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1) 喧嘩の原因

今年は例年になく夏だというのに、三十度をきる日が多く、比較的過ごしやすい日々の天候が続いている。僕はあまり夏は好きではなく、どちらかと言えば秋や春といった中途半端な気候が好きだ。
 しかし、そんな気候の話を頭の中で色々考えてみても、今のこの複雑怪奇な状況の中では、あまり意味をなさなかった。
この歳になると色々と悩みがあり、顔にニキビをつくったりして青春しているのだか、僕のものはそんな簡単明瞭な悩みではなく、頭が盲腸で、腹が頭痛になりそうなものだった。

 僕の前をせかせかと足早に歩いている人間こそ、僕自身最大の悩みの元凶である。歩きながら文句を垂れ流し、まるで聞き分けのない子供のような態度を示す彼。藤村 琳である。

「琳、琳、ちょっとまって話ぐらい……」
戸惑いを隠せない調子で琳に声をかけ、腕をつかみ振り向かせた。
「……なんだ……用か?」
振り向きざまに単語を並べると、呼ばれたのが気にさわったのか僕の方を上目づかいにチラリと見やり、言い返した。
 僕はひとつ大きなため息をつき、
「あのねぇ……いや、何怒ってるの? 何かした? 黙っていたらわからないよ」
上背があり、均整のとれた体格をし手足がスラリと伸びている、彼。
今年流行りの格好をすれば、声はかけられるし、振り返られっぱなしっていう具合だ。但し、今日のスタイルは玄人ウケのするものだったので、別の意味で振り返られているような気もするが……。
 不健康なハードロッカーの様な破れたTシャツ。しかも、わけのわからない何がしのバンドのプリント。(僕は音楽にはあまり詳しくないので、それが、有名なバンドなのかどうかも判断がつかないのだ)   
いくら、気温は夏にしては低いとは言え、皮の黒ズボンは曲がりなりにも夏だという事を忘れているようだった。

 余計なことに気をとられ考え込んでいると、姿とは不釣合いな優しい目をした彼が言った。
「……ごめん、悪かったよ。八つ当たりするつもりはなかったんだけどナ……」
「いや、いいよ。それより、理由はいったいなんだ?」僕は、彼に詰問した。
「……茶店でも、行かないか?」
琳は、そういうと僕の手を引きながら近くにあった店に入った。

  僕は、なんとなくわかっている答えを、頭の中で思い描きながらも『理由はいったいなんだ?』と彼に問う。僕自身は彼が不機嫌になった理由を少なからず思いあたっているにも関わらず、だ。白々しく彼に知らないふりをする嫌な自分がいた。                    
 僕は琳に連れられて渋々と歩き、通りに面したテーブルに腰を落ちつけることにした。少々広めのフロアに今風とでもいうか、塗装を施していないコンクリートの壁と、剥き出しの空調ダクト類が天上を覆っていた。大理石風のマーブル模様のテーブルが六つ程有り、座り心地の悪そうな椅子が置いてあった。壁や床には所狭しと並べ飾られたラッセンの絵があ り、いかにもアルバイトだと言わんばかりの女の子が水とお絞りを運んできた。

 琳の姿や態度が気になるのか、コーヒー注文してもなかなか引き下がらなかった。そんな態度を知ってか知らずか、琳は僕の方を向いて「ケーキ食べていい?」と言い、先程の態度とは全く違い可愛らしい声で聞いてきた。
「密も食べるだろ? 好きだもんなぁ」と言うと、
僕の意志とは関係なく、右手でVサインをしながらバイトと思しき女の子に元気よく注文した。黄色の花柄のスカートをゆっくりと引き摺るように、カウンターの方へ歩いていった。
彼女が僕達のテーブルを去ってから、ホンの数分しかたっていないのに時間がとても長く感じられた。

「さっきの話の続きだけど……」
頭の中に思い描きながら彼に質問した。
テーブルに肘をつき、左の手の平に顎をのせ、辺りの人々や店の中を、焦点の定まらぬ視線を向けながら僕の話を聞いているようだった。
その時、彼の右耳のピアスが鈍く光った様な気がした。
「お前と茶を飲むのに、なんで不愉快な奴の話なんかしなくちゃいけないんだ? 毎月毎月……奴の事でェ……クソッ」
彼は言い淀みながらも、言葉を慎重に選んでいるようで僕への配慮が垣間見られた。 

やがて長い沈黙を破るように、深いため息を吐きながら声の調子を下げ「……奴の話はするな!」そう、一言いったきり黙ってしまった。彼と喧嘩をしたくないのは僕も同じだ。毎月毎回、彼と同じ言い争いをするのは嫌だった。

 先程の女の子が注文の品をテーブルに並べるカチャカチャと食器が触れあい、音をたてて並べられていった。
話の続きをすると彼の態度が一変し、頑なに人を拒む姿勢を見せつける。
何者も寄せつけない目、触れると電気がほとばしる様な張りつめた空気。声が出せない、言ってはいけないのだと頭の中が僕自身の声で満杯になってしまった。

「……あいつが……俺の親父だということは、誰もが知っている事実だ。そんなことは……わかっている。だがな、俺とあいつが親や子として……家族を装って暮らしたのはたった二年間だ。その間、俺が嬉しかったなんて思うか? 
何度、武上の家に向かったと思う? 夜中に抜け出したら……こっぴどく殴られた。それからは二度としなかったけどな」
彼の言葉は僕を責めている様に思えて仕方がなかったが、しかし、罵られているのは彼の父親であり、彼の『家』そのものであった。その場の雰囲気は、気まずいものが漂いはじめてしまい僕は一言も口に出来なかった。

  彼に初めて出会ったのは、小学二年の未だ肌寒い春頃だったと記憶している。僕は、公園の中にある色とりどりのパンジーの咲き乱れる花壇の傍で、地面に色々な絵を描いて遊んでいた。母は僕が描いた絵の前で歩を止め、じっとこちらを見つめていた。真っ黒な服を着て、顔を黒いベールで覆われた母に会った。
僕は母が、遠い異世界の住人のように思え僕に向かって喋る母をぼんやりと見ていた。
「……密、いい子でお留守番してた? 橋本の叔母さんに迷惑かけなかった?」
僕は母に気をとられていて、母の後方にいた人物の存在は全くわからなかった。母はおもむろに後ろにいる人物を、僕の方へ押しやった。
「うぅん。大丈夫だよ、かあさん」
僕は気になるのに、わざと知らない人物の方は見ず、母の方をじっと見ながら答えた。しかし、母の表情は覆われている黒いベールのせいで推し量ることはできなかった。
「琳、こっちにいるのが密、武上 密よ」
母は僕をその知らない人物に紹介した。
「密、こっちにいるのが琳、藤村 琳よ」
「違う! 僕は……龍水 琳だ」
大きな声だった。そして、一瞬ではあるが母は困ったような表情をした。
「……密、今日から琳と一緒に暮らすことにしたわ。仲良くしてね……ねっ?」
僕は母の言葉を聞いていなかったかも知れない。目の前にいる不思議な存在感をもった“龍水 琳”に心奪われていたからだろう。

 僕の知らない人物は、“龍水 琳”と名のった。
琳と名のった人物は、僕と同じ歳の様に見えたが『お前なんか知らない』とでも言いたげな目をし、ギュッと結んだ口をして他人を寄せつけない態度をしていた。『自分以外のものは信じない』そういいたげな存在感で、僕を圧倒していた。
母が何故、突然彼を伴って帰ってきたか?
彼が何故、僕達と一緒に暮らすことになったのか? 僕にはわからなかったし、母に聞こうともしなかった。

  ただ、いつだったか忘れてしまったが、琳を見ながら『彼女に似てきたわ』と言ったのを覚えている。母の言った言葉は、僕の胸に奇妙な響きを与えた。僕と彼は、暫くの間、仲良くもなく、かといって悪くもない(お互いの存在は理解しているのだが、意識のしすぎで着かず離れずの状態のようだった)中途半端な感じだった。
そして、あの事が起こった。

 僕は外で遊ぶのは余り得意ではなく、どちらかといえば家にいる方が好きな子供だった。友達は四時頃までは外で遊び、その後は母親が迎えに来て塾へ行くパターンが多かった。
 僕の母は看護士で父は薬剤師だったが、放浪癖のある父は、お金が入ると何処かに行ってしまって、知らない土地から絵葉書が舞い込む、という事を繰り返していた。そんな父でも、母は見捨てるわけでもなくただ黙って付き従っていたように思う。父親が常時いる家庭ではなかったし、まともに家へお金を入れる父ではなかったので、裕福と呼ばれる家庭ではなかった。
 しかし、父は僕にとって優しい父親であり続けた。父親としては、僕にとっては最高だったと思う。
本当のところ、最高か最低かは父しか比較対照を知らなかったので僕の範囲のみでの話だが、しかし、夫としては最低だろう。母が何故、あんな父と一緒になったかなんて、生きていた頃ならまだ聞く気もするが今更、愚問の様にも思える。
 父が亡くなったのは、あれはたしか小学校の三年生のまだ暑さの残っていた九月を、半ば過ぎた頃だった。僕も母も父の死に目には会ってはいない。ただ、手紙が僕達のもとへ届き、書かれた内容が父の死亡についての事だった。ケニヤのナイロビで病死した事、手紙は日本語が書ける留学生が頼まれて書いたこと。そして、父を見取ったのは、フランス国籍のケニヤ人の女性だった事、の三点だった。
 カラフルに思われたエアーメールが、やけに白く、重く手の中に沈んだ。母も僕も何故、父がナイロビにいたのか知るはずもなく、又、それ以上の事を知ろうともしなかった。それからというもの、父の死亡を知らされてからは、母が外務省やいろんな役所を駆けずり回って、もろもろの事柄の事後処理に追われていたことは確かだった。

 そして、母は手紙を焼いた。
いや、手紙だけではなく、写真も服も何もかも手元に残すような事はしなかった。
僕は母に内緒で父の写真を一枚だけ抜き取り、隠した。
母の表情はそれ以後も何ら変化はなかった。
悲しくはないのだろうか?
母は泣かなかった。もしかしたら、僕のいないところでは泣いていたのかも知れない。僕は、母が父を思って泣く事を、知らず知らずのうちに期待していたのかも知れない。そして、僕も泣く事が当たり前だと思う気持ちが、心のどこかにあったのだ。
ただ、泣けるかどうかは別にして……。

あの事が起こって以来、僕と彼の間に何かしら言いようのない何かが起こった。

 僕は人に見られるのが嫌で(いや、知られるのも嫌だったのかも知れない)シャワーを浴びるふりをして泣いた。
それ程、僕は父を求めていたのだろうか?
ただ、泣くことによって僕は自分の気持ちに整理をつけたかった。泣くのはこれ一度きりと決めたのだ。そう思い定める事により、他人からの同情を受けたとき、崩れ去らないようにするために……。
弱い自分を曝け出さぬようにと……。
 しかし、世の中というものは、自分の思い描いた絵のように、うまく行くとは限らない。この時、泣いた事を知っている者がいた、琳だ。
           
「……男が泣くなんてみっともない、って誰かに言われたのか?」
「……うん……」僕は、止まらなくなってしまった涙を、ただ流れるままにし、下を向いてしまった。
暫くの間、僕をただじっと見つめていた琳が、ぼそぼそと聞き取りにくい言葉を発した。
「……今度、一緒に行こう。……へ」
「……なに??」僕は彼の最後の言葉が、よく聞き取れなかったので、彼の顔を見ながら聞き返した。
「……キグナス……」                    
彼は頬をやや赤く染めて、はにかんでいるように見えた。
「きぐなす?」
「明日、望遠鏡をもって見に行こう。白鳥座のクチバシの部分に、アルビレオという星があるんだ……一緒に見よう」
「……見えるの?」
「あぁ……見えるよ、お前と一緒だ」彼が笑った。
彼の笑顔を初めて見た日だった。
そして、その晩、僕は彼の胸で泣いた。
僕と同じぐらいの胸の広さなのに、その時はとても大きくて暖かで、彼の心臓の鼓動がささくれだった僕の心を優しく撫でてくれた。
「泣けないときは、俺に言うんだぞ、俺がいるからな!」
「うん……うん、ありがとう」

 翌日の夜、二人で見た夜空は、それはそれは美しいものだった。彼が教えてくれた白鳥座のアルビレオは、その美しい星々の中でも一際美しく、ルビーの様な輝きで僕達の前で輝いていた。
「アルビレオは、二重星だよ。その傍に少し暗い小さな星があるだろう?」
「あの……小さな青い星のこと?」
「そうだ。アルビレオは、全天体の中でもっとも美しい二重星だって言われてる」
彼の表情は今までにないぐらい豊かで美しかった。
「……晴れてよかったね」
「うん」
この事があってから、僕達は急速に接近していった。

  彼について、人はそれぞれ違った見解を持っているに違いない。それは、彼が人それぞれに違った彼を見せているからだと思う。本当の彼、彼を理解している人物はいるのだろうか。僕は、彼を理解している唯一の人になりたかった。
彼は『俺はいつも、排除される側の人間だった』と言っていた。『回りの奴らは皆、欺瞞に塗れた人間達ばかりだ。薄ら寒い錆ついた言葉で、洗脳してくるんだ』彼は見かけより遙か年上に思われた。
 彼はよく変り者と呼ばれたが、眉目秀麗で頭も良かった。そして決して本当の心を見せなかった。
(僕もその一人だが……)
僕は彼の一番近くに居るようで、その実、一番遠い所にいるのではないだろうか?
僕は彼の何を知っているのだろう。
頭がいいこと? 顔がいい? お金持ち? 本当のところ何一つ知りはしないのだ。
但し、彼は僕のことを知り尽くしている。 
『……僕が無器用なだけか?』
情けない自分に嫌気がさして、気分は最悪だった。

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