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6) 心の行方

彼の父との確執は今に始まった事ではないが、彼の父親に対する態度や言動は愛情の返しかとも思いもした。
 多感な少年期の頃、父親に愛されなかったからか?
母親が早くに亡くなってしまって、亡くなった原因が彼の父親にあるからか?

 彼は僕が口を開き、問いかければ必ず答えてくれるだろう……どんな事も。だが、僕には言葉をかける自信も無ければ彼を受け止めてやるだけの器量も無いのだ。彼は自分自身を守る術を身に付けている。眼鏡をかけ、ブランドもののスーツを着用し精一杯の虚勢を張っている。
 それはホンの細やかではあるが、抵抗の証。
僕は彼の為に何をすればいいのかとか、どういう風に言葉を並べたらいいのかとか、色々思案もしたが、結局、なす術も無く無力でひ弱な自分を思い知るだけだった。理由はどうあれ、本人から話す日が訪れまで僕は待たなくてはならない。
(果たして、そんな日が訪れるのだろうか……?)
そして、僕は彼から過去の一切の辛い記憶の話しを聞いてどうするつもりなのだ?
(僕に何か出来ることがあるのか?)

 琳は急に立ち上がり、先程とは打って変裏わった表情を露にし、燃え上がるような炎を身に纏った様に、テーブルの上にあるもの全てを無造作に払い落とし始めた。
テーブルの上に存在するもの全てを床の上に払い落とし続けたのだ。床の上には払い落とされ壊されたガラス製品が、粉々に砕けて原形を留めてはいなかった散り散りに砕けてしまったグラスは、鋭い光を放ちながら床の上に広がっていた。

「何故、そこまで……あそこまでなれる? どうすればなれるんだ? あれが……あれが、俺の」
彼は『俺の』とだけ言い残し言葉を無くしてしまったようだ。
『俺の親なのか?』と、大きく叫びたかったのか。怒りの為に体を硬くして拳を握り締め、焦点の定まらぬ目を僕に向けたまま、立ちすくんでいた。レストランにいた人々は、この場違いな二人に嫌悪を示したが拒否は示さなかった。
(それは、ひとえにスキャンダラスなものへの、避けがたい興味の対象だからかも知れない)白いテーブルクロスに赤いワインの染みが徐々に広がっていった。それはまるで彼の心の中にある何かのように、大きくなっていくようだった。

「……密、帰ろう。……家に、帰ろう」
彼は振り向きもせず、ゆっくりとした動作を(僕にはストップモーションのかかったテレビの様にみえた)しながら、彼の父親の歩き去った方へ向かった。彼の背中が小さく見えた。僕よりも体躯のいい彼の身体は、小さくて、それでいて心なしか泣いているようだった。僕は無性に彼の背中が愛しくて、駆け寄って 抱きしめたい衝動に駈られた。

『泣きたい時は泣いていいんだよ。そう言って僕を慰めてくれたのは君なんだから、今度は僕の番だよ』そう言いたかった。
(あぁ……僕は、僕は)
僕はただそんな彼を見つめて、テーブルの前に座っていた。
僕は今はっきりと自覚した。
僕の中にある、抑え切れない感情、人に言ってはならぬ物の正体、否定しては恐れお戦き隠してきたものの正体だ。
『僕は彼が好きだ』それは単に憧れや尊敬だけの存在だと、心に思い聞かせていた事柄へのショッキングな内容だった。

『彼を愛している』

今まで知っていたのに、解かっていたのに、知らない振りをしていたのだ。
知りたくなかった、知ってはいけなかったのに。
……自分の気持ちにはっきりと気付いてしまった今、僕の進む道はどれだ?
(残された僕に出来る決断とは?)決断をしなければいけないのに、結論をだすのが躊躇われた。

迷っている暇はないのに、選びたくないものを選ばなければいけない事は解かっているのに、
争う声は僕の心の中を肥大していった。
答はたった一つの様に思われた。
それを今、一刻も早く実行に移さねばならない。思いを抹殺し、何事も無かった様に振舞う事、即ち、嘘という鎧で身を守り、世間体という盾で彼を遠ざけるのだ。
僕は自分自身を見失い、そして彼までも見失った様な気がした。
虚ろにこちらを見る彼が恐ろしかった。
僕はテーブルから足早に離れ、彼の後を追った。

 ここへ来る時には何も感じなかったエレベーターの広さは、彼と僕の距離の様に広がっていた。彼はエレベーターの壁に寄りかかり、俯いていた。急に彼は何かを捜すような仕種をしながら僕に聞いてきた。
「……煙草、持ってるだろ? くれよ」
苛立たしげに喋る彼の声が、僅かに震えている。彼は動揺した心を隠すように、いつでも落ち着き払った自分を演出する為に、煙草が必要なのだろう。普段、彼は声の為に煙草を吸わない。元来、好きではないのだろう。
気が向いたときや、手持ち無沙汰の時などは、吸っているように思われるが……。
僕はそんな彼が愛しかった。
「……降りたら、渡すよ」
「……今、くれよ」
無茶の事を言う、と思うが彼は今そんなことをたしなめてくれる誰かを必要としているのかもしれなかった。
「降りたら、ね」
彼にそう返事をしたが彼かの返答はなかった。

彼の真正面に向かい、彼の表情を覗き見たが彼の心情は窺い知れなかった。程なく、エレベーターが妙な浮遊感を伴って地上に降りた。ドアが開くと、やおら琳は僕を大理石の壁に押し付け煙草を欲しがった。
「くれるって、言っただろ?」
「……言ったよ」
僕はいつもの場所にある煙草を、左の内ポケットから取り出し煙草を一本銜え、持っていたライターで火を点けた。
火の点いた煙草を彼の口元に持っていくと、それを銜え大人しく吸っていた。 
 彼は暫くの間何も言わず、壁に寄りかかったまま、煙草を吸い続けていた。不意に、乗ってきたエレベーターではない方が止まり、ドアが開いた。中からザワザワと人の声が聞こえ、数人の客がロビーへと流れていった。
 彼は煙草を黙って吸っていたが、ピクリとも動かないようだったので、僕は彼の背中に手を回し、移動するようにと彼の身体を押しやった。そんな彼の身体のぬくもりを感じた僕は、彼に触れた手を離したくない衝動に駆られ、彼の腰のあたりにおいたまま歩き始めた。そのまま歩み始めると、彼の手が僕の腰あたりにあるのを、ホテルを出てから気がついた。

 心臓の鼓動が、側にいる彼までに聞こえてしまうのではないかと思えるほど、激しく音を立てて鳴り出した。
幸い真赤に火照ってしまっている僕の顔は暗く沈夜の風景に紛れて、気付かない様だった。
彼は僕の心配などを余所に、僕の腰に手をあてたまま肩に寄りかかり、ゆっくりと煙草を吸い続けながら、歩いていた。もし、この姿を誰かに見られでもしたらと思うと落ち着かなくなり、前だけを一心に見つめていた。 
彼はただ何も言わず、僕と一緒に歩いているだけであった。

僕は世間が恐かった。
周囲の目が、だ。何も本当の事は知りもしないし、知ろうともしないからだ。人を平気で傷つけ、さも、自分は『隣人愛に溢れた心の持ち主だ』とも言いたげに親切心を起こし、御為ごかしをする。なのに、彼ら(世間)に拒否されるのが恐かった。僕は世間に勝ものを何も持ってはいなかったし、信念さえも無かったからだ。

彼ら(世間)に拒否されるのは、今は未だ僕達が生きていく上で、大きな障害になるであろう。僕は常に回りを気にした。“回り”つまり世間を、だ。今はいい、夜の闇に隠されて顔や姿などわかりはしない。
しかし、下手をすると生きるのが困難だ。
そのことは、自分の父の事(父親が家に帰ないというだけで囁かれた言葉の暴力、どこからお金を得ているのかという下らない噂の数々)で、嫌というほど身に染みている。
この思いは忘れ様にも忘れ難く又、起こり得るのではないかという不安を常に抱いていた。こんな思いは僕や母だけで十分だし、特に、彼には味あわせたくない事だ。
しかし、人は思っているより鈍感ではない。
どこかに何かあるのではないかという、思いで心満ちているのだ。

そんな人間に見つかりでもしたら、僕はいや、彼までも好奇の目で見られてしまうに違いない。
それだけは、何としても避けなければならない。
特に、そう願った。            
彼だって嫌なことはもう十分味わってきているろうし、彼にはこれからは楽しく、充実した日々が待っている筈だからだ。そんな彼を世間体ごときで潰したくはない。
元々、ペシミストだと自分の事を思っているが、物事を楽天的に考えられなくなっていた。
(悲観主義はいまに始まった事ではないが)手を離すタイミングを逸したまま、震える体を抑えつけ、普段と同じ様に振舞おうと努めた。

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