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32) 差し出された手

何も考えられないとはいうのはこう言うことを言うのだと、初めて知った。 自身の内部から揺さぶるような轟音の中で己の心臓が動いている音しか聞こえない世界に立ち尽くす自分を想像したことなどなかったのだから。何も聞こえないし、見えないのだ。目を覆うような真っ白な世界で立ち尽くし、激しい音に揺さぶられるような身体の揺らぎを感じて、唖然と立ち尽くすだけなのだ。

早すぎて呼吸もままならない時の止った世界に置き去りにされた恐怖に『全て忘れろ』と言われているようだ。其れは酷く、甘美な世界で己を呼んでいた。

其れは気持ちがいいような、耳障りのような、よく判らない感情を僕に与えようとしているようだった。
目の前に展開される光景が理解できない。赤い花が徐々に大きくなるのが見えた。

「…そか!…ひ……。…そ…かっ!」
急に、プールで遊んだ記憶の断片が垣間見えた。
水の中で喋ると声がくぐもって聞こえる感じに良く似ている。
ゴボゴボと耳障りな音で誰が何を言っているのか理解できないのはそのせいかもしれないと思えた。

不意に頬に痛みを感じて見えない現実に我に返るとそこには、僕より酷く慌てた琳がいた。
「…っ…」
頭の中では僕はちゃんと喋ることが出来るし、言葉もわかるのに、声に出そうとすると、何を喋っていいのかわからなくて言葉が出なかった。

―――『あぁ、嫌だ…。そんな悲しい顔をしないでくれ。どうして琳の方が僕を心配するような顔をしているの? 痛いのは僕じゃないのに…」

「ひそかっ! 大丈夫か? 密…俺の言う事がわかるな?」
「……」
「ひそかっ!」
「シッカリしろっ!! 俺を見ろ、見るんだ! …ひそかっ」
「あ…っ……」
「…密、見ろ。ほら、こっちを見て…」
「……い…やだ…」
琳のわき腹の辺りには徐々に大きくなりつつある赤い染みが、まるで生き物のように肥大していく様は琳を徐々に覆い隠していくように見えた。僕はそれを本能的に見たくないと思った。目をそむけて彼を見ないようにした。
「……ひそか…」
おおよそらしくない琳の声だと思うのに、声が出なかった。

『返事をしても…僕は役に立たないから』

妙な考えだと感じたが、それは名案のように思えた。
そうすれば、何も起こらないし、変わらない、安全な日常が戻ってくるような気がした。

「奥田…聞こえるか?」
この場の中で一番、傷つき、弱っている人間である琳が発した言葉は、意外にも一番この状況を捕らえている声のようだと思った。
社会を手放し、己の中に閉じこもろうとして必死になっている僕を尻目に、琳はもう一人の『放心者』に声をかけていた。
瞳孔が開いたような奥田先輩の肩を揺り動かし、問うた。

「あんた、このことは忘れるんだ。…俺の言葉がわかるか?」
奥田先輩は怪訝な表情で琳を見ているようだった。
「あんたは、このままここを去るんだ。 …そして、忘れろ!」
「?!」
「あんたなら出来るだろ?」
「俺たちも忘れる。 何にも無かったんだ! だから、あんたは今すぐここを出て行け。そして、二度と振り向くな。…そのまま、帰って忘れてしまえっ!」

―――『何を言っているのだろう?』
僕は会話になっていない二人の話を呆然と聞いてた。
奥田先輩は取り乱すというより、抜け殻のようでただ、そこに尻餅をついているだけだった。

難しい表情をした琳が素早く僕の元へのろのろと近寄り、空いた片手で僕の口へ指を差し出した。
「…声を出すんじゃない」それはとても強い声だった。
僕は言葉にならない声を出しつづけ、パニックに陥ってしまった頭の中は彼の姿だけを追い求めた。
「…っ…あっ……」
すると、彼は眉間に寄せた皺をなくして、困ったように微笑んだ。
「…死なないよ、俺はお前を置いて行かないから」
僕は彼の声が聞こえるのに、自分の声が出ない。

―――『あぁ、嫌だ…。一人になりたくない』

言いたい事が言えない。
伝えたい事があるのに…。

「…大丈夫。密…俺を見て?」
「……っ……」
「ほら、触って…ね? 心臓、動いてるだろ? だから、死なない」

『死なない』とはどういうことだろうか?
死は常に身近な存在で、ただ自分が忘れているだけだ。
時として、それは突然気付かされるのだ。
否応なしに現れて有無も言わずに覆い尽くすものだ。
父も僕を省みることなく逝ってしまったじゃないか?!

「…ウ、ソばっかり…誰彼もウソばっかり…」
自分のウソは棚に上げている、己自身に吐き気を覚える。

―――あぁ、気持ち悪い。
吐き気を押えようとして口に手を当てて縋るものを目で追うと、突然首に琳の手が絡み強くしがみ付かれた。

「……龍司に、連絡して。それから―――ここから出て、タクシーを…」
彼の目は充血していて、呼吸が上手くいかないのか浅い息を繰り返していた。
彼は僕の元から少し離れて壁にもたれると、しきりに周囲を見渡し、僕を見た。

「窓を閉め…ここを―――片付け、て…はや、く」
はっきりとした声だったが、今にも消え入りそうな言葉だった。
眉間に皺を寄せて、両手で刺された脇を押さえていた。

奥田先輩はゆるりとした態度で立ち上がると、困ったような表情をして壁にもたれた琳を一瞥して教室のドアへ向かった。僕はその背中をただ見つめて見送った。

「…琳…」
僕はどうしたらいいのかわからなかった。
走り去った奥田先輩を追いかけるべきなのか?
それとも、言われた通りに行動するのか?

「俺は…た、だしい。ひそか…早く―――言われた…」
青白さを増した琳の顔を見て、僕は考えることを放棄した。
『俺は正しい』そう、琳は正しい。

だから僕は琳の言葉に従わねばならないのだ。

僕は窓を閉めてから、教室に通じるドアの鍵も閉め、カーテンを引いた。
途端に、準備室は薄暗くなり一層、僕が今からすることを後ろ暗いもののように感じさせた。 散らばった道具をかき集めて元に戻し、部屋の隅に木炭を使用した際に使うダスターが積まれていたので、僕はそれを数枚とって琳のそばへ行こうとしたが、点々と血が落ちていた事に気がつき、拭き取った。

すると背後から琳の声が聞こえた。
「…俺を…上着で隠せ…」
僕は急いで投げ捨てられたカバンと上着をひったくる様にして琳の元へ駆け寄った。
琳は腹を押さえていない方の手をピクピクと動かして「携帯」と言った。
カバンの中から携帯を取り出して琳の手に握らせて、僕は琳の方に上着をかけて抱き上げるように立たせた。

琳は何も言わず、されるがままだったが僅かに彼の口が何事か動いた。
「何?」
「…裏を通れ…タクシーを呼び…龍司に…」
「判った、判ったから喋らないで」
「……」

僕は言われたとおりに行動した。
電気を消して、扉を閉める。
廊下は物音もしないくらい静まり返っていた。抱えた琳の身体は抱えた時よりも重く感じられた。彼を抱えて歩いている間も琳は囁くような声で『裏に回れ』と言い、自分を隠す様にと指示した。

僕は周りを気にするほど余裕もなく、「早く車を」と思って歩いていた。

昇降口を抜けると僕は琳を壁に建たせてタクシー止めるために少し離れた。
タクシーを止めて乗込む際、琳は僕に携帯を渡して『龍司の病院へ』と言ってシートに深く沈んだ。僕はタクシーに行き先を告げ、琳を覗き見ると焦点の定まらぬ目をそれでも開けて浅い呼吸をしていた。

僕は琳が苦しそうにしているにも関わらず、何もしてあげることができなかった。
わき腹を押さえる手が震えているにもかかわらず、何もできない歯がゆさがあった。
「…心配…しなくて、いいから…そば、に、いて…」
と、消え入りそうな声で囁いた。ともすれば、エンジン音で掻き消えてしまいそうな言葉だった。

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