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4)真夜中のオシレータ −前編−

嵯峨と初めて会ったのは入社一年を過ぎた頃だった。

春の人事異動で、役職を退くことになった部長の後任として、米国の現地法人から呼び戻されたのが38歳の嵯峨だった。この年で部長になるのは、この会社では早い出世である。頭脳明晰で英語はネイティブレベル、自信家で超我侭、競合他社との武勇伝は数知れず……。そんな噂を聞いて、のんびりとしたこの職場にそんな人が来たらどうなるのだろう、位にしか思っていなかった。その姿を目にするまでは。

「この度、山田さんの後任になられました嵯峨崇さんです。アメリカと欧州にそれぞれ5年間赴任されてました」
朝礼時に紹介があった。頭の回転の早そうなその男は、姿勢の良い長身を仕立ての良いスーツと派手な色のシャツで身を包み、ややウェーブのかかった髪からは、整髪料とは違う爽やかな匂いがした。むさ苦しい研究所には似つかわしくない、毛色の違った年上の男の出現にすっかり舞い上がってしまい、当の本人の自己紹介は殆ど耳に入らないほどだった。

その日以来、嵯峨の姿を目で追う日々が続いたが、不運にも嵯峨の仕事は自分がやっているものとは直接関係がないため、関わりあう事がなかった。電話での会話からは、仕事に対して妥協しないスタンスが伺い知れるのみで、私的な情報などは一切得られなかった。それでも外国帰りの問題児に関する情報は部の内外をかけめぐり、結婚していて子供が一人いるという事もほどなく知らされた。ノンケに恋して悲しい思いをするのは慣れているとはいえ、それは聞きたくない事実だった。

嵯峨が赴任してきて一ヶ月後、嵯峨を含め異動してきた者の歓迎会があった。お洒落な嵯峨に見られても恥ずかしくないように、出張の時にしか着ないスーツを着て出勤した。参加人数は20名余りだったが、嵯峨の隣に座りたいという野望は、
「それでは、まず禁煙席と喫煙席に別れましょうか」
という幹事の一言で打ち砕かれた。嵯峨はヘビースモーカーなのである。

「じゃあ周防美さんはこっちね〜」
非喫煙者の女性数名に、夜景の見える窓際席に有無を言わさず連れ去られた。自分がタバコを吸わないのは皆が知っているので、喫煙席に行くことはできない。嵯峨は遥か彼方の席にいる。酒宴が始まる前から帰りたい気分になった。

「周防美さん、今日はすっごく素敵じゃない! 作業着なんかやめていつもスーツにすればいいのに」
女性と話すのは苦手ではないが、今夜は少しでも嵯峨と話せる事を期待していただけに、愛想笑にも力が入らなかった。気のない相槌を打ちながら、遠方の嵯峨の様子を伺う。普段は見られないリラックスした優しげな笑顔がそこにあった。煙草を挟む長い指、笑った時に見える目尻や頬の皺。あの輪の中に入って少しでもあの人の事を知ることが出来たら… そのうち、嵯峨の隣に座っていた同期の鈴木がグラス片手に割り込んできた。

「おう周防美、お前だけハーレム状態だなんてズルイぞぉ」
だったら席代わってくれよ、と心の中でつぶやきながら、
「普段の行いが良いからさ。でも可哀想だからこの特等席、ちょっとだけ譲ってやるよ」
恩着せがましくそう言って席を立った。

広くて落ち着いた内装のトイレには誰もいなかった。酒は飲めない訳ではないが、顔がピンク色になって「色っぽい」を連発されるのが嫌なので、余り飲まない事にしている。今日は女性陣に無理やり飲まされたワインのまわりが早く、顔がかなり火照ってしまっている。冷たい水で顔を洗い、ペーパータオルで拭っていると、そこに嵯峨が入ってきた。

「どうした? 気分でも悪いの?」
顔を覗き込んできた。
「あ、いえ、ちょっと酔っ払って熱くなっちゃったんで冷ましてたんです」
「ああ、そういや耳が真っ赤だね」
そう言って笑いながら軽く耳を引っ張った。…嵯峨さんに触られた! 

「ところで周防美さん、ひょっとしてご先祖は北欧の出身?」
言葉が見つからずに突っ立っている自分の顔を鏡越しに見つめながら嵯峨が言った。
「えっ?」
「『スオミ』ってフィンランド語で『フィンランド』の意味なんだけど、関係あるのかなと思って。周防美さん、透き通るみたいに肌白いし」
「…はあ、でも、外国に親戚はいないと思いますけど…」
「ははは、そうだよねえ、変なこと聞いちゃって、私も酔っ払ってるのかな」

フィンランドってどこだっけ? せっかく話し掛けられたのに、まともな返事が出来なかった自分が情けなかった。そうこうしているうちに嵯峨は奥に用を足しに行ってしまった。もう少しタイミングがずれていれば、隣に並んで嵯峨のお宝を拝めたかもしれないのに…。酔いも手伝ってスケベモードになっているのか、そんな事を悔やんだりした。

歓迎会は、平日だからと二次会もなく、あっさりとお開きとなり現地解散した。結局トイレでの会話以外に嵯峨と話す機会はなかった。酒の酔いは覚めている頃なのにまだ熱っぽく、多少喉も痛い。風邪を引いてしまったかなと思い、薬を買うためドラッグストアに立ち寄った。一人暮らしは病気をした時にその不自由さを痛感する。薬以外にも必要になりそうな物を物色していると、レジに並ぶ嵯峨の姿が見えた。この機を逃してはならないと思い、急いで嵯峨の後ろに並んだ。嵯峨のカゴにも風邪薬やドリンク剤が入れられていた。

「お疲れ様です。嵯峨さんも風邪気味なんですか?」
勇気を出して声をかけた。
「ああ、周防美さんか。これ? いやそういう訳じゃないんだけどね、気付いた時に買っとかないと1人暮らしだからいざという時に困ると思って」
「えっ、でも嵯峨さん、ご結婚なさってるんじゃ…」
「そうなんだけど、家内と息子はアメリカに残ってるんだよ。学校変わりたくないらしくて」
「へえ、そうなんですか… じゃあ、1人で寂しいですね」
「そうだねえ。時差があるからそんなにしょっちゅう電話する訳にもいかないしね。周防美さんは、ご家族と住んでるの?」
「いえ、僕、会社に一番近い寮に住んでるんです」
「○町の? 私も入社当時はそこに住んでたんだよ。懐かしいなあ」
「そうなんですか? 建物は古いけど、広いのは気に入ってるんです」
「ははは、私の住んでた時は新築だったんだけどね。そうかあ、じゃあ一人暮らし同士、たまには晩飯でも一緒にしようか?」
「うわ、ほんとですか? もちろん嵯峨さんの奢りですよね?」
「もちろん。でもタダほど高いものはなかったりしてね」

店を出てから地下鉄に乗るまでの間、トイレの時よりもずっと長く話をすることができた。平静を装っていたが、心臓はバクバクし、嵯峨の話した一言一句を記憶に留めるのに必死だった。

「じゃ私はこっちだから。今日はどうもお疲れ様でした。風邪こじらさない様に早く寝るんだよ」

地下鉄構内に入って別れ際に嵯峨が言った。じっと目を覗き込み、子供に言ってきかせるように。まわりに誰もいなければ抱きつきたい気分だった。嵯峨に一目惚れした日からずっと切ない気分が続いていたが、今日はやけに心が軽やかだ。初めて嵯峨と話ができたから? 嵯峨が一人暮らしをしているという事を知ったから? 奥さんがアメリカにいるのなら不倫もアリかな。今まで好きになった男は皆ノンケだったんだし、当たって砕けろだ。嵯峨さんも僕のこと嫌っていないみたいだし! 素面なら考えもしないような楽天的な思考が頭を駆け巡る、春の夜の帰り道だった。

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