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20) 蛇の心

各クラブの部長が藤村の指示通り報告をし始め、報告は、何のトラブルもなく順調に進んでいった。
高橋はちゃらんぽらんで、いい加減のようでも流石はクラブの部長をしているだけあって卒無くこなしていった。高橋が言ったとおり、報告が終わるとクラブの事や予算取りの内容などみんな知り尽くしているにもかかわらず、藤村の説明を聞きたがった。彼の声を聞きたいと言う理由だけでだ。

 彼は皆の真意を知ってか知らずか、嫌な顔もせず、黙々とこなしていった。
歌を歌う声とはやや違う感じがした。僕は彼が喋っている内容を全く聞いてはいなかった。ただ彼の喋る唇の動きを、彼が上下に首を振ると微かに動く髪を、瞬きを繰り返す瞳を、メモを取る度に震えるであろう彼の腕の筋肉を……僕はじっと見つめていた。見るだけなら許されるのではないか と言う思いと、見てはならないと言う思いとが僕を苛んでいた。時々、彼がこちらを見たような気がした。彼の鳶色の瞳が、僕の目と合う度に胸の中を鷲掴みにされたような疼きを覚えた。

……耳元で囁く声が聞こえる…… 
『汝の愛とは?』
(僕の、愛?……それは、つ)僕は明らかに動揺していた。
指の先が痺れている様な感覚や喉がヒリヒリと痛んだ。
 高橋は僕がどの様な状態かは彼には解からなかっただろう。彼自身の問題で心を一杯にしていたからだ。言い難い話を怖々と僕に話しかけてきた。
「今日、これから直接彼の処へ行こうと思う。結果オ−ライか否かは解からないけど行くよ。その帰りに、親にも話つけようと思ってる」彼が力なく笑った。

 「……何も、急いで言わなきゃならい事じゃないんじゃないか?」僕は不安だった。
何が不安の材料か解からなかったが、ただ漠然と黒くて大きな物に覆われていくよう気がしたからだ。
「……いや、今日でいいんだよ。今日でね」彼の意志は固い様だ。
「部屋……片づけてあるから何時でも泊りに来たらいいよ」
僕はそう言うのが精一杯だった。
「あぁ……親に話したら多分、お前んちに厄介になるだろうな。期間がどのくらいになるのか検討もつかない。まぁ、なるようにしかならないさ」

「……? おい!? どうしたんだ? 顔青いぞ! 気分でも悪いのか? もう、委員会終わったぜ」
僕は高橋に肩を大きく揺さぶられて、我にかえった。
「……いや……何でもない」
(何でもない。そう、何でもないんだ。ただ……声が聞こえただけ、聞こえるはずのない声がね)
 教室には僕と高橋だけがいるような感覚だった。回りに存在する生き物全てが、薄ぺらな紙切れの様に思われた。教室の学生の殆どは会議の終了と同時に出ていったらしく、余り残ってはいなかった。
「……結果がどうなろうと連絡はするよ。なぁ、心配そうな顔をするな。……藤村が見てるよ。俺が虐めてるとでも 思っているような目つきだ。……じゃぁな」
高橋は言い終えると、くるりと踵を返し、教室を後にした。
僕の不安は最高潮に達した。

(何も、今日言わなくったっていいじゃないにか! どうして、どうしてなんだ? そんなことは、そんな…こと…は…)叫びたい思いが喉をついてでそうになったが、声にはならなかった。ただ、段々と黒い闇が僕の視界を浸食し始めた。
(また……だ、また、見えなくなる)
 視界はカメラのフォ−カスを絞るように、ゆっくりと狭まっていくようだった。やがて、夏だというのに体に冷たい風が吹きつけるようになり、ブルブルと震えだした。机の端を手で触り、体を支えようとしたが足が言うことをきいてはくれなかった。
 僕の足は力なく折れ始め『ドスッ』という鈍い音をたてながら、迫り来る床を目掛けて崩れ落ちた。体が崩れ落ちる際、誰かが僕を呼んだ様に思われた。床に倒れた時に、痛みは思ったほど感じなかったが、音の無い世界にたった一人居るような静寂だった。

『過呼吸症候群』僕の病名だ。
なんて不細工な話だ。
いわゆる心の病気っていうやつだ。
何時の頃だったのかもう忘れてしまったけど、急に呼吸が苦しくなり、息が出来なくなる。大した事では無いと思っていた。ただ、頻繁に症状が出るようなってから、人に知られるのを極端に恐れ出した。看護婦である母には到底伝えるべき事柄では無く、ましてや琳には言ってはならぬ事だと思った。

2年間ぐらい隠しておけただろうか?
 結局、隠すなど僕には出来ぬ事であった。
僕は琳から酷く責められた。
『なぜ隠したのか?』『俺にだけは話してほしかった』『出来もしないことはしなくてもいい』心が痛んだ。母は何も言わず、ただ悲しい顔をしているだけだった。
 僕は、母のたっての願いで精神内科医の大里 龍司にあった。
彼に会うのは久しぶりだった。龍司は母の一番上の姉の息子で医学部を優秀な成績で卒業し、医者になった自慢の甥であった。

(母は6人姉妹の下から2番目だった。母の生母は、後妻で前妻は3番目の姉を出産した後、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまったらしい。姉妹が多いのはそう言う理由だからだ)
 僕は龍司に憧れていた。僕が手に入れたくても手に入らないもの全てを持っていたし、太陽の様に輝いた人だから。僕の父以上の存在であるような気がする。それから僕は彼の病院へ通い始めた。薬を貰う口実として、彼に会えるのが本当に嬉しかった。ただし病気は一向に良くはならなかったが……。

……胸が苦しい。
息が出来ない。
胸元のカッタ−シャツを破れそうになるくらい引っ張った。
ここ何か月の間、治まっていた発作がまた始まった。
視えるはずの目は、真っ暗な暗闇しか映さず、生きるための鼓動は絶え始め、すぐ吸えるはずの息は、どうやって吸えば良いのか忘れてしまっていた。

……ダレカ・・ダレ……タ・ケテ、ボク・ヤ……レヲ。
いったいどれだけの時間が過ぎたのだろうか?
……僕は何処に居るのだ?
「・そ・!」
「ひ・か・・!」
「密!」
僕は側にいる人間を知っている様な気がしてならなかった。
だが、誰だか判らない。思い出そうとしても思い出せない。
何かを喋っているが、よく聞こえないのだ。
それより、どうしてこんな近くに人がいるのか不思議だった。
時々、胸が痛んだがその度に、腕を伸ばし何かから逃れようと暴れてはみたものの、両手の自由は利かなかった。
どれだけの時間が過ぎ去ったのか見当もつかなかったが、何か肝心な事を忘れているような気がし始め、頻りに考え始めた。
 僕の腕を押さえ込んでいる人間が誰なのか、ひどく気になっていたからかも知れない。
そのうち、霧が徐々に晴れていくように、ぼやけた視界が見え始め、苦しくて息も出来なかったが空気が僕の口や鼻から流れ込んでくるのがわかった。
「密、密!」
(声だ、聞き慣れた美しい声が聞こえる)
僕は、僕の身体を抱きかかえ、震える手を握り、心配そうに見つめている人間が誰なのかやっと判った。

 琳の顔が僕のすぐ近くにあったが、僕の顔色より青いのではないかと思うくらいに変わっていて、引きつっているように思われた。
「…なく・も・・だい・・う・・こし……この・ま…」
口の中が乾ききっていて、思うように喋れなかった。
「あぁ、わかっている、わかっているよ。喋るな、いいな? …薬は何処にある? ポケットにはなかったぞ、鞄の中か?」
琳は僕の額に手を当てて、噴き出す汗を拭ないながらいった。
「……ない・・い…」
「……持ってきてないのか? 動けるようになったら、保険室に行こう。
落ち着くまでこのままで、いいな?」

『誰か、ハンカチを水で濡らしてきてくれないか?』
琳が、まだ残っている学生に声をかけていた。それから、どれだけの時間が流れただろうか?ふと、気がつくと彼が一所懸命に僕の世話をしてくれているのがわかった。冷たいものが僕の頬や首筋、胸に広がり、とても気持ちが良かった。琳が水で濡れたハンカチで触れていたせいだと気がついた。

教室の天井が以外に高いのに気づいた。ガランとした教室は、夏なのに少し寒い様な気がした。少し肌寒く感じられる教室の中で、僕は自身の背中に暖かい温もりを感じていた。
(素敵な時だ。この温もりをいつ迄も感じていたい。そう思う事は、僕に許されるのだろうか?)
彼の心臓の鼓動が背中に伝わる。
僕の身体に染みわたる様に温もりが広がっていった。   

ふと、感じた感触は僕の頬や首筋のあたりをゆっくりと撫でるように動いていた。
「密…起きたのか?」触れ左の耳の辺りで小さな声がした。
「うん、……どれくらい、気を失ってた?」
「……十五分位かな。」
「十五分も?」
「……いつからだ?暫くの間、治まっていのたんじゃなかったのか?」
(そうだ、治まっていたんじゃない。隠していたんだ。幾度となく発作はあったが、幸い近くに誰もいなかったのだ。それに気を失うほどひどい発作は起きなかったし、傍目には治りつつあると思っていたかも知れない)       
「……治まっていたのにね」

そう?」
琳の声は不審に満ちあふれていた。
「誰もいないんだね」
がらんとした教室を僕の視界の範囲で、見渡してから言った。
「……いても同じだからな」琳の声が緊張しているようだった。
「大丈夫……もう立てるよ」そう言って動こうとすると、彼が両腕に力をも、僕を引き留めた。
「もう暫くここに居ろよ。……そうしたら、もっと良くなるから」胸の辺りを弄っていた彼の腕は、次第に大胆な動きをするようになり、僕の身体を抱き止めていた右腕は、頻りに動き出した僕の顎を押さえ込んだ。
「……嫌か?」低い声だった。
自分の身体が、自分のものではなくなっているような感覚だった。

嫌ではなかったが、彼を好きだと言う事を隠している自分が、彼に感じ始めていることが恐ろしかった。
「離して……」
そう小声で呟くのが精一杯だった。
しかし、琳は僕を抱きしめた腕に更に力をいれた。
「……」
「……痛い……」
「もっと優しくするから、このままで居てくれるか?」
左腕はゆっくりと僕の頬から首へ、そして胸へと移動していった。彼は僕の身体をゆっくりと抱きしめていった。
「…ぁっ…」僕は小さな声を漏らした。
僕は彼の右腕にしっかりと抱き止められ、その声は彼に届いたかどうかは判らなかったが、
「暫く、いや、ホンの少しの間でいい…このまま、このままでいてくれ」
悲痛な声だった。
その声で僕は動けなくなってしまった。
彼の囁きは、悪魔の囁きだろうか?       
それとも天使の呟きだろうか?
僕の心を一段と不安にさせた。

胸が締め付けられる様に痛んだ。彼に接している部分は熱く、まるで血が逆流するように、早く駆け巡っている様だった。
教室は僕と彼の二人だけになっていた。
倒れる前には沢山の生徒がいたのに、誰も居なくなってしまっていた。
誰もいない教室の中、このような姿でいるのは不安で仕方なかった。
恐ろしい事が起こってしまうかもしれない。
絶対にないなんて言い切れない。
今の僕には自分を制止するだけの理性が残っているかどうかは疑わしい。
彼の傍にいたいと願い、彼との“あの瞬間”を頭の中で想像してしまうのだ。

『ちがう!そんなはずはない!』このままでは僕の心と身体がバラバラになってしまいそうだった。僕は自分の選択を間違っていると思ってはいるが、それを選択せねばならないと信じている。たとえそれが彼を傷つけてしまってもだ。結果的には僕の選んだ選択は、彼の心を傷つけたにしても彼の社会的信用や、これから得るであろう彼の輝く拓かれた未来の為には、取るに足らない些細な出来事で片づけられるであろうから……。

 僕の方にしても『青春の苦い思い出』として心の隅に埋もれさせればいいのだ。彼を好きだと言う事は、気の迷いかも知れない。ただの思い過ごしで済むのかもしれない。そして、ただの仲の良い友達、いわゆる親友として何食わぬ顔をして、時が過ぎ行くの辛抱強く待てばいいのだ。
……そうだ、簡単な事だ。……簡単なはずだった。

いったい、どれくらいの時間が流れたのだろうか?
彼の胸の温もりと高鳴りを背中で感じ初め、僕自身の高揚した気持ちがこの状況を受け入れ始めたのは、何時だったのか判らなくなってしまった頃、ふと気がつくと僕の足下に蛇がいた。

蛇は、厭に光る鱗を動かしヌルヌルとした身体を器用にくねらせながら僕の身体を這い上がり、耳元へとやってきた。
そして囁いた。
『汝、我の言葉に従え』と……。
厭な声だった。
背筋が寒くなり、指の先から凍っていくような冷たい声だった。
僕は彼の腕を無理矢理引き剥し、追われるように飛び退いた。

彼は、突然何が起こったのか判らなかったであろう。
僕の顔は恐怖に歪んでいた。
「……クラブに行くよ。琳はどうする?」
暫くの沈黙の後、無機質な声が聞こえた。
「ここを片づけたら職員室へ行く。帰りにそっちのクラブに寄るよ。……いいだろ?」
彼の言葉は苦痛となって僕を苛んだ。
 そして彼の顔は落胆の色に染まっていた。
僕に望んでいることへの、可能性のなさが表わされているに違いない。それとも、僕への過度の期待の現れなのか?
僕は彼の心を知っている。
なのに知らない振りをして、お互いを傷つけであっている。
僕が逃げてばかりいるからだ。
彼の目には、意気地無しの僕への非難が込められている様な気がした。

 僕は以前から彼の気持ちを察していた。
僕自身は彼への気持ちを単なる、兄弟愛の様なものだと思い込み、恋愛感情などと言うなどとは、考えもしなかった。
 ただ、処かで、そうではないのか?と言う疑惑だけが大きな膨らみを伴いながら、頭を擡げていた。どこか、確固たる断定が出来ず、心の隅みの不安が増大し揺れ始めた。
『本当に僕は彼の事が、兄弟や親友の様に思っているのだろうか?』
『寝てみたい……愛し合いたいなどと思えるのだろうか?』
常に、自分自身に問いかけてみるが、一向に答えは得られなかった。
『キズカナイノカ?』
『オレノキモチガ、ワカラナイノカ?』
僕は自分自身の心が一体何処に行こうとしているのか、次第に気付き始めた。

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