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31) 前に進むための儀礼

「今日は誰もいないね」
奥田先輩の言った言葉の意味を僕は図りかねた。
―――『誰もいない…?』
『誰もいない』その言葉に僕は青ざめて奥田先輩から目が離せなかった。
奥田先輩は僕の側に歩み寄ろうと静かに床を滑るように歩く。

僕は音のしない歩き方に恐怖を覚え、やおら立ち上がり一番近いドアに近づ こうとしたが奥田先輩が僕の逃げ道を塞いでしまった。対峙した奥田先輩の表情が能面のように無表情で、そのくせ口角だけがつりあがり、奇妙な表情が見て取れた。 しかし、僕も例外ではない。きっと僕の顔も奇妙に歪んでいただろう。
これから起こるかも知れない不測の事態を想像し、混乱していたから。

「僕にはもう、何も残っていないよ」
唐突に話し始めた奥田先輩から僕は目が離せなかった。
―――逃げなければならないが、どうする?
「…こんな予定じゃなかったんだ。どこで狂ったんだろう?」
―――早くししないと…琳がやってくるっ!
「僕の道は間違ってやしなかったのに…どこで間違えた?」
奥田先輩の顔は無邪気に笑っていた。

―――どうしよう?
逃げなければいけないと思うのに身体は思うように動いてはくれそうにもない。ここは危険だと信号が点滅するのに、そのもどかしさに臍を噛む思いだった。
「予定通りだったのにねぇ。どこで違えたんだ?」
ひとり納得の答えを得ようと質問を繰り返す奥田先輩は奇妙な笑いを浮かべて僕を見つめてくるその目の強さが怖かった。

『どこへ逃げれば?』と思っていたことを見透かされているのか、奥田先輩はクックックと押えるように笑いだし「そう言うのって『下手の考え休むに似たり』って言うんだよねぇ」と肩を震わした。

気味が悪いというより怒りにも似た感情が僕自身に噴出してくるのがわかった。  
だからだろうか自然と奥田先輩を睨みつけていたようだった。そんな僕の心情を察してか彼は僕を睨むように見つめ返してくる。

それからどれぐらいの時間が過ぎたというのだろうか?
それはホンの数分だったのだろうか、気が遠くなるような睨み合いの時間は不意に現れた黒い影によって終わりを告げた。

弄ぶようにナイフを振り回していた奥田先輩の腕が一瞬、上げられたかと思うと、今度は逆に身を捩るようにして折りたたまれた。そして、その背後から現れたのは僕が待ちつづけた琳だった。

―――琳っ?!

嬉しさにも似た感情が湧き上がるも、それは 不安にとって代わり、恐怖に歪 む。
しかし、当の本人である琳は何事もかったように崩れて蹲る奥田先輩を無表情に見下ろしていた。
咽返るような緊張感が漂った教室で聞こえてくるのは、短く喘いで蹲る奥田先輩の息遣いだった。咄嗟に、琳に縋ろうとした僕は彼から奇妙な気配が漂っていて、近寄ってはいけない気がした。

怪我をした腕を押えて立ち上っていたものの、反対にしゃがんで蹲る奥田先輩を僕と琳は見下ろしていた。琳が徐に僕を振返って素早くその身を寄せてきた。

そして、傷ついた腕を乱暴に上げさせると、乱暴な手つきで僕の身体を弄った。
「他に、他に怪我はないか? 痛むとこは? 大丈夫だな?」矢継ぎ早に、しかし僕の返事を期待しているわけではなく、寧ろ自分に言い聞かせるように言葉を呟いていた。
 多少、腕の傷は見た目の出血量より傷は浅いと思え眉間に皺の寄る程度だったのだが、それより青白い顔で僕の声の届かないところで、傷の心配する琳の顔を見る方が痛かった。

「大丈夫だから」
そう琳に言うと、ビックリしたように面を上げて、僕の目をまじまじと見つめ「…本当?」と言った。
その時、僕を助けに来てくれたカッコいい琳ではなく、まるで捨てられた子猫のような情けない顔だった。
「うん、大丈夫だから」彼に心配をかけないように笑ったつもりだったが、流石にその態度はいただけなかったとみえて、琳が思いっきり、嫌な顔を見せた。
 そして、上げさせた腕に手を添えたまま、未だ蹲る奥田先輩に琳が向き直った。

「…気が済んだか?」
とても冷たい声だった。
「……」
「人を傷つけて、アンタは気が済んだのか、と聞いているんだ」
僕は琳を止めもせず、静かに語気を強めて話をする彼を見ていた。
「俺は…お前が嫌いだ」
呻くように奥田先輩が言った。
「そうか、 気が合うな。 俺も、俺が嫌いだ。 そして…俺に似てるアンタも嫌いだ。…いや、俺がアンタに似てるのかも、な。どちらにしろ、嫌いなものには違いない」
僕にとって琳の言葉は有る意味予想していた言葉だった。
ただ、決して奥田先輩と琳が似ているとは思っちゃいない。
ただなんとなく、そう、予想していた、みたいなものだ。

「無駄に足掻く自分が嫌いでどうしようもない。全くもって不甲斐ない自分に嫌気がさす。 …アンタもそうだろ? 手に入れたいモノは何一つ自分の自由にならない苛立ちが募ってるんだろ?」
琳が笑ったような気がした。
ジクジクと痛みを覚えた腕の傷を、苛立たしげに眺めると、流れていた血は既にかたまっリつつあった。

「…あぁ、全く持ってくだらねぇ! そんなことの為に密が傷つけられるのは不快だ! 文句があるんなら何故、俺に直接言わない? …まぁ、言えるわけねぇよなぁ、なにせ、アンタは俺だから…」
それは、琳なら奥田先輩の行動がわかるからという意味だからだろうか? 
終始冷静な琳の態度は僕を徐々にではあるが不安にさせた。とりあえず、この場所からどこかに行ってしまいたかった。どこか、どこでもいいここにさえ居なければ安心できると思えた。

「…お前に何がわかる? 周りからチヤホヤされて注目を浴びて過ごしているお前に何がわかる? お前の取り巻き連中がお前を見る目を見てみろ!  …そんなお前に何がわかる…愛されて大事にされたお前に…わかるもんか……」
弱弱しく言葉を繋ぐ奥田先輩は今までに見たこともない彼だった。
―――『自信で満ち溢れ、人を人とも思わない言動で傷つけてきたのに、今じゃ、自分で傷つけている』

「バカっかじゃないの?」
突然、やや甲高い声で呆れたような口調で琳が言った。
「どこ見てそれを言うかね。アンタはアイドルにでもなりたかたってのか?  下らない、下らなすぎて話しにならねぇ。 俺はチヤホヤされてるなんて思ったこともないし、そんなことは迷惑以外の何もでもない! 俺は自分のことを“客寄せパンダ”だと思っているよ。客寄せは客寄せらしくその職務に忠実にさえあれば、何をやったって見逃してくれるのが社会のルールだ。 …アンタ、その利口な頭で何考えてたんだ? そんなに皆から愛されたいのか? 誰彼も愛されたいだなんてアンタ、欲張りすぎなんじゃないのか?」

奥田先輩が弾かれたように僕達を凝視した。
「…俺は誰からも好かれているなんて思っちゃいないから、そんなことどうでもいいことだ…だが、アンタは違うみたいだな」
琳の激しい口調は極端になりを顰め、同情を窺わせる口ぶりに驚いた。
そして、矜持を傷つけられたのか、奥田先輩の顔が痛い程歪んだような気がした。
「…そうやって人を見下すのが楽しいか?」

「『見下す?』 誰が? 俺が? …馬鹿馬鹿しい。見下してたのはアンタの方じゃないのか? 俺はアンタをそんな風に一度も見たことはないよ。アンタは可哀相になるぐらい『俺』に似ているから、俺はアンタから目を背けていただけだ。俺は、いつかアンタのようになるんじゃないかって、内心ビクついていたんだからな。俺に其れを気付かせてくれたアンタに感謝することがあっても見下したりやしないよ…それこそアンタ、自意識過剰なんだよ」

「お前は…嫌味な奴だ。 そうやって…俺をバカにする。だから、嫌いだ! 」そう吐くように言い放った奥田先輩の目に強い力が見えた。
「嫌いで結構、上等だ」
歌うような返事に僕は一瞬驚いて、少し前にいる琳を覗いた。
「…誰からも好かれようなんて思っているから、こんなことになるんじゃないのか? 」
「……」
「…う…さい…」
『?』
「……」
「いいかげん……」
「煩い、黙れっ!」
大きな声で恫喝し、いきなり立ち上った奥田先輩の顔色は、僕や琳よりも更に青白かった。

僕は、奥田先輩がこちらへ向かって突進してきたのをスローモーションのようにただ見ていた。琳も咄嗟の事で動くタイミングを失ったのだろうか、ただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。

僕は琳の背中に庇われて立っていたので鈍い音と同時に琳の身体が少し揺れて僕の胸に当たったのを感じた。そして、琳の背中越しに見る奥田先輩の強張った表情がなんとも奇妙で哀しそうな表情をしているのをぼんやりと眺めていた。

いったいどれぐらいの時間が流れたのかよくわからなかった。
琳の背中から眺める奥田先輩の顔をじっと見ていたが、ふいに奥田先輩を琳が押しやった反動で僕の胸に強く彼の背中の温もりを感じた。そして、呻くような琳の声が漏れ、僕はその原因を知ろうと琳の顔を後ろから覗こうとした。

ふと、僕は彼の左わき腹の辺りに視線を落とすと、そこには黒い枝が垂直に生えていて、なぜそんなところに枝があるのか不思議に思えた。
 僕の思考はまったく状況を考えることができなくて、ただ、琳の身体ってあんな風だっただろうかとぼんやりと考えた。
すると、黒い枝のまわりから赤い小さな染みが琳のわき腹から徐々に広がっていくのが見えた。

その時、僕は声にならない叫びを上げた。

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