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28) 気付かないように、そっと心に蓋をして

「気をつけろ」と言った福屋さんの言葉は僕を不安にさせていた。
だか、それをあえて考えないようにしていた。
 しかし、あの口ぶりでは「何かが起こるのだ」といっているようなモノだ。高橋もそんな事情を察してか、時々真顔で「何か変わったことはないのか?」と気にかけている様でしばしば声をかけてきた。

 ただ、そんな事は杞憂に終るだろうと僕は思い込もうとしていた。
世間体もある、俗に言う「立派なご子息」が何か問題を起こすはずもないと思い込んでいたからだった。 喧嘩も強い琳が、面倒に巻き込まれる心配があってもきっと僕よりは数段上手く立ち回れるだろうと考えたことも一因だった。

件の一件から既に3週間は過ぎている。
僕の頭の中から心配という文字が薄れ行く頃、手付かずにいたもう一つの難問の原因から連絡があった。

『…よう、元気?』
「うん、まぁまぁかな」
『今、一人?』
「いや…違う」
『そう…』
「…替わろうか?」
『いや、いいよ。お前の声が聞きたかっただけだから』
「……」
『何で黙るんだよ、俺ヘンな事言ったか?』
「うん? 別に…柄じゃないこと言うからさ、何かあったのかなぁって」
『…普通だと思うけど。好きな奴の声ならずっと聞いていたいもん』
「かわいこぶってもダメだよ、長い付き合いだから知ってるし」
『あはははは…だな…』
伊織田からの電話だった。
僕は決して彼の問題を蔑ろにした訳ではなかったが彼への返事の結果を伝えてはいなかった。

『答えが出るまで待つ』と言った彼に何食わぬ態度で話をする自分に反吐が出そうだ。答えは…決っているというのに、ホンの取るに足らない不安な材料の為に僕は返事を躊躇していた。結局、僕は彼の前でも作り上げた自分しか晒していないのだ。結論を先延ばしにして、
無かったことにでもできないかと姑息な考えが僕の頭を掠めた。

ふと、気が付くとシャワーから出てきていた琳が僕の前にいた。
『だ・れ?』
声も出さずに僕に問う。
『マ・サ・ル』僕も真似をして返事をした。
途端に、眉間に皺を寄せて凶悪な目つきをした琳が僕の携帯を毟り取り、大声で怒鳴った。

「テメェ、マサル―っ! 絶交中に電話なんかしてくんじゃねぇ!」
『…!!!…』
「お前は出入り禁止っ! 声も禁止! ついでに匂いも禁止だぁ――!」
そう言って、琳は僕から毟り取った携帯を乱暴に放り投げた。
―――なんだよ? 『匂い』って…。しかも、絶交って…。

携帯からは伊織田のがなり声が僕にまで聞こえた。
「切れっ、ひそか! それを切っちまえ―ぇっ!!」
興奮する琳を尻目に僕は、電話口で伊織田に笑いながら言った。
「…と、言うことなので切るけど、早く仲直りした方がいいよ?」
『…吐かせ!』

僕は半笑を浮かべて携帯を切った。
濡れそばぼった髪を振り乱しながら、いまだ興奮して悪態をついている琳を宥めながら「風邪引くから、早く髪乾かしてきたら?」と露になった琳の肩に手をやった。

すると、琳は下を向いたまま僕の手を握り、低い声で聞いてきた。
「…あいつ、何の用だったんだ?」
僕は琳の態度を予想していたので、彼には知られずに態度を平静を保つことができた。
「さぁ?」
「さぁ…って。 用があるからかけてきたんじゃないのか?」
「…知らないよ。そんな話をする前に、琳が『切っちまえ〜』って叫んでたんだから。…琳に話があったんじゃない?」
「…何で、俺なんだよ?」
「…いつから喧嘩状態?」
「……」
「まぁ、いいけど。喧嘩の仲裁はしないよ。子供じゃないんだから手間かけさせないで」
僕は特に情を絡めることなく、さらりと会話をした。
いや、していたはずだ。
この動揺を知られる事は憚られた。
―――痛いな。
琳に握られた手首の力が強くなったと感じた。

やおら面を上げた琳の表情は泣き出しそうな子供の顔をしていて、自身が酷く傷ついているいている事を表しているようだった。
僕は煩く鳴り響く心臓の音を頭で感じながら、できるだけ琳に柔らかく笑いかけた。

「メシ、今から作るよ。…その前に…髪の毛乾かしてやろうか?」
「……うん」
一瞬、驚いたように瞠目して僕を見た琳だったがやや頬を紅潮させて小さな声で返事をしてくれた。僕は内心嬉しくて手近な椅子を引き寄せ、琳を座らせて彼の前に立ってた。彼の差し出された頭の上に彼が握っていたタオルをかけて、ゴシゴシと髪を拭いた。
琳は先程とは打って変って大人しく、態度は何故か神妙だった。

僕はいつも彼を頼りにしていて、そんなことを内心嫌う自分がいるのも知っていた。だから、そんな彼が時々見せる『子供っぽい仕草』がとても好きだった。そんな時は僕がほんのちょっと、頼られているみたいだから。

僕はこのところのゴタゴタで要らぬ神経を使っていたようで、今のこの状況がとても楽しかった。
今にも鼻歌をだしそうな雰囲気を醸し出していたのだろう、琳はそんな僕の変化を察してか彼の尖った雰囲気も一気に霧散したようだった。

わさわさと彼の髪の感触を楽しみながらタオルを動かしていた。すると琳はボソボソとくぐもった声で話しかけてきた。

「…今日さ、母さんから電話があった」
―――母さんから?
「何か急ぎだった?」
「うん…そうじゃない。…このところ夜勤で忙しかったから連絡できなかったって」
「うん」
「…だから…元気かって、変わったことなかったかって」
「……うん」
「…明日さ、かあさんのとこにメシ食いに行く約束したんだ…」
「うん」
「…何が食いたいって聞いてきたから…ひそかが好きなカレーライスにしてって言った。…エビフライものせてくれって言ったんだ」
訥々と様子を伺うように話をする琳は、儚く朧気に見えた。
僕は酷く泣きたくなるような気持ちになり、彼の髪をやや乱暴にタオルで拭きながら言った。

「かあさんのカレーって美味しいよなぁ。何度か挑戦するんだけど上手く作れなくってさぁ…明日行ったら、ちゃんとメモろう。あぁ、でもハンバーグは俺の方が美味いよなっ?」
高めのテンションで自分を取り繕い、彼を謀ろうとした。
そんな、情けない僕を知っているのか琳は何も言わず、ただ僕に合わせたように『ハンバーグはひそかの方が美味い、美味い』と壊れたレコードのように返事をしていた。

父が残した借金はもう暫くすると完済できるだろう。
幸い母には仕事があり、給料も安定して手にしている。手のかかる赤ん坊ではない僕たちは、母の元を去って生活していることも返済期間を短縮できた一因であると思う。だが、それ を可能にしたのは『琳の父親』の存在をなくしては考えれないものだ。それだけ、僕たち親子の生活、いや人生の負い目を琳の父親の出してくれているお金で助けられているのだから。

忙しい仕事の合間を縫って、連絡を欠かさず寄越して心配してくれる母があり難かった。琳からは母が人手不足もあってか、このところ夜勤が多いらしく、僕たちとすれ違う生活サイクルとなっていたと聞いた。
それでも、ちゃんと僕たちのことを見ていてくれるのだと思った。
僕も琳もそのことが気恥ずかしいような、それでいて嬉しくて、なんともいえない気持ちになっていたようだ。

僕は泣きたいくらい幸せの中にいるのだと感じた。
僕を愛してくれる人たちがいることを改めて感じた。だからこそ、僕が、僕だけが幸せになってはいけないのだと強く思った。

優しい人達が集うこの場所をどうか少しでも永くあり続けて欲しいと願わずにはいられなかった。
しかし、僕のこの細やかな願いはどんな犠牲の元に築かれているのか知る由も無く、ただ、無力にも祈ることしか出来ないと思い込む自分の弱さを罵ることは今の僕には叶わなかった。

この世界が有為転変であると知ってさえすれば、僕はこれから起こるであろう痛みを避けることが出来たのだろうか? 

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