らせたように思えた。
「…あ、貴方だけが…結婚を望んでいるのではありません。…僕も男ですから」
真史はやや震える声で僕に恨みを言っているように思えた。
今まで自分を女のように扱っただろうと、恨んでいるような声だった。
視界は赤く染まり、思考はグルグルと酩酊しているようだった。
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それからの僕は、僕であり、僕でないものだった。
一人で死ぬ事も出来ない、ぼんやりと何かを待つだけの日々を送っていた。それは、眼を開けていても何も見えないし、人がいても、誰だとは認識できなかった。 人は皆、同じに見え、話し掛けられる声は、全て遠くの山間から聞こえる鳥の鳴き声のようだった。
胡散臭い親戚や、どこからか湧いて出来た縁者が集う結婚式は、母の希望で自宅で慎ましやかに行われた。
僕にとっては結婚式であろうが葬式であろうが、何の感情も呼び起こさない只の日常に過ぎない。
僕は母の進められるがままに結婚をした。
母は手放しで喜び、父は穏やかに微笑むだけだった。
そして「お前にもいつか、母さんの気持ちが判る時がやってくるだろう」と言った。僕にはその意味がわからない。判りたくもない。姉妹たちからはなぜか、哀れんだような目で僕を見「おめでとう」と告げられた。
僕の妻になった女性は、僕をどう思ったのだろうか?
なぜ僕の妻などになったのだろう?
噂は知っているだろに。
口数の少ない妻という女性は、僕より愛する男はいなかったのだろうか?
こんな僕に嫁いでこようとする酔狂な女などいるものか。
そう考えるときっと彼女は僕の家柄を目当てに嫁がされた哀れな女性なのだろうと推し量った。
ある意味、僕と彼女は同じ立場の人間なのかもしれない。
いや、そう考えるのは彼女が寂しい人間であれば良いと、自分より下に位置する人間から安心感を得ようとする僕の卑屈な心に他ならない。彼女は僕を軽んじて見つめ、優越に浸っているのかもしれない。
―――『同類相憐れむ』良い言葉じゃないか。
お互いの身の不幸を嘆こうではないか。
そうすることで、君も僕も生きてゆけるなら。
それは僕のせめてもの愛情だ。
時期がくれば、痛みも薄れ、やがてこの家全てが君のものになる。
どうせ、僕の人生など蟲のように短いだろう。
今の僕に欲しい物などありはしないのだから。
唯一、望んだものは既に僕の元にはないのだから。
僕が結婚をして数ヶ月の月日が過ぎた頃、どこから洩れ出たかは判らなかったが、僕と漆器屋の後継ぎが男同士で乳繰り合っていると噂された。
失笑すらでないとはこのことだ。
もう終ったことなのに、と苦笑いを浮かべても僕の大きく開いた空洞はちっとも埋る素振りを見せなかった。
なんて、遅い情報だ。
僕たち二人が付き合っていたことなんて高校時代からじゃないか。
あの頃に噂が流れていれば、少しは違った人生になっていたのだろうか。
僕は頭を振りつつ今のこの状況を笑えるまでに自己完結できているようだった。
―――『噂』? 事実だから正確には噂などではないのだが。
軽んじられた目線を送られても、僕には痛覚など当の昔に無くしてしまったものであり、今更、どの辺りが痛むなどというのだろうか? しかし、人々は僕の家柄に怯え、あからさまに非難する者等はいなかった。
だが、真史自身や、真史の家はどうだろうか?
僕への非難は真史へ数倍の大きさとなって侵食しているようだ。
「良い仕事をするのに、勿体無いわね」
「…あそこの長男でしょ…噂になっている…」
「ふしだらな」
流石に僕が絡んでいると見えて下働きの者達もこの話題には触れていなそうだった。まぁ、僕がいない時や、妻の耳には入っているだろうと思われるが。
そんなことはどうでもいいことだ。
今の僕にはなんの枷にもなりはしない。
ただ、燻っている何かドス黒い何かの正体を気付かないように注意を払うだけだった。
持ち直した身体は、何の因果か又使いものにならなくなっていて、僕は屋敷から殆ど外出することがなくなった。
医者も嫌いだ。
あの白い匣のような建物も嫌いだ。
若い頃より拍車をかけるように毛嫌いする自分がいた。
日を追って体は衰弱し、思うように動かなくなってしまった。
医者はただ、原因は判りませんと言うだけ。
可笑しい。
答えは判りきっている ……そうだ、真史だ。
…真史が足りない。
動かない体を叱咤することも無く、流れる時間をそのままに生活しつづけた。
身体も又、具合が悪くなり思うように動かなくなったことも一因なのかもしれないが、何より真史がいる街へ出かけるのが怖かったからだった。数えるのも億劫になってしまった年月が、幾年か過ぎた頃、一度だけ、真史と鉢合わせをしたことがあった。
それは、いつまでも変わらない姿の真史が、僕の知らない男と店先で談笑している姿だった。
後先を考える余裕すら、僕にはなく頭に血が上り、そのまま真史のところへ歩み寄ると顔を殴りつけ、怒鳴っていた。
「何人の男を誑し込んだんだ! 淫売っ」
真史の顔つきは僕の突然の行為に驚愕に歪んでいる筈だったが、睨みつけて見下ろした真史の顔は、嬉しそうに笑っている様に見えた。昔と変わらぬ、美しい笑顔の真史に僕は驚き、苛立ちを隠せぬまま、足げにして蹴り上げた。反抗しない、
ただ僕に殴られて地に伏せている真史を僕は何度も蹴り上げて溢れる感情のまま、蛮行を繰り返した。
騒ぎを聞きつけた往来の人々が僕たちを遠巻きに取り巻いて事の成り行きを興味深げに見つめていた。騒ぎの中心にいるのは僕と真史だけで、僕が苛立った原因のあの笑いあっていた男はいつの間にか立ち消えていた。
僕は「下司」と言葉を吐き捨て、その場を去った。
その場を一度も振り返ることはしなかったが、真史は渇いた土の上に身を横たえて通りすがりの人々から好奇の目で見られていることだろう。そんなことは知ったことじゃない。僕は彼が舐めた苦汁以上に辛い心労を味わっているんだ。そして僕の心は壊れてしまったんだ。
なのに、なのに…君は楽しそうに笑って …僕以外の男と笑いあっていたんだ。僕以上の激情を持って、僕以上の束縛を持って僕を愛していると言ったその口で、僕に別れを切り出した君を僕は呪った。