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30) 跪いて赦しを乞え

結局、部員は誰一人としてこの日曜日には来る事は無かった。
全ての部員が金曜日までに欠席届を提出して、準備室の整理の為に僕だけが休日登校をした。

―――『武上先輩、いいんですか? 』
―――『なにが?』
―――『皆休んじゃって…』
―――『いいよ、偶には息抜きした方がいいし。それに、うちは運動部じゃないから、1日休んだって腕が鈍るわけじゃない…あぁ、それに、油絵の奴らなら絵の具乾かし日ってことで空けた方がいいだろ?』
―――『…それは、そうなんでしょうけど…」
―――『…石田は行かないの?』
―――『いえ、行くんですが…じゃぁ、いっそのこと部を休みにした方が…』
―――『??? まぁ…でも、俺はこの日を逃すと整理整頓できないんだよ。画材の消費具合も知りたいし…それに、一人のほうが早く片付くしね』
くどい程『僕も休め』と暗に言ってくるのは何故だろう。
自分達も休むから気が引ける、ということだろうか。
…に、しても彼がこれほど言葉数を増やしてまで僕に言い募るのは珍しい事だ。

 昼を過ぎた教室は少々気温が上がっていて、うっすらと汗が滲み出てくる室温になっていた。僕は、昨日石田と交わした会話を頭の中で考えながらキャンパスの枠を数えたり、残り少なくなったロール紙の型番をメモにとりながら薄暗い準備室にいた。

どうしたものか通常、日曜日と言っても部活に忙しい運動部が今日に限って少ないように思えた。窓から見える運動部は陸上部以外は殆どが姿を消していて、ひょっとしたら陸上部も今日は終りになるかもしれない雰囲気を秘めているようだった。
まぁ、僕が来たのは2時を過ぎていたから、昼までに終ったところもあっただろうと、今までに感じなかった違和感を払拭してみた。

 ただ、琳も今日は役員会で学校にきているのでどこか僕自身に安心感を得ていたことは間違いない。彼の方はそれほど時間がかからないだろうから、終るとこの準備室へ来る事になっていた。
『一緒に帰ろう』と約束していたから。
気になる事柄は山積していたけれど、二人で交わした他愛無い約束が僕の心を優しくしてくれた。

僕は『迎えにきてくれる』ことに妙な嬉しさがあってか浮かれた雰囲気をかもし出していたんだろう。鼻歌でも歌いだしそうな陽気な気分で小道具を整理し始めた。ペンティングナイフや鉛筆、定規や羽箒といった道具をテーブルに並べながら、使えそうなものなどを選別していった。

もう、刃がボロボロになったナイフや絵の具がこびりついた木製のパレットなどが、忘れ去られたように大きな引出しから次々と現れてきた。変色してしまったマスキング液が出てきたのにはビックリしてしまった。

―――『…こんなところにあったのか…それにしても、使いさしばっかだなぁ』

 後で、買い足さなければならないものが、釉薬と絵の具だけと検討をつけていた当初の思惑が外れ、面倒な作業になったとやや落胆した気持ちになった時、突然、美術室の扉を開ける音が聞こえた。

準備室にいた僕はてっきり、琳が終ったのでここに来たのだと思い、さして気にも止めず、引出しから錆びたナイフを出しながらその場から琳に呼びかけた。

「……」
―――『…?…』
しかし、返事が返ってこず人がいる気配だけが僕の肌を撫でた。
もう一度、僕は大声を出して琳を呼んだ。

「ねぇ、もう終ったの――ぉ? …琳?」
それでも返事はなかった。
急に僕は不安になり「…誰か、誰かいる?」と準備室のドアを見やりながら言っても何の言葉も返ってはこなかった。

美術室とは違い、準備室の窓は小さく電気のワット数も幾分低いものだったので、僕の影が奇妙な形をなして伸びていた。
僕は握っていたパレットナイフをテーブルに置いて、ゆっくりとした調子でドアの前に進むと躊躇しながら美術室に繋がるドアを引いた。

すると、思ってもみない力でドアが押し開けられ僕は上体が仰け反る形になってそなまま尻餅をついてしまった。
「…っつう…」僕は痛さに顔を顰めながら前を見ると男の汚れた革靴が見えた。

―――『教室に革靴?』
僕は目の前に見えた光景に違和感が先にたってしまい、立ち尽くす男の顔を見る余裕はなかった。
ふと、顔を上げ男の顔を確認すると、そこには無表情で僕を見下ろす奥田先輩が立っていた。

いったい、どれぐらいの時間僕は彼を見つめていたんだろうか。
時間にするとホンの数秒だったのだろうか、僕には時が止まったような凪いだ時間が流れていたように思えた。
僕は奇妙な感覚のまま彼を見つめていた。
それは驚くはずの場面なのに、どこかこの事態を想像して前に見たような歯痒い感覚を感じていた。

「……奥田先輩……」
僕の声は出ていただろうか?
それとも僕の頭の中だけで彼に呼びかけていたのだろうか?

「……」
無表情の彼はそれでも何も口にしないまま、僕を見下ろしてくる。
「…どうか、したんでしょうか?…」
僕は臆面もなく彼に言葉を返すと、今度は僕の言葉に気付いたのか薄い唇の端を吊り上げて笑ったようだった。
「…楽しい?」ゾッとした口調だった。
そんな無機質な声で喋る人ではなかったと記憶していたが、今、僕に問うた奥田先輩は僕の知らない奥田先輩だった。
―――『何が楽しいと言うのだろうか?』
僕は彼の成す言葉の意味を量りきれず、苛ついた。

「…君、結構気が短いね」
奥田先輩はそう言うと僕の顔を覗き込むように腰を屈めてきた。
その仕草に別段違和感は無く、僕は彼の顔がまじかになるまで反応が出来なかった。
何かが光ったような気がした。
僕は咄嗟に、床についていた左手で顔を覆うとなにやら生暖かいモノが僕の腕を這ってゆく感覚を覚えた。

腕をゆっくりと下ろすと、口を尖らせて困ったように微笑む奥田先輩が見えた。
「なぁ〜んだ、避けたんだ…ざぁ〜んね〜んっ」
僕は彼の言っている意味が判らなくてあ然としたまま彼を見ていたが、ふと気が付くと彼の右手には、鈍く光るナイフが見えた。
―――『…えっ?…』
僕は目の前に映る事態に頭が追いついていけなかった。

―――『アレは、何だろう?』
―――『アレは、ナイフだ』
―――『あの、赤い色は何だろう?』
―――『アレは…血の色だ!』

僕は咄嗟に床を滑るように後ろへ下がった。
そして、熱を帯びたように熱い腕に右手をやると、手のひらが真っ赤に染まっていた。
そこで、ようやく僕は奥田さんに腕を切られたことに思い当たった。

ズイッと体を進めて僕に近づいてくる奥田先輩を初めて怖いと思った。
僕は立ち上る事が出来ず、そのままズルズルと後ろへ下がると、立てかけてあったイーゼルに触れてしまい、それらが一斉にガラガラと音を立てて崩れてきた。

「…っつ…うっぅ…」
部活で使用している室内用のイゼールは木製でかなり重量があった。携帯用のアルミ製のものとは違い、据え置き型だったためかなりのダメージが僕の頭上に降り注いだのだ。
頭を庇うように身を縮めやり過すよりも、僕はその場を一刻も早く離れたかったので、ガツガツと頭に当たるのも構わず、這うようにその場から逃れた。振り返るとそこに居る筈の奥田先輩の姿は無く、僕は崩れて散乱したイーゼルの山を見ていた。

―――『…えっ?』

いきなり後ろから僕の背中に衝撃が走る。
そこで、僕は奥田さんが背後に回っていたのを初めて知った。

「案外、運動神経鈍いんじゃない?」
さも可笑しそうにクスクスと笑い出し、僕が振り向くのを待っているような気がした。
見たくないと心が叫んでも、振り返らなくてはいけないような気がして、僕はゆっくりと振り返った。そこには、未だクスクスと楽しげにナイフを握ったまま笑う奥田先輩がいた。

切られた腕も痛かたっが、痛みより何よりこの状況から抜け出す方法を必死で考えようとした。
しかし思考は上手く回ってはくれない。額からも血が流れているようで、熱い液体が右目の横を流れ落ちる感覚がヤケにリアルに思えた。

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