>> 真夜中のオシレータ > 01 / 02 / 03 / 04 / 05 / 06 / 07 / 08 / 09 / 10 / 11 / 12 / 13 / 14 / 15 / 16 / 17 / 18 / 19 / 20 / 21 / 22 / 23 / 24 / 25 / 26 / 27 > site index

BACK INDEX NEXT

17) 雨の御堂筋

次の月曜日、始発ののぞみで大阪に向かった。今回の出張は春原と一緒だった。嵯峨に「それ見たことか」と言われそうで悔しいが、この部下は自分に興味があるらしく、逐一チェックを入れてくるので油断できない。  

「あっ、周防美さん、いいなあそれ。ボーナスで買ったんですか?」
「え?」
「腕時計ですよ。ブルガリの新しいやつでしょ? 定価で買ったら40万位しますよね?」
「えっ、そんなにするの?」
「そんなにって…自分で買ったんじゃないんですか?」
あの夜、俗っぽい女の子風に冗談で言っただけなのに、嵯峨がいつのまにか買って来たのだ。初月給で買った国内メーカーの腕時計が気に入ってるし、ブランド時計には全く興味がない。こんな物でご機嫌を取ろうとしている愛人を喜ばせるために、早速それを身に着けている自分は健気だと思う。だが、周りの評判が良いとまんざらでもなく、真新しい時計は見た目にも美しかった。  

「違うよ、知り合いの時計屋に無理やりローンで買わされて、明細見てないんだ」
「本当ですかぁ、お金持ちの彼女に買って貰ったとかじゃないんですか?」
「実はそうなんだ。僕よりずっと高給取りなんでね」
「やっぱり彼女いるんじゃないですか。へへ、だって周防美さん、たまにキスマークつけてますもん」
「やあねえ、そんなとこ見てるなんて、ケンタのエッチ!」
平静を装ってふざけつつ首筋を押さえた。出張前夜の嵯峨はわざと跡をつけるのだ。
「大丈夫、今日はついてませんって。周防美さん、誘導尋問に引っかかり易いから面白いなあ」
やれやれ、今回はこいつと一緒だから、榎田さんと二人きりにはなれないだろう。月一のお楽しみが半減だ。 

                  * * * * *  

それは3ヶ月前、雨の降り続く大阪に出張した時だった。本町の客先に行った帰り、ふと買い物を思い出した。雨降りで面倒だなとは思ったが、1度も行ったことのないミナミ界隈に出てみるのも良いと思い、傘を差して御堂筋を南に向かった。しばらく歩くと、後ろから一人で歩いてきた中年の男に追い抜かされた。抜かされる瞬間に何気に男の顔を見て、目を疑った。それは27年前、春から夏をともに過ごした、あのおじさんの顔そのものだった。自分が30歳を過ぎている今、それが「彼」であるはずはないのだが、余りにそっくりだったので呆然と立ち尽くしてしまった。男は早歩きであっという間に遠くに行ってしまったので、急いで後を追った。追ってどうなるのかなどと考える余裕もなく。大きな交差点に差し掛かると、運良く赤信号になった。やっとこれで追いついたと思いきや、車の途切れた一瞬の隙に、男を含めた数人がさっさと横断して行った。こんな大きな道路を赤信号で堂々と渡る姿にあっけにとられているうちに、男の姿も心斎橋の人ごみにのまれて消えてしまった。

買い物は無事に終えたものの、突如現れた初恋の男の生き写しに、夜の街の散策どころではなくなっていた。大人になってからは思い出すことのなかった短く幸せな時の思い出が一気によみがえった。自分が拾った仔猫のミーを引きとり、置き去りにして行ったおじさん。おじさんとケンちゃんとの間に何があったのだろう。自分が田舎で過ごしている間もおじさんはプリンを作って待っていてくれたのだろうか。あれからおじさんは、どこでどんな人生を送ったのだろうか……。  

翌日は関連会社での仕事が待っていた。この会社には何度も来ているが、その部署は新規の顧客で、訪れるのは初めての事だった。名を告げて部屋に通され、担当者が来るのを待っていた。数分してやってきた担当者の姿を見て、心臓が止まりそうになった。昨日、御堂筋で後を追った男がそこに立っていたのだ。 

「お待たせしてすみません。私は榎田と申します。このラボの室長やってます」
そう言って、白いワイシャツの胸ポケットに入れた手帳から名刺を取り出した。
「は、初めまして。私は、○社の周防美と申します」
急激に心拍数が上がって震える手で、辛うじて名刺を交換した。相手の名刺には「榎田正隆」と書かれていた。記憶に残るおじさんの苗字とは違っていた。
「周防美さん、ですか。珍しいお名前ですね。大阪は蒸し暑いでしょう。奥の実験室に行きましょう、あっちは寒いくらい冷房効いてますよ」
異常に赤面していたに違いなかったが、それは暑さのせいだと思われたようで安心した。  

実験室では、最新の機器のデモ操作を見学に来たエンジニア達が待ち構えていた。赤面は瞬時におさまり、榎田の事を気にする余裕もないまま、ひたすら操作を説明して午前中が終った。昼休みになり、榎田とその同僚達と一緒に食堂で昼食をとった。食事中はお喋りな同僚のおかげで榎田と話す事ができなかった。食事が終り会計を済ませると、榎田に声をかけられた。 

「周防美さん、もし用事なかったら、ちょっとお茶でもしませんか?」
「えっ? はい、喜んで」
大食堂の向かいには、禁煙席と喫煙席が二つの部屋に分かれた喫茶室があった。
「周防美さん、タバコ吸いますか?」
「僕、吸わないです」
「良かった。私も吸わないんでね。このご時世にタバコ吸う人の気が知れないですよ」
榎田はクリームソーダ、自分はアイスティーを注文した。
「私みたいなオッサンがクリームソーダって可笑しいでしょ。でもこれ子供の頃から好きで、今だに喫茶店入ったら注文してしまうんですよ。」
照れくさそうに笑いながら、ストローの先でクリームをすくって舐めた。一見強面だが、眼鏡の奥から覗く一重瞼の目の優しさは、おじさんそっくりだった。この人なら一緒にプリンを食べてくれるかもしれないという妄想が広がった。
「可笑しくないですよ。僕も甘いもの大好きだから、パフェとかよく注文します」
「ははは。周防美さんは甘いマスクだから、似合うじゃないですか。ところで、○X事業部って嵯峨さんがトップですよね?」
「嵯峨をご存知なんですか?」
「新人の頃にお会いした事があるんです。あの頃からすごく目立つ人でしたよ。私と同い年じゃないかな、確か。今じゃすっかり出世されて、えらい違いですけどね、はは」
嵯峨の名前を出されて、急に現実に戻されたような気分になった。 

午後もデモ操作が延々と続き、その途中に榎田は会議で部屋を出ていって戻らず、自分は時間が来たので東京に帰らざるを得なかった。非常に残念だったが、これからも会うことができるのでその日は諦めて帰ることにした。昨日、本町で見かけたのが彼なのかどうかを確かめてみたかったが、そんな事はもうどうでも良い気がした。彼とは、現実にここで再会したのだから。

                 **************************

それからは毎月榎田の部署に出向くことになり、仕事とはいえ、榎田と一緒にいる時間ができたのが嬉しかった。一番驚いたのは、榎田がまだ独身だという事だった。その歳で独身の者は自分の周りにもいるので特別だとは思わないが、気になる相手が独身だと聞いては心穏やかではいられない。今まで好きになった男は嵯峨を除き全てノンケだったので、榎田も当然そうだと思っていた。だが、もしそうでないとしたら? だとしたら、自分は彼をどうしたいというのだ? そんな自問自答を繰り返しながら、同年代の友達の様に接してくれる榎田とは「歳の離れた兄弟」みたいなイメージで付き合ってきた。 

今回は1週間の滞在で1回だけ榎田と飲みに行ったが、春原が付いて来た。昼休みもずっと春原が一緒で、榎田と話ができなかった。次回の出張からは、この男と同行にならない様にスケジュールを組まなくてはならない。帰りの新幹線の隣席で爆睡している部下を横目に見ながら真剣にそう思った。初恋の面影をなぞる旅は、今回は不発に終った。窓ガラスには、良からぬ事を期待して、それが外れてがっかりしている愚かな男の顔が映っていた。頬杖をついた腕の袖口から覗く時計が反射して鈍く光っていた。

BACK PAGETOP NEXT

Designed by TENKIYA