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26) シンパシィ

苦手な執行部から何とか抜け出してはみたが、琳の姿は何処にもなく心当たりもなかった。仕方なく僕は、廊下にぼんやりとしていることも出来ずに、のろのろと歩きだしていた。ただ、福屋さんの事が僕の脳裏に張り付いて、彼の言葉を頭の中で繰り返していた。

『彼の手をとってみるなんて、僕に出来るのか?』
『彼なら判ってくれるかもしれない。しかし、本当にそれでいいのか?それで、僕は救われるのか?それはあまりにも自己中心的すぎる』
 僕の頭の中は琳への後悔と福屋さんへの慕情が渦巻いて、心の均衡を失いつつあった。琳に対して後悔しても、相手に謝ることさえ出来ずに、学園内の廊下を彷徨っていた。
 
……そして、僕の心も。

 何も考えてはいなかったので、足の向くままの歩みは、いつしか美術室を通り過ぎて、体育館に至る下りの階段へ差し掛かっていた。
その時、階段の下に仁王立ちに立って、こちらを睨み付けている人影がいた。
『?!』
「……琳……」
僕は彼の名前を呼んだきり、棒立ちになって階段の中段あたりに立ち尽くしていた。
「俺を、探してたんだろ?」
「……」
「……いつ迄そこにいる気だ?」
「……うっ……」

僕は彼からの言葉を受けとめてから、ゆっくりとした調子で彼の元へ下りていった。ただ、残り一段だけになった階段を下りずにそのままの位置から彼の顔を見た。(いつも彼の顔を見るときは見上げる為、彼のほうが僕より随分背が高い。10センチ程高いのだ)ちょっとした出来心でその場に立ってみた。琳は僕のそんな行動を知ってか知らずか、左端の唇の部分をキュッと上げて、小首を傾げた。
「随分、探したのか?」
「……」

直ぐに答えるのも何だか、僕の方が詰問されて怒られているようで、癪に障ったので黙っていたら彼の方が僕の答えを待つまでもなく畳み掛けるように話しをしてきた。
「浦川から聞いたんだよ、お前が探してたってね。……で、お前は俺に何か言う事があるのか? ……俺ならあるぜ」
きっぱりとしたく口調で、真っ直ぐに僕を見つめてきた。
「……言いたいことがあったから、探してたんだ」
「で、俺から言う? それとも、お前から?」
「……僕から……」
僕は『自分から』と言ってしまってからも躊躇していたら、急に彼が僕と同じ階段の上に乗り、僕と同じ位置に立った。
「……相変わらず、意地悪だな」
僕は不貞腐れたように低く呟いた。

「相変わらずで悪かったな。そう直ぐには直おんないよ」
意地の悪そうな声で、耳元近くで囁いた。
 僕は意を決したように彼の顔を真っ直ぐに見つめて、
「さっきの態度は悪かったです。……ごめんなさい」
と言って口を尖らせた。ほんの暫くの間、微かな沈黙が流れ彼が僕の足下を見ながら言った。

「……俺のほうが先に手を出した。悪かった、言いがかりを付けるつもりなんてなかったんだけど……なんとなく、イラついて…」
「……何かあった?」
「うん……いや、何も」
「なかった?」
「あぁ、特に気にすることじゃない。そっちは?」
「……僕? 取り立てて何も……」
「そぉ?」
「……うん」
「……もう、帰る?それとも、クラブに行く?」
僕は肩を少し窄めがちに言った。
「そこまで考えてなかった」
「……じゃぁさ、ちょっと付き合ってほしいとこあるんだけど……ダメ?」
「どこ? ……いいけど」

彼への返事は何も考えてはいなかった。
『ちょっとそこまで』っと言った軽い感じの言い方だったので、僕もそう返事をした。
 僕は彼の要求に対して拒否の姿勢は取らなかった。先程の自分の態度と照らし合わせて考えると、断るのもいけないと頭の角を横切ったことも一因だ。
「今日、ジャ−ジ持ってた?」
僕は彼の言った内容が余りにも思い描いていた事と違っていたので、間の抜けた返事になっていた。
「えっ、ジャ−ジ???」
「あ……いや、いいや」
「ジャ−ジって、今日運動ないもん」
「いい、いい」そう言いながら、彼は階段を下りて、僕を手招きして先を急ぐように歩き出した。
「?」
(……何だろう?)
僕は疑問を感じながらも、彼のゆっくりと歩く後ろ姿を見ながらついていった。

 体育館脇の歩道を歩く。
少し、開けた場所にはバレ−部の外用の専用コ−トが蔦の絡まったネットに囲まれて見えてきた。
「何処に行く気?」
僕はバレ−コ−トを抜けると生徒専用通用門があり、その門を潜り抜けると見えてくるものを知っていた。彼は振り向きもせず、沈黙したままだった。門を潜り抜けた先は4面あるテニスコ−トだった。芝のコ−トではなくクレイのみだが、よく整備された美しいコ−トだ。そこにはテニス部員達がコ−トを使い練習している真っ最中だった。

「本宮寺ぃ〜来たぞっ!」
琳は大きな声を張り上げ、一番右端のコ−トの審判台の下で、メモをとっている男を呼んだ。
「おう〜、ここだぁ」
本宮寺も琳に負けないぐらいの大きな声で返事をした。
僕達は大勢のテニス部員やネット裏にしがみつくような見学者達をぬうようにして彼に近づいていった。

「……今からでもいいかな」
「あぁ、かまわないよ……こっちは」
僕には彼らの会話が見えてこなかった。
本宮寺と琳はお互いブツブツと言い合っていたが、琳が急に僕の方に向かって嬉しそうに言った。
「今から、ワンゲ−ムだけテニスをしよう」
僕は話の内容が理解できず、「誰が?」と聞き返した。
「俺とお前」
琳はそう言って僕と自分を指さした。

「……武上、お前何しにきたんだ?ゲ−トボ−ルでもしに来たのか?」
本宮寺は不思議そうに僕を見た。
「……下手な冗談だ、僕はテニスが」
「出来るの知ってるぜ」
「……」
本宮寺は審判台に持たれながら腕を組み、僕を見た。
「……琳に吹き込まれたんだよ」
「人聞きの悪いことを仰る。彼にそんなことは、これっぽっちも喋っちゃいない」
僕は疑るような目を本宮寺に向けた。
「本当さ、信じてやれよ。”土谷 賢”って名前に記憶ないか?」
「土谷?!」
「あぁ、お前の中学時代のテニスのコ−チだろ?彼は俺の従兄弟なの。
同じテニスをするものにとっちゃぁ、お前の名前を中学時代は嫌という程、聞きました。
……あんときは結構、有名だったんだぜ」
「……」
まさか、中学時代のことを知っている人間が直ぐ側にいるとは思わなかったので、意外な事に驚いてしまった。

「……出来ないわけじゃない、だろ? まぁ、俺にはお前の事情なんて興味ないけど、やらなくなった理由は少なからず、聞いてみたい気持ちはあるけどね」
本宮寺はうん、うんと頷いて自分の質問に酔っているようだった。
「……言いたくないな」
僕は本宮寺の問いに眉間に皺を寄せて低く呟いた。
「……ワンゲ−ムぐらいしたって、罰は当たらないさ。それともなにかぁ、しないって神様にでも誓ってるってわけ?」
琳は不満気な表情を顔に表わして、僕を見下ろした。
(今の彼は無敵だ、さっきの今だからな)

「誓ってる訳じゃないが、似たようなものだよ。それとも、誓いを立ててるって言えば、しなくてもいいの? それに、是非聞かせてもらいたいなぁ。君が、如何して急に僕とテニスをしようと思ったか?」
僕は相変わらず低いト−ンで彼に聞いた。
「お前にとっては急かもしれないが、俺に……僕に、とっては急じゃない」僕達がもめ事をコ−トの中に持ち込んでしまって、回りの注目集めていた事を琳は微妙に感じとっていた。

もしかしたら、彼はこういう機会を前々から虎視眈々と狙っていたのかも知れない。きっと彼は僕が断わりにくい状況を構築していたのだろう。

「武上、いい加減折れろよ。お前の拘わる理由って……」
本宮寺が言いかけた言葉をうち消すように、僕は喋っていた。
(どうにもでもなれ!!)
「わかった、わかったから色々詮索するな。……質問は好きじゃない」
僕は更に眉間に皺を寄せ、横を向いた。
琳は勝ち誇ったような表情をみせ、浮かれた声を上げた。

僕は彼の調子付いた声に釘を指すように、やや大きめの声を出して言った。

「……但し、ワンセットだ。現役じゃないんだ、スタミナがない」
琳は僕の声に眉毛を微かに動かしただけの反応で答え、僕の希望を黙殺した。
「ジャ−ジないんだけど、本宮寺。用意出来ないか?」
「大丈夫だ、予備がある」
そう言った本宮寺はメモのボ−ドを小脇に抱え、大声を出して一年生の一群に手を上げた。
「吾妻ぁ〜、こっちに来てくれぇ〜」
ひょろりと背の高い青年がこちらを目指して小走りに走ってきた。
「吾妻、すまないが二人を部室へ案内してくれ。それから、僕のロッカ−にウェアの予備が一式あるからそれを藤村に、と、それと武上のウェアは南沢の分を貸してやってくれないか?」
本宮寺は吾妻と呼ばれる後輩に命令すると、又、別の一年を大声で呼び、一番右端のコ−トを整備しておくように言った。吾妻と呼ばれた後輩は『どうぞ、こちらです』と言い、僕達を丁重に部室まで案内してくれた。僕達はゆっくりとした調子で歩き、いつになく静かな空気が二人の間に流れていたようだった。

「ワンセットだけだよ」
僕は諄いと言われようが、念には念を入れた。
「……オ−ケ−、オ−ケ−、判ったよ。……ったく、もっと広い心は持てねぇのかよ?」
(……こっちが言いたいよ)
「以前からこうしようと画策してた?」
「……画策とは穏やかじゃないな。計画といってくれないか?」
「……ふふふ」
僕は少し笑った。

「……ずっと考えてた、いや、夢を見ていたのかも知れない。聞きたいことも山程ある、もちろん、言いたいことも……。答えてくれる? くれたら、テニスはしなくていいよ」
琳の言葉はゆっくりとした調子だったが、何処か威圧的でさえあった。
僕は少しの沈黙の後、
「悪い取り引きじゃないな。けど、どちらも選びたくないって言ったら?」
「そう言うと思ったよ。……久しぶりだからって手を抜くんじゃないぞ。お前の実力は俺が一番知ってるんだから……」
彼の返事は先程の様な威圧感は微塵も感じられず、凪いだ湖面の様になっていた。

僕は短く『あぁ』とだけ返事をした。言ってしまえば良かったのかも知れないと、後悔した。
だが、今更あの時期のことを蒸し返しても、過ぎ去った時間は戻らないし、彼に理解してもらう為の言葉を的確に選ぶ事ができない様な気がした。(もちろん、触れなくては進まない話題を引き合いに出さずにはいられない、危うさが存在するのだ)彼も僕に対して深くは追求はしなかった。

「手を抜くにも、全力でぶつかって直ぐに玉砕だ。君には悪いけど、ゲ−ムは楽しめないと思うよ」
「……そんな訳ないだろ?お前が走り込んでるのは知ってるよ」
(彼に隠し事は無理なのは承知しているつもりだけど、こうも見抜かれているんじゃ形無しだな)
「ヘビ−スモ−カ−なんでね、直ぐに息が上がっちゃうよ」
彼は少々眉間に皺を寄せて言った。
「……だから、いい加減止めろっていってるだろ?」
「子供のオシャブリの様なもんだよ、一旦始めたら癖になる」
「別なもん、シャブれば?」
「……何を?」
「……言うの?」
僕はいらぬ事を頭の中で想像してしまって、顔を真赤にして口をパクパクさせた。
「……言った俺も恥ずかしい」
琳も口をパクパクさせて(口パクはお互い様だが、何を言ってるのかわかりゃしない)僕はただ、苦笑いを浮かべて歩き続けた。
「こちらです、どうぞ」
突然、前を歩いていた吾妻に声をかけらて僕達は妙にオドオドとした態度で答えた。薄ぐらい部室を琳の後に続いて入室すると妙に男くさい匂いが、心のどこかにあった懐かしさを擽った。

「すみませんが、少々お待ちを……」
吾妻はズラリと並んだロッカ−の前に、やや中腰にぎみに屈んで、ゴソゴソと動いていた。僕や琳はいくらか手持ち無沙汰の様に、部室の中のいろんなところを眺め回した。 
僕は妙に懐かしい(一度も足を踏みいれたことのないところだったのだが)感じを拭い切れずしげしげと無造作に並んだラケットを見つめていた。
「……ムラムラしてきた?」
僕の両肩を後ろから押さえるようにして尋ねてきた。
「ラケット見たぐらいで興奮しないよ?」
「……ふん、可愛くない」
「なんだかなぁ」
(『可愛くない』って、どういう意味なんだよ。まだ、根にもってんのか?)

「あのぉ、藤村さんのユニフォ−ムなんですが……」
吾妻は僕達に遠慮ぎみに声をかけてきた。
「着れればなんでもいいよ」
そう言って吾妻からユニフォ−ムを手渡された。
「ふ〜ん、最近のユニフォ−ムって結構派手だなぁ。俺達の頃って、白以外着れなかったんじゃなかったっけ?」
琳は僕に喋りかけながらも、手渡されたユニフォ−ムに着替えていった。僕も吾妻から手渡されたユニフォ−ムを繁々と見つめた。
「公式戦の時は白一色で襟と袖口の部分にスク−ルカラ−が使われているユニフォ−ムを着用することになっていますが、練習時は基本的には何を着ても良いことになっています。 ただ、学年の毎に細かい取り決めがありますが……」

 吾妻が僕達の会話の答えを喋ってくれたのだが、語尾の方はさすがに喋りにくかったと見えた。ユニフォ−ムを眺めていた僕は琳と目を合わせてお互いの胸のうちとした。
「……苦労ももう直ぐ消えるさ」
と、琳は渡されたシャツに着替えながら言った。
「……だな」と、僕は琳に返事を返した。
俯き加減に床に目線を落とした彼は、靴の紐を結ぼうとしてコンクリ−トの剥き出した床に屈み込んだ。
僕は大きなため息を一つ吐くと手じかに在った古ぼけた椅子に座って着替え出した。
「武上さんの靴は、これでいいですか?」
吾妻から手渡された割りと新しいテニスシュ−ズを『いい、いい。有り難う』と、返事をしながら受け取り、履いた。吾妻は僕達に『隣の部室にもラケットが置いてあるので、そちらも見てきます。どうぞゆっくり着替えてください』と言って部室を後にした。薄ぐらい部屋の中で、僕達は二人きりになってしまった。

優しい沈黙。
揺れる緊張。
そして、零れる想い。

 右足の靴紐を最初に結ぶのは、僕の験を担ぐための儀式のようなもので、試合の前には必ずしていた。足の靴紐に取りかかったとき、琳が意気なり僕の顎を持ち上げて、言った。
「……上、向いてろ」
「なに?」
僕は不満気な返事を返したが、彼の声は決して不快な調子ではなかったので、僕も声の調子の割りには不満ではなかった。
徐に彼は僕の襟の部分に手を伸ばし、未だ締めてはいないボタンを掛けた。
「……一番下だけ止めるんだったな」
琳は昔を思い出すように言った。
「……」
僕の襟の辺りを動いていた手は何時の間にか僕の首を抱え込むようにしていた。
「未だ、覚えていたんだ……僕の験担ぎ」
「当たり前だ、俺を誰だと思ってる?」
僕は顔に笑いを浮かべ彼の眼を見た。
いつになく真剣な眼差しを僕に向けている琳がいてそして、彼の思いの堰が止め処無く溢れた。
「……何も、変わりはしないじゃないか。いつから、こんな風になったんだ? ……俺達。もっ……」

琳は込み上げてくるものを懸命に押さえようとして言葉を自ら噤んだ。
流れていく時間は禁忌という名を持つ怪物。
抗うことは無意味なのか?

「……俺は何も要らなかった。部長とか、優勝とか……そんな下らないものなんか……欲しいと思った事なんて、一度もない。……あ、あの時、如何して? 何時でも、一緒だったのに……お前がどうして、居なくなるんだよ?! あのまま続けていれば、お前がっ……」
僕は静かに彼の口元へ手を翳して、唇を塞いだ。
「……ストップ」
「…………」
彼の青眼の瞳は淡い影を帯びて、涙に揺れていた。

「そうじゃない、そうじゃないんだよ。……テニスをしなくなったのは、決して君の所為じゃない。僕は、テニスが好きではなかった。回りが熱くなって行けば行く程、自分自身が褪めていくようになっていったんだ」
僕は”本当のことのようで、そうではない、ウソで塗り固めた本当”を彼にそれらしく、聞こえるように話している自分がいることを、嫌悪しながら喋っていた。

琳は彼の口を塞いでいた僕の手を両手でゆっくりと引き離して僕を真っ直ぐに見つめた。彼の目には小さな涙が溢れていた。
涙は頬を伝う様に落ちては行かず、ポロポロと零れ落ちていった。
「……嘘つきだ、密はいつも嘘をつく」
嫌な言葉を聞いた。
図星なだけに、言い返す言葉が見つからない。僕は彼の顔から視線を外した。
「辞めた理由ってなんだよ? 俺は聞いてないっ! 俺のために辞めたんじゃないのなら、何故なんだ? ……たかが子供の喧嘩に藤村の家から横やりなんて、有りえない。俺を……部長にすっ」
僕は大きく冠りを振り、
「違う!!」と、叫び彼の声を掻き消した。

「……違うよ、本当だ。誓ってもいい、そんな事じゃないんだ。……それに今となっては、如何でもいいことじゃないか? そんなこともあったっていう話だよ」
「また、逃げるのか?」
涙に濡れた瞳が微かに怒りで揺れているようだった。
「……」
「黙ったままでは、埒が明かない」
「……だから、違うと言っている。結果的には君のために、部長の席を譲った形になってしまったけど……」
「……俺の為に辞めたのでは、無いと?」
「……あぁ、違うよ」
僕は低くそう、呟くと彼から視線を外した。
「あれから、随分と時間が流れたのに、お前は一度もテニスをしないじゃないか? ……どうして?」
僕は次から次へと矢継ぎ早に質問をしてくる琳に苛立ちを憶えた。
「……好きではない、と言っているじゃないか? それ以外に答なんてない」
「それがお前の答なのか?」
彼の表情は次第に悲しみの色が薄れ初め、落胆と怒りに彩られた冷たい顔をした。
「……琳は僕が『君のために辞めた』と、言って欲しいのかい?」
「いや、俺はただ、本当の事が知りたいだけだ。部長にならなくても、テニスを辞める理由では無かったはずだから」
冷たそうな表情からは彼の真意は測り切れなかったが、僕も彼も妙なもどかしさで、落ち着きを失った様に思えた。
「……テニスが絵よりも好きだなんて思ったことは一度もない。いや、正直言って好きではなかったんだろう。傍がどんな風に僕の事を見ていたかは知っていたけど……。僕にとって、そんな状況は思ったこともないし、ましてや望んだ事ではない」
「……」
「色んな事を考えては打ち消し、自分なりに状況を打破しようと試みもした。しかし、やることなすこと全ては逆。これ以上、自分の力の無さを思い知るのはうんざりだったんだ。……色々考えるのが辛気くさくて、面倒だったんだろうと思う。……ゴタゴタは、御免だ」

僕はこの後に及んでも卑怯窮まりなかった。『君がしているテニスだから、僕は少しでも君の側にいたかったから。』その言葉を飲み込んだのだ。
 言えば良かったのか?
 未来は違っていたか?
今更の様に押し寄せてくる後悔。

「……才能があるにも関らずにか? 面倒だという理由だけで、辞められるものなか? テニスを始めた理由はなんだ?」
彼は涙で濡れた瞳を揺らめかせ、僕に質問を繰り返す。
「初心を思い出せ、と? ……忘れたよ。才能だってあるのか、ないのか、そんな事は解らないさ。多分、誰にも解らないよ」
「……俺は、お前のテニスが好きだ。俺には無いものがあったから。それは何時も輝いていて、俺を掴んで離さなかったものだったからだ。何時でも俺の傍にあったのに……。俺の独り善がりだって事ぐらいわかってるさ。けど、掬っても掬っても、いつのまにか指の間から砂が零れ落ちるようになってしまった……」
琳はどこか遠くを思い浮かべるように視線を漂わせ、消え入るような声で呟いた。

その時、何かが壊れた様な音がした。
僕の心の何かが……。
「……したからだよ」

「えっ?」
「テニスをした、理由なんて些細なことだよ。……君がしたテニスだったから。それだけの理由……」
「オ、オレが? どういう……」
どう理解したら良いか思案げな表情で僕に質問を繰り返した。僕は黙ったまま、彼の顔から視線を外した。と、その時、外にラケットを捜しに言っていた吾妻が不意にドアを明け、ただならぬ雰囲気が漂う僕達二人を見て、入室を躊躇していた。僕は渡りに船と、ばかりに吾妻の前に立ち尽くす琳の脇を擦り抜け、吾妻の右手に握られているラケットを半ば強引に受け取り、一人コ−トに向かって歩き出した。呆気にとられている吾妻を後目に、僕は少し言いたいことを言った後の心の軽さに驚きを感じていた。

 歩き出した僕は、先ほどいたコ−トなのに、今はまるで違うコートのように思われ、心の違いがコートの感じまで変えてしまうことに、少々驚いていた。コートの回りには人だかりが一層増した様に思われ、ざわめきと人の囁くような噂が耳に届き始めた。

『藤村さんと武上さんが試合するんだって』
『あの二人、出来るの?』
『誰だぁ?この試合が秘密だったって言った奴!』
『すげ〜人だかりぃ』
(相変わらずだだ漏れだな)
「本宮寺の奴、バラしたな」
いつの間にか僕の隣を悠然と歩いていた、琳が僕に言うでもなく呟いた。
「案外、本宮寺じゃなくて君だったり、ね?」
「……吐かせ」
そう言って僕の方も見ずスタスタと抜き去って行ってしまった。
 さっきの言い争いの長かった時間は、一体なんだったんだろう?お互いを思いやりすぎてズレ切ってしまった僕達の関係は、修復しようと時間が試みたように、突然現れては消え去ってしまう蜃気楼のようだ。
彼の言いたいことや、心のうちは手に取るほど解るのだが、僕はそれらを容易に受け入れることが出来ずにいる。

それは自分自身を受け入れることに繋がるから、僕は躊躇するのだ。理由も解っている。『ウジウジと考え込むな』と他人に言われても『はい、そうですか』と簡単に言えるものではないのだ。人々のざわめきが一層大きく聞こえると、不安と不快の感情が交互にやってきて、僕を揺さぶりだした。歩く足取りはやけに重く感じられた。
 僕のそんな状況を知ってか、琳は先にコ−トに入りかけていたが急に引き返してきて僕の方に向かってきた。
「さっきのこと、本当なんだな?」
彼は人目もはばからず、僕を真っ直ぐに見つめ言葉を吐き出した。
「……なんのこと?」
僕は彼を押し退けるように右手で彼を押しやり、コ−トへ向かって歩き出した。後戻りは出来ないのかもしれない。言ってしまったものは取り返しがつかないことも解っている。しかし、まだ僕の心は揺れている。何かに縋り付きたい衝動に駈られるのを必死に押さえ込んで、僕にとってある種神聖な場所であるコ−トへ向かった。

「待てよ、おい!」
琳は僕の腕を掴み引き戻そうとした。
「人が見てるよ、早くコ−トに行こう」
「誰が? 関係ない。……答えてくれ」
「……集中しないと、負けるよ」

僕は彼を冷たく見ながら、腕を振り払い先にコ−トへ入った。
僕の名を呼ぶ琳の怒号が背中に聞こえた。
コ−トの審判台には訝しげな態度で僕を見る本宮寺が数人の後輩達と共にいた。
「いいのか?機嫌が悪そうだぞ。このまま続行して……」
本宮寺は中止する気もないくせに、眉間に皺を寄せ聞いてきた。
「構わないさ、彼が望んだことだから」
 そう言って、僕は赤茶色の懐かしいクレイコ−トへ向かった。クレイコ−トに立った僕は暖かい太陽の温もり感じながら『帰ってきたんだ』と感じた。ここに来ても決して郷愁など感じないと思っていたのは自分の思い込みだった。又、あの日が帰ってきたような感覚が僕の肌をチクチクと刺した。
 耳の後ろを冷たい衝撃が突き抜け、足の先から徐々に広がって頭の先に巡り来る痺れたような感覚。鼓動が速さを増した頃、頭に電気が走り抜ける。

 ……シンパシィ。
 彼は感じているだろうか?
 彼のいないコ−トには何も感じない。
 彼がいるコ−ト。
 彼がいての存在意義。
 高まる興奮。

『さぁ、ゲ−ムが始まる。僕と君だけのゲ−ムだ』
僕が望んだゲ−ムではなかったが、今は心の底から欲している。
彼とラケットを交えるその瞬間や、コ−トを走る抜ける時に風を切る感覚。
何もかもがフラッユバックを起こしたように僕の目の前に現れた。その瞬間、僕は自分自身が別の生き物になったような気がした。

琳がラケットをつきだして言った。
「フィッチ?」
クルクルと彼のラケットが回転を始める。
「ラフ」と、僕が言った。
ラケットの回転が緩みだし、コ−トにカランと音を立てて倒れた。
「……スム−スだ」
「…………」
「サ−ブをとるよ。どっちのコ−トにする?」
「今のままでいい。こちらのコ−トに」
僕はラケットを回しながら彼に背を向け、歩き出した。
お互いが、位置についた時、
「今から、特別試合を開始する。ザ・ベスト・オブ・ワンセットマッチ、藤村サ−ビスプレイ!」
本宮寺の良く通る澄んだ声がコ−トに響いた。 
その時、回りの風景さえも目には入ってはこず、僕の前に対地する琳の姿だけが光のオ−ラを纏ったようにくっきりと見えた。

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