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15)  初恋の味

それは小学校に入学した春、アパートや一戸建てが混在する下町に引っ越してきたばかりで近所に友達もいない時だった。
共働きの両親は夜遅くまで働いていたが、10歳年上の兄が遊んでくれるはずもなく、放課後はいつも一人だった。ある日曜日の昼下がり、公園でボール遊びをしていると、植え込みの下からミー、ミーと、か細い泣き声がした。覗くと、ガリガリに痩せた仔猫が近寄ってきた。抱き上げると、目を細めて気持ち良さそうにゴロゴロ言い出した。動物嫌いな母親が飼うのを許してくれるはずもなく、どうしようかと途方にくれながら仔猫を抱きブランコに乗っていると、中年の男に声をかけられた。

「ボク、その猫、おうちに連れて帰るのかい?」
「連れて帰りたいけど、お母さん、猫嫌いだから…」
男は近づいてきて腰を屈め、猫の喉を撫でながら言った。
「こんなに可愛いのにね。よかったらおじさんちで飼ってあげてもいいよ」
「本当? じゃあ、僕、おじさんちにこのねこ見に行ってもいい?」
「いいよ。おじさんちはこのすぐ近くなんだ」

おじさんは古びたアパートの2階で、若い男と二人で住んでいた。ミーと名づけられた仔猫は、昼間は猫好きな隣のおばさん宅に居候していた。それからは、平日の放課後はミーに会いに行き、休日はおじさんとキャッチボールをしたり、同居人のケンちゃんとゲームをして遊ぶようになった。おじさんは40代位、中肉中背でくたびれてはいたが身なりはきちんとしており、サラリーマンらしくいつもスーツを着ていた。ケンちゃんは20代前半で、ハンサムだったが、体格が良いわりにどことなく女っぽいしぐさが子供目に見て妙な感じだった。人間は皆大人になると結婚して子供がいるものだと思っていた当時、男二人で住んでいる彼らが少し不思議だった。

「おじさんは結婚しないの?」
「結婚? してたけどね、離婚しちゃったんだよ」
「リコン?」
「もう一緒には暮らしてないってことだよ」
「何でもう一緒に暮らしてないの?」
「いろいろあってね。ユウ君が大人になったらわかるかな」
「ユウ君は可愛いから、大人になったら、悪いおじさんに気をつけなきゃだめだよ」
ケンちゃんが悪戯っぽく笑いながら付け加えた。

遊びにいくと、おじさんはよく市販の「プリンの素」でプリンを作ってくれた。母親に手作りのお菓子を作ってもらったことがない自分にとってはそれは珍しく、茶碗より大きなボウルいっぱいのプリンをほおばる幸せは、家族に構ってもらえない寂しさを忘れさせてくれた。そんな楽しい日々が続いていたある日曜日、いつものようにおじさんの家に行くと、暗い部屋の中でおじさんがミーを膝に抱いてぽつんと座っていた。部屋の荷物が半分ほどに減っており、そこにはケンちゃんの姿がなかった。

「おじさん、お兄ちゃんは?」
「出ていったよ。」
「いつ帰ってくるの?」
「さあね……。もう帰ってこないだろうね。おじさん、また一人になっちゃったな、はは…」
そう言って顏を上げた目は、真っ赤に腫れていた。理由は分からないが、こんなに優しいおじさんを泣かているケンちゃんが許せないと思うと同時に、おじさんを励まさなくてはという思いで、とっさにおじさんの膝に手を置いて言った。
「一人じゃないよ。ミーがいるじゃん。それに僕も遊びに来るし」
「ありがとう。ユウ君は優しい子だね。おじさんにもユウ君くらいの子供がいるんだよ。もう会えないんだけどね……」
そう言っておじさんは膝に置かれた手を取ると、迷惑そうに降りて行ったミーの代わりに自分を膝に乗せ、優しく頭を撫でた。
おじさんの首に両手を廻して顏を近づけると、全身をおじさんの匂いに包まれたような気がした。その感覚は、嬉しいとも悲しいとも違う、6歳の自分には言葉で説明のつかないものだった。ただ、いつまでもこうしていたいと思った感情だけが、その後もずっと記憶に残っていた。やがておじさんはハンカチで鼻と涙を拭うと、思い出したように言った。
「そうだ、ユウ君が来ると思ってプリン作っといたんだよ。今日は二人で食べようね」
いつも3人で食べていたプリンを二人で食べた。それがおじさんと過ごした最後の日だった。

夏休みに入ってすぐ、法事で田舎に行ったついでに、そこで何週間か過ごすことになった。海も山もある田舎での生活は刺激的で楽しく、おじさんの事もすっかり忘れていた。東京に帰り、こっそりくすねてきたお菓子をお土産におじさんの家に向かうと、表札がなくなって、玄関のドアノブに小さな紙袋が掛かっていた。状況が掴めないものの、もうおじさんはここにはいないのだということだけは分かった。帰ろうとすると、隣のドアが半開きになりおばさんが顔を覗かせていた。おばさんの足元からは、すっかり大きくなったミーも顔を覗かせていた。
「あら、ユウ君、お久しぶりね。夏休みはどっか行ってたの?」
「田舎のおばあちゃんちに行ってたの。ねえ、おじさんは?」
「ああ、ユウ君来ない間に引越しちゃったわよ、この仔置いて。困るのよね、うちもうこの仔で6匹目なのに」
「…どこ行ったかわかんないの?」
「わかんないわ。ここのアパートの人はみんな突然いなくなっちゃうから。まあこれで夜静かに眠れるようになって私は嬉しいけどねぇ。あの人達、毎晩大変だったから」

そのうち近所に友達もでき、遊びやサッカーに夢中になり、おじさんの事を思い出すこともなくなっていった。中学生の時に中年の男性教諭を好きだと自覚した時、初めて、おじさんに抱きついた時のあの感覚が何だったのかがわかった。落ち込んだ時にプリンが食べたくなるのも、無意識にあの頃の幸せがよみがえるからかもしれない。自己管理に厳しい嵯峨は、体型維持の為に殆ど甘いものは食べない。資質と才能に恵まれ、それなりの地位を得ている恋人の愛を欲しいままにしたいと願う一方、心のどこかでは、一緒にプリンを食べてくれるような、くたびれた中年を求めている自分がいる。それが「若くて綺麗な男」が好きな嵯峨が、いつか若くも綺麗でもなくなった自分に興味を持たなくなるかもしれないという不安から来ているのか、
単に「初恋の男」を追い求めているだけなのかは、自分でもわからなかった。だが、この気持ちを満たしてくれるかもしれない男がこの世のどこかに存在し、出会いの時を待っていたのだった。

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